51s3viCM0lL



1: agetoff 2016/08/31(水) 10:53:46.38 ID:4LGUqGSJ
笠谷和比古等が主張する関ヶ原後も関白継承権を持った豊臣家が一定以上の権威と大名への影響力を有しており、
公儀は二重体制になっていたという論について色々と考えてみましょう









2: 人間七七四年 2016/08/31(水) 11:09:26.50 ID:4LGUqGSJ
私自身の考えをいえば、ちょっと豊臣家を過大評価しているかなって思います

4: 人間七七四年 2016/08/31(水) 23:36:12.98 ID:3TlTmNQ1
笠谷和比古が「関ヶ原合戦と大坂の陣」で挙げてる二重公儀体制の意義の八項目は

一、秀頼に対する諸大名の伺候の礼

二、勅使・公家衆の大坂参向

三、慶長期の伊勢国絵図の記載

四、大坂方給人知行地の西国広域分布

五、秀頼への普請役賦課の回避

六、慶長十一年の江戸城普請における豊臣奉行人の介在

七、二条城の会見における礼遇

八、慶長十六年の三ヵ条誓詞

だろう

8: 人間七七四年 2016/09/02(金) 02:11:58.77 ID:q430+IBD
秀頼にはこんな城下町や特産物を作りたいという考えくらいあったの?

9: 人間七七四年 2016/09/02(金) 11:57:51.66 ID:crT20gK1
秀頼の時代に道頓堀の開鑿工事が進められている。豊臣政権の認可の下に。
大阪の難波、ミナミの繁栄はその結果と言える。


 

10: 人間七七四年 2016/09/02(金) 15:14:18.71 ID:Wsa//APG
>>9
これ出典の江戸時代の「諸由緒」には「公儀」としかなく、また大坂の港の管理を板倉勝重が行っていた点から、
江戸幕府が開削を命じた可能性が高い

11: 人間七七四年 2016/09/02(金) 15:18:13.37 ID:Wsa//APG
追記、ただし「安井系譜」には豊臣家に命じられてとあるが、
この中の安井道頓は実在しないと、道頓堀裁判で確認されている

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000104652

13: 人間七七四年 2016/09/03(土) 00:11:09.97 ID:2A9k2eU2
>>11
正しくは「成安道頓」。彼が豊臣政権の認可を受けて開鑿していたのだが、大坂の陣が始まると、
彼は大坂城に籠城して戦い、豊臣家に殉じて戦死してしまった。
そこで戦後、彼の親類の安井氏が事業を引き継いで完成させた。
戦後に大坂城主となった松平忠明は道頓の功績を顕彰して、この開鑿運河を「道頓堀」と命名したということだそうだ。

  

14: 人間七七四年 2016/09/03(土) 09:49:17.89 ID:FU/W1YDW
>>13
豊臣政権が命じ道頓らが私費で開削したというのは『安井家譜』が出典で、安井道頓を安井九兵衛の兄としているが、
これは道頓堀裁判で事実ではないとされている

そして『諸由緒』では開削を申し出たのは「公儀」とあり、また当時は道頓堀ではなく南堀川としている
この辺から道頓堀開削を命じたのは江戸幕府の可能性が高い

3: 人間七七四年 2016/08/31(水) 17:05:31.22 ID:ZiHhzPMV
徳川家康が征夷大将軍として命じたことは、片桐且元は恐縮して承っていたので完全なる一元的徳川公儀政体と解すべきである

17: 人間七七四年 2016/09/03(土) 20:16:52.14 ID:S/dy38+E
>>3
慶長16年の二条城会見では、秀頼が上座(御成りの間)で家康は下座だったというけど、どうなのよ。

   

18: 人間七七四年 2016/09/03(土) 20:34:55.91 ID:FU/W1YDW
>>17
先に秀頼が御成の間に入り、後に家康が入ったということなのだが

19: 人間七七四年 2016/09/04(日) 00:15:19.64 ID:3L3EYZt/
>>18
あとから入ってきた家康が座ったのは下段の平間

20: 人間七七四年 2016/09/04(日) 08:11:57.40 ID:8R23367m
>>19
それは客を主人が出迎える際のしきたり
秀頼が強く固持して家康が上座に登ったようだが

21: 人間七七四年 2016/09/04(日) 10:53:04.72 ID:NMwMA6W8
笠谷和比古・黒田慶一著『豊臣大坂城』で引用された『当代記』
の「慶長十六年三月二十七・二十八日の条」によれば、
「(三月)廿八日辰刻、秀頼公入洛、則家康公の御所二條ぇ御越、
家康公庭上迄出給、秀頼公慇懃礼謝し給、家康公座中ぇ入給後、
秀頼公庭上より座中へ上給、先秀頼公を御成之間ぇ入申、其後
家康公有出御、互の可有御礼之旨、家康公曰ト云共、秀頼公
堅有斟酌、家康公を御成之間ぇ奉出し、秀頼公遂礼給(後略)」

22: 21 2016/09/04(日) 11:01:54.09 ID:NMwMA6W8
これを笠谷は、「秀頼を御成之間に出した上で平間(下座)の
家康が互いの礼(両敬)を提案した」と読んでいる、
ただ、『先秀頼公を御成之間ぇ入申、其後、家康公有出御、
互いの可有御礼之旨』と平間の家康が平間の秀頼に提案した
とも読める(?)ので要注意。

24: 人間七七四年 2016/09/05(月) 00:28:09.91 ID:+6MWTCi9
>>22
無理なのでは
『当代記』には「先秀頼公を御成之間ぇ入申」とあるから、秀頼が「御成の間」に通されて、そこに座したことは疑問の余地なし。

また「秀頼公堅有斟酌、家康公を御成之間ぇ奉出し」とあるから、家康が最初は御成りの間にはいなかった。つまり平間であったことがわかる。

笠谷氏の『豊臣大坂城』や『歴史の虚像を衝く』に、両者の座配と、その動きが図示されて解説されている。

25: 人間七七四年 2016/09/05(月) 08:17:07.60 ID:cxWk/KwA
>>24
家康が客を迎える主人として下座に座ろうとしたら、上座の秀頼がそれを誇示して、
家康が上座になったとある

普通に儀礼的な話で、特に秀頼が主君だからという訳ではないかと
精々、信長自身が家康に膳を出した安土饗応時の信長と家康の関係でしょう

23: 21 2016/09/04(日) 12:16:43.55 ID:NMwMA6W8
参考論文:徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制 笠谷和比古
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/nike/1992-09-30/s001/s008/pdf/article.pdf

26: 人間七七四年 2016/09/05(月) 09:49:33.99 ID:rGsv5URc
普通には、秀頼は家康に呼びつけられて、臣下の礼をとらされたということになっているけど、
この件はどうなの
  
  

28: 人間七七四年 2016/09/05(月) 10:48:45.97 ID:cxWk/KwA
秀頼の上洛を万民が喜んだという記述をどう受け取るかで、評価が異なると思う

31: 人間七七四年 2016/09/05(月) 23:53:32.53 ID:jXOobMAH
>>28
大衆受けするのと政治家として権力、権威があるのかは別物だろう

32: 人間七七四年 2016/09/06(火) 08:42:56.42 ID:90sKRwNY
>>31
いや、秀頼が上洛したのを、秀頼人気とみるか、家康に臣従したことで平和が続くことを喜んだとみるか

33: 人間七七四年 2016/09/06(火) 20:38:01.72 ID:4bJxUMhD
家康が将軍就任後は家康自身が秀頼に伺候する事がなくなって
秀忠が将軍就任後は大名達が秀頼に伺候する事がなくなったって言うからね
勅使や公家が参向しているって言っても肝心の大名たちがそれではね

34: 人間七七四年 2016/09/06(火) 21:58:22.32 ID:OLxydTEv
しかし秀頼が、将軍秀忠に伺候するというのは無いのでは

35: 人間七七四年 2016/09/06(火) 22:03:13.14 ID:OLxydTEv
しかも家康とこへ行ったら、臣下どころか主君のような待遇を受けている

36: 人間七七四年 2016/09/07(水) 14:52:24.71 ID:vOwxAB4r
二重公儀ってどうしても豊臣だけは秀吉の方針を踏襲した全国的な内政や独自の外交を行えた状態だと思っちゃう

40: 人間七七四年 2016/09/09(金) 01:10:33.46 ID:BxmHZmUP
二重公儀論に反対する側から、有力な議論とか資料とか何か出ない?

   

41: 人間七七四年 2016/09/09(金) 01:35:14.59 ID:tEujRKgy
史料が無いのが証拠
二重公儀というほど公儀としての仕事はしてない。後半は全くしてない。って感じかと

気を付けないといけない事は二重公儀否定派は二重公儀自体を批判しているのではなく過大評価を否定してるというところ
よく使われたのある時期(将軍就任等)を境に豊臣が一大名に転落したという表現を行き過ぎとして批判するのはうなずけるが
大坂の陣直前まで公儀性を有したという評価については異議申し上げるといったところ

53: 人間七七四年 2016/09/10(土) 09:19:03.29 ID:U3nCzB04
家康が豊臣に対して扱いが慎重過ぎたから、変な論が出てくるんだろう
是が非でも豊臣を滅亡させる気ならもっと早くやったろう
家康当時としては大分高齢だったんだから

55: 人間七七四年 2016/09/11(日) 08:38:29.08 ID:uUOoA3T5
豊臣を潰せるぐらい権力基盤が安定したのが家康最晩年だったという見方もできるわけで

56: 人間七七四年 2016/09/11(日) 10:01:34.26 ID:dqcWqygg
豊臣大名をふくむ全国の大名が幕府の法令に従うという服従誓約をするのが、ようやく1611年になってから。
家康と秀頼の二条城会見を経て、はじめて幕府の権力が豊臣家を上回る

101: 人間七七四年 2016/09/14(水) 18:54:26.16 ID:Vg9KXzb+
二重公儀論も元々は豊臣家は関ヶ原以降65万石の大名に落ちぶれたといった説への反論みたいなもので
ある程度は理解できるんだけど、そのような特別な地位を維持しておきながら滅ぼされるまでの間特に何もせず
にいた秀頼の無能が目立つだけではないか?

148: 人間七七四年 2016/09/19(月) 02:08:15.82 ID:U040ed/Q
豊臣家が徳川家を相対化できる権威を持っていたかどうかといえば
yesになると言って差し支えないんじゃないの?
戦の結果豊臣家が惨敗しただけで
権力ってのは流動的だから

180: 人間七七四年 2016/09/29(木) 09:20:20.48 ID:xu+4jpZG
例えば江戸城普請に秀頼も奉行を出してるとは言っても
あくまで徳川が主体として行ってる事業に派遣してる形だからな
関ヶ原後公儀の仕事として、徳川ではなく秀頼が主体になって
行った事業がどれ程あったのかって事だな

181: age 2016/09/29(木) 11:34:49.26 ID:d7zRq0Hr
>>180
将軍の城の普請を管理監督することが公儀としての仕事では

182: 人間七七四年 2016/09/29(木) 13:02:15.95 ID:jUbbutnI
>>181
あれは額面上ではなく、権勢が移ったことを見せ付ける証人じゃない?

183: 人間七七四年 2016/09/29(木) 16:00:42.41 ID:Xf4ORt56
見せつけたいなら、見せるだけていいのでは。
奉行という正式の監督として、入ってくる説明にはならない。

184: 人間七七四年 2016/09/29(木) 16:12:54.89 ID:jUbbutnI
>>183
そういう見せるだけの職は無いし
それに実際に何かしたとは思えん
その豊臣家の家臣二人がその後の豊臣家中で何かしたとも思えんし

185: 人間七七四年 2016/09/29(木) 20:33:38.88 ID:VSN5zlDo
>>184
江戸城の工事現場を見回って監督することが何よりの仕事。

186: 人間七七四年 2016/09/29(木) 21:17:02.86 ID:jUbbutnI
>>185
いやいや、普請奉行というのはそういう役割ではない
ちゃんと縄張を考え、大名に配置と作るべきモノを指示し、それを納期まで実現させるように監督するのが仕事で、
そういう能力があれば、豊臣家でも何らかの仕事をしているはずだが、とんと聞かない

というか、関ヶ原合戦後の豊臣家は、そういう仕事について片桐一族以外の者の活躍を聞かないのだが

188: 人間七七四年 2016/09/29(木) 21:55:16.23 ID:9TxmgvL5
豊臣から派遣された水原義勝と伏屋貞元の二人は摂津、和泉の慶長国絵図の作成に関与した人物らしいから、
おそらく測量の仕事に携わっていたと思うけど、徳川にだって測量家はいるだろうし、豊臣の顔を立てただけじゃないかな

190: 人間七七四年 2016/09/29(木) 22:29:51.42 ID:jUbbutnI
>>188
なる程、そういう活動実績がある人なのですね
家康が将軍を秀忠に譲った翌年の話だから、徳川家の権勢誇示だと思うのだけどね

189: 人間七七四年 2016/09/29(木) 22:22:22.32 ID:lHoTXbVM
将軍の城を造るという時に、普請奉行をわざわざ呼んで、顔をたてなければならない豊臣家って、いったい何よ。

191: 人間七七四年 2016/09/30(金) 16:54:02.35 ID:oeES65Mc
二人の家臣を派遣したことの解釈も見る人次第だしねぇ
駿府城普請の際の五百石夫の解釈も研究者によって意見は様々だし

193: 人間七七四年 2016/10/01(土) 09:50:52.76 ID:JXXTffnu
>>191
渡邊あたりは豊臣も江戸城普請に奉行を出して協力してますよ
駿府城普請では賦役を負ってますよって実績つくりって
「大坂落城」で書いてなかったか

194: 人間七七四年 2016/10/01(土) 13:55:51.15 ID:FJorgRmi
アンチ二重公儀説の側から出てくるのは、へ理屈ばっか。
何か目新しい事実をもってきて、反論できないの。

195: 人間七七四年 2016/10/01(土) 15:09:26.93 ID:SDe91BKR
>>194
大坂城下の行政支配が、実質的には板倉勝重の指示で行われていたとか

196: 人間七七四年 2016/10/01(土) 16:00:04.17 ID:FJorgRmi
>>195
具体的には?

197: 人間七七四年 2016/10/01(土) 17:08:06.95 ID:SDe91BKR
>>196
大坂で行われている米の積み出し制限について、浅野長晟が差し押さえに苦情し、
その件を板倉勝重が片桐且元へ申し入れた所、且元が指令書の原案を作成し板倉勝重へ送り、
勝重と米津親勝が署名をしている

なお、大阪城天守閣はこの積み出し制限を、江戸幕府の指示で行われたとしている

198: 人間七七四年 2016/10/01(土) 17:09:21.93 ID:DjAAnCeE
大坂城下の徴税、治安に携わったは、豊臣家執権の片桐か、それとも板倉勝重か、はたまた堺政所か、

199: 人間七七四年 2016/10/01(土) 17:38:05.16 ID:SDe91BKR
大坂の陣時の大坂町奉行は、例の水原石見守・布施屋(伏屋)飛騨守だそうで

201: 人間七七四年 2016/10/01(土) 20:33:03.03 ID:SDe91BKR
水原石見守・布施屋(伏屋)飛騨守が慶長国絵図作成・江戸城普請奉行・大坂町奉行を歴任したとなると、
むしろ江戸幕府が豊臣家が自立できるように彼らを鍛えようとしたとも考えられるし

203: 人間七七四年 2016/10/01(土) 21:19:51.60 ID:whRp0ZRc
江戸時代の初期までは中世と近世の過渡期といって差し支えないわけで
中世的な公儀ってのはかなーり基準が緩いよね
どっちから見るかで評価が分かれるのは当然のことだと思う
自分は豊臣家にも公儀としての権能は十分にあったんじゃないかと思ってるけど

204: 人間七七四年 2016/10/02(日) 00:05:03.45 ID:hRtE6LZL
徳川と豊臣による異なる指図や干渉で大名、朝廷、外国などがどうしたらいいか困惑するのが二重公儀だろ
日本語を豊臣に甘く使う方が屁理屈に過ぎない

205: 人間七七四年 2016/10/02(日) 01:43:18.57 ID:3o64XhFY
>>204
笠谷先生の二重公儀論というのは、京都を境にする東西分有の棲み分け論。
東は徳川将軍家、西は豊臣関白家をそれぞれ頂点とする、相互不介入の体制のこと。
国家権力がタテに二重にかぶるように受け止めてる人が多いようだけど、それは誤解。

206: 人間七七四年 2016/10/02(日) 02:04:12.07 ID:1cQiC8BD
鎌倉幕府執権北条氏(天皇家に任命された事実上の東国支配者)と後鳥羽上皇(権威的・名目上の全国支配者+事実上の西国支配者)の関係が二重公儀←幕府劣勢だがそうとも言える

江戸幕府徳川将軍家(豊臣氏以外の全国諸大名の事実上の支配者+正統摂関家を含む公家を掌握済)と後付摂関家豊臣氏(ただし関白職には正統摂関家が就任=名目上の支配力もなし)の関係が二重公儀←は?

二重公儀を証明するなら豊臣氏がどれだけ地方の諸大名に影響を与えていたか吟味する必要がある
AがBにBのやりたくないことを強制的に遂行させる力・命令することが可能な立場にあることが公儀とすると徳川対豊臣は名実ともに徳川が支配者=二重公儀ではないと言える

207: 人間七七四年 2016/10/02(日) 02:41:43.59 ID:3o64XhFY
やりたくない事とは城普請?
江戸城の普請に諸大名を動員しているのは、豊臣から普請奉行を派遣して、豊臣の承認の下に行われている動員という態勢をとることで調和がはかられている。
そのための、豊臣奉行の参加では。

208: 人間七七四年 2016/10/02(日) 07:58:10.06 ID:hxfAb+d5
>>207
豊臣からの普請命令があったとする記録は無い

209: 人間七七四年 2016/10/02(日) 16:31:14.33 ID:hxfAb+d5
江戸城普請奉行の件は、言い出しっぺは白峰氏で、豊臣家臣の出典は『山内家史料』から

210: 人間七七四年 2016/10/02(日) 21:19:35.76 ID:FrhMlrF+
関白継承権を持っている秀頼の権威や影響力を恐れたとかいう話もあるが
慶長5年に九条兼孝が関白に就いたのち大坂の陣までの間に
近衛信尹→鷹司信房→九条忠栄→鷹司信尚と継いでいってる実績があるわけだし
0ではないに知り秀頼が関白位に就ける可能性は低かったんじゃないか

211: 人間七七四年 2016/10/02(日) 21:41:06.55 ID:h+pyrgcB
>>210
家康が存命の限りはなさそう。
でも逆に言えば、家康が亡くなればありそう。

212: 人間七七四年 2016/10/02(日) 21:51:50.90 ID:nOET/cqF
家康より秀忠の方が朝廷や公家に対して強圧的だし、どうだろう

214: 人間七七四年 2016/10/02(日) 23:48:00.60 ID:+mx+7Fqq
かつて摂関家だった松殿家だと
基房、師家が失脚した後も師家の弟の忠房までは摂関候補になったよね
つまり秀頼は生きてる限りは関白になり得たのでは

215: 人間七七四年 2016/10/03(月) 10:44:38.63 ID:VTSnJEY1
秀頼の子供は秀頼の一存で大大名の子とでも皇室の人間とでも結婚させられて相手も幕府に相談しなくていい
いつか千姫との子が生まれようがそれを押しのけて後継者に指名、いやそもそも千姫と子作りする気なんてねえ幕府は口出しすんなってできたんか

216: 人間七七四年 2016/10/03(月) 15:25:19.31 ID:JI9WoqYO
秀頼が西国大名の婚姻や世子の承認、家督の相続や官位の任官などに関わっていたのなら
西国を統治していたと言えるけどそういう判断は幕府がしてたんでしょ
それなら徳川家の権威と並び立つようなものではなく昔の誼から一定の配慮がある位の話じゃないの

244: 人間七七四年 2016/10/05(水) 00:45:09.38 ID:Ko8fDlSD
関ヶ原が終わってすぐに徳川の権威が確立されたわけではないし
その移行期間の説明として二重公儀論があるんでしょ

310: 人間七七四年 2016/10/05(水) 22:45:13.94 ID:QLhNukpA
二重公儀論は流石に過大評価だとは思うけど
いわゆる上方で豊臣家の権威や公儀性を否定したり過小評価することには
どうしても無理があると思うんだよなー
京・大坂を作ったのも天皇家の権威を最創造したのも豊臣家なんだし
当時隔絶した大都会の京大坂を押さえる場所に巨大城郭を構えて
天文学的な数字の巨万の富を抱え
豊国神社には秀吉が神として祀られてるし
一応摂政関白任官の資格は保持してたし
秀頼の代でも寺社の造営や寄進を盛んに行って庶民人気もある

ここではなんか変な方向に脱線しちゃうけど

325: 人間七七四年 2016/10/06(木) 01:03:42.09 ID:6RCZO5IT
繰り返すけど
当時はまだ複数の権力主体が相互補完的に公儀を担うのが普通の社会だったと考えられるんだよね
その幾分かを上方においては相当な権威と富を握っていた豊臣家が分担していたと考えるのが自然なんじゃないの?

326: 人間七七四年 2016/10/06(木) 01:04:00.35 ID:fS+xBYty
初心に帰ろう、二重公儀論の根拠としては

一、秀頼に対する諸大名の伺候の礼

二、勅使・公家衆の大坂参向

三、慶長期の伊勢国絵図の記載

四、大坂方給人知行地の西国広域分布

五、秀頼への普請役賦課の回避

六、慶長十一年の江戸城普請における豊臣奉行人の介在

七、二条城の会見における礼遇

八、慶長十六年の三ヵ条誓詞

これらの現実にある問題をどう捉えるかだ

327: 人間七七四年 2016/10/06(木) 01:08:22.61 ID:fS+xBYty
>>326に加えて

関ケ原合戦のあとの領地配分で、京都から西には徳川系大名の領地が皆無という問題もありそうと。

    

330: 人間七七四年 2016/10/06(木) 01:39:52.13 ID:L3PLK5M7
>>327
1605年から長崎は幕府天領だったような。

331: 人間七七四年 2016/10/06(木) 01:49:25.42 ID:qU5m46tX
この幕府天領というのが問題だ。
正しくは公儀の領地だろう(豊臣でも徳川でもなく)。
それを家康が取り込んで徳川の私物にしてしまった。

332: 人間七七四年 2016/10/06(木) 01:52:22.10 ID:L3PLK5M7
長崎も石見銀山もそうだが、徳川家から奉行が出てるぞ。

334: 人間七七四年 2016/10/06(木) 02:04:20.41 ID:L3PLK5M7
そうだよね。関ヶ原の直後に思いっきり西国の長崎石見に徳川支配の天領を作っちゃってる。

335: 人間七七四年 2016/10/06(木) 02:16:37.25 ID:6RCZO5IT
家康は関ヶ原以前に毛利から豊臣家への銀の運上を横領してるし
豊臣家の外交権を乗っ取るかたちで交易利権にも手を突っ込んでるけどね
例えば豊臣家が持っている真壺の専売権を横領したり

338: 人間七七四年 2016/10/06(木) 07:42:30.42 ID:6UZ7vPji
西国に領地があったかどうかではなく、単純に諸大名に対して賦役や軍事の動員の下命の権限があったかどうかだ。
関ヶ原後の豊臣家には最早なく、実際に下命しても諸大名は動かなかった。
よって、二重公儀体制は否定される

340: 人間七七四年 2016/10/06(木) 08:58:30.38 ID:dFRuoXHC
昔誰かが言っていた、豊臣家は公儀になりうる存在ではあったが、公儀ではなかったというのが一番的を得ている

引用元: ・二重公儀論について考察する

豊臣大坂城: 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略 (新潮選書)
笠谷 和比古 黒田 慶一
新潮社
売り上げランキング: 99,431