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1: 世界@名無史さん 2012/03/13(火) 09:37:20.85 0

18世紀を代表する卓越した君主である大王を語り尽くそう。
また大王に関する伝記・書籍についても情報あればお願いします。

関連【プロイセン】フリードリヒ大王【啓蒙専制君主】






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フリードリヒ2世

フ リードリヒ2世(1712年1月24日 - 1786年8月17日)は、第3代プロイセン王(在位:1740年5月31日 - 1786年8月17日)。優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとす る芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。

学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、自ら書を著し哲人王とも呼ばれ、功績を称えてフリードリヒ大王と尊称されている。ドイツにジャガイモ栽培を広げたことでも知られる。





213: 世界@名無史さん 2013/11/02(土) 17:05:39.45 0
俺は著名なホモとして知ったぜ!
きちんと調べるとたんなる疑惑だったが

215: 世界@名無史さん 2013/11/02(土) 19:11:15.03 0
この人割と童顔だしホモってよりルイ16世的な理由だったんじゃないだろうか

217: 世界@名無史さん 2013/11/08(金) 22:13:45.80 0
なんか七年戦争を扱った某動画で結果は戦争前と何も変わらず、何も得る所がなかったって結論づけられてたなあ

七年戦争

墺仏露の3国に加えてスウェーデン、ザクセンなどドイツの諸侯も加えると、敵国の人口は8,000万にもなり、人口400万のプロイセンにとって絶望的かと思われる戦いだった。フリードリヒ2世は、序盤のロスバッハやロイテンにおいて、巧みな戦術で自軍より倍以上の敵軍を破ったものの、孤立同然のプロイセンの兵力は消耗し続けた。1757年6月18日にコリンの戦いで大敗した後は守勢に転じ、1759年8月12日のクーネルスドルフの戦いではフリードリヒ2世自ら敵弾にさらされて上着を打ち抜かれ、乗馬は2頭まで撃ち倒されて敗走している。この時の大臣宛の手紙には「これを書いている間にも味方はどんどん逃げている。私はもうプロイセン軍の主人ではない。全ては失われた。祖国の没落を見ずに私は死んでいくだろう。永久に。アデュー」と書かれている。フリードリヒ2世はその後、残存兵力をまとめてどうにか態勢を立て直すが、苦しい戦いは続き、1760年10月にはとうとうオーストリア軽騎兵がベルリンに迫っている。

イギリスの軍資金援助も打ち切られ、フリードリヒ2世は自殺を覚悟したが、1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死すると、甥で後継者のピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者であったため、奇跡的にロシアとの講和が成立した。さらに西ポンメルンで苦戦を強いられていたスウェーデンも、フリードリヒ2世の妹であるスウェーデン王妃ロヴィーサ・ウルリカの仲裁により、同年5月に講和する。疲れ果てていた列強はこれを機に兵を収め、孤立したオーストリアに勝利を収めたフリードリヒ2世は1763年2月10日、フベルトゥスブルクで和議を結び、プロイセンのシュレージエン領有は確定する。


218: 世界@名無史さん 2013/11/08(金) 23:46:51.94 0
オーストリアにとってはそうかも知れないけど、
プロイセンにとってはそうじゃない。

219: 世界@名無史さん 2013/11/09(土) 00:53:36.23 0
イギリスだけが大もうけ
得るとこないってのはない
プロイセンを単独で軍事的に敗北させることができる列強は存在しないということがわかった
列強三カ国でも大苦戦

仏との同盟は最後のカードだったがそれでも無理だった

220: 世界@名無史さん 2013/11/09(土) 01:41:14.40 0
ザクセンって戦後どうなったんだっけ?プロイセンの衛星国?

221: 世界@名無史さん 2013/11/09(土) 02:07:15.49 0
いんや、普通に神聖ローマ帝国を構成する一公国のまま。
ただ戦争で土地が荒廃し、財政も借金漬けになってしまったので
その後の10年は復興に費やされることになる。1806年には王国になった。

222: 世界@名無史さん 2013/11/09(土) 10:18:10.06 0
じゃあ国土的にはシュレージエンが増えただけなんだ。プロイセンの国力は2倍になって影響力も増えたけど

223: 世界@名無史さん 2013/11/09(土) 11:09:15.86 0
そう。何よりも1742年のブレスラウ条約および1745年のドレスデン条約の
合意内容が再確認された。細かいことを言えばフベルトゥス条約後も
シュレージエンにはわずかにオーストリア領が残ってるな。さらに
ザクセンとプロイセンの間で発生していた二か所の小さな領土問題や
関税の争議も、さりげなーくプロイセン側に有利に解決してる。

224: 世界@名無史さん 2013/11/10(日) 21:07:26.80 0
当時のシュレジエン地方は手工業の一大中心地やしな。
工業化が進んだ19世紀ではそのアドバンテージを失ったけど、
その頃のプロイセンはウィーン会議で、次世代の工業地域であるラインラントを手に入れてたけど。

225: 世界@名無史さん 2013/11/11(月) 01:46:01.09 0
大王とか持ち上げられてるからドイツ統一でもしたのかと思ったらちょびっと領土増やしただけでしかもまぐれ勝ちやんw
あともう少しエリザヴェータが長生きしてたらフリードリヒは城門に首を晒されて馬鹿な王様の見本となってただろwww

255: 世界@名無史さん 2013/12/27(金) 19:16:24.19 0
>>222>>225
七年戦争後じゃなく大王没時だが、即位時と比較すると
国家収入は700万ターレルから2300万ターレルへ、
人口は230万人から550万人に増えてる。
ポーランド分割や他の政策含めての総括だと、国力は倍を超えている。

226: 世界@名無史さん 2013/11/11(月) 02:24:09.67 0
>>225
戦術的にはほぼ常に倍くらいの相手と戦って
高い勝率で勝ち続けてる軍事指導者が君主ってのは
この時代では異常なことだよ
しかもシュレジエン獲得で人口で見るプロイセンはほぼ倍になってる
あとポーランドも分割してるから領土ちょびっとではないよ
まあ大王と言っていいでしょ

231: 世界@名無史さん 2013/11/11(月) 16:50:38.51 0
>>226
でもダウン将軍相手にはほぼ全て負けてるじゃん。


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レオポルト・フォン・ダウン

ダウン伯レオポルト・ヨーゼフ・マリア(1705年9月24日 - 1766年2月5日)はオーストリア(ハプスブルク君主国)の軍人。マリア・テレジアの治世を軍事面で支えた人物として知られる。

七年戦争(1756年 - 1763年)においては、皇帝フランツ1世の弟カール・フォン・ロートリンゲンの後任として総司令官となり、フリードリヒ2世の率いるプロイセン軍と戦った。

七年戦争では、コリンの戦い(1757年6月18日)、ホッホキルヒの戦い(1758年10月14日)などでプロイセン軍を破り、フリードリヒ2世の好敵手として知られるが、彼の用兵は消極的に過ぎる、としばしば批判もされている。クラウゼヴィッツも『戦争論』でダウンを取り上げているが、その評価は手厳しい。一方ではその慎重な作戦がプロイセン軍を苦しめている面もあり、軍人としての評価は一概には言えない所である。


232: 世界@名無史さん 2013/11/11(月) 17:19:58.54 0
>>231
ダウンさんは無能じゃないけど七年戦争の終盤はツキがない。
トルガウでもブルケルスドルフでも負け、ライヒェンバッハでも
敗れたせいでせっかく占領したシュフィドニツァ要塞をプロイセン軍に
奪還されてるじゃん。

236: 世界@名無史さん 2013/11/11(月) 19:53:54.34 0
>>231
まともに戦わなければ物量で勝る大国が勝つって事を実践できたダウンは名将だが
この当時はそれだとあんま評価にならんのが可哀相だな

238: 世界@名無史さん 2013/11/11(月) 22:50:27.78 i
>>236
そういう地味な勝ち方が評価されない時代背景があったのはもちろんだろうけど、
そもそもテレジアの目的は「堅実に勝って有利な条件で講和」じゃなくて「派手に勝ってシュレジエンを取り返す」だからねぇ。
多少ボコられたくらいじゃ、絶対にフリードリヒはシュレジエンを交渉のテーブルにのせないだろうし。
後年、シュレジエンからの収入だけ別会計で管理するくらいに重要視してたしな。

229: 世界@名無史さん 2013/11/11(月) 12:05:42.35 0
東プロイセンって戦争中ロシアにレ○プされてたけど全土占領されなかったの?

230: 世界@名無史さん 2013/11/11(月) 16:46:07.17 0
全土占領されたよ。それどころかノイマルク(Neumark)と
ヒンターポンメルン(Hinterpommern)まで占領された。
だけどこれらの地方を、ピョートル3世はあっさり返してくれた。

234: 世界@名無史さん 2013/11/11(月) 18:25:35.40 0
>>230
まさかそれが大戦後ソ連領になった根拠とかだったり?

235: 世界@名無史さん 2013/11/11(月) 19:24:52.73 0
>>234
ケーニヒスベルクがソ連領になったのは、第二次世界大戦中のポツダム会談の
結果による。バルト海に面した不凍港が欲しいって理由があった。
七年戦争時代の戦果が要求の根拠かは分からないけど、帝政時代からずっと
ロシアの為政者がそういう関心を抱いていたのは本当。

239: 世界@名無史さん 2013/11/12(火) 00:13:02.32 0
バリー・リンドン見てプロイセンに興味持ったんですがフリードリヒ大王に関する書籍や映画で何かお薦めはありますか?宜しければ教えて下さい

240: 世界@名無史さん 2013/11/12(火) 07:41:01.87 0
日本語文献だとこれしか思い浮かばない。

『フリードリヒ大王の歩兵―鉄の意志と不屈の陸軍 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ) 』

煽るでもなく言うけど、「良書が読みたければドイツ語を学べ」と言いたくなるのが悲しい。

242: 世界@名無史さん 2013/11/12(火) 11:03:39.71 0
村岡氏の『フリードリヒ大王の研究』は、いい本なんだけど古くて手に入りにくい…
屋敷氏の『紀律と啓蒙ーフリードリヒ大王の啓蒙絶対主義ー』は新しいし、ついでに当時の政治文化を知るきっかけにもなる。
どっちも一般書じゃないので、気にいるかどうかは別だが。

新書にも大王関連あるけど、正直微妙…まあ、生涯の流れを見通すのにはいいかな。

247: 世界@名無史さん 2013/11/13(水) 14:09:41.28 0
フリードリヒが王太子だった頃の逃亡事件で
父子の仲を取り持つため、たくさんの臣下が
多大な努力を払ったとは聞くけど「誰が」
「誰に」「何と言って聞かせたのか、はたまた
どうしたのか」ということさえ日本語文献のみでは
見えて来ない……。

逃亡事件と結婚

本来のフリードリヒは、むしろ母親似で生来芸術家気質であり、特に音楽を好み、クヴァンツにフルートの手ほどきを受けて習熟、演奏会を開くこともあった。父王はそのようなことを耳にすると怒り狂って、杖でフリードリヒを打ちすえたという。暴力、食事を与えない、蔵書を取り上げるなど、虐待に等しい境遇にフリードリヒはひたすら耐えて成長していった。

フリードリヒはイギリス王女との縁談を機会に、ついに逃亡を図ることになる。近衛騎兵少尉ハンス・ヘルマン・フォン・カッテとカイトに手引きを頼み、1730年8月5日早朝に、南ドイツにある旅行先の宿舎を抜け出したが、計画はすでに漏れており、王太子フリードリヒはロッホ大佐によってその日のうちに連れ戻された。

この逃亡計画が父王に知られ、フリードリヒはキュストリン要塞に幽閉された。このころ父王は国際的陰謀の渦中にあり、暗殺の恐怖に苛まれていたため、この逃亡計画も自分を陥れる罠だと考えてフリードリヒを処刑しようとまでしたという。手引きをしたカイト少尉はイギリスに逃亡したが、カッテ少尉は捕らえられて、見せしめのためフリードリヒの目の前で処刑された。フリードリヒが「カッテ、私を許してくれ!」と窓から叫ぶとカッテは「私は殿下のために喜んで死にます」と従容として斬首の刑を受けたという。フリードリヒは窓からその光景を見るよう強制されたが、正視できぬまま失神した。カッテの遺書には「私は国王陛下をお怨み申し上げません。殿下は今までどおり父上と母上を敬い、一刻も早く和解なさいますように。」と書かれていた。

フリードリヒは数週間後、父王にむけて手紙を書き、恭順の意を表したため、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフリードリヒを釈放して、近くの王領地の管理に当たらせることにした。


248: 世界@名無史さん 2013/11/14(木) 16:19:40.11 0
王太子駆け落ち事件の顛末や如何に?

男色相手との逃避行だったんだよナッ!

290: 世界@名無史さん 2014/01/24(金) 22:07:35.27 0
ビスマルクとどっちがドイツ最高峰の指導者?

291: 世界@名無史さん 2014/01/24(金) 22:14:40.78 0
ロシア女帝が健康管理に気を遣うだけで大王は終わりだからな
外交で敵を絞ることを知っているビスマルクの方が遥かに上

292: 世界@名無史さん 2014/01/25(土) 00:09:47.53 i
というかビスマルク本人が大王に学んだと言うとる

293: 世界@名無史さん 2014/01/25(土) 12:16:56.19 0
大王の何に学んだの?

294: 世界@名無史さん 2014/01/25(土) 12:30:42.00 0
ビスマルクはフリードリヒ2世について

戦略家というよりは冒険家じゃね? みたいなことを確か言っていた

危ない橋を渡りやがって・・・みたいな印象を持っていたんじゃないかな

295: 世界@名無史さん 2014/01/25(土) 13:13:00.03 O
まあビスマルクも大概危ない橋渡ってるし。

両者の共通点はパワーオブバランスと正戦論じゃね。戦争対象を限定する手腕は確かにビスマルクの方が上だけど。

296: 世界@名無史さん 2014/01/27(月) 03:25:22.25 0
この人って「ぼくのかんがえたさいきょーのさくせん!」が毎回裏目に出て気付けば不利になってるよね
そこから逆転してくるから凄いんだけど

297: 世界@名無史さん 2014/01/27(月) 04:20:01.98 i
大王の決断力は長所でもあり短所でもあるからな。
その辺はお隣に住むライバルのテレジアさんも同じだけど。
その是非はともかく、プロイセンの勇躍はこういう人じゃないと無理だったと思う。

298: 世界@名無史さん 2014/01/27(月) 11:34:08.86 0
戦中のドイツ映画、「Der grosse Koenig」で
大王がオーストリアに対する見通しの甘さを、
弟のハインリヒ公子から責められるシーンは名演だった。
モノクロ映画なのに、額に青筋が浮かんでるのが分かるくらいの
公子のブチ切れぶりは一見に値する。

299: 名無しさん 2014/02/01(土) 17:35:03.40 0
王の弟でも王子だろうに
バイロイト龍騎兵連隊指揮官はビスマルクの曽祖父アウグスト・フリードリヒ・フォン・ビスマルク大佐だったんだが、
コトウジッツの戦いで戦死。
次のホ-エンフリートベルクの戦いで指揮官がフォン・シュヴェーリン大佐になって
オーストリア軍中央の突破が大成功するんだな。

300: 世界@名無史さん 2014/02/03(月) 09:47:48.26 0
ドイツ語の「Prinz」は「王子」よりも意味が広くてだな……この場合は「王子」って
訳でも良いんだろうけど、ハインリヒを指して「公子」って訳例もよく見る。

301: 世界@名無史さん 2014/02/03(月) 17:40:10.83 0
ゲイなのを除けばよくできた弟だよな、ハインリヒ

302: 世界@名無史さん 2014/02/03(月) 18:39:59.74 0
ゲイだとあかん理由がわからん

305: 世界@名無史さん 2014/02/03(月) 19:18:54.35 0
>>302
一般人がゲイでも問題ないとは思うけど
王族がゲイだと血筋途絶えちゃうじゃん、そういう王室への貢献と言う意味でアカンと評した

まあ、兄貴が子無しなのが一番の原因だが

306: 世界@名無史さん 2014/02/03(月) 19:36:43.42 0
兄貴はホモだったのか不能だったのか
俺はあえてケモナー説を唱えよう

308: 世界@名無史さん 2014/02/03(月) 22:36:11.52 0
一応一緒に寝てたのは犬なんで犬耳萌えってことで

309: 世界@名無史さん 2014/02/04(火) 00:23:16.84 0
姉や姪との親密さ、王妃を放置はしても虐めたりはしてなかったの見ると、
女嫌いってことはないような気がするな

310: 世界@名無史さん 2014/02/04(火) 00:38:25.74 0
地味に妹とも親密。その人は自ら作曲もこなすような才媛だった。

311: 世界@名無史さん 2014/02/04(火) 20:34:27.03 0
妻は善良だけど平凡だったらしいから(容姿には諸説あり)、才媛じゃないと興味がわかないとか?
マリア・テレジアか、芸術的才能に恵まれていたらしいマリア・アンナ、
ナポリ王国の政治の実権を握ったマリア・カロリーナ辺りの才女と結婚としてたら別だったんだろうか?
まあ政治の興味のなかったフェルディナンド4世と違って、
フリードリヒ大王は妻が政治に関与しようとしたら衝突しそうだが

312: 世界@名無史さん 2014/02/05(水) 10:42:00.91 0
才媛でも哲学とか音楽とか、同じ趣味を語れる女性が好きだったんじゃないのかな。
エリザベート王妃だって、公務はしっかり果たせてたようだし。

313: 世界@名無史さん 2014/02/07(金) 21:01:43.33 0
>>312
エリザベート王妃の公務ってどんなことやってたんだろう?
政治からは遠ざけられてそうだから福祉とか?

314: 世界@名無史さん 2014/02/07(金) 23:42:25.48 0
>>313
確かベルリンで養蚕やってなかった?
王妃としてそれなりに仕事をこなしてるけど
大王の家族からの評価では
容姿と才能に恵まれなかったみたい。

315: 世界@名無史さん 2014/02/08(土) 01:33:52.40 0
そういえば大王って士官しようとしたバルト系だかの軍人を、
顔が気に入らないって拒否して、後にオーストリアに仕官したその将軍は
七年戦争で大王を苦戦させたって話があったな…
何処まで信憑性ある話か知らんけど、面食いだったのか
それにしてはフランスみたいに美女の愛妾を抱えた訳でもないしなあ

321: 世界@名無史さん 2014/02/13(木) 10:24:50.24 0
週に二回の謁見の他、大晩餐会、舞踏会、オペラの上演、大使の接見や
王家の祝典では王じゃなくて王妃が国の代表を務めてた。
この立場はフベルトゥス条約以降、フリードリヒがサン・スーシ宮殿に
引きこもってからなおさら強まる。その一方で、ベルリンの外でフリードリヒが
主催した催事に王妃は招待してもらえてない。

322: 世界@名無史さん 2014/02/13(木) 11:26:28.85 0
男から女への好意も興味もないけど、王妃としての尊重と信頼はあったってことなのか
妻としての扱いも求めず文句も言わずに公務をこなしてくれるのは、
ある意味大王にとっては「王妃」としては理想的だったのかもな…

323: 世界@名無史さん 2014/02/28(金) 16:13:21.55 I
てかフリードリヒ2世と軍人王って、結局死ぬまでに和解?とかってしてたの?
誰か知ってる?

324: 世界@名無史さん 2014/02/28(金) 22:42:28.72 0
二人は和解してるよ。

325: 名無しさん 2014/03/02(日) 11:31:10.42 0
脱走事件で自分の騎兵連隊取り上げられたけど
1732年2月29日に改めて歩兵連隊もらってるから一応形だけは和解してるよな。

でも兵隊王が死ぬと3個大隊編成の王(フリードリヒ・ヴィルヘルム1世)
の連隊を1個大隊だけにして後の2個大隊を別の連隊新設に使ったりしてるから
ある程度のわだかまりはあったわな。

326: 世界@名無史さん 2014/03/03(月) 09:37:34.61 0
>>325
英語の情報源だと歩兵連隊の指揮権をもらったのは2月29日だけど、
ノイルッピン博物館のサイトの記述(ttp://www.kronprinz-friedrich.de/neuruppin-kuestrin.html
ではキュストリンから2月に釈放された後、大佐に昇進して4月に第15ゴルツ歩兵連隊をもらってるね。

327: 名無しさん 2014/03/03(月) 13:57:35.52 0
前任者の連隊長クリストフ・ハインリヒ・フライヘア・フォン・デア・ゴルツは
2月6日にマクデブルクの連隊をもらってマクデブルク司令官になってるから
王太子の連隊長就任は2月29日でよかろ。

335: 世界@名無史さん 2014/04/12(土) 22:13:20.81 0
マリア・テレジアは漆器や伊万里焼などアジアの芸術品を好んだそうだけど、
同じ芸術趣味のあるフリードリヒ大王は、アジアの芸術品に興味あったんだろうか?
日本は鎖国中とはいえオランダ経由で貿易していたし、
オーストリアに渡るならプロイセンに渡ることもありそうだけど

336: 世界@名無史さん 2014/04/13(日) 00:27:18.97 0
サン・スーシ宮殿の庭に中華風の喫茶室が今も残ってるよ。
とはいえ、リアルなものじゃなくて想像上の中国を再現した
ものだけど。

338: 世界@名無史さん 2014/04/14(月) 22:53:56.78 0
フランス人の考える中華風か
まあ日本でも中華料理だと思ってたら中国になかったとか
イタリア料理だと思ってたらイタリアになかったとかあるしな

340: 世界@名無史さん 2014/04/15(火) 11:46:04.79 0
ドイツ人から見ればなぜ挽き肉のステーキが
日本で「ハンバーグ」と呼ばれているのか
分かりづらいだろうな。ほぼ同じ料理なら
ドイツにも「フリカデレ」とか「ブーレッテ」とか
色々な名前で各地に存在するんだけども。

341: 名無しさん 2014/04/16(水) 09:23:46.17 0
ハンブルクと関係ないだろ
厳密には。

342: 世界@名無史さん 2014/04/16(水) 11:35:34.59 0
>>341
その通りだから、なおさら分かり辛いに違いない

346: 世界@名無史さん 2014/04/17(木) 09:35:39.70 0
>>341
日本ではハンバーグが1853年のニューヨーク万博の頃にアメリカで広まった、
という説が流布している。その理由として、当時は料理の由来として
ハンブルクから来た船員がこの料理をもたらしたのだという噂があったと
されてるんだけど、こんな話は英語圏で見たことがない。

わずかに信憑性を添える要素としては、1847年からドイツのHAPAG社が
ハンブルクとニューヨークの間に客船を就航させていたことと、ハンブルクには
「ラプスカウス」と呼ばれるタルタルステーキが地元の料理として存在することだな。
余談だけど、ハンブルク市庁舎の地下にあるレストランで供されるラプスカウスは絶品。

347: 世界@名無史さん 2014/04/17(木) 10:45:37.45 0
……と思ったら"Hamburg steak"で検索したら由来にまつわる
英語のサイトもヒットするな。

348: 世界@名無史さん 2014/04/17(木) 11:49:59.20 0
一応英語うぃきぺでも一説としてハンブルク港から来たという説があるのか

349: 世界@名無史さん 2014/04/21(月) 05:49:12.91 0
フリードリヒ大王の時代のプロイセンはフランス人が凄い多かったらしいけど、
プロイセン文化と混ざって魔改造文化が生まれたりしたんだろうか?
食事では大王はイタリア料理も好んでいたらしいが

350: 世界@名無史さん 2014/04/21(月) 06:47:40.31 0
当時最先端だったフランス軍から流入した人材のおかげで、
早くも大選帝侯の時代から軍が魔改造されたって話は聞いたことがある

351: 世界@名無史さん 2014/04/21(月) 07:09:52.76 0
大王より前の時代からだと思うけど、
ユグノー (カルヴァン派新教徒) の迫害が本国で再開された時、
こっちに来て住むように勧誘したらしいね。
ベルリンの人口の1/3が仏語を話していたって。
ベルリン女が尻軽女の代名詞になったのはそのせいに違いない。

353: 世界@名無史さん 2014/04/23(水) 19:13:49.90 0
ユグノー追放で、工業・経済力は落ちたが安定度は上がった。

354: 世界@名無史さん 2014/04/26(土) 13:08:49.55 0
しかし間もなくフランス革命へ

355: 世界@名無史さん 2014/04/27(日) 00:03:47.96 0
>>354
その前に、自ら追放した軍人たちによって強化されたプロイセン軍に、
七年戦争でボコられる。プロイセンの盟約者、イギリスによって海外
植民地もかなり失うオマケ付き。

357: 名無しさん 2014/04/27(日) 18:21:26.61 0
ユダヤ人を排斥したナチスドイツもそうだけど

それじゃ勝てないよね。戦争。

358: 世界@名無史さん 2014/04/27(日) 18:44:35.57 0
クービエール元帥のように母語がフランス語のフランス系移民なのに、
本国が陥落後してもなおナポレオンの軍に抵抗するような人が出てくる
くらいだからな。宗教対立の弊害は深い。

367: 世界@名無史さん 2014/06/04(水) 02:01:57.75 0
ザクセンとかバイエルンみたいな近隣諸国よりプロイセンが躍進できるような地理的な利点はあったの?
それとも他のドイツ諸国でもプロイセンと同じ政策取ってたら軍事大国として将来的にドイツを統一できる可能性はあったの?

368: 世界@名無史さん 2014/06/04(水) 07:21:16.61 0
地理的利点はないような。
領地が飛び地だらけだったからなんとか
くっつけようと懸命だったんじゃないかな。
それにいち早く王国になったし、人口を増やすのにいろんな政策をとったし?

369: 世界@名無史さん 2014/06/04(水) 08:11:22.26 0
>>367
368さんも言ってるが領土がばらばらなので
それを維持管理するため強力な軍隊が必要だったという説はありますね
他には東方に進出できたのも大きいような
一応東方は野蛮な土地ですから
あとは30年戦争での惨状ををふまえた武装路線に
兵隊王の遺産をいかしたフリードリヒの冒険的政策も重要かと
あれで戦争による成功体験という快楽と
土地を奪われた敵に対して軍備を備える必要性という恐怖
この2種の感情が君主から臣民にいたるまで広範に共有してたのではないでしょうか
この感情云々は個人の推測ですが

370: 世界@名無史さん 2014/06/08(日) 12:55:15.73 0
ブランデンブルクとプロイセンの間ってどうやって埋めたの
ブランデンブルクとプロイセンの間にどんな国があったの

371: 世界@名無史さん 2014/06/08(日) 13:04:46.67 0
ポーランドだよ。
ロシア・オーストリア・プロイセンの三カ国分割で東プロイセンの間埋めた。
大王はジャガイモ畑にしかならない貧しい土地だと自嘲していた。

372: 世界@名無史さん 2014/06/08(日) 16:16:01.32 0
ポーランドだけか?じゃあ西方のラインラントとヴァストファーレン
はプロイセン領有前はどいつがもってたんだ

373: 世界@名無史さん 2014/06/08(日) 16:54:26.32 0
>>372
ドイツ西部は、北の方にハノーファー選帝侯国、あとは無数の聖俗諸侯の領邦。

374: 世界@名無史さん 2014/06/08(日) 17:00:51.75 0
普墺戦争でなんで同じプロテスタントのハノーファーは併呑したのに、
ザクセンとかバイエルンは存続を許されたんだろうか
西方領土をプロイセン中央部とくっつけるのに邪魔だったからか

375: 世界@名無史さん 2014/06/08(日) 17:23:15.40 0
普墺戦争では、ザクセンも国土の半分くらい取り上げられてた。

376: 世界@名無史さん 2014/06/08(日) 18:00:04.54 0
ザクセンの領土没収はナポレオン戦争後のウィーン会議じゃね

377: 世界@名無史さん 2014/06/08(日) 20:51:38.32 0
いやいや
アンスバッハ始め西方にも領土持ったからそれをいじする必要あったんだぜ

378: 名無しさん 2014/06/09(月) 13:35:36.36 0
ブランデンブルク選帝侯が相続によって得たプロイセンの地を利用して(プロイセン)国王になる前に
ザクセン選帝侯はポーランド国王になってるからねえ。
領土云々は地理的なものではなく、ザクセンより長子相続を家臣団と共に厳格に行った
ブランデンブルク家の政策によるね。
田分けは、洋の東西を問わず国力を弱める。
そのいい例がアンハルト候で、アンハルト・デッサウは類まれなる軍事的天才だったけど
家がアンハルト候領の3分の1か4分の1のデッサウ(地方)しか継げなかったので
フリードリヒ大王の頃にはもはやプロイセン王国の属国としてしか生きられなかった。

30年戦争の時には、皇帝軍とプロテスタント(特にスウェーデン軍)の蹂躙に任せるしかなかったブランデンブルク選帝侯が
プロイセン国王となることを認めてもらうために出した
8000人の援軍でスペイン継承戦争を戦い抜き、デッサウ候に鍛えられた。
その精強陸軍とケチのフリードリヒ・ヴィルヘルム(1世)父さんの遺産で
フリードリヒ大王は豊かなシレジア地方を手に入れて国力2倍になった。

7年戦争終結時のプロイセンは、尾張美濃2国を支配した時点の織田信長状態じゃないかな。

380: 世界@名無史さん 2014/06/12(木) 23:03:24.90 0
オーストリアにとってプロイセンっていうかブランデンブルクっていうか
ホーエンツォレルン家をあんなに強大になる前に葬るチャンスはなかったのか

382: 世界@名無史さん 2014/06/12(木) 23:18:08.25 0
>>380
30年戦争
それ以前だとそもそも叩き潰す正当な理由がない

381: 世界@名無史さん 2014/06/12(木) 23:14:00.58 0
大王以前の話なら当時の認識としてはオーストリア帝冠国家には
ブランデンブルク辺境伯、プロイセンは単独では到底勝てないってことだろう
ドイツ統一の試みは幾度もなされたが30年戦争で決定的に失敗してあとはズルズル
後退を続けたのがハプスブルク家だろ

386: 世界@名無史さん 2014/06/13(金) 10:09:55.52 0
大選帝侯から兵隊王の間、両国の間に波風を
立てるような要素はフリードリヒ3世による
王位の承認要求と、兵隊王によるユーリヒ=ベルク公国の
継承問題への介入くらいか?それ以外では例え損してでも
ハプスブルク家に忠実に仕えてたんだから、プロイセンを
叩く理由なんてなかったよ。

388: 名無しさん 2014/06/13(金) 12:18:19.23 0
プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世までは忠実なハプスブルクの犬だったのに

息子(フリードリヒ2世)がスウェーデンのカール12世に傾倒しちまうところが悪い。
大王がカール12世ファンになったのってヴォルテールの伝記が原因だよね。
しかもアンチ・マキャベリなんて本も出したのに
そのマキャベリズムを最大限に活用してハプスブルク家に歯向かうとは。

392: 世界@名無史さん 2014/06/16(月) 22:56:32.27 0
プロイセンが領土をドイツ内で拡大できたのに対して、オーストリアの領土拡大は専らドイツ外だった
プロイセンは周辺の弱小諸侯を食いまくってドイツ内で領土を拡大しまくることができたけど、
ドイツ方面でオーストリアが国境を接していたのはバイエルンとザクセンという有力諸侯だったので
プロイセンみたいに周りの雑魚を食ってドイツでの領土拡大ができなかったってことでOK?
実際バイエルン継承戦争でバイエルン併合寸前まで行ったけど果たせなかった

395: 世界@名無史さん 2014/06/17(火) 21:36:22.04 0
>>392
okじゃないよ

周りの雑魚食いまくってドイツで拡大した結果があのオーストリア
チロルやシュタイエマルクを筆頭にあの辺り一帯の諸侯はハプスブルク家に結構飲み込まれてる

バイエルンも内紛につけこまれて遺産継承戦争の時にはクーフシュタインをごつく分捕られてる
それも後背から殴り付ける類の分捕りじゃなくて
協力したるからクーフシュタインちょうだい、という正攻法

結婚と戦争で伸びて伸びて、バイエルンとザクセンまで到達した、というのが正しい

396: 世界@名無史さん 2014/06/21(土) 09:32:41.17 0
大王の時代の「マダムは少しお太りになったようだ」ってどれくらいデリカシーがない言葉なの?「今日体調悪そうだな、生理か?」レベル?

420: 世界@名無史さん 2014/10/17(金) 21:47:02.56 O
>>396
日本でも90代の老人などは全く悪意無く他人に「太ったね」と言う。
考えてみれば戦中戦後などは太っていられるのが富の象徴だったわけで。

397: 世界@名無史さん 2014/06/21(土) 10:37:37.49 0
奥さんにかける言葉としては冷酷すぎることはわかるけどなぁ

399: 世界@名無史さん 2014/06/21(土) 23:37:45.77 0
嫌味じゃないとしたらマダムって言い方からして自分の結婚相手って意識が皆無だよね
ヴォルテールと同じペンフレの1人だと思ってそう

421: 世界@名無史さん 2014/10/17(金) 21:49:31.93 O
>>399
ルイ16世もマリー=アントワネットには「マダム」。
但しルイ16世は、家臣にもさん付け敬語で話すような人だったが。

400: 世界@名無史さん 2014/06/22(日) 01:51:57.17 0
そう考えるとどうしてもホモ説が濃厚に

401: 世界@名無史さん 2014/06/22(日) 02:12:56.96 0
ホモというより女が汚くて信用できないものにしか見えないだけじゃないの?そういう人って家族の女の人(母、姉妹等)は別モノってダブスタの事が多いし
多分小さい頃にでも自分達の前でペコペコしたり仲良く喋ってる女官が裏で悪口言いまくってるとか浮気の話を聞いたとかさ

402: 世界@名無史さん 2014/06/22(日) 16:21:02.36 0
大王が農奴を解放したって本当なん

403: 世界@名無史さん 2014/06/23(月) 09:14:22.29 0
農奴解放の検討を始めたのは兵隊王ことフリードリヒ・ヴィルヘルム1世。
農奴解放を含むプロイセン一般ラント法の編纂を命じたのはフリードリヒ大王。
でもフランス革命の影響で内容に手が加わり、実際に施行されたのは次の
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代になってから。

409: 世界@名無史さん 2014/06/26(木) 17:06:04.06 0
この人の生涯ってすごい映画映えしそうなのに扱った作品がないよね、なんでだろう

引用元: 【プロイセン】フリードリヒ大王【啓蒙専制君主】







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