51FTVCTXWKL



1: 人間七七四年 2007/07/24(火) 08:54:46 ID:BGSHYQZn
かつて中国地方に覇を唱えた名門・尼子氏について語るスレ。










16: 小魔玉  ◆N10JLQ90IM 2007/07/28(土) 21:42:09 ID:iBZjBsf+
上月城跡に行ったときに、尼子勝久公と山中鹿之助公、
上月城の篭城で散った城兵達に深い黙祷をしてきましたw

と、皆さんの尼子勝久公の評価はどんな感じですか?
(凡将?それとも名将ですか?)


240px-Amago_Katsuhisa


尼子 勝久

尼子 勝久(あまご かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

永禄9年(1566年)、毛利元就の侵攻を受けて尼子氏は滅亡するが、永禄11年(1568年)、尼子家の再興を図る山中幸盛・立原久綱らに擁立されて還俗し、隠岐国で機会を窺うこととなる。

永禄12年(1569年)に隠岐国から出雲国に入ると、尼子氏の旧臣の支援を得て出雲新山城に入城。月山富田城奪還を目論むが、毛利元秋や天野隆重の奮戦により攻略は失敗に終わる。永禄13年(1570年)2月、布部山の戦いで毛利軍と戦って敗北を喫し、京都へ逃れた。天正2年(1574年)、因幡国の山名豊国の支援を得て今度は因幡からの出雲侵攻を企てるがこれも失敗に終わった。

その後は織田信長の傘下に入り、羽柴秀吉の中国方面軍に付けられ、天正5年(1577年)には宇喜多直家の支城である播磨国上月城を攻略した際にその守備を命じられた。天正6年(1578年)、毛利氏は宇喜多氏と共に総勢3万で上月城に迫った。秀吉は信長の命により別所長治が籠る三木城攻略に専念することとなり(三木合戦)、近侍させていた亀井茲矩を使者として勝久らに上月城からの撤退を要請した。

しかし勝久らはこれに従わず籠城、毛利氏の猛攻に遭いついには降伏する憂き目に遭う(上月城の戦い)。勝久は嫡男・豊若丸、兄弟の氏久、重臣の神西元通らと共に自害した。享年26。

一方、山中幸盛は捕虜となり移
送される途中に斬殺された。これにより大名としての尼子氏再興運動は潰えることとなる。



17: 人間七七四年 2007/07/28(土) 21:55:31 ID:1wUEwzB5
>尼子勝久

とりたてて功績があるわけではないが、
首謀者(立原&山中)がおめおめ生き残る中、城兵の助命と引き替えに、責任とって切腹したのは偉かった

18: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2007/07/29(日) 19:11:32 ID:dpjBj8Yt
切腹しても跡継ぎいなきゃ意味ねぇ

20: 人間七七四年 2007/07/30(月) 09:41:31 ID:0+FanD2F
生き残って毛利に逆襲するのがはるかに良い。
鹿助は何度もそれを狙ってたわけだし。

21: 人間七七四年 2007/07/30(月) 10:18:41 ID:50brrbW/
>>20
鹿之助は正直すぎたために毛利に逆襲をすることができなかった。

22: 人間七七四年 2007/07/30(月) 22:08:48 ID:FS674Elb
立原は生き残ったけど、逆襲したか?

29: 人間七七四年 2007/08/01(水) 10:03:48 ID:2nDQfq+J
>>22
おまえさんは、逆襲するか・自殺するか の二択しかないのかい?
それはあんまりだよ。

23: 人間七七四年 2007/07/30(月) 23:43:35 ID:yHap6Bzn
久綱の子も毛利庇護下で出家したよな

24: 人間七七四年 2007/07/31(火) 16:58:10 ID:F+MPC3DW
毛利に同情するよ。
世話まで焼かせて・・・。

しかし毛利が倫久辺りを対再興軍に充てたらそれはそれでおもしろそう。
再興軍の大半が自分の領地を取り戻したい一心だから、倫久が来ようが、義久が来ようがどうでもないだろうが倫久の采配が見てみたかった。
尼子 倫久

尼子 倫久(あまご ともひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、僧。尼子氏の家臣。尼子晴久の三男。

尼子氏滅亡後は、兄弟の義久・秀久とともに安芸円妙寺へと幽閉された。厳重な監視の中、幽閉生活は10数年にも及んだが、元亀元年(1570年)に毛利元就は敵意のないことを知るや、独身の倫久に毛利家重臣・山内元通(もとみち、山内広通の兄)の娘を室とし、それにより義父の元通から知遇を受けた。

元和9年(1623年)3月4日に石見国で死去。享年78。子の元知は、兄・義久の養子となり、尼子氏の血脈を後世に残した。


30: 人間七七四年 2007/08/01(水) 10:23:31 ID:B/VKF8cN
後世まで御家・血統を残すのも、武士にとっては
立派な仕事だね。

31: 人間七七四年 2007/08/01(水) 11:36:55 ID:U5RnBbvj

>>30
昭和の初めまで毛利の別邸に住んで
毛利にお世話になっていた尼子家はある意味すごいな。
なんで追い出されなかったんだろ?

32: 人間七七四年 2007/08/01(水) 13:45:57 ID:ITTxSEz4
江戸時代を通して毛利氏の家臣だったんだから
今更昔の因縁など持ち出すわけない

33: 人間七七四年 2007/08/01(水) 18:53:37 ID:U5RnBbvj
いや昔の因縁じゃなく、人様の家・・・しかも武士も廃れた昭和時代に
まで住んでて肩身狭かったりしなかったのかな?と思った。
家賃とかやっぱ払ってたのかな。

34: 人間七七四年 2007/08/01(水) 21:51:33 ID:bHh931cS
ニートじゃないんだからw

50: 人間七七四年 2007/08/05(日) 21:42:04 ID:ArrnzyX0
再興軍の当主には新宮党の尼子誠久の四男の尼子勝久がなってるけど、実は誠久の長男である氏久ってのが生き残ってて合流してる。
でもって一緒に自刃してる。

新宮党討伐のきっかけを作った人物とも言われているから鹿之介達も当主として仰ぐ気にはなれんかったんだろうか。
というか、尼子が滅亡した時に毛利につかまることもなく、それまでどこでなにをやってたんだろう。
新宮党

新宮党(しんぐうとう)は、出雲の戦国大名尼子氏家中の精鋭として知られた軍事集団。

尼子国久時代の新宮党と増長、粛清

新宮党が尼子軍の精鋭部隊であり、その勇猛さで勢力拡大に貢献したことから、国久と息子の誠久は尼子家中で傲慢に振る舞い、尼子氏当主の尼子晴久や他の重臣たちとの間に確執・軋轢が生じていた。

天文23年11月1日(1554年11月25日)、晴久は家中の統一を図るため、国久、誠久親子ら新宮党幹部を粛清した。国久は登城途中で暗殺され、誠久は新宮党館内にて自害した。その一族も自害もしくは逃亡して、新宮党は壊滅した。

尼子晴久は尼子氏久に新宮党を率いさせたが、この粛清によって多くの精鋭が失われた。


51: 人間七七四年 2007/08/05(日) 21:48:17 ID:JdjdhLgC
浪人の基本の傘貼りに決まっておろうが!!

久幸の長男も氏久じゃなかったっけ?

52: 人間七七四年 2007/08/05(日) 22:56:28 ID:e4F08M1R
つ養子

53: 2007/08/06(月) 15:19:48 ID:BxknSmKB
経久を大河ドラマにしてください。知らない人には、展開がみえなくて、面白いと思うので、是非大河ドラマに。

63: 人間七七四年 2007/08/10(金) 17:52:36 ID:nnYNlifl
謀多きは勝ち・少なきは負けるじゃ。それが戦の世に生きる男ありようだ!


64: 人間七七四年 2007/08/10(金) 20:59:48 ID:3sRDj2r6
>>63by毛利元就

66: 人間七七四年 2007/08/10(金) 22:35:35 ID:8gMIp21W
元ネタは「多算勝少算不勝」だね
孫子始計篇のどこかだったかな。

まぁハカリゴトが多ければ勝てると限らないのも、また戦国の常w

67: 人間七七四年 2007/08/11(土) 02:53:51 ID:CtL36kpt
本で読んだんだけど、猛将が多い山陰道方面には武勇にすぐれた吉川元春を担当させ、謀将が多い山陽道方面に知勇に優れた小早川隆景を担当させたとか書いてあったんだけど、結果論だよね?

70: 人間七七四年 2007/08/11(土) 20:06:13 ID:hrWafg3T
>>67
結果論。
元々、吉川氏が芸北、小早川氏が備南を本拠とする豪族だから、版図を拡大させるに当たって、地勢上山陰方面を元春、山陽方面を隆景が担当するのが自然。

猛将が多いとされる山陰だが、武田高信や南条・小鴨兄弟、山名四天王らは皆謀略大好きっ子だw

68: 人間七七四年 2007/08/11(土) 05:24:37 ID:0NEFGgS/
経久公は、平和な爺で人生終わるくらいなら、血しぶきの吹き荒れる戦場で鬼となって死するが本望とおっしゃられていたぞ。

72: 人間七七四年 2007/08/12(日) 16:23:33 ID:8LJocjMf
毛利が銀山を尼子と取り合いしてる間に桶狭間の合戦が起こっていた。
そして毛利が尼子平定後、大友や尼子残党に苦戦する間に織田は怒涛の勢いで上洛。

毛利がようやく中国平定した時には既に反信長包囲網は崩壊し、織田の勢いは手がつけられない状態に。

全国に名を響かせた大内に続いて尼子をも下し、もはや天下は我らのものと絶頂にあった筈の毛利はこの急展開にどんな気分だったろうな。

73: 人間七七四年 2007/08/13(月) 13:33:59 ID:E3dPbD5b
>もはや天下は我らのものと絶頂にあった筈の毛利

その妄想はどこからry

毛利は周防・長門征服後、大友、尼子、宇喜多・浦上、山名、三好等相手に同時多方面作戦を強いられ、こっちを押せばあちらが押し返されるといった泥沼にはまり込んでいる。

宇喜多と和睦し、三好は長曽壁に攻められて滅亡寸前、山名は内部分裂で一息つけるようになったのが織田と敵対し出す頃


88: 小魔玉  ◆N10JLQ90IM 2007/08/20(月) 21:49:54 ID:40HrOFMd
鳶ヶ巣城の城主をしていた宍道氏は、尼子氏&京極氏と同族とありましたが、尼子氏と対立し、大内氏に属したとあるのですが(後に毛利氏に属したとも)、対立した原因とかはあるのでしょうか?
(塩谷興久と同様、やはり所領問題なんでしょうか?)

90: 人間七七四年 2007/08/20(月) 22:43:53 ID:wFFUSLxd
>>88
>対立した原因

「吉田郡山城の戦い」で尼子が敗北した直後に、大内方へ寝返った裏切り者
「第一次月山富田城の戦い」で大内が敗北したため、一緒に国外退去

93: 小魔玉  ◆N10JLQ90IM 2007/08/21(火) 23:25:03 ID:hKBbBNDu
>>90
尼子スレor尼子好きの皆さんには、とても許し難き宍道氏ってところですね?
(ある意味、先見の明はあったのかもしれませんがw)
と、尼子家の運命を左右した合戦は、やはり“吉田郡山城の戦い”だったんでしょうか?

94: 人間七七四年 2007/08/22(水) 00:15:34 ID:iloAbXsg
>>93
尼子の運命を左右したのは吉田郡山城の戦いもあるが他に義久の問題、晴久の寿命、鰐淵寺、新宮党とかいろいろあるらしい。

井上粛清と同じように新宮党を利用しまくってから粛清すればよかったんだってよく小説とかで見かけるが、その場合区切りってどこだよっていつも思う。

ところで尼子氏関係のオススメサイトってあります?

96: 人間七七四年 2007/08/23(木) 00:02:53 ID:tBajyJjo
>>93-94
吉田郡山城の戦いは収拾したからあんまり影響は…
もともと大内から売られた喧嘩だし。
アレを原因にカウントすると、経久時代の負の遺産とかも考えなきゃならんしなー

97: 人間七七四年 2007/08/23(木) 00:09:22 ID:ZO+tdYPX
毛利の勢力を備後・石見から駆逐して優勢だったのを台無しにしたような>>吉田郡山城の戦い
出雲攻めで守り勝ったとは言え、結局毛利に安芸・備後を制圧されたし。

仕方なく東を攻めるけど一時的な進出で終わって領地は大して増えなかったし。
一番は晴久急逝と後継の義久の「平和外交」だろうけどね・・

99: 人間七七四年 2007/08/23(木) 23:13:48 ID:a30Tcdt3
>>97
吉田郡山城の戦いの当時、石見は大内氏が優勢だろ?
むしろこの戦いののち石見の大内勢を撃破して銀山を入手するわけだし。
時間軸狂ってないか?

100: 人間七七四年 2007/08/24(金) 22:45:41 ID:c87w6VH0
>>97
小弐氏を滅ぼした大内が安芸・備後に押し寄せる
         ↓
尼子、石見・安芸で大攻勢。国人衆を多数味方に付ける
         ↓
よーし、パパ吉田郡山城を攻略しちゃうぞー

 
って感じだったような…、忘れた。

101: 人間七七四年 2007/08/25(土) 21:15:41 ID:T6Ui1HS2
パパwww

102: 人間七七四年 2007/08/25(土) 23:03:16 ID:VscrnXms
パパ張り切りすぎワロタ

98: 人間七七四年 2007/08/23(木) 23:04:21 ID:VfjVeBa0
ちなみに鳶ヶ巣城の近くに、隆景が小早川家に養子にいくきっかけにもなった、小早川正平が戦死した場所がある。一応墓か碑らしいものがある。

112: 人間七七四年 2007/09/02(日) 21:22:37 ID:NPAwn/Ep
長州の萩の町には今も尼子家ゆかりの人たちが多くすんでる。
尼子家滅亡の後多くの家臣が毛利家に吸収され広島に行き、その後関ヶ原で萩の町にやってきた。
萩の町には大内、尼子といった毛利と死闘を演じた家の家臣の苗字が、今も多く残っているよ。

115: 人間七七四年 2007/09/03(月) 20:02:31 ID:GLbdSUQf
晴久は明石城を落としたりしているけれど上洛するつもりだったのだろうか?

116: 人間七七四年 2007/09/03(月) 20:43:44 ID:y6Jx1fzw
向こうは上洛して欲しくなかったみたいだけどね

117: 人間七七四年 2007/09/04(火) 20:23:30 ID:08kDC3Ku
ぶっちゃけ幕府への嫌がらせが目的だからな

119: 人間七七四年 2007/09/05(水) 21:53:07 ID:dAExBXnV
まさに人の嫌がる事を進んでやるタイプだな。

120: 人間七七四年 2007/09/06(木) 09:49:34 ID:3krDr/Lg
いやいや、尼子経久が幕命無視で国内の領主を全員敵にまわした経緯があるからだろ

129: 人間七七四年 2007/09/09(日) 04:36:26 ID:QlzqaOG9
毛利は水道を掘りそこから攻めたが、なんと敵と鉢合わせになった。
白鹿城の落城が近くなると、尼子側が水道を埋めちゃいました。って大河の毛利元就で言ってたけどどうなんだろ?そんな話聴いた事ないんだけどな。

130: 人間七七四年 2007/09/09(日) 18:50:21 ID:C/uZsn+P
>>129
「水道」じゃなく「隧道」(トンネル)な。
トンネル合戦なら駿河かどっかで武田もやってるが、例の少ない話なので戦国マニアはまず知ってる。
ちなみに毛利好き・尼子好きなら知ってて当然のレベル。
聴いたことがないってのは、目にした資料が少ないか、偏ってるかのどっちかだろ。

132: 人間七七四年 2007/09/10(月) 19:18:26 ID:sn/un2ys
>>130
武田の場合は金堀衆を呼んだんですよね?
毛利も銀山の堀方とか使ったんでしょうかね?

133: 人間七七四年 2007/09/10(月) 21:01:54 ID:6AhB/F5/
>>129
白鹿城の地下での戦いは毛利が撃退されたんじゃなかったっけ?
でも地下でつながるなんて話自体が嘘臭すぎるので作り話だろうけどね。

135: 人間七七四年 2007/09/12(水) 03:16:19 ID:S+tmN2XE
>>133
毛利方が穴を掘った目的は、糧道封鎖に次する城内井戸の地下水脈を断つ為だから、尼子方も馬鹿じゃない。
井戸から水脈を推察して穴を掘り始めるだろ。隧自体も蟻の巣状にあっただろうし。
どう見ても、尼子方の穴掘り目的は隧道内外の毛利方駆逐と水源の安全の確保な訳だしね。

まぁ、現実的に考えるとトンネルとトンネルが地下でかっちんこするなんてありえんわなw

138: 人間七七四年 2007/09/12(水) 22:39:08 ID:IVWowTZn
元就が晴久が死んだ時、一度で良いから旗本同士戦いたかったって
軍記物に書いてあったが、吉田郡山城戦の事忘れちゃってるぜ爺ちゃん。

毛利が本城との戦に長引いているのは晴久による謀略も
手伝ったんでしょうか?教えて先生!!

139: 人間七七四年 2007/09/13(木) 03:32:34 ID:M5EXNZel
>>138
山吹城は力攻めでは落とせない断崖絶壁の城。
ここを落とすには結局補給路の遮断しかなく、
その補給路を抑えるにはその経路からさらに背後の城が焦点に・・・みたいな構図。

忍原崩れではそこをめぐる戦いに毛利が敗れて銀山を失陥している。
逆に力攻めで決して落ちない山吹城は孤立すると即座に降伏・開城している。

149: 人間七七四年 2007/09/18(火) 11:57:17 ID:ojFYx0g0
新宮党の件は晴久に落ち度無い

150: 人間七七四年 2007/09/18(火) 18:26:56 ID:pzIB3gVD
まあ、晴久は普通に優秀なので、功績を並べると充分擁護になるんだけど

 
義久は…

151: 人間七七四年 2007/09/18(火) 20:36:19 ID:kLcvcLfF
義久とその弟達は、尼子の血統を絶やさなかったことだけが唯一の功績

152: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/09/20(木) 04:13:22 ID:QJakwW0i
出雲の国人赤穴氏が尼子経久に服したのはいつ頃からでしょうか。
文書から推定すると、永正12年(1515)~15年(1518)までの間のようですが、具体的な年月が良く分かりません。

詳しい人良かったら教えてください。

153: 人間七七四年 2007/09/20(木) 08:51:26 ID:GPzVdK5h

>>152
むぅ? 文書のネタもとは何かな?
『戦国大名の領主層掌握について-出雲尼子氏を例として-』 だったらそれ以上の事は教えられそうにない。

あ、いかんそろそろ会社行かないと…

156: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/09/21(金) 21:33:15 ID:2Ww15wDj
>>153
出典元は確かにそれです。
この記事の置文によると、永正12年(1515)2月に、佐波誠連が佐波氏の名代として赤穴郡連を経久のもとに出頭させようとしたようです。
最初は経久により拒否されたようですが、郡連が、

「ともかくもと候へハ外聞も如何候間名代として罷出候、於旨儀者佐波へ御とゝけ
あるへきよし…」

と主張したので経久も対面したとあります。

この時点では郡連は佐波氏の家臣ですが、永正15年(1518)経久より知行安堵を受けています。
この間の事情が知りたいのですが、やっぱ不明なんですかね…

↓ちなみに赤穴氏についてはここに詳しいです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akana_kz.html

157: 人間七七四年 2007/09/22(土) 08:16:15 ID:ZEfXaNrO
>>156
>出典元は確かにそれです

んむ、なるほど。
『戦国大名の領主層掌握について』 がネタ元となると、それ以外の情報源が必要やね。

すると、一次史料である古文書には、新たに発見されたものは無いはずなので、新しい視点による考察の紹介になるか。

自分が知りうる限りでは、
長谷川博史 著 『戦国大名尼子氏の研究』 のP37 で

「永正15年以前に実現した塩冶氏掌握と、密接に関わっていたのではないか」

と、推測されてる。

 
>この時点では郡連は佐波氏の家臣

いや、家臣と言うより本家-分家の間柄。
赤穴氏は、本家・総領である石見国の佐波氏に従うとともに、出雲国人として出雲守護・京極氏の守護権にも従う、「両属」の状態だった。

154: 人間七七四年 2007/09/21(金) 10:11:27 ID:b4hEx4kh
毛利に下った三刀屋家はどうなったの?

155: 人間七七四年 2007/09/21(金) 20:16:06 ID:k/afRz/4
徳川氏に謁見した事を輝元に咎められ追放されたんじゃなかったかな。

162: 人間七七四年 2007/09/24(月) 01:13:37 ID:l9Sp/w7K
戦国大名尼子氏の研究は2000年に出版されたんだよね?
にも関らず今じゃ手に入れるの難しい。
どんだけ尼子が人気が無いのかよくわかる。

164: 人間七七四年 2007/09/26(水) 20:47:02 ID:TzqV0ahw
しかし、よく出家してた勝久を見つけられたよな。実は偽者だったりしてw

165: 人間七七四年 2007/09/26(水) 20:54:47 ID:T2gbynml
偽者だとしたら
「誰でも良かった、切腹させても問題ない」
という事で鹿介は生き残ったのか。

そんな事言ったら神西犬死だな。

166: 人間七七四年 2007/09/27(木) 09:49:07 ID:eJKoMRPb
微妙にひどいw

167: 人間七七四年 2007/09/28(金) 13:40:40 ID:WyQeOXDP
結局、反毛利勢力を糾合する象徴なら誰でも良かった気がするな。

168: 人間七七四年 2007/09/29(土) 15:37:27 ID:EakKkAiM
晴久が討ちもらしたとしても普通見つからないだろ。
まぁ家紋とかそれっぽいのを持っていたら話は別だけど。
もしかしたら自称だったのかもしれん。

170: 人間七七四年 2007/10/01(月) 10:28:14 ID:2TpEUKap
山名とは仲悪かったの?

171: 人間七七四年 2007/10/01(月) 11:17:11 ID:bgv7/yC7
>>170
16世紀に限ると、因幡山名氏である山名誠通や山名豊数・豊国兄弟とは一応協力関係にあった。
誠通は対立する但馬山名氏への対抗上後背に位置する尼子氏との協調関係は不可欠だったし、
特に豊国は下克上を狙う武田高信に対抗するためにも尼子氏とは良好な関係を望んだ。

16世紀前半
尼子+因幡山名誠通vs但馬山名氏

16世紀後半
尼子+因幡山名豊国vs武田高信+毛利

172: 人間七七四年 2007/10/01(月) 12:25:09 ID:oJ4/eN27
美作地方は完全に領していたのか
作州合戦では浦上勢を破っていますが、どうなんでしょうか?

173: 人間七七四年 2007/10/02(火) 01:36:16 ID:fRQH5NXD
8割おさえたけど、残り2割が浦上宗景についてた模様。
宗景の本拠地、備前にも尼子方はいたので、どちらが有利とも言いきれないが。

174: 人間七七四年 2007/10/03(水) 09:49:12 ID:yK27SurW
宗景って守護代だっけ?このころの国主は守護代多いなぁ
戦国期の守護代っておいしいな

175: 人間七七四年 2007/10/03(水) 17:57:15 ID:EtqLQNWR
兄貴の浦上政宗が守護代。

浦上宗景は、尼子の攻撃に対抗するため生まれた新興勢力で、基盤は国人衆の連合体

176: 人間七七四年 2007/10/05(金) 01:44:02 ID:6QHwrytL
十勇士を作った奴の感性が分からん。
実在も分からない奴よりももうちょい有名な重臣を当てろよとか思ったりする
まぁ小説に文句言ってもしょうがないんだろうが。

177: 人間七七四年 2007/10/05(金) 19:35:56 ID:FFwyC5/j
>>176
小説じゃなくて江戸時代だかの講談が起源では?
大衆向けの物語だから変わった名前の奴のほうが当時はウケたんでしょう。

179: 人間七七四年 2007/10/08(月) 20:05:14 ID:1JyP2kSH
>>176
真田十勇士の二番煎じでは?

180: 人間七七四年 2007/10/09(火) 02:17:49 ID:3uGhzl2l
>>179
逆じゃね?

181: 人間七七四年 2007/10/09(火) 03:06:19 ID:f+0pfoBJ
>>180の指摘の通り、「尼子十勇士」を元にして成立したのが「真田十勇士」と言われる。

そういや尼子も真田も十勇士の実在非実在について文献名を挙げて調べてるところがあるな。

181: 人間七七四年 2007/10/09(火) 03:06:19 ID:f+0pfoBJ
「真田十勇士」の成立は明治~大正時代(「立川文庫」)
勿論江戸時代に編纂された「真田三代記」などに彼らは登場しているが、十勇士としてまとめられたのは立川文庫以降。
「尼子十勇士」(尼子十介・尼子十助)は江戸時代(「常山紀談」ほか)からある。

183: 人間七七四年 2007/10/09(火) 08:01:27 ID:lMCyjAbb
じゃあ自分達で尼子十勇士選ぶとしたら誰にする?
立原久綱や神西元道あたりかな?

184: 人間七七四年 2007/10/09(火) 23:32:54 ID:/AWMeM89
亀井とか横道。あと一応奮戦したから米原も。

185: 人間七七四年 2007/10/11(木) 10:07:12 ID:mwOgec59
多胡辰敬

186: 人間七七四年 2007/10/11(木) 16:31:50 ID:HzmBeWdw
最盛期だと百万石ぐらいあったの?

187: 人間七七四年 2007/10/12(金) 11:30:01 ID:y6JqS6OE
無理

最大でも四カ国ぐらいしか支配してないし

188: 人間七七四年 2007/10/14(日) 16:10:27 ID:PBq0oQwW
11ヶ国守護じゃないの?

194: 人間七七四年 2007/10/17(水) 10:18:01 ID:p/qR6hEP
>>188
山名ww

190: 人間七七四年 2007/10/14(日) 20:53:37 ID:XWRvChx5
そうか、遂に尼子も六分之一殿かw

191: 人間七七四年 2007/10/14(日) 23:31:20 ID:N2v/gUOe
11ヶ国の守護の記録はないけど経久は10ヵ国の国司に任命されてるな。

192: 人間七七四年 2007/10/15(月) 19:59:25 ID:80oVvffZ
初耳だな。ソース希望

193: 人間七七四年 2007/10/15(月) 21:32:09 ID:HobPgnvW
「雲陽軍実記」か何かで尼子経久が「陰陽十一州の太守」。
足利義晴から尼子晴久が八ヶ国守護職。
10ヶ国の国司ってのはオレも初耳だ。
十ヶ国というと毛利元就じゃなかったか?

195: 人間七七四年 2007/10/18(木) 14:40:31 ID:b6+S0xRa
山名のあの衰退っぷりはすごいな。
山名がちゃんとしてればなぁ…山陰はもう少しマシだったかもしれないのに。

それにしても鳥取城は風呂焚きに使われたって聞いて涙が出ましたよ。

引用元: ・◆◇◆幻の戦国大名 出雲尼子氏(其ノ五)◆◇◆





戦国大名尼子氏の研究
長谷川 博史
吉川弘文館
売り上げランキング: 1,103,377