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1: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/17(月) 22:17:56 .net
三国志に負けず劣らず変なやつがいっぱいでてくる






五胡十六国時代

五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。

後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。





3: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/17(月) 22:36:06 .net
春秋戦国もオヌヌメ

つか、中国史で面白いのって三国時代だけじゃないんだけどなー

4: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/17(月) 22:37:11 .net
教科書だとこの時代はバサっと省略され気味だな
濃い時代なのに
春秋戦国は諸子百家もいるし、結構触れるけど

5: 斯波民部少輔 ◆BMWhZ4BQa6 2008/11/17(月) 22:37:55 .net
この時代のあまりのキチガイっぷりに正直ドン引きした
それだけに大唐帝国の偉大さには感服せざるを得ない

6: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/17(月) 22:41:11 .net
北魏の前に前秦が華北統一してるんだけど、それに触れられてる教科書は見たことが無い

前秦が華北統一→シ水の戦い→諸国が独立してまたもや乱世に→北魏が台頭
の流れは重要だと思うんだけど

12: 無名武将@お腹せっぷく 2008/11/17(月) 23:44:46 .net
>>6
前秦の最盛期の領土は魏+蜀+長江より北のほとんどであり、統一前夜の隋や西晋に匹敵する。
よくこれで負けたものだ。

13: 斯波民部少輔 ◆BMWhZ4BQa6 2008/11/17(月) 23:46:11 .net
トップがものすごいアホだったとか?
苻 堅

苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(大秦天王)。

漢人の王猛を重用して華北統一に成功し、前秦の全盛期を築く。中国統一を目指したが、大軍を南下させたところを淝水の戦いで大敗し、以後諸部族が反乱・自立して前秦は衰退して苻堅もかつての部下姚萇に殺害され、前秦は実質的に滅亡した。

漢族宰相の王猛とは民族を超えた信頼関係で結ばれ、弟の苻融は「王景略(王猛)は一時の奇士であり、陛下はいつも彼を孔明(諸葛亮)に擬していました」と評価している。

苻堅は王猛のおかげで五胡十六国時代の中で唯一華北を統一する王にまでなったが、それは苻堅自身の才覚というよりは王猛の補佐によるところが非常に大きく、王猛没後に苻堅は没落して殺害されている。これは王猛の生前に苻堅が極端に異民族を優遇したためであり、また滅ぼした旧皇族をそれぞれ重用するなど余りに苻堅は諸民族を糾合するという理想に駆られていた感があった。苻融などはこの施策を危険と見て諌めたが、苻堅は当時としては信じられないほど極端な理想を述べて聞き入れなかった


30: 無名武将@お腹せっぷく 2009/03/15(日) 21:29:26 .net
>>13
淝水の戦いは、東晋政府が最後まで粘り強く戦い続けたことが勝因
赤壁が何か勢いで開戦しちゃったのに対し、前秦は計画的に作戦準備を進めており、
特に西府軍団の益州・荊州方面での逆襲を防ぎきってから反転攻勢に出ている点は、
東晋側にしてみれば最悪(西府軍の疲弊が大きく、運用が困難になった。)
前秦の負ける要素は、兵の疲弊と首脳部の意見不一致以外特になかった。
(江南平定は大抵首脳部の意見が割れるもんだから、特記事項ではないのだが。)

しかし、東晋政府の土壇場での一致団結が大勢を引っくり返す。
東晋は、桓温の時代から少数精鋭かつ武士階級による団結力の強い集団戦闘等
独特な軍事制度が醸成されてきていたのだが、それを西府軍から出向してきた
謝玄が京口でも普及させ、北府の兵の精強化に成功する。
元来、北来の異民族等の血も流れる者が多かった北府の兵は謝玄という指揮官を
得たことで豹変し、組織的な軍事集団へと変貌する。
伝統的な精鋭主義は、大軍を相手に回したとき、指揮伝達の速さや足回りの軽さから
むしろ兵数の不利を利点へと変換する役割を果たした。

謝玄は敵の大軍に怯むことなく、開戦早々先遣部隊5万の将をわずか5千で戦死させる。
これに手ごたえを掴んだことで、主力に対し決戦を挑む準備ができた東晋は、前秦側からの
渡河の申し出を受け入れる。
敵が引き我が渡河し会戦に至る、東晋は圧倒的に不利である、前秦側には待ち受けの
利があるのだ。
しかし、前秦軍よりも東晋軍の方が精強かつ疾さで勝っていることを確信していた謝玄は
渡河を受け入れ、一斉に渡河、そしてその勢いを駆って前秦軍に突撃を仕掛ける。
前秦にとって、鈍重な大軍が自分たちの息の根を止める凶器へと変貌するのは、正に
この瞬間であった。
指揮系統の混乱、晋からの降将朱序の謀反(どう考えても死ぬ状況で裏切ったんだから
かなりの漢である。)、東晋の突撃力、偶然ではなく必然の累積により、前秦は敗れる。

東晋首脳部が最後まで自暴自棄にならずに、勝ち目を探り続けた点はもっと評価されて
いいと思う。謝玄は凡将かもしれないが、勝利への飽くなき意思を貫徹した点では、
いかなる歴代の名将を凌ぐものであったと思う。

29: 無名武将@お腹せっぷく 2009/03/12(木) 22:50:47 .net
符堅の大敗ぶりは異常

32: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/22(水) 14:31:34 .net
>開戦早々先遣部隊5万の将をわずか5千で戦死させる。

シナではこれで梵鐘なのかよ…
レベル高すぎだな

33: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/22(水) 23:23:42 .net
>>32
前秦軍100万の主要な司令官たちに比べると、謝玄のキャリアは駆け出し同然、
韓信の大元帥抜擢以上のミラクル人事と言っても差し支えない。
肥水で勝利したからこそそこそこの評価を得ているが、その大部分は「一発屋」
的なものがほとんど。

まあ、化け物揃いの五胡十六国において「凡将」という評価は仕方ないと思う。
桓温に比べたら、それこそペーペーだしな。

39: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/28(火) 16:34:47 .net
>>33
謝安が軍事の最高責任者だから
一流貴族であるその一族が指揮官ってのもミラクル人事ってわけじゃないだろ
それ以降の一発屋、凡将の評価に関しては俺もそう思う

よくもまあ実務能力に欠けたお気楽貴族どもで前秦を撃退できたよな
前秦が一枚岩でなかったこと、北府の軍とそれを率いた劉牢之らの奮闘があったからなのかね
なんにしろ攻めるのは大変だ

37: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/28(火) 15:38:58 .net
ヒスイの戦いはレッドクリフにも劣らんよ

38: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/28(火) 16:13:24 .net
三国志の子孫が意外と出てこなくて寂しい(いることはいる)
日本だと島津家とか伊達家とかずっと出てくるのに

40: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/28(火) 16:35:11 .net
>>38
中国では、盛族は王朝が交代すると没落することが多いからね
ただし、いつの時代でも血の繋がりはなかれど士大夫(知識人階級)が権力を握ることに変わりはない

日本では公家→院→武家と権力の移り変わりがあったけど、
中国はずっと士大夫

47: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/29(水) 11:40:27 .net
>>40
士大夫→知識階級と言えるのは最低でも科挙が成立して以後でしょ。
それまではほぼ貴族が権力を握ってる。
少なくとも後漢から魏晋南北朝の士大夫→知識階級とは言えない。

48: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/29(水) 12:52:51 .net
>>47
後漢代は既に士大夫=知識階級と言っていいように思うがな。

太学の定員が大幅に増えて三万人に達していて、太学出で中央にコネもある曹操すら、
思った地位につけず、さらに郡国学などの地方教育機関もあったから、
一定階級以上はほぼ基礎教育のある状態と見ていいだろう。
さらに、それに加えてより知性を誇るための私塾ブームが起きていたわけだし。
そんな中、寒門の中から清代にいたるまで重要視される大儒の鄭玄が登場しているわけで。

41: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/28(火) 16:50:02 .net
永嘉の乱で中央の名家は殺され尽くしたんじゃないだろうか

しらんけど
永嘉の乱

中国,西晋 (→晋) 末期,五胡の一つである匈奴が華北を主舞台として起した動乱。永嘉は西晋の懐帝の年号 (307~313) 。恵帝のとき晋宗室の八王の乱により農民の疲弊,流亡がはなはだしく,西晋の国家権力も衰退した。



42: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/28(火) 16:56:20 .net
>>41
南に逃れて最上位の貴族になってるよ。それも隋の統一で没落したけど

そういえば、長く続いてる戦国大名家のルーツはだいたい鎌倉、室町幕府に封建された功臣が土着化したもの
中国史では、土着化する前に粛清されるか戦乱で淘汰されるから伊達や島津のような存在が生まれない

43: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/28(火) 17:15:39 .net
よく旧呉の土豪がすんなり受け入れたな
抵抗しなかったのか

46: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/28(火) 23:17:40 .net
>>43
旧呉の権豪たちが東晋の政権運営を壟断できる可能性はかなり高かった。
むしろ、どんな名政治家がいようが十中八九、北方貴族による政権の独占は
不可能だったと言っても良い。
王導という怪物がそれをやってのけたわけだが、調整型の政治家としては世界史級、
中国史なら他の追随を許さないレベル

個人的には、人間味のある謝安の方が好きだ。

47: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/29(水) 11:40:27 .net
>>46
南方の土豪は実権ある地位に就き辛かったはずだけど。
朝廷では北方の言語を使って南方語と馬鹿にされてたし。

あ、そういう状況を王導が作り上げてみせたってことか
江南豪族の分断とかかなりの切れ者だよな

49: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/29(水) 17:26:06 .net
王導ほどの政治力を誇る人物は三国志にはいない
三国志の名将以上の戦上手がごろごろいる

なのに人気は三国志以下
悲しいよね

王 導

王 導(おう どう、276年 - 339年)は、中国の晋代の政治家。字は茂弘。西晋及び東晋に仕え、彼の働きによって琅邪王氏は六朝時代の南朝を代表する名門貴族となった

王導は東晋の宰相として、顧栄、賀循、紀瞻、庾亮、卞壺、諸葛恢、干宝、郭璞などの人材を元帝に推薦した。「百六掾」と呼ばれるこれら百余人の属官達は、華北から逃れてきた貴族と江南の豪族とで構成されており、王導は利害の異なるこれらの人々を配下に集めることで彼らの対立を取りまとめ、これによって東晋の政権基盤を安定させようと考えた。

しかし、元帝は政治・軍事の両面で、琅邪王氏の存在が大きくなることを警戒するようになり、劉隗・刁協らを重用して、王導の政治力を排除しようとした。322年、大将軍となっていた王敦は元帝のこのような動きに不満を持ち、劉隗・刁協の打倒を名目に武昌で挙兵した(王敦の乱)。この時、首都建康にいた王導は、劉隗により反乱者の同族として処刑されかけるが、周顗の取りなしにより事なきを得ている。同年、元帝は死去して明帝が即位し、324年、蘇峻らによって王敦の反乱は鎮圧されるが、王導は失脚することなく政治を執り続けた。

325年、明帝が死去し成帝が即位すると、王導は司徒として中書令の庾亮と共に政治を任されることになった。成帝の外戚であった庾亮は、当時王導をしのぐ権勢を誇り、北来の貴族と江南土着の豪族との間のバランスを重視する王導の政治方針に変えて、厳格な法治主義によって皇帝の権威を強化しようと考えるが、327年、蘇峻が庾亮打倒を名目に反乱を起こす事態を招いてしまう(蘇峻の乱)。329年に陶侃、郗鑒らによって反乱が鎮圧されると、庾亮は中書令を辞して地方に鎮したので、再び王導が単独で政治を執ることになった。

後に庾亮は王導の施政が寛厚すぎるとして、挙兵して王導を廃そうと考えたが、郗鑒の賛同が得られず挙兵を思いとどまった。ある者がそのことを王導に伝えたが、王導は「自分と庾亮は、国家のために喜憂をともにしている。だからもし彼が自分を不義不忠の者として攻めてくるのなら、自分は潔く官を辞して隠居しよう。何も恐れることはない」と語ったという。

339年に64歳で死去し、丞相を追贈された。


50: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/29(水) 17:56:12 .net
その時代のスーパースターのフ堅が曹操はおろか劉備にすらイメージで負けてる
実際はともかく無理もないだろう
統一してたら曹操なんかとは比較にならないとかいう儲がでまくりだろうけど
せめて自分の代で滅亡とかしてなければ・・・

52: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/29(水) 18:57:03 .net
異民族に蹂躙されていく物語になっちゃうから、そりゃ人気出ないでしょ

53: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/29(水) 19:03:26 .net
符堅は王猛が死んだのは確かに痛いけど
ポストが出てこないほど人材難だったのかね?
曹操は郭嘉が死んだって他にも参謀がたくさんいたじゃない

54: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/29(水) 19:14:41 .net
符堅は最後、裏切された部下にくびり殺されてるからな
かっこ悪すぎる
信長の最期みたいなミステリアス性があれば少しはマシだったかもしれんが

55: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/30(木) 09:09:09 .net
前秦は各部族を征服したばっかりだったからねぇ
符堅は焦ったのか、お人よしだったのか

56: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/30(木) 10:36:32 .net
五コを勉強すると三国志も凄いことがわかる

57: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/30(木) 20:59:09 .net
曹操がいなかったら五胡はあんなに栄えなかったというのに、石ロクの酷評は酷いよね

石 勒

石 勒(せき ろく)は、五胡十六国時代の後趙の創建者。

石勒自らは字が読めなかったが、他人に書物を読ませて聞くのを好み、漢人士大夫を登用して律令・官制を整えた。『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。

また、過去の群雄について、「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳や司馬仲達父子のように、孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と評した。


58: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/30(木) 21:55:31 .net
いや石ロクは彼なりの筋を通した見解をしている
でもその見解だけが正解というわけではない

60: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/30(木) 22:33:30 .net
石勒のその評価は多分どっちかって言うと、紳士ぶって様子窺いながら
前王朝の名分に寄生し続けた(ようにみえる)ことに
「すっきりしねえ奴等だな!」
「男なら真っ向から反逆しろよ!」
つってキレてるだけかと。

65: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/01(金) 16:58:23 .net
>>60
そういう石さん自身、野盗まがいのことやって天下とったんだから、曹さんや司馬さんも、奴にだけは言われたくねーだろうな

61: 無名武将@お腹せっぷく 2009/04/30(木) 23:02:56 .net
慕容垂と慕容恪はどちらが優秀なのか
慕容 垂

慕容 垂(ぼよう すい)は、五胡十六国時代の後燕の創建者。

前燕滅亡後は前秦の部将として活動し、378年に苻堅の子苻丕・姚萇と共に東晋方の襄陽城を攻撃、翌年に朱序を降伏させた。

383年に淝水の戦いに参戦したが、東晋の宰相謝安の指揮の下謝玄・謝石ら東晋軍に前秦軍は大敗、慕容垂の軍は無傷だったため苻堅を長安まで送り、撤退を援護した。戦後、北方の反乱平定を苻堅に上奏し、認められ出陣して北方を平定、前秦に反乱を起こした丁零の翟斌を従え河北一帯に勢力を築き、鄴に駐屯していた苻丕を攻撃、384年正月に中山(河北省定県)を都として燕王を自称、元号を燕元と改元して後燕を創建した。

甥で慕容暐の弟慕容泓・慕容沖兄弟もこの機に乗じて西燕を建て、弟の慕容徳が慕容垂に従うなど他の慕容部も前秦から離れていった(慕容暐は苻堅に殺害された)。慕容垂は自立した後も前秦の臣下に留まっていたが、385年に姚萇が苻堅を殺害して後秦を建国した翌386年1月に中山で皇帝を称して完全に自立した。



慕容 恪

慕容 恪(ぼよう かく、? - 367年5月)は、五胡十六国時代の前燕の政治家・武将である。前燕の中原進出に大きく貢献し、全盛期を築き上げた。後世の人より五胡十六国時代随一の名将であると評された。

前秦の王猛が鄴の統治に当たった際、それまでに横行していた略奪や乱暴狼藉は全て収まった。王猛の政治は寛大であり法令は簡潔であったため、民は落ち着き、生業に精を出せるようになった。彼等は互いに言い合った。「はからずも今日、太原王(慕容恪)の治世が甦るとは、思いもよらなかった。」と。それを聞いて、王猛は嘆息した。 「慕容玄恭(慕容恪、玄恭は字)はまことに、一代の奇士であった。古き良き時代の遺愛を持っていた。」と述べ、太牢を設けて慕容恪を祀ったという。

北魏の宰相崔浩は、拓跋嗣(明元帝)との語らいの中で、「王猛が長く治国に当たっていたならば、苻堅にとっての管仲となったでしょう。慕容玄恭が長く少主を補佐していたならば、慕容にとっての霍光と成り得たでしょう。」と述べた。

唐代の史館が選んだ中国史上六十四名将の一人に選出されている。他に五胡十六国で選ばれているのは王猛だけである。


66: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/01(金) 19:20:32 .net
>>61
慕容恪の方が上だろうな。
両名とも、関東の領土拡張で活躍を見せているものの、結局後趙・前秦崩壊の
ドサクサにまぎれての火事場泥棒でしかないからな。
そう考えれば、宇文部・段部・高句麗を討滅した慕容恪の方が功績としては、
慕容垂を圧倒している。
慕容垂は本人ではどうしようもない所が過分にあるにせよ、どうしても初動が遅い観が
否めない、対桓温、対拓跋部なんか特にだが。

まあ、流れをぶった切って桓温最強説を提唱してみる。

62: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/01(金) 04:46:33 .net
三国志の群雄は魏呉蜀を除いたら冴えない連中が多いけど
五胡の連中はツラ構えが違うね

68: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/01(金) 23:36:27 .net
桓温よりも劉裕の方が強い

と思うのは俺だけ

75: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/02(土) 09:10:31 .net
>>68
桓温による地ならし(土断、軍人の地位向上、簒奪を容認する世論の醸成)が
なければ、劉裕の宋建国はまず有り得なかっただろう。
戦場での勇猛さ、軍事手腕は確かに劉裕が上かもしれないが、政治家としての
能力も加味してくると、桓温の方が圧倒的に上
仮に(桓玄ではなく)桓温が相手であった場合は、劉裕は「輿望」という点で全く
相手にならず、叛乱は失敗に終わっていたと思う。

73: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/02(土) 01:11:06 .net
桓温は慕容垂にボコられた事以外は、結構凄い戦績残してるよね。
特にこの時代は漢人の名将が少ないから、尚更その凄さが際立つね。


桓 温

桓 温(かん おん、312年 - 373年)は、中国の東晋の政治家・軍人。軍事的成功により東晋を牛耳り、禅譲を目論んだが周囲の反対に逢い失敗した。

桓温は後趙が冉閔によって混乱している事に乗じて北伐を決行し、354年の前秦侵攻には失敗したが、356年に姚襄を破り8月には周成を捕え西晋の旧都洛陽を奪還した。桓温は朝廷に対して洛陽への遷都を主張したが受け入れられず、洛陽に守備隊を残して引き上げた。

北伐・洛陽奪還という東晋の悲願を一時的にではあるが実現した桓温は、帰国後にこの功によって大司馬・都督中外諸軍事となり、364年に荊州から揚州刺史に転任、369年には兗州・徐州刺史郗愔の息子郗超(郗鑒の孫)の協力で郗愔に代わって兗州・徐州の刺史も兼ねて、長江下流域を領域とする北府軍団も手中に収め、西府軍団と合わせて最大の軍事力を獲得し、東晋の実権を完全に掌握した。

その後、北では前燕が勢力を拡大し、365年に洛陽が奪われた。369年、桓温は前燕に対する北伐を行うが、前燕の慕容垂の軍に枋頭(現在の河南省浚県)で大敗する。

これによって失墜した権威を回復するために、371年に司馬奕に変わって司馬昱(簡文帝)を擁立するも、簡文帝は翌年に病死する。簡文帝は臨終に際して桓温に禅譲しようとも考えるが、謝安・王坦之らの反対によりそれを取りやめ、桓温に対して「皇太子(孝武帝)を補佐して欲しい。諸葛武侯(諸葛亮)・王丞相(王導)(いずれも幼帝を補佐し、皇位を奪わなかった人物)のように」と遺詔した。

それにもかかわらず桓温は禅譲を目指し、朝廷に対し九錫(禅譲の前段階である家臣に対する九つの特典)を要求したが、謝安らによる引き伸ばしの前に実現せず、373年に死去した。


75: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/02(土) 09:10:31 .net
>>73
と言うよりも、枋頭での撤退戦で敗れる直前までは、前燕は崩壊寸前だったのだが。
湖陸の戦い、林渚の戦いで前燕の防衛ラインは完膚なきまでに破断されている。
桓温が失敗したのは、後方支援態勢が「短期戦」のそれを想定したものであったのに対し、前燕の首都を間近に控えて、敵の内部崩壊を待つべく長期戦への作戦転換に色気を出してしまったことだろう。
(前燕は対王猛戦で見せた総兵力40万の大動員を、対桓温戦では実行に移す余裕すらなかった。)
慕容徳が桓温の強気に押し負けずに、兵站線の打撃を実行したことは賞賛に値する。

慕容垂も名将と言えば名将だが、枋頭の戦いの寸前まで、何の有効策も打ち出せて
いない時点で、兄貴や桓温に劣ると言わざるを得ん。

76: 75 2009/05/02(土) 13:47:24 .net
後趙滅亡後、時を置かず情勢は三国鼎立へと傾くことになったが、河南諸州では後趙の流れを汲む塢壁集団、その中でも羌族姚氏集団の領袖姚襄が最も強大であった。
彼はかつて冉閔を撃破したことのある戦歴の持ち主であり、高い忠誠心と堅い節義を持った傑物であった。一時は東晋に身を寄せるも、東晋首脳部の残酷な裏切りによって河南に割拠するはめになってしまう。

桓温は、347年~356年の短期間の間に、成都の李勢、関中の前秦、そして河南の姚襄を次々と撃破して、東晋の勢力を河南まで一挙に盛り返した。
やがて、慕容恪・慕容評らの南下により、河南における支配権は若干減退したものの、369年には5万の兵で北伐を企み、前燕を遼東まであわや遷都させるまでに追い詰めている。桓温の死後、東晋は成蜀を失陥し、江北まで前秦に圧迫されるという窮地に陥っていることから鑑みるに、やはり桓温の存在は天下を左右するに十分な、まさに天下人と言って申し分ないものだったと思料する。

王猛にしろ、慕容恪にしろ、さすがにここまでの存在感は持ち合わせていない。
(それに準じるものではあるにせよ、単独では天下を引っ掻き回せなかった。)
桓温こそこの時代の風雲児と言っても過言ではなかろう。

239: 無名武将@お腹せっぷく 2010/01/27(水) 13:06:36 .net
>>75
>慕容垂も名将と言えば名将だが、枋頭の戦いの寸前まで、何の有効策も打ち出せて
いない時点で、兄貴や桓温に劣ると言わざるを得ん。

有効策を打ち出せなかったのは慕容垂ではなく皇帝である慕容暐の責任なのでは。桓温
が枋頭までやってきて前燕の存続が脅かされるような事態になってようやく垂に出撃が
命じられたわけで。用兵に関していえば恪や桓温にも劣らないと思うよ。

242: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/07(日) 19:42:47 .net
>>239
慕容垂の立場ってのは、本人の預かり知らぬところで千変万化しているからなあ。
幼い頃は、嫡子である慕容儁を差し置いて、危うく王位を継がされる可能性も
あったわけだし。
(慕容皝の嫌な部分が、この独善性というか俺流采配、自分がどういう風に骨肉の
争いで国力を減衰させたか理解しているのか?)
慕容儁が偉いのは、父親のように偏愛を受けていた弟に嫉妬心丸出しで粛清に
動かなかったところ、まあ、冷遇するだけはしているけど、殺されるよりマシだしな。
徹底的に犬扱いしないと家臣の中に慕容垂擁立派らが勘違いして、いつおかしな
行動に出るか分からない部分もあった。
慕容恪時代は、皇族としてそれなり扱われていたが、慕容評一頭輔政体制に
なってからは、冷や飯ぐらいに逆戻り。
慕容評が対桓温戦でにっちもさっちも行かなくなって、ようやく慕容垂起用
枋頭で勝つには勝ったが、その後専横するのではないかと疑われ、政争に巻き
困れるのを忌避して前秦へと亡命

政治的無能という意味では、実は韓信に匹敵していると思う。
もうちょっと如才なく世渡りできなかったのか?とやきもきする。

100: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/04(月) 21:30:16 .net
五胡十六国皇帝の名言とかキャッチコピーある?「貧乏人は麦を食え」みたいなやつ

前秦の「光武帝なら中原に鹿を追う」しか知らないや

102: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/04(月) 21:41:19 .net
「光武帝うんぬん」は後趙の石勒だった(>_<)

104: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/04(月) 22:43:30 .net
>>100
世説新語あたりにいっぱい載ってる。

好きなのは、石勒による断罪の一言シリーズかな。
「天下を滅ぼしたのは、てめえ以外ほかに誰がいやがるってんだ!」(王衍)
「てめえなんぞ生かしておいて、天下のためになるわきゃネーだろ!」(王浚)
悪党度合いではお互い大差ないはずなのだが、どうしてここまで自信満々に断罪できるんだか。
嫌いじゃないけどね。

103: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/04(月) 22:21:41 .net
>>100
竹馬の友かなあ
桓温たんの

105: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/04(月) 23:03:05 .net
>>103
桓温ひとりで
「断腸」(母ちゃんの息子を思う気持ちは、腸が捻じ切れるほど烈しいものなのだ。)
「竹馬の友」(あいつはガキの頃、いっつも俺の後塵を拝しておったわ。)
「臭を万に残すべし」(歴史に芳名を残すことが出来ぬのであれば、せめて悪名を残してやろう。)
三つも稼いでるからな。
苻堅は、「投鞭断流」・「草木皆兵」・「風声鶴唳」があるけど、どれもネガティブすぎる。
祖逖の「先鞭つける」・「聞鶏起舞」はカッコいいね、生き様と完全にマッチングしてる。

106: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/04(月) 23:16:40 .net
桓温の三国志絡みの発言
ttp://d.hatena.ne.jp/mujin/20080207/p3

109: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/05(火) 14:18:08 .net
天下分け目の戦中、客と碁の対局中
「何っ、手紙だと?」(平然として)

客が帰ったあと
「やった♪やったあ(^-^)」
(飛び上がって喜ぶ)

「下駄の歯折れたを知らず」とかいうエピソード
もツンデレみたいで可愛い

112: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/07(木) 15:09:32 .net
石ろくより劉裕のほうが戦は強いとオモ
劉 裕

劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝の宋の初代皇帝。

399年、五斗米道の信者を中心に起こった孫恩及び盧循の乱において、劉裕は北府軍の下級将校として数10人の兵卒を率いて数千の敵兵を相手にして戦い、兵卒が全員討ち死にしてしまうと単独で敵軍を蹴散らして勝利を収めるという剛勇を見せた。また劉裕は劉牢之の北府軍団に従い戦功を立て、軍規の乱れが目に付く北府軍団の中で劉裕の部隊は最も軍規が厳正であったとして信望を集めた上、上官の劉牢之からも上級の将軍として取り立てられ、孫恩軍が建康から撤退した際にはこれを徹底的に追撃して海辺に駆逐して再起不能にならしめた。

ところが402年、西府軍団を率いる桓玄が首都の救援の名目で建業を制圧した。この際、劉牢之は桓玄に味方したが劉裕はそれを懸命に諌めるも聞き入れられず、桓玄が司馬道子らを殺害して実権を握ってこれを後悔した劉牢之は劉裕に江北に逃れて再起を図ろうと誘われるが、劉牢之の度重なる裏切りに愛想を尽かした劉裕は「貴公は強卒10万を率いる将軍であった時には投降し、今朝野の人望を失って刃向かうとはわけのわからぬ事です」と述べて拒絶した。劉牢之は孤立して最期には自殺し、劉牢之を失った北府軍団は解体され、劉裕も桓玄の支配に属することになる。

403年10月、桓玄が安帝を廃して禅譲を受け、国名を楚として自ら皇帝を称した。

404年2月、劉裕は劉毅・諸葛長民らを同志として、桓玄打倒の反乱を起こした。
桓玄はなすところも無く敗れて舟で長江から江陵に逃走し、幽閉していた安帝を連れて再度東下したが、攻め上ってくる劉裕軍に蹴散らされて江陵も失い、5月に蜀に逃げる桓玄を討ち取った。そして劉裕は桓玄に追放されていた安帝を復位させることに成功した。

418年、劉裕は安帝を殺害、東晋最後の皇帝となる恭帝を擁立する。禅譲を計画した劉裕は、420年に恭帝から禅譲を受けて皇帝に即位し宋を建国、後顧の憂いを断つため恭帝を殺害した。また、東晋の皇室一族を殺戮した。禅譲後に旧皇帝を殺すようになったのは、劉裕からである。


113: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/07(木) 21:08:28 .net
>>112
石勒は、基本的に戦争には強くない。
載記読めば分かるけど、この時代の群雄・君主の中でも敗戦・撤退の記述が
かなり多い方、軍団の崩壊は306年と311年の2回確認できる。
(飛龍山の戦いも冀州攻略頓挫のきっかけとみるならば、手痛い敗戦のひとつ)
「名将」や「猛将」という評価は、かなりイメージ先行という感じがする。

まあ、周囲の群雄から見れば、叩いても叩いても絶対に死なないで復活してくる
気味の悪い化け物って感じだったんじゃないかな?
異常なまでの頑強さと回復力としか言いようがないほど捲土重来しまくってる。
五胡~南北朝含めても、石勒に勝利を収めれる将軍は結構いるかもしれない、
ただし、二戦目、三戦目は絶対石勒が巻き返すという構図に持ち込まれる、
単純な強さで測れない部分こそ、石勒の本当に恐ろしいところだと思う。

ゴキブリ並みの生命力という言葉は、こいつのためにあると言っても過言ではない。

118: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/08(金) 23:59:12 .net
>>113
さすがは高祖大好きっ子だな。

122: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/09(土) 12:41:49 .net
>>112
>劉裕
単騎突撃で数千の軍を引っ掻き回して援軍で撃破だったか。
正気の沙汰じゃない。

114: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/08(金) 00:07:43 .net
石勒は息子がキチガイなのが玉に瑕

115: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/08(金) 21:30:02 .net
石虎のキチガイぶりは誇張されすぎだろう
敬虔な仏教徒だったんだろう?

116: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/08(金) 23:54:06 .net
石勒の息子に石虎ほどのキチガイっていたっけ?

121: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/09(土) 12:23:39 .net
最強というより、最凶という言葉がふさわしいな。石勒

124: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/09(土) 17:11:10 .net
劉裕は一兵卒からの戦功の積み重ねで大将軍にまでなったバトルマスター

125: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/09(土) 19:37:00 .net
宴会の席で酒に酔って上機嫌になり、皆の前で詩を詠もうとしたら、
主君に恥をかかせちゃいかんと慌てて側近が代作したという逸話のある劉裕さんね。

126: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/09(土) 21:34:03 .net
字の汚さを指摘されて、大きく書くと綺麗に見えると言われたから巨大な字を書いたことでも有名。

127: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/09(土) 23:00:45 .net
劉裕さんカッケー

128: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/10(日) 00:59:39 .net
なんか可愛いなw

129: 無名武将@お腹せっぷく 2009/05/10(日) 04:30:40 .net
前王朝の皇族を殺戮し尽くす前例を作ったのは劉裕なのか?こえーぜ

引用元: ・最近五胡十六国~南北朝について調べてるんだけど面白いな





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