31pibfqNg+L


1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/09/15(水) 23:14:02 ID:qSfHzdMS0
佐賀のエース








6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/09/17(金) 04:29:43 ID:tqujAYDU0
個人的に、江藤が司法卿で副島が外務卿だった頃の、いわば西郷内閣が日本憲政史上最良の内閣だと思う。
政変後の大久保のも良いけど、筋が通らない事を多くやってるから好きになれない。

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/09/26(日) 21:04:45 ID:o/wamf3C0
副島の書は凄い

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/10/01(金) 21:26:45 ID:mi0pD4xM0
>>8
ちなみに、佐賀新聞の題字は副島種臣書。

156: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/09(土) 03:04:08.42 ID:sP1Nuu4v0
江藤新平
切れ者だったのは確か(だからこそ下級武士から参議まで昇りつめた)
ただその後の政治行動は猛烈な権力志向のせいか目的を失った
もう少しバランスがとれてれば・・・

157: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/09(土) 12:28:20.92 ID:faDpJI720
しかしまぁ、自分の仕事に邁進する官僚としては極めて優秀だったな

158: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/09(土) 14:22:57.49 ID:ufP/HT5s0
>>157
明治初期の政治家は事務手腕も辣腕家揃いだったな。

172: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/29(金) 18:15:14.75 ID:HNeYGs8o0
明治期の民法典論争をみる限り、
江藤新平が失脚しなかったとしても、
フランス式民法が当時の日本で施行するのは難しいかったんじゃないか?
やたら日本の伝統とやらにこだわる保守派が
政府内や議員(衆議院・貴族院両方)に多かったから。
山田顕義もそれが原因で法典論争で負かされたし。

173: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/30(土) 05:24:14.87 ID:YtlMEMpN0
江藤は仏民法典をほぼ直訳させたんだよ。
一方で大木=ボアソナードは国情調査を重ねて日本の慣習に適合的なものを作った。

174: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/30(土) 09:43:46.38 ID:3V5OhNOq0
江藤は、仏法典をとりあえず直訳させ、翻訳し終えたものを順に論議して
日本に適合する形にして施行って流れで作業してなかったか?

近代法が無いところへ一刻も早く近代法を持ち込もうとしたから、
重要なものは達しという形で施行していたし。

175: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/03(水) 08:15:06.70 ID:DpkANWfc0
日本に適合と言っても、地方ごと、天領と藩領で慣習が違ったからね。そこは調査が必要だったと思う。
一方で手続法や管轄に関しては「達し」が威力を発揮した。

就任直後のマリア・ルス号事件でも小野組転籍事件でも、管轄の問題を江藤は重視している。

183: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/21(日) 02:02:33.74 ID:CbPKmW5b0
江藤は実務官僚としては当時屈指
実績により政策を策定する参議にまで出世
この頃からそれまで目立たなかった別の面(極端な権力志向)が現われる
山縣など政敵の失脚を狙った汚職摘発(理屈は正しくても主たる目的が前者なのがあきらか)
征韓論に組したが西郷のように士族救済というよりは権力維持のためという色彩が濃厚

下野後不平士族を宥めるというよりはむしろ利用しようとしてる
西郷にその辺を見抜かれ同盟は不調
ここまで来れば後は奈落の底

能力を考えればちょっと残念だが結局は自業自得だろう

185: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/21(日) 14:17:22.12 ID:/MGp56LE0
>>183
ひょっとして釣り?

>山縣など政敵の失脚を狙った汚職摘発(理屈は正しくても主たる目的が前者なのがあきらか)

山県の山城屋事件は山城屋和助がパリで公金を使い込んで豪遊をしているという現地の噂を
外務省筋で入手した情報を元に、捜査が始まった事件であり、失脚を狙って始めた操作ではない。

井上の尾去沢銅山事件は、鍵屋茂兵衛から職権を使って不当に取り上げて私物化したところ、
鍵屋が”司法省達第46号”の存在を知って司法省へ直訴して捜査が始まった。

双方とも、結果的に失脚するしかなかっただけで、失脚を目的に捜査をしたわけではない。
現在の価値で言えば数兆円の使い込みなので徹底追求されて然るべき事案。


>征韓論に組したが西郷のように士族救済というよりは権力維持のためという色彩が濃厚

征韓論は、征韓派とされる面々は、板垣以外は外交の非礼を糺すというスタンスであり、
会議では誰も出兵には言及していないので、元から士族救済という論陣は張られていない。


>下野後不平士族を宥めるというよりはむしろ利用しようとしてる

佐賀の乱は、江藤と島で佐賀士族は沈静化しかけていたが、大久保が派遣した新県令の
岩村高俊の挑発によって暴発する形で始まったものであり、利用云々は論外。

そもそも、江藤は逆に、反乱の首領に担ぎ上げられることを警戒して、佐賀の乱の5日前まで
長崎でブラブラと遊びながら過ごしている。


>西郷にその辺を見抜かれ同盟は不調

見抜かれるも何も、西郷は江藤を助ける策を授けるが、江藤が受け入れなかったので決裂しただけ。
法的にも、常識的にも、江藤が捕まれば東京へ連れて行かれ天皇の裁断を待つことになるはずだったので、
まさか佐賀で不法に処刑されるとは思ってなかっただろう。

189: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/23(火) 10:12:43.98 ID:fGvREcMq0
『洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新』(刑部芳則 著 講談社選書メチエ 2010年)より
明治三年、兵部省では山田顕義らが軍制・軍旗・軍服などを検討。
機能性を重視した洋風軍服案を提出すると、江藤新平(制度取調掛)が大反対。
江藤の下で古代官服を参考に考案された軍服は近代軍制には不向きなため、
結局洋服が採用される。

ちなみに江藤の下で考案された軍服は、
乗馬した際にすぐビリッと破れてしまうような非常に脆い代物だったらしい。

190: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/23(火) 13:05:48.55 ID:LI07t7Yu0
明治初頭は軍人がちゃんと高官にお伺いををたてる時代だったんだな

191: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/23(火) 19:16:14.17 ID:fGvREcMq0
>>190
野党だった立憲政友会が当時与党だった立憲民政党政権を打倒する政争の道具に
「統帥権干犯問題」を持ち出すまでは一応シビリアンコントロールの形は取れていた。
何も明治初期に限ったことではない。

それにしても江藤って、軍事関係にはあまり関心がなかったのかな。
実際に戦闘することを考えれば、動きやすい洋式軍服を選択することは
別に間違っていないだろうに。

193: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/23(火) 22:16:01.36 ID:MmUIBswh0
>>189の書籍は妙だな。

佐賀藩士は洋式軍隊の訓練を受けていて、佐賀出身者は洋式軍備推進論者だった。
特に江藤は、明治維新の12年も前から、洋式軍隊を強化してロシアの南下に備えろって言ってる。

今度立ち読みしてみよ~

195: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/23(火) 23:31:56.18 ID:L1Vf8QoF0
洋式軍隊=洋装 ではないじゃん。薩長の兵だって服装はばらばらっしょ。
それに江藤自身が和服で通した人じゃなかった?

198: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/24(水) 20:30:51.02 ID:jCrwOsZ70
>>195

江藤が和服で通したのは和服というポリシーじゃなく、洋服の古着が存在しなかったからでしょ?

洋装だと服だけでとんでもなく費用がかかるって事で反対だったんじゃない?
まだ小学校すら整備されてない時だったし。

199: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/25(木) 01:14:18.22 ID:c5HjUNRL0
>>198
>洋服の古着が存在しなかったからでしょ?

実に納得できるな~by佐賀市民
もともと手明鑓だもんな。

あれほどの功績があった鋳立方(反射炉)の賢人(手明鑓or手明鑓格)たちも
ほとんどは行賞の上で「一代侍」
実質的な技術主任の職人たちは「一代手明鑓」

維新後、地元にとって益が無かったのは、
副島も大木も大隈も皆一緒…
佐野は問題外…


197: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/24(水) 12:44:57.31 ID:4iTTmmmv0
デザインの細部まで江藤が関わってるわけないだろ
生地変えれば和装でも代替可能だと普通思う

200: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/25(木) 07:13:21.26 ID:P5K0KYef0
日本国内に西洋の『洋』服が殆ど無いって意味だろ

202: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/25(木) 23:17:58.06 ID:6u7gnwTq0
形を整えなければ相手(列強)が対等と納得しないというのも世の常なわけで

203: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/25(木) 23:32:30.77 ID:Y2h8Q3aF0
形変えたって納得なんてしないのが世の常
日本が対等に条約改正に持ってけたのは全部軍事力によって
すべて戦争の効用によるもの

204: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/25(木) 23:52:39.03 ID:6u7gnwTq0
そうでもない
西洋には西洋文明こそ品格だという意識があった

217: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/09/24(土) 10:02:35.73 ID:7KAiw94/0
→参照『昭和史の辞典』(東京堂出版)
P.8 「天皇機関説排撃事件」より抜粋
「1934年2月、第65回議会において貴族院議員菊地武夫が
美濃部の著書『憲法撮要』を反国体的学説であると攻撃した。
翌35年の第67回議会でも衆議院で江藤源九郎が
美濃部の著書発禁を政府に迫り、
貴族院でも再び菊池が政府の処置を正した。」

この衆議院議員の江藤源九郎という人物は、江藤の実の甥。
親族は一体この男にどんな教育を施していたんだ?

218: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/09/24(土) 13:10:57.86 ID:nzkUVFUx0
>>217

戦前の政治体制で天皇に主権は無いとかいう主張を出版をすれば、
そりゃ非難されたり発禁されても仕方ないと思うが。

219: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/09/24(土) 17:49:32.06 ID:yDZgIrMj0
しかし大正デモクラシー華やかなりし時は、普通に天皇機関説が
受け入れられて学会の主流になっていたんじゃなかったか。
対する天皇主権説派が、穂積八束―上杉慎吉の庇護者だった
山県有朋=文武官僚が分裂したり政党政治の隆盛で退潮気味だったのが
有利に働いていたにせよ。

223: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/07(金) 05:54:22.30 ID:JjghvjF10
>>219
菊池・江藤とも陸士出身で昭和初期の陸軍軍縮の時期に退役したんでしょ。
帝大出の受験通説なんてまったく無縁だよ…
今でも東大の憲法の先生の学説なんか、防大では教えないでしょ。政府答弁は教えるけど

226: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/08(土) 05:41:07.76 ID:P22SHIo80
江藤の甥は当時、陸軍出身のうざい政治家としてそんな変な人ではないが、
江藤の孫(冬雄、夏雄)の子が2人とも自衛官と言うのが変な感じ(夏雄も防衛次官だし)
夏雄は普通に五高帝大満鉄入社なんだけど、満州国時代に変な方向に染まったか?

228: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/12(水) 12:01:44.35 ID:gwQD4wcx0
やっぱ江藤家は政界に打って出たいタイプが多かったのかな。
民権運動もやってるし、官僚できちんと勤め上げるタイプじゃないよね。

231: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/15(土) 20:46:24.64 ID:4qzz3qyH0
司馬遼太郎著/『歳月』の中の佐賀の三平って
江藤新平と大木と大隈だっけ?
歳月の序章で桂・伊藤と別れて山陽道へ西へ下ってゆく江藤を描いた記述で
夜遅く行灯を引き寄せ伏せりつつ書き物をして朝早く宿所を出立し
京都見聞記を書き上げつつ精力的に度を重ね佐賀藩へ帰って行く江藤

いつの時代にも天分というか仕事(何事か)を為す為に生まれ精力的に生きて動く人間がいるんだと
江藤氏の生き様を見て感じる

232: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/15(土) 21:19:52.85 ID:uSZcL2aq0
>>231
古賀定雄
維新前は古賀一平と称し、大木喬任(民平)、江藤新平とともに“佐賀の三平”と呼ばれた。
早くから勤王を唱え、藩の幹部から嫌われた。

237: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/16(日) 15:53:27.74 ID:mO4HRuM80
江藤が土佐の林有造宅を門下生と入説に訪れ不調に終わり
さて、土佐を去る場面で江藤が船田に向かい「こんな詩を知っているか?
 3月の雨は六朝の涙に似たり」~「歳月」

もちろんその場で江藤が船田とこんな会話を交わしたなんて事実は史料を漁っても当然分からないであろうし司馬氏の想像の賜物であろうが 読んでて江藤氏に感情移入しかけた
薩摩、土佐との連携が失敗に終わり伊予、徳島の山中の険路を難儀しながら逃避行を続ける江藤読んでてドキドキが止まりませんでした。

240: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/16(日) 19:10:53.75 ID:fPAcZO1V0
司馬さんの歳月を読むと前半部分は江藤氏の溢れんばかりの天分と精力
そして卑賤の身分に生まれた為に藩の要職に就けず己の才を発揮できない氏のもどかしさへの
惜しみない賛賞と溢れんばかりの愛情を注いで記述をしているよう読み取れる

後半一転して大久保が登場する章から雲行きが怪しくなり最後は皆さんご存知の結末
司馬氏が焦点を当てて(例えフィクションであれ)作品にまとめあげ江藤氏という才人が幕末に存在し
日本近代史において光芒を放ったという印象を読者に与えた影響は大きいと思う
自分も恥ずかしながら司馬氏の歳月を読むまで江藤氏については殆ど知識を持ち合わせていませんでした

「皇天后土の我が心を知るあるのみ」三度叫んだ
史料に残された最後の叫びを記し静かに幕を引くような終章の記述も印象的でした。
歳月感想レスになってしまい申し訳ありません、偉大な政治家だったと想像します。

241: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/16(日) 20:16:18.51 ID:SApfssfw0
個人的には、江藤は政治家でなく官僚であれば大成したと思うなぁ。
政敵だった井上と同じ方向性で政治家に向いてない。
無用に敵を作るというか、人によって好悪が極端に分かれるという点で。

243: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/17(月) 11:40:10.58 ID:N6Ic0fo20
大久保って江藤と仲良かったほうなんだけど?
江藤への恨みがあるとしたら予算問題くらいだろう

245: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/17(月) 18:26:31.92 ID:Nba/BK9B0
征韓論をテコに盟友の西郷を担ぎ薩長閥分断謀ろうとしたから憎まれてやられたんだろ。

247: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/18(火) 02:48:19.51 ID:pxbnb4lt0
>>245
西郷を担いで薩長を分断しようとした痕跡ってあるか?
江藤的には、朝鮮の度重なる非礼と横暴を、新政府最大の実力者である西郷が直接赴いて
双方のわだかまりを解消してくると言ったら、賛成はしても反対する方がおかしいと思っただろうな。

現代で例えれば、竹島問題を高い支持率の総理大臣が直接乗り込んでいくのと同じ。
内治派は、何も言わず突然の武力行使をしたという事実もある。

246: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/18(火) 02:26:13.03 ID:Thzz/FWC0
征韓論を利用して薩長閥の分断とか、歳月の影響じゃない?

史実はどうなの?歳月で描かれてるような私怨というか個人的な感情なんて大久保が抱いたのかね?
そんなに器の小さい人間が事実上の宰相;内務卿なんてなる?
江藤氏だって貧しい身分から出世したんでしょ 司馬先生の作品は読み物として面白いし
フィクションと理解してるが 不仲だったのかな?
大臣(卿)級の人間が些細な感情論でぶつかる?
政策についての異見ならまだ分かるが

248: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/18(火) 03:08:37.35 ID:fr6XaR6+0
いや~江藤は大久保に頼まれて国家機関の草案作ったりしてるし、
第一司法卿就任は留守政府との約定違反なんだが井上が独断で推薦したとも思えない
大蔵卿の大久保の黙認があるでしょ。大久保が驚いたのは江藤が大蔵省から予算分捕って、
しかも内務省に入れるはずだった警察まで司法省に所属すると言う留守政府の混乱だろう

佐賀の乱の時の大久保の反応はいまいち分からないね、憎かったのか警戒し過ぎたのか
明治6年政変では大久保が失脚する寸前まで行って、その僅か3か月後でしょ
それまでも士族の反乱謀議や暗殺事件はあったが、
参議まで務めた江藤のような大物が四大雄藩の1つ佐賀藩に下るので警戒感を高めたのかも
梟首じたいは雲井の事件の時にもやってるよ

249: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/18(火) 04:09:27.60 ID:Thzz/FWC0
江藤が憎かったという理由からではなく前参議が下野して
藩士を扇動して乱を起こされんじゃ国家政府にとって危険だから
大袈裟に罰して薩摩藩と西郷党の者達への警告としたのかも

253: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/18(火) 22:53:54.19 ID:pxbnb4lt0
>>249

それなら、わざわざ大久保が手をまわして、沈静化していた佐賀士族を挑発するのはおかしいし、
反乱を起こす前に討伐軍編成を済ませて向かわせてたのはもっとおかしい。

261: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/08(火) 01:37:55.46 ID:sx7JKuw20
江藤は海外留学したかっただろうな。
最後に佐賀の乱を起こすかどうかはともかく、本人の希望通りフランスに留学してたらどうなってたか。
見て見たかった。

263: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/11(金) 05:56:20.22 ID:ijRU5Vya0
とりあえず江藤に司法卿推挙の時の約束通り岩倉使節団の後を追わせておけばよかったんだよ。
でも江藤のことだからどっちにしても大隈と一緒に辞めたな。
自由党コースで学校創立とかじゃない?その過程で決起しないことを祈るのみだが

管轄権とかすぐさま理解できる能力は凄いけど、
法律家とか司法官僚と言う感じではないんだよね。どっちかと言うと法制局長官。

266: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/12/07(水) 23:24:59.22 ID:1bnGoGjE0
幕末維新の志士江藤新平(1834-74年)が、佐賀藩を脱藩した罪で
謹慎中に、実際は藩主鍋島直正の意を受け、藩外で調査活動をしていたことを
示す政策意見書「急務囈言」を、大阪市立大の毛利敏彦名誉教授が発見、
11日、佐賀市で発表した。
意見書で江藤は、幕府による「長州出兵」の失敗を鋭く予言。これまで謹慎中の
動静はほとんど分かっていなかったが、毛利教授は、実態は藩主直属の特命調査
役だった可能性もあるとみている。
江藤は62年、28歳で脱藩し、京都で尊王攘夷(じょうい)運動に加わったが、
数カ月後に佐賀に帰り閉居を命じられた。
意見書は、64年9月に作成。江藤のひ孫の江藤茂国さん(73)宅=佐賀市=
に所蔵されていた。藩主あてとみられ、「帰寧」(無事帰った)や「又々山
(謹慎中の寺)ニ帰レリ」など、長期にわたり、繰り返し藩外での調査に当たった
表現がある。

引用
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040411-00000086-kyodo-soci
※リンク切れ

おそるべき真実!江藤新平は007だった!

268: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/12/08(木) 22:20:10.70 ID:k/gehet30
>>266

新平さんの弟源作の孫の著作で、新平が蟄居中に長崎や熊本に頻繁に行っていたそうなという事を書いてたよ。

313: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/01/07(土) 08:37:23.84 ID:jhxnqtDh0
司馬氏の歳月作中の記述で土佐藩を入説に訪れるも失敗に終わるとあるが
下野する前に江戸や京都で林有造と江藤は個人的に面識はあったのですか?

314: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/01/07(土) 10:41:44.85 ID:rLvCH6jS0
参事として上京したりはしてるけど、江藤との関係が深まったのは帰郷の際の同行で、
それまでは板垣を介してのものにすぎなかったんじゃないかな…

315: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/01/07(土) 19:17:19.04 ID:cx+XL4eO0
司馬さんのは作品でエンターテインメントなのは理解しつつも
作中の西へ下る船中で江藤に「土佐も(薩摩が立ち上がれば)呼応します」
と半ば焚きつけるように発言しておきながら江藤が伊予の山中を難儀しながら土佐城下に辿り着くも冷たく突き放す  
江藤氏の語録「南海の男児あに役に背くものならんや」
この喩えが虚しく響く冷たい林有造の連携拒否の仕打ちでした

317: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/01/08(日) 13:25:28.71 ID:ZHElSRYj0
むしろ佐賀の乱に関しては林・西郷会談での西郷の薩摩独善主義的発想が目につくが

318: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/01/08(日) 22:46:57.20 ID:5CrxfQn30
あの時点での薩摩の実働組織たる私学校党の若手連中はどう考えていたんだろう?
この時点で独善主義ってあったのかな?
西郷が鈍重なだけだった気がするが。

319: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/01/10(火) 02:07:56.13 ID:uGNZJUCY0
林は会談の最中に明らかにそう捉えていたようだな。薩摩だけで足りるという発想だと
だから江藤に西郷は動かないから注意しろと言った

まるで関係ない話だが、司法卿就任直後のマリアルス号事件で、
副島の外務省と江藤の司法省が管轄を奪い合ったというのは間違いなんだな
まだ神奈川県裁判所の発足前だから

320: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/01/11(水) 09:33:17.38 ID:Bc6EXVmU0
派閥大好きな薩摩人のことだから、
佐賀閥ざまぁ、ぐらいに思っていたかもしれないw

321: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/01/11(水) 18:10:05.48 ID:6h4wzLdT0
そもそも維新後の佐賀藩に「閥」は無い。
長州みたいに固まってる訳でもなく、土佐みたいに自由民権運動に走った訳でも無い。

所詮は、鍋島直正のカネと権力目当てで滑り込みセーフで新政府に入った藩だし。

345: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/03/13(火) 18:44:10.38 ID:iRwvC5lh0
大久保が死んだ後すぐに副島を政府へ戻す動きは無かったのかな

346: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/03/18(日) 23:24:11.89 ID:A+CbagXRO
大久保が暗殺される前も副島を政界に戻そうとした動きはあったけど本人が拒否したんでそ

355: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/05/18(金) 16:07:23.05 ID:pJsyHmGD0
大久保に意見を求められたり一定の敬意を表されていた副島
意見がぶつかり感情的にも(?相性が悪かった江藤(対大久保
江藤と大久保の対立、江藤下野、鎮西の乱により断罪は歴史的にも残念でした
江藤が大久保とうまく折り合いをつけ政府の大官として政策立案、日本を正しく牽引できていれば
歴史はもう少し変わった。。。かな(?

356: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/05/21(月) 09:15:50.40 ID:mNhsXOI00
>>355

江藤が大久保に感情的になったのは征韓論争か、大久保の一の秘策後じゃないかなぁ。
最初の遷都論争からずっと、大久保案に対して反論としての江藤案に、大久保が一言も言い返せなかったり、
江藤案を大久保と連名で提出したりで、大久保の方が、屈辱感で感情的になってた可能性が高いと思う。
日記の江藤を江東とわざと誤字してるのもあるしね。

で、多分、二人が折り合うことは無かったんじゃないかな。
政体に対しての基本の考え方がまるで違う。

357: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/05/25(金) 22:00:11.02 ID:YI+ZdDGp0
大村益次郎のスレ見てたら江藤氏と大村氏がちょっとだけ喋ったか、接点あったみたいなレス見つけたが官軍が江戸を攻める時の参謀に誰が適任か?との桂小五郎からの問いかけに「貴藩の大村である」って江藤氏が推薦したってのは(この件りは司馬遼太郎著『歳月』にも出てくるっけな)、推薦したのは史実でしょうか?
合理性と「才能」を重んじる両名が互いを認めていたとしたら面白いしどのような交流、会話がなされたのか(もし接点が本当にあったとしたらの仮定で)興味がアリマス

361: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/08/23(木) 02:51:57.79 ID:U+8OguSX0
>>357
木戸、岩倉、三条、後藤などに比べると接点は少ないと思われます。
大村の推薦じたいは、江藤に限らず江戸の実情を見聞して危機感を抱いた人間はみんなしたのでは?

362: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/08/27(月) 23:27:09.33 ID:9zTcNMk/0
大村益次郎との交流といったら適塾で同門の佐野常民の方が深いんじゃないか、歳も近いし
大村が暗殺されなかったら佐野も兵部省に残っていたと思う

371: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/05/03(金) 09:56:16.11 ID:AWSCvKBX0
木戸と江藤って交流のほうはどうだったのか
詳しく知りたいな

377: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/06/12(水) 21:13:59.44 ID:2MAOANEb0
木戸は表立って江藤を支持こそしないが、江藤が関与した国法制定、司法省時代の小野組転籍事件と、側面支援に回ってる(憲法制定は政変前の明治6年7月に強く主張してる)ので、かなり関係深かったろうな
江藤がいちばん仲良かった元勲は、たぶん左院の時にコンビ組んでた後藤とかだろうけど

397: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/06/18(水) 13:12:47.70 ID:jDW8m1wR0
逆説の日本史に佐賀藩は軍事力技術力経済力ずば抜けてたと書いてあったが技術力
軍事力はわかるが経済力って特別に突出してたの?
あと鍋島直正が佐幕尊皇公武合体に対していずれも距離を取ったがこれの理由は何なの?
あと京都での政争には守護職要請以外なんで関わらなかったの

398: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/06/20(金) 05:13:17.91 ID:qsf5grxi0
明治初年で人口40万で90万石、同60万人で98万石の山口藩と並ぶ高だったとされる
税収が20万石少々で、3~4割取るのが普通だった全国平均より軽い
ただし広島や徳島のように人口比で実高が少ない藩もあるため
生り物に広く課税してた可能性はある

402: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/07/01(火) 13:40:46.17 ID:wlbl+wBu0
>>398
佐賀藩は直大パパのカンソウがだいぶ経済改革したんだよね
それでも3支藩と龍造寺子孫の親類同格4家が相当領地を持ってて藩の財政を逼迫してたらしいけど特に親類同格の家は参勤交代もないから相当な経済的余裕を有して、佐賀城内の邸宅も大きかったらしい
ただ今でも米どころとして有名だし、気候は落ち着いているし、幕末にはクリークも発達していて、表高よりも相当の実高があったであろうことは予測される

ちなみに多久鍋島家の家臣が皇后陛下のご母堂様のお里で、佐賀鍋島家出身の梨本伊都子妃と松平信子女史(娘は秩父宮勢津子妃)がご結婚反対の急先鋒だったりして、龍造寺と鍋島の軋轢がここで再燃していたりする、と言われている
明治期以降鍋島家は華麗なる一族となっているからね
宮中にも親戚たくさん
微妙にスレチ失礼

408: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/07/23(水) 14:25:49.84 ID:4XvxJfci0
藩主の実入りが少ないって言われる佐賀本藩だけど鍋島侯爵家は大名華族の中でも屈指の資産家よね
いつの間にそういう事になったんだ

416: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/07/29(火) 18:35:34.82 ID:qDoVqVVy0
>>408
そうなんだよね。まあ藩全体の実高が高かったということなのかな。
薩長土肥の一角を占める維新の雄藩であることは間違いないから、秩禄処分やら金禄公債は有利に判定されているはず
鍋島侯爵家の資産関係は関心を持って調べてみたけど、実際の所、明治中期くらいまではよく分からない。
ただ日本全体がとても裕福になっていこうとしている所だから、よっぽどの騒動に巻き込まれない限り、
造船鉄道金融などへの堅実な投資と、不動産運用だけで相当な資産が形成されるはず。
大名屋敷が空地になって東京の治安が懸念されるようになり、結局払い下げて、多くの大名華族が東京の大地主になったりしてるからね
それで鍋島家は松濤一帯10万坪を取得したとか。

鍋島家の資産は、ピーク時には永田町の本邸、松濤の別邸(鍋島農園)、那須の牧場、大磯と日光の別邸、
東京市都心や横浜の不動産、膨大な株式や公債などに加えて、佐賀資産として現佐賀市民会館にあった佐賀国許邸、
および広大な農地(農民救済のため取得)、佐賀資本への投資など。
相当な資産家だった。

414: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/07/26(土) 16:06:39.04 ID:hQ4jZ7MV0
江藤って留学前提で司法卿就任を受けて(ほぼ確実)、司法職務定制が裁可された8月に渡欧準備してるのに
何でその後ズルズル国内に残ってたんだかな。
マリアルス号事件の船長が起こした訴訟の処理も8月14日には終わってるし、
ペルー側の抗議は翌年3月だから喫緊の案件はないよね
江藤研究を見てもそのあたりの説明がよく分からないが、結局司法省の整備に夢中になってしまったのだろうか

415: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/07/26(土) 16:49:36.24 ID:IQ9BO+ns0
>>414

何回かあった江藤の渡欧チャンスは、事毎に三条か岩倉のどちらかもしくは木戸が、政府に実務家がいなくなる事を憂慮して引き留めてた。

渡欧というか、政府や東京から離れるときは必ず引き留めたという方が適切かな。
政変後の佐賀帰郷の引き留めは誰も間に合わなかったけど。

引用元: ・江藤新平・副島種臣と佐賀藩

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