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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/17(日) 17:12:45 ID:SUGGbYSH
信長の鉄甲船があったとかなかったとか
そんなことについて語ろうぜ

関連【海賊】 水軍スレ 【安宅船】

 







154: 人間七七四年 2007/06/16(土) 02:09:51 ID:tF9Mw9ev
>“天地丸”は寛永7年(1630)、3代将軍家光の時代に建造され、廃船に至る幕末までの実に230年以上の間、将軍の御座船の地位にありました。
ttp://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/contents/065.htm
230年以上ってスゲー
これだけ長寿船って世界的にも珍しいんじゃね?

上部構造物がフレーム状になってるけど、戦時にはここに任意の盾板を装着すると思う。

156: 人間七七四年 2007/06/16(土) 12:38:01 ID:R3efL1A+
>>154
>寿命230年

ヒント 「御船蔵」

それだけ長寿命の帆船は珍しいが
木造建造物と考えればまあ十分あり得るかなと

191: 人間七七四年 2007/11/03(土) 20:15:54 ID:xUAmaMBf
>>156
遅レスですが、史料で確認できる天地丸の修理は
正徳元年(1711) 宝暦九年(1759) 
寛政九年(1797) 弘化四年(1847)
の4回です。

正徳(81年)以外は平均して44年ごとに修理が行われて
いますので、正徳以前にも1回の大修理が行われた可能性は
高いそうです。幕末期の天地丸は痛みの少ない屋形関係を除
くと、新造時の部分は残っていなかった可能性があります。

ちなみに大名の御召関船(御座船)は21年ごとに作り換える
ことになっていましたが、江戸中期以降は50年ごとになった
そうです。



155: 人間七七四年 2007/06/16(土) 10:49:34 ID:Yv/6RXaR
いわゆるひとつのエアフォースワンか。

181: 砂岩か耳ね ◆oWrjcNwAas 2007/08/19(日) 02:25:15 ID:Z0I79NBI
一年近く前に、瀬戸内海の小豆島へフェリーで渡ったが、本当に小島が多いんだね。
たまたま同船した人に十川という人がいて、「出身は四国ですか、似た名前の武将がいますよね」食いついてきたので、その人も戦国に興味が合ったのだと思う。
その人と、あの陰に水軍の一団が潜んで……とか想像して会話していたら、かなり萌えた。

183: 人間七七四年 2007/09/18(火) 01:46:00 ID:uioVpu7s
大友水軍って名前は聞くけれど、何か実績有る?

184: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/09/18(火) 02:13:32 ID:dkwIwVIE
>>183
永禄12年(1569)の毛利氏との戦い、
元亀3年(1572)の伊予西園寺氏攻め(土佐一条氏救援)、
天正7年(1579)の島津水軍との日振島沖合戦、
文禄元年(1592)の朝鮮出兵、

その他かなり、いまいち評価が低いのは何故だろうか。

186: 人間七七四年 2007/09/18(火) 08:27:45 ID:aHG7NovM
>>184
門司合戦の記録等みると、関門海峡渡海・後方遮断等
毛利水軍が好き勝手にやっていて大友水軍の痕跡が出てこない気がするんだが、
大友水軍何をやっていたんだ?

187: 人間七七四年 2007/09/18(火) 16:39:30 ID:/ViRvuMy
村上水軍一艘を破壊して感情を賜る
尼子が背後を付いたのを見て、大内輝弘と共に追撃

詳しくは「若林鎮興」で検索してみてください。
あと大友水軍なら安東氏についてのホームページもあったはず。

188: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/09/18(火) 22:38:09 ID:dkwIwVIE
>>186
門司合戦で毛利水軍にいい様にやられたから、水軍の強化を図ったと思ってた。
それ以前にも、海賊襲来時の感状で分かる様に活動はあったようだが…

そこら辺は余り詳しくないんで…詳しい人いたらお願いします。

195: 人間七七四年 2007/11/07(水) 21:14:37 ID:v5V008Eo
>>184
朝鮮出兵で大友水軍の誰がどんな活躍をしたの?大友は内陸で戦っていたんでしょ?

197: 人間七七四年 2007/11/08(木) 05:45:31 ID:LF8hEucs
>>195
村上、九鬼、他に四国の水軍とかも戦ってる

198: 人間七七四年 2007/11/08(木) 22:01:57 ID:k5Aorfk4
>>197
検索しても朝鮮で若林が活躍したって具体的な情報がヒットしないんだが?

189: 人間七七四年 2007/11/02(金) 21:48:07 ID:nH1NXN8Y
安宅船が初めて作られたのは何時ごろですか?

193: 人間七七四年 2007/11/06(火) 02:08:12 ID:/Wi9ma9t
安宅船て淡路の安宅水軍からきてるのか?

194: 人間七七四年 2007/11/07(水) 16:10:50 ID:ACnrKW/O
暴れまわるという意味の「あたける」から来ているらしい。
当初は、仮名書きか、阿武と書き、朝鮮征伐の頃から安宅と
なった。

ちなみに安宅水軍の安宅は「あたぎ」と読む。


199: 人間七七四年 2007/11/18(日) 17:11:50 ID:3mFf9oeT
村上水軍の家紋って有名な丸に上の字だけど、海賊(水軍)は字紋を使うことが多かったの?
ちょっと気になった。なかなか字紋って見かけないから。
kamon_13


200: 人間七七四年 2007/11/18(日) 17:37:05 ID:HW/OuGgv
>>199
あの家紋はただ単に信濃村上氏だから

201: 人間七七四年 2007/11/18(日) 17:52:27 ID:3mFf9oeT
>>200
そうなんだ。
どっかで読んだ資料には名前から取ったという説と、字紋で(上)という字が縁起がいいから使ったという2つの説があるって読んだから気になった。
後者なら字紋って海賊が使ってたのかなと思ってたッス
よくわかんねけど

202: 人間七七四年 2007/11/29(木) 16:13:08 ID:R/AICZgp
誰か小田原征伐時の徳川水軍の武将の詳細な参加リストみたいなのわかる方いませんか?

おそらく本多重次を頂点に何人も武将がいたと思うんですが。

203: 人間七七四年 2007/11/29(木) 21:13:10 ID:ZhjoHiTu
>>202
その頃の徳川水軍には向井正綱、小浜景隆、間宮信高、千賀重親、伊丹康直がいるね。
みんな元武田とか今川の水軍。

206: 人間七七四年 2007/12/05(水) 23:41:58 ID:Qj35R6Bj
スレがのびないのであえて鉄甲船論争を蒸し返す

209: 人間七七四年 2007/12/06(木) 22:44:14 ID:1h8at4XK
九鬼の黒船に較べて外観が白かった滝川家の大安宅船は白船と呼ばれていたそうだがこれは間違いなく装甲板を貼っていない(間に合わなかった?)船だったであろう。
この白船も木津川の戦闘に参加して無事に帰還していることが全てを物語っている。

211: 人間七七四年 2007/12/06(木) 23:07:21 ID:1h8at4XK
うむ。
九鬼の黒船は岡山城天守に見られる当時の防水防腐効果を狙った黒漆塗りであったと類推する。

212: 人間七七四年 2007/12/06(木) 23:18:33 ID:1h8at4XK
仮に白塗りにしていたとして、一体何を意図していたものなのだろう。
漆喰塗りにすることで延焼を防ごうとしていたとか?

214: 人間七七四年 2007/12/07(金) 02:57:48 ID:HgoLIcLL
>>212
秀吉の日本丸も白漆喰塗りだったようだから、多分そうだろう

213: 人間七七四年 2007/12/06(木) 23:32:34 ID:1h8at4XK
何にしても78年当時は大安宅船に鉄板を貼るという概念が一般的となる朝鮮役までの間の過渡期と考えるべきだろう。
で、朝鮮役での不備を考慮して江戸幕府の安宅丸には鉄貼りが施されなかったと。

218: 人間七七四年 2007/12/07(金) 20:39:07 ID:HgoLIcLL
個人的には漆塗り説もかなり説得力があると思っている。
防火・防水効果の高い黒漆塗りは、安土城や大坂城など古い城の下見板張りによく使用されたが、
安宅船の建造は船体部分を船大工、櫓部分を屋大工が分業していたことを考えると
同時期の城郭によく使用されていた黒漆塗りの技術を軍船に応用したという事も、十分ありうるのではなかろうか。
鉄甲?船のプロトタイプなのであろう佐和山の大船を建造したのが、
安土城と同じ宮大工・岡部又右衛門なので、よけいにそう思う。

232: 人間七七四年 2008/02/05(火) 20:22:12 ID:RyV8NkWw
「テツハウトヲラヌ用意事々敷也」だっけ。軍事に疎いであろう坊さんが伝聞で書いたもんだし、あまりあてにならないんじゃないの。

235: 人間七七四年 2008/02/13(水) 15:03:16 ID:b/W+DI3V
>>232
>「テツハウトヲラヌ用意事々敷也」だっけ。

『多聞院日記』では「トヲラヌ用意」なんだから、
火縄銃の銃弾も貫通を防ぐための用意っぽい。
焙烙の延焼防止対策だったら違う表現を用いただろう。


>軍事に疎いであろう坊さんが伝聞で書いたもんだし、あまりあてにならないんじゃないの。

僧侶は軍事を含めた当時最高の知識人といえる。
武将の幼少期の教育係が僧侶の場合は多い。
今川義元の軍師になった大原雪斎は有名だし
戦国武将の中に幼少期から青年期に寺院で学んだ人物も多い。(石田三成とか)
僧侶にして大名になった安国寺恵瓊もいる。
本願寺の僧侶たちは強大な信長を苦しめてた。

236: 人間七七四年 2008/02/13(水) 20:33:31 ID:kZdnwNRO
>>235
そんなもん百も承知だが、又聞きは又聞き。
多門院日記には
「人数5千人ばかり乗る。横へ7間、縦へ12,3間もこれあり」なんて記されているがこれは人数といい船の形状といい100%ありえない数字だし、色々差し引いて考えるべき文献なのは確かであるよ。
そもそも鉄砲の弾だけを防御するんだったら、木製の盾板を分厚くするだけでいい。
重い上に不安定になる鉄板なんか貼る必要はない。

237: 人間七七四年 2008/02/13(水) 22:27:19 ID:b/W+DI3V
>>236
同じ防御力を達成のためなら木製の分厚い盾板より鉄板を貼ったほうが軽い。

234: 人間七七四年 2008/02/09(土) 12:27:42 ID:1UnXU4dc
「テツハウ」は火薬兵器全般を指す言葉では?
元寇で使われた炸裂弾も「てつはう」だろう。

241: 人間七七四年 2008/02/14(木) 12:33:02 ID:QIkHWfCD
>>234
『多聞院日記』の書かれた時代には「テツハウ」は火薬兵器全般を指す言葉ではなくなっている。
この時代に「テツハウ(鉄砲)」と言った場合は火縄銃のことで炸裂弾は「焙烙」と呼ばれるようになってもはや「てつはう」とは呼ばれなくなくなっている。

250: 人間七七四年 2008/02/16(土) 16:47:15 ID:o8QU2HXZ
信長鉄船について(『多聞院日記』「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」)
他に
徳川家御座船安宅丸は、厚さ一尺の盾板表面を厚さ3ミリの銅板を貼り装甲している。
この安宅丸について水戸光圀は「鉄砲いかほどあたりても船やぶる事なき也」『西山遺聞』
と評している。
当時の人達の関心が鉄砲に対する防御に向いていたことがわかるだろう。

一方、焙烙に対する防御について書かれた史料は見た事がない。

254: 人間七七四年 2008/02/17(日) 17:31:49 ID:nQuDQIpx
多聞院日記の「テツハウ」は銃のことでいいの?
「トヲラヌ」は貫通、通用しない、どっちの意味で使われてるの?

255: 人間七七四年 2008/02/18(月) 00:23:50 ID:FRxxeR2Y
>>254
それに関してはまあ「鉄砲」「通らない(貫通しない)」でいいんじゃないかな。
投げ焙烙なんてマイナーな武器を、水軍に関わりもない坊様が知ってるとも思えないし。

265: 人間七七四年 2008/03/19(水) 21:38:22 ID:YOD3SoJh
ttp://www.tanken.com/wako.html
アイデアだけで実際には作られなかったのかもしれないが、
村上家の水軍書には書いてあるらしい

266: 人間七七四年 2008/03/20(木) 16:33:54 ID:GUmVgIv7
>>265
やはり日本水軍は世界に比べオリジナルを進んでるね
盲船の絵もあるw
船逆さま重石付けてジャックスパロウの海底散歩見たいな感じかな

288: 人間七七四年 2008/09/20(土) 17:01:02 ID:ahtewfwQ
海部刀カッコヨスなあ

参考
http://blogs.yahoo.co.jp/dogunta12/29872191.html

特徴
脇差サイズが多い
棟がノコギリになっているものも(嵐のときに帆柱を切り倒す)
銘を刀身に入れる(中子だとすぐ錆びで埋もれるから)

海の男の装備だね

289: 人間七七四年 2008/10/01(水) 00:00:38 ID:WMXJpkzk
和船も帆柱を切り倒すことなんてあったのか。
マストが何本もある西洋の船だけかと思ってた

291: 人間七七四年 2008/10/01(水) 17:08:03 ID:ESEpxd7X
西洋船の場合、切り倒してもいいように木材を積んでいた。
一方何も積んでいない和船は・・・

292: 人間七七四年 2008/10/01(水) 23:52:38 ID:WMXJpkzk
まあ、その場で沈むよりはましだわな

295: 人間七七四年 2008/12/11(木) 02:42:49 ID:Kt+7A8/t
偶々「その時歴史が動いた」の村上武吉の回のビデオがあったから観た

関ヶ原の時伊勢湾で暴れ回っていたとは知らなかった
熊野灘は何事もなく通過出来たのかな?
あと阿波を占領したってのも初耳だ

298: 人間七七四年 2009/01/30(金) 03:41:32 ID:bCutkXgV
>>295
阿波や毛利吉成領は毛利氏の占領下に入っているし、
四国では村上元吉らが死んだ後も、関ヶ原の敗報が届くまで
村上水軍・河野衆による加藤嘉明領への侵攻が続いてた模様。

301: 人間七七四年 2009/02/27(金) 18:38:50 ID:Ey3JlxGC
村上水軍は最強

304: 人間七七四年 2009/03/15(日) 03:55:02 ID:e+MxAobZ
毛利水軍を叩き潰し、石山本願寺への支援ルートを断った九鬼水軍が戦国最強だな

実際、九鬼嘉隆は関ヶ原の戦いで東軍側については戦功をあげたが、江戸幕府が始まった後に、九鬼水軍の力を恐れた徳川家康によって、海に面していない地に移封されるなど晩年は不遇だった。

それでも九鬼氏は水軍としての誇りを忘れないために、小さな湖で訓練をし続けた。

323: 人間七七四年 2009/08/18(火) 23:09:01 ID:2vrtbOiX
信長の鉄甲船と朝鮮の亀甲船が対峙して戦闘すれば歴史に名を残した亀甲船の勝利なの?

324: 人間七七四年 2009/08/18(火) 23:20:18 ID:b1ss1ipM
鉄甲船は朝鮮にたどり着けず亀甲船の不戦勝

325: 人間七七四年 2009/08/18(火) 23:45:37 ID:9ISQgmqE
そりゃぁ鉄甲船じゃ渡海ムリだワナ。あんなの河口に置くだけの船だから。
でも信長なら他の方法取ってるだろ
例えば陸路で港を全部抑えてしまうとかさ。そうすりゃ亀甲船もへったくれもない。

339: 人間七七四年 2009/08/25(火) 19:53:57 ID:fP/H9sxZ
要は日本の水軍では世界史に名を残す勇ましい朝鮮の亀甲船にはまったく歯が立たないってことだね
実際ボロ負けだったし。

341: 人間七七四年 2009/08/25(火) 20:06:32 ID:/oPLsT6B
ハハハこやつめ

343: 人間七七四年 2009/08/26(水) 02:29:11 ID:scMr+Q7K
亀甲船はともかく、日本水軍がボロ負けだったのは事実だけどな

それよりも特筆すべきは、朝鮮に渡った武将の致死率。
戦死はもちろん、向こうの食いもんがマズかったのか病気で死んだ奴が多過ぎw
有能な後取りや家中を支える武将がバカスカ死んでるからな・・・

345: 人間七七四年 2009/08/26(水) 08:38:10 ID:FgfjHAqD
>>343
日本水軍がぼろ負けって、朝鮮役の事しらなすぎ。
なんかドラマとかのイメージだけで語ってるでしょ。

347: 人間七七四年 2009/08/26(水) 21:18:13 ID:w7jcOXMA
>>345
「不滅の李舜臣」のことか
あれはネタ的には見ておく価値はあるかも知れない
ttp://www.youtube.com/watch?v=ReN8bAbJNzQ&feature=related


ttp://www.youtube.com/watch?v=wruucp8HkGc&feature=related


348: 人間七七四年 2009/08/27(木) 05:40:10 ID:XnnfQ5t1
なら、何故日本軍の兵站が確保できなかったのか?餓死・凍死者が続出したのか?教えて下さい。
十分な兵力と武器を有し、指揮官も優秀で、兵站も確保されていたなら
撤退する理由がないと思うんですが。

349: 人間七七四年 2009/08/27(木) 10:47:20 ID:Si3gWA1+
気候(日本で言うと北海道レベルの寒さ)
輸送路(荷駄輸送に適していない道だらけ)
水(風土病)

ここらへんじゃない?
兵站については朝鮮半島南岸には届いていたでしょ
ただ、そこから先の陸路輸送が滞っていた
もし制海権を日本が失っていたとすれば撤兵時に大混乱と大損害を受ける
はずなんだけど、それに関しては滞りなく撤兵している

350: 人間七七四年 2009/08/27(木) 13:35:00 ID:XnnfQ5t1
・気候
そんなもん戦前から情報はあったはずなんだから(宗やら波多やら現地へ前から行き来してる連中はいるわけで)
準備はできたはず、なのにそれが防げなかったという事は物資が滞った証拠じゃないの?
じゃなきゃ、華々しい活躍をしたはずの日本指揮官が無能って事になる。

・水(風土病)
これも十分な物資があればある程度は防げるよね。食料事情が芳しくなく
寒さも防げず、体力が落ちたところにもってきての病気の蔓延でしょ?
大将とか御家の後取りクラスもバタバタ病気で死んでるし。

・輸送路
それも考慮して戦略練って兵站考えるのが将の務めでは?日本国内だって山道ばっかりのとこは腐る程あるわけで。
それを考えずにどんどん侵攻して兵站を絶たれたりしてるし。

別に制海権を完全に取られたとは思っていないが、(実際主力武将は行き来してるわけだし)
主に非戦力の輸送船団はバカスカ沈められてるし(つまり護衛するだけの余力水軍の能力・戦力がない)
撤兵時にも大損害とは言わないまでも島津とか苦戦を強いられてるよ。
楽々撤退できたわけじゃない。
また、撤退時は主力をほぼ全部載せてるわけだから、戦力も整ってるけど
戦中の輸送船は主力武将は戦地(陸)で戦ってるわけだから、そんなに戦慣れしてない連中が任に当たってた事が多い
だから輸送が滞ったんでしょ。陸地では連戦連勝だから、朝鮮・明など弱い弱いと兵站担当の官僚が舐めてかかった結果。

418: 人間七七四年 2010/12/13(月) 23:58:08 ID:1WbOrfu7
>>350
>そんなもん戦前から情報はあったはずなんだから(宗やら波多やら現地へ前から行き来してる連中はいるわけで)
>準備はできたはず
>じゃなきゃ、華々しい活躍をしたはずの日本指揮官が無能って事になる。

当時は温度計なんてありませんよ?
言葉で「冬はとても寒い」と伝えるしかないので、権力がある人に「気合いでなんとかなる!」と反論されたらどうしようもない。
華々しい活躍=直接戦うのが得意≠気候やら何やらの準備をする
兵站に関して無能ということはそういった事も舐めている可能性が高いということだよ。
その証拠に、寒さに強いはずの上杉軍や伊達軍を戦わせないまま戦争が終わってしまったし。

>・水(風土病)
>これも十分な物資があればある程度は防げるよね。食料事情が芳しくなく
>寒さも防げず、体力が落ちたところにもってきての病気の蔓延でしょ?

風土病というのは日本に無い病気のこと。
つまり体の中に免疫が無いから感染する病気。
体力は関係ない。

370: 人間七七四年 2009/10/19(月) 00:21:12 ID:mjgN9um6
まったく素人のたわごとだけど、

今のフザン辺りまでは日本側の制海権あっただろうが、西側は、島が多いし、海流等の地理的知悉は朝鮮水軍に圧倒的な利があり有利だった、と思うが。
朝鮮も、小早川秀秋の大輸送部隊狙った時は、東に流されすぎて全滅したよね。

日本、西側の制海権では苦しかったのでは。
だからソウル辺りまでの海上輸送のあてが外れてしまった。

で、兵站が尽きた、と思っていたが。

371: 人間七七四年 2009/10/19(月) 02:59:44 ID:a4JG0ZnG
日本軍の兵站は最初っから貧弱だった。
朝鮮水軍の活動でさらに苦しくなったのは確かだが、どのみち朝鮮からの徴収、もしくは略奪なしでは、食っていけない状況だった。

これは外征だからと言う理由だけでなく、豊臣軍の兵站は日本国内の戦争でも言われているように強力なものではなく、小牧長久手でも九州でも小田原でも、兵糧不足に陥っている、ギリギリのものだった。

日本国内で軍の兵站をフォローしたのは商人による商業流通だったのだが、朝鮮国内ではそれが通用せず、日本軍は初期に持ち込んだ食料を食い尽くすと、たちまち飢えに苦しむ事になった。

505: 人間七七四年 2013/09/13(金) 12:15:20.41 ID:cu4gJHZ2
>>371
実は日、明、朝鮮の各種記録には、李舜臣・朝鮮水軍のせいで
補給が苦しんだという記録は一切ないのが事実。

李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_10.html
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_9643.html


ちなみに文禄初期に補給不全が起きた要因は、人手不足と険阻な道、冬季到来による部隊の移動制限、これも冬季到来による日本、対馬、釜山間の海峡の荒波による渡航制限、輸送隊の往復の糧食の消費等々。

1594年、春が到来して海峡が穏やかになると、一挙に補給が再開されて、釜山には物が溢れていて一年半以上も持ちこたえられると記されている。

で文禄の経験を活かした秀吉と日本軍は、慶長の役では綿密に準備と作戦を練っていたので、補給不全もおきてないし、戦略・戦術も計画通りに進んだ。

「補給で苦しんだ」といえる時期は、1592年7月-1594年の春の期間で、とくに北にいた小西隊や加藤隊が中心。南方の毛利軍は物資に溢れていて野菜の種までもっていたと記されている。

353: 人間七七四年 2009/09/11(金) 06:28:28 ID:cIKwkMEA
江戸時代じゃなくて戦国時代の軍船の史料ってあるの?

355: 人間七七四年 2009/09/11(金) 20:12:25 ID:APOiwinw
>>353
信松院の安宅船や関船の模型とか

357: 人間七七四年 2009/09/12(土) 07:21:52 ID:rqsf6mWM
>>355
江戸時代の作でしょ?

361: 人間七七四年 2009/09/12(土) 20:37:36 ID:T+ZmlJJh
>>357
朝鮮の役に参加した人が、実際に使われた船の模型を献上したんじゃなかった?

359: 人間七七四年 2009/09/12(土) 11:00:15 ID:fVjJ7O8Y
絵として戦国時代の船は伝わってないだけ
文章で表現した史料なら色々とある

360: 人間七七四年 2009/09/12(土) 19:32:28 ID:rqsf6mWM
>>359
だから例えば?

364: 人間七七四年 2009/09/13(日) 08:43:08 ID:NlrClqCN
そうだなメジャーな物だとフロイスの日本史にもあるぞ

365: 人間七七四年 2009/09/13(日) 16:34:40 ID:MJIKeIGp
マイナー物だと「志州鳥羽船寸法」

366: 人間七七四年 2009/09/14(月) 20:26:51 ID:uLvH98gL
朝鮮出兵の時の軍船の絵なら「肥前名護屋城図屏風」
精密な絵とはいい難いが一応リアルタイムで描かれたもの

373: 人間七七四年 2009/10/19(月) 15:17:24 ID:RRIjK69M
伊達は水軍持っていたの?

佐竹は河と湖の警備部隊みたいな小規模な水軍は持っていたらしいが。

378: 仙台藩百姓 2010/02/09(火) 10:43:38 ID:SmupW5w2
>>373
戦国時代の伊達領には海も大河もないから水軍なんてあるわけないお( ^ω^)
江戸時代に入って仙台城下や塩釜・石巻が整備されてからは水運が活発になったけど

379: 人間七七四年 2010/02/11(木) 12:40:12 ID:RXxSX17L
>>378

> 戦国時代の伊達領には海も大河もないから水軍なんてあるわけないお( ^ω^)


それでも河はあるからパトロール部隊程度はなかったのかな?

381: 仙台藩百姓 2010/02/11(木) 22:43:21 ID:nzKdAUUz
>>379
渡し舟ぐらいはあったから舟が軍用に全く運用されていなかったとは言い切れないけど
少なくとも水軍と呼べるようなものはなかったはずだお( ^ω^)

382: 人間七七四年 2010/02/13(土) 13:44:17 ID:5RCxXuBR
大陸の大河じゃないから河をパトロールしてもしょうがないよな
敵は普通に浅瀬を渡ってくるだけだろうし
猪苗代湖に湖賊とかいたのかな?

384: 人間七七四年 2010/02/13(土) 14:02:51 ID:+KZmI2vj
>>382

> 猪苗代湖に湖賊とかいたのかな?


琵琶湖と霞ヶ浦にはたくさんいたのではなかったか?
猪苗代湖にも多少はいたのでは?

385: 人間七七四年 2010/02/13(土) 20:02:37 ID:GRlooN5z
俺も琵琶湖と霞ヶ浦は聞いた事あるけど
猪苗代とかは聞いた事ないな

場所的に琵琶湖とか霞ヶ浦は
いろんな諸勢力が戦う戦場としての渡河拠点として必然性があったのかもしれないが
猪苗代辺りは蘆名がどっかといたから、需要もなかったんじゃなかろうか

386: 人間七七四年 2010/02/20(土) 04:15:36 ID:4IsZiQ45
地味だけど川賊ってのもいるよね
木曽川の川並衆とか

387: 人間七七四年 2010/02/20(土) 04:19:11 ID:JgfK9EZ7
川並衆はべつに賊なんて連中じゃないぞ。

389: 人間七七四年 2010/02/20(土) 06:46:01 ID:ByCUgDJO
琵琶湖と霞ヶ浦以外で湖賊がいたところある?

390: 人間七七四年 2010/02/20(土) 09:15:53 ID:2pdxd3uH
浜名湖や宍道湖、中海には居たような気がしないでもない。

398: 人間七七四年 2010/03/27(土) 08:51:15 ID:pFFJhk4j
津軽為信ってココでもドコかずれてるんだけどさヘンな武将が多いのよ
水軍じゃなくて、海賊大将ってのがいたんだよ
海賊だよ?海賊・・・水軍って呼ばれてる時代に海賊
略奪とかしてたかどうかは知らないけど、ガンガラ穴の小野茶右衛門とかね
でも、子分が久六島を見つけて日本海海域を広げることに貢献したからただの海賊よりマシなのかも

400: 人間七七四年 2010/03/27(土) 15:39:45 ID:M4dXsk1y
>>398
> 津軽為信ってココでもドコかずれてるんだけどさヘンな武将が多いのよ


他の大名家をなんらかの理由で退散した人や、主家が倒産した人を
けっこう雇っているな。

ただ、江戸時代の津軽藩は幕府に遠慮したのか水軍は持っていない。

399: 人間七七四年 2010/03/27(土) 11:12:13 ID:rMfZMBtG
水軍て呼ばれたのは江戸時代からで
あの時代は村上も九鬼も皆海賊、頭は海賊大将て呼ばれてたよ
ヘンどころか至って普通

402: 人間七七四年 2010/03/27(土) 20:36:04 ID:ccQuMDoO
>他の大名家をなんらかの理由で退散した人や、主家が倒産した人をけっこう雇っているな。

服部とか北畠とか石田とかね。
早くから中央との関係を重視してて、上洛する事も多かったみたいよ


通行料だけじゃなく、貿易でも儲けてたけどね。
まあ、それも江戸幕府じゃ幕府が独占する事になったんで水軍の需要は激減したわけだが

401: 人間七七四年 2010/03/27(土) 15:51:17 ID:JNpqLnNb
つーか水軍って言うのは基本海域の通行料を取って活動資金を得るわけで、
それが得られない場合、大名家に取って負担ばかりが過大になるんだよね。
陸上と同じく海も基本的に自由通行の認められた豊臣、徳川期では、水軍が
リストラされるのは当然。

403: 人間七七四年 2010/03/27(土) 21:47:36 ID:ukq+vi+j
幕府が諸藩の水軍を警戒したってのもあるだろ。

404: 人間七七四年 2010/03/27(土) 21:57:29 ID:JNpqLnNb
・やたら金がかかる
・貿易は幕府の統制下

この状況で大規模な水軍を維持するなんて、幕府への謀反を考えている以外
理由はないからな。


引用元: ・【海賊】 水軍スレ 【安宅船】


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