51TsSkiYYLL



1: KYK 投稿日:2006/01/28(土) 13:50:39
激動のヨーロッパにおいておよそ八百五十年の歴史を刻み、後世に様々な遺産を遺した一大帝国である神聖ローマ帝国の衣鉢を継ぎ、ナポレオンの時代からヨーロッパにその歴史を築いて旧体制の象徴として一目置かれながらも、僅か百十数年でその歴史に幕を降ろしたハプスブルク家の帝国・オーストリアの歴代の皇帝について語ろう!








3: 世界@名無史さん 投稿日:2006/01/28(土) 14:30:00
歴代皇帝は4人
フランツ1世 1804-1835
フェルディナント1世 1835-1848
フランツ・ヨーゼフ1世 1848-1816
カール1世 1916-1918
(皇太子オットー)

4: 世界@名無史さん 投稿日:2006/01/28(土) 15:09:10
初代皇帝フランツ1世は最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世でありナポレオンの義父としても有名。フランス革命で処刑されたマリー・アントワネットは彼の叔母にあたる。
そして歴代皇帝の中でおそらく現代においても大衆にも、もっともよく知られているであろう人物がフランツ・ヨーゼフ1世。神聖ローマ帝国の皇帝も含めてハプスブルク家の君主の中でもっとも長く在位し、もっとも長く生きた。エピソードも数多い。皇后エリザベートは欧州稀代の美妃と称えられた。
最後の皇帝となったカール1世は第一次大戦でなんとか平和的な解決を果たそうと方法を模索するも、結局敗戦による帝国崩壊の責任をとらされて異国の島に追放され、その地で没した。後に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。皇太子である長男のオットー氏は現在ハプスブルク家の当主の座にある。
そして歴代皇帝の中でもっとも影の薄いフェルディナント1世。在位年数はカール1世よりも長いがメッテルニヒ宰相の傀儡といわれ、虚弱だったため在位半ばで甥のフランツ・ヨーゼフ1世に帝位を譲ることになった。皇帝としての資質には恵まれなかったが温和な好人物であった。

13: 世界@名無史さん 投稿日:2006/01/28(土) 18:03:41
>>4
大昔のことのように思えるけど、まだ帝位を失ってから一世代なんだね。

14: ぼーやん 投稿日:2006/01/28(土) 18:10:05
フランツ・ヨーゼフ一世の父、フランツ・カール大公についてはこんなエピソードがあります。(うろ覚えなので部分的に間違ってるかも)

ある日、一人の農夫がウィーンのはずれにある茶屋に訪れ、外のテーブルで春の日差しを浴びながら農作業の疲れを癒していた。するとよく見ると少し離れた席に恰幅のいい老人が一人座っている。ちょうど話し相手が欲しかった農夫は老人のすぐ隣の席に座って老人に話しかけた。

農夫 「ちょっとよろしいですか。」

老人 「ええどうぞ。」

農夫 「今日も天気がよろしくて結構なことですな。ところでお見受けしたところご老体は中々の気品を
備えておいでですな。もしかしてご老体は上流階級の家柄の方なのでは?」

老人 「ははは、まぁ確かにそうなりますかな。ただ、家の方は息子に全てまかせておりますので。息子もその立場ゆえに中々こうやって私のように外で一人で気楽に茶をすするわけにもいかないようで。」

15: ぼーやん 投稿日:2006/01/28(土) 18:10:55
>>14の続き 

農夫 「ほう、さようですか。息子さんは一体どんなことをされておいでですか?」

老人 「長男は皇帝を務めております。」

農夫 「は・・・・・??皇帝・・・・・・・ですか?」

老人 「ええそうですよ。」

農夫 「えっと・・・・ではご次男はおいでですか?もしおいででしたら何をなさっておいでで?」

老人 「次男も皇帝をしております。」

農夫 「で、で、ではお父上は何を?」

老人 「むろん皇帝ですよ。」

16: ぼーやん 投稿日:2006/01/28(土) 18:11:27
>>15の続き

農夫は小馬鹿にされてるのかそれとも老人が思い違いかもうろくしているだけなのか
とにかくどうしていいかわからず動揺し、やけくそ気味になりながら質問を続けた。

農夫 「え、え、じゃ、えっと、あ、あなたお兄さんは?あなたのご祖父は?ご祖父のお兄さんは?ご祖父の父上は?」

老人 「みーんな皇帝!」

農夫 「・・・・・・・・・・・・・・・・そうですか・・・・・・・・・・・では・・・・・・あなたも皇帝?」

老人は感慨を噛み締めるように一呼吸おいてから答えた。

老人 「いいえ。 私だけが皇帝ではないのですよ。残念ですがね。」

そう、この老人こそフランツ・カール大公その人である。
確かに彼の長男はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世、次男はメキシコ皇帝マクシミリアン一世、父はオーストリア皇帝フランツ一世(神聖ローマ皇帝としては二世)
兄も同じくオーストリア皇帝フェルディナント一世、祖父は神聖ローマ皇帝レオポルド二世、祖父の兄も神聖ローマ皇帝であるヨーゼフ二世
曽祖父も神聖ローマ皇帝であるフランツ一世。確かに彼一人だけが皇帝ではないのだ。このエピソードはもちろん作り話ということだが彼の心情や境遇を的確に表現した話しといえるかもしれない。

17: 世界@名無史さん 投稿日:2006/01/28(土) 19:14:01
>>16
フランツヨーゼフは誕生と同時に未来の皇帝として教育されたが
これはその時点でフランツ・カール大公を帝位から除外したものではなかった。
フランツ・カール大公の除外はもちろんメッテルニヒのいう「正統主義」からは
論外であるし、これはゾフィ大公妃ら宮廷グループがどうあがいても曲げられない。

一方ゾフィ大公妃は夫である大公よりも息子を帝位に就けたかった。
幸い「立憲君主」であるフェルディナント1世は邪魔になっていたし退位を申し出ていた。
フランツ・カールを飛ばすことに唯一反対しそうなメッテルニヒはすでに失脚、
結局12月2日にフランツヨーゼフは「神の恩寵」により即位。

何か微妙にフランツ・カール大公が飛ばされたことの説明にはならんなあ。
独裁者ヴィンディシュグレーツと首相シュヴァルツェンベルクがそれこそ「傀儡」として
過去に縛られない青年君主を欲したと考える方が妥当かな?

20: 世界@名無史さん 投稿日:2006/01/28(土) 19:29:21
フェルディナント1世のエピソード。

退位の際ヴィンディシュグレーツは皇帝が革命について批判があると
予想していたらしいが皇帝はフランツ・ヨーゼフの髪をなでながら
「神の祝福がありますように。勇敢でありなさい。神がお守りくださいます。何も心配ありません」
と言って歴史から消えた。

再び現れたのは1866年プロイセンにプラハ占領されたとき。
プラハで余生を過ごしていたフェルディナントは
「余でもこれと同じようにできただろう」と述べた。
どういう意図で述べたのかは各人の想像に委ねます。

1、フランツ・ヨーゼフの皇帝としての無能を皮肉った(敗戦なら自分でもできるぞ)
2、逆の意味で皇帝の無能を皮肉った(今のオーストリアに負けることの方が難しいぞ)
3、何にも考えずにとりあえず言ってみた(余はうどんが食べたかったぞ)
37: 世界@名無史さん 投稿日:2006/02/13(月) 18:10:02
一番哀れなのは間違いなく最後のカール一世だろうな。
歴代皇帝の中で彼ほど不憫な人物はいなかった。
まあ嫁さんと皇太子以下子供達の多くが長命だっていうのが
せめてもの慰みかもしれん。

38: 世界@名無史さん 投稿日:2006/02/21(火) 12:04:56
オーストリアハンガリー二重帝国時代が一番好きだな。
帝国主義の時代に堂々列強として君臨した帝国。
存続していれば独仏に並ぶ国力を持った国として存在してたはず。

39: 世界@名無史さん 投稿日:2006/02/21(火) 21:51:15
>帝国主義の時代に堂々列強として君臨した帝国

これは無い。当時は既に青息吐息。
20世紀を生き残ったらEUの軸のひとつになったかも知れないというのが同意だけど。

45: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/11(土) 16:56:26
>>39
・クリミア戦争での対ロシア宣戦布告
・ボスニア・ヘルツェゴビナ併合
・セルビアへの最後通牒

この3つが無ければ生き延びたかも。

40: 世界@名無史さん 投稿日:2006/02/21(火) 23:07:38
というか、ハプスブルクの覇権が崩壊したがゆえの
帝国主義的群雄割拠状態という理解もできると思う

42: 世界@名無史さん 投稿日:2006/02/22(水) 20:22:27
確かにオーストリア帝国は神聖ローマ帝国の崩壊が必至となった状況を鑑みた
フランツ二世が苦肉の策で生み出した国家だろうしなぁ・・・

69: 世界@名無史さん 投稿日:2006/05/09(火) 16:32:51
ハプスブルク家の特技
子作り

70: 世界@名無史さん 投稿日:2006/05/09(火) 21:30:37
>>69
ハプスブルク家は多産家系みたいだな。
たとえばマリア・テレジア夫妻の間には十数人の
子供がいた。

71: 世界@名無史さん 投稿日:2006/05/10(水) 00:31:58
子作りと結婚で天下を獲った一族だものな

72: 世界@名無史さん 投稿日:2006/05/27(土) 14:17:35
フェルディナント1世とテレジアの息子レオポルトもひとりの妃相手に16人産ませている
レオポルトの場合は他に愛人相手にプラス1人
産ませる方もすごいが産む方もすごい

74: 世界@名無史さん 投稿日:2006/05/30(火) 21:49:25
(若)マリア・テレジア

no title

no title

no title

(中年)マリア・テレジア
 
no title

時の流れは残酷よのう

76: 世界@名無史さん 投稿日:2006/06/19(月) 20:22:57
フランツ・ヨーゼフはあまりにも保守的
もう少し妥協的であれば帝国は多少延命しただろう

78: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/03(月) 02:13:03
>>76
難しい問題だなあ。
オーストリアが列強として生き残るにはハンガリー、マジャール人貴族との妥協が必要だったし
帝位継承者フェルディナント大公や外相エーレンタールの考えた三重帝国も非現実的のような気も。
もちろん列強である必要がなかったと言えばそれまでだけどハプスブルク王朝としてはそうもいかない。
まあアウスグライヒ初期のボヘミア懐柔が上手くいけば少なくともライタ以西では連邦主義的な
帝国になったかも知れないがハンガリーがあれじゃあなあ、あそこに皇帝(国王)は介入する意向は
1905年(だっけ?)のハンガリー危機までなかったわけだし、またそれ以降もないわけだ。

ところで「ハプスブルク帝国崩壊は不可避だったのか?」という帝国史研究の最大のテーマについて
みなさんはどう考えます?
個人的にビスマルク体制を崩壊させた1908年ボスニア併合が大きいと思うんだが。
もちろんこれにはドイツの政策転換も大きいがメッテルニヒ時代からのバルカンにおける帝国の
トルコ保全政策の転換、ロシアとの勢力均衡政策の新機軸もあるわけだしなあ。
まあそれ以前からのドイツのバルカン、近東進出も帝国にはかなりの脅威ではあったかな。

しかし何故今更教科書ではww1を協商vs同盟で説明するかなあ。
実質ww1は局地戦争で終る可能性もあったわけだし(セルビアにオーストリアが負ける可能性もあるが)
三国同盟では伊墺は潜在的に未回収国土、あるいはバルカン問題で対立しているわけだし
三国協商でも英国は大陸戦争には可能ならば参戦したくはなかったはずだろう。
まあ独墺関係が微妙だった時期にサラエボ事件でドイツがウィーンに白紙委任したのが間違いだったんだろうが。

79: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/03(月) 02:14:28
追記
別にフランツ・ヨーゼフの支持者ではないが立憲君主としては67年以降理想的な君主だったような。
内政にはほぼノータッチ。まあ外交と軍事の大権こそ手放さなかったが皇帝・国王がどこまで関与して
いたかは微妙ではないか。まあライタ以西の内政については皇帝もかなり影響力を保持したが
ドイツ皇帝ほど内外の諸問題に干渉した事件はないわけだし…
良くも悪くも妥協以後はウィーンは貴族的な官僚機構のなかの皇帝だったのだろうな。
カール1世の世界最後の王朝外交なんてナンセンスな事件に比べれば保守的であっても
フランツ・ヨーゼフはまだまともな立憲君主だったんではないか、少なくともアウスグライヒ以後は。

81: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/03(月) 19:57:16
>>78
実際には皇帝は皇太子の暗殺者の引渡しを拒むセルビア政府に対するごく
慣例的な報復行為のつもりで宣戦布告を行ったわけだが当初の予想とは裏腹に
規模が激しく拡大して第一次世界大戦となり結局は帝国の崩壊を招いてしまった
わけなのだから本当に歴史というものは皮肉なもんだ。

80: カラジチ ◆mWYugocC.c 投稿日:2006/07/03(月) 09:58:33
>協商vs同盟

とはいっても当時の大国が協商・同盟でまとまっちゃって、紛争に対する柔軟な対応が出来なくなっていたのも事実かと。
あとそれに代わるわかりやすい説明があるわけでもない、というのもあるんじゃないか。
「協商対同盟、でも伊墺はバルカンでの対立があったからイタリアは協商側についた」ぐらいで妥当な気もする。
個人的には「汎スラヴ対汎ゲルマン」という考え方の方が気になるかな。

82: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/10(月) 22:28:30
>「汎スラヴ対汎ゲルマン」という考え方

これってさらっと教科書には書かれているけど微妙な表現だよなあ。
汎スラヴはまだ説明不可能ではないが(近東進出へのロシア政策として)
汎ゲルマンって少なくともオーストリアには当てはまらんような。
多少スレ違い気味だが3C政策vs3B政策も微妙。
単にドイツ帝国のオスマン利権確保に過ぎないだろう。
もっともこれは独墺関係にとってはドイツの東方進出は深刻な危機だけどね。

一般にオーストリア外交への軍部の干渉はドイツほどないし政策担当者もほぼ貴族。
共通外相・蔵相に何人かいたマジャール貴族はともかくライタ以西のドイツ系貴族は
皇帝と同じくどうも民族イデオロギー的なものを感じないんだがなあ。

84: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/16(日) 15:06:25
生き残っていたらイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン
等と同格以上の国でW杯なんかも開催できてウィーン五輪なんかも行われてただろうね。
オーストリア、ウィーンが歴史の表舞台から埋もれてしまったことが惜しい。
ヨーロッパ人も後悔している人は多いだろう。オーストリア、ハンガリー、
チェコ、スロバキア、スロベニア当たりが再連邦国家になる可能性は0だろうか?

85: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/16(日) 16:35:06
>>84
ウィーンはそれでも魅力ある帝都の面影を今日に残しているぞ。
再連邦国家の可能性は西欧(EU)が中欧にまで進出してきた時点でナンセンスじゃない?
それに英仏独はともかくイタリア、特にスペインは19世紀でも今日で「大国」ではないな。
何をもって「大国」「列強」とするかは議論があるが19世紀欧州では英仏独露墺が五大国だろう。
イタリアはその地位を得たかった。スペインはそのとき何をしていたっけ?
「もし」生き残っていたら……フランツ・フェルディナントvsマジャール貴族の国内問題でボロボロに。
彼の均衡ある三元主義が実現するには南スラヴ人は少なすぎるし、結局セルビアを併合せんことには…
ただあの大公、人気はないが一貫して戦争による民族問題、バルカン問題解決には反対だったんだよな。
好戦家コンラートを皇帝に推挙した人間とは思えん。

90: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/17(月) 10:59:14
そもそもオーストリアとドイツ本国が別の国っていうのが不自然だろ。
単に王室の都合で別の国になってただけなのに。

91: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/17(月) 22:12:45
>>90
ベルリンとウィーンは結構違うと思うよ?
ドイツはプロテスタントが多数派だけど、オーストリアはバリバリカトリックだし
政治の中心だから発展できたベルリンと文化の面で大きく花開いたウィーンでは
やはり違うと思う。それと、アンシュルス後でもドイツ人がオーストリアの人々を
格下に見ていたことでオーストリアの民族意識が生まれたのは皮肉だな。

103: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/20(木) 09:09:05
>>91
ウィーンを文化都市としちゃうのは何だか。
政治的に重要な地位に長年あってこそ文化も花開いたわけだし。

107: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/23(日) 05:16:01
>>90
民族が1つの国を作る方が不自然な罠。

そしてヨーロッパはEUの重みが増すにつれて各国の重みがなくなり、各国は分裂方向に向かってしまっている。
カタルーニャ、バスク、ガリシア、スコットランド、北アイルランド、ワロン、フランドル、フリースラント、
バイエルン、パダーニャ、コルシカ、ブルターニュ、ラングドック、スコーネ、フェロー・・・
特にスペインの分裂傾向が全国的に酷い。

102: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/20(木) 00:26:19
オーストリアとドイツって永久に合併を禁止されてるらしいね。
そんな事まで決める権利が誰にあるんだという感じがするが。
当事者同士が合併したがっても駄目だなんて、敗戦国とはいえあんまりな
決まりだと思うが。

105: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/21(金) 01:28:31
ルドルフが自殺せず帝位についていたらどうなっていただろうか?
フランツ・フェルディナントが皇太子にならなかったかもしれないから
暗殺されることもなく(もしくはされても戦争にならない?)、第一次大戦が
起きなければ帝国は崩壊することもなかっただろうか。
皇位継承者が自殺なんかするからやはり滅んでしまったのであろうか。

109: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/23(日) 17:09:00
>>105
ルドルフ大公の心中事件は実は大きな問題だわな。
まあルドルフ自身当時は自由主義にかぶれていたわけで皇帝とは対立するが
これが後年即位したときどう現実と向き合ったかはIF論もここでは甚だしいから置いておいて。

古いヨーロッパの王朝原理を信奉していたフランツ・ヨーゼフにとって事件は痛手だっただろう。
いくら実際は我侭で自由主義にかぶれた(皇帝にとっては)出来が悪い息子であっても、
帝国と王朝を子孫に相続させたいがためにこれまで自分の信念に反して帝国改造を行ってきたのだから。
それが皇太子の死で、あの気に入らない甥っ子のためにこれまで犠牲を払ってきた事になってしまうわけだ。
この後皇帝は目的と行動原理を失って、ただ帝国の存続だけを目的に生きていたようなもんだ。
制度上も実際も最高権力者である皇帝が「模範的な官僚」になっては困るわけで…
彼の死後、皇帝は依然として最高権力を持ちながらただ惰性で帝国政務にあたっているだけになってしまった。
もう何の改革も行われないし、またそのエネルギーも失ったかのようだ。

一個人のスキャンダル以上に政治家フランツ・ヨーゼフのこのような意欲の低下を考えれば
帝国にとっては大きな痛手を与えた事件だったかもなあ。
幸いにも同じ専制君主ながらもロシアの宮廷よりは「自律」した皇帝であった故に王朝は自滅こそしなかったが。

110: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/25(火) 22:36:47
ついでに妄想すればフランツ・フェルディナントが帝位を継承していたら?
まずハンガリー国王には戴冠しないと明言しているから1867年以前の
ハンガリーの騒擾に逆戻りするのかねえ。
この場合皇帝に忠実な共通軍隊はハンガリー議会をU計画で武力制圧するだろうけど
ハンガリー独立戦争みたいにハンガリーも気骨がないからその後の展開は全く読めないな。
あの反動的で狡猾な大公のことだから三重帝国構想も潰してロシアみたいになったんだろうか?
大公派はそれなりに大きかったから宮廷の掌握は簡単だっただろうが帝国は果たして…

112: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/26(水) 00:42:39
>>110
フランツ・フェルディナント大公が無事即位してたら・・・・帝国はどうなっていたのだろうか。
いずれにしろ、帝位継承者となった頃から大公には不穏な影がまとわりついていたような
気がしてならない。おそらく皇帝の大反対を押し切ってまでホテク家の娘と身分違いの結婚を
果たした辺りから歯車が狂い始めてたんだろうね。フランツ・フェルディナント大公の妻・ゾフィーにしても
皇帝をはじめとするあくまでハプスブルク家にふさわしい家柄との縁結びしか望まない
守旧派の人々からは疎まれ、子供の帝位継承権も認めてもらえず、挙句には暗殺という最期を
遂げる羽目になるのだからまさに踏んだり蹴ったりだったわけだが、まあ愛する夫と心中できたのが
せめてもの救い(?)だったのかもしれない。

111: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/26(水) 00:17:37
オーストリア=ハンガリー帝国を崩壊させる必要はなかったような。
イギリスみたいに一つの国家の下にオーストリアやハンガリーやチェコ
などがあるような形態にしといた方が総合的に見て得策だったと思う。

113: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/26(水) 11:54:43
>>111
崩壊させる必要はなかったし1914年にも1917年にも列強は勿論のこと
バルカン諸国も国内のあらゆる民族が崩壊なんて望んでいなかった。

イタリアやルーマニア、セルビアは帝国の領土の一部が欲しかっただけ。
(だいたいイタリアとユーゴスラヴ運動は敵対関係にあるわけだ)
ドイツ人はベルリンに支配されたくなかった、チェコ人は大ドイツが脅威だった、
マジャール人は大ハンガリーが単独ではロシアの脅威に対抗できないことを知っていた、
クロアティア人は王朝に忠実で何よりセルビア人が大嫌い、スロヴェニア人はイタリアが脅威、
ポーランド人はドイツやロシアの同胞よりも恵まれていることを知っていた、
スロヴァキア人は極めて教権的な保守主義者、ウクライナ人もツァーリ支配を望まなかった。
ムスリムはハプスブルク支配で特権を得ていたし、ルーマニア人やセルビア人も教養階層は少ない。

1914年に緒戦で敗退したときに単独講和しておけば普通に帝国は発言は落ちても「大国」として存続しただろう。
ベルリンの統制下にある1917年ではもう遅すぎたわな。
まあとりあえず戦争をしたかったのがウィーンだったんだから自滅といえば自滅。
ただ戦争したかったなら「もっと早い時期に」といったコンラートの台詞も分からんではない。
ただバルカン戦争時は欧州列強はどこも協調・会議による事態収拾という路線だったからなあ。

114: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/26(水) 22:26:02
結局の所は民族自決なんて絵空事を押し付けたウィルソンが一番の悪者。

115: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/27(木) 13:56:01
まあウィルソンを動かしたロビイストはガリチア、ブコヴィナや
上部ハンガリーからの移民だってことを考えると結構微妙かもね。
マサリク一人が動き回ったところでどうにもならんだったろうし。
まあマサリクを弁護すれば伝統的なボヘミア王冠でもツァーリズムへの信奉でもなく
あくまで現実主義的だったってことか。
彼が「独立チェコのフランツ・ヨーゼフ」になってしまったのは東欧の現実だな。

116: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/30(日) 20:56:51
ところでこの国がハプスブルク帝国なんて名乗ってた時期はあるの?
正式国名といったら何になるのだろう?(時期によるだろうけど)

125: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/31(月) 01:52:26
>>116
実質的にハプスブルクの世襲だった神聖ローマ帝国を「ハプスブルク帝国」と
言うこともあるけど、関係ないか。

117: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/30(日) 21:02:18
フランツ1世の即位後=オーストリア帝国
フランツ・ヨーゼフ1世の時代から俗に言う
オーストリア・ハンガリー帝国

多分こんな感じ。

120: 116 投稿日:2006/07/30(日) 21:19:41
>>117
即レスどうも
つまりハプスブルク帝国なんて名乗ってた時期はないですよね?
なのにそう呼ばれることがあるのは何故だろう?
オーストリア・ハンガリー帝国なんてしてしまったからだろうか?
それがなければ普通にオーストリア帝国だけだったように思うし。

121: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/30(日) 21:23:30
世界史的にはカール五世の頃のスペイン&オーストリア時代を
ハプスブルク帝国と呼ぶ学者も居るが
少なくともハプスブルク家の方からそう名乗った形跡は無い。

ちなみにオスマントルコのスレイマン1世は外交書簡で
カール五世の事を
「汝スペインの主カールであろう」と素っ気無くあしらっている。

118: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/30(日) 21:07:39
一番正式なのはこれだろ↓

Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder
und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone

119: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/30(日) 21:09:41
ドイツ語読めないので日本語に訳してくれ。

122: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/30(日) 21:42:03
帝国議会において代表される諸王国および諸邦
ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦

124: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/30(日) 23:48:50
ハプスブルク帝国というかは便宜上のものだな。
「帝国議会において代表される~」なんていちいち言ってられないし
1867年でもってオーストリア帝国からオーストリア・ハンガリー帝国になるのは帝国改造の一環。
1804-1918年をひとつの連続した独立国としてとらえるならばこれ以外に言いようがない。
当時は国内では共通の呼称としては宮廷メンバーは「君主国」と呼んでたような。
ライタ以西をオーストリアと便宜上呼ぶのもややこしいが何ともかんとも。
ライタ以西をオーストリアと訳したい時はハプスブルク帝国とするのが無難かなあ。
外国の国号てのは難しくてドイツ第二帝政だって正式にはカイザーライヒではなかったからねえ。

132: カラジチ ◆mWYugocC.c 投稿日:2006/08/19(土) 09:31:23
>>124
ドイツ語じゃK. u. K(カーウントカー)って言い方も見かけますね。
Kaiserich und Königlichだったか。つまり「皇帝にして国王の~」っていう。
あとDonaumonarchie(ドナウ君主国)とか、Doppelmonarchie(二重帝国)とか

133: 世界@名無史さん 投稿日:2006/08/20(日) 15:21:58
>>132
これもまたK.K.(皇帝・国王の~)とK.u.K(皇帝にして国王の~)で揉めとったからなあ。
最終的にはいつかの軍事アウスグライヒ関連法案通過のためK.u.K.に妥協したっけか。
帝国をハプスブルクの王朝国家とみるかハンガリー王国との連合とみるかで変わるから
やっぱりあまり表記には統一性ないなあ。

日本じゃどうも墺太利洪牙利帝國と呼んでいたかも…だが、古い新聞調べないとどうにも。
フランツ・フェルディナント大公は来日したことがあるはずだから手がかりにはなりそう。
そもそもの話題からずれているけど政府の正式な外交文書じゃあ何と表記したのかなあ。

何となく急に話題転換、皇帝フランツ1世と宰相・外相メッテルニヒの関係について。
「欧州を支配したことはあるが、オーストリアは一度だって支配できたことがない」と
メッテルニヒは述べたらしいが(結構彼の発言には矛盾も多いのだが)そこまで皇帝権力って
大きなものだったのかねえ。メッテルニヒの行政改革にフランツは常に難色を示したようだし。
まあ彼は内政家というより外交官だから財政考えずに結構政府の財務官僚と対立したようだが。

129: 世界@名無史さん 投稿日:2006/08/08(火) 00:36:13
やっぱり近代以降、カール6世、マリア・テレジアやヨーゼフ2世の改革で
諸領邦の統合が計画されてからが1918年までの「帝国」の出発点だろうから
継続性を考えて用いる場合はハプスブルク帝国、君主国が妥当なんだろうかなあ。
「ハプスブルク家の諸王国、諸領邦」が1804年に形式的に「オーストリア帝国」になっただけだし。

130: 世界@名無史さん 投稿日:2006/08/09(水) 04:55:47
ハプスブルク帝国って1804年以前の神聖ローマ帝国内外のハプスブルク家領を指して使うだろ。

131: 世界@名無史さん 投稿日:2006/08/16(水) 01:16:15
そうかなあ。
1804年にフランツがオーストリア皇帝に戴冠してからも
家領総称をハプスブルク帝国と使ってもそんなに問題ないような気もする。
実際邦語・邦訳文献は(売り上げ伸ばすためかもしれんが)研究書でも
普通にハプスブルク帝国って使うからなあ。
二重制の説明が面倒なだけかもしれないけどウィーンの支配者層の意識は
1918年までハプスブルク家の帝国・家領なわけで特に問題ないような。
オーストリア帝国(1804-67)、オーストリア=ハンガリー帝国(1867-1918)と
分けると王朝の連続性や二重制が単なる帝国改造だったことの意味を損なうように思える。
三重制がよく提起されたように二重制は恒久的なシステムじゃなかったはずだっただろう?

136: 世界@名無史さん 投稿日:2006/09/11(月) 01:39:04
帝国の復活というかオーストリアにおいて君主制の復活ってありえるんだろうか?
昔の帝国と呼ばれていたころのオーストリアはハンガリー他チェコスロバキアや
一部のバルカン地域も統治下においていたほどの国力と土地を有していたけど
現在のオーストリアにはそのころの威光なんて見る影も無いしなあ・・・・
万が一復活を果たしたとしてもなんとか王号を名乗れる程度の立憲君主国に
とどまるんじゃなかろうか。

137: 世界@名無史さん 投稿日:2006/09/12(火) 16:16:21
欧州議員やってる帝位継承者オットー大公(ドイツ選出)と
その長男カール?大公(オーストリア選出)は請求権放棄しているね(このへんうろ覚え)。
だからこそ二人ともオーストリア共和国に入国できたわけで。
ww1戦後のオーストリアは貴族を示すvonを名姓の一部とすることを禁じたくらい共和的だった。
まあ請求権の放棄はツィタ皇后が猛反対したとか、オットー大公もww2では米国などで運動していたみたいだが。
ハンガリー王冠とボヘミア王冠の放棄の件は知らないが
前者はカール1世(ハンガリー王として4世)復位事件で正式に議会で廃位されているし(これは国法として合法)、
後者は歴史的ボヘミア諸邦とチェコスロヴァキアの継続性を否定している、てかフランツ・ヨーゼフも
カール1世自身ボヘミア王には即位すらしていないしな。
まあつまりハプスブルク王朝復古は無理というわけだ。

1918年に作り出された国民国家を王位の請求権から考えると
ハプスブルク帝国が王朝と諸邦の国法と歴史をアイデンティティとした国家だってことがよく分かるな。
特にww1戦後処理の大ハンガリー王国構想とか政体とか歴史的な国法抜きには考えられん。
反対にチェコはマサリクが国法から脱皮していたこと(民族主義的だったこと)が外交的勝利となったか。
まあそのチェコの歴史的権利を否定し、国法を護る貴族層を壊したのもハプスブルク王朝だったわけだが。

138: 世界@名無史さん 投稿日:2006/09/20(水) 19:34:47
あとはブルガリアのシメオン元国王のように政党を作るか既成政党の党首になって選挙で勝利して内閣首班首相になるしか政界復帰はないな

139: 世界@名無史さん 投稿日:2006/09/20(水) 19:44:13
フランツ・ヨーゼフはなんでセルビアに宣戦しちゃったの?
この人の長い治世で最後にトチって、王朝を崩壊させちゃったんでしょ。
この失敗がなければ、よしんば諸民族が独立したところで、
ハプスブルグ王朝は存続したと思われ。

142: 世界@名無史さん 投稿日:2006/09/27(水) 04:34:30
>>139
他国の政府系テロリストに皇太子殺されて何もしないなんてあり得ると思うのか
まして当時は今よりも遥かに国家の威信や名誉が重視された時代だぞ。

そしてオーストリアはもちろん、フランスも英国もロシアもドイツでさえ、元首・政治家・軍人から市民まで、この戦争が世界大戦につながるなどとは夢にも考えていなかった。
世界大戦が起こってからも、民族自決を言い出したウィルソンでさえ、二重帝国が崩壊する/させようとは考えていなかった。

143: 世界@名無史さん 投稿日:2006/09/28(木) 09:32:12
でもまあ宮廷グループの外相ベルヒトルト・参謀総長コンラートら好戦派にとっちゃあセルビア開戦の口実求めていたから渡りに船だったのも事実だよなあ。
皇帝なんてこの時期完全に「模範的な官僚」で皇太子夫妻暗殺にも感慨を示さず。
王朝の威信なんて実際は恰好の大義名分だったと言えば言いすぎかなあ。
外相の最後通牒なんて主権国家セルビアとしては受諾が100%不可能な内容だし外相夫人の手記による「セルビアがまさか受諾しないか夫は心配で眠れませんでした」なんて凄い内容だ。
そして同盟国ドイツがバルカンに関してオーストリア側に白紙委任するのはこれが最後の機会と考えられた。
当時近東・東方問題に関しては独墺同盟は二次のバルカン戦争の戦後処理の大国会議などをめぐって破綻寸前で七月危機がなければ二国同盟更新せずとベルリンに通告するつもりだったって言うんだから。
ドイツの白紙委任はカイザーの王朝への威信の重視と二国同盟堅持のためだったんだろうかねえ?

普通に考えればボスニア併合危機みたくオーストリア軍の総動員でセルビア脅迫、ロシアの部分動員で対抗、ドイツの威嚇でロシア・セルビア両国への最後通牒をロシアが受諾って感じが理想的に考えうるシナリオで最悪でもオーストリアとセルビア二国の局地戦、独墺VS仏露の大陸戦争ぐらいまでしか考えられない。

戦争責任とかは事後的で好きじゃあないがWW1の戦争責任論を考えればベオグラードの反オーストリア扇動、ベルリンのウィーンへの異例の白紙委任、ドイツを刺激したツァーリの総動員、それを受けたドイツ参謀本部のベルギー侵犯と色々あれどウィーン宮廷の威信のための徹底した対セルビア脅威論が大きかったのかもねえ。
かつての欧州最大の陸軍国がセルビア一国にドイツの支援がなければ対抗できない帝国も堕ちたものだが。
三重帝国構想のために慎重派だったハンガリー首相ティサでさえ宣戦従い、皮肉なことに反戦派皇太子はいない。
ボスニア危機でベルリン体制が崩壊、会議による六大国の協調・調整ができなくなったことの責任は
間違いなく帝国にあり、その上帝国は領土的に得るものなし。時代は違えど「欧州情勢は複雑怪奇」だよなあ。
皇太子が一度目のテロで重傷を負った護衛の見舞いに行かなかったら歴史は全く変わったんだろうか…

144: 世界@名無史さん 投稿日:2006/09/28(木) 09:54:50
追記
ベオグラードが今日で言えばテロ組織である黒手組を支援していたのは間違いないがウィーン共通外務省に皇太子暗殺計画があることを警告しているのも事実なんだよなあ。
ベオグラード外交筋が失念していたのかどうかは知らないが不幸なことにボスニアの管轄が共通財務省だったこと、皇太子夫妻にとって危険が予知されながら久々の晴れ舞台としてサラエヴォに閲兵に行ってセルビア人を刺激して老いた皇帝への対抗心を示したことetc
帝国議会なんて全く機能せずウィーンでは皇帝派VS皇太子派の政争、ウィーンとブダペシュトとの抗争。
WW1の事後処理は東欧に小ハプスブルク帝国を量産しただけで全く無意味というか大失敗だったけど帝国にそこまで幻想を抱くこともどうかと思う。得ることない戦争で事態を打開しようなんていうのが王朝国家の限界だったのかねえ。帝国改造もあれ以上の民主化も現実的ではなかったわけだから。
ただあのフランツヨーゼフの支配する帝国に多くの臣民が打算もあったけれど忠誠を抱いていたのもまた事実。
宮廷・官僚・軍隊・民族を問わずほとんどの臣民というすべてのレベルで結局王朝国家的思考なんだろうか。

何か言いたい事が多すぎて支離滅裂になってしまったな。長文スマソ

147: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/12(木) 00:32:59
ベルヒトルト外相はかなりの段階まで戦争によらず協調外交によりバルカン問題を処理しようとしていた
第1次バルカン戦争で生じたスクタリ問題はどうにか6大国会議により処理されたが
第2次バルカン戦争では三国同盟側に引き込もうとしていたブルガリアを助けるため、軍部がセルビアに軍事介入しようとした
しかし同盟国のドイツ、イタリアは冷淡だった
特に独首相ホルヴェークはハプスブルク帝国の軍事介入に反対し、アドリア海に進出する恐れのないセルビアの国土拡大はやむなし、ブルガリアの弱体化やむなし、ドイツはバルカンにさほど興味がないと回答
ドイツはルーマニアが同盟側から離脱することと欧州大戦化を恐れていた
結局、ハプスブルク帝国の親ブルガリア政策と仏露の扇動によりルーマニアがセルビアと同盟しバルカン戦争に参戦
6大国勧告やハプスブルク帝国単独による再三再四の抗議にも関わらずセルビアはアルバニア北部から撤退せず
1913年10月の最初のセルビアに対する最後通牒に至る
しかし協商側にはもちろん同盟側の独伊にも事前通告しなかったため各国は不快感を強めた(特にイタリア
結局のところベルヒトルトは対セルビア戦を限定作戦にすることを望んでいた

196: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/02(土) 19:26:35
確かシュテファン・ツヴァイクが回想録かなんかでフランツ・フェルディナント大公は
ウィーン市民に人気が無かったとか書いていたような気がする。
オペラハウスへ行啓した時の市民の反応とか書いてたような記憶がある。

その彼が暗殺されるや一国の大事として「セルビア憎し」になったのは
彼の持つ地位がそうさせた?或いは悲運に同情が集まったのか
それとも政府のバルカン半島政策の為の単なる煽動?

197: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/03(日) 00:44:55
>>196
身分の低い皇太子妃の扱いがあまりにも惨かったから
同情が集まったんじゃないか。
(妻ではなく女官として扱われ、お墓も皇太子とは別々)

198: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/03(日) 14:14:39
フランツ・フェルディナント大公もウィーンのカプツィーナ霊廟じゃなくて
生前に用意していた下オーストリアのアルトシュッテッテンの墓所に
ゾフィーとともに埋葬されたんじゃないの?

王侯の暗殺なんてのはこの時代には珍しくないからなぜか激昂したウィーン世論と開戦は別問題。
まあ戦争なんてのは爆弾抱えたロシアでもそうだったように初めは民衆は燃えるもんだ。
実際両半国で立憲制を採りながら世論や民意が一切外交・軍事に介入できない制度が
二重王国の特徴であり欠陥でありまたある意味でいい機能をしたのかなあ。
帝国はハンガリー特権階級とウィーンの宮廷貴族の連合政権みたいなもんだからねえ。
ハンガリーの反対がない以上宮廷の意思が帝国の意思になる。
この場合はセルビアを叩きたかった宮廷官僚にはいい「いいがかり」が作れたことで積極的。
でも彼ら宮廷貴族が民衆を扇動できたのかは疑問で民衆がどうであろうと戦争したでしょうね。

199: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/18(月) 09:47:24
オーストリアとドイツ帝国の第一次世界大戦前の地図は興奮する
ドイツの怪しく伸びる東プロイセンとシュレジェン
オーストリアの腹のようなバルカン領土
欧州自体が一番輝いてた時だもんね

200: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/29(金) 15:15:18
>>199
あの腹のうち自分のものにできたのがボ・へ二州だけってのも複雑だけど。
確かに大戦前夜は欧州が一番輝いていた時期かも知れんなあ。

201: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/29(金) 17:02:13
>あの腹のうち自分のものにできたのがボ・へ二州だけ
 
むしろあれ以上拡大してスラヴ人を抱え込む気はオーストリアにはあまりなかった。
そもそもドイツ人が多数派になれてないのにこれ以上スラヴ人抱え込むのは、帝政を不安定にするだけ。

まあフェルディナント大公みたいな対バルカン強硬派もいなかったわけじゃないけど。

202: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/30(土) 14:42:31
フェルディナント大公は対バルカン強硬派かなあ。
どっちかというと対ハンガリー強硬派(反二重制)だと思うけど。

203: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/04(木) 04:07:19
マリアテレジアとフリードリヒ大王って結婚話があったな。
実現してたらどうなったんだろう。

204: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/04(木) 10:15:53
ハプスブルクの旧領はバイエルンやザクセンと山分け
という条件でもなければ実現しなさそうな。

引用元: ・オーストリアの歴代皇帝について語るスレ







フランツ・ヨーゼフ: ハプスブルク「最後」の皇帝 (河出文庫)
江村 洋
河出書房新社
売り上げランキング: 119,182