41743NA3NZL




1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/05/31(火) 19:42:54.13 ID:eUor6Vhp0
語り合おうぜよ!!








3: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/01(水) 00:43:20.66 ID:ey3dBQMQ0
維新後割とすぐに死んでる党員も多いな。
田中光顕とかマジ勝ち組。

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/01(水) 02:36:00.68 ID:u6vth/GpO
何かと一緒に行動してる大橋慎三も明治すぐに死んでるな。
あとやっぱり長岡謙吉とか。

光顕は出世した上97まで生きたからマジ勝ち組だな。
あと土方久元や河野敏鎌もそこそこ。
土佐志士の顕彰の歴史調べると大体田中光顕が顔出してるのな。
あることないこと言ってるイメージがあるがwこいつがいなかったら土佐志士はもっとマイナーだった。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/01(水) 03:35:59.67 ID:husmty/a0
大石弥太郎も長生きしたよな。
近代デジタルライブラリーを漁ってたらこんなのあった。

従五位大石円翁略伝
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965202

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/01(水) 23:01:23.45 ID:VK+vVacIO
一般的には、武市瑞山と言う呼称も、武市半平太と言う呼称も
どっちも同じくらい世間に浸透してるけど、
武市ファン的にはどっちの呼称が好みなん?
俺は半平太と瑞山を気ままに使い分けてるが。

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/02(木) 00:19:36.83 ID:MRzTeQSU0
半平太の方がメジャーじゃないか?「瑞山」はお堅いイメージだがはんぺいたと
書くと随分かわいらしくなる
山がつく号は多いから半平太のが分かりやすくて個人的にはいい

前スレ最後、清岡道之助の弟の清岡公張が河田小龍のパトロンだったって本当?明治以降の話か?
龍馬は小龍と2回くらいしか会ったことないんだっけか

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/02(木) 00:51:20.19 ID:0sHhi61r0
>>7
「画人 河田小龍」って本に出てるって。
清岡公張は維新後出世してたからパトロンになったのはそれ以降だろうけど交流は前からあったんじゃない。
ナポレオンの絵とやらは安政3年、岡本寧浦の門人繋がりで交流のあった清岡道之助の依頼で描いた「西洋戦争図」の事だね。
河田小龍は龍馬に海軍のアイデアを与えただけじゃなく、人材を育てて龍馬をサポートする約束もしてたというけど本当かな?

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/02(木) 00:33:18.40 ID:0sHhi61r0
通称の半平太だと呼び捨てに抵抗感を感じるので
瑞山の方が呼びやすい。
もしくは武市先生で。

弥太郎違いだが岩崎弥太郎は土佐勤王党の事をどう考えていたのかな。
近藤長次郎はあるいは土佐勤王党に加盟していたかもしれないみたいだけど。
岩崎弥太郎の義叔父の岡本寧浦がまた土佐勤王党関係者と縁が深いしね。

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/03(金) 00:36:56.55 ID:ofYOE8Ih0
>>8
岩崎弥太郎は近藤長次郎に目を掛けてたんだよね。
外国の脅威に立ち向かおうとしてたんだから
当然みんなそれなりに海外に対する興味はあったはず…。
容堂さんも漂巽紀略を大名間で見せびらかしてたらしいw
ところでジョン万次郎と接点のあった党員ていたっけ?

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/03(金) 09:08:20.34 ID:Axv9r5W60
海援隊に入ったような人は当然会ってるんじゃないの?
中島信行、長岡謙吉とか。
ジョン万(当時は中浜姓)は、後藤象二郎が夕顔号を買うの手伝ったり、
ジョン万が薩摩藩に戻って、岩崎弥太郎に任せるまでは、
その辺取り仕切っていたわけだし。

土佐勤皇党が土佐藩を牛耳っていたころは、
幕府に仕えていたから、藩政を一緒にやったりはしてないけど。
そもそも新おこぜ組に教えた立場の人だし。

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/03(金) 09:25:59.82 ID:cUSkEPTaO
幡多郡の重鎮、樋口真吉はジョン万次郎との接点あった記録があるようだな
調べてみると意外なところで交流があって面白いんだよな
絵金と武市も師弟関係だったり。
弘瀬 金蔵

弘瀬 金蔵(ひろせ きんぞう、文化9年10月1日(1812年11月4日) - 明治9年(1876年)3月8日)は、江戸時代末期から明治にかけての浮世絵師。

本名は生前10回以上にわたり改名しているが一般には弘瀬金蔵の名で知られており、高知県下を中心に絵金(えきん)の愛称で親しまれている。


43: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/04(土) 11:22:36.70 ID:l4fY+GdZO
>>15
絵金といえば
実は隠れ勤王党員だったのではないかという指摘もされている様だ。
売れっ子画家だった絵金があるいは瑞山に惚れこんで活動資金を提供していた可能性もあるのではないか?
と、研究者に言われていたが、この辺は当時の土佐の庶民が瑞山と勤王党に協力的だった事を踏まえていってるのかな。

ついでに現存している血盟書の写しはかなり名前が抜けているようだ。
どう見ても党員として活動しているのに名を連ねてない者がよくいるらしい。

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/03(金) 11:03:11.88 ID:8jACYaJx0
以蔵がジョン万次郎の護衛してる。
坂本系の人は勝とセットで結構会ってるんじゃないか。

漂巽紀略を書いた河田小龍は、ジョン万次郎から
アメリカでは大統領が選挙で選ばれていることを聴いて、
当初嘘じゃないかと疑ったらしい。
"勤皇"党は国王なしの大統領制をどう思ったのだろうか。

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/03(金) 12:11:52.29 ID:cUSkEPTaO
あーいぞうがいたか。
でも護衛の話は時代考証すると慶応年間のはずで、
つじつまが合わなくってしまうらしいが、あのエピソードの以蔵はすごい。
みなもと太郎も褒めてた。
後藤象二郎も東洋の所でジョン万から話を聞いて、もらった世界地図に朱墨で書き込んだりしていたようだ。
佐々木高行は初めて世界地図を見たときの回想で、「万次郎はアメリカ贔屓だから
日本を小さく描いたんだろうと同僚同士で話し合っていた」と言っていた。
ドラマでよく見るが、当時の日本人は日本がこんなに小さな国だとは知らなかったということか。

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/03(金) 12:34:02.46 ID:dxjrQwKNO
>>17
あの時期岡田はもう処刑済みの筈。
みなもと先生の「風雲児たち」面白いよね。おもっくそ司馬遼太郎準拠だけどw
他の党員もっと出して欲しいけど、そういえば土佐勤王党を扱った研究書が横田先生の本しかないのを思い出した。
松岡先生が今度書いてくれないかなあ。

藩内のインテリ同士は大体交流があるみたいなんだよね。小龍もインテリだし。
鹿持雅澄の門下生がサブリーダー格に多いのと武市さんがリーダーなのはやはり関係あるのかな。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/03(金) 12:43:40.93 ID:8jACYaJx0
慶応年間は獄中だよ。
慶応元年5月11日に打ち首で。

文久三年から以蔵が京に戻るまでの間のどこかじゃないのかね。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/03(金) 12:56:29.39 ID:dxjrQwKNO
たしか龍馬も万次郎との接点が確認できる史料はなかったような。

>>19
中浜家の口伝では万次郎の墓完成時に岡田の護衛話となってるけど
お墓が出来た時はもう処刑されてたから多分人違いか何かじゃないかな?
口伝で護衛話がある他の剣客も名前が間違ってるらしい。

剣術修行~天誅~拷問の経歴を見てると島村衛吉って岡田以蔵の上位互換ぽい。
衛吉の道中記に吉田松陰の句が載ってるらしいけど
松陰の辞世の如く大和魂に殉じた凄まじい死に様だったね衛吉。
それにひきかえ岡田のアホときたら…

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/03(金) 13:28:38.12 ID:JSLHloVm0
「万次郎の墓完成時」の記憶が間違ってるんじゃないかね。
慶応年間にジョン万次郎を切る人間がいたかどうか。
元治年間がギリギリじゃない?
禁門の変と佐久間象山が元治元年。

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/03(金) 17:12:13.71 ID:dxjrQwKNO
>>21
維新後も暗殺事件は頻発してたけど。
情勢が変わったからってオール開明派になった訳でなし色んな考え方の人間がいるだろうさ。

ようするに万次郎の護衛話は出典が相当怪しいので史実として取り上げる事が出来ない話なのね。
マンガみたいに派手なエピソードで人気があるのは解るけど、そういうものは基本的に創作要素が大幅に盛り込まれてる。

63: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/05(日) 23:47:43.27 ID:MhZubo0n0
武市の後継者路線には中岡が居た
中岡は幕末後期の志士として最高のレベルの人物だったろう
武市や中岡と土佐藩を率いれる器量あったのを両方失ってしまったのが不幸
要するにろくなことせんな容堂って

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/06(月) 05:59:08.85 ID:5C175VnC0
東洋暗殺がいけなかったんだ。

200px-Yoshida_Toyo


吉田 東洋

吉田 東洋(よしだ とうよう、1816年(文化13年) - 1862年5月6日(文久2年4月8日)は、江戸時代末期の武士・土佐藩士。

高知郊外に私塾(少林塾)を開き、後藤象二郎や乾退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎等の若手藩士に教授するが、やがて、彼らが「新おこぜ組」と称される一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えた。

法律書『海南政典』を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした改革を遂行する。然し、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となり、1862年5月6日(文久2年4月8日)、帰邸途次の帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺された。享年47。


67: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/06(月) 07:42:50.11 ID:eMGAldh3O
吉田東洋暗殺事件は長い目で見れば
土佐が薩長土肥の一角を占めるにあたって
歴史的に最低限の必要性があったイベントなんじゃないの?
武市から多大な影響を受けた坂本や中岡ら旧勤王党員の働きかけにより
土佐藩も明治維新に大きく貢献する事になるわけだが、
もしその時に吉田東洋が存在していたら、
坂本や中岡らはスムーズに土佐を利用できたかどうか怪しい。

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/06(月) 08:17:27.85 ID:8Z8lCbD7O
そもそも東洋が生きてたら、勤王党は土佐から出ることも出来なかったんじゃないかな

70: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/06(月) 10:39:43.58 ID:1rmwe5f10
東洋→象二郎の考え方もそんなに違わないように思えるが。

ついでに『谷干城遺稿』の中の「隈山詒謀録」から
吉田東洋に面会した時の事を書いてるページ。
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991229/56

71: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/06(月) 10:52:19.20 ID:8Z8lCbD7O
東洋生きてても別に問題ないけど、東洋生きてたら、龍馬や中岡や勤王党が歴史に名を刻む事は無かったと思う

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/06(月) 13:39:56.03 ID:5O0sWX4+O
もしあの時吉田東洋を排斥していなかったら…
薩長土の微妙なパワーバランスが崩れて歴史が変わっていただろう。

容堂は藩の統治という点で間違った事はしていないさ。
だが武市先生といい野中太内といい信念を持った部下には気の毒な事であった。

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/06(月) 14:49:50.77 ID:8Z8lCbD7O
獄中闘争の中で、野中太内と武市先生はお互いを密かに認めあってたっぽいよね
信念を持つ者同士、何か感じるものが有ったんだろうか

野中助継

1828-1868 幕末の武士。
文政11年生まれ。土佐高知藩士。吉田東洋に重用され,東洋暗殺後も公武合体論を主張して土佐勤王党を弾圧。戊辰(ぼしん)戦争では佐幕説をとなえてゆずらず,藩主の従軍命令を拒否して切腹を命じられた。

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/07(火) 01:24:26.70 ID:ZTowUVxrO
>>73
武市先生が国事にかける気持ちの純粋さは容堂も佐幕派の上士達もよくわかっていたと思うよ
そういう人だったから党員の皆もあれだけ尽くしたんだろう

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/07(火) 05:12:13.70 ID:Lw/hzXrn0
開明派で容堂の信任厚かった東洋を暗殺すれば弾圧されて当然。
身から出たサビだね。後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎が
門下生だ。板垣退助も容堂の庇護下にあった。

76: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/07(火) 10:10:31.80 ID:VhmKLyPR0
>>75
板垣は東洋の私塾少林塾で後藤や岩崎と一緒に教わっているから東洋の門下生だよ。

84: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/08(水) 01:09:52.02 ID:1dgqHepMO
>>75
勤王党が東洋暗殺したから弾圧されて当然という理屈がまかり通るならば、東洋も優秀だったがワンマンで無駄に敵が多かったから暗殺されて当然というになるな

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/08(水) 01:19:49.08 ID:5kUJWNUQ0
暗殺は問答無用の所があるからなあ。
勤王党は実際暗殺や天誅に関与して、しかも自白があったわけだし。

86: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/08(水) 07:38:22.03 ID:Fk3FRlGK0
武市投獄は禁門の政変後
武市切腹と勤王派弾圧は禁門の変と第一次長州征伐前
龍馬中岡に接触は第二次長州征伐後
土佐の一藩勤王は鳥羽伏見の後
暗殺と言うより容堂と土佐藩の保身と政治情勢の変化だよね

99: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/10(金) 00:21:16.31 ID:OjuKjeW9O
土佐藩が彼らを守ってあげれば龍馬や慎太郎は死なずに済んだかも。
田中顕助が言ってた、長州は助けてくれたのに土佐藩は冷たかったって。

101: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/10(金) 11:41:43.66 ID:VWb2A3TQO
ある所で武市捕縛を
「逮捕」と言うべきか「投獄」と言うべきかで少し揉めてるんだが、
どっちが正しいのよ?

102: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/10(金) 13:20:47.30 ID:YROebv8B0
捕縛でいいじゃんw

103: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/10(金) 14:00:45.35 ID:q+fZfKkM0
捕縛じゃないでしょ。お縄にはなってないから。
取り調べだって座敷に通されて畳の上で質疑したくらいなので。

逮捕というのは、身柄を確保すること、
投獄は、確保した身柄を獄に入れてその後も拘束すること。
だからどちらも正しいのでは?

105: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/11(土) 16:47:09.41 ID:LC81Sv5pO
横田氏は瑞山の事を「革命家にはなれなかった人」とも言ってたな。

106: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/11(土) 17:56:46.55 ID:+WeBHGZ50
幕府が天皇の命令をないがしろにするのを正させ、
彼らの主君・容堂の汚名を晴らすのが勤王党結成の目的だったからな。
よく勘違いされてるが武市さんは倒幕派ではなかったし。
ただ土佐藩の維新志士を育て、他藩との連携基盤を築き、
薩長同盟や王政復古という形で武市さんの目指していたことは実現したのだから
龍馬達との連携プレーの勝利ということになるのではないかな。

107: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/11(土) 18:37:55.07 ID:ZWPnKIBa0
山内民部に対し薩長が勤王を唱へ討幕論を決したから遅れるなと言ってるし討幕論者だろ?
少なくとも幕府があくまで抵抗するなら討幕も排除せずだろう、立場も公武合体の薩摩より急進的な長州と歩調合せてる
土佐藩には家臣としての忠誠心あったけど、徳川に大して陪臣だから忠誠心持つ必要もない
三藩入京なんて幕府に対する政治クーデターみたいな物で、徳川安泰時代だったら藩は即討伐か取り潰しもの
今日なら一部の軍隊率い天皇の下に集まり、勝手に朝廷政権作って日本政府に命令出すようなもんで

108: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/11(土) 23:44:01.50 ID:srdGM2yKO
うーん。でも実際に武市が仲良かったのは長州の久坂ではなく、薩摩の村井修理だしな
久坂ら長州と仲が良く、家茂暗殺まで企んだりする平井はあきらかに倒幕派だったが、武市は違うんじゃない?
他の勤王党員が長州と歩調合わして倒幕思考だったから、武市までそうだと勘違いされてるんだよね
武市は、薩摩と長州のバランスが崩れないように頑張ってて、どっち派でも無いのに

112: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/12(日) 12:18:16.53 ID:ihnKNYIv0
三藩入京で武市らが提出し朝廷が幕府に突きつけた改革の建白書

畿内を朝廷の直轄領とし、親兵を置く
参勤交代制の廃止
王政復古

この通りだと徳川は一諸侯の地位に転落し幕府は倒れて自然倒幕になる
後の大政奉還と王政復古の大号令と明治の近衛軍設置と同じ
幕府は参勤交代の廃止は飲んだが、親兵設置はあくまで拒否してる

山内民部近習 生原重周 覚書

一日 武市先生 予の家に来たりて 時大いに迫る 薩長 夙に勤王を唱ヘ 遂に討幕の論 既に決す
我が藩 時機失うべからず

これを見ても長州や薩摩の志士と交わり倒幕論自体は出てた
しかも倒幕論に否定的でなくそれを持って土佐藩が薩長に遅れないよう言ってる
そもそも武市が倒幕を否定する理由がない

113: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/12(日) 12:44:07.32 ID:QSEYHa/e0
「この日本国には天子様があってその下に将軍があり、将軍の下に大名があり、大名の
下に家老・士とつづいている。
天子様は伊勢神宮と先代の帝に忠孝を尽くし、家老・士はそれぞれの主人の大名への忠義を
尽くすわけで、我々は藩主が天子様へ忠義を尽くされるようにと思って、国の美名が天下に
輝くよう国のために働くことが、即ち藩主と天子様への忠義である。
先祖と両親の恩を忘れ家を絶やし、脱藩するとは、その不忠不幸より勝った忠義などどんな知恵が
ある人にもできないものだ」
これは武市の考えがよくあらわされている。尊王はそれぞれが自分の上の者に忠義を尽くすこと
だと言っている。
武市は幕藩体制の否定はしてないが、あのまま生きてれば倒幕になるだろそりゃ。

115: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/12(日) 13:23:28.71 ID:ihnKNYIv0
武市の考えというか古典的時代からある武士一般倫理の考えだろ
鎌倉時代からの武士の倫理観として、自分を扶持する直接の主君に対して忠誠心が求められる
武市の立場からすれば容堂に対しては忠誠心が要求される
武市の思想からすれば勤王こそが土佐藩の為になるって考えだから矛盾してない

天子様があってその下に将軍がありは明らかに今までの武士にはない観念的な革命思想で
天子様が将軍の上にあるという思想で、始めて現秩序の幕藩体制や将軍を否定できる
武市にしろ高杉にしろ西郷にしろ尊攘倒幕と武士としての倫理忠誠心はなんら矛盾してないわけで

明治後に西郷や大久保が苦にしたのは廃藩置県によって久光から不忠者と言われつづけた事で
徳川将軍に対してはそういう倫理的な感傷はない
薩摩武士は将軍なんかより俺らの殿様のが上の存在と思ってたような臭いあるし

116: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/12(日) 15:12:09.92 ID:0XyLh6IfO
>>115
武市らって容堂に忠誠誓ってたか?
民部には忠誠誓ってたのかもしれないけど、容堂に対しては不愉快にさせるような事ばかりやってたじゃん
平井、間崎、弘瀬はよりによって容堂と仲が最悪な豊資に擦り寄って藩政改革を企んで切腹になったし
以蔵らは、死体投げ込んで容堂脅迫してるし、
こりゃあ容堂も勤王党弾圧するよな

117: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/12(日) 18:45:25.63 ID:beBawJRY0
>>116
誓ってたよ。
彼らにとって吉田東洋や安政の大獄関係者は斬らねばならない佞臣&君側の奸だったワケ。

血盟文に
かしこくも我が老公、夙に此事を憂い玉いて、有司の人々に言い争い玉えども、却てその為めに罪を得玉いぬ、
斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉いぬる、君辱かしめを受る時は臣死すと
とか
上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払はんとす
とも書いてある。
容堂が安政の大獄に連座して謹慎・桜田門外の変あたりの時勢を考慮に入れると別に不自然ではない。
しかしこの盟約文じっくり読むと色々な解釈が出来る表現が盛り込んであって面白いね。

122: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/12(日) 22:56:52.11 ID:0XyLh6IfO
>>117
安政の大獄関係者はわかるけど、何故東洋?
東洋だって容堂守るため、力を蓄え藩を強くする改革してただけじゃないの

123: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/13(月) 06:32:31.65 ID:w0j2Jrgw0
>>122
過激な尊攘派からしてみれば東洋は幕府に阿る佞臣なんだよ。
梅屋敷事件なんかで揉めてる所をみると彼らは容堂を尊皇攘夷派だと認識していたようだ。
勿論容堂も尊皇心は持っているだろうがそれ以上に佐幕派なんだが。
東洋にも書生風の意見といわれているが、要するに下士は政治に関しては万年野党で、その分過激なんだ。

124: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/13(月) 11:32:56.69 ID:eCGbNvjb0
容堂は江戸詰め経験者で、切れ者として有名だったくらいなので、
幕臣に対しては上から目線だし、御三家にも堂々と意見を言っている。
だから尊攘派が頼りにして当然。結局尊攘運動は雄藩頼りなんだから。

もう少し事態が進むのが遅れたら、長州諸隊や海援隊、陸援隊のような
グループが力を付けて、状況を左右するようになったと思うが。
まあこれは東洋的な策だから、勤皇党らしくないが。

128: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/14(火) 07:25:47.85 ID:Vr9v6OjB0
違勅開国、安政の大獄に次いで、和宮問題で天下の有志は激怒し、薩摩、長州、土佐、水戸、越前らの急進的志士は密かに倒幕攘夷を進めてた。
兵を二つに分け、江戸城に火を放ち将軍らに砲をあびせ佐幕派大官を斬り、
一方は箱根の天嶮に伏せ和宮の御輿を奪い、佐幕派の兵を迎えて戦い江戸の一手と呼応するという策を企てた。
それで武市に誘いが来る。
武市は容易ならぬ大事と、江戸で薩長ら有志と会い、諸君らの義挙は当然の事で私も賛成する者ではあるが、忌憚なく言えば動機と理想は良いが時機と方法が良くない。
また幕府が衰えたと言っても、まだまだ力があり公武佐幕の諸藩もある。
もし軽挙して敗れればどうなるかと、必勝を期する準備がないと指摘した。

樺山らが土佐の武市どのは賛成してくれると聞いたから通知したのに、我らが暴虎の勇とすれば如何なる策あるかと詰め寄った。
武市は夫は勤王、妻は佐幕、子は攘夷ではどうにもならない、
一家の主義主張を定め、一藩の方針を確立し、一藩勤王となり、藩主を報じ京に上洛し、三藩が連合して大勢を動かし公武合体の佐幕論・幕府に対抗できると、
始めて三藩挙藩勤王による入京と三藩連合を提唱し、倒幕挙兵の議を中止させ、暫く幕府の模様を見つつ、各々が自藩を統一して連絡を取りあい藩主を奉じ上洛するとなった。

所が提唱した土佐藩自体が薩長に上洛が遅れ、東洋が頑なに佐幕論を唱えた為に最終的に武市も暗殺手段を決断する事となった。

129: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/14(火) 07:45:51.69 ID:J8qvt3paO
それが本当なら、武市は東洋の命一つで、過激派攘夷志士達から江戸を守ったって事になるんじゃ…?
この事を東洋に相談すれば良かったのに

130: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/14(火) 07:51:57.49 ID:J8qvt3paO
まぁ、裏を返せば、実現できないような無謀な策を立てた武市って頭悪いのか?って事にもなるのかもしれんが

131: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/14(火) 07:56:17.82 ID:Vr9v6OjB0
東洋暗殺によって実現したではないか
武市の考えは次いだ連中が実行し結局明治維新で達成されたし

132: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/14(火) 08:10:00.12 ID:J8qvt3paO
>>131
ごめん。東洋を暗殺しなければ実現できないような策を立てる武市ってアホなの?って事ね
そのせいで後々弾圧されるような事態になってるし
過激派の暴走に困った武市が、代わりに策を立てて誰も被害を出さずに上手く行った例といえば、岩倉具視暗殺を止めるため、久坂達に出した断スト案かな
こういうエピソードを知ると、武市さんって世間での暗殺ヒャハーwwwなイメージと違って、かなりの穏健派だということがわかるね

135: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/14(火) 09:16:30.80 ID:Vr9v6OjB0
武市は動機と理想に賛同してるんで
単純にわが身大事で穏便第一の事なかれ主義からくるでなく、その英気にさらなる目標と方向性を与え発展させたわけで
東洋を殺さなくても済むようなもっと良い案なんてのは当時無いし
現に東洋一人を除いただけで土佐の政治情勢は変転し上洛できてるわけで
自分は手を汚さずに犠牲にもならずに座って世が変わるなんて当時の少なくとも志士は思ってないし
武市と勤王党は政治情勢の変化で弾圧されたが、政治情勢の再びの変化で勤王党の生き残りの龍馬や中岡に接触してくるし
最終的には薩長に遅れながらも一藩勤王を達成し戊辰戦争で功績挙げてる


152: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/18(土) 17:52:08.01 ID:gIEGyuKHO
脱藩したり暗殺事件に関わった事で
吉村虎太郎や岡田以蔵、吉田東洋暗殺の実行者等が
血盟書から名前を削られたりする中、
坂本龍馬は(短期間で勤王党を辞め、武市と袂を分かった…とか言われるのに)
血盟書から名前を削られる事が無かったのには、何か特別な意味はあるのかね?

153: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/18(土) 19:49:11.86 ID:STq/jX8Q0
龍馬は別に勤王党辞めてないだろう
龍馬が脱藩したのは吉村と同じ薩摩の倒幕攘夷に参加する為
脱藩して伏見についた頃には既に寺田屋事件後で終わってた
脱藩した後も普通に勤王党と協力し合ってる
吉村や那須らは天誅組で挙兵して幕府に討伐されたからな

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/18(土) 20:06:43.91 ID:hLN1OCt9O
そもそも、武市と仲違いして脱藩とかは、龍馬信者が龍馬ageのためにそう思っていたいだけで、実際は違うからな
龍馬は勤王党脱藩支部みたいなもんだった訳
武市も龍馬と敵になったとか別に思ってなかったし、別に迷惑かけられた訳じゃないから、 血判状からも抜く必要なかった。
ただ、吉村とか岡田とかは過激行動で勤王党に迷惑かけたから、容堂に見せなくてはならなくなった時に、血判状から抹消されただけ

155: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/18(土) 21:04:06.37 ID:STq/jX8Q0
龍馬はよく発案者の様に描かれるが別にアイディアマンじゃなく
優れてたのは度量の広さと魅力、ずば抜けた行動力と度胸
薩長同盟も最期局面を龍馬が担当したって事だし
大政奉還なんかも文久の時点で既に幕臣の大久保が唱えてる

161: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/25(土) 02:26:25.04 ID:GhP4sBOO0
武市さんの提案した三藩主入京で
それまで権威に過ぎなかった朝廷が権力を持ってしまったわけですよね。
軍を持つ≒権力を持つって事だし。
計算ずくの深謀遠慮なのか正論を押し通したら結果がついて来たのか…。

168: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/26(日) 23:41:46.09 ID:zLWDh+bu0
>>161
薩摩がとっくの昔に構想していた。
斉彬が死ななければ実現していた。

169: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/27(月) 01:10:50.43 ID:X8m0qLDo0
>>168
んでその辺を実行に移したのが武市半平太達だったという事だな。
島津久光が似たような事やろうとしてる最中
寺田屋事件勃発→吉村虎太郎は強制送還、坂本龍馬はアテが外れてしばらく放浪する羽目になったが。

173: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/27(月) 12:11:32.66 ID:rV4ysZz80
>>169
いや、薩摩は土佐藩の事情、志士は無視。
京都薩摩藩邸にはシンパがいたけどお国では傍流で。
この辺は長州と随分事情が違う。

174: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/27(月) 13:33:26.26 ID:+dCwTXcjO
>>173
そりゃ久光が他藩の末端志士の顔色伺う訳無いだろw
まあこの様に一人が倒れても引き継いでくれる人間がいるってところが連携・連帯の力って事だな。
藩を超えた連携の重要性は瑞山が一貫して説いていた事でもある。

引用元: ・武市瑞山&土佐勤王党について3






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