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1: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 18:42:16 ID:TCnq4ay1
武田、北条軍を何度も撃退し
『上州の黄班』と呼ばれた上野の名将と、その家臣団について語っていこう。







長野 業正

長野 業正(ながの なりまさ)は、戦国時代の武将。上野国箕輪城主。

延徳3年(1491年)、長野憲業または長野信業、もしくは長野方業の子として生まれる。一説に生年は明応8年(1499年)とも言われ、また、憲業と信業は同一人物だとも兄弟だともされるがはっきりとしたことは分かっていない。長野氏は上野西部の豪族であり、関東管領・山内上杉家に属する勢力であった。

天文16年(1547年)、軍記物によれば笠原清繁への救援に出ようとする憲政を諌めたが聞き入れられず、業正が参加しなかった笛吹峠の戦いで憲政は信玄に敗北したと伝える。古文書類からも業正はこの戦いに不参加だったとみられるほか、武田信玄から業正へ内応の誘いもあり、この時期に業正と主君上杉憲政との間は微妙であったとみられる。

天文21年(1552年)、御嶽城が落ちて武蔵国を憲政が完全に失うと、箕輪長野氏は西上州の諸将とともに憲政から離反している。これにより憲政の馬廻衆も離反し、憲政は居城平井城を退去して沼田氏など上杉方の勢力が強い上野国北部へ逃れることになる。

江戸以降の軍記物では、天文20年(1551年)に憲政が越後に逃れたが、業正は上杉家に義理を立て北条氏には従わず、翌年に長尾景虎(上杉謙信)が上野に援軍として来るまで持ちこたえたという。その後も弘治3年(1557年)から甲斐国の武田信玄が西上野侵攻を開始すると、業正はただちに上野国人衆を糾合して2万余の大軍を編成。瓶尻において迎え撃ったが、緒戦で武田軍を圧倒しながらも諸将の足並みが揃わず、打ち負かされてしまう。しかし、ここで業正は殿軍を務めて度々武田軍の追撃を打ち払い退却戦を演じる。さらに居城・箕輪に籠城した業正は守りを固めて越後国の長尾景虎の後詰を請い、遂に武田方の侵攻を挫いた。その後も防衛戦を指揮し、野戦には勝てなかったものの、夜襲・朝駆けの奇襲戦法を用い武田方の6次にわたる侵攻を全て撃退したという[4]。このように、主君であった憲政が北条氏康に敗れて上野を追われた後も、上杉家に義理を立て北条氏には従わず上野国の支配を崩さなかった忠臣と伝わる。

しかしこれについては後世のイメージであり、同時代史料で裏づけがあるものではない。





3: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 18:52:58 ID:k7B4FF+j
長野業正と業盛には随分と年齢差がありますね
息子が中々出来なかったんでしょうね
その代わり娘はたくさんいるみたいですが

7: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 19:09:07 ID:IQAjyjdo
>>3
業盛の弟として、正宣、業朝とか名前だけは伝わってるね。
業通、業勝、業固とかは従兄弟かな。

4: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 18:53:55 ID:IQAjyjdo
剣豪・上泉信綱を客将として遇した凄い人。

5: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 18:56:09 ID:k7B4FF+j
箕輪城関係の武将って、すごい人が多いよね。

長野業正・業盛父子
藤井友忠(長野家家老。箕輪城攻防戦の時に、初陣の武田勝頼を組み伏せたというのは本当?)
上泉伊勢守秀綱(いわずと知れた新陰流の祖)
疋田文五郎景兼(疋田陰流の祖。柳生宗厳やっつけちゃった)
神後伊豆守宗治(神後流の祖。一時、豊臣秀次の兵法師範を務めた)
おまけ
真田幸隆(一時期、箕輪城の長野業正を頼っていた)

6: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 18:58:04 ID:sAGdyM16
真田幸隆が武田に移るときの業正の対応はさすがだよね

8: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 19:46:47 ID:6IMH+PAx
業盛の墓見て来たが田んぼの真ん中にポツンと建ってて寂しいなあれ
箕輪城はなかなか規模も大きく掘も深い

9: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 20:03:34 ID:k7B4FF+j
人物・逸話

* 武田信玄は、「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたと言われている。

* 業正の死を知ると信玄は大いに喜び、「これで上野を手に入れたも同然」と述べて、すぐに軍を上野に向けた。

* 「上州の黄班」といわれるほどの猛将だった。

* 真田幸隆は武田信玄の家臣となる前に業正に仕えていた。
  業正が年をとって長野氏が衰えてくると幸隆は信玄の家臣になろうと考えた。
  そこで、密かに脱走を試みた。脱走は成功したが、ある峠で業正から手紙をもらい驚いた。そこには、幸隆の身を心配した内容が書かれていた。幸隆の妻や家臣達も殺されること無かった。幸隆は業正の器の大きさを感じたという。

* 武勇ばかりが目立つが、娘を上野の諸豪族に嫁がせることで団結力を強めるなど、政略にも優れていた智勇兼備の名将

12: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/11(木) 10:25:14 ID:d6XB5bif
長野吉業とか長野業氏とかも忘れないでください

昨日、吉川弘文館の戦国人名事典を図書館で読んだけど
業盛は別の名前で載ってたな

14: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/11(木) 19:50:34 ID:uY8aq0X7
倉賀野直行みたいに業盛も越後に亡命出来てれば良かったのに。

15: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/11(木) 23:11:36 ID:BTJP6Ctt
長野賢忠の件もあるから越後を当てにするってわけにもいかなかったんだろうな

17: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/12(金) 16:17:09 ID:IIq1bvKZ
>>15
調べたけどよく分からなかったので、長野賢忠について解説をして下され。

111: 人間七七四年 2007/06/18(月) 23:14:20 ID:wUY3ufNk
>>17

長野賢忠は業正の叔父さん。
業正の親父さんと一緒に総社長尾氏を攻めた(1527年頃)。
このときの総社長尾氏は当主が北条氏に内通したんで上杉憲寛に追放され、
分家の人間が総社長尾氏の当主に据えられため、この隙に長野氏が勢力拡大を狙ったものらしい。
長野氏の攻撃を受けた総社長尾氏は白井長尾氏を仲介役として越後の長尾為景に支援を依頼した。
白井長尾氏は景春以降越後長尾氏の盟友だから、当然受諾したでしょな。
っつーことで、長野氏と越後長尾氏は友好関係ではなかったっぽい。
そして賢忠自身は1560年頃謙信に降伏したものの、疑惑を持った謙信の攻撃を受けた。
賢忠は篭城中に病気で死んだらしく、息子は北条氏を頼ったみたいだぬ。
調べた感じ、賢忠と越後長尾氏との関係はそんな感じだったぽ。

115: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2007/07/29(日) 04:04:15 ID:s2eqvdl2
>>111
出陣中に賢忠軍の馬が暴れたので謙信が賢忠軍が謀反したと思って賢忠の一族を斬り、厩橋城を攻めたそうな。
行動が衝動的すぎる。上杉側の二次史料には謙信が関東攻めの際に業正を成田らよりも厚遇したので、
関東の名族は不満をもったという話もあるけど、
武田信玄と業正との書状は存在するのに、謙信と業正の交渉を示すような一次資料は存在しないそうだ。

23: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/18(木) 14:47:07 ID:SCld6yX0
長野業正の子孫は存在してるの?

24: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/18(木) 17:45:39 ID:Tf1Ab5hV
業盛の兄弟も何人かは憲政に従って越後に亡命したんじゃない?
業正が憲政の家臣なら主君に自分の子供を遣わしてもおかしくはない。
業盛は嫡子だから残したのだろうけど。

26: sage 2007/01/23(火) 21:34:38 ID:21cbJUZ7
>>24
業盛の男の兄弟はいない
そのかわり姉が何人もいたらしい

27: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/24(水) 01:50:03 ID:LuqGR85y
兄貴が河越夜戦で戦死したって話を見たことがあるが

28: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/25(木) 00:45:54 ID:mcXYJU7d
>>27
調べてみたら確かに居たらしいな
今まで業盛一人だけだと思ってたよ

ご先祖様に申し訳が無いから
今度墓参りして詫びてくるよ

38: 人間七七四年 2007/03/15(木) 03:58:57 ID:9ytV7rJi
長野十六槍って、上泉秀綱以外に誰がいるの?

39: 人間七七四年 2007/03/17(土) 18:23:23 ID:VzHbEN2K
藤井友忠とか大道寺信方とか

94: 人間七七四年 2007/05/06(日) 12:19:04 ID:Sm+00QY3 BE:408161164-2BP(1)
長野十六槍をゲームで再現しようと思って、詳しく調べようとしたんだけど、
まず長野氏自体触れてる本が少ないのな。
謙信の家臣ではなく、山内上杉氏に属するという微妙な立場がそうさせるのか。
なんか詳しい本とかはないの?

115: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2007/07/29(日) 04:04:15 ID:s2eqvdl2
>>94
長野十六槍が全員出ている信頼できる史料は残念ながら存在しないみたいだよ。
ただ長野氏の家臣を延々と書き連ねている史料は存在するけど、そこから推定するのは難しいね。

97: 人間七七四年 2007/05/09(水) 07:04:10 ID:EYbzqt+P
しかし、長野家の領地だった一帯は、現在の航空地図見ても、山地ばっかりだからなぁ。
攻めるのは難しく、守るには容易い上、無理して攻めるに見合う価値があったかってところもポイントだと思う。

114: 人間七七四年 2007/06/28(木) 20:33:15 ID:Tl8ZJkEz
>>97
むしろ城の位置を頭に入れて航空地図を見れば信玄が西上野を押さえた意図がわかるよ。
史実としてそうであるように、横っ腹をさらしたまま大規模な西進、南進はできないからね。
当時の日本では敵を迎撃するのに国境から少し引いたところに拠点を築いて戦うのが普通だったので、
拠点の築けない上野と信濃の間の山地は防御に不適で、もし碓氷峠を抜かれたら一気に志賀城まで迫られ、佐久が危なくなる。
甲斐から北信濃にでるには佐久を通るか、そうでなければ諏訪まで迂回しなければならない。信玄もたいてい佐久を通っている。
だからもし草刈場状態の上野が上杉、北条に抑えられたら、武田領国の臍が危機にさらされることになる。
海野平の戦いにしろ、志賀城攻めにしろ、佐久の国人は元々上野と縁が深いし。

98: 人間七七四年 2007/05/11(金) 17:18:16 ID:YtL46FV+
箕輪城一帯なんか日当たりもよく、物なり良さそうだぜ。榛名から続く
緩やかな傾斜地帯で山とはちと違う。昔は、平坦なとこよか山に近い
傾斜地のほうが水田とかも作りやすかったんでないの? 太閤検地見ても
上野は石高も高いよ。

101: 人間七七四年 2007/05/13(日) 15:30:24 ID:iq/lrwrF
どっちみち、北条は平野方面から入れるけど、武田は西部山岳地帯から
入るのが一番マシなんだよな。北条とも抵触しないで済むしw
そこを超えれば広々とした関東平野が広がってるわけで、やっぱ魅力
だったんじゃなかろうか。

102: 人間七七四年 2007/05/13(日) 21:54:03 ID:U20D9YuW
>>101が言ってるけど…
長野領そのものを欲したのではなく、関東平野進出の経由地として
必要だったのではないかと。


103: 人間七七四年 2007/05/14(月) 02:14:29 ID:8zzk2At+
佐久まで取っちゃったら、やっぱ信濃だけじゃなく、上州にも出てみたく
なるね。地形知ってるとよく分かるw 佐久に進出するまでは、甲斐と
上野って遠いんだけどね。

104: 人間七七四年 2007/05/14(月) 07:40:07 ID:h3UDneUI
仮にあちらに出たとしても、本拠を甲斐から移せない武田が保持するのは遠すぎて無理な感じだよな。
上杉、北条に挟まれた地帯になるわけだし、あっちのが断然近い。

105: 人間七七四年 2007/05/14(月) 13:35:41 ID:avoPdk/e
ただ全盛期の武田を見ると比較的うまくやってた気がする。家臣の真田が
北信濃から吾妻に至る北西上州を統治して、武田が南信濃から西上州を
抑えてるからね。地形の割にようやっている。西に織田・徳川がいて
ここに全力集中できないし、北条・上杉の動きもあるからなかなか難し
いんだけども。

112: 人間七七四年 2007/06/27(水) 19:33:55 ID:9s3HTIS7
長野業実(向坂伝蔵)という人がいたらしい。
業盛の子、あるいは弟で、関東に入る以前に徳川家康に召し出されて、
後に井伊直政の家老として箕輪城に戻ったという。

113: 人間七七四年 2007/06/28(木) 07:38:04 ID:X63Lodf8
井伊家の武田旧臣は上野国武田旧臣が主流。
長野はその筆頭だよ。

115: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2007/07/29(日) 04:04:15 ID:s2eqvdl2
>>113
それは違うと思うよ。たぶん上州の小幡が赤備えで井伊も赤備えだというのでおこった誤伝だと思うけど、
井伊の武田旧臣の中心は土屋衆で、他に山縣衆、一條衆など、みんな甲斐だよ。
徳川が武田旧臣を吸収する天正壬午の乱では上野は北條にまかせられて、
小幡信眞や金井秀景ら上野国武田旧臣は北條についている。
上野国武田旧臣で井伊につかえるのは小幡の家老の子、岡本半介宣就で、これは井伊の箕輪入りのあと。
岡本半介の家系はその後も彦根藩で家老職をつとめて、幕末に長野主膳を殺している。

井伊の長野はたぶん姉川で真柄直隆を討ち取った匂坂三兄弟の二男か三男、
あるいは両方が長野業正の一族だと名乗ったので本物じゃないだろう。
長野の家臣にも『向坂』というのがいたようだけどたぶん関係ない。
あとは長野無楽も井伊に仕えたそうだね。

他に長野の後裔をなのったものには神道家の長野采女がいる。

116: 人間七七四年 2007/08/04(土) 01:16:43 ID:9/SJqVl2
>>115
ん?
彦根藩の上級家臣は上野出身者が大半だぞ。
上野小幡旧臣の岡本半介家は、彦根藩の軍学師範の家。家老じゃないと思うが。

125: 人間七七四年 2007/08/30(木) 00:50:06 ID:A0kNCZ3d
う~む、何か違ってたようだ>>116

井伊家中の上級武士(筆頭家老・木俣)を、上野出身者と甲斐出身者とで比べると
上野出身が若干多いのではあるが、甲斐武田旧臣の中には没落した家(河手)もあるらしい。

【上野国】長野(家老) 宇津木(家老) 岡本(家老・中老) 他
【甲斐国】脇(家老) 広瀬(中老) 内藤(用人) 他
【武蔵国】横地(家老・中老)

岡本家(初代宣就は三千石)の家禄は千石だが、井伊家における軍学の家として、家老も務めたようだ。
甲斐武田旧臣は中級家臣に多いような。

長野業正ー業親ー業実(井伊家臣3000石、1649年没)ー業輝(5000石)・・・(4000石)

長野業尚(声阿弥陀仏)┬憲業―┬―業氏
              └方業  └―業正―┬吉業
                           └氏業
                          
・・・悩む長野の系譜

126: 人間七七四年 2007/08/30(木) 18:06:30 ID:gnHUmoM5
江戸期の彦根藩の上層部のことは知らないけど、上層部に上野出身が多かったとしても武田旧臣の主流が上野とはいえないだろう。
甲斐武田旧臣は没落した家があったどころか有名どころは大坂の陣後に没落したのが殆ど。
そもそも直政のころ、上野衆は小田原衆と合わせても甲斐武田旧臣の半分もいなかった。
それに上野衆は武田旧臣というよりは北条旧臣で、武田旧臣の占める割合もたいしたものじゃなかっただろう。
数でも、武田家中の格でも、有名どころがいるって点でも甲斐武田旧臣の方が主流といえる。

長野業実は上野衆枠ではないし、業実が武田に仕えていたって話もきかない。仕えていたとしても、上野武田旧臣の筆頭は無理では。

127: 人間七七四年 2007/08/30(木) 22:54:06 ID:nHMPQFDD
>>126
少し調べてみた。
そうだな。井伊家における武田旧臣の主流は甲斐だな。
甲斐武田の場合、有力家臣は旗本に召抱えられた家が多いから、没落(帰農)した旧臣が多いのは北条。
寛政諸家譜を読めば解る。
上野衆は、井伊直政が箕輪城主(12万石)になった後に召抱えられたから、仕官時期も遅いね。

信長の時代、赤武者として著名だったのが西上野・小幡信貞。
その小幡旧臣が岡本だが、岡本宣就は井伊家における兵学の大家で、上泉秀胤から上泉流を伝授された。
だけど、井伊家におけるその地位は、大阪陣の前に病死した上泉権右衛門を引き継いだ面もあるような・・・?
岡本宣就自身は100石から3000石江戸家老にまで出世するなど、井伊家中屈指の人物だが。

軍事面で岡本家以外だと、砲術家の宇津木氏が名の知れた存在。
これも上野出身の武田旧臣で、北条に仕えてた家。

長野はその通りで、武田には仕えてない。
業実の母が直政の「存知の者」であった由縁で、小姓として仕えたという。
他に小森・佐藤家が箕輪出身だそう。

長野業実の家にも上泉の陰流が伝わっていたらしい。

129: 人間七七四年 2007/09/04(火) 20:38:48 ID:QsUHhDrJ
彦根藩家老長野家が由緒書で残しているところによれば、業実は『長野出羽守』の子という。
長野一族では業正の叔父長野方業(厩橋賢忠)と長野勝業が出羽守を名乗っているのでこのどちらかか。
長野勝業は諸説あるが鷹留長野で業正の甥か。

130: 人間七七四年 2007/09/04(火) 21:00:12 ID:O7c+GX8a
箕輪落城の時期って説幾つかあるっぽいけどいつ落城っていうのが有力なの?

131: 人間七七四年 2007/09/04(火) 21:08:27 ID:QsUHhDrJ
永禄9年(1566年)

永禄6年(1563年)説もあるが、これは甲陽軍鑑に載っていた誤りが広まったもの。
実際には信玄が箕輪城攻略を祈願した記録をはじめ
多くの史料が永禄6年の時点ではまだ落ちていなかったことを証明している。
最も、甲陽軍鑑とは違い信頼できる長野と縁がある寺の史料にも
永禄6年に長野が滅んだと書いてあるものがあるそうだが、それも誤りだろう。

132: 人間七七四年 2007/09/04(火) 21:17:49 ID:O7c+GX8a
>>131
そっか、ありがとう

じゃあ上泉の倅は父と袂をわかって北条について討死した、ってことかな

134: 人間七七四年 2007/09/05(水) 03:16:13 ID:Mhh0swv9
>>132
信綱が1560年以降の箕輪城攻防戦に参加したことを記す一級史料ってあったっけ?
1560年の厩橋長野氏の没落により、長野道安とともに信綱・秀胤父子も北条氏を頼ったんじゃないか?
大胡城が北条氏に攻められて落城したっていう記録も怪しいし。
厩橋長野氏と対立関係にあった金山城主由良氏が大胡城を入手しているわけで、
信綱は由良氏ら謙信派によって上州から追われたってのが正解っぽい気がする。
主君が北条氏を頼ったのなら家臣がそれについていってもおかしくないし、
なにより北条氏のもとには大胡重行・勝行ら上州大胡氏の一門も仕えていたしな。

一般に流布している説では箕輪城陥落後に北条氏康の厚遇を受け、
自分の代わりに息子を仕官させて自らは上洛したと言われるが、
箕輪城陥落は息子の戦死(1564年)の後だから、話が前後する。
1558年に上洛したともされるが、
それだと1557~1566まで続く箕輪城攻防戦にほとんど参加してないことになる。

135: 人間七七四年 2007/09/05(水) 18:27:27 ID:4jbAeyM9
>>134
そもそも一級史料だけで上野の戦国時代を書こうっていうのが無理だからね…。
長野道安は息子が弔ったことから謙信の越山以前に死んでいた。
厩橋長野と由良と大胡は1550年ころには北条方についた那波氏を攻めようとしているので、
このころには三氏とも関東管領方だったことがわかる。
通説では信綱は上洛した後ずっとそのままだったのではなくてなんどか帰っている。
丸目だって相良の武将でありながら何度か上洛しているので別にこれだけでは特に矛盾はない。
上泉信綱に関する一級史料は『言継卿記』だが、これなら北条に仕えたのではないかという説とは矛盾する。
永禄12年の信綱登場後、元亀元年1570年には信綱は山科言継に頼んで結城氏への紹介状を書いてもらい関東に退去している。
北条にツテがあったなら、わざわざ関東とたいしてコネのない公家に紹介状を書いてもらって結城氏のところへ行く必要はないだろう。
そして故郷に帰るのに紹介状がいるってことは昔仕えていた勢力は当時既に滅んでいたってわけだ。

ただ信綱に関する多くの説が甲陽軍鑑の記述を元に構成されたのは間違いなくて、
そのうちのどれくらいが真実なのかは確かめがたいね。

136: 人間七七四年 2007/09/05(水) 18:38:37 ID:4jbAeyM9
>>135の話で一級史料に基づいているのは『言継卿記』のやつだけなんで悪しからず。
厩橋長野が謙信に滅ぼされた話も同時代の史料にはないようだし。
ただ信綱上洛の話は柳生、丸目ら関係のもので確かめようだあるかもしれないが、俺は知らない。

133: 人間七七四年 2007/09/05(水) 01:03:33 ID:4jbAeyM9
上泉信綱の居城が北条に落とされたので信綱は隠棲、変わって息子が北条に仕官したよう。
厩橋長野も同じだったらしい。沼田氏も似ている。
もしかしたら北条はできる限りこの方法で上野の統治しようとしたのかもね。
謙信の越山でおじゃんになったけど。

143: 人間七七四年 2007/10/09(火) 18:31:03 ID:dKpJUBYy
謙信はなぜ和田城を是が非でも落城させて箕輪城を救援しなかったんですか?利根川の渡河ポイントや補給などで問題があったとか、和田城がかなりの堅城だったから?
ほっといたら倉賀野城まで落城してしまい、上野諸将の動揺を招き謙信頼むに足らずで太田金山城まで謀反した為に箕輪の士気が急降下してしまい落城したと感じますが…なぜ謙信は西上野を放棄したのか?
もし長野氏を強力バックアップし海野氏復興に協力すれば佐久地方に進出も可能だったのでは?
そうしたら川中島で有利になるどころか一路甲府すらも突く事も可能で早期に武田の息の根を止める事もできたのでは?
佐久は武田の生殺与奪の権を握る地だったと思うのですが関東進出ばかりに気を取られすぎでは。

144: 人間七七四年 2007/10/09(火) 19:46:11 ID:4NTgeRPw
謙信は和田城を四回も攻めているが落とせていない。
和田城は最近の発掘でそれまで知られていなかった堀や火縄銃の弾が見つかったので、
これは信玄が謙信への押さえとして和田城を固め、火縄銃を持ち込んだという話を裏付ける。
2chでもちょっと前に謙信が負けを認めた書状とかいうのがコピペされていたがあれは永禄七年の和田城攻めの話で、
佐竹、宇都宮、足利長尾、白井長尾、箕輪衆、越後北条、横瀬らを率いて攻めたが、
>晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ
ていたので落とせなかったという。この時はこんなに動員しているんだから是が非でも落とすくらいの覚悟だったのでは。
なお、この和田城攻めのあとに謙信は越後から信濃へ出兵を行ったが、これに呼応させる形で上野の勢力を動員する準備もしていた。
しかし結局実行されなかった。もう少し早い段階にこの作戦を行っていればうまくいったかもしれない。
なお、和田氏は和田義盛の後裔と伝わるが、「業」を通字にし、檜扇を家紋にするなど、長野氏が一門に組み込んでいたとも考えられる。

渡河に関して、厩橋城の対岸の石倉城は、石倉城についてははっきりとした話がないので確実であるとはいえないが、
永禄九年(1566)七月に信玄に落とされたというので、沼田→厩橋というルートを使っていた謙信にとって
箕輪城に行くのは難しくなっていたみたい。
その頃に謙信の祈願文が残っているが、そこで関東のどうしても守りたい拠点として倉内(沼田)、厩橋、佐野を挙げている。
一方では信玄の同時期の祈願文もいくつか残っていて、いずれのものでも箕輪を落としたい拠点の筆頭に上げ、総社や白井を落とせるように祈願している。
このように信玄は西上野を執拗に狙っていたが、謙信は利根川東岸を守ることを優先していたようだ。
関越のメインルートは近世に三国街道となる三国峠→白井→和田(高崎)の利根川西岸ルートだったはずだが
謙信は自分の拠点もあることだし沼田→厩橋のルートを確保することを第一に考えていたんだろうか。
でも結局西上野失陥で謙信の関東経略はほぼ失敗するので、手を広げすぎて足元を固めるのに失敗したとも言えるかも。

145: 人間七七四年 2007/10/09(火) 21:18:19 ID:ysr+T2sE
>>144
>謙信の祈願文が残っているが、そこで関東のどうしても守りたい拠点として倉内(沼田)、厩橋、佐野を挙げている。

その3つは没時(1578年)時点に守られているな。
信玄も総社や白井を落とすことに成功している。(白井はすぐに奪還されたが)

148: 人間七七四年 2007/10/10(水) 00:20:27 ID:RsAz88+/
厩橋~石倉がこのあたりにおける利根川で一番河幅が狭い浅瀬の渡河点だったの?

151: 人間七七四年 2007/10/12(金) 21:54:19 ID:8Q2wKrb2
>>148
それはわからないけど長野氏や謙信が重要な拠点としたからには
ちゃんと街道が通っていて渡河の為の整備がなされていたんじゃないかな。
とりあえず和田城攻めの時は対岸は総社長尾領だったし、
謙信の書状にそんなこと無く、『相手は小城で兵力も十分だったのに駄目だった』とあることからしても
特に渡河の問題はないんじゃないかな。

由良成繁の妻妙印尼は中々の人で、
赤井氏は北条に味方して謙信に滅ぼされたが
息子たちが北条に監禁され、北条が金山城に攻めてきたときは女城主として北条と戦っている。
秀吉の北条攻めの時も息子たちがまた監禁されたのに対し、妙印尼は反北条として活動して家名を保たせている。
ちゃんと実家の件の恨みよりも由良氏のことを第一に考えて行動していたのでは。

153: 人間七七四年 2007/10/14(日) 19:59:21 ID:e8h9F+PX
長野業正が死ぬと早くも和田城の和田氏が武田に降る事になった。箕輪衆の結束が明らかに後退した事を意味したって話もある。
業盛は和田氏に何かヘタ打ったんだろうか…つか和田氏との婚姻関係はあったのだろうか?
それとも単に北条によって松山城が落城し、それに伴って深谷上杉が北条側に転がりこみ動揺しただけ?
すでに佐久地方が武田領になっており碓氷峠の重要性が後退したため平井城は謙信が廃城にしたそうだがこれが上野国の利根川以西の守備を謙信が放棄したと感じ取ったのだろうか。

154: 人間七七四年 2007/10/14(日) 21:38:05 ID:iaNOL81i
>>153
若輩だから頼むに足らず、と思われたのでは?

155: 人間七七四年 2007/10/17(水) 20:01:30 ID:yY51NdjY
笛吹の戦いでは武将たちが業正の指示を聞かず大敗ってあるんだよな、まあ上司であって主君じゃないからな

156: 人間七七四年 2007/10/17(水) 22:30:28 ID:YxJHLffC
>>155
碓氷峠の戦いには業正は参加してなかった気がするが?

157: 人間七七四年 2007/10/20(土) 13:07:29 ID:jQ+DXT/j
>>156
古河足利家の記録だと参戦している。他の史料だと長野の進言ってあるから責任はあるでしょ。
 ミカ尻合戦は長野の兵は多く討たれ武田の兵はたいして損害ないとある

160: 人間七七四年 2007/10/21(日) 12:18:44 ID:KDkNCEvc
>>157
瓶尻の戦いって出典が甲陽軍鑑のはずだけど他に記録があるの?
手持ちの武田家本だとどれも小田井原の戦い(笛吹峠の戦いも甲陽軍鑑だ)
の大将は倉賀野の家臣金井秀景とある。
『進言』というがそもそも憲政が家臣の進言で信濃で苦戦中の武田を討とうと出兵したというのも講談話で
実際には信濃出兵は海野平と同じように自分の勢力が
攻撃されたから援兵を出したというだけだから進言も何もないのでは。

161: 人間七七四年 2007/10/21(日) 18:29:24 ID:3HS+EyyK
鎌倉官僚九代記か九代後記だったと思う
あとは群馬の郷土史かなにか

162: 人間七七四年 2007/10/21(日) 18:47:37 ID:6L8Usx8k
「かんれい」な

163: 人間七七四年 2007/10/21(日) 20:34:46 ID:Jrf7xi8v
>>162
本としては「かまくらかんりょうくだいき」とも読むらしい。

「鎌倉管領九代記」にしても「鎌倉九代後記」にしても軍記物なので信憑性はイマイチかも。
特に「鎌倉管領九代記」は「鎌倉大草子」や「甲陽軍鑑」から記事を抜いている可能性が大。
作者が「甲陽軍鑑」に詳しいのが明らか。
とはいえ未見なんで資料名を挙げてくれたのは助かる。

164: 人間七七四年 2007/10/21(日) 22:26:32 ID:KDkNCEvc
関八州古戦録とどっちを信じるべきかは微妙なところかな。
俺の持ってる数冊の武田本の小田井原の戦いは一応信頼できる史料を使っているから大将が金井秀景なのは間違いなくて
それだとやはり長野が参戦したかは微妙なところだろう。
ちなみに「鎌倉管領九代記」の作者と伝わる浅井了意は長野業正をこんな怪談に登場させている。

伽婢子・幽霊諸将を評す
武田信玄に仕えている鶴瀬安左衛門というものが恵林寺へ行くと既に亡くなったはずの多田淡路守満頼がいた。
しばらくすると直江山城守兼続、北条綱成、山本勘介らもやってきて、それぞれの主君について評価しあった(中略)
そこへ長野信濃守業政もやってきた。彼は上杉憲政の臣で智謀無双のものであったが
信玄に挑み戦うこと七年で病死し、程なく子の右京進は信玄に城をとられてしまった。
長野が見回すと一同の中で山本勘介が上座にいて態度も無礼であったので長野はさらに上座に座り刀に手をかけて勘介を叱りつけた。
「山本の傍若無人な態度は納得いかない。そもそもどのような功績があってそのようにしているのか。
汝には三つの大罪があるがこれが知られていないために千年に渡り兵法に長けているという名を欲しいがままにしている。
一つ目は諏訪の祝部頼重が降伏してきたときにこれを殺すという無道な進言をした上に、その娘を側室にさせたことである。
しかもその側室が自らの子の勝頼に後をつがせようと長男の義信を讒言し、義信や譜代の臣まで殺させてしまった。
その原因は汝が諌めるべきことを諌めずに非道なことをいったからだ。
二つ目は信玄が父信虎を追放したことを悔やんで、再び甲斐に呼んで親孝行をしようとした時にこれを止めたことだ。
信玄が不孝といわれるようになったのも汝の不義のせいである。
三つ目は川中島の戦いで軍配を任せられたのに敗北して多くの将を失ったことだ。
汝も戦死したが、それは汝が備えを誤ったからだ。なのになぜ兵法に長けているなどと言われるのか。
汝は諸国を修行してまわり信玄に仕えたが、軍師の名を盗んだだけで信玄は大業を果たせなかった。
また、汝は我が敵であり、これを見過ごすことは地府の大帝が許さない。」
これをきいた勘介は反論できず、長野に上座を譲った。
長野が「諸家の名臣がそろっているが私は一城を預けられた身だ。無礼な振る舞いは許して欲しい。」というと
多田淡路守は「もはや遺恨などない。万事が休して去ってしまえば夢のようなものだ。ただ酒を飲もう」
と言って、それぞれ歌を吟じあった。
鶴瀬安左衛門はこれを見て非常に不思議に思った。ここは恵林寺の庭で、集まっている人々は皆死んだはずである。
そうであれば自分も死んでしまったのだろうかと思って、諸将に尋ねようとすると、貝・太鼓の音がして諸将は消えてしまった。
鶴瀬は甲府へ帰って信玄にこのことを報告したが、信玄は笑って狐にでもばかされたのだろうと言った。

165: 人間七七四年 2007/10/22(月) 00:07:16 ID:9uXCtmHx
その話、なんか一人生霊がいるような気がするが。

168: 人間七七四年 2007/10/22(月) 01:24:18 ID:r9hM2rgq
>>165
生霊ならもう1人
北条綱成の没年は1587年www

166: 人間七七四年 2007/10/22(月) 00:11:13 ID:3A34mprj
信玄が生きてるのに直江兼継の幽霊ってwwww

170: 人間七七四年 2007/10/22(月) 12:23:47 ID:VHT69ELN
わかってないかもしれんから、一応書くが
長野の言葉の中に、「信玄は大業を果たせなかった。 」
とあるだろ。過去形だ。
つまり、この言葉で信玄も死んでいることがわかる。

171: 人間七七四年 2007/10/22(月) 17:49:29 ID:dcB7WOY2

[千年に渡り兵法に長けているという名を欲しいがままにしている。]

という部分で、すでに異次元の話だぞな。


172: 人間七七四年 2007/10/23(火) 01:06:56 ID:9wFSg88o
「伽婢子」は中国や朝鮮の小説や伝奇を日本風に翻案されている話もあるそうな。
これも元ネタがあるんじゃなかろうか?

193: 人間七七四年 2008/01/29(火) 21:45:50 ID:/aWSfGjW
長野家関係の史跡って
箕輪城・長年寺・長野業盛の墓
他に何かあるかな?

198: 人間七七四年 2008/02/26(火) 21:06:39 ID:a6y/Y/2E
>>193

北新波砦、来迎寺長野氏累代の墓。

引用元: ・【長野業正・業盛を語るスレ】
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