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1: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 12:15:43
幸いにも我が国そしてインド、東南アジア、アラビア半島、西欧、シベリア?
これらの地域についてジックリ話そうか








2: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 12:22:50
別にユーラシア大陸限定とは言わんけどさ、ただこれらの地域にとってモンゴルはまさに畏怖の対象だろうね
実際支配されたことないから知らんから余計恐怖心とかあるよな
そう考えると漢民族てタフだよな、あんな恐ろしい連中と何世紀もわたって抗争繰り広げてたからな・・・

3: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 12:48:13
>>1
アラビア半島はイル汗国の支配下でなかったの

4: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 13:09:32
>>3
結局マルムーク朝倒せなくて半島内部までは進出できなかった
メッカやアデンは支配されてないだろ?

5: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 13:11:51
元史にはメッカまで征服したとか書いてる

6: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 19:18:58
>>5
郭寶玉伝でしょ。
マムルーク朝が押さえていたエジプトも征服したとか書いてあるよw

伝統的にエジプトを支配した政権がメッカ、メディナの「両聖都の守護者」となってるけど
マムルーク朝がそれを宣言したのはたしかバイバルスの時代だったか。

7: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 20:53:10
初心者だけど同じ騎兵のコサックとはやり合わなかったの?

10: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 21:58:44
>>7
ロシア史料でコサックについて初めて言及されるのはモンゴル帝国衰退期で
しかも名前を見る限り初期のコサックはタタール人っぽいとか。

それ以前のキエフ・ルーシの時代にもチョールヌイ・クロブキ(黒頭巾族)という
キリスト教に改宗した遊牧民の辺境守備隊がいたけど。
モンゴルによってヴォルガ川流域に強制移住させられたらしいけど
後のコサックと関係あるのかないのかよく分からんだろうね。

8: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 21:43:43
忘れちゃいけない北アフリカ。モロッコはスペインにもモンゴルにもオスマンにも屈しなかった

9: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 21:49:24
>>8
スペインにセウタとか沿岸の都市奪われてなかったっけ?>モロッコ

14: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 04:10:21
個人的にはアフリカ大陸には進出して欲しかったなー
モンゴル騎馬民族VS黒人部隊の壮絶な戦い・・・・・ところで黒人傭兵てマムルークで使われてたか? 
ちょっとその辺気になる
まぁーいずれにしてもモンゴル帝国関連は夢が広がる

17: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 09:43:17
>ところで黒人傭兵てマムルークで使われてたか?

マムルークは弓矢と刀槍での騎馬戦闘を誇りにしていたので
火器を嫌って鉄砲隊や砲兵隊は黒人奴隷にやらせてたとか

19: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 12:19:49
意外にも北欧て攻められそうで攻められない位置にあるよな
と言うよりスカンディナビア自体誰も気づかないか

20: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 13:00:37
13世紀頃って、地元民のバイキングだって、スカンジナビアのことを島と思ってたくらいだよ。
トナカイを狩っていたラップランド人は往来していただろうけれど、判っているのは自分らが季節移動を
する範囲のことだけで、大きな陸塊のどういう位置とか地形だとかは意識してなかっただろうし。

21: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 14:02:20
でも当時バルト海のゴトランド島あたりでタタール人襲来の噂が広まって
それでなぜかニシンの値段が暴落したらしい

22: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 15:21:43
タタール人が来ると、東の方に傭兵が駆り出されるだろ。兵糧としての塩蔵ニシンの需要が
無くなる、もしくは、東の方まで輸送費がかさむから持っていっても割に合わないから、
獲らない作らない作らない。

モール人との戦闘ならば、得意の船でがしがし運んでいけるし、戦場は今のスペイン・ポルトガル・
フランス・イタリア辺なので陸路でも運び易い。
タタール人との戦争になったりすると、ヨーロッパでの小競り合いもやむだろうから、兵糧の需要が
減ってしまうし。

23: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/29(木) 12:56:50
>>22
でも教皇ウルバヌス4世は対モンゴルの十字軍を集めていたが
ドイツ騎士団領でプロイセン人の反乱が起きてそっちに回したそうだ

24: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/30(金) 13:40:08
ヒマラヤ山脈がなかったらインドも危なかったな

25: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/01(日) 10:19:55
デリー・スルタン朝はむしろチャガタイ家とフレグ家が牽制しあってたせいで本格的な侵略を免れたのでは?
トランスオクシアナからアゼルバイジャンまで平定したティムールには負けて劫略されてるね。

26: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/01(日) 21:16:26
ヒマラヤ山脈は常に中華文明とインド文明の衝突を防いできた壁だからな
あれがなかったら歴史は大きく変わってたな
ただインドて北西はガラ空きだからそこからの侵入には弱いよね

28: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/02(月) 00:35:43
ヒマラヤ山脈の北べりに支那の力が及んできたのって、中共になってからだよ。
チベットほは、元は西回りで攻めてきたから、中華文明として入ってきたわけでないし、
清は、西海に土着化していたモンゴル人の首領を介してチベットをてなづけていただけで
入っていけてなかったし。

29: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/02(月) 08:44:56
インドは意外と攻め難いらしい。
場所は忘れたけどインド内深く進入できる道は1つしかないとか聞いたことある。
どこだったっけなあ

まああれだ。滅亡した方も凄まじい抵抗しとるよな。

30: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/02(月) 16:36:19
>>29
インパール作戦を見れば納得する

31: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 03:58:34
南から攻めたイギリスはやはり正しかったのか

35: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 12:59:35
>>31
予め軍事拠点をもち民族対立を理由しながら一民族つづ何十年もかけて制圧していったイギリスと闇雲に攻撃するモンゴルは全くの別物だろ

32: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 06:19:36
そういえばティムールの孫がインドを攻めて大敗してたような
やっぱり攻めるのは難しいのかね?

33: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 12:20:35
面積ではるかに中国より劣る高麗を征服しきれず、服属させるのに何十年
もかかっている所を見ると、平原でない所では極端に弱そう。

44: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/05(木) 19:41:33
>>33
モンゴル軍が朝鮮半島の地形に苦労した印象は無いな。
引き篭もりの高麗王朝無視して、30年間半島全土で好き放題暴れまわりました、って感じ。
たぶん獲得した奴隷や略奪品で、収支決算は大幅黒字だったんじゃないのかな。

392: 世界@名無史さん 投稿日:2010/02/26(金) 22:20:22
>>33

総大将のサルタクを討ち取られたり、苦戦してるね。
実際、高麗が降伏した後のモンゴルとの講和内容は極めて融和的だし。

34: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 12:23:50
海から攻めてきたイギリスにはあっさりと敗れてしまったと<インド


37: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 16:24:06
ヒマラヤ山脈、アラカン山脈、タール砂漠、インド洋で護られたインドは天然の要塞だ。

41: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/04(水) 05:40:54
その割にはインドって他地域からの征服王朝が多いじゃん。
インド亜大陸の統一は難しくても侵入・定着自体はそんな難しくないんじゃないの?

42: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/04(水) 09:06:04
北半分はね。
デカン高原やその先まで行こうとするとハルジーやアウラングゼーブのようなことに・・・

43: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/04(水) 20:28:10
東側からの侵攻は山脈に囲まれてて難しいだろうな。
北西にルートがあるので、そこからだったらまだ侵攻は容易だろ。
アレクサンドロス大王もカイバル峠を越えてインドに攻め入ったしな。
これも北西ルート。

45: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/06(金) 15:32:51
東南アジア方面が一番苦戦してるよな各地で負けまくってる
やっぱりあの多湿高温の地域は苦手なんだろうな

38: 名無し募集中。。。 投稿日:2009/02/03(火) 19:01:53
>>1
ビザンツとモンゴルは戦ったっけ?

40: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/04(水) 00:53:50
>>38
キプチャク汗国が何回か侵入してる。

51: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/07(土) 16:12:36
モンゴルはあれ以上膨張を続けることは果たして不可能であったのだろうか?
もし帝国の分裂が起きづにいたら結果はどうなってたのかな、よくあるタラレバだが

52: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/07(土) 17:01:46
多分、膨張を継続することは可能だったと思う
その反動で、連邦化・分裂化が余計に進行しそうだけど

53: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/07(土) 17:47:06
弘安の役で江南艦隊10万が全滅するなんて事態にならなかったら、
その後の東南アジア諸国は問題なく征服できていたはず。

54: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/07(土) 17:51:25
バグダートでやった殺戮をベトナムでも実行してれば支配できたんじゃね?

56: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/07(土) 23:19:16
>バグダートでやった殺戮をベトナムでも実行してれば支配できたんじゃね?

バグダッドとベトナムでは湿気が違う。バグダッドのモンゴル兵はピンピンしているだろうが、
雲南遠征ですらモンゴル軍は暑さと湿気で苦戦し敵を殺戮どころか自らの健康すらままならなかった。

57: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/07(土) 23:20:26
ベトナムでもビルマでもジャワでも、元軍は野戦だと普通に圧倒的な強さだったよ。

58: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/08(日) 00:49:47
そもそもビルマとかジャワの武器や装備てどんなのだったのかな
映画に出てくる未開人のように素っ裸の状態で丸木弓とか竹で作った槍とかで戦ってたのか?
ホームとは言えよくそんな状態でモンゴルと戦えたな

61: パオさん ◆mEq.Fp/iL. 投稿日:2009/02/08(日) 01:37:06
モンゴル軍の構成は基本的に攻める国の隣国の兵を大動員していることを忘れてはならない。
指揮官クラスのみがモンゴル人で、後はその国に詳しい隣国の将兵が務める。
東欧を攻めた時はキエフ公国などのスラブ人部隊を動員したし、日本に侵攻した時は
朝鮮人や南宋人がメイン構成だった。
だから、イギリスだろうとアフリカだろうと、同じやり方を通せば、世界征服が可能だっただろう。
問題はその後の統治であって、如何にその国をモンゴルに服従させるかが重要だった。
手っ取り早いのはモンゴルの皇族とその国の王族を姻戚関係にすること。
また、宗教や言語はそのまま使い続けることを許し、有能な人材は中央政府の官僚として採り立てる事。
それが崩壊した時(モンゴル人優越主義化)、モンゴルの終焉は始まった。

62: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/08(日) 01:50:50
>>61
そこまで独自色を許したら世界征服する意味が半減だろ。
世界を自分色に染めるのが男の本懐なのに。
経済的な利益だけではそこまでの大事業をするモチベーションが上がらない。

64: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/08(日) 03:31:35
>>62
相手を自分色に染めようなんて考えたら、
激しい抵抗を招くだけじゃん。
モンゴル帝国はそういう無意味なことに
こだわらなかったから、あれだけ巨大化できた。

68: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/08(日) 07:52:58
>>61
>問題はその後の統治であって、如何にその国をモンゴルに服従させるかが重要だった。

モンゴル帝国の場合、服従してる側にもメリットがあるんだよ。
常勝軍の一員として征服戦争に参加し、略奪品や奴隷、領土なんかのおこぼれに与れるんだから。
だから、帝国が膨張し続けているかぎりは、求心力の維持も簡単なの。
高麗とかも、モンゴル帝国に対してしつこく日本侵略を促してるでしょ。
ある種ネズミ講みたいなシステムね。

88: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/09(月) 01:02:36
モンゴルは圧倒的な強さだった。しかし、なぜあの時期だったんだろうね。
匈奴は強大だったけど、そこまでではなかったし。
モンゴル族の戦闘能力ならもっと早い時期にユーラシアを圧巻する時期があっても良かったと思う。

90: パオさん ◆mEq.Fp/iL. 投稿日:2009/02/09(月) 01:28:51
>>88
やっぱ、テムジンの類稀なる才覚の賜物だろうね。
民族や宗教の違いを超えて、有能な者を採り立てたり、
モンゴル文化に固執せず、優れた技術や文化はどんどん吸収した。
騎馬遊牧民でありながら、経済というものを重視し、東西を行き交う隊商を保護した。
帝国というよりも「緩やかなユーラシアネットワーク」を構築できたことが
モンゴルの成功を促したんだよ。
アレキサンダーやティムールも大帝国を創出したけど、モンゴルのような内面的なシステムを作らなかったので崩壊した。

89: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/09(月) 01:23:02
圧倒的な戦闘能力で内輪もめしてたからじゃね?
チンギス・ハーンという偉大な指導者の出現が不可欠だったのだろう。

116: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/11(水) 00:52:32
ベトナムの南、観光でボート乗った
濁った川は迷路のように伸び、深いジャングルが川べりまであって
こんなところでパトロールなんて大変だったろうな

138: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/12(木) 06:22:46
ベトナムは密林と気候、日本は海、シリアは局地戦、でインドの勝因はなんなんだ?

190: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 13:16:51
>>138
ベトナムはゲリラ戦が得意だったのもあるな。しかも結構一致団結してさ。
モンゴルきたときも住民は食い物かくしてさっさと山へ逃げてる。

まあベトナム戦争みりゃわかるが元々強いんだろな。連中。

141: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/12(木) 20:33:08
象って遊牧民には効果があったみたいだけど、動きも馬より遅いだろうし不思議だな。
ティムールもデリー攻略のとき、象にかなりてこずったみたいだし。

142: パオさん ◆mEq.Fp/iL. 投稿日:2009/02/13(金) 00:13:22
>>141
牙に槍付けた象さん数百頭が凄まじい地響きとともに真っ黒な津波となって突進してくるんだよ!
小型の蒙古馬なんて、ビビッて動かなくなるさ。
しかも象さんの上に櫓のような巨大な見張台が乗ってて数人のインド兵がモンゴル兵の直上から矢を射掛けてくるんだよ!


そんなインド様に勝てるワケねーだろ。常考。

154: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/14(土) 04:28:31
>>142
ただの掠奪遠征を撃退するだけならそこそこ効果があったけど、
重武装の騎馬隊を用いた本格的な侵攻にはあんまり効果がなかったらしい。>ラージプート政権の象兵

1192年の第二次タラーインの戦いでゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドは、チャウハーン朝の
プリトヴィラージャ三世の象兵部隊数百頭に対して四万騎からなる完全重武装の騎馬部隊を使い、
四方八方から弓矢と投槍で袋叩きにして壊滅させたそうなんだけど、騎乗している象兵に対して
雨のように弓矢を、象に対しては象の口の中にありったけの投槍を叩き込んで片っ端から倒したとか
ゴール朝系の歴史書に出て来る。
(プリトヴィラージャ三世は象から降りて馬に乗り換えてなんとか逃げたそうだ)

インド北辺にいたモンゴル軍は、カシミール方面にずっと駐留していたようだけど、アフガニスタンや
カシミールにいた遊牧民系の政権は古代のサカ系にしろ千年後のガズナ朝にしろモンゴルにしろ、
インドの富を狙っての掠奪遠征はするけど、やっぱり夏の酷暑を嫌ってなかなかインド方面で
腰を下ろさない場合が多い。(サカ系は一応インドに定住したか)

ただし、クシャーン朝やゴール朝系の奴隷王朝、ムガル朝みたいに一旦もう面倒だからインドで
政権を建てる!と決心すると、インド側の政権の軍隊は殆どの場合歯が立たなくて、遊牧系の
連中がなんとか暑さを耐えられる北インド一帯まで征服される、ということが多かったようだ。
(やはり機動性の高い騎馬部隊の絶対数の寡多が勝因を決している感じ)

143: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/13(金) 00:36:58
バーブルやアクバルの頃の「モゴール」たちは馬を後肢で立たせて高くなったところで
槍でホウダーの上の敵兵を突くということまでやるようになってたがね。

144: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/13(金) 02:31:35
結局モンゴルって馬さえ潰せばそこまで強くないんじゃね?

145: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/13(金) 09:00:44
>>144
カラコルムまで行ったカルピニ修道士の報告書(ほとんどスパイのレポート)によると
「戦闘中に乗馬を失ったモンゴル人はその場で死ぬまで弓矢で敵を射殺し続けるので非常に危険」
とか書いてるよ。

146: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/13(金) 12:09:26
モンゴル軍は密林で象部隊を撃破し、ビルマのパガン朝を征服しているが

148: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/14(土) 00:30:09
アレキサンダー大王もインドの象部隊にやられたしな、それとインドの場合は莫大な動員力も勝因じゃないの?

157: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/14(土) 18:54:02
シベリアには興味なかったんだろうか?
明確な国家が存在しないから「ここから北は俺たちの領土みたいなもんだろ」とかそんな感じで無視してたとか?
だけどヤクート人やエヴェンキ人の存在は知っていた?とは思うんだけど戦争らしき事も起こってないし、謎だなぁー
でもあんな広大な大地は統治しようと気が失せる気持ちも分かるけどね
その点ロシアの欲は凄いな

158: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/14(土) 22:01:31
好んでシベリア送りになりたい奴はおらんよ。
ロシアが欲かいたのは、毛皮が取れてそれが高い金で売れたから。

でも地味にモンゴルは樺太まで渡ってるんだけどね。樺太に元軍が築いた砦の遺跡が
ある。

159: パオさん ◆mEq.Fp/iL. 投稿日:2009/02/14(土) 22:31:23
>>158
元が樺太に侵攻した理由として、日本を北辺から侵攻しようとした可能性がある。
アイヌ諸侯国を支配下に置き、背後から日本の中枢を突く戦略パターン。
蝦夷島と奥州を騎馬の速力を利して一気に南下し、鎌倉政庁を瞬時に撃滅、そのまま東海道&中仙道を西進。
合わせて北九州からも攻め込んで、京の都付近で江南軍と北辺軍が残存日本軍を挟撃するというシナリオ。

162: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 01:01:57
>>158
一応、いわゆる「北の元寇」についての専論が既にあるけど、主要典拠である『元史』や
『高麗史』の書き方では、アムール川周辺の現地住民が間宮海峡を渡って樺太からやって来る
「骨巍」の掠奪を受けているため、現地の女直や水達達など救援要請に応える形で対処療法的に
部隊を派遣しているに過ぎないような印象だ。

クビライの治世末期くらいに騒擾や掠奪を繰り返す樺太の「骨巍」に対して女直人部隊一万人を
狗橇で海峡を横断させて制圧しているけど、その後の情勢についても資料では飽くまでも
「骨巍」の鎮撫にのみに重点が置かれていて、日本のにの字も出て来ない。
部隊の派遣も日本遠征とかカイドゥやカダアンの乱なんかが下火になったか暇が出来た時に
出しているため、他の作戦と連動したものとかではなく、一連の派遣の目的は「骨巍」鎮圧
以上の意味はなかっただろう、というような説明だったと思う。

168: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 08:27:12
>>162
時代はまさにアイヌ人の膨張期でしょう。
時代的にはちょうど北海道の擦文文化が終わる頃ですね。一方、樺太はオホーツク文化時代。
考古学の時代区分とも何となく符号するし。文献資料からは北海道からアイヌ人が北方へ
盛んに侵攻していった様子がうかがえますね。しかも、沿海州にまでその侵攻はおよんだらしい。
これは考古学だけでは分からんですね。

後のアイヌ人のイメージからはあまり想像できない状況ですが、実はアイヌ人は独自の鎧も持っていました
>http://sv06.wadax.ne.jp/~gunsight-jp/c/k-ainu.htm

ainu-03
桂甲をまとった樺太アイヌ
資料: 北海道大学北方資料データベース
 
古墳時代の桂甲に似てるそうですが。

185: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 03:37:42
>>168
> 樺太から沿海州へ

なるほど。北東アジアの考古学関係については全然専門外だけど、十三世紀後半頃の
発掘資料と文献上での情報がちゃんと符合しているというのは興味深い。

そういえば『中世十三湊の世界―よみがえる北の港湾都市』という本で、12世紀末から
13世紀にかけて沿海州から北海道一帯にかけて交易物品の出土状況が大きく様変わりして
いるとかで、モンゴル帝国の出現で北東アジアの交易ルートが変わり、大陸の物産が樺太以東へ
あまり流入しなくなったんじゃないか的な議論がされていたと記憶しているけど、案外「骨巍」
の侵攻もそこら辺も絡んでいるんじゃないかと思わせるような内容だった。

> 古墳時代の桂甲に似てる

鋼性の小片を短冊状に束ねる鎧は既に紀元前後くらいの匈奴関係(らしい)の文物の中にも
描かれているそうで、拓跋や突厥などの遊牧勢力もだいたい同じような鎧を用いて居たらしい。
第三代モンゴル皇帝グユクの即位式を訪れたローマ教皇使節団のひとりプラノカルピニの
ジョヴァンニもその報告書で「鋼性の小片を短冊状に束ねる鎧」がモンゴルの兵士が着用している
ことを述べているから、この種の鎧は(中国方面からの逆輸入的な影響もあるかもだろうけど)
遊牧勢力の伝統的な鎧なのかもしれない。古墳時代は拓跋や突厥、高句麗など遊牧系政権が興隆
していた時期で、古墳時代の文物はそういった当時流行していた大陸の遊牧系の文化スタイルの
影響下にあったことは良く言われている通りだと思う。(例の騎馬民族征服説は置くとしても)
↓は十四世紀頃の絵で、モンゴル兵をモデルにしたもの。

○『集史』預言者伝のバドルの戦い部分。預言者ムハンマドの事蹟だから、本当は七世紀のアラビア半島
の話だが、絵の鎧や風俗は十四世紀あたりのモンゴル兵が着用したものをもとにした、所謂「当世風」。
no title


チベットの寺院に残されている(多分北元以降のモンゴル王侯に)奉納された鎧を何処かの
サイトで見たことがあるが、胴回りから脚部までの裾の感じのアイヌの鎧と良く似ていた。
もしかしたらこのアイヌの鎧は清朝あたり経由で北方からもたらされたものが現地化したもの
なのかも。

365: 世界@名無史さん 投稿日:2009/08/20(木) 22:29:25
>>185
シナ人は打ちものが不得意で、胴体を半周包むような大きな鍛造品を作れなかった。
だから、仕方なく、小片を革紐でつなぎ合わせる形での甲冑しか作ることができなかった。
まぁ、それはそれで、一人一人あわせて作る必要が無く便利で、その形式の伝わった日本も
古墳時代から明治維新まで二千年くらいその形式の甲冑だったが。
もし、仮に、製造技術が伝わらず、体躯の半周を覆う形の甲冑が伝わったとしたら、
銅鐸でやったように他ではできないような薄い鋳物を作ったり、刀剣のようにシナ圏とは
全く別の技術の起源で鍛造を始めたかもしれない。

160: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 00:18:18
あの時代に樺太を南下したら日本に着くと知っていた大陸の人はいないでしょ。
地図の空白部だよ。
原因は元に朝貢していたニヴフ(旧名ギリヤーク)が樺太アイヌ(エンチュウ)に
攻められてると元に泣きついたこと。樺太アイヌとニヴフは仲が悪く、間宮林蔵の
北方探検の時代でも、アイヌの案内人がニヴフ(山丹人と記述される)の集落に行く
のを怖れていたりする描写がある。長年の交易相手でもあったんだけどさ。

しかし、モンゴルはロシアを攻めたり、樺太に渡ったり、寒さには何か強い感じだね。
ナポレオンはロシアで冬将軍に出会ったのに。江戸時代の日本でも樺太を攻めるのは
きつそうだ。

161: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 00:45:50
雲南遠征の際にはトゥルイは体調を崩してそのまま死去、
ベトナム遠征は惨憺たる失敗と、モンゴルは寒さには強いが暑さには弱い。

163: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 01:02:43
ロシア遠征も冬に沼沢地が凍って馬が通れるようになった時を見計らって
一気に攻めたんだっけ。

178: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 19:30:04
チンギスハンはムスリム商人や漢族豪族、キリスト教の宣教師など
多様な文化と接触出来たし、ケレイトのような有力なバックもあったが、
アイヌやインディアンはそのような多様な文化と接触出来なかったし、
発展させる母体となる集団も無かったので、多種多様な民族や宗教を取りまとめて
一つの国家にさせようという発想自体が生まれなっかったのではないのか。
シャクシャインが和人、漢人、イスラム学者、キリスト教宣教師に囲まれて成長していったのなら
チンギスハンのような首長にもなり得たかもしれないが。

183: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 00:33:31
実は野心ありまくりのフビライも既に遊牧騎馬民族の支配領域の限界を悟っていたんじゃないか?

184: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 00:53:02
フビライはむしろモンゴル帝国史上一人だけその限界を突破しちゃった人。
他の諸汗国ではまともな海軍を作ろうとか考えもしなかったからね。

186: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 04:41:01
>>184
それまでのモンゴル軍は基本的に陸上での戦闘のみを考え、凍結していない河川は
進路の障壁くらいの認識だったみたいだが、これはクビライ時代までの主要な戦場が、
大きな河川が稀な大陸の乾燥地域だったせいも大きいだろう。
>川底が浅ければ騎乗で渡河、深ければ船橋でおkみたいな認識。

南宋作戦の場合、オゴデイの時代から江南の入り組んだ河川流域の諸都市を攻略するのに
従来の陸伝いでの進軍のみで対処していたようだけど、経路が限られるため毎回苦戦を
強いられていた。クビライが海軍、というよりも「水軍」を使うようになったのは
攻城戦や渡河作戦が他の地域よりも遥かに多くなる南宋作戦に対して、ムカリ国王家の
華北経営の延長で醸成された、華北一帯のモンゴル系と契丹・女直などの混成軍
(蒙古・漢軍)を投入しようとしたのがベースになっているそうだ。

ただ、クビライが水軍に力点を置いたもう一つの大きな理由が、モンゴル高原や興安嶺方面の
従来のモンゴル騎馬軍を主体とする軍団が、カイドゥなど中央アジアでの紛争に投入せざるを
得ないため、モンケの頃のようにモンゴル帝国東部の軍を南方へありったけ投入するという
ような作戦がクビライの場合不可能だったという切実な事情もあった。

他には北宋時代に曽公亮らが編纂した『武経総要』のような軍事書に軍船などを用いた
水上戦闘についても論じられているため、それらの漢籍から得られる水上戦闘に関する研究を
混成軍に活用出来た、というのも大きいかも知れない。

187: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 04:54:11
>>186の続き。

> 他の諸汗国ではまともな海軍を作ろうとか考えもしなかったからね。
モンゴル帝国の領土で大洋に面しているのはクビライの元朝の他はイラン高原のイルハン朝
くらいだが、もともとイラン方面も含め歴代のイスラーム政権は政治的な権力を海上へ及ぼす
という指向が極めて希薄だった。

勿論、13~14世紀のイラン南部やエジプト方面の商人や富豪たち(イスラム教徒だけでなく
キリスト教徒やユダヤ教徒等色々いた)は海上交易で莫大な利益を得ていたが、イスラーム政権は
彼らの資本力の源泉であった農園からの税収や船舶から卸した後の売上税から徴集していたが、
海上での活動そのものに干渉することは殆どなく、そのため海上の諸々は全く「民間の世界」だった。
>そのため近現代になるまで西欧諸国によるインド洋や東南アジアへの進出に対して、
 イラン高原やインド、エジプトやアラビア半島の諸政権はほとんど何らタッチ出来なかった。

イスラーム政権で海上へ軍事行動を起こしたのは、アラブ征服時代に地中海上の島々への征服とか
コンスタンティノープルへの遠征、あるいは精々対十字軍戦争で船舶に攻城兵器を搭載して海上から
攻撃するという程度で、常備的な海上戦力を保有するという場合は殆ど無かった。
(八世紀のイベリア半島征服も西ゴート王国周辺の諸侯が船舶を便宜したためで、北アフリカにいた
 アラブやベルベル軍が固有の海上戦力を保有していた訳ではなかった)
オスマン朝が強力な海軍力を保有していたのはイスラーム政権としては大変に珍しい現象。

なので、元朝以外のモンゴル諸王家が海上戦力を持たなかったとしても、これは当時のインド洋から
東南アジア方面のユーラシアの海上世界の事情からすると流石に仕方がないと思う。

188: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 10:46:32
>>187
サラディンのアイユーブ朝は1179年の段階で80隻のエジプト艦隊を保有していたし、
さらに増強もおこなっている。
実際、1183年には紅海の制海権を巡って十字軍の艦隊と戦ってるし。
その後をついだマムルーク朝だってディウ沖の海戦でポルトガルと戦っているわけで、
西欧諸国のインド洋進出にノータッチだったわけじゃない。
紅海と地中海を結ぶ交易で賑わったエジプトに海軍があるのは当たり前なわけで、
もしもイルハン朝がエジプトを征服していたら、当然海軍も引き継いでいただろ。

191: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 13:19:14
東南アジアはベトナムがふんばってくれたお陰が強いだろうな。
あとモンゴルはやっぱ船にゃ弱いよw

日本も神風とかいうが、二回目の時はかなり頑張ってた。

引用元: ・モンゴル帝国に支配されなかった地域







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