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1: 世界@名無史さん 2010/10/11(月) 21:35:49 0
ダニール・アレクサンドロヴィチがモスクワ大公国に就いたのが1263年
オスマン・ベイがルーム・セルジューク朝から独立を宣言したのが1299年
ともに他民族を支配した大帝国であり、互角の戦いを繰り広げた
永遠のライバルについて語ろう








2: 世界@名無史さん 2010/10/11(月) 21:37:36 0
この2国はともにポーランドに敗北したことがあるんだな

3: 世界@名無史さん 2010/10/11(月) 21:39:23 0
>ダニール・アレクサンドロヴィチがモスクワ大公国に就いたのが1263年

ダニールって大公の称号得られてたっけ? 重箱の隅ですまんが

8: 世界@名無史さん 2010/10/11(月) 22:40:43 0
>>3
ダニールはモスクワ公だね、イヴァン1世が大公だった

5: 世界@名無史さん 2010/10/11(月) 21:42:35 0
WW1で東の4帝国は崩壊したんだよな

20: 世界@名無史さん 2010/10/12(火) 13:33:05 0
>>5
一番長生きしたのはオスマン帝国!
「ヨーロッパの重病人(笑)」より短命なヨーロッパの他の帝国www

7: 世界@名無史さん 2010/10/11(月) 22:26:47 0
西欧から見ればどちらも後進的な蛮族の帝国だろ

11: 世界@名無史さん 2010/10/11(月) 23:36:03 0
ロシアは1700年までタタールに貢納させられてたし、しかもオスマンの属国のクリミアタタールに

12: 世界@名無史さん 2010/10/12(火) 00:12:07 0
クリミアにそんな力はない
頻繁にコサックに荒らされまくってた上に動員兵力ではとてもロシアには敵わない

18: 世界@名無史さん 2010/10/12(火) 09:04:22 0
>>12
帝政ロシア軍でも18世紀ぐらいまではクリミアに侵攻するのは
難しかったんだよ。途中に人口希薄な荒野があって補給が困難だった。

13: 世界@名無史さん 2010/10/12(火) 00:21:37 0
ポーランド、リトアニア、スウェーデン、オスマン、クリミアが連携組んでロシアを挟撃してたからね
苦肉の策だよ、実際貢納して攻撃をしのいでる間にウクライナを併合、さらにシベリアまで進出、強大化したんだから大成功だろ

14: 世界@名無史さん 2010/10/12(火) 00:33:40 0
>>13
いやいや朝貢自体なかったよ
ソースの出所ないじゃん

17: 世界@名無史さん 2010/10/12(火) 01:49:25 0
襲撃回避のためとジョチ・ウルスの継承者として貢納を払ってたとWIKIに書いてあるけど
http://ja.wikipedia.org/wiki/クリミア・ハン国

16世紀前半のクリミア・ハン国はカザン・ハン国へしばしばハン位の継承者を送り出し、同じくカザンへの影響力を強めようとするモスクワ大公国と対抗関係にあり、その軍勢はモスクワやトゥーラを幾度も包囲し、モスクワ大公国を大いに脅かした。世紀半ばにはカザン・ハン国、アストラハン・ハン国がモスクワによって相次いで滅ぼされ、タタールの国々へのモスクワの影響力が増すが、1551年に即位したデヴレト1世ギレイ(英語版)の率いるクリミア・ハン国軍は、モスクワ大公国がリヴォニア戦争(1558年–1583年)の最中に、露土戦争 (1568年-1570年)でオスマン帝国と共にアストラハンへ攻め込んで逆襲を試みた。1571年のロシア・クリミア戦争(英語版)では、ポーランド・リトアニア連合王国と結んでモスクワを強襲し、モスクワの町を焼き払った(モスクワ大火 (1571年)。1572年にもモロディの戦いで再び攻め込んだが、撃退された。

また、このような大規模な遠征でなくとも、クリミア・ハン国のタタールやノガイたちはしばしばモスクワ大公国の領内に攻め込み、都市や農地を焼き払い、住民を捕虜として連れ去った。このためにクリミアの都市の商館は商品となるロシア人やウクライナ人の奴隷で溢れかえったと言われている。 モスクワ大公国は捕虜となった人々を奴隷身分から買い戻すために多額の支出をせねばならず、また、襲撃を回避するためにジョチ・ウルスの正統継承者として貢納を課すクリミア・ハン国の要求に応えねばならなかった。

 
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/49/shida.pdf
この論文の注48にも書いてある
クリミアはロシアとポーランドが戦争する度に侵略してくるうざいことこの上ない存在だった、だから金払っておとなしくさせと家って感じ
バックのオスマンも怖いからね、実際1637年にコサックがアゾフ占領してもロシアはオスマンに返還してる、
でオスマンがオーストリア・ポーランドにボコスカにやられた時に貢納とりやめてる

19: 世界@名無史さん 2010/10/12(火) 13:04:51 O
18世紀まではオスマン優勢だろ
ピョートル大帝もスゥエーデンには勝てても、オスマンには大敗して捕虜になるところだった

21: 世界@名無史さん 2010/10/12(火) 13:54:19 0
当時のロシアはあまり強くない
ポーランドの方が強い
ポーランドはスウェーデン、ロシア、オスマン、全部打ち破ってたからな

26: 世界@名無史さん 2010/10/13(水) 11:03:14 O
ロシアはオスマンに負けてる
ピョートルでさえ大敗した
プルート川の戦い

プルート川の戦いは、1711年7月、モルダヴィアのプルト川河岸において行われたオスマン帝国とロシア・ツァーリ国との戦い。大北方戦争の一部である露土戦争中に起こり、オスマン帝国軍とピョートル1世率いるロシア軍が交戦し、オスマン帝国軍が勝利した。この戦いの後、両国はプルト条約を締結し、オスマン帝国及びスウェーデンとクリミア・ハン国はロシアとの戦いに勝利し、露土戦争は終結した。

トルコの歴史家達は、メフメト・パシャはロシアにとって比較的容易な条件で条約に調印するという大きな戦略的ミスを犯したとかねてから主張している。ピョートル1世自身がロシア軍を指揮していたため、もしメフメト・パシャがピョートル1世の和平提案を受け入れず、ピョートル1世を捕らえようと更に追撃していれば歴史は変わっていたかもしれない。ピョートル1世がいなければ、ロシアは帝国になりえなかったかもしれないし、バルカン半島や黒海沿岸、カフカースなどを巡ってオスマン帝国の将来の宿敵になることもなかったかもしれないのである。


27: 世界@名無史さん 2010/10/13(水) 13:09:35 0
オスマンはあの軍事的勝利を全然いかせなかったけどね

29: 世界@名無史さん 2010/10/13(水) 14:29:00 0
あの後ロシア放置して結果的にロシアは東欧最強になるからね
当時のオスマンにとってはロシアよりハンガリー戦線の方が重要だったんだろうが

30: 世界@名無史さん 2010/10/13(水) 23:36:29 0
東欧最強とまでは言えない
むしろオーストリアが無敵状態

31: 世界@名無史さん 2010/10/14(木) 13:17:04 O
オスマンはオーストリア相手には連戦連敗だったな

32: 世界@名無史さん 2010/10/14(木) 16:02:11 0
モンテクッコリやオイゲンといった名将がいたからな

33: 世界@名無史さん 2010/10/14(木) 16:28:59 0
連敗というほどでもない。ケレステスの戦いなんかでは
勝ったと思ってトルコ軍の財宝略奪してたところへ
トルコ兵が戻ってきてやられたり。

34: 世界@名無史さん 2010/10/14(木) 16:59:51 0
ケレステシュの戦いって1596年だっけ?
まだまだオスマン優勢の時代じゃない?

35: 世界@名無史さん 2010/10/14(木) 18:18:06 0
あれはオーストリアがもうほとんど勝つ寸前だったのに
勝ったと思ってスルタンのテントの財宝奪ってダンスしてたりしたらオスマン軍の料理人などの雑用係がいきなり襲い掛かってきて
びっくりして混乱状態で逃げ出す、敗退寸前のオスマン軍が息吹き返して大勝利という
間抜けな負け方をした
あれ勝ってればハンガリー回復は100年早まったかもしれない

41: 世界@名無史さん 2010/10/17(日) 09:47:06 O
弱小オスマンじゃあロシアに勝てないだろ
レパント以後は勝ったことはない。1600年以後はイギリスの植民地にすぎない

42: 世界@名無史さん 2010/10/17(日) 09:54:38 0
いや、17世紀以後はまだまだ互角
本当に差が付き始めるのはカルロヴィッツ条約以降だけどそれでも大帝が敗北するなど
まだまだ侮れない存在
カルロヴィッツ条約

カルロヴィッツ条約は、1699年にオスマン帝国とヨーロッパ諸国との間に結ばれた講和条約。この条約で、オスマン帝国は初めてヨーロッパ諸国に領土を割譲し、オーストリアは三十年戦争以来の長期の低迷を脱して中ヨーロッパへの拡大を開始する契機を得た。


43: 世界@名無史さん 2010/10/17(日) 11:42:30 0
ロシアが列強になったのは北方戦争の勝利の後
スウェーデンを下して弱体化したポーランドを支配下におくことによって
東欧での競争相手がいなくなった

44: 世界@名無史さん 2010/10/17(日) 12:10:47 0
>>43
競争相手がいなくなったというのは間違い
ポーランドが弱体化した事でプロイセンという更に厄介な存在が現れた

50: 世界@名無史さん 2010/10/17(日) 16:26:28 0
>>44
プロイセンってロシアにとって厄介なのか?
払うものさえ払えば、ロシアの権利を認めてくれる話のわかるドイツ人って感じじゃね?

51: 世界@名無史さん 2010/10/17(日) 16:58:23 0
>>50
ポーランドと違い強力な中央集権型の国家で軍備水準も西欧並みでぐんぐんと急成長していく
存在はかなり脅威に感じたと思う

52: 世界@名無史さん 2010/10/17(日) 17:16:50 0
そうかな?
7年戦争以外じゃ割りと仲良しじゃん。

プロイセンの矛先は豊かな西ドイツに向かい、ロシアの矛先はバルカン・アジアに向かう。

ロシアにとって厄介なのはオーストリアだろ。
ナポレオンとの交渉で互いに出し抜かれないように鍔迫り合いしてんんじゃん。

58: 世界@名無史さん 2010/10/19(火) 21:58:17 0
18世紀後半のロシアトルコ戦争で、じわじわロシアが勝ち始めているけど、
この頃にはすでにロシアVSトルコだけの構図で見るより、
イギリス産業革命の影響も大きかったんじゃないかな。
ナポレオン戦争では、イギリスの対フランスエジプト戦勝利~エジプト独立とか、
クリミア戦争ではロシアもトルコに味方したイギリスに負けている。
ロシア的な思考だと、近年のグルジアにみるように、
黒海~小アジアよりカフカス~中央アジアみたいな思考なのかも。

59: 世界@名無史さん 2010/10/20(水) 00:21:32 0
>>58
オスマンは早々にイギリスの植民地になったからなあ
18世紀後半にはもうイギリスの属国みたいになってしまったな。
イギリスの機嫌がいい時はロシアに対抗できたが・・・
ブルガリア人大虐殺などしてイギリスの機嫌を損ねた時はロシアと単独で対抗せざるを得ず、大敗

64: 世界@名無史さん 2010/10/20(水) 18:31:17 0
トルコは下手すると敵国の戦艦横付けできそうな場所に
首都があるのが厳しい

65: 世界@名無史さん 2010/10/20(水) 18:50:58 0
首都はアンカラやで

66: 世界@名無史さん 2010/10/20(水) 19:18:44 0
イスタンブルと思ってる人多いんかね

67: 世界@名無史さん 2010/10/20(水) 19:58:46 0
オスマンがイギリスに抜かれたのはいつだろ。
やっぱエリザベス時代?

69: 世界@名無史さん 2010/10/21(木) 00:54:21 0
>>67
イギリスが西地中海の海賊を退治してた辺りからじゃない?

70: 世界@名無史さん 2010/10/21(木) 23:01:40 O
オスマン帝国の優秀な人材はほとんどバルカン半島の人なのが印象的だな。

バルカンとアナトリア以外はほとんど人材を排出していないし。

そこいら辺もオスマン帝国衰退の理由かな。

71: 世界@名無史さん 2010/10/21(木) 23:22:11 0
>>70
エジプトやシリアは所詮属領ですから

73: 世界@名無史さん 2010/10/22(金) 22:54:48 0
イスラム化した東ローマ帝国ですから

84: 世界@名無史さん 2010/10/30(土) 00:26:35 0
オスマン帝国は起源はアナトリアだけど、税収と人材は
バルカン半島に依存していたみたいだね。

だから、バルカン半島の領土を失っていくと税収も人材も立ち枯れに
なって言って衰退が止まらなくなったらしいね。

ついでに十八世紀以降はバルカン半島で領土が減った分を
アフリカやアラビアで取り戻そうと頑張って征服地を広げたりしている。

91: 世界@名無史さん 2010/10/30(土) 18:50:11 0
>>84
そもそも早めにアナトリアからバルカンに渡ってバルカンの方で勢力を蓄えた
からな。寧ろバルカンのほうが本国と言えた。
軍事・官僚制度でもルメリ(バルカン)担当とアナドル(アナトリア)担当じゃルメリ
がNo.1でアナドルはNo.2だったしな。
78: 世界@名無史さん 2010/10/24(日) 06:20:03 0
モンゴルと十字軍とティムールが破壊したせいで
中東が衰退したのも大きいんじゃないの
それと黒死病に新大陸発見で交易収入大幅減だもんな

オスマン帝国がもうちょっと長く続いてたらアラビア半島で石油発見して
現在まで続いてたかもしれんのにな 

79: 世界@名無史さん 2010/10/24(日) 10:32:17 0
>>78
それは、アラブもイランもアゼルバイジャンも、ずっと西欧列強の食い物になるってことじゃね?

80: 世界@名無史さん 2010/10/24(日) 10:37:26 0
オスマンの時代、中東はおまけみたいなもんだからな

81: 世界@名無史さん 2010/10/27(水) 06:26:20 0
大島直政氏はケマル・アタチュルクがいなかったらイスタンブールは陥落
黒海経由で同盟国から物資の援助を受けれるのでロマノフ王朝は滅亡しなかったと評していたね
イスタンブールの戦略的価値凄すぎ

82: 世界@名無史さん 2010/10/28(木) 21:49:08 0
日露戦争のときバルチック艦隊の他に黒海艦隊も極東へ行く予定だったが
トルコに邪魔されて出てこれなかったんだよな。


85: 世界@名無史さん 2010/10/30(土) 06:42:05 0
中東が衰退したのはインド航路発見で交易収入が激減したからでしょ

88: 世界@名無史さん 2010/10/30(土) 08:05:38 0
拡大期はイケイケドンドンだけど
衰退し始めるといろんなところから不満がでてきてダメになっちゃうねえ
アメリカはそう考えるとよく国がもっているとおもう


95: 世界@名無史さん 2010/10/31(日) 02:12:48 0
ところでビザンツ帝国ってモンゴルによく目付けられなかったよね。
東欧はポーランドまで迫り、中東はアッバース朝が滅ぼされて目と鼻の先まできてたのに。

97: 世界@名無史さん 2010/10/31(日) 08:39:27 0
>>95
ビザンツ近くまで来たが、
遠征中にオゴタイがなくなったか何かで
ヴォルガ川以東に後退したんじゃなかったか。

96: 世界@名無史さん 2010/10/31(日) 02:30:22 0
ちょうどモンゴルが興った頃にラテン帝国になっとるわいな。まあ1261年に復興したが。

イルハン朝がビザンツへ攻め込むにはシリアを押さえねばならんが、あいにく途中にマムルーク朝がいる。
また北のジョチ・ウルスはイルハン朝と仲が悪く、マムルーク朝とも同盟し、何度かカフカス越えて南下を目論んだ。
征服したばかりの国内の鎮撫もせねばならんし、いまさら特にビザンツくんだりまで遠征する必要もない。
事情はジョチ・ウルスも同じ。

98: 世界@名無史さん 2010/10/31(日) 19:13:57 0
>>95-97
昔のビザンツ帝国スレにあった書き込みだが、これによると
キプチャク汗国軍はビザンツ帝国まで遠征している。
朝貢もさせてたらしい。

34 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2009/04/28(火) 09:22:06 0
友好関係というか、金帳汗国側では朝貢国という認識だろうね。

ニケフォロス・グレゴラスの年代記なんかには、1337年に起きたタタール人の
大規模なトラキアへの侵攻について「タタールの君主や貴族たちへの定期的な贈り物」
を届けなかったためとしている。
貢物を送らないと実力で取りにいくよ?っていうタタールのくびきの時代の
ヴィホード(ロシア語で「出て行くもの」)と同じシステムだ。

ロシアは帝国レベルに成長しても遊牧民の襲撃に対処するのが面倒で
ヴィホードを払い続けたから、それこそエカチェリーナ2世の時代まで
タタールのくびきが続いていたとまでいわれている。

99: 世界@名無史さん 2010/11/01(月) 19:54:08 O
ビザンツ皇帝の血を引くロシアが発展して、オスマン帝国を圧倒するまでになるのはおもしろい

100: 世界@名無史さん 2010/11/01(月) 19:59:01 0
ビザンツの皇女もジョチウルスやオスマンへ嫁に行ってたけどな

102: 世界@名無史さん 2010/11/02(火) 06:48:01 0
キプチャク汗国イルハン国の場合は草原地帯での統治で満足していたからまだマシだ
ロシアやオスマンはそんな甘い連中じゃない、地上がある限り征服地を広げ続ける

103: 世界@名無史さん 2010/11/02(火) 12:09:59 O
オスマンの領土は蚕食されまくって、西アジアの小国になりましたが

104: 世界@名無史さん 2010/11/02(火) 12:23:36 0
ムハンマド・アリーのエジプト独立以後のオスマンは目も当てられないな

106: 世界@名無史さん 2010/11/02(火) 18:57:30 O
ナポレオンの時代はまだ見れたのか

107: 世界@名無史さん 2010/11/04(木) 18:24:12 0
>>106
っていうか、ナポリオンの遠征がきっかけでエジプトが半独立状態&イギリスの半植民地状態になったんじゃないの?

112: 世界@名無史さん 2010/11/06(土) 14:52:46 0
モスクワに一極集中してるから
モスクワ攻撃されたら終わりだろ

113: 109 2010/11/06(土) 14:56:44 0
>>112
ナポレオンはモスクワを攻めようとして冬将軍にやられたけどね。

115: 世界@名無史さん 2010/11/06(土) 15:52:22 0
ナポレオン時代のロシアの首都はサンクトペテルブルク。
ナポレオンはモスクワを落としに行ったのではなく、
敵軍の主力を撃滅するため追いかけていったらモスクワまでおびき出された。
ペテルブルクを囲んでも、背後に敵主力が残っていれば退路を絶たれる。

116: 世界@名無史さん 2010/11/06(土) 16:01:38 0
ポーランドだけモスクワを効果的に攻略したな

119: 109 2010/11/06(土) 20:16:41 0
>>116
モンゴルも冬将軍に耐えてモスクワ征服を成功させたよ。

120: 世界@名無史さん 2010/11/06(土) 20:51:36 0
モンゴル襲来当時のモスクワはまだ木製の小さな砦ぐらいなもんだがな。

122: 世界@名無史さん 2010/11/06(土) 22:29:11 0
ポーランドがモスクワ攻略したのは1610年
1569年のリトアニアの合併から17世紀前半まではポーランドが東欧最強

123: 109 2010/11/06(土) 22:33:06 0
>>122
第2次ウィーン包囲のオスマン帝国の敗退も
ポーランド王ヤン3世のおかげと言っても過言じゃないからね。

124: 世界@名無史さん 2010/11/06(土) 22:41:23 0
17世紀前半のポーランドはオスマンの大軍を二度破り
グスタフ・アドルフ率いるスウェーデンを破り、ロシアを占領して
これだけ強いのにすごくマイナーな扱いだ

125: 109 2010/11/06(土) 22:56:33 0
>>124
やっぱり近代のロシアによるポーランド分割や
ナチスによるポーランド侵攻&アウシュヴィッツとかのせいで
強国っていうイメージがわきにくいからじゃないかな?

僕もヤギェウォ朝から共和制期にかけてポーランドが大国だったことは
もう少し知られても良いと思うけどね。

126: 世界@名無史さん 2010/11/06(土) 23:06:02 0
地味に名将が多いんだよねポーランドは

128: 世界@名無史さん 2010/11/07(日) 12:11:35 O
クリミア汗国といえば南ロシアの平原で少年少女を拉致してイスタンブールで売り飛ばしてたんだよね

129: 世界@名無史さん 2010/11/07(日) 12:26:24 0
それはないだろうね
アメリカには黒人の子孫がいる
マレーシアにもインド人の子孫がいる
欧州にもユダヤ人に子孫がいる

トルコにロシア人の子孫はいないからな
ロシア人だけが完全に吸収され痕跡もないとはいかに

130: 109 2010/11/07(日) 12:33:08 0
>>129
現在のトルコ人の容貌を見る限りかなりの割合でスラヴ系が混血していると思うよ。
基本的にオスマン帝国は民族に関してはいい加減だから
スラヴ人のコミュニティは出来にくいだろうし。
まぁ、スラヴ人=ロシア人とは限らないが。(むしろブルガリア人やセルビア人のほうが可能性高い)
ロシア人の子孫がいても自分たちはトルコ人だと思ってる可能性は充分にあり得ると思う。

136: 世界@名無史さん 2010/11/07(日) 13:24:34 0
>>130
それはおかしいな
どんな国・社会でも奴隷・労働者を大量につれてくれば
ある程度同化したとしても生活様式などに痕跡が必ず残るはず
欧州に2000年間同化したユダヤ人でさえ残ってるのに

何故ロシア人に限って完全に吸収され消えるのか?
アラブにつれてこられた黒人でさえアフリカからきた事を理解してるのに
ロシア人の子孫がトルコに大量にいたとして
先祖がロシアからきた事を理解していないというのは不自然な話だな

民族に関してはいい加減な国が奴隷を大量に受け入れるというのも変な話だな
つれてきた奴隷と積極的に混血したとなるとさらにおかしい

137: 109 2010/11/07(日) 13:33:29 0
>>136
オスマン帝国における奴隷は家庭奴隷が中心的。
スラヴ系の美少年や美少女奴隷っていうのは大半が
性的奴隷や小姓としてだから混血していると考えるほうが自然。
アメリカみたいに奴隷の一括大量購入と言うことはオスマン帝国ではあまり見られず、
個人単位で売り買いされたのがほとんだだから、
アメリカみたいに奴隷たちがコミュニティを持つという事のほうが不自然。
オスマン帝国における奴隷制については
鈴木先生が詳しく書いていたから参考にするといいかも知れない。

後、現代トルコにはスラヴ文化の影響がいくらか見られるよ。
主に料理の面で。

139: 世界@名無史さん 2010/11/07(日) 14:17:10 0
>>137
アメリカにもメイド奴隷は大量にいたし混血児は生まれた
でも子孫は残ってるよ
ロシア人だけ全部が混血するというのもおかしい
たとえ性奴隷であってもお互い全く関わりがないというのは不自然

>美少年や美少女奴隷

こんな話は聞いた事がない
若い時期限定か?年をとったらどこに住む?

つじつまがあわない話が多すぎる
嘘が混じってるのでは?

141: 109 2010/11/07(日) 14:29:44 0
>>139
誰も全部が混血したとは言ってない。
ただ、大多数が混血しただろうし子孫が残っていたとしても
自分がロシア人だというアイデンティティーを喪失してる場合がほとんどだろうと言ったんだよ。
民族にいい加減な国だから民族意識なんて育ちにくいしかなり同化してるんじゃないの?

現在のトルコ人なんて3代以上前は家系図を遡れないなんて言われるほど、
他民族と混血しまくってるんだからその中にロシア人がいたっておかしくないだろうに。
これもオスマン帝国が多民族国家だった名残だろう。

ちなみに年をとった性的奴隷は主人によって解放されて自由人になるのが普通。
クルアーンには奴隷を解放することは奨励されるべき行為と書いてあるので、
奴隷を購入してある程度経ったら積極的に解放するムスリムは結構いた。

143: 世界@名無史さん 2010/11/07(日) 14:57:01 0
>>141
おかしい
解放された奴隷はどこに住む?
生活費はどうする?

まるで若い女の奴隷だけ語ってるみたいだが
男の奴隷の結婚相手はどうなる?
男の奴隷と女の奴隷を分離したかのような話が嘘臭い

アメリカの黒人でさえ結婚して家族を持って子孫が残ってる

ごく少数なら消え去っても不思議ではないが
大量に奴隷がつれてこられたとなるとおかしい

145: 109 2010/11/07(日) 15:24:51 0
>>143
解放奴隷がどうなるかなんてそんなもの千差万別だと思うが。
解放されてもそのまま主人の家に住んで仕える場合もあれば、
主人からもらった小遣いや自分で稼いだ金などで独り立ちする場合もあるだろう。

男奴隷だってある程度すれば解放されて結婚する場合もある。
そうして出来た子供は混血児になる場合がほとんどだろうし、
スラヴ人同士で結婚したとしてもトルコ語を話したりして現地に同化してしまうだろう。

っていうか、僕は大量にロシアからトルコへ奴隷が連れて来られたなんて言ってない。
クリミア・ハン国で売られた奴隷の内いくらかは
ロシア本国に農奴として売られたり、ハン国内で使われる場合だってあるだろう。
だから、トルコ本国に連れて来られたロシア奴隷もある程度はいたけど、
アメリカの黒人奴隷ほど割合は多くないと思うよ。

146: 世界@名無史さん 2010/11/07(日) 15:40:04 0
>>145
男の奴隷が誰と結婚するんだって話しだよ
支配民族の女が奴隷の男と結婚するかい?
奴隷の男は奴隷の女しか結婚出来ないだろう?
なら必然的に民族として残るだろう

言葉を覚えるのはアメリカの黒人だろうが同じ事
民族性の痕跡すら無くなるというのは怪しい

147: 109 2010/11/07(日) 15:59:03 0
>>146
奴隷出身のイブラヒムはスルタン・スレイマンの妹と結婚した。
基本的にイスラム圏では奴隷に対する差別がヨーロッパに比べて小さいので、
奴隷出身の男でも儲かれば良家出身のお嬢様と結婚することが出来た。
下克上が簡単に出来たのがイスラム社会の特徴。
それに民族にいい加減なオスマン帝国では「支配民族」という概念は存在しない。
支配層はいたが、支配層に入るには出身民族は問われない。
唯一の条件はムスリムであることだけだ。
それだって地方総督などにはクリスチャンもいくらか存在した。

それと、歴史上ある民族が同化して消えてしまうなんていうのは良くあることで珍しくない。

149: 世界@名無史さん 2010/11/07(日) 16:08:35 0
近代欧米の黒人奴隷が奴隷一般のスタンダードだと思ってる奴が多すぎる

150: 世界@名無史さん 2010/11/07(日) 16:28:25 0
>>149
多分、そういう奴らはオスマンは支配層自体がカプ=クル(スルタンの奴隷)だって
ことが理解できないだろうな。

151: 109 2010/11/07(日) 16:34:58 0
>>149>>150
まぁ、普通の人にとって奴隷のイメージは「ルーツ」のクンタ・キンテとかだからねぇ。仕方ない気もする。ただ、アメリカの黒人奴隷も元を辿れば売っていたのはアラブ人たちというのがまた複雑なところだ。

152: 150 2010/11/07(日) 18:37:36 0
現在から歴史を遡って見ていくと、多分絶対に前近代の社会が理解できない
だろうな。
オスマンの奴隷はアッバース朝のトゥルク系軍人やマムルークから見ていけば、
感覚的に近代欧米の奴隷とは根本的に違うと言うのが暗黙の了解になるけど、
現代の感覚での奴隷とか民族とかいう概念に囚われてしまうと、そこから全く
抜けれらない奴がどうしても出るだろうし。

近代史からヨーロッパ史はなんとかやれても、イスラーム史だと、西洋的価値
観で進む近現代とイスラームの価値観の前近代史に強烈な断絶が出来てしまう
から、理解が難しくなるだろうな~と思う。その辺を自覚できてればいいんだ
けど。

153: 世界@名無史さん 2010/11/07(日) 18:45:26 0
奴隷でもいろんな種類があって
農場や鉱山で働く奴隷は現在でいう奴隷とあんまり変わらんかったみたいね

157: 150 2010/11/07(日) 19:34:14 0
>>153
そこがややこしい所なんだけどな。古代ローマの家内奴隷とラティフンディ
ウムの奴隷とかじゃ待遇が全然違うところとかな。
まあ、けど現代人が抱くような「非人間」という見方はされてはないけど。

あと、大農場奴隷なんかは、生産効率が悪すぎるから小作制に移行してい
くし、中小農家の奴隷は大切な労働源だから、酷使はできない。

それとオスマンの場合、農業生産の基本は、近世末までチフトリキという、
核家族単位の小農民だ。どこまで奴隷に頼ったかはよく知らないが、アメ
リカのような奴隷制大規模農業じゃないのは確かだ。

鉱山の場合は、まあ自由民であっても大抵過酷な労働条件なのは変わらない。
産業革命の時のイギリスで少年の鉱山労働がかなり大きな問題になってるだろ。

158: 109 2010/11/07(日) 19:50:30 0
>>157
鈴木先生の著書によるとオスマンにおける農業奴隷の割合はかなり低く、
奴隷のほとんどが家庭奴隷か軍事奴隷だったらしい。
あなたの言うとおり基本的にオスマンの農業は中小農民による自立経営だから
そもそも奴隷を持てるような身分の農民が少なかったそうだ。
18世紀後半ごろからアーヤーンという地方有力者が台頭していき、
彼らによる大地主的な農業経営が行われるが、
その時も労働力を担ったのはそれ以前からいた自立中小農民たちなので、
基本的に農業奴隷はオスマン帝国期全体を見渡してほとんど存在しなかったと言って良いと思う。

引用元: ロシア帝国vsオスマン帝国







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