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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/07(土) 22:17:14.77 ID:7RYx2AxF0
謎の多い西郷さん
ラストサムライだったのか、ただのデブだったのか








2: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/08(日) 00:37:59.42 ID:dNdDUlCU0
侍だから幼少期に体は鍛えられてるだろ
ご近所のただのデブとは違う

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/08(日) 11:42:16.12 ID:dNdDUlCU0
斉彬の懐刀として気に入られてたらしいからな
斉彬急逝の訃報を聞き殉死しようとしたが、月照の説得で思いとどまった

月照とはその後、錦江湾で自殺未遂を起こして西郷だけが生き残ってる
強運の持ち主なのか、それとも浮力があるから死ねなかっただけなのか…

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/08(日) 12:47:02.80 ID:3G9lFnCu0
その頃はまあ普通隊形だったようです。
デブったのは二度目の奄美(沖永良部島)配流の時。

奄美の一度目は入水後、身を隠す意味で奄美行きだったのですが、
・桜田門外の変で井伊直弼暗殺死
・島津久光の中央政策に、京都に知己のいる西郷が必要
ってことで呼び戻されました。

鹿児島に帰った途端、
「斉彬公は神様のようなお方なのに比べると、
三郎(久光)は田舎者だから、斉彬公と同じことをしようだなんて思い上がりもいいとこだね」と

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/08(日) 18:50:53.23 ID:zFgLHSp60
だが、沖永良部島から鹿児島に戻ったときはやせ細り、足も弱っていて歩けなかったらしい
となると、西郷がメタボを気にしだしたのは、その後の京都在住時ということになる

結局、久光とは最後まで仲が悪かったな
久光にしたら家臣にまでバカにされて屈辱だっただろう
いかんせん、兄が偉大すぎた

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/08(日) 20:33:57.09 ID:p9Xg8rZMO
西郷隆盛を評価する時問題になるのは、過剰なまでの彼の英雄伝説と、
信仰と表現するしかない、薩摩城下士の彼への賛同支持をどう扱うかということ。

実際、入水の時も西郷の言動は芝居がかっており、実社会で本気で役者を演じたようなふしもある。

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/08(日) 22:42:53.70 ID:hc9lFj9O0
>>9
定説となってる「信仰と表現するしかない・・・彼への賛同支持」自体が、
本当にそうだったか怪しい、英雄伝説の一部かも知れないわけだよ。

「西郷さんの人望買い」という言葉が残ってることからして、当時の人たち(薩摩人含む)は
けっこう覚めた目で西郷さんを見てたかもな。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/08(日) 22:59:51.88 ID:W4WJ9SJI0
写真すら残ってないから謎が多い人物だけど、実績や影響度を考えると無視できない存在だし…
確かに西郷の評価は難しいと思う

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/08(日) 23:15:50.45 ID:3G9lFnCu0
西郷隆盛の性格を言うと、人気取りが好き、大衆受けを狙うという、
現在の大衆政治家・テレビ政治家に近い部分が浮かんでくる。

出生は鹿児島市加治屋町、城下士としては下から二番目の下級武士の出ということになる。
子供の頃喧嘩の仲裁で右腕の腱を切られ、以後武芸は諦めたとのこと。
後ろで大人物然と振舞うことに神経を使い、城下士子弟の自治組織であった郷中の長となる。

この時期の伝説として伝わっているのは、
親戚であった赤山靱負が斉彬の藩主就任を工作し切腹させられた際、血染めの衣服を見て斉彬公の藩主就任を決意したとされるもの、
城山団地のところにあった寺で座禅を習ったということ、福昌寺に通って漢学を習ったということ、近思録の共同勉強会を開いて
後の薩摩藩西郷派というべき人物集団を形成したこと(精忠組)などが挙げられる。

城下士のリーダーであったこと、島津斉彬の藩主就任へ熱意を示していたことなどが評価され、島津斉彬の藩主就任と並行し、
西郷に薩摩藩江戸屋敷勤務及び庭方役(周旋工作員)就任が申し付けられる。彼の中央政界での経歴はここから始まる。

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/15(日) 12:43:37.26 ID:w4S/nLo30
熊本城下を焼き払ったし武力を背景に偽造通貨と無理矢理交換させたし反乱参加者以外の民間人にとっては極悪人だと思うよ。
戦後も政府は薩軍作成の偽造通貨と円を交換することはしなかったらしいし。

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/15(日) 20:02:06.27 ID:IVwLGLD40
鹿児島人でも西郷を冷めた目で見ている人は多いと思うけどな。
かといって郷土の英雄であることに変わりはないが。

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/15(日) 20:46:09.61 ID:L+06Lph70
問題点もありながら魅力のある人物で
福田和也も器量人として評価しているね

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/16(月) 01:33:47.09 ID:ohXoNR+R0
伊藤博文直話での伊藤の人物評は
大久保≧木戸>>>西郷、高杉

「西郷南洲は天稟の大度で、泰山の群峰を抜く趣があった。
そうして国を憂うる真情が深かった。徳望はさかんなものであったが
政治上の見識はというと、ちと人物より劣っていたかもしれぬ。
自分でも政府に立つことを嫌っていた。~略~
とにかく大人物であったが、むしろ創業の豪傑で、守成の人ではないようだった。」

まあ、大久保と木戸にはくっ付いてた時期があったし
明治政府を軌道に乗せる苦しみを共有したから
当然と言えば当然なんだけどね

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/16(月) 09:27:27.45 ID:9GaeYXy/0
討幕の原資になった奄美の大搾取もメディアでとりあげられることはほとんど無いね。
田舎の一藩にすぎない薩摩がなぜ最新武装の大軍を京に駐屯できたのか、
なぜ蒸気艦を幾艘も持てたのか、
不思議なことだらけなのに、幕末薩摩の飛躍を斉彬や西郷、大久保のマンパワーに帰趨させる上っつらの物語ばかり。

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/16(月) 23:54:23.31 ID:jFrXAESRO
>>36
ふつうに日本史で習うぞ
中学の歴史資料集にあったくらいだから
奄美搾取→薩摩雄藩化→倒幕は常識レベル

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/16(月) 18:16:05.73 ID:guWfnaTj0
倒幕後の具体的な国家建設プランを周囲に提示できなかったってのはよく言われるよね
だからわかりやすい征韓論に飛びついたんだろうけど

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/18(水) 11:55:05.37 ID:E3TZb88Ii
西郷は記号だから

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/19(木) 04:35:45.94 ID:i2jltHSC0
新時代を作ったトップだけど、本人は限りなく前時代的な性格
ラストサムライと言われる由縁

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/19(木) 07:57:02.31 ID:HDFNg69v0
49-50

 倒幕ではトップだったがその後の新時代には適応できなかった落ちこぼれだろ。

 蘭学をやっていたようには見えんしな。

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/19(木) 09:59:25.59 ID:mX5C0O7L0
>>51
蘭学は所詮、実学。西郷さんは君子の学問をしっかりと修めた偉人。
君子は器ならず。

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/19(木) 17:19:33.42 ID:xNXoL1ip0
西郷が実学を低く見ていたとすれば、君子どころかとんだ小人物だな

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/19(木) 17:38:19.82 ID:x0PLXOAP0
実学至上ならただの人
ここまで人を惹き付けることはなかったろう

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/19(木) 19:08:58.99 ID:x0PLXOAP0
低く見てはいないし低く見たらいけないが、至上でもないんだよ。
維新を担って死んでいったような人たちはね。
上に立つものがあったってこと。
ひたすら農工商をやっていれば死ぬことはなかった。

57: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/19(木) 19:11:16.17 ID:/bx3GmUA0
陽明学は君子の学問なんだろうか・・・
死ぬまで佐藤一斎の言志録を持ち歩いてたらしいけど

59: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/19(木) 22:01:24.15 ID:/dGNOLiC0
実学うんぬん以前に西郷は裃を着けて登城できる身分の侍ではない
侍(郷士)ではあったけれど最大で4人に1人は士格のあった薩摩藩
西郷は半農半士のような生活を送っていた。
農業とはすなわち実学、西郷がそれに無知であったわけがない。

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/20(金) 07:33:33.29 ID:+uLK0O1X0
西郷さんは郷士じゃなくて城下士

65: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/20(金) 05:27:13.34 ID:CJyug08N0
国家のトップが蘭学そのものを修めてどうするw
実学を修めたブレーンを周りに置けばいいだけの話
これ常識な

67: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/20(金) 08:47:10.00 ID:lTzeuSgQ0
>>65
西郷は、桐野みたいな情動的な人物たちを周りに置いたけどなw

つうか実学を極めた有能者は、君子論をぶつような無能者が嫌いだから、逃げていく
大村や大隈は西郷のエセ君子ぶりを見抜いて、相手にしなかった

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/20(金) 13:22:02.86 ID:JopBxSpd0
西郷を理解するには奄美大島、徳之島、沖永良部島と
道の島の島伝いに流された期間に重要な鍵がある。

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/20(金) 21:08:04.93 ID:CJyug08N0
てか、西郷の実像ってほんとわからんよ。
だいたいが司馬小説のイメージをそのまま受け継いでいるだけで。
だから実像を知りたいんじゃないの。

桐野にしたって司馬や池波正太郎の手にかかれば散々に書かれてるけど、
実物がどんな人物だったかなんて殆どわからんからね。
幕府のスパイを一人暗殺しただけで、人斬り半次郎に仕立て上げちゃうのが小説家。
もっとも司馬を全否定はしないが、俺は半信半疑のスタンス。

77: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/20(金) 22:05:14.39 ID:j17dZGs30
でも、あのタイプの人間(カリスマ性のある人)に対しては
ちょっと冷めた目線で引いて見る必要はあるよ
物凄く盛られてる可能性あるから
それは西郷に限らず、戦国時代の有名な武将とかにも言えるけど

82: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/21(土) 06:17:52.92 ID:VhTfCNVS0
西郷さんは清廉高潔無私至誠の人。明治政府高官の腐敗を憤り、
第二維新を目指して敗れた悲運の英雄。アジア解放の先駆者。

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/21(土) 11:40:36.93 ID:LJCh/0Ht0
征韓論とか帝国主義そのものじゃん

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/21(土) 14:03:20.76 ID:VhTfCNVS0
>>83
朝鮮を開国させて日清韓同盟でで欧米の侵略に対抗しようとした西郷さんの
戦略が大久保や木戸や大隈には理解できなかった。

84: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/21(土) 12:18:25.52 ID:4NrGVhNm0
帝国主義も征韓論もべつにいいよ。
批判すべきは、勝算無いのに、行動することに価値がある、みたいな精神性だろ。
太平洋戦争でそれやって負けて、現代の我々は敗戦国という十字架背負わされている。
その源流が西郷と鹿児島士族にあると思うと、
今どき西郷祭り上げてる信者はキモいなんて言葉じゃ表せないぐらいキモい。

90: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/21(土) 22:02:39.68 ID:w1agMJdf0
>>84
太平洋戦争おっ始めたのは東条しかり山本しかり米内しかり東北人だろ
西南戦争の時の西郷隆盛は郷土極右みたいな少壮薩摩人らに担がれただけ
半ば独立国状態のようになってしまっていた原因の一翼を担ってしまったことは否めないが

92: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/22(日) 03:27:52.11 ID:WF1SPi0z0
西郷さんを死なせたのは薩摩ナショナリズムに染まりすぎた人々なんだよ
晋どん、もうここらでよか…てのは義理も果たせただろうとかそういう意味でしょ
延岡で包囲されたとき死ぬつもりだったけど突破して鹿児島に戻るのを承諾したのはやっぱり最後に故郷に帰って死にたかったんだろうね

109: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/24(火) 09:51:29.86 ID:m0AKBT+p0
あれは一種お祭り的なノリで始めた鹿児島士族のための戦争だな
鹿児島にいても暇だし、いっちょ東京で調子づいてる同郷人を殴りに行こうぜ~みたいなw

実際、政府側の鹿児島人たちは故郷の反乱が恐かったと思う

121: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/28(土) 12:01:00.28 ID:3fPlOagE0
一掛け 二掛けで 三掛けて
四掛けて 五掛けて 橋を架け
橋の欄干 手を腰に
はるか彼方を 眺むれば
十七八の 姉さんが
花と線香を 手に持って
もしもし姉さん どこ行くの
私は九州 鹿児島の
西郷隆盛 娘です
明治十年の 戦役に
切腹なさった 父上の
お墓詣りに 参ります
お墓の前で 手を合わせ
南無阿弥陀仏と 拝みます
お墓の前には 魂が
ふうわりふわりと ジャンケンポン

122: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/28(土) 13:07:50.66 ID:ppCDQ9Fs0
西郷さんは誰からも慕われた人格者だったが、小才が効く俗物には
嫌われた。

123: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/28(土) 14:14:54.98 ID:vJ0TtrMu0
そこまでの賛美は不要。
本人は細心で偏執症であり、豪傑という評価は周囲に向けた演技に近い。
ただ、小説や演劇主人公のような向こう受けする行動を好み、自らを飾るためには自分の命も厭わなかった。

そのため、生還してくるたびに西郷吉之助は薩摩城下士の誇りと夢の象徴と化し、
彼の言動を神の啓示のように感じる集団が形成された。


城下士の中でも下級であった彼が、何故中央政界に進出出来たのかというと、
薩摩藩の武士の青年団とされる郷中を掌握していたこと、島津斉彬藩主就任前から強硬な斉彬派であったことの二点が挙げられるが、
島津斉彬の藩主就任に決定的な意味を持った調所笑左衛門による密貿易疑惑暴露について、
証拠入手に一定の役割を果たしたという憶測もある。

もっともこれは憶測の域を抜けるものではなく、斉彬藩主就任から程なく彼は江戸の藩邸勤務となり、
御庭役(外交折衝実務員)としての経歴が始まった。

最初の仕事は篤姫の将軍御台所就任であり、
薩摩藩今和泉家(藩主の親戚というより、藩主の血統を守るために代々藩主の弟を当主として迎えるような種類の家だった)の娘を
一旦近衛家の養子とし、近衛家の娘として将軍に嫁がせるという、本人にとっても周囲にとっても難事であった。

この際西郷は、朝廷の摂家筆頭である近衛家と面識が生じ、また京都で著名人と面会する機会が増えた。
この時思想的な影響を受けたといわれるのが藤田東湖とされる。彼の国防思想は島津斉彬の海防論とも一致し、
海防という見地から、世界と日本、統一されるべき日本という視点を彼に提供したとされる。

藤田東湖訪問時の西郷の記述
「彼の宅へ差し越し申し候と清水に浴し候塩梅にて心中一点の雲霞なく唯情浄なる心に相成り帰路を忘れ候次第に御座候」

124: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/28(土) 16:56:00.30 ID:93e687Gh0
豪傑ではあるだろう
本人の演技が入っているとしても、実行していれば同じ事だと思うが

127: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/28(土) 19:18:16.37 ID:Rz+Ti/fp0
>>123の評価が実像に近いんじゃないか。
崇拝する人たち含めて実行力はあっただろう。
ただ、この一派の実行力の源泉は、自分たちに論理性や構想力が無いゆえに、声がデカければ勝つ、みたいなことだからな。
西郷ファンとかも同じ。
論理が無いから、情に訴えるという、一種の粉飾。
こういう人たちがいてもいっこうに構わないけど、
賛美するのは滑稽。

128: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/28(土) 19:28:22.96 ID:VUyP3XXaO
西郷信者御一行って、ノリがスポ根部活動なんだよな。
学生の部活動なら負けても特に失うものはないけど、
西郷信者御一行は学生気分の延長線上で歳を重ねて
国民全体を巻き込んで戦争とかの政治行動に突っ走るからたちが悪いんだわ。

130: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/29(日) 03:20:15.39 ID:5mU/OczE0
学生気分というか壮士気分だろな
尊皇攘夷思想そのものが壮士の温床だし
当時は日本中にうじゃうじゃいたが、薩摩勢力はその最大級といっていい

他の維新の元勲たちは列強の力を見て、変節と言われても仕方ないほど方向転換したが、
西郷一派は幕末以来の壮士気分のまま突き進んだ感はあるな
本質が革命家なんだよ、この人は

139: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/29(日) 10:17:28.81 ID:v+o+R6pmO
西郷は結局後継者がいなかったけど、
大久保は伊藤大隈山県など有能な後継者を多く残したね

232: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/31(木) 10:30:32.30 ID:zkTlsWO1P
>>139
西南戦争で死んだ部下達が後継者だったんだろうねぇ。

146: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/29(日) 17:54:18.54 ID:NJgTjZlM0
せごどん。
結局この人は何した人なの?
翔ぶが如くでは全然わからなかった。
維新後の話だしね。
政治家でも軍人でもなく革命家だったってイメージ?

152: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/01(火) 06:51:11.55 ID:JFra2T+Q0
西郷が革命家ってのは、最も一般的なイメージだと思うよ
逆にそれ抜かしたら西郷さんじゃなくなっちゃうw

最近はそんな事も知らずに西郷を語る人が多いな

153: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/01(火) 08:02:45.08 ID:+jXq3UQW0
西郷さぁと月照がホモだったち噂がありもすなw
じゃっどん薩摩ん政治に絶望し、愛する2人で身を投げたと

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/01(火) 08:30:14.80 ID:auJLnsEn0
後の小説では、一緒に身を投げて、抱き合って海を漂っているところを救助されたりするのだが、
当時を記した後世発見の書状では、「勤皇の士である月照を海に沈んだままにはしておくのは惜しい」
などと書かれているので、実際は月照は発見されなかった可能性が高い。

小説を鵜呑みにするとホモ疑惑になるので気をつけよう。。

だいたい実際は、その場に井伊直弼から追及を受けていた政治犯がもう一人いる。
そいつは禁門の変で長州側で戦死するのだから、死の時は西郷を仇と罵っていたことだろう。

小説中に作者の偏った見解を見つけては、これが真実と煽り立てるのが、最悪の連中ということだね。

211: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/07(月) 23:35:15.47 ID:QGeQGqhf0
西郷さんは坊主と心中したホモであるが、薩摩で衆道は一般的な事なので特に非難にはあたらない

213: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/08(火) 13:24:35.61 ID:GI/4+NpM0
>>211
その話でっち上げ臭がするがなw
入水自殺って暗殺だろ?

215: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/08(火) 18:28:18.28 ID:caIOp52S0
>>211-213
井伊直弼の安政の大獄に連座し入水自殺を試みた件については、>>154を参照のこと。
それとこの事件は、西郷隆盛の演技好き、自己を飾る性分という面がよく現れた事件とされる。


元々江戸時代を通じ薩摩藩には、「心丘公信仰」という宗教的、反中央的県民信仰があった。
これは戦国期に島津氏を九州統一一歩手前まで拡張させた島津三兄弟のうち、島津歳久が豊臣秀吉に反抗的であったため
秀吉の九州征服後彼の命令で他の兄弟の追討を受け、殺されたという一件に由来する。

以来、歳久最期の地に建てられた心岳寺には、旧暦の命日に男女士農工商を問わずお参りをすることが通例と化していた。
このお参りは罪なくして死んだとされる心丘公の遺徳をしのぶものであり、反中央思想を煽るという側面があった。
もちろん郷中の長であった西郷隆盛にとっては、心岳寺は毎度の教練開催場所でもあった。

その心岳寺に向かって、御許へ行きます、と手を合わせて海に飛び込んだのだから、意図がないわけがない。
明らかに狙っている。自分を飾るためなら命も賭ける、その様な西郷の在り方が出た事件といえる。

216: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/08(火) 19:50:33.57 ID:lw4otDEo0
>>215
狂言自殺だったと言いたいわけ?

217: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/08(火) 21:20:27.17 ID:caIOp52S0
西郷月照入水の一件は、本当に死を覚悟しての行動だったとされています。
現に月照はこの事件で死亡しています。

月照の弟はその後幕府に捕縛され獄死しています。
そのことから考えると、この時点で薩摩藩側に幕府と敵対してまで西郷らの身を隠す意思がなければ、
命はなかったでしょう。そして当時の藩にはそんな意思は毛頭なかった。
何らの騒ぎを起こす必要があったことは確かなのです。

しかし西郷はわざわざ領民なら誰でも知っている悲劇の伝説の地を選び、入水という生きる可能性のある行動に出た。
計算高く、しかも宣伝効果の高いパフォーマンスというわけです。

218: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/08(火) 22:44:00.39 ID:WVW3JqYT0
でもさ、一つ大きな盲点があるぜ。
演劇なら観衆がいるけど、自殺現場に観衆はいないんだから、
無意味なパフォーマンスとかする必要ないだろw

219: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/08(火) 23:09:04.08 ID:caIOp52S0
いえいえ、入水による救難救護活動が行われたなら、
この事件についての話題は藩上層部とその直属部下ではなく、必ず鹿児島城下士全体に広まります。

そして西郷隆盛は郷中の長という形で、鹿児島城下士に強い影響力を持っていたわけです。
入水事件を起こし、事を大きくして、藩上層部の一存だけで事が収まらない状況を作ろうと試みたことになります。

現に西郷は一ヶ月の闘病の後、改名の上で奄美へ遠島と刑は改められました。

220: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/09(水) 01:05:29.29 ID:oYeG/d+S0
座して待っていても処刑されるだけだから、捨て身のパフォーマンスを打ったってこと?
で、西郷は運良く九死に一生を得たわけだ
月照も生き残ってれば良かったんだろうが老人だしな…

221: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/09(水) 02:45:06.37 ID:D0D8sXBaO
パフォーマンスとしてはなかなか難しいな…。

222: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/05/09(水) 06:36:35.06 ID:Wa8gfYHS0
斉彬は死ぬは大獄で同志らも大量に捕縛されるわ月照も救える見込みなくなるわで、
本当に前途に絶望して入水を図ったんだと思うがな

238: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/06/11(月) 02:58:24.80 ID:eyGumP+s0
西郷隆盛は、活劇の主人公のように他人へ自らを飾る役者だった。
しかも本気で命を掛けて演じていた。その為、彼の命がけの演技に人は酔い、本物の英雄と看做した。

242: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/16(月) 23:19:08.61 ID:lBSII8Fu0
損しているかどうかは別にして…
西郷の容姿って、ほんとに上野の像みたいな感じだったのかね。

 800px-SaigoWithOfficers


↑中央に座っている洋装の指揮官が西郷隆盛だって言われてるけど…
 西南戦争を取材した外国人記者が描いた絵だけに興味深い。

245: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/04(火) 09:44:31.95 ID:mof5pM9y0

255: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/24(月) 22:17:27.54 ID:CIc7Owfr0
明治6年の政変って結局よく分からないな
西郷ら留守政府が中央集権の方向性に反対だったならともかくむしろ実地者で
朝鮮にも送ればよかった
戦争になっても朝鮮なぞ数千の兵で余裕で開国させれた
その後の台湾出兵、朝鮮武力開国、佐賀の乱、西南戦争と割に合わない

256: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/24(月) 22:38:08.48 ID:l30YWvO00
やはり外交組と留守組との確執なのかな

257: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/24(月) 23:48:24.37 ID:HVphBAz80
>>255-256
「征韓論」云々は口実であって、
実際は外交組と留守組との主導権争いに過ぎなかったようですね。

265: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/22(火) 16:44:19.01 ID:9XSkuolU0
フルベッキ写真にいるだろ!大室寅吉も!填められたのはこの写真の秘密を

267: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/23(水) 13:05:42.72 ID:iWXzqblE0
>>265
ちなみに、二回目の遠島(沖永良部島)から帰ってきたときには酷い肥満体で、
死ぬまで体型は戻りませんでしたのであれは絶対別人です。

268: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/23(水) 21:42:02.75 ID:qPLYvyLL0
>>267
> ちなみに、二回目の遠島(沖永良部島)から帰ってきたときには酷い肥満体で、

肥満したのは、帰ってきた後ではないの?

269: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(月) 00:45:45.81 ID:mF9X64XK0
違います。

二回目の遠島時は、最初は吹きさらしの牢獄で見るも無残な有様でしたが、
子飼いの部下が藩役人としてやってくると扱いは一変、屋敷に座敷牢を作り外に出られない代わりに美食三昧。
ゲージ飼育状態ですよ。

そのため、京都での外交のため必要という声を島津久光が聞き入れざるを得なくなり、西郷従道が迎えに行ったら
見るも無残な肥満体になっていて仰天したという記述が残っています。

鹿児島市に帰ってきたときには歩くこともままならず、台車に座って島津斉彬公の墓所に日参していたそうです。

272: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/30(水) 14:48:31.52 ID:ugxZje3z0
西郷さんの上野の銅像の除幕式で奥さんが「うちのこげんひとじゃなか」と言ったそうだ。
寝巻で犬連れて歩くような無様なかっこうで出歩くことはしない男で、いつも
羽織はかまか軍服で出歩いたそうだ。服装にこだわる男だった。乃木大将もしかり。

276: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/01(金) 09:04:19.47 ID:szOguMI20
>>272
あれ狩猟に出たときの姿を模したものなんだが、
西郷隆盛は狩猟のときも羽織袴か軍服で行ってたのか
新事実だなw

279: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(木) 18:51:34.66 ID:Vh+4PKjB0
>>276
狩猟に行く時は狩猟の服装でいったんではないか。徳川慶喜も狩猟服の写真
が残っている。あんな無様なかっこうでは出歩かなかったってバーさんが言いたかった
んだろう。

引用元: ・西郷隆盛とは何だったのか