51HauuntHDL



1: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:12:22 ID:a1V
ロマンだと思う








2: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:16:14 ID:sJh
いっぱいね?
すんげーメジャーなので言えばナポレオン戦争だってそうだし

3: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:16:33 ID:7tF
ピッグス湾事件

CIAが育成したゲリラ1500人によるキューバ侵攻

ゲリラとして育てたのになぜか真正面から突撃し、
1万5000人のキューバ軍と交戦した

航空支援も中止されて結果は惨敗

4: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:18:29 ID:7tF
キューバ側は全軍20万人を動員したって話もあるので、
もしそうなら1500人vs20万人

ロマンだ

5: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:18:54 ID:a1V
>>4
ある意味キューバ側が賢いとも言える

13: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:23:07 ID:7tF
普通に上陸して戦った陸戦
CIAはなぜか勝てると踏んでたらしいけど、まあ勝てるわけないよね
慌てて爆撃支援もしたらしいけど時差があるの忘れてて失敗

CIA無能すぎる

6: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:19:32 ID:AyF
シモヘイヘ対ソ連軍4000人

結果は、
冬戦争

冬戦争中のコッラーの戦いにおける丘陵地を巡る戦闘では、ヘイヘを含むフィンランド軍32人が4000人の赤軍を迎撃、拠点防衛に成功し、この丘陵地は“殺戮の丘”と呼ばれた。フィンランド軍は終戦までコッラー河付近の領土を守り抜き、この戦果は後に“コッラーの奇跡”と称されるようになった。


7: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:21:03 ID:a1V
>>6
フィンランドは32人だっけ
何が起ったんですかね…

8: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:21:11 ID:nAK
300って映画の元になったのは、テルモピュレーの戦い(?)だっけ

コンスタンティノープル攻防戦も少数の防衛軍VS多数の侵攻軍
300px-Leonidas_aux_Thermopyles_(Jacques-Louis_David)


テルモピュライの戦い

テルモピュライの戦いは、ペルシア戦争における戦いの一つ。

この戦いはアルテミシオンの海戦と平行して行われ、圧倒的な戦力差にも関わらずギリシア軍は優勢であったが、最終的に背後に回り込まれて敗退した。しかし、スパルタ軍とテスピアイ軍は全滅するまで戦い、ペルシア軍を3日間に渡って食い止め、クセルクセスの兄弟を二人戦死させた。これは、スパルタ軍の勇猛さと地形をうまく利用したためと言われている。


14: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:23:43 ID:a1V
>>8
テルモピュライの戦い(?)本当は奴隷も戦闘させて少し数が多いんだっけ
ペルシャ側も狭い場所で戦うもんで精鋭部隊だけで戦ったとか

10: 【1782円】 投稿日:2016/03/04(金)10:21:49 ID:awQ
硫黄島の戦いみたいな?

16: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:24:23 ID:a1V
>>10
『硫黄島からの手紙』のアメリカ軍は絶望感しかなかった

11: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:22:17 ID:nAK
千島列島の守備隊vsソ連軍っていうのも切ない戦いだ

15: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:24:05 ID:nAK
エルサレムがイスラムに奪い返される時の攻防戦の終盤も
圧倒的多数に少数が立ち向かって全滅する

18: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:25:27 ID:Wqv
戦国時代にもありますか?

20: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:27:01 ID:a1V
>>18
泗川の戦いは知ってる
島津7千人vs李氏朝鮮5万で島津の圧勝

泗川の戦い

泗川の戦い(しせんのたたかい)とは文禄・慶長の役における合戦の1つ。

日本の慶長3年/明の万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦い。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。


28: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:31:31 ID:a1V
>>27
もっと有名のなら桶狭間とかあるやん

22: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:28:18 ID:nAK
少数が多数に勝つ話に胸が熱くなるのはもちろん、
絶望的な状況で時間稼ぎなどのために少数側が奮戦する話も
滅びの美学みたいで嫌いではない
玉砕を美化するつもりはないよ

23: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:28:29 ID:AyF
ウェルケンヴェトリクス対カエサル

カエサル8万の軍勢を30万で囲んだ。

結果は、

アレシアの戦い

アレシアの戦いあるいはアレシア包囲戦は、紀元前52年の8月から10月にかけてガリア総督ガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍と、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクス率いるガリア人連合軍との間で行われた戦闘である。古代ローマにおける包囲戦の中では、最も大規模なものの1つであった。

この戦いの結果、紀元前58年から続いたガリア戦争は実質的に終結し、ガリアはローマの属州となってその版図に組み込まれることとなった。


26: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:30:41 ID:a1V
>>23
ガリア軍を包囲してそれを包囲されるとかいう謎陣形
なお結果

32: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:33:41 ID:AyF
>>26
だからカエサルを戦争の天才の一人に入れるしかない。

33: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:34:54 ID:a1V
>>32
ネタか捏造なんじゃないかってくらい強いよな

25: 【1404円】 投稿日:2016/03/04(金)10:29:01 ID:awQ
赤壁()

39: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:42:41 ID:t2j
>>25
三国志ならあれだろ
張遼が100人ぐらい率いて呉の中に突っ込んで行ったやつ

41: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:46:44 ID:7tF
>>39
合肥の戦いね

曹操軍7000人が守る合肥城に、孫権軍10万人が攻めてきた

44: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:51:10 ID:t2j
>>41
それだそれだ
結局城は落とせず有能な部下を亡くして終了だったっけ確か

34: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:36:11 ID:7tF
陳慶之とかはどうよ

南北朝時代に、7千人の兵で北伐
北朝の首都まで陥落させちゃった人

陳慶之

陳慶之(ちん けいし、484年 - 539年)は、中国の南北朝時代、梁の武将。字は子雲。梁に侵入する北魏に対して、たびたび勝利した。

529年、北魏の北海王である元顥が梁に亡命してきた時、武帝から彼を北魏に送るよう命じられる。陳慶之は、指揮下の兵7000人のみを率いて洛陽を陥落させることに成功した。敵国である北魏の国内が反乱などにより混乱し、著しく弱体化していたこともあるとはいえ、これほど少数の兵で北伐を成功させた例はない。洛陽まで47戦、すべてに勝利し32城を陥落させた。


36: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:37:52 ID:a1V
>>34
強いなw

35: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:37:00 ID:a1V
ノルマン・コンクエストとかも少数vs多数だな
ノルマンディー公ギョーム2世、1.2万人でイングランドを征服

38: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:41:28 ID:AyF
足利義輝対松永久秀

松永久秀は義輝一人に5000人用意しました。
1000人じゃ負けるかもしれないから。
義輝、100人は斬ったと思う。

46: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:51:45 ID:mow
>>38
同じく塚原卜伝から教わってる北畠具教とかも死に際に数十人切ってるらしい。
塚原卜伝、どんな教え方したんだよ。

48: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:53:57 ID:a1V
>>38
あ、だからノブヤボでアホみたいに武力高いんだ…

45: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:51:31 ID:UGJ
島原天草の乱

幕府軍に多数の死者をださせるもキリシタン側は全滅
オランダからの砲撃も受けるなどなかなか悲惨

49: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)10:57:04 ID:yac
竹中半兵衛vs斉藤龍興かなにか

竹中重治

主君・龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため永禄7年(1564年)2月、弟・重矩や舅・安藤守就とともに龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を16人(『竹中雑記』、17人という説も)の部下とともにわずか1日で奪取した。織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると、城を譲り渡すように要求したが、重治は拒絶し、8月には自ら稲葉山城を龍興に返還した。


53: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)11:15:48 ID:AyF
真田親子は忘れてはならないぜ。
上田城は鬼畜なり。
秀忠50000人対真田親子2000人

66: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)11:58:12 ID:GA1
>>53
秀忠「よっしゃ駄賃がわりに落としたろ」

秀忠「無理だった上に遅刻しちゃった☆許してパパ」
家康「(#^ω^)」

54: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)11:17:18 ID:nAK
関ヶ原の戦いの後の、石田三成の一族と郎党が籠もる佐和山城への
東軍(西軍からの寝返り勢力も)による城攻めも鬼畜だ

56: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)11:34:33 ID:AyF
鳥居強右衛門の旗指物

リボンの武者で知ったわ

58: 【吉】【669円】【27】 投稿日:2016/03/04(金)11:38:28 ID:2Ne
光武帝劉秀の昆陽の戦い

昆陽の戦い

昆陽の戦い(こんようのたたかい)は、中国の新代の地皇4年(西暦23年、または更始1年)昆陽における新軍と緑林軍との間の戦いである。

新は、地皇4年(23年)3月、劉兄弟ら更始軍を討伐するために、大司空王邑、大司徒王尋が100万と号した兵(実数は40万程度とされる)を率いて出陣した。同年5月、王邑らの軍は頴川郡に入り、荘尤らの残軍がそれに合流した。対する劉秀軍は数千の兵しかなく、成国上公王鳳、廷尉大将軍王常ら他の更始軍と共に、いったん昆陽城に逃げ込んだ。それでも城内には、8千から9千の兵しかなかった。この危地に劉秀は周囲から策を委ねられると、王鳳・王常に昆陽城の守備を任せ、驃騎大将軍宋佻、五威将軍(中郎将の説もあり)李軼ら13騎で城外へ脱出し、郾・定陵(いずれも頴川郡)で兵を集めた。

6月、劉秀が数千の援軍を引き連れて昆陽へ戻り、劉秀自ら歩兵・騎兵1千人余りを率いて、新の大軍の陣営から4,5里のところまで進軍してきた。王邑・王尋はこれを甘く見て、自ら1万人余りの軍を率いると、味方の軍勢に軽挙妄動を禁じた上で単独で劉秀軍に挑みかかった。しかし劉秀の果敢な戦いぶりの前に、王邑・王尋の軍は撃破されてしまう。さらに劉秀は、宛が落ちたことを知らずに偽って「(劉縯らの)宛からの援軍が到着した」との知らせを昆陽に届けさせ、城内の士気を高めさせるとともに、王邑らを動揺させようと謀る。

そして劉秀は、決死隊3千を率い、昆陽城西の川を渡って、新の陣営の中核(「中堅」)へ突撃した。新軍は大軍ゆえにかえって対応できず、ここで王尋は戦死した。そこへ城内の漢軍も劉秀軍に呼応して出撃したため、挟撃された新軍は大混乱に陥り、王邑は指揮を放棄して逃走した。



80: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)12:27:02 ID:EW0
>>58
光武帝好きだわ    洪武帝も好きだが

70: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)12:03:17 ID:GA1
あぁ、忍城の戦いもそうだな
成田氏長大体2000VS石田三成率いる豊臣勢20000

支城が北条陥落より耐えた戦い

71: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)12:03:37 ID:t0v
>>70
これ有名だよな

72: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)12:07:24 ID:GA1
あ、豊臣勢少なくとも20000だった

>>71
城主が包囲直後におなくなりになって、あと継いだのが畑仕事すらできないでくのぼうさんだったからな、家臣以下皆さんの士気が気になる

75: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)12:10:34 ID:t0v
>>72
のぼうの城見たけど実際あんな風に士気が高いのだろうか。

77: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)12:19:53 ID:GA1
>>75
さあなぁ……
長親が評判通りなら絶望的に低そうだけど、暗愚装ってたとかがあるからなぁ


90: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)14:43:47 ID:GA1

普通に凡将らしいんだけど、農作業まともに出来ないってエピソードあっただけだしな

武勇はともかく、政治や統率に関しては発揮の機会があんまりなさそうだし
だが、成田記では軍議での意見の食い違いでの喧嘩を収めたり、
窮地において「軍法の第一は和、心せよ」と言い放ち場を凌いだり、暗愚と言うわけではないっぽい

86: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)14:25:30 ID:DMj
革命系は大抵多数対小数だな
キューバ革命なんかは革命軍が一時期散り散りになって50人きったこともあったし

87: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)14:28:51 ID:t0v
キューバ革命の首謀者誰だっけ?

88: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)14:35:23 ID:DMj
>>87
首謀者っていうか代表者がフィデル・カストロ
元弁護士、バティスタ政権時代では議員をやってて反政府発言や民族主義的な事ばっかり言ってたから半ば犯罪者扱いされてた
ちなみに本人は社会主義者ではなくキューバ人や国、社会を再建させるには社会主義にならざる負えなかったと言っている

89: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)14:37:03 ID:t0v
>>88
時代によってその国に合ったやり方ってあるよな

91: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)14:44:59 ID:DMj
>>89
企業の殆どがアメリカ資本でキューバ企業が無く実質アメリカの傀儡というよりアメリカ領土、観光地として栄えてはいるが雇用枠が白人やアメリカ人移民に露骨に優遇され豊かな暮らしをして元々住んでいたキューバ人が良くて使用人だったりと奴隷のような扱いを受ける
しまいには子供に麻薬栽培の仕事させてる始末
そりゃあアメリカを恨みたくなるわな

93: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)14:47:14 ID:t0v
>>91
当時CIA色々酷いことやってたしな

94: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/04(金)14:57:59 ID:EW0
そういえば、カンネーの戦いは出てないのか

ユダヤ戦争も、当時の超大国対小国の戦いだな。順当に負けてるけど

96: 【末吉】【952円】【46】 投稿日:2016/03/04(金)15:26:44 ID:0Ow
少数が多数を倒す勝機があったにもかかわらず、それを良しとせず正面からぶつかって順当に負けた宋の襄公さん

引用元: ・歴史上の少数vs多数の戦争教えてくれ




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