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1: 名無し二等兵
宇喜多秀家および一族について熱く語るスレ。








3: 日本@名無史さん
秀家はすごい奴だ。
若いのに五大老にも選ばれ、
関が原の戦いで東軍最強と言われた福島正則軍を押しまくった。
すごい。
80代まで生きたというのも当時すごかったにちがいない。

9: 日本@名無史さん
宇喜多家の家系は、どのくらい遡れるのでつか?
一族語るなら、まずはここから。

12: 1 ◆2LEFd5iAoc
>>9
百済の王族の子孫て自称していたんじゃなかったかな。
で、岡山の児島に流れ着いたと。で、宇喜多の旗印は「児」の一字だったような。

32: 日本@名無史さん
>>9
百済の王族(自称) → 備前児島に漂着し児島氏と名乗り、後に代々地頭職などを務める
→ 一族から太平記にも登場する児島高徳を排出。 → 備前宇喜多荘に移転、宇喜多姓を名乗る。

62: 日本@名無史さん
備前国豪族三宅氏の後裔と言う。三宅氏は百済人とも
吉備氏一族の児島氏とも言う。和気絹、藩翰譜は百済人説を採り、
宇喜田系図、三宅系図は新羅王子天日槍の子孫説を採っている。
鎌倉初期備前児島の地頭となり、児島氏を称し、のち
同国宇喜田に移って宇喜田氏を称した。

67: 日本@名無史さん
宇喜多氏の主君だった浦上氏って赤松の庶流?

68: 日本@名無史さん
>>67
紀氏。代々播磨国揖保郡浦上荘に住み、赤松円心の時には、
赤松氏の被官として現れている。則宗の時侍所所司代兼山城国守護代及び播磨・美作
守護代。子の則景を備前守護代とした。

5: 日本@名無史さん
宇喜多秀家といえば三浦友和。

12: 1 ◆2LEFd5iAoc
>>5
>>宇喜多秀家といえば三浦友和。
 
どういう意味じゃ?

16: 日本@名無史さん
>>12
20年くらい前にTBSで放映された「関ケ原」という豪華ラインナップの
ドラマで宇喜多秀家を演じたのが三浦友和。
それ以来、俺の中では秀家=三浦友和が焼きついて他の役者が演じても
違和感を覚えるんだよな。
ちなみに福島正則が丹波哲郎、島左近が三船敏郎など大御所揃いのメンツ。

17: 1 ◆2LEFd5iAoc
>>16
へー。
まぁ宇喜多秀家はカナーリ美少年だったらすぃのでね。
父親の直家も、稀代の梟雄と言われた程の謀略家だったが、その美男子ぶりで主君の
浦上氏に男色をもって取り入ったというエピソードが。
秀家の母親のお福も、夫の直家死後、豊臣秀吉に見染められて側室になったワケだしな。

ちなみに宇喜多秀家の「秀」の字は、豊臣秀吉から「秀」を賜って養子になったのである。

69: 日本@名無史さん
>>17
母親のお福は元三浦貞勝室。三浦氏との子は1584年の
地震で、伏見城で圧死しました。

71: 日本@名無史さん
>>69
詳細キボン

76: 日本@名無史さん
>>71
おふく.(備前殿、法鮮尼).1528~1594

宇喜多秀家の母。のち豊臣秀吉の側室。

1559(12才) この頃、備中高田城主・三浦貞勝(22才)と結婚か?
1565(18才) 高田城落城、夫・三浦貞勝自刃、桃寿丸を連れ落ちのびる
1570(23才) この頃、備前沼城主(のち岡山城主)・宇喜多直家(41才)と再婚
1572(25才) 秀家(八郎)誕生
1581(34才) 直家(53才)没
1582(35才) 秀家(11才)と家臣団、豊臣秀吉に伴われて織田信長に謁見
         おふくは、秀吉の側室になり、秀家は秀吉の猶子になる。
1588(41才) 秀家(17才)と秀吉養女・豪姫(15才)結婚
1594(47才) 死去〔12月11日〕

77: 日本@名無史さん
>>76
生年は不詳。三浦氏関連の資料に生年は見当たらない。
1528年生まれでない事は確か。

82: 日本@名無史さん
1528じゃなくて1548じゃん?

10:日本@名無史さん  
八丈島に流されてからは浮田って名乗ったんだよね。

12: 1 ◆2LEFd5iAoc
>>10
八丈島に流されてから カナーリ年月が経過後、かつての領地たる備前岡山の西大寺の商人が、
交易の為に航海中、船が難破し偶然に八丈島に漂着、宇喜多秀家に詩などを書いて貰い、
持ち帰ったエピソードに感動。

15: 日本@名無史さん
>八丈島に流されてから カナーリ年月が経過後、かつての領地たる備前岡山の西大寺の商人が、
交易の為に航海中、船が難破し偶然に八丈島に漂着、宇喜多秀家に詩などを書いて貰い、
持ち帰ったエピソードに感動。


これって
「備前は誰が治めておる」
「松平様です」
「松平ではわからぬ」
「池田様です」
ってやつ?(うろ覚えだが)

20: 日本@名無史さん
>>15
> 「備前は誰が治めておる」
> 「松平様です」
> 「松平ではわからぬ」

以降がちょと違う。『名将言行録』では

「新太郎少将様(閑谷学校を建てた池田光政のこと)です」
「誰のことやら。家老どもの姓を挙げてみよ」
「○○、××、△△です」
「さては池田家にてありけるな」

となっており候わん。

65: 日本@名無史さん
>>20
聞いたのは家老の姓だっけ?
家紋じゃなかった?

11: 日本@名無史さん
豪との間に子供はあったの??

12: 1 ◆2LEFd5iAoc
>>11
娘がいたような・・・
なお、豪姫の実家は、言わずと知れた加賀100万石・前田家。
八丈島に流された後も、徳川末期まで前田家から仕送りがあったエピソードに感動。

21: 日本@名無史さん
>>11

秀高、秀継がいたよ。

22: 名無し二等兵
>>21
秀家と一緒に八丈島に流されタンだっけか。

23: 日本@名無史さん
>>22

そう。彼らの子孫は八丈島に土着した。

44: 日本@名無史さん
島での生活はじっさいどうだったんだ?
食うに困ってたっておもってたけど
仕送りあったから意外と楽っての聞いたことがある。
>>20のときも釣りしてたそうだが
生活楽だったらまぁ隠居した爺さんみたいでいいけど
食うに困ってたらその日の糧のために釣りしてたわけで
状況が一変するんですけど

45: 日本@名無史さん
>>44
もちろん、流罪の身であるから贅沢をしたり自由気侭に暮らすわけにはいかなかっ
たと思われ。
とは言え、現代流に言えば政治犯だし、元中納言で元大大名一族だし、加賀前田家
から仕送りがあるし、代々の中には「貴種」として有力島民と婚姻を重ねたりして
いるそうだから、食うや食わずの一般の流人たちとは同列に語れないという罠。

46: 日本@名無史さん
>>44
「八丈実記」を読め。ある程度想像はつく。

25: 日本@名無史さん
八丈島には、今でも子孫たる浮田姓の人がたくさんいるんだよなぁ確か。

31: 日本@名無史さん
はっきり言って、直家の子供とは思えん。親の何処を見ていたのやら?

35: 日本@名無史さん
>>31
親は死んでたんだよ。

36: 日本@名無史さん
>>31>>35の問答は、対象を織田秀信に替えても成立するな。(w

37: 日本@名無史さん
宇喜多能家は立派だった。孫の直家も賢かったが.....。
もしかして隔世遺伝で興家に似たんかな。

42: 日本@名無史さん
>>37

興家ほどの無能ではないだろう。
だってあいつは牛引き以外に使い道がなかった男。

38: 日本@名無史さん
秀家が無能だったというのが定説なのか?
そうとも言い切れんのじゃないかねぇ。

ただ、義父たる故・秀吉への盲目的な忠義感が強いことで周囲に知られていたので、
もちろん、本人に相応の能力もあったから、年端のゆかない若者であったにも関わらず、
西軍の総大将に祭り挙げられたものと(ry
若くして中納言として恥ずかしくない程度の教養も胆力もあったとされてる。
家康の方が、上手だったということだ罠。
あと、関が原戦の前に、家臣団内に騒動があったのも事実だが、力量不足で片付けるのは酷かも。

まぁ、天下を取るか否かという程の人物では無かっただろうが、いかに秀吉の七光りが
あったとはいえ、地方の武士豪族が・・・と考えれば(ry

40: 日本@名無史さん
八丈島でストレスの無い生活を送れたので長生き出来たんだろうな。

52: 日本@名無史さん
「たまには米が食いたいのう」って愚痴こぼしたらしいけど

54: 日本@名無史さん
>>52
八丈島って稲作が出来ん風土ということですかね?
それにしても、「前田家の仕送り」の中には当然 米俵もあっただろうとオモワレ・・・

63: 日本@名無史さん
八丈島は気候的には稲作に充分適していると思うが、
問題は水かな。

66: 日本@名無史さん
宇喜多秀家の名誉回復は1870(明治3)年です。
子孫は士族待遇を受け、明治政府から東京に屋敷地を与えられました。

93: 日本@名無史さん
宇喜田の家は維新後、復権して当主は東京に家を与えられたんだよ

94: 日本@名無史さん
前田屋敷内に畑と小屋もらったそうだが・・・。
なじめなくって大勢帰っちゃったらしいね。宇喜多一族。

95: 日本@名無史さん
>>94
へ~。
「帰っちゃった」って八丈島にか?

97: 日本@名無史さん
そういえば、かなり昔に山口の宇部商業が甲子園に出場したときのピッチャーに
宇喜多ってのがいたな。

100: 日本@名無史さん
関西には浮田姓が結構居る、宇喜多の浮田とは関係ないんじゃない。

102: 1 ◆2LEFd5iAoc
>>100
宇喜多一族は、八丈島に渡ってから、浮田と改姓したと聞いたことがあるが?

106: 日本@名無史さん
宇喜多氏と関係のない、浮田さんも大勢いるんだよ。

佐藤・斎藤・加藤・武藤・・・籐が付いたって藤原名訳じゃあるまいに。

111: 日本@名無史さん
江戸時代の絵師である浮田いっけいは、
宇喜多秀家つながりで、本姓として「豊臣」を使っていた。

117: ゆきむら
昨年まで八丈島に住んでたけど浮田という名はたくさんいたよ。宇喜多の関係の人が八丈島から一族の一部が島脱けした可能性について調べに来ていた。黒潮が八丈島付近から房総沖に流れることもあるから可能性はあると思う

123: 日本@名無史さん
俺の親父は八丈出身で祖母の実家が浮田
秀家さんも八丈に来て幸せだったと思われ

124: 名無し乙
人間生きて家族といればどこにいても幸せなのさ。
…例外もあるが。

>>123のいうように秀家は幸せであったと願いたい。

125: 日本@名無史さん
豪は再婚したの?養父の妾で実姉のまあは再婚したみたいだけど
↑すごい関係だよなぁ。実姉が親父の妾

158: 日本@名無史さん
家康は秀家を嫌ってたんでしょうか・・
秀康とは面識あったのかな?

162: 名無し乙
秀家と家康の不仲の原因は、実は当時流行していた差料の
交換を秀家が渋ったのを家康が憤ったというしょうもない
理由である。

へぇーへぇーへぇーへぇーへぇー

また秀家が八丈島から帰れなかったのは、
家康の重臣ながら実は秀家と太いパイプを持つ
本多正信が死に、そして正純が失脚したからである。

へぇーへぇーへぇーへぇーへぇー

171: 日本@名無史さん
本多正信、正純父子が健在だったら帰れたのか?
ちょっと疑問だな。

172: 日本@名無史さん
前田家が健在だったから帰れなかった説も
ややこしいのに帰ってこられても・・・ってのもある。

173: 日本@名無史さん
豊臣秀吉の養子だった秀家が帰らせて貰えるわけないじゃん。
「帰らなかった」じゃなくて「帰れなかった」に決まってるだろ。
つーか八丈島流刑だけでも異常に寛大な措置だと思うのだが、
俺が家康なら死刑、もしくは八丈島に流してから暗殺。

174: 日本@名無史さん
たとえ帰ってこられても秀家の復権は無かっただろうな。
前田家にお預け、よくてせいぜいせがれに一万石くらいか。

175: 日本@名無史さん
常識的に考えると帰れるわけないな。重罪人だから。
それにしても家康公の度量の広さには驚かされる。
本来ならば浮田のような大罪を犯した輩は磔にして
その罪を明らかにし、天下に謝すべきであったのに。

176: 日本@名無史さん
関ヶ原から2年たっていて家康は秀家を厳罰に処するタイミングを失ったとも言える
そういう意味では薩摩に逃げ切った秀家の勝利とも言える


薩摩から海外へ逃げ捲土重来を期するとか、家康をびびらせようとすればいろいろと考えられたわけで
結局最後は前田+島津の命乞いで八丈島に流刑になった秀家は
所詮おぼっちゃま大名以上の物ではなかったと言うことなのだろう

177: 日本@名無史さん
毛利が処刑されてないのに宇喜田がやられるこたぁないだろ

ところで、坂崎直盛が千姫を嫁がせようとしていたのは誰なのか聞くのはこのスレでいいですか?

179: 日本@名無史さん
>>177
毛利はピンピンしてた。宇喜多は素浪人に成り下がってた。
殺りやすさがちがう。

182: 日本@名無史さん
>>177
>毛利はピンピンしてた。宇喜多は素浪人に成り下がってた。

逆に言うと、あまり重要人物ではなくなった。家臣にもある面見放されて・・・
立花みたいに旧家臣が結束してるといいほうに転べば復活だが・・・悪い方にころべば

183: 日本@名無史さん
>>182
しかも関ヶ原から数年たって、処刑の見せしめとしての効果も薄くなった。
関ヶ原直後だったら三成たちと一緒に斬首だったんだろうけど。

178: 日本@名無史さん
明石全登は死んだのか?
秀家はキリシタンだったのか?

181: 日本@名無史さん
>>178
明石全登の行方は結局分からずじまいじゃなかったっけ。幕府も必死になって探したようだけど。
ちなみに
全登の息子は薩摩に逃げて島津光久の祖母に匿われているのがかなり後になってばれて処刑。
光久の祖母は島流し。しかし、光久は連座せずにその後無事に藩主になれてるんだな。不思議だ。

秀家が切支丹だったかどうかは分かんないねえ。
少なくともバテレン側の記録にはそういう話はなかったと思う。
しかし、彼には側室もいなかったようだし、切支丹的な考えに染まってはいたかも。

206: &ΩΨρ
秀家さんは長生きしますた。八丈島の環境がよかったからでしょうな。

211: 日本@名無史さん
なんかこのスレさびしいな・・・じゃあひとつネタ振り。

関ヶ原以前、宇喜多って決して小さい大名じゃないよね。
なのになんで宇喜多は取りつぶされて、毛利と上杉は減知で済んで、
島津に至ってはまるまる安堵になったんだ?なんでだ!

まずい、秀家に不利な結論がいきなり出そうだ・・・

213: 日本@名無史さん
>>211
それがネタ振りw?
戦後に抵抗できるほどまとまった軍を、持っていなかっただけだろ。
上杉も毛利も島津も攻められれば戦うだけの用意があったが、宇喜多は
主君自ら逃亡し、家臣や兵はバラバラじゃん。
家康は、褒美をあたえるためにもできるだけ領地をかき集めたかったのだから、
弱いやつからは否応なく取り上げるだけのこと。
別に考えるほどの意味もない。

218: 日本@名無史さん
娘を秀頼に嫁がせるという条件で秀家を後継者にしておけば、
豊臣家は安泰だったかもしれないね。

一部に秀家無能説があるみたいだけど、それは正しくないでしょう。
家康が30くらいの時だって農民や家臣の反乱に手を焼いていた。

まあ秀吉に認められること自体すごいことだよ。
地位が人をつくるって言うが、もし秀家が関白になっていたら、
家康とてうかつには手をだせなかったでしょう。

219: 日本@名無史さん
>>218
うーん、まず武の面では指揮は部下にまかせっぱなし。
政治面ではひどい浪費癖があって、宇喜多家の経済は困窮。
無理な検地を強行してお家騒動。
外交面でもお家騒動で家臣を家康に取られたり、やむおえないかもしれんが結果的に宇喜多を潰した。
少なくとも無能な証拠はあっても有能な証拠がないんだよね。

あと「秀吉に認められる事自体すごいことだよ」って
そりゃ「認められる」の意味が違う気がするんだが、あくまで養子同然に育った事に対するものでしょ。
それと秀吉の激賞乱発癖知らないの?
秀吉が激賞した人物なんて少なくとも数十人はいるよ。

220: 日本@名無史さん
秀家の浪費は凄かったからね。
秀吉が五大老に宝剣を提出させた時、一本ずは抜けて豪華な宝剣があるのを見て一発で秀家のだとわかった逸話もあるし、
国元の政治など省みず毎日、京や大阪で遊興三昧だったし、
道楽に対する凝りようも尋常ではなく、鷹狩のための鷹を二百匹も飼っていたとか。

221: 日本@名無史さん
刀は武士の魂であり、鷹狩は軍事演習である
秀家の心掛けの程が偲ばれる

224: 日本@名無史さん
>>221
大名たるもの戦に備えて兵を養い、財を蓄えねばならない。
だが秀家は・・・。
無意味に飾りたてた刀、無駄に増えた鷹が秀家の心掛けを示している。

261: 日本@名無史さん
たしか伊達資料館に宇喜多秀家の手紙が残っていたよ。
漢文で書かれていた。
ほかの大名は崩しで読むこともなんぎした。
ただ、秀家の漢文は約文と本文を見比べて文章を読むことが出来る、丁寧な文章だったよ。
太閤のはひらがなばかりで・・・・・・

262: 日本@名無史さん
>>261
漢字なんかどうでもいいから、読んで意味が伝わればいいんじゃ。

と、太閤殿下は言ってたそうで。

引用元: ・マジで宇喜多秀家を語ろうぜ







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