0024MAN-Antinous;



1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/25(土) 04:53:40 ID:J10T+iCs
義元、氏真に限らず、戦国今川氏全般について語りましょう。







花倉の乱

花倉の乱(はなくらのらん、花蔵、はなぐらとも)は、戦国時代の天文5年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名、戦国大名でもある今川氏のお家騒動。

氏輝の時代には、対立していた甲斐の武田氏と和睦し、一門衆や有力被官の合議制を確立させ、分国統治を整備する。だが、三河で松平氏が活動を強めると、守勢であった氏輝は三河を放棄し、甲斐侵攻を計画。太原雪斎とともに京で修行していた弟の栴岳承芳(義元)を呼び寄せる。

天文5年3月17日(1536年4月7日)、当主の氏輝と、上位継承者である弟の彦五郎が急死する。家中での影響力も強かった氏親正室の寿桂尼や、太原雪斎、重臣たちは栴岳承芳(義元)を還俗させ、京の足利将軍から偏諱を賜り、義元と名乗らせる。さらに甲斐の武田家と和睦を成立させる。家督を継がせようとするが、今川家の有力被官で、遠江、甲斐方面の外交や軍事を司っていた福島氏が反対。福島氏は氏親の側室が福嶋助春の娘で外戚にあたり、子の玄広恵探を擁立して対抗した。

5月24日(6月12日)、寿桂尼は恵探派の福島越前守(福島正成と同一?)と面会して説得を試みるが失敗。翌25日(13日)、恵探派は久能山で挙兵し、駿河府中の今川館を襲撃する。今川館の守りが堅く襲撃が失敗すると、恵探派は方ノ上城(焼津市)、花倉城(葉梨城、藤枝市)を拠点として抵抗、遠江などで同調するものも現れた。

義元は相模の後北条氏の支援も得て、6月10日(6月28日)に岡部親綱が方ノ上城を攻撃、落城させる。次いで恵探の篭る花倉城をいっせいに攻め立てた。恵探は支えきれずに逃亡、瀬戸谷の普門寺で自刃。遠江での戦闘も収束すると、義元は自身の家督相続を宣言し、宗主権強化に努める。





10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/25(土) 22:30:08 ID:msMvoRJS
武田信玄などと同盟すべきではなかった。
早い年代に北条と共闘して倒しておけばよかったな

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/26(日) 09:32:46 ID:JlajKSL0
今川氏は代々親北条、反武田だったけど
何で義元はその逆を執ったんだろう?

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/27(月) 16:56:27 ID:YGyk1PZL
大内もそうだけど今川も内訌が多い
花倉の乱もそうだけど、範政の後とか義忠の後とか
その割りに守護家として弱体化しなかったけど

22: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/13(土) 19:29:27 ID:zlp16JWf
福島正成を討ったことから滅亡への道を歩んだような。

福島 正成

福島 正成(くしま(ふくしま) まさしげ(まさなり)、明応元年(1492年)? - 大永元年11月23日(1521年12月21日)?/天文5年(1536年)?)は、戦国時代の武将。北条綱成・福島勝広の父とされる(正成の父は福島基正と伝わる)。

正成の福島氏(くしまし)の本姓は清和源氏であるが、桓武平氏ともいわれはっきりせず(後述の福島助春との関係が不明なため)。源姓または藤姓の福島正則(こちらの福島は「ふくしま」)とは別族であるとされるが、同族ともいわれる。経歴や没年は以下の通り諸説あり。

今川氏家臣説

正成の一族は代々今川氏の家臣として仕えた福島氏の一派で、正成が主に活動したのは今川氏親が当主の時代とされるが、史料上は明確ではない。

北条氏家臣説

そもそも正成の一族は、元々相模の北条氏に仕えていた一族であるとする見解もある。この見解においては、従来正成の経歴とされていたものは、飯田河原の戦いで戦死した福島某、又は今川氏家臣の福島助春の経歴を冒用又は誤伝したものにすぎず、「北条綱成の父」以外の経歴は不明ということになる。

23: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/13(土) 22:55:53 ID:V+kPYLb3
息子は北条綱成だよね。何で北条家臣になったんだろう?
花倉の乱の時点では北条は義元支持だったはずだが。

24: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/14(日) 16:09:44 ID:ppc/i+yr
福島氏の領地は没収されて、
義元支持派で戦功もあった小笠原氏の領地に編入されてるね。

高天神城が武田勝頼に降伏・開城したときの士官名簿の中に福島姓があるけど、
残された福島一族は小笠原家臣に組み込まれてたということだろうか。

25: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/14(日) 18:50:01 ID:W/wtUTtR
花倉の乱の最中から急速に義元が武田に近づいたのも大きいと思われ。
当時の武田は、親戚筋の上総守護武田家との関わりから、
関東進出を目指していたから、武蔵南部を制圧していた北条と対立していた。
今川と北条が対立し始めた状況なら、流れるにはちょうどよかったんじゃないか?
その先見の明を評価して、氏綱も自分の養子にしたのかもしれない。
氏康の代わりに跡を継がせようとしただの、それがあったのに氏康も重用したことを考えれば、
綱成自身が人から好かれやすかった面もあるのかもしれないが。

28: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/29(月) 03:54:54 ID:TlpKb0VF
足利が絶えれば吉良が
吉良が絶えれば今川がってなんだったけ?

29: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/29(月) 13:24:32 ID:ZqbbQ0kQ
>>28
征夷大将軍の位/幕府トップの座

30: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/29(月) 16:51:24 ID:/Rpea3Ni
出展の話では?

詳細は不明ながら
御所が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐという、室町期の俗伝

40: 朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA 2007/01/31(水) 00:52:39 ID:8LO8aKtv
「今川家譜」に尊氏の遺言として、
「室町殿ノ御子孫タヘナバ吉良二繼セヨ、吉良モタヘハラ今川二繼セヨト被仰置タリ」
と載せてますですよ。

31: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/29(月) 23:43:48 ID:YHvbfWHG
吉良、今川って三管領家と家格はどっちが上だったんだろう?

32: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/30(火) 09:23:25 ID:mZcOoPm6
>>31
宗家との血の近さなら斯波>吉良=>畠山>細川です、確か
但し、斯波も吉良も義詮の頃に、足利の名乗りを許されなくなりますので、
あまり意味はないかも知れません

幕府内では管領が一番上でしょうね

難しいのは官位的にですが、さらっと調べましたところ
例えば同時代の斯波義淳は従五位下、細川持之は従四位下、
畠山持国は従三位、吉良俊氏は従四位下、今川範忠は従四位下
ここらへんは、試しに他の時代も調べてみては如何でしょうか

33: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/30(火) 13:18:46 ID:oLzoPqdJ
大河(風林火山)では、氏輝と彦五郎なる人物とが同日死亡という説を基にしてるね。

個人的には氏輝=彦五郎説を支持したいが。
名前の記述に違いがあったため、一人の人物が二人の人物と誤認されたという説。
今川 彦五郎

今川 彦五郎(いまがわ ひこごろう)は、戦国時代の人物。今川氏親の次男、今川氏輝の弟。

当主である氏輝と同日に死亡という異様な出来事が記録に残されているにもかかわらず、不明な点の多い人物である。

彦五郎に関する史料はいずれも今川家以外の人物によって記されたものである。今川家側の史料に彦五郎の名を記したものはなく、『今川記』『今川氏系図』には彦五郎の記載はない。

大永6年(1526年)に行われた今川氏親の葬儀には「今川氏親公葬記」という詳細な記録が残されているが、彦五郎が出席して記録に残されてしかるべき状況にも名はない。こうした不可解な状況から、今川義元が家督継承後に記録を書き換え、彦五郎の存在を抹消したという推測さえある。

異説

「今川氏輝の弟・彦五郎」は実在しないという説もある。彦五郎は氏輝(五郎)のことであり、他国に兄弟であるかのように誤って伝聞されたという。

また、氏輝の実子だったとの説もある。



37: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/30(火) 22:58:00 ID:MxWV/oWK
>>33
氏輝の嫡子だった可能性もあるかも。
今川家嫡子なら彦五郎と記録されていてもおかしくない。

34: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/30(火) 20:59:56 ID:5W+qE9dK
たしかに五郎・彦五郎は今川歴代当主の仮名だし
彦五郎(仮)の生年って玄広恵深と同年だから
いろいろごっちゃになったと考えたほうがスマートかも

38: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/30(火) 23:15:28 ID:5W+qE9dK
没年23歳で元服した嫡子がいるというのはちょっと微妙
ギリギリ不可能ではないかもしれんが

39: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/30(火) 23:26:51 ID:MxWV/oWK
幼名が伝わってなくて今川代々の嫡子の名である彦五郎で記録した、
もしくは氏真と同じで幼名が五郎だったのを彦五郎と誤って伝わったとか?
少なくとも弟彦五郎説はないだろうな。

41: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/31(水) 13:49:07 ID:2ixSunJ5
氏輝の名乗りは「五郎」だったと伝わっている。
それは正式には「彦五郎」だったけど、略して「五郎」と称していたため、
記録に混乱が生じたのではなかろうか。

という、割と納得しやすい説ですぜ。

ちなみに幼名は竜王丸らしい。

42: バロン曽志崎 2007/02/01(木) 21:08:32 ID:2gH+jfEe
「為和卿集」
四月十七日氏輝死去廿四歳、同彦五郎同日遠行。

「高白斎記」
[四月]十七日今川氏照(輝)同彦五郎同時ニ死ス。

「妙法寺記」
天文五年、(略)、此年四月十[七]日駿河ノ屋形御兄弟死去被食候。

43: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/02(金) 00:41:16 ID:kPCsFs17
>>42
同時代史料の時点で誤解の余地がないほど弟だな

44: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/03(土) 14:55:55 ID:ZkCNI5oF
これは俺の推測だなんだけどさ、氏輝は病弱か性的不能で子供が作れないことが公知の事実
だったんじゃないのかな。

そこで子が出来ないことを前提に、不測の事態に備えて(今川家は過去にも家督を巡って争いが起きているので)
次の弟を後継者と定め、嫡子の名乗りである「彦五郎」を名乗らせたのでは?


59: 人間七七四年 2007/04/20(金) 19:40:38 ID:nReK5tqA
ちょっとした疑問。

小和田哲男の『今川氏の研究』って本に
「氏輝の遺言としては承芳への相続ということであったらしく」
ってあるんだけど、何が出典になんだろう。

これが本当なら、氏輝はどうして彦五郎を指名しなかったんだ?
彦五郎は氏輝よりちょっと早いタイミングで死んだってことかなあ。

60: 人間七七四年 2007/04/20(金) 21:22:55 ID:/OJ6AezM
あ!本当だ。
氏輝は、北条が祈祷する位だから、急死では無い。
遺言をする時間は有っただろう。二人は同日に死んでいるから、遺言する
時には、まだ彦五郎は生きていたんじゃないだろうか。
となると、氏輝と彦五郎との間の関係は、遺言で指名しないほど悪化して
いたりして。

61: 人間七七四年 2007/04/21(土) 00:59:33 ID:AGNSy3dA
>>60
ありがとうございます。

彦五郎って特異だと思う。寿桂尼の子供としては、扱われ方が異常。
義元は氏輝の7回忌とか13回忌とかやってるけど、彦五郎の存在は
ほとんど無視でしょう。真珠院っていう彼を祀る寺があるようだけど、
花倉の乱に関わったとかで由緒が失われてるらしい。名誉回復?もされて
いないってことだよな。
氏親の葬儀の記録にも名前が見られないみたい。母が先代の正室で、準嫡子とも
目される次男が父親の葬式に出席してないっていうのはおかしな話だ。

彦五郎が実は氏輝より年上の庶長子だったっていう可能性は無い?
もしくは養子。寿桂尼に氏輝以下が生まれたので廃嫡されたとか・・・


確たる根拠は・・・無いんだけどね。。。すんません

62: 人間七七四年 2007/04/21(土) 01:10:10 ID:I5Sf+dna
庶長子で思い出したけど北条新九郎(氏康長男)は正妻今川氏の子供じゃないんだってね
今川彦五郎も本当は先妻の子というのはありうる話かも

63: 人間七七四年 2007/04/21(土) 07:12:16 ID:1JX2cHIF
織田信長の息子のところでもそれはあるものな。
信雄が次男、信孝が三男だが、現実には、信孝の方が信雄よりも
20日生まれたのが早かったと言う説もあるようだからな。
もっともそれには異説も唱えられていて、本当に順番は間違っていない可能性もあるようだが。

64: 人間七七四年 2007/04/21(土) 13:27:23 ID:AGNSy3dA
氏輝って氏親が40歳前後に生まれた子でしょう。
それ以前に本当に誰も男子が居なかったのか、と考えるとどうもねえ。

66: 人間七七四年 2007/04/22(日) 04:04:24 ID:/txUYbvC
>>64
彦五郎(五郎)は今川嫡子の通称だから氏輝と彦五郎を同一人物とする説もある。
二人が同一人物なら氏輝が後継者に指名しなかったことも、同時期に亡くなった不自然さも簡単に説明がつく。

68: 人間七七四年 2007/04/22(日) 14:57:08 ID:lOe+lSvo
>>66
円良寺文書の中にも、彦五郎に当たるとされる「定源院殿」という
人名が見えるようですが、この人物も彦五郎ではないということになって
しまいますよね。

65: 人間七七四年 2007/04/21(土) 21:24:31 ID:YKnoimjv
氏真は、彦五郎に関係有る藤枝円良寺に、寿桂尼の亡くなる数日前に遺言により
書状を出しているので、寿桂尼の子と思っていたけど
先妻(可能性として烏帽子親足利政知に関係有る女性か?)の子という気にもなってきました。

桶狭間の戦いに名が有る、久野氏忠は義元の甥、その父親久野宗衝は江尻城主
江尻親良は今川一族とあり、なんとなく庶子の影が…。

69: 人間七七四年 2007/04/27(金) 09:43:45 ID:RzjNpLU1
死んだという記録だけで、生前はどんな人物だったのかという資料はないの?
>氏輝と同じ日に死んだ彦五郎

70: 人間七七四年 2007/04/28(土) 15:08:40 ID:h5rEJNE7
>>69
無いっぽい。
『高白斎記』『為和集』など極めて当時性が高い日記類の史料には
名前が出てくるのに(でも死亡記事のみ)、『今川記』とか「今川氏系図」
などは彦五郎についてふれていない。特に後者は、普通ならその人となり
を伝えていてもおかしくはない史料だろうに。謎だ。

「彦五郎=○○」という疑念が出てくるのも仕方がない状況ではある。

71: 人間七七四年 2007/05/03(木) 18:31:42 ID:82lFRbIz
一つの説。
・泉奘は、没年から義元の兄にあたる。
・氏親の葬儀に名が無い。
・義元の兄なので、どこかの寺に入れられていただろうに、恵探の居た
 遍照光寺に、天分8年になって始めて入ったとある。
実は玄広恵探は自害していなく。名を象耳泉奘と変え生き残った。

72: 人間七七四年 2007/05/04(金) 18:06:13 ID:yoGG8N2f
>>303
大畑安次っていう人の説らしいな。
小和田哲男氏らは以下のように反論してるみたい。

・恵探=泉奘だとすると、恵探は既に住持をつとめていて泉奘が二度
受戒したことになり、不自然。
・「南山北義見聞私記」の奥書という史料からも、やはり二人は別人
であると思われる。

(『今川氏の研究』P.303)


・・・要約するとこんな感じ。あ~あ全く何が何やらw難しいな

74: 人間七七四年 2007/05/04(金) 23:29:13 ID:+V6mVAW3
>>72
そうなんだけど、泉奘は氏輝が死んだ年には19歳で、義元・恵探と同じく寺
に入っていなかった事に、恵探=泉奘説は捨てがたく思う。

75: 人間七七四年 2007/05/05(土) 19:02:17 ID:kh3+DQWi
成程・・・確かに、年齢を考えるとどうも引っ掛かるものがあるな。

つか密集しすぎだな。6人の男子の年齢差がそれぞれ1歳違いとか2歳違い。
氏親室がもう何人か多く確認されてるならそれも不思議ではないだろうけど
寿桂尼と福島氏しか登場してこないから尚更怪しくなる。どうしても、誰かと
誰かの混同を疑わざるを得なくなるケースだなこの問題って。


せめて寺なんかに入れないで、城主として各地に配置すれば、
人物の記録も残りやすくて、分かりやすかったんだろうけどなあ。
内紛防止の為なのは分かるけどさあ

55: 人間七七四年 2007/03/02(金) 09:03:52 ID:WRCZGGuh
にわかですまん
尼子の新宮党とまではいかなくても大国にはそれを支えた精鋭部隊がいたと思うのですが今川の場合はどうなんでしょうか?
諸外国、家中での評判なりで知られていたのはありますか?
もう少し崩して、例えばいつも先陣はこの部隊だったとかでもいいです。個性で言えば武田の小山田隊は石投げてたとか有名ですよね。
今川を支えた軍事面でのそんな話を聞いてみたいです。
三河勢がいつも先陣やらされてた、水軍を所有していた、朝比奈、朝日奈、岡部このへんが武勇の将なのかな?ぐらいなにわか知識で申し訳ありません。
また、なにか良い本でも紹介して頂けると嬉しいです。

56: 人間七七四年 2007/03/04(日) 09:54:52 ID:3dNYB+cn
精鋭部隊って馬廻衆じゃないかな。
名門今川の名・豊富な資金によって、全国から人材を集めたり、優秀な教育者
に馬廻衆になった重臣達の子弟を育てたりしたと思うから。

飯尾乗連は、いろいろな前線にて軍奉行として指揮いるので、最も信用された
人物だったのかと思う。
他には安祥城攻めで配置されていた朝比奈泰能・鵜殿長持・岡部元信
三浦義就・葛山氏元・松井宗能という将が武勇の将になるのかな。

部隊としては、天野一族が1番だと思う。
87: 人間七七四年 2007/06/20(水) 11:51:22 ID:ciH4jgPb
義元は有能ですが、度重なる外征で家臣団に不満が出始め、桶狭間以後の家臣団の離反の一因を作ったとされている

これは甲斐武田にも同じ事が言える

88: 人間七七四年 2007/06/20(水) 20:54:44 ID:COemyrWq
義元時代の度重なる外征の例を挙げてみてくれ。
義元の外征ってほとんど思いつかん。
防衛戦・制圧戦・共同作戦・威圧進軍ばっかのような気がする。
本格的な外征って永禄三年の尾張侵攻戦ぐらいじゃねーの?

89: 人間七七四年 2007/06/23(土) 18:34:05 ID:L1wBCbNR
・東三河侵攻。
 太原崇孚指揮であっさり進出を果たして片付いたけど。
・第二次河東一乱での出兵。
 第二次は義元側の自発性により、後北条領に対する「外征」ともとれないか。
 (でも、武田軍も出兵した為に単独作戦ではなく「共同作戦」として見做されがち?)

敢えて挙げても、このくらいか。確かに「度重なる」って程多くはないな。

90: 人間七七四年 2007/06/24(日) 01:15:42 ID:wzerezpq
家臣団が不満をもったのは、軍事行動そのものではなく、
「コストに見合う成果が上がらなくなった」、
つまり勝てなくなったからでは?

織田家や豊臣家で、「度重なる外征で家臣団に不満が出た」なんて
話は聞いたことがない。

91: 人間七七四年 2007/06/24(日) 03:07:13 ID:+NY67IOS
それ以前にさ、桶狭間合戦以後離反した今川家臣ってほとんどが三河衆・遠江衆なわけで。
奥平・菅沼・井伊・戸田とかが家康に内通しているが、元々義元時代に戦った連中だし、
離反とかそーゆー話ではない気がするw
こいつら自身、自分らが今川家の家臣だなんて思ってないんじゃないか?w

1568年以降武田信玄が駿河に攻め込んで今川家臣団は崩壊するが、
これを離反ととるのは酷だろう。
確実に離反した今川家臣っていうと、氏真の派遣した兵と戦った飯尾連龍ぐらいか?

92: 人間七七四年 2007/06/25(月) 16:20:09 ID:1vy7IL9H
そもそも、三河・遠江、特に三河に関しては、今川による支配が
安定した時期なんて無いに等しいんじゃないか、とも思えてくるわ。

94: 人間七七四年 2007/06/28(木) 11:00:01 ID:oAsxw6a7
遠州崩れといいバタバタと内応離反する者の数が異常すぎる
それに関わる武田と徳川の挟撃
徳川の独立といい武田侵攻といい今川の力がいまだ健在ならできないわけで
三河へ鎮圧しに行った軍勢も負けてたりと、桶狭間敗戦後氏真は何をしたらよかったんだろね
勝頼のように国力を疲弊してでも外にでて内をまとめようとする力はあったのだろか
疑心暗鬼になったりひいきな家臣を寵愛したりと離反の原因もあるのだけれどもあまりにももろすぎる
にわかなチラシの裏ですいません

95: 人間七七四年 2007/06/29(金) 12:19:31 ID:5wCb4PjZ
何をしても無理
上杉が勢力を結集して城を攻めたが落とせず、以降関東での影響力が減少したように、桶狭間は物凄い痛手

96: 人間七七四年 2007/06/29(金) 23:11:42 ID:9Ac3J9+6
桶狭間は長篠みたいに野戦戦力や多数の中堅指揮官を失った
わけではないから、「物凄い痛手」というは疑問。



98: 人間七七四年 2007/06/30(土) 05:40:35 ID:c99NqjPP
>>96
当主を喪失したのは物凄い痛手じゃないか?
無能な当主が戦死して有能な息子が継ぐパターンじゃなく、
有能な当主が戦死して無能な息子が継ぐパターンだからな・・・。

氏真はひいきの家臣を重用するのはともかくとして、
それ以外の家臣に懲罰を与えるというひどい面があったのが致命的。
数人を駿府に呼びつけて殺害してりゃ、家臣の心も離れるわ。

100: 人間七七四年 2007/06/30(土) 14:52:00 ID:8g60pArg
桶狭間時点で今川家督は既に氏真。特に駿河支配はほぼ氏真に委譲されていたらしい。
一方、三河・遠江の仕置は「大殿」義元が氏真に代行してやっていた状態だったわけで。
氏真による支配が確立されつつあった駿河の混乱が三遠両国に比べて小さかったことを
見るに、三遠の支配についても、義元が氏真の名前で執り行っていれば比較的混乱少なく
済んだんじゃないか?とも思える。朝比奈とか岡部とか、生き残った連中をまとめて
駿河を中心として立て直すことだって出来たかもしれん。結果論に過ぎないが。

でも、義元にしてみればまさか自分が死ぬことになるなんて思ってなかっただろうし、
やむを得ないことかもな。。

101: 人間七七四年 2007/06/30(土) 15:24:31 ID:nkXuPXI2
桶狭間で義元だけじゃなく名だたる国人当主が死に混乱状態
徳川も着々と支配を固めていく中でそれに同調、呼応するように三河や遠州の国人らも叛旗を翻ようとする
氏真も鎮圧に乗り出し成果をあげるも曳馬の飯尾だけはなかなか鎮圧できず
徳川頼りだったが一向宗に忙殺され飯尾は一旦講話する、そして駿河にて氏真は飯尾忙殺に成功
井伊などは徳川内応疑われて等、今川はどんどん体力を失っていく
そして武田の駿河侵攻

102: 人間七七四年 2007/06/30(土) 15:46:27 ID:nkXuPXI2
薩た山に一万五千の兵で迎えうつも瀬名や朝日奈、三浦、葛山らが後退
この辺りが熱いね、氏真の為に奮闘する者と寝返る者が

139: 人間七七四年 2007/07/31(火) 07:25:11 ID:aqx8Q0mK
今川家の忍びてのはなんて呼ばれてたとか、どこの忍びの者てのがわかる方いらっしゃいますか?

140: 人間七七四年 2007/07/31(火) 09:26:50 ID:Fu54A1uf
浅間信仰の御師たちが忍者を兼任してたという話は聞いたことがあるが、
小山田氏との繋がりは有名だけど今川氏とも繋がりがあったかどうかは知らない
ただ今川も浅間社には結構寄進とかしてたから繋がりはあったかもね

144: 人間七七四年 2007/09/02(日) 20:31:15 ID:UsK9BgSg
>>139-140
今川の忍びはなんと呼ばれてたかは明確ではないんだけど
(スッパという話もあることはある)
行っていたのは村山修験者(村山浅間神社/鎮座地_富士宮市村山を
中心に活動していた修験者)と言われている。

図式で言うとこんな感じかと。
【今川】
主/今川氏ー取りまとめ惣領/富士氏ー主な情報収集人/村山修験者(御使)
【武田】
主/武田氏ー取りまとめ惣領/小山田氏ー主な情報収集人/北口修験者(御使)

147: 人間七七四年 2007/09/04(火) 18:48:00 ID:LE21BacB
>>144 
地元富士だけど村山よりもう少し東側の大渕の上の方や今宮あたりは 
武田滅亡後家臣が落ち延びて開墾した場所と言われていて 
それにちなんだ町名もあるよ。確定ではないけどその家臣は 
小山田や秋山関係者という話もある。 
昔の富士山麓は今と違って大宮の富士氏を中心として 
浅間神社独自のネットワークが充実してたともいうから 
案外時には小山田が村山の逆に富士が北口のと情報共有して 
おいしいところどりをしていたかもしれんよ。

148: 人間七七四年 2007/09/06(木) 13:38:23 ID:DnV6ryFq
花倉の乱で寿桂尼が恵探派だったという説については皆さんどう思いますか。
『静岡県史 通史編2 中世』(1997年)を最近読んでびっくりしました。

引用すると
「従来寿桂尼は義元の実母という立場から雪斎と並んで義元擁立派の中心的な存在と思われて来た。ところが近年、武田方で記された『高白斎記』の中の「氏照(輝)の老母、福島越前守の宿所へ行く、花蔵と同心して」という記述と、岡部親綱が義元から受けた感状に書き添えた「大上様(寿桂尼)、御注書(義元の感状には「住書」とある)を取り、花蔵へ参りなされ候」という文言などから、寿桂尼は恵探派についていたとする見解が示されている(有光友學「今川義元の生涯」『静岡県史研究』九号)。これに対して、「同心して」の文言は「味方して」ではなく、「妥協が成って」と解釈し、寿桂尼が合戦を回避するために恵探派に妥協案(注書)を持ち寄ったのであろうとの反論もある(小和田哲男「『花蔵ト同心シテ』をどう読むか」『静岡県地域史研究会報』七六)。
わずかな文言の解釈をめぐる大きな論叢であるが、武田方の日記と、今川方の感状と添え書き、という異なった性格の史料でありながら、それぞれ文言を字義通りに読めば有光説の通りとなろう。ことが義元の生母の動向に関するだけに、これが事実だとしたら花蔵の乱は、より根の深いところから生じた今川家の内訌となるわけだが、現段階では寿桂尼が恵探派に与さなければならなかった理由を明らかにすることはできず、今後の大きな課題となっている」
(県史799頁、前田利久氏執筆)

確かに文言からいえば同心は味方という意味だとは思うんですが、彦五郎が死んだのも
事情が不明な上にこの謎が加わっては解明は不可能?

150: 人間七七四年 2007/09/07(金) 21:47:00 ID:L0p0iRYp
同心を普通に読めばいいと思う。
氏輝・彦五郎を殺して、家督を手に入れようとした義元を許せなかった。
こんな理由じゃないかな。

151: 人間七七四年 2007/09/08(土) 11:39:32 ID:MgHSfZDW
義元が氏輝と彦五郎を殺したと。
確かに一番の受益者ですが、氏輝は北条が平愈の祈祷をしているから急死ではないので
氏輝まで含めるのはどうか。『静岡県史』では氏輝時代の花押が同時期でも形が揺れている
ことから、(花押も書けずに代筆させたなどで)氏輝はやはり病気だったんじゃないかという
説を紹介しています。

152: 人間七七四年 2007/09/08(土) 12:52:26 ID:OBllxkVm
それじゃ氏輝は抜いて、彦五郎だけ殺して、家督を手に入れようとしたという事で。
だが、義元は、後の行動を見ると兄氏輝を歯がゆく見ていたと思うな。

153: 人間七七四年 2007/09/08(土) 18:47:03 ID:QiEjsED6
氏輝と義元で、今川家の対外政策は大きく変化しているからね。

154: 人間七七四年 2007/09/08(土) 21:10:38 ID:Xl3d72Rw
でも寿桂尼が反義元派に組するような、義元派が氏輝を(または彦五郎のみでも)殺したと周囲がはっきり認識するような事件があったら
記録に残っているんじゃないのかな?

当時の感覚からしたら(周辺諸国での記録も含めて)義元の名前を無理に隠蔽する必要はない気もします。
親子兄弟での家督争いはめずらしくない時代だし。


155: 人間七七四年 2007/09/08(土) 22:42:41 ID:OBllxkVm
国が病死ですと公式発表したら、今でも逆の証拠を見つけるのは難しい。
同心と残っている記録の読み方で意味が分かれるんだよね。
僧という立場の人間が、兄を殺す事はめずらしいことだろうか。

158: 人間七七四年 2007/09/09(日) 09:14:09 ID:KL8xwXOI
>>155
国内なら公式記録上は隠すことは不可能ではないと思うんだけど。
日記の記述や、国外への情報流出を完全に防げるかな?
武田信玄の病死の噂があっという間に信長の耳に入ったように。
恵探派である福島氏の残党は北条氏に保護されているわけだし、国外に情報は流れておかしくない。

それにその当時は隠したとしても、事実を知っている人間が義元死後に口を開くってこともありえる。
義元敗死は兄殺しの因果応報なんて風に、坊さんや徳川氏あたりが大喜びで宣伝しそう。
まあ逆に考えると生母がはっきりと反対派に付いたなんて事実があれば、それも記録されているでしょうね。
恵探派からすれば、寿桂尼の支持は大義名分として大いに利用できるはず。



159: 人間七七四年 2007/09/09(日) 11:22:37 ID:bkUFWlyo
彦五郎の場合、暗殺が考えられるが、事実を知るのは、ほんの一部の人間
だろうから、寿桂尼が口を開かなければ残らないだろう。

恵探派が大義名分を使う前に、1ヶ月足らずで鎮圧されたんだともいえる。

完全には防げないから、同心という記録が残っているんだろうね。
ただ、今川家の場合、父親氏親が、先代小鹿氏10数年の長い記録を、
国内・国外問わず、完全に近いほど抹殺している実績が有る。

161: 人間七七四年 2007/10/11(木) 01:28:28 ID:HzmBeWdw
えたんが、勝ってたら、その後の今川家の運命はかわってた?

162: 人間七七四年 2007/10/20(土) 17:22:12 ID:G40tJY11
義元はなかなかの武将だから、よくは変わらないかもね

引用元: ・【名門】戦国今川氏を語る【花倉の乱】

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