413khUGVFKL



1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/05(火) 23:43:43 ID:PDrdmzPV0
語りましょう。。。








2: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/06(水) 00:30:38 ID:vKHvFLUz0
江藤新平は斬首さらし首にされた上、さらし首の写真を取られて全国に
掲載された。

3: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/06(水) 05:41:56 ID:Ck11POg50
明治初期の磔の写真。。。

http://ja.wikipedia.org/wiki/磔になっている壮吉
閲覧注意

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/10(日) 14:31:44 ID:kY3q6RR+0
>>3
有名な横浜戸部のくらやみ坂刑場の写真の一枚。
磔と獄門台のさらし首がいっしょに写されてる貴重な史料ですね!

撮影者はベアトともダローサ氏とも言われてるし
撮影年は明治2年とも慶応3年とも言われてる。
長野の刑場説があるのは罪人の出身地から来たのかな?

壮吉の名前はハッキリわかってるのにそれ以外の史実は詳細不明。

う~ん...当時の捨札とか判決状とか残ってないのかなあ?
詳しく知ってる方いませんか?

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/11(月) 04:24:44 ID:jpwsaf59O
えっ この磔の写真に晒し首も写ってるの?
写真の解像度が低くて晒し首が見つからないんだけど、どの辺に写ってますか?

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/11(月) 10:21:51 ID:FJ4ObZHS0
>>16
説明不足ですいませんm(_ _)m。
この正面から壮吉の磔を撮影した写真自体にはさらし首は写ってないよ。
“くらやみ坂刑場”の写真は現在3枚の現存が確認されていて、この磔
の写真はその3枚のうちの1枚。
あとの2枚にはさらし首もみごとに写ってます。

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/03/01(土) 22:56:14 ID:+W09+7Gd0
>>15
The servant Sokichi, crucified at the age of 25 for killing Nikisasuro, son of his master Nuiske in the village of Kiso.
http://community.livejournal.com/vintagephoto/612116.html
※リンク切れ

場所は不明だが東信だとすると、小諸城下の町はずれあたりかと思われる。
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=2980

木曽だとすると木曽福島の八沢刑場、小諸だとすると唐松刑場。

42: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/03/05(水) 23:18:12 ID:1HOOjYFX0
>>39
「奉公人(質屋の番頭?)の壮吉は木曽村にて主人ヌイスケの息子ニキサスロウを殺害したため、25才で磔にされた」

木曽村で事件を起こした壮吉は、なぜ横浜のくらやみ坂で
お仕置を受けたんだろう??

252: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/02(木) 06:44:17 ID:ag43bz/vO
磔にされた荘吉の人生が気になる
貧しい家の次男か三男で奉公に出て、いずれ賭博とかするようになり金に困り強盗と組んで奉公先を襲っちゃったのかな?

256: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/05(日) 19:28:18 ID:yhtqyAWY0
写真にある明治二年の横浜暗闇坂御仕置場で壮吉の磔の執行に使用された非人槍や獄門に処された盗賊一味の斬首に用いられた刀が戸部監獄から東大法学部に移管されたらしい話があるけど、一般公開はされないんかな?
資料的価値が高そうなんだけどな。

258: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/09(木) 15:06:46 ID:u0TIeOcGO
『町田市史』下巻に、この壮吉の件と思われる事件が紹介されていました。内容は、武州木曽村で質屋を兼業していた庄屋、縫殿助の奉公人だった惣吉が、慶応四年の六月に主人の金を持って使いに出たまま逐電、

259: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/09(木) 15:08:36 ID:u0TIeOcGO
その後無宿人某と組んで押し込み強盗となり、現在の町田~横浜北部あたりを荒らし回っていたが、元の主人だった縫殿助の家に押し入ったとき、

260: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/09(木) 15:09:35 ID:u0TIeOcGO
寝ていた主人の子供が泣き出したためとっさに殺してしまい、逃げ出したが後に2人とも捕まり、主家殺しのため明治二年に磔(共犯者の方は強盗だけのため死罪)になったというものです。典拠は『神奈川県史料3』との事。

261: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/09(木) 21:24:45 ID:V8DT3/Bd0
>>258~259のu0TleOcGOさん、ありがとうございます!
いままでにない新証言でほんとに貴重っすね。
壮吉のかかわった事件の詳細がこれほどまでに詳しいのは初め
てです。
当時の捨札とか残ってないかなあと思っていましたが、木曽な
のになぜ横浜で処刑されたのかとかの謎もu0TleOcGOさんの御意
見で納得できました。それに英字資料によると殺害された主人は
Nuiskeという人物だったらしいので、その縫殿助(ぬいでんすけ?)
さんというのとも一致しそうですよね。
ほぼ「壮吉事件」の史料とみて間違いかもしれません。

壮吉はほんとは“惣吉”が正しい表記なんでしょうか?

263: 258 投稿日:2009/04/09(木) 22:19:47 ID:u0TIeOcGO
>>261
『町田市史』が今手元にないのですが、記憶では「惣吉」でした(曖昧な話で申し訳ありません)。これについては今週末にでも図書館で確認したいと思います。またその時に『神奈川県史料』も見てきたいと思います。取り調べの調書か、判決分が載っているかも知れませんので。

269: 258 投稿日:2009/04/11(土) 23:17:55 ID:TD/0Mqu6O
『町田市史』下巻と『神奈川県史料』第三巻を確認してきました。
表記はどちらも「惣吉」となっており、これが正しい表記だったと思われます。
また「縫殿助」はググったところ、「ヌイノスケ」と読むようです。

270: 258 投稿日:2009/04/11(土) 23:19:27 ID:TD/0Mqu6O
このうち、『神奈川県史料』第三巻のほうにはこの惣吉の事件について、刑事事件や報奨を扱った「刑賞 刑 明治二年」の項に事件の吟味書、事件の概要と裁判結果を記した「罪案」などが収録されていました。
これらによれば、惣吉は明治二年当時二十二歳、共犯者の銀次郎は二十七歳で、2人が入牢したのが明治二年の六月二十七日、神奈川県知事がこの2人の処刑を東京刑官に上申したのが七月で、この頃処刑されたものと思われます。

271: 258 投稿日:2009/04/11(土) 23:23:26 ID:TD/0Mqu6O
また『町田市史』の方は『神奈川県史料』の内容を再構成したものです。
これらの資料を確認したところ、前回の内容に一部誤りがあり、また追加点などもありましたので、前回の内容と重複しますが、『町田市史』の該当部分を改めて引用したいと思います。
記憶違いで誤った情報を書いてしまい申し訳ありませんでした。少し長くなりますが、どうかご容赦ください。

272: 258 投稿日:2009/04/11(土) 23:25:30 ID:TD/0Mqu6O
『町田市史 下巻』(1976初版)P6~7より
…同じ明治二年にもっと非道な事件が起こった。
組合村寄場名主木曽村の縫殿助の家に相州中里村伝左衛門の倅惣吉が慶応元年三月より奉公人として住んでいた。慶応四年三月、惣吉は縫殿助の使いで十五両を両替にいく途中逐電した。
のち惣吉は押し込みを企てて脇差を求め、同年三月十一日夜、中里村大応寺へ押し込み、抜刀して「声を立てれば斬り殺す」とおどして金子四○両、銭八貫文、衣類七点を奪った。

273: 258 投稿日:2009/04/11(土) 23:27:08 ID:TD/0Mqu6O
大応寺押し込みを手はじめに相州で四件の押し込みを働いた。
惣吉は元の主人、木曽村の縫殿助がたくわえのあるのを知っていたので縫殿助宅への押し込みをはかった。
たまたま、中里村無宿銀次郎と出会い、ともに押し込みをすることにした。
慶応四年六月十六日、二人は抜刀して縫殿助宅へ押し込み、勝手知った寝所へはいって蚊帳の釣手を切り落とした。

274: 258 投稿日:2009/04/11(土) 23:28:40 ID:TD/0Mqu6O
縫殿助は驚いて蚊帳から外へ逃げたが、縫殿助の倅造酒三郎(ミキサブロウ)は蚊帳よりはい出したものの、恐怖のあまり父を呼び泣声を出したため、惣吉は持っていた脇差で造酒三郎を殺してしまった。
惣吉は泣声を出され気が動転して咄嗟に殺したのだが主家の子殺しという大罪を犯した。

275: 258 投稿日:2009/04/11(土) 23:29:55 ID:TD/0Mqu6O
縫殿助が「人殺し」と叫んだのを聞いた惣吉は、さらに悪心を起こして金子貸付控帳一冊、反物二反、衣類などを奪い、逃走中に金子貸付控帳を川に投げ捨てたという。
二人は金子七三両一分、銭一二一貫五○○文を奪い、そのほとんどを酒食に費やした。
のち、二人は召し捕られ、惣吉は磔に、銀次郎は刎首(はねくび)となった(『神奈川県史料』第三巻)。

276: 261 投稿日:2009/04/12(日) 09:56:43 ID:Q7JIfI/r0
258さん、お疲れさまです!本当にありがとうございます!
そしてお忙しい中、お手数をお懸けしてすみませんm(_ _)m。

壮吉は実は“惣吉”だったんですね!
“木曽村”は信州じゃなくて、武州の木曽村だったこと、
そして惣吉は相模國の出身で、年齢も17才、22才、23才、
25才と諸説ありましたが、22才と判明。
無宿人銀次郎というのは、写真左側三つの獄門台のうち真ん中
かな? 惣吉と同郷のようなので昔馴染みだったんでしょうか?
それにしても、読めば読むほど惣吉はスゴかったんですね!
『神奈川県史料』に収載されるくらいだから、当時も大事件とし
て注目されたんでしょうね。

「惣吉事件」は興味が尽きません。
『幕末 維新の暗号』のような感じで、維新前後の犯罪ノンフィク
ションとして惣吉の本が出版されたら絶対買いたくなると思います。

事件の詳細を知ったうえで、改めて横浜くらやみ坂刑場の写真を見
てみると、また全然気持ちが変わってきますね。

279: 258 投稿日:2009/04/14(火) 23:34:06 ID:jM0qkeasO
>>276
情報をまとめて頂き、ありがとうございます。

いま改めて『神奈川県史料』を読んでいるのですが、史料を見た所では、獄門の場合は『梟首』(明治三年以降は梟示)、打ち首のみの場合は『刎首』(明治三年以降は斬罪)と分けて書いているので、どうも獄門の写真の中に銀次郎は入っていないようです。

それなら、写真に写っている晒し首はどのような事件のものかという事になりますが、この点について、『史料』を見て、また何かあったら書き込みたいと思います。

また、資料にはこの2人が知り合いだったとは書かれていませんでした。ただ、惣吉は逐電した後、自分の出身地である相州の中里村方面に向かったようなので、おそらく、そこでたまたま旧知の銀次郎と出会ったのでしょう。

283: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/15(水) 03:50:01 ID:fEiwGd4q0
一瞬
「惣吉事件について語れ」というスレなのかと思ったよ

100年たっても語られる惣吉
無残な姿を写真にとられた惣吉
貴重な資料としてずっと見られる惣吉
時々怖いもの見たさで見られる惣吉
下半身が見えそうで見えない惣吉

284: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/15(水) 09:49:41 ID:RJ9dRh7r0
やっぱ縫殿助は惣吉の処刑を見に来てたのかな?
息子が殺された訳だし…

287: 276 投稿日:2009/04/16(木) 21:49:57 ID:aTVu0RCX0
>>284
見に行った可能性はありますね。ただ、息子殺しとはいえ奉公
人として以前住み込んでいた若者ですからね・・・いずれにし
ても無残というか・・・うーん、何とも言えない心持ちになり
ます。

285: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/15(水) 19:23:20 ID:/Ldl5fIBO
磔の刑では遺体は埋葬されずにその場に捨てられたり穴を掘って捨てたという
惣吉の遺体はまだ刑場の跡地の地中にあるのだろうか?
それとも野犬や動物に食べられたのだろうか?

287: 276 投稿日:2009/04/16(木) 21:49:57 ID:aTVu0RCX0
>>285
刑場の跡地といえば、くらやみ坂刑場は坂の一番上の三角地に
あったそうですよ。

286: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/16(木) 20:26:09 ID:x1axo4ea0
惣吉は歴史に名を残して本望だったろう。
それ以前の日本での磔で処刑された無名の人達なんか
何億人もいるだろうに。
4: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/06(水) 14:45:44 ID:yv37HfX3O
磔と晒し首はどっちが罪が重いの?

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/06(水) 16:41:39 ID:vKHvFLUz0
>>4
「盗賊団は斬首の上で獄門に処せられたが、壮吉は主人殺しの重罪で
あったため、1人だけ磔にされたものである。」

とあるから、磔の方が罪が重いと思われる。

蛇足だが、市川三左衛門は逆さ磔にされた。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/13(水) 02:04:01 ID:xElqbq7o0
幕末、明治初期は140年前だけど、こういった鮮明な写真見ると
現代と大して変らないよな。
白黒写真だけど、当然実物はカラーなんだし。

世の中グローバルだとかITユビキタス社会なんて言っても、
そっちの方がバーチャルで変な世界かもしれん・・・

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/13(水) 03:42:35 ID:ojrg6Dj90
磔の刑って凄いですね。
市中引き回しにした後に磔にして槍で突く。2~3回で絶命するそうだが30回も突いて、死体を見せしめに残しておくなんて…
この写真の壮吉も同じような処刑をされたのかな…
でも明治だからちょっと違うのかも…

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/16(土) 16:20:58 ID:lihGW9y00
>>20
壮吉の場合は30回も突かれたようには見えないけど、
確実にとどめの槍としてノドを突かれてるようにみえるね。
市中引き回しもされたんじゃないのかなあ。。
明治2年だとすれば、まだ旧幕時代の刑法を準用してた頃で
主や親殺しに対する磔の刑は存続してたみたいです。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/16(土) 05:15:22 ID:2089s63LO
晒し首は晒されたあとはどうなるの?
どこかの寺に埋葬してもらえるの?

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/16(土) 16:20:58 ID:lihGW9y00
>>21
晒されたあとは“取り捨て”らしいです。
刑場のすみに放り投げられて軽く土を振りかける程度だったんでは…

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/16(土) 22:11:53 ID:4GcobR1k0
死体の始末はそこらへんの動物達だったと本に書かれていたのですが
実際どうなのでしょう・・

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/21(木) 21:23:31 ID:kC2EKQzr0
刑死体の屍肉を喰らいに刑場には野良犬が集まったらしい。
近くを通りかかった人にまで牙をむくようになって危険だ
ということで、幕府や藩が鉄砲隊を編成して何度か野犬打
ち払いまでやったそうです

当時のオシヲキ場は
それだけ動物たちが遺体を食べやすかった状況だったんでしょう

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/22(金) 07:31:19 ID:/TJcAu0p0
山田浅右衛門って今考えると凄い職業だな

山田 浅右衛門

山田 浅右衛門(やまだ あさえもん)は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称。ただし、歴代当主には「朝右衛門」を名乗った人物もいる。死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。


30: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/23(土) 13:15:12 ID:v3+Oewfv0
明治でも中期の自由民権関係者がバンバン処刑された頃までは
関係者が絞首刑を見学できたんだよな。

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/23(土) 13:29:00 ID:UtcAoF9t0
この頃は冤罪多そうだな…

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/23(土) 15:18:32 ID:EnuvZn5RO
多いだろうね…
科学的な捜査なんか無い時代だから、決めつけられたら終わりだろうね…

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/26(火) 22:56:42 ID:fir3m5Pv0
拷問=新撰組だろ
古高俊太郎の拷問は酷かったらしい

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/28(木) 04:59:44 ID:a83PjmSnO
古高は足を五寸釘で打ち抜かれたりしたんでしょ
恐ろしい…

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/03/15(土) 05:00:52 ID:7aL0Bgk40
池田屋事件の直前に不逞浪士が起こした主な暗殺事件。

文久2年
 7月 九条家諸太夫島田左近惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 8月 目明し文吉惨殺後晒し首 下手人は尊攘派不逞浪士
 8月 不逞浪士本間精一郎惨殺 尊攘派内の内ゲバ
 8月 九条家諸太夫宇郷玄蕃惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 10月 万里小路家家臣小西直紀惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 11月 金閣寺侍多田帯刀惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
文久3年
 1月 町役人林助惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 1月 千種家家臣賀川肇惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 2月 唐橋村庄屋宗助惨殺後晒し首 下手人は尊攘派不逞浪士
 2月 足利将軍木像晒し首 下手人は尊攘派不逞浪士
 3月 妙法寺寺役正淳・光淳惨殺後晒し首 下手人は尊攘派不逞浪士
 5月 儒家家里松嶹惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 5月 右近衛権少将姉小路公知惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 5月 徳大寺家家臣滋賀右馬允惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 6月 仏照寺弥助惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 7月 油商人八幡屋卯兵衛惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 7月 吉備津宮神官大藤幽叟惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 8月 生野銀山元締手代安福大次郎惨殺 下手人は尊攘派不逞浪士
 8月 西本願寺使用人松井中務惨殺後晒し首 下手人は尊攘派不逞浪士

65: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/04/13(日) 06:08:15 ID:MAvkS3CmO

江藤新平の首にもびびっちまった自分には
ここに貼ってある画像見れそうにないな…

71: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/04/22(火) 02:27:00 ID:l+FjFz7/0
江藤は生前の写真もあるだけに哀れというか可哀想に感じるよね

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/04/22(火) 14:04:04 ID:PVkmp/+J0
>>71
うん、司法卿として後進を育成し、指名手配の写真も彼が導入した。
その彼が指名手配に追われ、後進に裁かれた。その決断を下した
大久保は、西南の役も挟んで、最期に血を血で洗う内乱やテロを
自らの命で清算する事となったが、果たして良かったのか?

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/04/22(火) 17:01:23 ID:EksuiE1OO
江藤の写真、やっぱり生前と首じゃ顔違ったりする?

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/04/24(木) 01:43:26 ID:lh2TYnwx0
生前と顔は同じだけど、晒し首は無念というかそんな感じがするよ

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/04(日) 17:21:16 ID:vWkMS+4pO
鎌倉事件ってどんな事件なの?

80: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/04(日) 21:20:02 ID:SqwsPlfw0
>>79
元治元年(1864年)11月20日、江ノ島や大仏見物の途上にあった
2人の英国士官ボールドウィン少佐とバード中尉が、鎌倉鶴ヶ
岡八幡宮前の参道にさしかかったあたりで浪人風の侍に刀で斬
り殺された事件だよ。
幕府や神奈川奉行所の探索によって早い段階で容疑者2名を検
挙し、処刑。さらに主犯格とされている清水清次も後日逮捕さ
れ、同年12月28日、英国側の立ち会いのもと、横浜くらやみ坂
刑場で斬首。その首は吉田橋のたもとに3日間晒され、獄門と
相成り候。当時のその獄門の様子を、ベアトさんが写真撮影し
て残しています。

81: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/05(月) 03:13:37 ID:d4cKe6qQ0
>>80
詳しく説明してくれてありがとうございます
清水さんの晒し首はその時のだったんですね
しかも写真の解像度が当時にしては良いですよね

170: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/12/16(火) 07:14:57 ID:3ZAxEqkZO
鎌倉事件について調べてたら斬首された清水は犯人ではなく替え玉で処刑された可能性があるって書いてあって衝撃を受けた

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/14(水) 20:07:17 ID:pshc2jS40
首皮一枚てかなりの技術だよね

すご過ぎるわ

84: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/15(木) 04:16:16 ID:a+eFESMeO
首皮一枚ってことは首は地面には落ちないのかな?

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/15(木) 16:02:55 ID:9TzGw9440
>>84
首がふっ飛んで行かないように皮一枚残して膝の上に頭を落とすんだよ。
=抱き首
これって介錯の時の作法だから、斬首の時は関係ないんじゃないかな?

93: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/01(日) 22:11:26 ID:oYf2CUq1O
当時は無実なのに処刑された人はたくさんいる?

94: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/02(月) 13:35:24 ID:btORCWSn0
そりゃもう山ほど。

現代の刑事訴訟法下でも冤罪は絶えないんだから

112: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/09(水) 19:41:34 ID:0UdKKvni0
磔になった壮吉は、やっぱり十七才って説が正しいんじゃないかな?
身体付きや顔とか体毛の加減から見ると、二十代よりも若そう。
でも史実としてほんと貴重な写真。

113: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/09(水) 21:14:48 ID:nELAcIHw0
「壮吉はやっぱり十七才」
なんかドラマのタイトルになりそうだな

116: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/12(土) 00:51:20 ID:ifbNxc/k0
>>113
ウケたwww
何か青春を感じる
磔写真自体も貴重だけど、受刑者が当時の若者ってのも貴重だよな

115: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/11(金) 06:58:37 ID:uj1Y1FbX0
確かに壮吉は若く見える
けど20代のようにも見える

117: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/12(土) 01:06:31 ID:WYDjUIA30
壮吉の磔の写真は既に絶命した後の写真だよね?

118: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/13(日) 01:43:45 ID:KXQd5ck10
>>117
たぶん、そう思う。

119: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/13(日) 04:21:11 ID:e+5hfPmkO
磔はキの字で足も開くなんてこの写真を見るまでは知らなかった
てっきり十字架の形で足を開かずに磔にされるもんだと思ってたよ

147: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/26(金) 20:55:02 ID:89wsNKJh0
写真は、ずっと以前雑誌で見た。17歳の小僧であることはそのときは知らなかった。
江戸時代15歳までは、親類に預け15歳になって遠島にしたそうだ。
ただし、15歳とは今の15歳ではなくて「数え」のはずだから。15歳といえば現在の13歳何ヶ月で、中学1,2年生。
17歳の小僧は、今で言えば15歳何ヶ月のはずだから、高校1,2年位か。たぶん15になったばかりくらいか。
八百屋お七も17といって、火あぶりの刑となったという。

この小僧も同じようなものか、高校1,2年位で磔とは。昔の刑の年齢(多分数え)に行いて詳しい方教えてください。

148: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/11(土) 20:57:31 ID:H5P49ngS0
壮吉が腰にまとってるのはフンドシかな?

123: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/19(土) 07:09:27 ID:CQ/gsGdEO
昔、通ってた学校が南千住にあった
最近歴史に興味を持ったので今まで知らなかったんだけど、何も知らずに処刑場の前を毎日通ってた
吉田松陰もここで処刑されてたんだね…

128: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/23(水) 02:25:03 ID:QBAeWtwgO
埼玉県川口市で女子中学生が父親を殺害する事件が起きたけど、幕末だったら15才の女でも磔の刑になるのかな?

129: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/24(木) 13:53:00 ID:qHBDISm+0
八百屋お七のとこに書いてあったが、
15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと書いてあった。
尊属殺のできた明治時代以降ならまた違うんだろうが。

139: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/08(金) 09:38:41 ID:dRaBL9ib0
近藤勇は斬首されたが日本刀で首を落とすんだっけ?

140: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/08(金) 23:32:28 ID:+YktDdkv0
横倉喜創次って人が介錯したらしいけど見事人たちで落としたとさ。
彼はちなみに相良総三の首も落としている剣豪

141: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/10(日) 23:09:11 ID:GyEh97H/0
近藤もこの人なら首を落とされても悔いはないって思ったらしいね

143: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/14(木) 18:15:23 ID:tC8YTgUmO
近藤さんが処刑された場所は俺の地元の近く
昔は小川が流れてて馬捨て場になってたそうな
そういえば近藤さんの胴体と首の行方は所説あってはっきりしないんだよねえ

151: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/11/23(日) 16:08:17 ID:axKA+1lP0
幕末に南町奉行所与力だった方の古老話に参考になる証言が
あったよ!
はじめて磔の検死に出向かされたら、なんかの事件で12人ぐ
らいがまとめて磔柱に架けられててビビリまくったとか、非
人が磔にされた罪人めがけて突く槍の柄に、真ッ赤な血が伝
わり落ちる気味悪さだとか。
当時のお役人でも処刑自体は苦手だったみたいだね。
『戊辰物語』という本に書いてあったよ。

でも今年って磔・獄門の適用を考えたくなるような事件が多
いよな…。

152: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/11/23(日) 16:32:25 ID:0exzlnXCO
興味深い話だね!
庶民が興味本位で見物に来ると大抵の人が気分を悪くして帰るって俺も本で読んだ
斬首の時は普通に見てるらしいけど

153: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/11/24(月) 22:15:15 ID:5o81GLAb0
壮吉さんの処刑の写真自体はグロというより
この人にどんな人生があったのかなとか考えさせられます。
一瞬ギョッとなるけど人形のようなので、思ったより
不気味さを感じさせられません。
それより、明治時代これを旅行者用のお土産にされていたほうが
ゾッとさせられます。。つくづく西洋人に馬鹿にされていた。。ってか
人間以下って思われていたのでしょうね。。
ある意味現代も変わらないのか??

155: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/12/04(木) 07:26:58 ID:CxfV56icO
俺なら磔にされたら泣き叫ぶ自信あるぞ
槍で突かれたら断末魔の叫びをあげる自信もある

163: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/12/12(金) 04:44:40 ID:C36/WaX60
戦国ものの漫画見てたら5歳くらいの子供までもが磔にされ処刑されてたみたいに言われてたけどマジですか?

164: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/12/12(金) 07:14:36 ID:HdRJk9+iO
戦国ならありえる

江戸に入ってからは処刑される年齢が決まってたような気もする>お七の放火の事件

178: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/12/27(土) 23:16:40 ID:/RYUYMcC0
やっぱり今と違って、捜査も発達してないから見せしめ的なものが大きかったのかな
今の時代、殺人検挙率99.2%
異常としか言えない
江戸時代は殆どワカランのじゃねーの人殺してもさ 殺人検挙率0.2%とかじゃん?多分ね

180: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/12/29(月) 18:07:29 ID:M+jw3FQ70
都合が悪くなると死刑囚を身代わり犯人に仕立て処刑したという話も聞く
それに牢獄がいっぱいになると人数減らしの為に素行が悪い囚人は殺されたらしい

181: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/12/29(月) 20:19:56 ID:JEJp5oMrO
江戸、明治の拷問と処刑は何て恐ろしいんだ
無実なのに処刑された人が可哀想すぎる

182: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/12/30(火) 17:16:12 ID:Lt+xSBJ70
でも、ドコの国でもそんなモンじゃね?
誰かが『コイツが悪い!!』って声を上げて、皆んなが『そうじゃ!そうじゃ!』って応えれば
”ハイ吊し首が一丁出来上がりぃ”てなもんで。
だから、皆んな悪いことをするどころか、疑われるようなこともしちゃイケンよ・・ということを
心がけてたんじゃ?
ただ、ワシが聞いた範囲では江戸時代では死罪はそんなに多くなかったとか。 十両盗れば首が飛ぶ、
殺せば殺される、火をつければ火炙り・・・因果報応一罰百戒で犯罪抑止効果は抜群だったんじゃ。

186: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/01/13(火) 19:54:54 ID:tYufLn/F0
幕末、明治の晒し首や磔の遺体の写真を見て死とは何かを考える
そうするとしばらくは死にたいとは思わなくなる

187: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/01/14(水) 09:31:16 ID:AUYZ5VaP0
さぞ恐ろしかっただろう、痛かったろうな、苦しかったろうな・・・と思い、
あぁヤッパリ悪いことは止めとこうと云う気にもなる。

230: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/07(土) 13:05:15 ID:5YeYAPDs0
江藤新平は可哀想すぎる…

237: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/03/11(水) 01:22:56 ID:g6tf7X590
1864年11月21日にG.W.ボールドウィンとR.N.バードが鎌倉八幡宮前の路上で暗殺された。
犯人の一人清水清次は斬首の上晒首となった。場所は横浜戸部暗闇坂上の刑場。ベアト撮影。名刺写真。
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=3457

慶応4年(1868年)2月30日、イギリス公使ハリー・パークスが明治天皇に謁見するため宿所の知恩院から御所に向う途上、朱雀は同志三枝蓊と2人でパークス一行に斬り込んだ。
朱雀らはイギリス兵9人に負傷を負わせるが、一行の警備は厳重であり、朱雀はパークスに同行していた土佐藩参政後藤象二郎に斬殺され、三枝も重傷を負ったところを警備兵に捕縛され襲撃は失敗に終わる。
朱雀の首は、後日斬首された三枝の首と共に粟田口刑場に3日間晒され、その首の写真が残されている。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/hayashida.html
閲覧注意

「磔と首切り」(Crucifixion & Cut of the Head)すなわち明治初期の磔と晒首の情景である。外国人に向けた日本のお土産写真としてアルバムに収載されている。
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=2399

「壬申(明治4年)三月」の高札の年次が読めるが、これは神奈川裁判所が管内で起こった薬物を用いた殺人事件の犯人を晒首の情景である。この1枚は1876(明治6)年にスティルフリードが刊行したアルバムのなかに収載されている。
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=3927

明治7年(1874年)に佐賀の乱で逮捕、処刑された江藤新平の晒し首
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/etoukubi.html
閲覧注意

250: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/01(水) 11:39:56 ID:dHnEyPjD0
最後の斬首、高橋お伝はかなりの美人

高橋 お伝

高橋 お伝(たかはし おでん、本名:でん、嘉永3年(1850年) - 明治12年(1879年)1月31日)は、日本で最後に斬首刑に処せられた女囚とされる女性。

明治9年(1876年)8月 - 市太郎との生活で借財が重なり、古物商の後藤吉蔵に借金の相談をしたところ、愛人になるなら金を貸すと言われる。

 8月26日 - 吉蔵の申し出を受け入れ、東京・浅草蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で同衾した。しかし、翌日になって吉蔵が突然翻意し、金は貸せないと言い出したため、怒ったお伝は剃刀で喉を切って殺害。財布の中の金を奪って逃走する。
 9月9日 強盗殺人容疑で逮捕。

明治12年(1879年)1月31日 - 東京裁判所で死刑判決。市ヶ谷監獄で死刑執行。八代目山田浅右衛門の弟吉亮により、斬首刑に処された。お伝は日本で最後に打ち首となった女囚とされることが多いが、定かでない部分もある。


251: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/01(水) 21:52:27 ID:M8VAzadR0
お伝の嘘の供述は見事な話だよね
結局バレて斬首になってしまったが


288: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/17(金) 00:52:09 ID:ImazcE83O
今後、新たな幕末と明治の獄門や磔の古写真が出てくる可能性は少ないかな?

289: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/17(金) 22:35:17 ID:YynDjpnb0
日本で最後に女性で斬首刑になったのは高橋お伝で、執行は9代目山田浅右衛門が
行った。1879年のことだが、処刑が行われたのは市ヶ谷監獄内であり、この時代既に
公開処刑ではなかった。

フランスの斬首刑(ギロチン)の最後の公開処刑が1939年で、この映像は見る見ることが
できる。

引用元: ・幕末、明治の拷問と処刑について