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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/23(水) 04:01:29 ID:QSqNSS9C
北条早雲にも評価された長尾景春について語ろう。








長尾 景春

長尾 景春(ながお かげはる)は、戦国時代の武将。北条早雲と並ぶ関東における下克上の雄の一人である。

嘉吉3年(1443年)、長尾景信の子として生まれる。景春の白井長尾家は、祖父の景仲が山内上杉家の家宰を務めてから筆頭家老となり、父も家宰として勢力を伸ばした。景春も山内上杉家の家臣として享徳の乱で古河公方・足利成氏と戦い、文明3年(1471年)に父と共に成氏の古河城攻めにも参戦している。

文明5年(1473年)に父・景信が死去すると白井長尾家を継ぐが、山内上杉家当主・上杉顕定の家宰の地位は叔父である総社長尾家当主の忠景が継ぐこととなった。山内上杉家の家宰職は鎌倉(足利)長尾家当主が継承し、適任者がいない場合には総社・白井両家の長老から選ばれていた事から不自然な人事ではなかった(忠景の養父忠政も家宰経験者)が、祖父・父の功労で当然家宰になれると考えた景春はこれに対して不満を抱き、やがて顕定や忠景を憎悪するようになる。

文明7年(1475年)に武蔵鉢形城に立て籠もり、翌年6月には反乱を起こして、顕定軍を五十子陣において大いに打ち破った。文明9年(1477年)1月には顕定軍を大いに破り、顕定の勢力を上野国にまで放逐することに成功した(五十子の戦い)。また、上杉氏と敵対する豊島泰経・豊島泰明・千葉孝胤・那須明資・成田正等らと同盟を結び相模国から下総国に至る関東一円に戦線を拡大した。

しかしこのような状況を見た扇谷上杉家の家宰・太田道灌が武蔵国に勢力を拡張する好機として攻め込んでくる(道灌の母は景春の叔母にあたる)。景春も勇戦したが、道灌の八面六臂の活躍の前に各地で敗れて景春の勢威は衰退する。このため景春は足利成氏の支援を受けることで、何とか道灌と戦い続けた。しかし文明10年(1478年)、道灌の策略で長年対立していた上杉氏と成氏の間で和議が成立すると景春は後ろ盾を失い、結果として道灌に攻められて鉢形城は落城し、秩父の山岳地帯に逃れるが、文明12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ、景春は武蔵国を追われてしまった(長尾景春の乱)。

古河公方・足利成氏の下に逃れた景春は、成氏から左衛門尉の官途名を与えられて奏者を務めながら再起をうかがっていたが、やがて道灌が暗殺されると、成氏の元にいた景春は道灌を討った後に顕定に攻められていた上杉定正に加担して相模国に入り顕定と戦う(長享の乱)。
永正2年(1505年)に扇谷上杉氏が降伏して長享の乱が終結すると、行くあてを失った景春はやむなく顕定に降伏した。

ところが、顕定が永正6年(1509年)、景春の同族で越後守護代・長尾為景を討つために越後に出兵すると、これを好機ととらえた景春は為景や相模で自立していた伊勢宗瑞と同盟を結び、翌永正7年(1510年)6月7日に相模国の津久井山にて挙兵する。7月に入ると景春は顕定に味方する扇谷上杉家の軍に敗れて津久井山から撤退するものの、直後に顕定が越後国で戦死したとの報せが入り、白井城奪還の機とみた景春は8月には上野国へと兵を移動する。その頃、白井城では顕定の養子憲房が敗軍をまとめていたが、景春はこれを攻めて白井城奪還を図った。だが、既に白井長尾氏の当主となっていた景英や現地の一揆・浪人衆らは憲房側についたために最終的には白井城を追われる。『勝山記』によれば永正8年(1511年)には甲斐国都留郡へ逃れており、都留郡の国衆・上野原加藤氏を頼ったとも考えられている。景春か都留郡から再度関東への復帰を図るがこれも失敗に終わり、永正9年(1512年)には駿河の今川氏の下で亡命生活を送っている。

永正11年(1514年)8月24日に白井城にて死去、享年72(「双林寺伝記」)。ただし、亡命中の景春は勿論のこと、顕定・憲房に忠実であった後継者の景英ですら、この段階では白井城への復帰が認められていなかった可能性が高く、実際には駿河などの亡命先で客死したとみられている。







3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/23(水) 04:23:57 ID:wyF1JuHi
そりゃ、長尾景春がいなかったら、大田道灌と全面的に戦わざるを得ない早雲は景春に感謝しただろ。

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/23(水) 04:52:08 ID:QSqNSS9C
何度も何度も挙兵する執念はよほど山内上杉氏を恨んでいたんでしょうね。
同盟した武将は長尾為景や北条早雲下剋上の先駆者として名高い武将ですね。

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/24(木) 15:04:08 ID:F2YBw/H/
>>4
山内顕定は白井景信の死後、白井景春じゃなく惣社忠景を執事にしたから
二代つづいて執事を出した白井長尾の景春は、俺じゃないの?当然俺だろ!と反発

このとき道灌は、景春の器量では執事は難しいが、せめて武蔵守護代に任じたら、
それがダメなら景春を誅すべきだ、と顕定に主張したといわれている
顕定はどちらも却下したけど

景春と宗瑞・・・公方成氏と山内顕定が和睦、孤立した扇谷朝良を景春と宗瑞が支援したのが始まり
ともに勢力の伸張が目的でしょう

景春と為景・・・為景が越後房能、山内顕定を討ったことに、宗瑞と景春が呼応、両上杉と戦う


9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/25(金) 05:07:08 ID:PNaKsZc2
15世紀の関東って面白いのに人気ないね、、、

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/25(金) 08:43:59 ID:n7caQM+F
道灌中心に回ってる、って程単純じゃないから、取っ付きづらいのかな

調べれば調べるほど面白いのにね

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/26(土) 03:18:09 ID:xEG+MuPr
公方VS管領の抗争が関東全域に波及して、宗家と庶家の対立が激化したり、複雑で面白いよな。

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/26(土) 14:37:48 ID:MS85cFmB
公方と管領と扇谷の対立が柱なんだろうけど、
長尾も白井だ、惣社だ、足利だ、加えて越後だ、越後上杉だ・・・
近隣の豪族巻き込んで遣り合ってるうちに、後北条が台頭するん

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/26(土) 22:44:01 ID:UIKIwg0F
景春の子孫はどうなった?

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/28(月) 15:06:32 ID:m1Tzt+JD
景春ー景英ー景誠までは、越後長尾を協調しながらつづくが、景誠は家臣に暗殺されたという

そのため惣社長尾から景房(のち憲景)が迎えられ、山内と復旧、憲政が謙信を頼ると越後方に
その後武田→滝川に従うが本能寺の変後、後北条方に
子の輝景、その弟政景(のち景広)と続くが、小田原の陣後、加賀へ連行、後に上杉家家臣

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/05(火) 17:47:07 ID:DWOqdWCN
長尾景春の名をはじめて知ったのは「南総里見八犬伝」。
もちろんフィクションだけど、いちおう設定年代が同時代。
びみょ~な存在感がある。
でも、白井長尾と越後長尾をごっちゃにしてるよ馬琴センセ。

馬琴も軍記物を下敷きにしてるとは思うんだが、
長尾景春は当時の人にそれほど興味を引かれなかったんだろか。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/09(土) 15:01:07 ID:0wDa9DoC
関東では重大な乱なんだけどね

両上杉→後北条→徳川と統治者が替っていくうちに、
存在感が薄れていったんんじゃ

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/22(水) 03:05:59 ID:OjgPsWEO
白井長尾とか惣社長尾とかの存在が戦国後期には埋もれていって
なぜか越後長尾のオマケみたいな扱いだしな

21: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/21(木) 15:02:17 ID:C6DVSwIZ
景春の件で山内に追討された白井長尾が、山内顕定を討った越後為景と結ぶのは自然の流れ
山内と越後長尾が和睦すると、白井、惣社も山内に復帰
だがこの段階で両家には昔日の力はなく、あとは越後と北条の間で揉まれる

31: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/08(月) 01:49:55 ID:OUu8F0oG
太田道灌
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167648277/l50

11 :名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/02(火) 16:58:25 ID:BTTwBX/8
この人たいしてすごいとは思えない。江戸城は道灌の父が作ったんじゃないのか?
あと岩槻城は忍城の成田氏が作った事が分かってきた。
秩父一族の江戸氏や豊嶋氏なんて関東の争乱に毎回巻き込まれ弱体化してたのを己が勢力を扶植する野望から扇谷の大軍勢を率いて撃っただけでしょ。
結果的に扇谷勢力が拡大したが、それが為に主を怖れさせ謀殺された情けなさ。
だいたい長尾景春の乱で相模の人々が扇谷傘下から離脱して乱に参加したのは扇谷家宰としての力量を疑う。
反乱時期に道灌は相模地元の味方に任し放置して北上しようとしてたが多摩川が増水していたので断念して相模鎮圧を優先した。
仮に相模勢と合流せずに北上してたら武蔵の地にて惨敗してたろう。
早雲も武田や松平に敗退する男で将軍や管領細川政元と後援があった時代はうまくいっていたが、
山内上杉の離間策成功からは勢力拡大に苦戦続き。長尾為景や長尾景春の反乱の漁夫の利を得ただけ。


32: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/08(月) 01:50:33 ID:OUu8F0oG
13 :名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/02(火) 18:36:23 ID:UyUHD8aK
道灌って過大評価気味だろ!
同じ平氏の長尾・秩父一族の他に相模から溝呂木城・小磯城・小沢城が反乱に同調。
景春側の川越城攻略には小机城主さえも謀反に同調。道灌の政治的力量や求心力に疑問を持たせる。

もし知将なら鉢形城(反乱蜂起してから作ったのでロクな備えがない)を落城させた後に
最終決戦地の秩父領内に攻め入り景春の息の根を止め後顧の憂いを除くだろう。
道灌には秩父一族の甲斐小山田氏などの介入を政治力で阻止することに失敗したのではないのか?
西の景春に兵力を釘づけにされ東では古河公方の圧迫が激しく、泣く泣く成氏との和睦路線で乱の終結を図る道を選んだといえる。




33: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/08(月) 01:51:35 ID:OUu8F0oG
17 :名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/03(水) 00:30:38 ID:E2qYRimV
道灌は困りはててたのは事実。なんせ景春党の豊島一族残党が平塚城で再度挙兵し相模へ戻らなきゃならなくなったし
成氏は和睦したフリをして道灌を欺いて房総半島で千葉孝胤に景春と呼応させ上杉から離反させるようにして道灌を房総半島まで誘導してる。
結局、武蔵東部での足利成氏の介入もあり、武蔵西部では日野城落城までの進出が攻勢限界点となり、秩父深部への戦線に介入できない為に
鉢形城は奪回され、奪回するの繰り返しの泥沼。あげくに景春・成氏側は幕府へ和睦の調停を依頼し、ヤリ逃げ、ヤリ得状態で終結させてる。
これにより堀越公方が伊豆から東へ進出できない事が確定してしまい成氏の地位が安泰になってしまう。
このあとの成氏・景春側の戦略は道灌を除き両上杉を仲たがいさせて、疲弊させるのが至上命題と言ってもいいだろう。

ここで注目したいのは、道灌が死んで2年後にはなんと扇谷上杉側に立って須賀谷原の合戦に参加し
かなり苦戦中の扇谷勢の中で長尾景春の伏兵の活躍と奮戦により逆に戦局をひっくり返し優勢となり、本陣に攻め込まれた山内上杉方が戦場から先に退却してる
ということだろう。ちなみにこの闘いでは道灌の嫡男太田元六資康が山内上杉顕定方で在陣していた。
なんと景春がのうのうと扇谷上杉に参加しているではないか。道灌暗殺の黒幕は扇谷上杉の人脈に入り込んだ景春なのではないか?

関東管領山内上杉の主導で古河公方との和平を取り決め、それを主筋の扇谷上杉に納得させる為に道灌は使いしてる。これも道灌を陥れる策の最初の一手だろう。
山内上杉の元家宰の家柄の景春からすれば山内上杉人脈を通して山内上杉顕定の耳に道灌を陥れる策を吹聴し、それを扇谷上杉に仕込む事も可能だろう。

この闘いの後に高見原の合戦が起きたがこの時は同じ長尾家の越後の長尾為景を扇谷上杉方の味方として呼び寄せてる。この時に扇谷上杉定正が落馬死去。

34: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/08(月) 01:59:07 ID:OUu8F0oG
19 :名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/03(水) 10:39:26 ID:3GMkC1VI
>>16
長尾景春はハイエナ大名じゃねーぞ!
山内上杉顕定が祖父・父と続いた山内家宰の地位を不当に奪い盗ったから離反したんだぞ。
道灌だってその不当さをヤバいぞ!って顕定に諫めてるくらい。
だから反乱を起こす前に道灌にも仲間にならんか?って誘ってる。
基本的に景春の目的は領土欲もなく、ただ山内上杉顕定に復讐する事で、
道灌には何の恨みもないのに突っかかってきたのは道灌の方。
顕定を敗走させてるし、和睦後に山内と扇谷を対立させ、
越後に顕定を誘導させ敗死させ復讐を果たしているし、撤退してきた養子の上杉憲房の退路に布陣し旧領白井城を奪回して両上杉滅亡を決定ずけて天寿を全うしている。
早雲も景春の事を知略・雄略に優れた士と褒め讃えている。



35: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/08(月) 12:02:01 ID:Wp6+TLOp
道灌は自らの勢力拡大の野心から武蔵戦線に介入し扇谷・山内の大軍を指揮するも東に西にと走り回ったあげく泥沼に陥り幕府へ反旗を掲げていた成氏と景春が幕府に調停依頼し、道灌も乱を終結する力量はなく和睦を受けざるを得ない状況になる。
幕府も成氏への対抗のため掘越公方を支持してたのに、景春の反乱参加により乱が拡大し成氏と融和せざる負えなくなった。
幕府の要望もあり関東管領の山内家が和睦交渉の主導権を握り勝手に和睦。
このへんは成氏や景春の交渉・謀略能力の高さの証明でさらに道灌を陥れる秘策は続く。
山内主導の和睦を不愉快に思う扇谷へ説得に行かされた道灌は主筋の扇谷から不興を買うハメに。

38: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/09(火) 00:38:44 ID:rjbhaNNV
景春の父が上杉顕定を越後から養子に迎え関東管領山内家当主として擁立してあげた恩を忘れ景春から山内家宰職の地位を奪った。
これらのことが関東を果てしなき混乱に導いた経緯です。

39: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/09(火) 08:50:12 ID:9EkVihBq
景春は嫡子として景仲に従い幾多の戦に参加しただけでなく独自行動も行える力量があったから父も期待してたろう。

40: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/09(火) 09:25:22 ID:9EkVihBq
扇谷上杉での道灌の専横に反感を持つ重心曾我兵庫を始めとする人々を煽ったのは景春だと思われ。
一説には江戸・川越にいて盛んに不必要な築城強化を進め扇谷上杉へ挨拶にも赴かずに扇谷家宰職を執行していたので不安定な関係になってたと言う。
扇谷家での己の讒言の数々を聞いて知っていたにも関わらず馬耳東風の道灌はいよいよ堅城造りに励み、端から見れば山内上杉家を討つつもりなのでは?
扇谷上杉家を差し置いてあたかも政府機関を江戸に作ってるように見えるのはどういう野心があるのか?
という事になる。山内家から扇谷家に詰問の使者がやってきて上杉一族の不和を懸念しての道灌暗殺となった。
曾我兵庫が道灌を暗殺後に江戸や川越が任せられる事になり道灌嫡子は山内家へ逃走。
山内家と扇谷家が対立した際には扇谷で足利成氏に長尾景春の救援を要請し景春の伏兵で山内家を打ち破ると同時に一族の越後長尾軍を呼び寄せる。
関東管領家宰職の家柄の人脈がなければ山内・扇谷に対して謀を巡らし道灌謀殺は成功しないだろう。

43: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 12:01:54 ID:JMXx3t6X
道灌は周りを敵で囲まれた項羽みたいな感じだよな。
何回局地戦で負けても復活する劉邦が景春って感じ。陳平の離間策にかかって道灌謀殺された感が…そして景春が恨み骨髄に思ってた山内上杉顕定は惨めに越後で敗死し旧領白井城に復帰し天寿を全う。
あれだけ関東を乱した成氏も地位を安泰化させたしね。

44: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 23:22:07 ID:ukFyNmk6
道灌の自分の事しか考えない傲慢さと視野の狭さが、主君扇谷上杉政真を若くして五十子の陣で敗死させたり、
景春の父が古河城を落城させたおりに成氏が頼った千葉孝胤が景春救援の為に背後で挙兵した際には。
孝胤の籠もる臼井城を攻撃するべく道灌が派遣した弟の資忠が見事に敗死して下総攻略に失敗する。など無駄な多方面作戦を展開し泥沼の戦乱を拡大させる無能さは致命的。

46: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/11(木) 02:25:50 ID:0ZDlVnZS
まぁ山内・扇谷両上杉(伊豆・相模・武蔵・上野)の軍権を兼任し指揮できる立場の道灌に対して圧倒的戦力差がある中で少数の景春一党は善戦してるよ。
山内上杉本拠の平井城と扇谷の一大拠点川越城を分断すべく鉢形城(反乱を起こしてから即席で築城してるのでロクな備えは無かっただろう)
に入り秩父一族の後援を受けての反乱には戦略的持久の大戦略を基本に、寡兵をよく指揮して道灌を勢力圏に奥深く引き付け、後方で反乱を頻発させる・・・遠交近攻策の見本みたいな戦い方で道灌を各地に奔走させ疲弊させてる。

圧倒的な軍事力を持ちながら効果的に使えない道灌は、首謀者を誅殺できずに結局は和睦せざる負えなくなるもんな。
和睦後の謀略戦で傲慢を鼻にかける道灌を主家に欺かれ逆に誅殺されるアホらしさ。結果、讒言した山内家に道灌の息子は逃げるハメに。
山内に成氏が巧みに接近し扇谷との仲を裂く。その一方で成氏側の景春が扇谷支援に再び登場し山内軍を破る。
その後、為景や早雲を巻き込んだあげく扇谷定正はマヌケにも落馬死。同族越後長尾との共闘で山内顕定もミジメに敗死に追い込む。

47: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/11(木) 10:01:55 ID:0zcvYFVl
あれだけの大軍を擁しながら武蔵一国すら満足に安定させる事ができない道灌の力量はタカが知れてる。
しかも武蔵は道灌お膝元で江戸・岩槻・川越と言った要地に堅固な城を構えて道灌直轄領としており新田氏ゆかりの松山にも堅固な城がある。
にも関わらず秩父など武蔵西部は制圧圧できず…城は落とせても永続的支配権は樹立できない政治力は劣悪。
扇谷上杉の家宰兼相模守護代にも関わらず相模でも反乱相次ぐ始末。
道灌って無能なんじゃ…弱体化した江戸氏や豊島氏を討つのは大軍を率いる道灌なら楽勝だから評価するほどの事じゃないし。
その証拠に豊島氏とかも大軍に野戦を挑む愚を避けて籠城する策を取って各城と巧みに連携支援する戦略を取ってた。
しかし援護しようとした弟の軍が不幸にも道灌の大軍と不測の遭遇戦になり大敗し戦略が破綻しただけ。
景春は挽回策として成氏を説き本格的に介入させ東武蔵戦線を現出させた。

50: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/12(金) 00:03:36 ID:dKu8/WB3
景春を褒めるのはいいけど、道灌を貶すのはどうかと。
彼の兵力は彼自身がまとめてきたものだし、それ自体が凄いわけで。
景春が好きな所までは同意だが、道灌にそこまで敵意を持ってる意味がわからん。

俺は両方好きだ、銭型のとっつぁんがいないとルパンもつまんないだろ。

51: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/12(金) 01:02:06 ID:SC1xmHwR
しょーじき道灌のどこがすごいのかと疑問に思うが・・・なぜそんなに道灌道灌って理由も述べず反論も出さずにマンセーできるんだ?
武蔵一国すら経営に失敗してるんだぞ。信長の尾張統一などの過程と比較しても道灌の力量に疑問を抱かざる負えない。

54: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/12(金) 09:43:49 ID:w8pn1TcM
道灌マンセーの理由なんて江戸時代の雰囲気ものだろ。
江戸を開拓した有名人に細かく伝説を付託して作られた「江戸の開祖」な

61: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/14(日) 14:19:41 ID:pY/Yjs1x
いまの横浜市港北区にある小机城に1477年に景春が矢野兵庫助と立てこもった際は31歳の若さだったとか。
道灌は何歳くらいだったんだろうか?
長尾景春は江戸期の講談とかで不利な扱いを受けたんだと思う。例えば里見八犬伝では馬琴の大勘違いもあるが、どことなく悪役っぽく登場してるような…気がしないでもない。
道灌に滅ぼされた豊島氏の一族の八犬士で犬山道節ってのがいたね。

63: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/15(月) 09:58:27 ID:GTxQJGEx
>>61
ウィキペアからだと景春は34歳で道灌が45歳の時みたい。
景春の生誕は諸説あるみたいね!
ただ道灌の方が10歳以上は年上で老練な年長者だったようです。

65: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/15(月) 18:00:07 ID:36vCfk2E
越後から養子として長尾景信らに迎えられて関東管領に就任した上杉顕定and越後系側近達と
長尾氏ら関東系との間の対立が長尾景春から家宰を取り上げた理由のようだね。
景春が謀反したのは道灌が中途半端に駿河に行き仲裁が失敗したのが原因。

75: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/18(木) 03:31:47 ID:5Gy4aiCY
道灌のヤツが景春がまだ謀反すると決まってない時期に
顕定に「せめて守護代くらいにすべきです。もしその意思もないなら今のうちに景春を誅殺すべきです」
などと暗殺を勧めるから、もはや謀反せざる負えない状況に追い詰められた。
道灌の仲裁が失敗したまま駿河に出かけるなんて無責任。
だいたい主家に誅殺を唆すから因果応報で自分が主家に謀殺される皮肉に合う。

562: 人間七七四年 2011/06/07(火) 22:45:37.47 ID:3E/K6Ukl
171 :人間七七四年:2011/05/23(月) 22:58:30.72 ID:D6eiyjGv
永岡慶之助の『北条氏康』の中に年老いた長尾景春が山内上杉憲政に仕えてる描写があるけど、これは創作?


172 :人間七七四年:2011/05/23(月) 23:02:32.73 ID:1GYrxyHb
山内憲政が家督を継いだ頃には死去してたんじゃないか?


173 :人間七七四年:2011/05/24(火) 13:46:57.86 ID:V3Nl2meP
やっぱ創作かな
息子はともかく景春自身が山内の傘下に入った記述は他に見ないし


174 :人間七七四年:2011/05/24(火) 17:44:29.95 ID:AKzysEoS
甲陽軍鑑とか小田原北条記とかだと伊玄入道景春が憲政に仕えていることになってる。
軍記物の世界では景春と一盛斎長野業正が混同されている感じ。
山内上杉家中に疎い甲陽軍鑑の作者の創作だろう。
伊玄入道と長野業正が同時に登場することが多いが憲政の代には景春の子景英だって既に世を去っていたし
白井長尾氏には憲政の代の長老的存在という、この役割に該当するような人物は見当たらない。
関八州古戦録では伊玄入道の代わりに一声斎長尾景盛なる人物も出てくるがこれは長野一盛斎の名が誤って伝わったものだろう。
甲陽軍鑑では他にも厩橋長野賢忠が長尾謙忠として伝わっていてこれが他の軍記物にも影響している。


175 :人間七七四年:2011/05/24(火) 20:02:50.00 ID:AKzysEoS
↑調べてみたら白井長尾憲景も"一井斎"と称していたようだ(氏政からの書状がある)
だから一声斎景盛というのは憲景のことかな。
それでも長野業正と一緒に行動していたという点は妥当でもそれ以外については
やはり憲政の老臣伊玄の元とは考えにくいが。


182 :人間七七四年:2011/05/31(火) 09:40:58.83 ID:+rvOQ7hW
>>174
すでに景春も子の景英も孫の景誠も死んでるね。
景誠の妻は長野業正の姉で景誠が自刃したのが1529年正月で23歳。
義弟の業正が白井長尾の家督決定を主導し
総社長尾から養子として憲景を貰い、
妻は山内家宰の足利長尾から貰ったと言う複雑さ。
さらに景誠の娘は業正の嫡子に嫁ぐことになる。
憲景は謙信が死んでもまだ生存してるからなぁ。

206: 人間七七四年 2007/03/29(木) 00:38:10 ID:d0OhWbPD
この人かなりの知略家だったらしいよ。
敵を少数でギリギリまで引き付けておいてからの引き際を間違えない名将だったとか。

207: 人間七七四年 2007/04/11(水) 00:41:35 ID:4jHXNZwV
景春の父の景仲は足利成氏を圧迫し古河城まで落城させた名将中の名将。

209: 人間七七四年 2007/04/21(土) 23:22:11 ID:Z2PbaJco
長尾一門は強豪揃い

210: 人間七七四年 2007/04/29(日) 11:59:05 ID:xW+UOE9W
この人が暴れなきゃ関東での大上杉の屋台骨はまったく揺らがず戦国時代を通して
関東は関東管領上杉の統治が続いていただろう。そしてこの人が実質的に上杉を崩壊させた。
早雲は正面で戦わずにただの漁夫の利。早雲の夢の中の2本杉の根をかじるネズミは早雲だが
その杉はすでに景春によって根から上の部分がすでに切られていたと言える。

211: 人間七七四年 2007/04/30(月) 09:01:36 ID:KY3L2uyB
>>210
たしかに間違いない。実質的に上杉を破滅に追い込んだのはこの人だぎゃ。
この人の父や祖父が上杉を隆盛に導いた人物なんだから上杉が守護代の人選を間違えさえしなければ盤石だったのにな。

214: 人間七七四年 2007/06/14(木) 04:17:22 ID:tTuPbIxW
功臣の息子が謀反人に化けるってケースはザラにあるから
守護代の人選は間違っちゃいないような気もするけどねぇ
景春の息の根を止めとかなかったのが失敗かな

216: 人間七七四年 2007/06/21(木) 21:14:48 ID:BXYu4Rqs
長尾景春って数ある長尾氏の嫡流だったんでしょ?

217: 人間七七四年 2007/06/28(木) 20:12:21 ID:bOP1RIMZ
そうだよ。他に越後や足利や総社などもある。

218: 人間七七四年 2007/07/12(木) 20:31:18 ID:T6tM60fX
この人って関東に戦乱を起こし歴史に影響を及ぼしたベスト5には入るよね。

219: 人間七七四年 2007/07/13(金) 03:09:11 ID:mmTnyfOO
戦国時代に限定すれば入るかもしれないが、この人の活躍時期が微妙に戦国時代と言えるかどうかが謎だったり

221: 人間七七四年 2007/07/14(土) 15:26:53 ID:JM5DNDKz
この人の祖父の景仲や父の景信の代で
足利義政や足利成氏が出揃うので戦国時代と言ってもいいんじゃないかな。。

222: 人間七七四年 2007/07/14(土) 18:46:46 ID:9CED0mHO
群馬県渋川市上白井にある空恵寺が白井長尾氏の菩提寺で白井長尾氏累代の墓所があります。
かろうじて景仲と景春の墓は確認出来るらしいです。
空恵寺はかなり山奥で道が狭いので訪問の際は気をつけて。
駐車場あり、見学の際は一声かけましょう。

225: 人間七七四年 2007/07/22(日) 19:43:50 ID:R7Jcb6AG
景春が名将ってのはちょっとなぁ
関東の混乱に一役かったのは確かだが
結局は両上杉に勝てなかった

226: 人間七七四年 2007/07/22(日) 22:57:38 ID:sl30nYAF
アホか大上杉の勢力のデカさは普通じゃねーぞ!
しかも幕府の後ろ盾もあるんだぞ。
圧倒的すぎて普通なら裏切り自体考えねーよ。
当時は江戸湾に注ぐ利根川以西は上杉領みたいなもんだぞ。
景春が暴れたからこそ磐石な両上杉の関東支配体制の衰退が決定づけられたんだぞ。
北条早雲はたまたま主戦場の関東から離れた辺境にいたから漁夫の利を得ただけだぞ。
当時の主戦場であった武蔵からすれば伊豆箱根なんて放置されていたようなもんだ。
伊豆箱根を空き家同然にしたのは混乱台風になって暴れた景春だぞ。

227: 人間七七四年 2007/07/22(日) 23:01:23 ID:0QqnL7DK
勝てなかったのは事実、衰退させたってのも根拠が弱いんだよね確かに。

228: 人間七七四年 2007/07/22(日) 23:15:19 ID:D5McZJ28
山内や扇谷の両上杉に対して景春の秩父の日野城と鉢形城くらいしかないんだぜ。
上杉の超大軍に対して景春の手勢なんて微々たるもんだろ。それであれだけ長期間暴れてるし、のちの両上杉の争いでは扇谷側に参加して伏兵で勝ってる。
さらに長尾為景や早雲を武蔵に引き込んで関東の混乱を拡大させてるしトンデモナイ男だと思うよ。
最後はちゃんと白井城で天命もまっとうして死んで近くに墓もあるとか。

229: 人間七七四年 2007/07/23(月) 00:00:36 ID:R7Jcb6AG
関東は上杉禅秀の乱以降混乱続きだよ
別に景春が暴れなくても十分混乱してる
景春が望んだのは主家山内上杉氏の衰退ではなく執事職を得ること
生み出したものは何も無い

230: 人間七七四年 2007/07/23(月) 11:06:20 ID:86gDi875
上杉禅秀の乱なんて大した事ねーどころか結城合戦までの闘争はかえって幕府の後ろ盾のもとに上杉の関東支配が強化されていった時期だから。
そしてその上杉黄金期を支えていたのが家宰の長尾景仲・景信だから。その家宰家が叛旗を翻したから上杉が内部から切り崩されて相模・武蔵・上野を中心に支配権が音を立てて崩れたんだろ。
景春の乱で見事に関東は下克上の時代に入った。しかも景春という首謀者は捕らえられなかったどころか上杉当主は次々死んで行くハメに。
上杉の意思を尊重してたのは名管領の上杉憲実までだからね。

231: 人間七七四年 2007/07/24(火) 22:50:16 ID:cdxZz5lK
捕らえられなかったって言うか降伏して軍門に降ってたような・・・。

232: 人間七七四年 2007/07/24(火) 23:09:03 ID:ZRHfZHRt
降ってない。古河で成氏と合流しただけ。のちに白井城も取り戻してる。

234: 人間七七四年 2007/07/28(土) 03:14:17 ID:qU5+Cwvg
その成氏が上杉と敵対してた時に合流できたのならともかく、
和解してから普通に成氏の庇護に入ってるんだから要するに、許されただけだろう。
その後も扇谷上杉のほうに所属してたりしてるし、
山内上杉にだけは敵対していたにしても
捕らえたいのに捕らえられなかったと言う言い方は今ひとつ疑問符が残る。

235: 人間七七四年 2007/08/28(火) 20:11:29 ID:E3JwR5P3
主家に反乱し許されるわけなかろうが。あんだけの大乱の首謀者だぞ。
だいたい記録のほとんどが太田道灌状からの類推じゃないか。
太田側の自己弁護や歪曲がある資料を鵜呑みにするなよ。

236: 人間七七四年 2007/08/29(水) 03:08:38 ID:rfZlm+Wr
結局良くも悪くも道灌なしには語れない人物、
長尾ならば上杉の当主を二人も殺して越後を力づくで奪い取った狂犬為景の方が凄い。

まぁ早雲にとってはありがたかったろうけど。

238: 人間七七四年 2007/08/30(木) 00:42:17 ID:UlUz2dPE
フヌケ成氏の利用価値がなくなると・・・
景春の領土欲なくただ打倒上杉に人生を賭けて
今度は扇谷上杉をうまく利用して長尾為景と北条早雲を関東に導き入れる才覚はすごすぎる。

240: 人間七七四年 2007/08/30(木) 00:44:22 ID:SACEDOqw
なんか最近の大河ドラマの主人公みたいだなw

「実は全部裏で彼が・・・」

245: 人間七七四年 2007/08/31(金) 01:31:24 ID:nIqCs0VE
持氏も成氏も景春も結局は混乱に拍車をかけただけの迷惑者

246: 長尾忠景ってどう? 2007/09/04(火) 12:06:51 ID:L45VZzNt
>>245
というか、室町時代は不安定な時代ですから…しょうがないんじゃない
(だから戦史好きの私は大変興味あるのですが…)
中央では南北朝の乱、各地の守護大名の乱、応仁の乱、細川氏の乱…。
関東では南北朝の乱、小山義政の乱、禅秀の乱、永享の乱、享徳の乱…。


これは私見なのですが、
1.意玄(景春の法名・道灌も法名なので…)は、謀反を起こしたが、
公方→管領→守護→守護代体制を崩すまで考えてはいない。
つまり、早雲と比べると先の時代を見通す先見力に欠けている。

2.執事を希望したのであって、山内家を滅ぼそうとは考えてない
つまり、目的を果たしていないから失敗なわけ…だ

3.道灌は戦乱を収める実力も才能もないのに、
関東の騒乱を収めようとしたが、逆に迷惑がられて暗殺された。
(まぁ、これは父と持朝の英才教育で、刷り込まれたのだからしょうがない。その義務心は素晴らしいのだけど…)

それに比べて意玄は…私欲で動いた。

それをどうこういうつもりはないが…

でも結局、景春の孫の代で断絶して、忠景の子孫の憲景が相続したのだから、
まったくもって彼がやったことは「お家存続」から見れば意味がない。



247: 人間七七四年 2007/09/11(火) 15:19:41 ID:MV359idp
だがそれは結果論でしかない
景春は景春で自分に正義があると思ったんだろうし
(なんで俺が執事になれないのよ)

248: 人間七七四年 2007/09/12(水) 00:19:15 ID:Wr+ztgLJ
まぁ長尾家はそういう奴多いしなw

引用元: ・長尾景春

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