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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/03(土) 00:48:20 ID:S2U5HoWV0.net
何かと失策が目立つ彼ですが、
一時は袁紹と共に最大勢力の一つでした。
陛下について語ってみましょう。








179: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/09(日) 19:50:20 ID:SQM/MhNbO.net
袁術の外交能力って如何ほど?
それによって袁術悪:それ以外が悪
の比率がかわってくると思うんだけど。

180: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/10(月) 20:04:54 ID:RitWjQJ7O.net
どこまで成功していれば良い方に評価されるのだろうか?

助けを求められれば受け入れ、敵の敵とも結ぶ。
呂布と姻戚関係を結ぼうとした、李カクとも近付いていたと言えるかな。
しかし袁術が交わった彼らや公孫サン、陶謙らは
皆が皆 離反したか敗走していった。
結果だけ見れば、評価が芳しくない事にもなるかもな。

それに彼が結んだ連中も評判悪い奴らばかりだな。
李カク、公孫サン、陶謙
彼らは、敗死して当然みたいな言い方する人すらいる。
正史を通読するか、せめて三国志板のスレくらいは目を通していれば
そうでもないという事が自明だろうがな。
今はスレないけど

187: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/23(日) 10:01:38 ID:N+CDCngw0.net
李カクとか公孫サンの擁護はまだ分かるんだけどさ、袁術の擁護っていまいち納得できない。
・敗北したから(皇帝を名乗ったから)記録上で醜化されたり悪行を押しつけられたりしたんだ
って感じのもの以外に説得力ある擁護ってある?

189: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/23(日) 17:43:27 ID:6MJPqZVr0.net
>>187
う~ん・・・袁術は他の群雄と違って、特に擁護されてるようには思えないが。

188: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/23(日) 15:42:10 ID:RE8Wv+z/0.net
擁護するとかじゃなく、素朴に正史読んでたら袁術の実力が理解できない面がある。
ていうか、擁護って具体的に何のこと言ってるの?

196: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/23(日) 22:19:18 ID:N+CDCngw0.net
いわゆる南陽地方に対する悪政に対する擁護として、後の曹操の悪政を押しつけられたんだ、ってのは正直いま一つ。
今のままだとそういう憶測推測もできるかなあ、程度で。

帝位僣称についてはそもそも擁護しようとしてる人が居ないっぽいけどね。
どっちかというと「曹操や袁紹も十分酷かったぞ」っていう相対的な袁術擁護が目立つような。
孫策を「恩知らず」としたり。

198: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/24(月) 13:40:05 ID:HLpKdwFq0.net
南陽の「悪政」についてはそのとおりというしかない
原因として荊州中の官兵連れて董卓討伐に向かったら劉表に後方取られて
荊州中の兵の兵糧を南陽だけで徴収しなければならなかったからで情状酌量の余地ありといったところか
この地は張曼成、趙弘、韓忠と黄巾が3回も立てこもって殲滅戦になったから疲弊もひどかっただろうな
でも袁術が出て行った後、三輔地方からどんどん流れてきた避難民に婁圭が食料与えてるんだからまだまだ裕福だった

淮南の「悪政」については蝗害による飢饉が大きい
しかし劉勲が滅んだとき、袁術配下だった楽師や職工が3万人いたというのは「贅沢の証拠」といわれても仕方ない
ただ楽師や職工はすぐになれるようなものじゃなく何年も修行しなきゃならないものだから
この楽師や職工は黄巾以前からいる人間で、国土が荒れ果てた上に朝廷の支配領域も狭くなったんで放り出されたんだろう
黄巾以前なんか6千万人いたから3万人養えるけど袁術の支配地域なんかごく限られた範囲でかなり厳しかったはず
それでも自分を頼ってきたものを見捨てられず、かつ文化が絶えることを危惧して保護したんじゃないかな
陸績にミカンを与えたのを贅沢の証拠として挙げてた文読んだことあるけど
あれはあきらかに昔植えられたものを取ってきただけなんだからいいがかりだと思う

199: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/24(月) 15:09:12 ID:2XjG4hl/0.net
>原因として荊州中の官兵連れて董卓討伐に向かったら劉表に後方取られて

劉表はホント余計な事しかしないな

200: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/24(月) 15:11:51 ID:KkokVgxp0.net
劉表は董卓に派遣されたんだからそりゃ袁術&孫堅の邪魔するだろうさw

まあでも、同時期に派遣された朱儁みたいに袁術に寝返ったらもっと良かったかも。

202: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/24(月) 22:35:34 ID:zL2sVz9r0.net
>>200
袁術を南陽太守に推挙したのは劉表なんだけどな。

201: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/24(月) 18:29:07 ID:tH1nj1+q0.net
袁術や孫堅の邪魔をしたのは董卓に派遣されたからではなく、あくまで「まともな」官僚たちを含めた「漢朝廷」に
治安維持を目的として派遣されたから、勝手な行動をする連中を敵視したんだろう。
「董卓に派遣された」としか考えていなかったわけがない。
事実劉表以外にも各地に有能な士が派遣されてるから、当時の朝廷の動きを全て「董卓」や「李カク」主導とみなすことは危険だと思ふ。

206: データファイル 2007/12/26(水) 06:33:39 ID:uSIBQqXJ0.net
袁術には生涯を通じて「友」と呼ぶべき人もなく、「尊敬」した人もなく、されたこともない。
三国志中、袁術ほど寂しく心貧しい生涯を送った男もいまい。

211: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/28(金) 11:04:24 ID:2wvGKei00.net
>>206
それは曹操と袁紹についても言えるんじゃないのか?

213: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/29(土) 00:35:13 ID:6s/h7Fy/0.net
人気の高い人物のスレだとすぐ戦争の話題になるが、こういった人気の低い人物のスレって
あまり軍事は話題にならないよね。住人の質が違うのかね。

ってことで内政や外交、皇帝僭称等は置いといて、そろそろ軍事について語ってみまいか?
袁術は曹操と戦うといつもフルボッコにされてるが、袁術の軍隊って孫堅とか孫策とか呉景
といった孫一門が優秀だっただけなのか?それとも、ただ記述が多いから錯覚してるだけなのか。

それと曹真伝だったかに袁術が曹操を負かしたかのように見える記述があるが、あれは何ぞや。
曹操が袁術の追手から匿ってもらう話。

214: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/29(土) 00:45:05 ID:JebZnSij0.net
揚州における陳ウ戦なんかを見るに、
袁術の軍事能力もけっこう高いように思えるが。

215: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/29(土) 01:52:51 ID:zqPt6H3F0.net
袁術は陳を攻略してるんだが、詳しい状況があんまり記録されてないんよね。
劉備との戦いでもとくに失点ぽいものは見つからないし、そこそこいけたんじゃね。

216: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/29(土) 16:40:26 ID:5M9ZfyQ70.net
そういや袁紹や袁術の初陣っていつ頃?
曹操は黄巾討伐戦だけど。

217: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/29(土) 18:46:21 ID:bYR3yKDK0.net
生死をかけ戦いを初陣とするなら、宦官大虐殺じゃない?
でもたぶん、史書に出てない賊退治とかが初陣だとは思うけど。

258: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/31(月) 21:41:56 ID:lhoJ5R5s0.net
曹操が曹洪を派遣して献帝を迎え入れようとしたとき
董承と袁術の部将の萇奴が邪魔したって記事があるけど
これって要は萇奴の方が先に献帝迎えに来てて
董承と合意が成って一緒に袁術のところへ行こうとしたら
曹洪が献帝奪いに来たんだよね?

260: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/31(月) 21:53:12 ID:PtpfvIQ0O.net
>>258
詳細はともかく、その時献帝を影響下に置いてたのが袁術で、曹操が強奪を試みたのは間違いない
董承が張楊たちと仲違いして、董承が曹操にすり寄ったために曹操の拉致が成功したんだよな

262: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/31(月) 23:33:55 ID:rQjpV4E+0.net
>>260
董承ってあまり知られてないが、かなりの曲者だよね。

263: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/31(月) 23:46:14 ID:12YLYGPe0.net
>>260
固有の武力をもたない人の処世術というやつか。
結局、曹操がつからを付けすぎると排除に走るし…

264: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/01(火) 00:03:16 ID:EhS8lqyMO.net
董承も自分の兵は持ってたみたいだけどね(先の曹洪要撃や袁術討伐に出ている)
張楊や楊奉に独力では勝てないから曹操を頼ったんだろう
李カク政権の生き残りで数々の修羅場を潜ってるから、タダ者な訳が無い
ひたすら部下や同僚に操られた挙げ句裏切られた楊奉とは全く違う

265: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/01(火) 22:45:07 ID:EhS8lqyMO.net
楊奉といえば、騙され裏切られる楊奉もアレだけど、徐晃の奸物っぷりが酷いよな
李カクたちを裏切るように仕向けたのも徐晃なら、曹操につくように薦めたのも徐晃なのに、最後は曹操方について楊奉を裏切るんだから
呂布より酷い裏切り者だと思うんだが
関連記事徐晃って評価低くね?
280: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/09(水) 02:12:51 ID:qKJ+o10i0.net
最近ちくま版手にいれて読んでるんだけど、どんづまった奴は大抵袁術の所に行くな。
面倒見良かったんだろうか。

282: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/09(水) 08:08:18 ID:kyEXQA5q0.net
>>280
大勢力だし、終始曹操と敵対したし。
196年以降は献帝側に付かない(ていうか追い出された)
人間の溜まり場になった観があるな

284: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/10(木) 23:18:12 ID:IiUMJJFS0.net
前の話題で今さらだが
袁術が南陽で搾取したって言われてるのって呂布のせいでもあるよな

「袁術は之を待すこと甚だ厚かった.
呂布は自ら董卓を殺したことを恃み,
袁氏に徳を有するとして,
遂に兵を恣にして鈔掠した.
袁術は之に患わされた」
           ほぼ訳後漢書より
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/g_ryofu.html

285: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/10(木) 23:46:36 ID:jcTAzj+20.net
>>284
たかだか居候の呂布の「搾取」がそんな大規模なものとは思えないけど。
いわゆる「袁術の悪政」の原因の一つだとはとても思えない。

286: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/11(金) 18:46:16 ID:mT1P5j3O0.net
>>284
ごめん。南陽で搾取したって何のこと?どこに載ってる?よく分からん。すまん。

287: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/11(金) 18:51:45 ID:f5rY8KDD0.net
呂布による搾取なら>>284の通り後漢書呂布伝。
袁術による搾取なら三国志袁術伝・後漢書袁術伝。

288: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/11(金) 18:52:43 ID:mT1P5j3O0.net
南陽戸口數百萬,而術奢淫肆欲,徴斂無度,百姓苦之.
もしかしてこれのことかな?
袁術の贅沢な暮らしは有名だけど、それで郡民が苦しんだってのは陳寿の誇張だと思うよ。

299: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/12(土) 20:05:19 ID:3AE1zQd50.net
後漢書によると南陽の郡民は240万人ちょっとなんだけど、
黄巾の乱を歴てまだ数百万もいると言ってるのがそもそもおかしいんだよ。
曹操の父は三公の位を買い取るのに一億使ったと言うんだが、
仮に南陽に郡民200万人が残ってたとして、三公を全部買ったとしても一人当たり150銭程度だな。
数百万人を苦しめるためにはせめて百回くらいは三公を歴任しなきゃ無理そうね。

300: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/12(土) 20:10:49 ID:3AE1zQd50.net
三国志だと「数百万」だけど後漢書だと「数十~百万」だな。
たぶん後漢書の方が正しい。
しかし50万で計算してもまだまだ余裕だと思うね。

303: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/13(日) 00:30:34 ID:joyzlleC0.net
張咨や陰修殺して住民感情が悪化してたから余計悪口言われるんじゃないの?

306: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/14(月) 01:35:30 ID:EhpwM9cB0.net
漢書呂布伝には袁術が呂布を歓迎して手厚くもてなしたって書いてあって
三国志呂布伝には袁術が呂布を信用できないといって最初から追い返してて
双方矛盾してるけど
これって陳寿が
呂布と一緒になって南陽で略奪した張遼が
魏の高官になって一族が有力者だから
憚って嘘の記述してるのかな?

307: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/14(月) 01:38:49 ID:OQEWW5DL0.net
呂布協力者には陳群みたいな大物もいるからな
呂布関係で憚ることもあったかもしれんな

308: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/14(月) 02:12:43 ID:BBC1f1fh0.net
陳寿が魏の高官に気兼ねする必要はないはずだけど。
張遼は子が扁将軍になっただけでその後羽振りを聞かせた様子はない。
陳家は大物だけど、陳羣が呂布の下に入ったのは徐州時代だから時期が合わない。

309: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/14(月) 02:39:48 ID:02AWrwND0.net
呂布、袁術のところにやっかいになる
呂布、態度デカイ、袁術いらつく
呂布、袁術が自分のことを暗殺しかねないと恐れ、去る。

こんな流れだったような

311: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/15(火) 23:50:11 ID:oGPQnyI40.net
>>309
それは後漢書だけ
極端な言い方だと
三国志の袁術は頼ってきた恩義ある人間を門前払いした薄情者で
後漢書の袁術は敗残者を気前良く迎え入れたら大迷惑かけられた被害者
結構イメージが違うと思う

310: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/14(月) 11:35:45 ID:wyGWGY/n0.net
ちょっと前に「袁術の贅沢程度で住民が苦しむほどの搾取になるはずがない」って有ったけどさ。
明で専横を極めた宦官の劉瑾が処刑されたときに
没収された財産が国家収入の数倍にあたる量だった、って見たことが有るんだけど。

(だいぶ時代は違うけど)権力者個人の蓄財がそれだけの量になり得るということは、
袁術個人の贅沢が、支配地域の住民に対して苛政となるほどの規模であったとしても問題は無いのじゃないのかと。

搾取って税率2倍とかそんな馬鹿みたいな値じゃなくても
1割2割増えるだけで庶民には苛政になるんじゃないのかな、とか。

そこらへんを疑問に思ったわけです。

313: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/25(金) 22:08:43 ID:CmZAaUQW0.net
>>310
劉瑾の場合国家予算の10年分を蓄えたと言っても5年?くらいの専横期間がある事をお忘れなく
しかも皇帝集権時代に皇帝の権限を好き放題振るえた状況だった

刺史でも牧でもない袁術は昔赴任してた時期の縁故等により南陽で割拠し始めるわけだが
縁故によって立ってる人間を支えてる側の人間が、そんな苛政を許すかね?
腕力によってもぎ取った淮南での割拠時ならばまだ可能性もあるか?と思いきや
旱魃の時に国庫から勝手に兵糧をバラ撒いた舒仲応を「立派だ」と褒め称えてる

ちなみにこの旱魃、三国志には搾取による飢饉と記され、後漢書のみに記載がある
三国志では「苛政のせいで」ということになってるが旱魃の可能性もあるわけだ
そして袁術の支配区域は漏れなく曹操の物凄い搾取のあった地域or戦場
どう考えても荒らしたのは袁術より曹操

315: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/31(木) 23:53:04 ID:kA8YBJ+W0.net
袁術については三国志「武帝紀」の屯田制を実施したとの記事の注がそのまま当てはまるな

魏書曰:自遭荒亂,率乏糧穀.諸軍並起,無終歲之計,飢則寇略,飽則棄餘,瓦解流離,無敵自破者不可勝數

(荒廃と動乱のため食料計画が成り立たず、敵もいないのに自ら敗れる者が数え切れないほどいた)

316: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/01(金) 00:38:19 ID:ZTFed6OR0.net
魏書は曹操を神格化して時々嘘書いてるから油断ならんのよね。
その箇所は曹操に先見の明があり群雄の中ではいち早く屯田政策を開始したように印象付けてるが、
実際の曹操は農業政策には全く無頓着で呂布と対陣中に食糧不足で一時休戦したほど無定見。
棗祗らが提議してようやく重い腰を上げたところにその記述が挿入されている。
屯田政策なら公孫サンだって実施して易京に大量の食糧を蓄えたけど結局破綻してるんだよね。

317: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/01(金) 02:10:47 ID:ggqisdJw0.net
嘘、というか、曹操は良政を敷いたって記述が無い点でいっそ小気味良い人物ではある。
この時期の河南はそもそも荒れ放題でどこも兵站に苦労していたというのは大いに考慮すべきだろうけど。
それが袁術が酷政をしなかったという傍証にはならんしなー

318: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/01(金) 18:16:06 ID:ZTFed6OR0.net
個人的には、正史の記述があっさりしすぎて誰の政治がよかったか悪かったかは判断できないと思う。
曹操や部下の統治でさえよく分からない。
部下の本伝だと何となくよさげに書いてるけど、
比較対象が示されてないので本当によかったのかはやっぱ不明なんだよ。
ただ少なくとも言えるのは、袁術とかそれ以外の群雄の領民が苦しんだとされるのは、
実態はほとんどが飢饉を原因とするものが多いってことで、
人相食むとか穀幾万銭に値すとか史料から拾ってくと、この時代の飢饉がいかに凄まじかったか分かる。
だから俺的には袁術が苛政を布いたかどうかってのは小さな問題だと思ってて、
善政だったと言うつもりもないし悪政だったという理由もないなと。

319: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/01(金) 21:47:53 ID:MT8sACQi0.net
大きな歴史の流れで言うと
後漢後期は政情が安定して農業生産も人口も増大していった
それが末期になると開発のやりすぎと木材の伐採しすぎで地力の低下や水害が酷くなった
農業生産力が減退に転じたのに人口は増えてばかりで食糧難
これへの不満が黄巾の乱で、騒乱で余計状況が悪化した
ただ、これは中原の状況で
袁紹、劉表、劉璋のところはまだ開発途上だったから無事
だからこいつらの統治はまだ良かったと言われている
曹操がうまくやっていけたのって
あちこちの黄巾の残党を攻めて溜め込んだ物資手に入れてたからだろ

320: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/01(金) 23:15:59 ID:ZTFed6OR0.net
開発途上だったせいかどうかは分からんけど、
確かにそいつらの領地で大飢饉が起きたという記録は見当たらないな。
こいつらが寛容な性格っぽく思われてるのと関係ありそうな感じだな。

321: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/01(金) 23:52:52 ID:MT8sACQi0.net
もうちょっとまとめると
乱開発で農業が破綻した黄河流域と
これから未開墾地を開拓していく周辺地域
ということで
これは文明の興隆と衰退のサイクルが回ってきただけで
袁術個人の資質の問題ではなく
歴史の必然だね

322: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/02(土) 01:53:48 ID:LX7MXXlw0.net
必然というとちょっと行き過ぎな気が…。

そういやさ、史書ってのはたいがい名士豪族層の目線で書かれるもんで、
善政とか悪政とかいうのも豪族から見て得したか損したかって基準だったりするけど、
一般的に悪政を布いたとされてる君主のところは結構飢饉が起こって、
比較的に良い君主だったと言われてるところはあんまり飢饉がないんだな。
何か相関関係が見えてくるような気がする。

323: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/02(土) 02:01:04 ID:nK237aQj0.net
それは言えるが、河南で曹操と比較出来そうなのが袁術と陶謙くらいしかいないからな。
現実の各人の政治ぶりと三国志の記述の相関を論じるにはサンプルが少ない。
陶謙は賢人を遠ざけたとは書かれているが、特に苛政の記述は無いと思ったが。

325: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/02(土) 12:19:57 ID:+gsKKVIB0.net
あと、前近代の東洋では
徳がない君主がいると天が怒って天災を起こすと考えられていたから
完全に天災による被害で君主には防ぎようのない例であっても
君主が不道徳な生活を送っていたための天罰と判断される

326: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/07(木) 19:06:19 ID:ygpb0k7Y0.net
袁術ってそういう超自然的な現象に対してはどういう態度だったんだろう?

331: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/12(火) 01:44:53 ID:vUX0VApH0.net
とりあえず即位に当たって
瑞兆云々は語ってないな

332: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/12(火) 10:38:40 ID:2HCc1jqx0.net
そりゃ瑞兆云々を上奏するのは臣下の側であって
君主のほうから言いはしないだろう。

354: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/04/17(木) 12:42:53 ID:Poc43Njd0.net
袁術って何歳位で死んだんだっけ?
30代?

355: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/03(土) 07:43:20 ID:ItWO5UFRO.net
袁術より少し年下なだけなら
四十代ではないかな?

356: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/03(土) 07:48:25 ID:ItWO5UFRO.net
あ 何か意味不明になってたな
袁紹より年下の従弟なら、ね。
袁紹とあんまり離れているのなら
流石に公路との争いも起こりにくいのではなかろうか。

そういや向こうの板の蜀将スレで
ちょうど袁家同士の抗争の話題にされてるよ

361: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/06(火) 18:36:04 ID:ycRvXid40.net
袁紹の生年も不明だった気がする

370: 劉邦 2008/05/14(水) 11:18:14 ID:u64Tg7540.net
袁術は、韓王信や三好 長慶に似てる。

371: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/14(水) 19:50:58 ID:YNX/YkwF0.net
そこは今川義元と言って頂きたかった!

372: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/15(木) 00:14:47 ID:UASMXtl20.net
近代中国でたとえたら
袁氏つながりで袁世凱

374: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/27(金) 23:15:12 ID:6qks8lRa0.net
袁氏は袁渙が総本家なのかな?

375: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/28(土) 21:08:40 ID:MagOHVR50.net
>>374
豫州出身だけど、汝南の人ではないし、
袁安(袁術らの高祖父)の系統ではないので、いわゆる汝南袁氏ではない。
同姓の誼で袁術に仕えたんじゃないかな。

376: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/28(土) 23:45:03 ID:hD0v2Yiu0.net
袁術は陳の大夫の轅濤塗が先祖であると誇ってたわけだから先祖は陳の出で
陳珪との仲も先祖が陳の出身、舜の子孫だというつながりがあったんだと思う
日本でたとえるなら陳の袁氏と汝南袁氏は摂津源氏と河内源氏の関係に近いと思う
摂津源氏の方が本来は直系なのに
親父の所から出て行った弟の家系の河内源氏の方が武家の棟梁とか言われたのと同じ感じで
先祖代々の土地の陳から出て汝南に定着した方が栄えて大勢力になったんじゃないかな
だから袁術が袁渙に敬意を表していたのは先祖の土地に残って墓を守っていた一族だからだと思う

379: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 23:20:28 ID:j2dpdUZI0.net
袁術は意外と鷹揚だよね。舒仲應の件とかw

380: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/01(火) 23:21:31 ID:BeEj4b7G0.net
本当に鷹揚なのか、鷹揚なフリをしてるのか分からないけど、
もともと侠気で名を上げた人だからね。
そういえば確かに袁紹には意外とそういうエピソードが少ない。

396: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/22(月) 00:32:33 ID:5LEBs53T0.net
袁家って途絶えちゃったんだろうか
孫権の夫人も死んでるし

397: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/22(月) 01:51:24 ID:RcGomLS10.net
>>396
袁術の息子の袁燿が呉に仕えてるよ。
袁燿の娘は孫権の息子の嫁になってるから、
たぶん呉の時代は存続してたと思うよ。

404: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/06(火) 15:12:12 ID:/8B0BwKQ0.net
袁術の配下って紀霊しか目立つ武将いないな

405: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/06(火) 23:28:16 ID:xoV30dOd0.net
>>404
つ孫堅

411: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/14(水) 12:14:03 ID:XffV+LnSO.net
>>405
孫策はともかく、堅パパは袁術の部下かというと微妙だと思う。
糧秣はともかく、兵も部将も当初の官位も自前だし。
あと陳蘭や雷薄も土豪のようなもので、勢力瓦解後の彼らの頑張りは「袁術の将」としてのものとは別に評価したい。
ところで雷薄は後に劉備についたと思うが、雷同って雷薄の同族じゃなかろうか。

409: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/10(土) 23:42:18 ID:xnhL/F7d0.net
かなり頑張ったのが陳蘭。
赤壁の後まで淮南に割拠していた
曹操の東南進出が遅れた一因だろう
臧覇・張遼らの攻撃に逢い、孫権の救援を仰いだが敗れる

袁術残党は淮河と長江の間に結構根を張っていたようだし、
それを取り込むためか、孫権は袁術系の人間をそれなりに扱ったみたいだね。

421: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/14(水) 22:58:09 ID:wA0woOrm0.net
袁術は当時の一大名士で、南陽の情勢を纏めきり、豫州からも兵を供出させるには
他にありえなかっただろう。
一方孫堅は各地の征伐に名を上げた勇将で、実力で董卓を洛陽から駆逐した。
全うできれば天下取れるくらいのコンビだったんだけどな。

422: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/15(木) 00:30:33 ID:kHKheaNU0.net
天下取れるほどの実力ではないだろ
董卓が洛陽をぶっ壊して退却した後、劉表に南陽の物流止められて一瞬で干上がってる
この時点で南陽を拠点とする袁術陣営の限界が出てる

423: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/15(木) 01:07:45 ID:lDFteQM40.net
一瞬ではないよ
劉表が漢水以南を掌握してから袁術が豫州に移るまで、
正確な月日は不明な部分が多いが孫堅の死を挟んで一年くらいは時間がある
袁孫連合は軍事的には襄陽を追い詰めるに十分な質量を有していたし
豫州に派遣された周昂を破ってもいる

ま、現実に袁術はそれ以上の器ではなかっただろうし、その後勝ち続けたとしても
袁術・孫堅の間に亀裂が入らなかったとは殆ど考えられないが

424: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/23(金) 11:55:37 ID:uhD1A0Wr0.net
ところで袁紹派には劉虞・韓馥・劉表・そして曹操などがいたけど
袁術派には孫堅のほかにどんな勢力があったの?

425: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/23(金) 20:28:08 ID:HDJzta7N0.net
劉表まで袁紹派に入れていいなら、
「袁術派」はまず公孫サンとその影響下の各人物。勿論その一時期の劉備
孫堅・孫策と呉景・孫賁ら親族
公孫サンと同盟関係にあり袁紹と戦った黒山賊
武帝紀には陶謙の名も挙がるが時期的に怪しいところもある。少なくとも袁術が揚州に移ってからは険悪になった
陸遜の父の従兄弟で呉郡陸氏の宗主だった廬江太守陸康(不和から攻め込まれて敗北)
陳登ら下ヒ陳氏の有力者の揚州刺史陳ウ(王禹)(揚州に逃げ込んできた袁術を拒否して敗死)
廬江周家の者で周瑜の従父の丹陽太守周尚
曹操と戦った豫州西部黄巾族の何儀や劉辟
直接の連携の記録は無いが、董卓政権下で協力者として疑われた太尉張温、
曹操政権下で以下同文の太尉楊彪
他には初め曹操の献帝奉戴を妨害したとされる董承、
東城長魯粛や予章太守諸葛玄(諸葛亮の叔父で亮も任地に身を寄せていた)なんて名もある。

他にもそれっぽい人間は多いが、何しろ皇帝を僭称して悪名高い人物だから、
魏に仕えた人間の経歴からはぼかされていることが多い。
呉側の記録では比較的正直に書いてある感じ。

426: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/23(金) 21:07:26 ID:0nQCzVjB0.net
>>425
陳ウは敗死してないよ。徐州南部で勢力を保ち、
後に朝廷から袁術討伐の勅命を受けている。

430: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/06/09(火) 20:03:50 ID:woDp6vlS0.net
袁術からその生死について妻子に連絡があったという曹操も、一時期「袁術派」だったんじゃない?

431: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/06/09(火) 20:11:17 ID:K5iwuwd20.net
袁術派の張バクの下にいたんだから反董卓連合の時期は袁術派だったんじゃないかな。
連合解散に前後して王匡を斬ったあたりで袁紹側に寝返ってると思われ。

434: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/06/13(土) 23:33:16 ID:Ij7QeaTZ0.net
>>431
袁紹の命令で王匡は自分の妹婿の胡母班を泣く泣く殺害し、
後に曹操は胡母班の遺族と協力して王匡を殺害してる。
この点だけ見れば王匡殺害は袁紹に対する敵対行為にも見える。

袁紹派・袁術派というのはもっと曖昧だったんだろう。

443: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/01/11(月) 15:05:15 ID:GVML5mWbP.net
袁術って宦官虐殺のとき自ら宦官殺したりしたのかな。
後漢書によると「宮門を斫(う)って之を攻める」
これは門を打ち破って中に突入したって意味じゃなくて、
門を攻めたって意味らしい。
その後あちこちに放火したって記述があるけど、
結局宮中に突入したのかどうか分からない。

444: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/01/11(月) 23:01:51 ID:vw8KmTAO0.net
「嘉徳殿に火を付けて段珪らをいぶり出そうとした」とあるから
門内に入って宮庭に兵展開してたんだと思う。
宮殿内まで侵入したかどうかは不明。
積極的に宦官殺しまくったのは袁紹

445: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/01/18(月) 21:04:12 ID:BTdhZXMD0.net
袁紹と袁術は
従兄弟という説と異母兄弟という説があるらしいけど
どっちが有力なんだっけ

446: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/01/18(月) 21:42:18 ID:DxvJtWOn0.net
どっちが有力というわけでもないだろう。
異母兄が伯父の家に養子に出たのだとしても、
従兄が父を失って叔父の家で養育されていたのだとしても、
系譜上は従兄弟になるからあんまり問題ではないと思う。

452: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/28(日) 13:25:49.89 ID:2MncyQfL0.net
袁術の玉璽は曹操の手に渡った後どうなったの?

455: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/29(火) 12:45:07.57 ID:2fjYkm/K0.net
>>452
献帝に返還された。
漢帝の手元まで戻ったということは本物ということになる。
ちょっとすごい話だね。

474: 曹氏 ◆FFuF8qXBFw 2012/09/07(金) 21:06:00.38 ID:BId/NHuz0.net
玉璽見てみたいなあ~
かの李斯が書いた字が見たい
玉璽の欠けてる部分も歴史を感じて良い

469: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/03/03(土) 05:27:34.90 ID:bYnnZ3jh0.net
袁術の国号が「仲」なのは何に由来してるのかな?

481: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/06/28(日) 19:36:57.32 ID:xymepKlo0.net
袁術の立てた王朝も「漢」だったという可能性はないのかな。

蜀漢が自称したのは「季漢」(末っ子の漢、すなわち季漢)だったらしいが、字の法則で
「伯or孟(長男)」「仲(次男)」「叔(三男)」「季(四男or末子)」「幼(五男or末子)」。
袁術の称した王朝は「仲」、これも「次男の漢」という意味では?

482: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/07/01(水) 22:03:01.88 ID:LMPINH7j0.net
>>481
世界史板でその話をふってみたけど
「代漢者当塗高」の予言を根拠にしてるから仲漢の可能性はないと否定された

漢ではなくて仲=次男(漢の次なる王朝)という意図での
国名付けの可能性なら微粒子レベルであるかもしれんが

引用元: ・【成皇帝】袁術様について語るスレ





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