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1: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:51:44.75
尊雅王以後、史書からも消えた後南朝。いったい彼らに何があったのか?真実に迫る






後南朝

後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。

南北朝合一時の約束(明徳の和約)では天皇は北朝系(持明院統)と南朝系(大覚寺統)から交代で出す(迭立)ことになっていたが、1412年(応永19年)に北朝系の後小松天皇の次代として後小松上皇の皇子である称光天皇が即位したことをきっかけに、北朝系によって天皇位が独占されるようになったのに反抗して起こった。

1414年(応永21年)、4年前に京都を出奔して吉野に潜行していた南朝最後の天皇後亀山上皇とその皇子小倉宮を支持して伊勢国司の北畠満雅が挙兵したが、室町幕府の討伐を受け和解、上皇は2年後に京に帰った。

後亀山上皇の崩御から4年後の1428年(正長元年)、嗣子のなかった称光天皇が崩御したために北朝の嫡流は断絶した。後小松上皇が北朝の傍流(ただし持明院統としては本来の嫡流)である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたことをきっかけに、北朝は皇統断絶して皇位継承権を失ったと考える南朝側は激しく反発する。北畠満雅は再び小倉宮聖承(後亀山の皇子小倉宮恒敦の王子)を担いで伊勢で挙兵、幕府軍と戦って敗死した。

この事件をはじめとして、応仁の乱に至るまで、南朝の子孫は反幕勢力に担がれて断続的に活動を続けた。

後南朝は次第に勢力を失い、文明3年(1471年)、応仁の乱において小倉宮の末裔(『大乗院寺社雑事記』には小倉宮の子孫との記述あり)と称する岡崎前門主という人物の息子が、山名宗全により洛中の西陣に迎えられた(これを“西陣の南帝”と呼ぶ)との記録を最後に、歴史上にあらわれなくなった。





11: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:51:55.00
後亀山天皇ー小倉宮ー尊義王ー自天王(1442~1457)

以後断絶

12: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:51:56.00
断絶って何だろう?

13: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:51:57.00
南朝公家はどこ行ったんだろ
官職は北朝系が独占、家財も殆どないはずだが

19: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:03.00
>>13
日野有光が挙兵している

21: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:05.00
>>19
あれは持明院派の資名流の子孫
義満期に別れた裏松流との争いに敗れたのが遠因
資朝流は子息邦親が山陰のどっかの国司として敗れて吉野戻ってからは不明

22: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:06.00
>>13

阿野がそのまま存続
経忠流近衛が北朝系花山院の養子になって花山院持忠を名乗ってる
花山院 持忠

花山院 持忠(かざんいん もちただ)は、室町時代の公卿。

『看聞御記』には、父・忠定に相続人がおらず花山院家の家門が断絶しかかったため、「南方近衛息」(南朝関白近衛経忠の末裔)を密かに迎えて、将軍足利義持の加冠によって元服してその偏諱を受けたとする記述があるが、真相は不明である。


23: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:07.00
>>22
マジ?

24: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:08.00
そう。持忠は近衛経忠の曾孫に当たるんだろうか

35: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:19.00
後亀山の院号って持明院統(旧北朝)の天皇が決めたの?

36: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:20.00
明治44年に明治天皇の命令で南朝3代を天皇と認め
煕成王を「後亀山」と追号

39: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:23.00
>>36
それはあくまで追認に過ぎない。
看聞日記には既に「後亀山院」とあるのだから。

37: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:21.00
北畠と楠木の子孫はいるんだから、何かわかりそうなもんだけどねえ

39: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:23.00
>>37
子孫にも正確な記録は残ってなかったんだろう。
北畠氏の子孫が編んだという「北畠准后伝」の
内容の杜撰さから推して知るべしかと

38: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:22.00
後南朝の記録って言ってもほとんどが
北朝朝廷方の日記や寺社僧侶の日記なんだよね(しかも伝聞)
どんどんジリ貧になってどどめに
それまでの融和策から義教の南朝殲滅策への方針転換
やはり発給文書とか新出史料が出てこないと厳しいな
あれだけ皇子がいたんだから一家ぐらい残っててもいいと思うが
長い潜伏、そして応仁の大乱、戦国時代
この間に自家の由緒も忘れていったんだろうか

40: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:24.00
北畠なんぞ南北朝合体後はちゃっかり室町幕府の守護大名におさまって、
戦国時代まで生き延びて最後は信長に滅ぼされるまで続いたけど、
意識としては普通の戦国大名と何も変わらんだろう。

47: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:31.00
忠義王が征夷大将軍になったというソースは何?

48: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:32.00
なんだろうね。俺も知りたい。
多分、川上村の口伝とか熊澤系についての誰かの本とか
そんなレベルではないかと

49: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:33.00
十津河記の誤読という可能性は?
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/totsu3.html
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/totsu4.html

ここでは征夷将軍となった「勝法親王」を忠義王に比定しているけど、
「円満院門主」で文安元年に蜂起したのは円満院円胤のはずだろう。

62: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:46.00
>>49
俺は突川記の「勝法親王」は「自天勝公」の訛伝だと思う。
現在北山に伝える位牌から「南方両宮」の名乗りは「勝公」「忠義」だった可能性があるし
「忠義王文書」も伝わっているがこれは、「梵勝」「梵仲」からとったと思う。
十津河記が、後亀山天皇の子を長慶院寛成と伝えているのは、そもそも北山の両宮は長慶天皇の子孫だったのを、
誤り伝えたものと思う。

50: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:34.00
「十津河記」自体が事実誤認や記憶違いで書かれたようなものだからね

51: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:35.00
「南朝誌」(『川上村史 史料編』所収)に、
(天靖十二年)二月二十五日忠義親王様征夷大将軍に被為玉ふ
とあるね。

55: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:39.00
美作後南朝については書物も少なく、闇の中のまま。

南北朝時代の末期に山陰の大々名の山名氏が南朝の断絶を避けるために
美作国の植月に後南朝の皇子を招いて開設されたのが美作後南朝。
三種の神器も美作後南朝に伝えられ、代々天皇が即位し、地元豪族達に守られて
戦国時代も生き延びたが、第8代高仁天皇が死に、後継者である良懐親王が江戸幕府
により庶民の身分に落されて美作後南朝は滅亡したとされている。

個人的には美作後南朝の存在自体を疑問視しております。
平民に落とされたにしろ子孫は続いた訳で、それらの足跡が余りにないのは
不自然ではないかと。
ましてや地元豪族が本当に支持していたなら、その後も支援するだろうし庇護もするでしょう。

突然のようにすべてが消失するなんてありえないと考えています。

58: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:42.00
>>55
応仁の乱で山名が担ぎ上げた「西陣の南帝」と関係はあるのか?

59: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:43.00
美作後南朝自体が捏造。
西陣南帝とは無関係。

56: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:40.00
後南朝の子孫なんて現存しない。
室町幕府の施策により男子は仏門に入れられ子孫は絶えた。
自称子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などない。系図も捏造。
思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけで
まさに基地外レベル。

浪漫と捏造を同一視してはいけない。

後南朝というか正確には後醍醐流は断絶に追い込まれた。
それが史実でしょ。

57: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:41.00
6代将軍の義教の時に、南朝皇族は滅亡させる方針に変わった。
小倉宮の子孫はじめ主要な皇族は仏門に入れられ子孫は絶えた。
それが史実。
自称傍系の子孫らしいのが細々と吉野や紀伊の山奥で活動してただけ。
活動規模はもはや山賊レベルで驚異にはならなかった。
その傍系も赤松遺臣に討たれ滅亡した。
そこから先は伝承に過ぎず南朝の名前を利用されただけ

60: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:44.00
南朝方の公家の子孫を称してる家ってないのかね?

63: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:47.00
>>60
一番メジャーなのは阿野さんか。
近衛経忠とか二条冬実なんかの系統はどうなったんだろうな

67: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:51.00
>>63
鷹司家諸大夫だった小林家(安政の大獄で獄死した小林良典が有名)は、
近衛経忠―経家の子孫と称する系図を持っていたとか何かで読んだけど

九条家諸大夫だった富小路家が二条家の庶流を自称したようなもんかな

61: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:45.00
五条氏とかははっきりしてるけど
他に有名どころはあるのかな?
俺も知りたいです。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/325483
※リンク切れ

64: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:48.00
いるのかもしれないが記録が残っていないんだろうね。
冬実の子もほとんど僧籍だし

65: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:49.00
九州の南朝勢力は、後南朝の時代には壊滅しててないんだよな。
一時は、九州全土を支配する勢いだったのに。

懐良親王(後醍醐天皇皇子)→良成親王(後村上天皇皇子)に代替わりするが
最後は五条氏の領地の筑後矢部(福岡県八女市矢部村)くらいしか維持できなくて、
そこも攻められて何度か撃退するも、良成親王(後村上天皇皇子)が死んで終了。

1395年の感状が最後で30台半場前後で死去したとの通説だが、子供とかいなかったのか・・
それとも病死等ではなくて北朝側に寝返るために子供もろとも暗殺されたのか・・
五条氏はその後も生き残っているのに、良成親王の辞世とかも伝わってないし不自然さを感じる。

66: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:50.00
良成親王は病死か心労から身体弱らせて普通に亡くなったんじゃないのかな
男子がいれば旗頭にされたろうからいなかったか夭折したか
五条氏はその後、菊池氏の与力として筑後矢部を維持するけど
「宮」の不在では過去のようにはいかなかったと思う
それだけ「御輿」の存在は重要(特に鎮西では)だったってことかな

74: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:58.00
>>66
良成親王の辞世の句すら残ってないのが不自然。
辞世の句を残す時間すらない死に方をした可能性大。
突然死、戦死、暗殺など
畳の上でゆっくり病死したなら辞世の句くらい残すだろ。
五条氏が残ってるから辞世の句があったなら伝わっただろうしな。

68: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:52.00
花山院師賢の子孫を称した丹波篠山藩の青山家を忘れるなよ

69: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:53.00
「寛政重修諸家譜」編纂頃じゃ自称過ぎるw
もっと記録や状況的に傍証できるようなものじゃないと

70: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:54.00
後南朝詐欺って,江戸時代からあったのか
なんかすげえな。

71: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:55.00
家系図にも偽作が多いですからね。徳川家の家系も...

72: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:56.00
そこで浪合記ですよ

73: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:52:57.00
浪合記は偽書。

82: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:06.00
>>73
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/namiai1.htm
ここ見ると一概にそう言い切れないものが・・・
「偽書」というか正確性に問題がある伝記ぐらいでいいんじゃないのかな?
編纂した時期もだいぶ経ってからだし
記憶違い、誤伝、その上に資料不足などで

83: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:07.00
浪合合戦はおそらく史実だろう。
問題は、いつ誰が戦死したのか

85: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:09.00
新史料発見マダー

86: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:10.00
新史料じゃないが、「花押かがみ」は南北朝まで
出揃ったことだし、もっと利用されるべきだと思う

87: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:11.00
>花押かがみ
史料の少ない南朝方の花押を多く採録したのは評価するけど、
官位や没年の情報が「系図纂要」丸写しなのは如何なもんかな

98: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:22.00
自天王の子孫は、代々、吉野川流域の富農の領内にかくまわれて、その
御座所は「吉野御所」と呼ばれることもあった。
時には御所を出て、領民に親しく声をかけられることもあったが、基本的には
御所の御簾の内側で過ごされることが多く、一般に知られることは少なかったと
考えられる。

99: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:23.00
それも伝承に過ぎず、真実は「後南朝滅亡」で終了でしょう。

100: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:24.00
自天王自身の系譜すら分からないんだからねえ

102: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:26.00
吉野御所では除目も行われたと考えられるが、やはり摂関は置かれず、
天子の御親政だったのだろうか。公卿議定は左大臣あたりが務めたであろう。

103: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:27.00
後南朝に付いてきた公家っているのか?

106: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:30.00
後南朝に従った堂上貴族は少なかったよな。
だから、御所に仕えていたのは地下官人や滝口の武士ばかりだった。
昇殿する人は非常に少なく、朝廷は寂しいものだった。

110: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:34.00
実質を伴った後南朝の朝廷は200年くらいしか続かなかったのではないか。
それ以後の後南朝の朝廷は、室町幕府における小弓御所くらいの存在感しかなかっただろう。
昇殿を許された廷臣の数は全盛期でも数十人もいなかったのだから。

111: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:35.00
時代的に中世で、比較的現代に近い時代の出来事なのに謎が多すぎる。
日本史で後南朝は古代史と同じぐらいロマンがある。

113: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:37.00
後南朝についた公卿はほとんどいなかったから、公卿議定を開くのもままならなかっただろう。
自天王や尊義王などの皇族の子孫が臣籍降下し、賜姓源氏となって公卿となっていたに相違ない。
賜姓源氏の公卿たちは高い官位を世襲し、その傍流の者たちは五位の受領クラスの武士となり、
長きにわたって後南朝の藩屏となったことだろう。

115: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:39.00
後南朝版の公卿補任とかがあれば、後南朝の任官状況がわかるのだが、
誰か読んだ人はいないのかね?

118: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:42.00
南朝公卿補任などという近世の偽書はあるが、
実際の南朝は補任記録を残していたかすら疑問。

126: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:50.00
仮に後南朝が朝廷として機能していたなら、
多少なりとも文書を残しているはずだと思う。
しかし、何も残っていないのが現実だ

130: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:54.00
南朝はともかく、後南朝は朝廷じゃないだろ?

132: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:53:56.00
後南朝だと誤解されるし、後南党にするかw

149: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:54:13.00
山本信吉『古典籍が語る―書物の文化史』(八木書店、2004年)の中で、偽文書の例として
「山や海での採取・通行権などを守るために作られた後南朝の王子の令旨」とあるんだが、
具体的に何の文書を指してるんだろう? 忠義王文書ってそんな内容だったっけ?

153: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:54:17.00
熊沢とやらが偽造した長慶天皇の綸旨ならあった気がする

162: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:54:26.00
歴代の南帝には諡号が贈られておらず、天皇の呼び名が無いのは困ったことだ。
今からでも諡号を追贈して、「後南朝の天皇は誰?」と言われないようにしてほしい。

163: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:54:27.00
即位の礼も大嘗祭も挙行してない偽帝に諡号なんか不要

168: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 21:54:32.00
儀式うんぬんとか言っているけど、応仁の乱で
山名宋全が担いだ時期もあったのだから、それなりにお金があった時期が
あったのでないの?
と想像してみる。

引用元: ・後南朝のその後を研究するスレ


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