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1: 世界@名無史さん 2005/06/24(金) 21:12:36 0
一千年におよぶビザンツ帝国の歴史をいろどった周辺諸民族との
関係についてかたりませう。
サーサーン朝、スラヴ人、ブルガリア人、アヴァール人、西突厥、
ヴァンダル人、ゴート人、アラブ人、ノルマン人、ヴェネツィア人、
ジェノヴァ人、セルジューク朝、アルメニア人、カタルーニャ人、
オスマン朝…








4: 世界@名無史さん 2005/06/24(金) 22:48:43 0
ブルガリア人殺し

19: 世界@名無史さん 2005/06/25(土) 23:09:05 0
>>4
559年に、ブルガール系のクトリグルの族長ザベルガンが、スラヴ人とともに
コンスタンティノープルを包囲していますな。
このときはベリサリウスが彼らを撃退したが。
ユスティニアヌスが東ゴート王国を滅ぼしたせいで、かえってスラヴ人や
ブルガール人のドナウ河以南への侵入が容易になったのかも。

25: 世界@名無史さん 2005/06/28(火) 22:45:41 0
>>4
帝国の北の国境は長いことドナウ河だったんだけど、コンスタンティヌス4世
ポゴナトゥスの時代に、ドナウ以南にブルガリア人が住み着いてしまう。
7世紀はアラブ人の侵入もあって、帝国にとっては大きな転換期だったとオモ。

5: 世界@名無史さん 2005/06/24(金) 22:52:55 0
ゼノン帝の本名がタラシデコッサ(トラスカリッセウス)だと
知ったときは思わずのけぞりますた。
もともとイサウリア人の族長だったのね…
彼の治世に西ローマ帝国は滅亡。
また東ゴート王テオドリックがオドアケルを敗死させる。

6: 世界@名無史さん 2005/06/24(金) 22:52:56 0
西突厥のイステミ可汗ことディザブロスとユスティニアヌス、ホスローの三つ巴外交関係について。

同じ年の内に玄奘三蔵およびヘラクレイオス1世の二人と会見した
西突厥の統葉護可汗ことトンヤブグについて

8: 世界@名無史さん 2005/06/24(金) 23:11:49 0
>>6
サーサーン朝のホスロー1世は、最初は突厥と手を結んでエフタルを
滅ぼし、突厥の王女を妻に迎えたりしたが、6世紀後半になると突厥
との関係が悪化した。
当時突厥に貢納していたソグド人は、カスピ海の北廻りのルートで
中国産の絹をビザンツへ輸出する新しい通商路の開拓を狙っていたが、
これはサーサーン朝に邪魔されてなかなか実現しなかった。
そして突厥の可汗(ディザブル)はソグド人の王マニアックを使節として
ビザンツ宮廷に派遣し、ビザンツと突厥との同盟を締結させた。

9: 世界@名無史さん 2005/06/24(金) 23:35:43 0
>>6
統葉護可汗(トンヤブグウ、ジベール)はビザンツ皇帝ヘラクレイオスと
組んでホスロー2世を攻めている。
また玄奘三蔵は統葉護可汗にインドに行く通行証をもらっている。

14: 世界@名無史さん 2005/06/25(土) 10:49:17 0
>>6
あまり知られていないけど、ユスティニアヌスはエチオピアとも同盟して、
彼らにサーサーン朝を攻撃させようと試みている(結局は成功しなかったが)

16: 世界@名無史さん 2005/06/25(土) 15:27:18 0
>>14
イエメン総督マスラマとか、ムハンマドが生まれた「象の年」とか、
ヒムヤル王国滅亡とかの関連のはなし?

17: 世界@名無史さん 2005/06/25(土) 16:48:44 0
>>16
ヒムヤル王ドゥナーンがユダヤ教に改宗し、キリスト教徒を弾圧したので、
キリスト教国であるエチオピアが介入してヒムヤル王国を滅ぼした。
ヒムヤル王国が滅亡した後、エチオピア国王はビザンツに正統派主教の派遣を
要請したりしている。
ユスティニアヌスは絹貿易をエチオピア経由に切り替えて、その代わりに
エチオピア(当時はアラビア半島の一部も支配下においていた)にサーサーン朝
を攻撃させようとした。
しかしエチオピアの支配は長くは続かず、アブラハという人物がヒムヤル王国を
簒奪し、ユスティニアヌスは貢納とビザンツの宗主権を受け入れる代わりに
アブラハと友好関係を結んだ。

23: 世界@名無史さん 2005/06/27(月) 20:58:38 0
>>6
ハザール人はもともと西突厥に服属していた。
最後はスヴャトスラフ率いるルーシの軍勢によって滅ぼされる。

ユスティニアヌス2世リノトメトス(鼻削がれ帝)は、クリミア半島のケルソンに
流された後、ハザールの可汗のもとに身を寄せ、その王女と結婚。
ティベリウス3世(アプシマル)はこの可汗を買収してユスティニアヌスを暗殺
させようとしたが失敗。その後ユスティニアヌスはブルガリア人の援助を得て
復位する。
もう一人、コンスタンティヌス5世コプロニュモス(糞)もハザールの王女を
妻に迎え、間に生まれたのがレオン4世。

24: 世界@名無史さん 2005/06/28(火) 18:44:23 0
>>23
このページによるといつ滅びたのかは微妙みたいだ。
ttp://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fha100.html

11: 世界@名無史さん 2005/06/25(土) 01:01:25 0
ビザンツ帝国の地図
KISH_07_149


ユスティニアヌス大帝の時代
KISH_07_151

 
11~12世紀
byzantine_empire_1355




15: 世界@名無史さん 2005/06/25(土) 15:26:17 0
突厥のトゥルクサントスが、ビザンツの使節ウァレンティノスを迎えたときに
言った言葉

「ここに私の十本の指があるが、ローマ人はこれと同じ多くの舌を有し、
欺瞞と偽証の言辞を弄する。現に貴下が私自身に言う言葉と私の臣下に言う
言葉は別物である。かくして諸国民は次々と諸君の背信的な雄弁に欺かれてきた。
貴下は自分の同盟者を戦争と危険に投げ入れて彼らの労苦を横取りしながら、
これら恩人を平然と見殺しにする。速やかに帰国して君主に復命し、トルコ人は
虚偽を述べたり許したりできない国民であるからローマ皇帝はこの種の背信行為
への罰を必ず受けずにはいない、と伝達せよ。
現に彼は甘い空疎な言葉でわれわれとの友好を乞い求めながら、我が逃亡の民
たるウァルコニ族(注:アヴァール人)とも気脈を通じている。もしも私がこの
哀れな奴隷らを目がけて出撃しようものならば、彼らはわれわれの鞭の音を
聞いただけで慄え上がり、蟻の巣のように我らの無数の騎兵隊の蹄に踏みにじられよう。
私は彼ら騎兵隊によるローマ帝国への侵攻路を知らぬわけではないし、コーカサス
山脈がローマ帝国の難攻不落の防壁だとの空しい強がりにも騙されない。
私はドニエストル、ドナウ、ヘブルスの水路を知悉している。最も好戦的な
国民も過去にトルコ族の武威に屈してきた。東の端から西の端まで大地全体は
我が財産である」

20: 世界@名無史さん 2005/06/26(日) 19:42:44 0
ブルガリアにいるトルコ系住民はオスマン・トルコ人だけでなく
クマン人やウズ人の子孫も多いとか。

21: 世界@名無史さん 2005/06/26(日) 23:03:35 0
>>20
トルコ系遊牧民といえばペチェネグ人もいたな。
キエフ・ルーシのスヴャトスラフはぺチェネグ人の攻撃を受けて死んだが、
彼らのバックにはビザンツがいたという説もある。
スヴャトスラフはブルガリア人を撃破した後、占領地に居座り続けたので、
ビザンツにとっては疎ましい存在となっていた。

27: 世界@名無史さん 2005/07/01(金) 19:05:05 0
「現在のギリシア人はスラヴ人の子孫」という説がありますが、
南下したスラヴ人はエピロス、テッサリア、西ペロポネソスに多く住み着き、
逆にアッティカや東ギリシアにはほとんど定着しなかったそうでつ。
スラヴ人の農業技術は、重い土壌・豊富な水量を持つ河川、適度な暑さの夏、
水を保持する森林などのある地域に適したものだったので。

30: 世界@名無史さん 2005/07/05(火) 17:40:20 0
コンスタンティノープルにやってくる外国人商人は、ミタトンとよばれる公共の
建物に滞在し、滞在期間は一回につき3ヶ月または6ヶ月以内とされ、商品も
市の自由市場ではなく、ミタトンでしか売ることができなかった。
彼らが持ち込んだ商品に10分の1税が科せられたのも、ミタトンにおいて
であった。この税は彼らが税の半額を支払う一方、残りの半額は買い手が
払うというものであった。このように自由を制限される代わりに、外国人
商人たちは、ビザンツの地区当局のいやがらせや個人商人による搾取から
守られていた。これらの事柄はビザンツと外国政府との通商条約に定められて
おり、国際貿易制度の一部であった。

34: 世界@名無史さん 2005/07/14(木) 00:08:44 0
ビザンツ帝国とイスラーム勢力の関係はどうよ?
ハールーン・アル・ラシードとニケフォロス1世の戦い、
アラブ人による2度のコンスタンティノープル包囲、
ニケフォロス2世フォカスの東地中海の制海権回復…

35: 世界@名無史さん 2005/07/15(金) 20:20:01 0
>>34
ミカエル8世は一時期ルーム・セルジューク朝の武将をやってたらしいですね。
モンゴル軍と戦って撃退したとか。

36: 世界@名無史さん 2005/07/16(土) 00:14:31 0
>>35
イサキオス・コムネノスとヨハネス・コムネノスの父子もルーム・セルジューク朝
のスルタンの宮廷に亡命していた。
後にオスマン朝のスルタンは、この史実をもとに自分たちにビザンツ皇帝
一族の血が流れていると主張する。

669: 世界@名無史さん 2007/04/07(土) 13:22:06 0
>>36
スレイマンはルーム・カイセリ(ローマ皇帝)
を自称したがそれなりに由来があったんだな

モスクワ大公国のイヴァンも皇帝の姪と結婚して
ローマ帝国の後継者を辞任してツァーリを名乗った
のと似ている
西洋のどこの国も認めなかったが

39: 世界@名無史さん 2005/07/21(木) 16:28:39 0
コンスタンティノープル陥落後、ビザンツ文化のギリシャローマ的部分がイタリアに行って
ルネサンスになり、ヘシュカズムなどの神秘主義的なものがロシアに行った、というのを聞いて
すごく納得した覚えがある。

40: 世界@名無史さん 2005/07/21(木) 17:36:35 0
>>39
フィレンツェ宗教会議後、イシドルス枢機卿がモスクワに行ったが、
彼はロシアの主教会議で糾弾されて修道院内に幽閉され、ほうほうの体で
脱出した。
高橋保行氏は、思索することに信仰の重点を置いていたビザンチン時代の
正教に比べると、ロシア国教時代の正教は情緒的に信仰を把握することが
重視されていると書いている。

44: 世界@名無史さん 2005/07/22(金) 00:11:48 0
ビザンチン帝国とは、要するに「キリスト教化したギリシャ人によるローマ帝国」ですよね?

46: 世界@名無史さん 2005/07/22(金) 11:43:29 0
>>44
そうでつ。
ここでいう「ギリシャ人」には、異民族出身でギリシャ化された人々も
入りますが。
レオン1世はトラキア人、ゼノンはイサウリア人、ユスティヌス1世と
ユスティニアヌス大帝はイリリクム出身、レオン3世はシリア人、レオン5世は
アルメニア人、ミカエル2世はフリュギア人、バシレイオス1世はアルメニア系
マケドニア人。
ティベリウス3世もゴート人だという説がある。

48: 世界@名無史さん 2005/07/22(金) 21:27:34 0
今も昔も戦争には金がかかるものだが、
外交交渉や貢納で切り抜けたほうが結局は安くついたんだよな。
ビザンツ人にとって戦争は万策尽きたときの最期の手段だった。

49: 世界@名無史さん 2005/07/23(土) 14:02:54 0
オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの『ビザンティン帝国の軍隊』に、
「同時代の他国人とは異なり、彼らは早くから、一つの戦闘で勝ちを収めることは
必ずしも戦争に勝利することにはならないという事実に気づいていた。そして、
政治的に無益な戦役で兵や物資を浪費するかわりに、しばしば条約を結び、
賄賂を贈って敵国を買収したのである」
と書いてあった。
ビザンツ人ができるだけ戦争を避けようとしたのは、ある意味彼らの合理的な
性格のあらわれといえる。

50: 世界@名無史さん 2005/07/24(日) 20:21:53 0
コンスタンティノポリスを放棄して
モレアで雌伏とかは考えなかったみたいけど。

51: 世界@名無史さん 2005/07/24(日) 22:24:02 0
>>50
聖母のイコンがコンスタンティノープルを守ってくれる、と
考えていたのかな?

52: 世界@名無史さん 2005/07/26(火) 16:20:34 0
ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂宝物館には、第四回十字軍のコンスタンティ
ノープル占領のさいに持ち帰られた工芸品が展示されている。



Venezia_Tesoro_di_San_Marco_Grotta_della_Vergine

レオン6世の冠(クリスタルの部分は後補)


Venezia_San_Marco_Calice_di_Romano_III

皇帝ロマノスの銘のある盃


paladoro

パラ・ドーロ(祭壇衝立)

53: 世界@名無史さん 2005/07/28(木) 12:58:23 0
ヘラクリウス帝はカルタゴに遷都しようと考えたことがあったらしいな。

54: 世界@名無史さん 2005/07/28(木) 19:04:00 0
>>53
もともとヘラクレイオス父子は北アフリカの総督だったしね。
ホスロー2世の手にエジプトが落ちてから、首都は飢餓に苦しめられていた。

70: 世界@名無史さん 2005/08/05(金) 20:42:22 0
>>53
コンスタンス2世もシチリアに遷都しようとした。
ローマと新興アラブ勢力の両方を監視するのに都合がよいと考えたので。
(結局は暗殺されたが)

56: 世界@名無史さん 2005/07/31(日) 02:08:46 0
ヘラクレイオスを支えた将軍たちって名前を聞かないが
資料が全く残っていないのか?

エジプトを制圧したのはいとこのニキタスだったかな

57: 世界@名無史さん 2005/08/01(月) 21:38:53 0
>>56
首都を防衛したのはヴォノス、皇帝と一緒に戦ったのは弟のテオドロス。

58: 世界@名無史さん 2005/08/02(火) 23:17:59 0
>>56
北アフリカでアラブ軍と戦ったのはコメス(督軍)グレゴリウス。
結局はアル・ズバイルの手で討ち取られるんだが。

59: 世界@名無史さん 2005/08/02(火) 23:37:02 0
おお、レスありがとうございます。

ヘラクレイオスの生涯ってドラマそのもので興味あるんだけど
なにしろそれを取り上げた和書がない・・・
ギリシャ語どころか英書も読めないヘタレで

塩野婆でもいいから小説書いて欲しいところだよ
でも、ビザンツ嫌いそうだからな、彼女は。

60: 世界@名無史さん 2005/08/03(水) 00:21:38 0
>>59
ユスティニアヌス大帝は書くかもしれないけど、ヘラクレイオスや
バシレイオスは無理かなあ…

バシレイオスはサーサーン朝との戦いで、市民の持つ金製品から
ハギア・ソフィア大聖堂の金製品まで溶かしてハザール人に与え、
サーサーン朝を北から攻撃させた。
同時にビザンツ軍が南からサーサーン朝に攻め込み、627年に
ホスロー2世はダスタギルド(クテシフォンの北111㎞)の宮殿を焼かれ、
翌年側近に暗殺される。
この戦争で両帝国が征服地で重税を取り立て、住民を拉致して行った
ので、アンティオキアやアレクサンドリア郊外の農村は荒廃した。
さらにこの戦争で疲弊した両帝国は、イスラーム勢力を止めることが
できなくなる。

62: 若狭 ◆yqXqaUpMzk 2005/08/03(水) 00:36:35 0
>>60さん
すみません。
私はただいま勉強中のもので恐縮ですが、
バシレイオス(ヴァシリオス)とヘラクレイオス(イラクリオス)と記述を間違えて折られませんか?
それともマケドニア朝以外にバシレイオスがいたんでしょうか?

生意気言ってすみません、私自身も良く分からないもので、確認までに。

64: 60 2005/08/03(水) 01:34:05 0
>>62
バシレイオスとヘラクレイオスを間違えた…スマソ。

65: 世界@名無史さん 2005/08/03(水) 02:12:24 0
ヘラクレイオス帝(在位610~641)
バシレイオス1世(在位867~886)
バシレイオス2世ブルガロクトノス(在位976~1025)

66: 世界@名無史さん 2005/08/03(水) 08:07:07 0
バシレイオスって「王」って意味なんだけど
中世ローマ帝国では事実上「皇帝」を意味したんだよなあ。
サファヴィー朝の「シャー」もそんな感じだな。

67: 世界@名無史さん 2005/08/03(水) 10:46:10 0
>>66
イラン(ペルシア)のシャーは「シャー・ハン・シャー」(王の中の王)だから
事実上の皇帝といっていい。

シリアのヤルムークで、ハリード率いるアラブ軍と戦って敗北したのは
将軍マヌエル。
シリア人やエジプト人(単性論)は、ビザンツ皇帝の下で迫害・搾取される
よりも、ムスリムの下で貢納を払って信教の自由が認められるほうを
選んだ。

61: 世界@名無史さん 2005/08/03(水) 00:33:44 0
>>60
でもイスラムの侵攻までそれから6,7年はあったんでしょ。

63: 世界@名無史さん 2005/08/03(水) 00:49:00 0
>>61
いわゆる「肥沃な三日月地帯」の南には、ビザンツと同盟関係にあった
ベドウィンのベヌ・ガッサーン王国、サーサーン朝と同盟関係にあった
同じくベドウィンのラフミド王国があった。
これらの王国は農民と遊牧民の微妙なバランスの上に存在していたのだが、
かつてローマ軍が築いた要塞は荒れるままに放置され、ベドウィンは
両帝国に対する忠誠心を失っていた。ペルシャ軍がイェルサレムを
占領していたとき、早くもベドウィンがここで略奪を行っている。
しかしビザンツ側はこのような変化にまったく気づいていなかった。
ダマスクスにいたビザンツの宦官に、ベドウィンが給与の支払いを
求めると、宦官は「皇帝は自分の兵士に支払う給与にも事欠いている
というのに、お前ら犬どもにやる金などあるわけがない」といって
追い払った。
また、北シリアが荒廃していた時期に、メッカから来た商人たちの
おかげで、ダマスクス、ボストラ、ゲラサ、ガザは好景気に沸いていた。
かくしてアラブ軍はビザンツの防衛線を簡単に突破する。

68: 若狭 ◆yqXqaUpMzk 2005/08/03(水) 23:30:58 0
>>63 さん
ガッサーン朝はムウタの戦い、ヤムルークの戦いでビザンツ側として重要な働きをしたそうですね。
単性説キリスト教を報じていたそうですが、ビザンツに殉じて滅んでしまった。
最初にムハンマドの使者を斬ったから途中で裏切れなくなったんでしょうかね。


イラクリオスはアヴァール人に対する備えとしてセルビア人やクロアチア人がバルカン半島に住むことを許可したとあります。
彼らは626年のアヴァール人のコンスタンティノープル襲撃の際、どのような行動をとっていたののでしょう?
アヴァールの軍勢に加わっててビザンツに寝返ったのか、
アヴァールの敗北後に移住を開始したのか。

69: 世界@名無史さん 2005/08/04(木) 02:16:24 0
>>68
スラヴ人はこのときのコンスタンティノープル攻撃に加わり、敗北後も
バルカン半島に居残りました。
ヘラクレイオス帝も、このことに関してさしたる対策をたてなかったようです。

ヘラクレイオス帝がアヴァール人に対する備えとしてセルビア人やクロアチア人に
バルカン半島に住むことを許可したという話は単なる伝説で、スラヴ人の
バルカン半島定住は、もっと複雑で長期間にわたっておこなわれたようです。

80: 若狭 ◆yqXqaUpMzk 2005/08/07(日) 01:28:59 0
>>69 さん
ありがとうございます。
626年の包囲について、スラブ人のが動向が気になったもので。
どうやら撃退はビザンツの独力と見るべきで、勝利の結果バルカンにビザンツに従うスラブ人が入っていったようですね。

71: 世界@名無史さん 2005/08/06(土) 01:46:43 0
質問であります。
9世紀頃、エジプトのアレキサンドリアはビザンチン領ですか?
それともイスラム領でしたか?

72: 世界@名無史さん 2005/08/06(土) 23:10:46 0
>>71
イスラーム領。
アムル・イブン・アル・アーシが征服。

73: 71 2005/08/06(土) 23:50:38 0
そうでありましたか。

何せ荒木飛呂彦の漫画に、「聖マルコの遺骸はビザンチン帝国のアレキサンドリアからベネチアに運ばれた。
聖人の遺骸の功徳でベネチアは以後千年にわたって栄えた」とあったので、
「ビザンチン帝国はイスラムの勃興とともに小アジアとバルカン半島以外の領土を全て奪われたんじゃなかったのか?」と
いぶかしく思っていたのですよ。

74: 世界@名無史さん 2005/08/06(土) 23:53:26 0
>>73
ビザンツはイスラーム勢力の勃興後も、南イタリアやクリミアに
ひつこく領土を持っている。

75: 朱由檢 2005/08/07(日) 00:12:42 0
828年に聖マルコの遺骸を騙し取ってきた話は有名だけど、
当時は既にアレキサンドリアはイスラム領だよね。
たしかアレキサンドリア陥落は642年だったと思う。
ニハーヴァントの戦いと同じ年だったからなんとなく覚えてる。

77: 世界@名無史さん 2005/08/07(日) 00:25:30 0
確か聖マルコさまの遺骸の上に豚肉を載せ、イスラムの目を欺いたんだよね?

78: 世界@名無史さん 2005/08/07(日) 00:56:47 0
>>77
Yes.

ヨハネス・カンタクゼノスの治世にコンスタンティノープルで
ジェノヴァVSヴェネツィアの戦いが起きたね。
ペラ(ガラタ)地区に居住していたジェノヴァ人をヴェネツィア艦隊が
襲撃したのがきっかけ。

81: 世界@名無史さん 2005/08/07(日) 21:06:59 0
ビザンツ帝国滅亡の原因は何?
両アンドロニコスが外国勢力を引っ張り込んだこと?
第四回十字軍による弱体化?
ビザンツが地中海世界システムの「辺境」に落ちぶれたこと?

82: 朱由檢 2005/08/07(日) 22:20:59 0
パレオロゴス朝ビザンツ期には官職を売買するようになり、
それまでのような有能な官吏が集まらなくなったことも重要。

83: 朱由檢 2005/08/07(日) 22:23:44 0
それから、マンジケルトの戦いの惨状を調べればわかると思うけど、
傭兵が軍隊の中核になっていたこともビザンツのアキレス腱になっていた。

84: 朱由檢 2005/08/07(日) 22:27:30 0
さらに商業における地理的プラス要因も交易権をジェノヴァ、ヴェネツィアに握られ、
利潤を吸い上げられていた。

85: 朱由檢 2005/08/07(日) 22:32:47 0
政治、軍事、経済すべて行き詰まり、
ビザンツ帝国の最後はただの一都市国家になりさがっていたの。
ビザンツ帝国好きだからなんか悲しくなるよ。

86: 世界@名無史さん 2005/08/07(日) 22:50:58 0
オスマン朝がティムールに敗れて弱体化した後、何か手を打てなかったんだろうか。
でも東地中海自体、新大陸の発見後は重要性を失っていったからなあ。
近世に入るとヴェネツィアもオスマン朝に押されて地中海の重要拠点を失って
いくし。

87: 朱由檢 2005/08/07(日) 23:09:14 0
ヴェネツィアはオスマン朝がティムールに敗れて弱体化した時期(1416年)には、
艦隊を派遣したりするんだけど、ガリポリで殲滅されちゃうの。
ビザンツ帝国は…もう無理ぽ。
調べたらわかると思うけど、情けなさすぎて書き込む気も失せちゃう。
…もっと、志を大きく持とうよ~って、感じ。

91: 世界@名無史さん 2005/08/08(月) 16:40:49 0
佐藤次高『イスラームの国家と王権』(岩波書店)より引用

4-15世紀のビザンツ皇帝は、一貫して「神の代理」として位置づけられて
いたから、一見すれば、アッバース朝時代のように、「神の代理」とされた
カリフとは類似の性格を帯びていたようにも思われる。しかしビザンツ皇帝は
司法・行政・立法など国政のあらゆる面で最終の決定権をもつ専制的な絶対君主
であった。このような通説に対し井上浩一は、貴族による皇帝批判や皇帝に
あるべき統治の原理を示す君主鑑を再検討することによって、専制皇帝理念の
見直しを試みる。その結果、井上はこの理念を空疎なものとして退けるのではなく、
むしろ失政を契機に、皇帝への批判が、皇帝をも縛る「憲法」を掲げて公然と
表明されるという、現実の政治・社会関係を重視しなければならないと説く。
(中略)ビザンツ皇帝の場合には、失政を重ねる皇帝への批判は行われたが、
この種の批判が、イスラーム世界の「フトバを切る」というような明確な
政治手段として確立していたわけではなかった。しかもビザンツ皇帝は、
司法・行政・立法など国政のあらゆる面で最終の決定権を持つ絶対君主で
あった
ことは前述の通りである。これに対してカリフは、アッバース朝時代のように、
たとえ「神の代理」ではあっても、イスラームの教義解釈やイスラーム法制定の
分野に立ち入る権限は与えられていなかったことが特徴である。この点で、
さまざまに制約されたカリフ権は、いわば全能のビザンツ皇帝権とは根本的に
性格を異にしていたとみなければならない。

92: 世界@名無史さん 2005/08/09(火) 23:19:05 0
一口にビザンツ皇帝権といっても、
ユスティニアヌス大帝の時代と、
バシレイオス2世の時代とではかなり差があるような。
ユスティニアヌスはハギア・ソフィアを建てるための土地を手に入れるのに
苦労したが、
バシレイオス2世は有無を言わさず貴族や大土地所有者の土地を取り上げている。

93: 世界@名無史さん 2005/08/15(月) 19:36:20 0
ガセネタかも知れませんが、何かでアレクシオス1が中国の宋に使節を
送ったというのを聞いたような気がするのですが、どうなのでしょう?

94: 世界@名無史さん 2005/08/19(金) 23:15:46 0
朱元璋がビザンツに使節を送った例もある。

95: 世界@名無史さん 2005/08/19(金) 23:45:35 0
絹の製造法は中国→ペルシア→ビザンツという経路で伝わった。

96: 世界@名無史さん 2005/08/23(火) 23:37:16 0
6世紀のビザンツ帝国では、遊牧民の騎兵について将軍たちが研究していた。
ビザンツ人は中華思想を持つ一方で、蛮族のものでも取り入れるという
柔軟な考え方を持っていたことがわかる。

98: 世界@名無史さん 2005/08/24(水) 11:46:25 0
ビザンツ軍といえばクルソレス(弓騎兵)とデフェンソレス(重装騎兵)の連携攻撃。

99: 世界@名無史さん 2005/08/24(水) 20:39:19 0
>>98
マウリキオスが「戦術論」を書いたころには、もう古代ローマの軍隊とは
かなり違ったものになっていたようですな。
9~12世紀にかけて、テマ兵に代わって傭兵の比重が増えていく。

100: 世界@名無史さん 2005/08/25(木) 19:22:43 0
戦術論について解説してるページがあった
ttp://www.au.af.mil/au/awc/awcgate/strategikon/strategikon.htm

ビザンツ軍とモンゴルが戦闘した例はあったんでしょうか?

101: 世界@名無史さん 2005/08/25(木) 19:30:29 0
>>100
バトゥの兄弟のバラカが指揮する軍勢はブルガリアとトラキアへ侵入したが、
彼はノヴゴロドへ転進したためビザンツとモンゴルの衝突は回避された。
ミカエル・パライオロゴスは、トラキアの城郭でモンゴル軍に包囲された
ことがあるが、彼らの目的はイザディン(トルコのスルタン)の救出だったので、
彼の身柄と財宝を引き渡されて満足した。

102: 世界@名無史さん 2005/08/25(木) 19:38:05 0
ミカエル8世については>>35みたいな話もあるね。
というかモンゴル軍がトラキアまで来てたとは。

110: 世界@名無史さん 2005/08/29(月) 22:40:56 0
>>102
ブルガリアを略奪に来たキプチャク汗国軍がトラキアまでたどり着いた例もあるよ。

103: 世界@名無史さん 2005/08/26(金) 02:03:54 0
ベリサリウス(´・ω・) カワイソス

104: 世界@名無史さん 2005/08/26(金) 20:30:38 0
>>103
灼熱の北アフリカ(ヴァンダル王国)からイタリア半島(東ゴート王国)まで
転戦してるんだよね。
主君にも妻にも恵まれなかった悲劇の人。

108: 世界@名無史さん 2005/08/27(土) 19:53:17 0
史上最強の宦官ナルセス

109: 世界@名無史さん 2005/08/27(土) 21:34:35 0
ゴート王トティラはナルセスとの戦いで死亡。
その後ナルセスはローマを征服。
新しいゴート王にテイアスが選出され、これまたナルセス率いるビザンツ軍と
戦って敗死。
その後フランク族、アレマンニ族がイタリア半島に侵入してきたが、
ナルセスは彼らを撃退する。
その後ナルセスは15年間総督としてイタリアを統治。

120: 世界@名無史さん 2005/09/13(火) 21:07:36 0
ユスティニアヌス大帝の「偉業」のうち
ベリサリウスの功績が50%前後を占めてると思う。
あとはナルセスとテオドラとユスティヌス一世ので大半は(略

122: 世界@名無史さん 2005/09/15(木) 10:13:11 0
>>120
何だかんだ言って、ベリサリウスが遠征を続けていられたのはユスティニアヌス1世のお陰だと思うが。
普通はあんな遠征遠征遠征の間に国が破綻する。
ローマ法大全や蚕密輸も忘れてはイケナイ

123: 世界@名無史さん 2005/10/05(水) 19:22:25 0
ベリサリウスの頃のビザンツ軍ってどんな感じですか?

124: 世界@名無史さん 2005/10/12(水) 09:23:28 0
よくは分からないが、当時の東帝国の軍は戦えば大体負けるといわれているくらい弱かったらしい。
現にべりサリウスは歩兵をほとんどあてにしないで、騎兵を戦闘のメインに使ってたな。
あとは、鉄の精製法がよかったのかどうかは知らないが、ペルシア軍の矢で鎧を貫くことは出来なかったそうだ。

125: 世界@名無史さん 2005/10/12(水) 16:24:40 0
ナルセスがフランク族と戦ったときも歩兵は敵の突撃を受け止められなかったが
騎兵の側面攻撃で勝利を収めている。

111: 世界@名無史さん 2005/08/29(月) 23:08:46 0
ビザンツが現代まで続いてくれたら…

と思いつつ、近代ナショナリズムのうねりの中でやはり
解体してしまうのかな。

112: 世界@名無史さん 2005/08/29(月) 23:31:30 0
>>111
オスマン帝国と同じような末路をたどったりして。

113: 世界@名無史さん 2005/08/30(火) 00:10:32 0
後期ビザンツの力では史実のトルコのようにバルカン諸国を征服できないと思うので
ブルガリアやセルビアのような国々が早くから独立することになるのでは?
というかギリシャも3つぐらいに分裂してたりして。

114: 世界@名無史さん 2005/08/30(火) 20:16:04 0
モレア辺りでくすぶってても良かったのに。
1453年帝国滅亡、という事実は変わらなくても
「実質」と「完全」じゃやっぱり違う。

115: 世界@名無史さん 2005/08/30(火) 21:59:29 0
ミカエル・パライオロゴスがコンスタンティノープルを回復して、
アナトリア方面の防衛がおろそかになったことがかえって滅亡をはやめた。

116: 世界@名無史さん 2005/08/31(水) 08:52:50 0
奪回したのは配下の武将だからミカエルに責任はない。

117: 世界@名無史さん 2005/09/01(木) 17:51:31 0
たまたま近くに来たら門があいてたので占領したんだっけ?

118: 世界@名無史さん 2005/09/01(木) 20:38:41 0
280 :ラテン帝国の滅亡 :2005/08/03(水) 12:53:30 0
1261年、ミカエル・パライオロゴスはジェノヴァ人と協定を結び、コンスタン
ティノープル奪回を援助するという条件で、彼らに帝国内の諸特権を認めた。
ニケーア軍が首都に接近したのは、ラテン人守備隊のほとんどがヴェネツィア
艦隊とともに黒海のダフヌジア島を奪取するために出かけた後であった。
選ばれた数人の兵士が、首都郊外の農民たちに教わった地下通路を通って
市内に忍び込み、城壁の守備兵を倒して城門を開けた。
翌朝、ニケーア軍がコンスタンティノープルに入城し、通りはミカエルを
歓呼して出迎えるギリシャ人であふれかえった。
ラテン皇帝ボードワンは事態を知ってヴェネツィア艦隊に伝令を送ったが、
ギリシア軍はヴェネツィア船が上陸する予定の埠頭に火を放ち、彼らを
撃退した。ボードワンとその従者たちは宮殿からボートで沖に漕ぎ出し、
ヴェネツィア船にたどりつき、反撃をあきらめた。
かくしてラテン帝国はあっさり消滅。

引用元: ★ビザンツ・周辺諸民族関係史★







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