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1: 無名武将@お腹せっぷく 2006/07/07(金) 19:44:43
孔明でさえ、城篭られるとほとんど落とせてない気がするんだが?








3: 無名武将@お腹せっぷく 2006/07/07(金) 19:51:40
歴史詳しくないので無知なのは否定しない
三国志読んでて感じた素朴な疑問なんだが・・・

4: 無名武将@お腹せっぷく 2006/07/07(金) 19:52:56
そうだな、が自>>1の糞尿と人肉のみで半年生き残れたら認めてやるかもしれん

5: 無名武将@お腹せっぷく 2006/07/07(金) 19:56:21
兵糧攻めしかないなら援軍来るまで待てばいいような

7: 無名武将@お腹せっぷく 2006/07/07(金) 20:17:41
ほとんどは挑発して出てきたところを落とすとか空き屋を落とすとかだよね

10: 世界@名無史さん 2006/07/07(金) 20:42:17
三国志にかぎらず、籠城の名人みたいな人物はたまに出てくる。
唐代の張巡、趙犨、南唐の劉仁贍。
あとまだまだいたと思うけど、漢字わすれたので割愛。

11: 無名武将@お腹せっぷく 2006/07/08(土) 17:15:43
公孫讃・呂布は?袁術が逃げた後の寿春も落とされたし。

12: 無名武将@お腹せっぷく 2006/07/08(土) 22:19:23
どっちも野戦で暴れられたら厄介だろうなぁ。
辺境の騎兵部隊だし。
一応どちらも援軍の当てはあるんだっけか。
囲んでる側のアドバンテージは大きいだろうが
油断は出来ない?

13: 無名武将@お腹せっぷく 2006/07/09(日) 21:53:44
呂布は袁術頼みだっけか。援軍に来ても普通に撃破されそうだな。

17: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/03(木) 02:27:46
その理論でいくと蜀は滅亡しなかったな
ちなみに「諸葛亮でさえ」ってのもおかしいとマジレス

24: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/18(金) 22:13:35
この時代の城兵はピンチになるとすぐ降伏する。そうなる前に援軍を送らないと簡単に負ける。
現在の徴兵制の軍隊と同じように考えたら困る。

25: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/18(金) 22:57:54
今時は徴兵制も廃れてよりプロフェッショナルな志願制が主流ですが

33: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/20(日) 23:12:15
古来から籠城戦は援軍をあてにしてのものなのに。
あの張遼でも曹操の援軍が来るシチュエーションじゃ籠城なんかできない。

合肥戦線

建安20年(215年)8月、張遼は楽進や李典らと共に合肥に駐屯していたが、孫権が十万の大軍を率いて侵攻してきた(合肥の戦い)。曹操は張魯を攻撃するため漢中に遠征していたが、護軍の薛悌を遣わし三将に文書で「張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城で護軍を守れ」という指令を与えた。張遼はこれに基づいて作戦を立て、楽進が薛悌と共に城を守り、張遼は李典と共に出撃して敵軍の出鼻を挫くことにした。楽進・李典・張遼は元来不仲で折り合いが悪かったが、国家の危機にあって私怨は問わないとし、共同してこれに当たった。夜中に敢えて自らに従うという精兵を選別し800人を集め、牛を殺して将兵に振る舞い、翌朝出撃した。

張遼は先頭に立って敵陣に突入し、敵兵を数十人殺し、2人の将校を斬り、孫権の将旗の近くまで迫ったので、驚いた孫権は戟を持って戦いつつ逃亡した。張遼は孫権の軍勢が丘に逃げたのを見ると、孫権らに「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。孫権は張遼らの軍勢が極めて寡兵であることを見てとり、大軍をもって何重にも囲んだが、張遼は配下の兵と共に包囲を破って脱出した。残りの兵たちは「将軍、私たちを見棄てるのですか」と叫んだ。張遼は再び引き返して包囲の中に突入、配下を助け出し、さらにまた包囲を破って脱出した。孫権の兵馬は皆道を空け、思い切ってぶつかる者もなかった。この日、張遼らは半日間の間戦い続けたとされている。

この余りに苛烈な攻撃に、孫権軍はすっかり意気消沈し、この奮闘に勇気づけられて曹操軍の将兵は城を守り通した。結局、孫権は十数日間ほど合肥城を包囲したが、落す事はできずに撤退した。


35: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/20(日) 23:18:57
篭城戦だと不利だから野戦で急襲の一点突破に賭けたんじゃなかったか?

つーかそういう策を曹操が用意してたんじゃなかったっけか

46: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/22(火) 10:08:34
>>35
あれは2000対公称10万。意気盛んな敵に一気に揉み潰される前に奇襲で出鼻をくじいて士気を下げ、孫権に短期決戦を回避させて曹操が来るまでの時間を稼ぐ策

37: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/21(月) 07:43:41
防御側が有利じゃないなら籠城する意味が解らん。

40: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/21(月) 11:28:48
いずれにせよケースバイケースでしょ
戦術的有利のため籠城する事もあれば、戦術的不利を避けるため籠城する事もあるだろうし
戦略的有利に繋がるから籠城したり、戦略上籠城するより他無い状況だということもあらぁね

具体的なことは分からんが

47: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/22(火) 12:03:32

国境防備などの要衝の堅い砦ってのは、>>46のように数倍以上の遠征軍第一波を持ち応えるために建築されているから、その点で>>1の所感は正しい。勿論中枢からの援軍頼みだけど。 
城市は別だよ、勿論。市壁の長さが長いから守るのに相当な兵力が必要で、街の住民総がかりになるし、大きな人口を抱えるから兵糧攻めや疫病に弱い。 
このパターンは、基本的に世界中どこでも、ナポレオンの時代まで変化しないはず。 
モンゴルのような極端な機動軍だと例外かも知れないけれどその辺はよくしらない。 
城攻めの歩兵には支配下の兵力を使ったんだっけか?

68: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/30(水) 09:34:20
>>47に同意。
日本の戦国時代でも、後北条氏が秀吉の後北条征伐の時に篭城したけど、兵糧があったから篭城した訳だし、その後は家臣を秀吉が篭絡して、小田原城は落ちた。だから、篭城しても、内通者が居ると駄目だし、兵糧とかの問題が多くなる。

50: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/22(火) 21:52:39
城は防衛拠点であると同時に物資集積所であり交通の要衝でもある

何れ陥落するにしても防御側は貴重な時間を稼ぎ出す事ができる

57: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/23(水) 08:33:06
そういや動物の死体攻撃やらって攻城側もやってたのかな。
占領後は困るだろうけど。

70: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/30(水) 21:11:31
籠城なんてしてたら、城内の衛生が保てなくて病気発生しまくりで終わるぞ。
水も食料も、限界有るんだし。

73: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/31(木) 00:09:26
>>70
古代戦においては、遠征軍の兵站不安の方が大きい。
衛生問題だって、大量の人間が集中しているには違いないのだから甘く見たものではない。
勿論、平野の真ん中の首府都市に孤立篭城されたのなら、攻撃側は周囲の農地を刈り尽くせばいいんだけどね。その点でも攻め込む季節は重要な問題になる

74: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/31(木) 05:52:08
白馬将軍殿は負けてしまわれた。
易京の戦い

易京城は10年分の兵糧を貯み、幾層もの城壁を備える堅城であった。公孫瓚は「兵法には百の城楼は攻撃しないとあるが、現在自分の城楼は千重にもなっている。(農事に励んで蓄えた)この穀物を食い尽くしている間に天下の事態の行方を知る事が出来よう」と言ったという。1年余りの対峙の末、食糧が尽きて撤退しようとする麴義と劉和の軍に公孫瓚は追撃して大破した。その後も袁紹の軍をたびたび破った。

あるとき、公孫瓚の別将で敵軍に包囲された者が居たが、公孫瓚は救援軍を送らなかった。曰く「1人を救援すれば、後の大将達が救援を当てにして全力で戦わない様になってしまう。今、救援しない(で見殺しにする)ことで後の大将達は肝に銘じ自ら励む様になる筈だ」とのこと。その為、袁紹が北に進軍を開始した時、国境線上に在った別営では、全力で護っても自力では護りきれない上に救援軍も決して遣って来ないことを知っていたから、自軍の指揮官を殺害して自壊するか袁紹軍にあっさり撃破されるかで、袁紹軍は真っ直ぐに易京の門に到達し得たのである(『英雄記』)。

その後、袁紹が大軍を率いて攻めてくると、公孫瓚は最初は自身が突騎兵を率いて出撃し包囲網を突破して城外の張燕・公孫続と合流して袁紹軍を背後を突く計画を練るが、関靖に止められた。公孫瓚は結局城内から公孫続に密使を送り、内外から呼応する作戦を立てたが、密使が袁紹の斥候に捕らえられて計画が漏れ、出撃するも伏兵により惨敗を喫した。袁紹は地下道を掘って易京を攻め、公孫瓚らが居住する楼閣を突き崩した(『英雄記』)。最期に公孫瓚は居城に火を放ち妻や子女らを刺し殺し、自らも自害して果てた。建安4年(199年)3月のことだった。


75: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/31(木) 09:38:18
あれは負けるのが道理

77: 無名武将@お腹せっぷく 2006/08/31(木) 23:38:39
南宋の襄樊は6年持ちこたえたけどな

襄陽・樊城の戦い

帝位継承戦争を制し、第5代大ハーンとなったクビライは長年にわたって行われたモンゴル・南宋戦争に終止符を打つべく十分に計画を練り、1268年モンゴル軍はアジュを主将として南下し樊城を包囲した。この拠点を重視する南宋も長江中流域・漢水流域の大軍閥呂文徳に命じてその弟呂文煥に膨大な糧食・装備を授けて入城させ、持久戦に持ち込む構えを見せた。

しかし、自身も第4代大ハーン・モンケの時代に南宋への遠征を指揮したことのあるクビライは、開封を兵站基地とする補給網を完備し、万全の準備を整えた上でこの双子都市を取り囲んでおり、始めから持久戦の備えは十分にできていた。呂文煥のもと士気盛んな南宋軍に対し、モンゴル軍は直接戦闘することを避け、ひたすら土木工事を続け、長大な土塁の包囲陣を築いた。

南宋政府からの最大の援軍が壊滅し、今度こそ完全に孤立した襄陽・樊城であったが、呂文煥はなおも降伏せず籠城を続けていた。依然としてモンゴル軍は襄陽・樊城を無理に攻めることはしなかったため、呂文煥は抗戦を続け、城内の兵糧のため自身の妻女を城から追い出してまで戦い、戦線は膠着気味となり、2年近くモンゴル軍の攻撃を防いだ。

ここにおいてクビライは、フレグ・ウルスにおいて改良・開発された新兵器「回回砲」を使用することを決定、早速戦場に導入された。1273年、襄陽郊外に現れた回回砲は、まず樊城の城壁を破壊、張漢英率いる軍は降伏し、回回砲は樊城に据え付けられた。樊城から飛来する巨弾は軽々と漢水を越えて襄陽を攻撃し、全くなす術のなくなった呂文煥らは、1273年2月に降伏した。


80: 世界@名無史さん 2006/09/01(金) 09:22:21
>>77 
呂文煥か。 あれってずっと包囲されっぱなしだったっけ?

85: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/01(金) 21:26:33
>>80
包囲されっぱなしだったが篭城初期はモンゴル側の水軍が整備されていなくて南宋の水軍が封鎖線を強行突破して大量の補給物資を運びこんだりしたらしい

88: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/01(金) 22:15:26
>>85 
サンクス。
漢水やらで派手な火船突撃でもあったかな。
物資が補充できれば、籠城側は心強いわな。

79: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/01(金) 04:17:10
元軍みたいに小城を開城拒否→陥落の手順を踏んだら城の人間を虐殺してその後は悪評で開城を目指すって手もあるな。

89: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/02(土) 09:04:16
城篭って不利になることなんてないだろ?
彼我の兵力が同数なら篭城側が有利になるし、 篭城して落城したりするのは、元々が不利な状態だったんだろ。

90: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/02(土) 09:46:38
>>89
兵士、食料、武器、指揮官と全く同じでも城内には一般人がいるぞ。
あと閉じ込められてる側の心理も影響しないか?

92: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/02(土) 12:12:09
>>89 
よくわかってるようだけど、自分で矛盾してること言ってるよ。

>彼我の兵力が同数なら篭城側が有利になるし

だからこそ攻撃側は大軍を用意するし、また敵が同数以下の場合は奇策があると用心するべきじゃなかろうか?
そういう用心をせず、城壁の有利を信頼しすぎて落城、なんて例もあったりする。

97: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/03(日) 08:12:52
>>92
北伐は攻め側のが少なかったのに篭城してたじゃん

99: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/03(日) 12:00:33
>>97
詳細な人数は解らない。
ちくま捲る暇がないので大雑把に書くが、諸葛亮の時代には既に魏は雍州刺史・諸軍事を置いているからこの方面にもある程度の常備兵力が整っていると考えられるけれど、気合入れて兵站整えて遠征してくる蜀軍に対して、野戦で明らかな優勢に立てる正面戦力が動員出来たかは疑問だ。
他の拠点の守備兵もいるし、羌もいるしね。
それでもある程度拮抗できる兵力だったから野戦論が強かったのだろうが、それで、「野戦に強い」とされる諸葛亮に本隊が壊滅させされれば最悪長安まで一気に抜かれる可能性もある。
司馬懿が置かれていた立場はこんなものだったのだろう。

加えて、戦場は迂回が困難な山道が走る地域であり、魏帝国から見れば辺境の果て。
「周辺を略奪」という手は(諸葛亮が農民を蜀内地へ移民させたりもしていたが)魏へのダメージとしては小さい。司馬懿から見れば引きこもっていても問題ない。

だからこそ魏延の迂回策が有効になりうるわけだけど、これは敵領土深くで乱戦に持ち込む、撤退困難な策(侵攻困難な地形から撤退するのはさらに至難)
失敗すれば全滅ルート。だから諸葛亮は採用しなかった。

91: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/02(土) 09:53:10
状況にもよるが、篭城を選択する場合は援軍を待つとか時間を稼ぐ等々の目的があるだろう

これらは攻撃側が圧倒的な場合に選択されるの例が殆どだと思う
ましてや攻城は篭城側の最低でも3倍の兵力が必要と言われている事を考えると彼我の兵力が同数ならば、あたら使える兵力を篭城させては無駄じゃあないのか同数なら、むしろ守備兵力を残し野外にて機動戦を展開して敵を苦しめれば敵は攻城どころではなくなるだろうと思う

94: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/02(土) 18:15:53
篭城戦をもっと戦略的な広い見地からみることも必要と思うよ

必ずしも攻囲された城を救う必要があるわけではないし、前線の城を捨て駒とする作戦も状況の如何では採られるんだし

縦深をとった城塞郡で敵戦力の漸減・消耗を強いて攻勢限界に達する時期を見極めて温存した戦略予備を投入することだってある

96: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/02(土) 19:09:05
>>94
姜維が戦略的縦深陣を意図していたようだけど。
もし都市機能のある重要拠点なら、救うか焦土にするか、になると思う。
うがった見方かもしれんが、後周の江北攻めという例がある。このとき南唐側は無駄に籠城させずにさっさと降伏させた。
がんばったのは玄関口である寿州城だけ。そこは淮南の守りの最たる要衝だったから。
また重要都市である江都は焦土にされた。

102: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/03(日) 18:04:51
焦土作戦というのは基本的に近代の国民国家の戦略だね

豪族単位で兵力を抱えてる時代では、奪われた領土の人口がそのまま敵兵力になる可能性が高いから自分の領土を切り捨てる焦土作戦はあまり意味がないだろう。
歴史ある帝国が続いている時代ならまだ帝国への忠誠心が期待できるけど、後漢末・三国時代にそれは見込めない。大軍に攻め込まれたら、荊州の劉備みたいに尻尾を巻いて逃げ出して、守りやすい要衝(ここでは長江ライン)で防衛線を敷き直す他ない。

>>96
姜維が取った漢中防衛の戦略変更は、それまで前方に分散して配置していた守兵を漢水沿いの二城(か三城)に引いて集中させる、むしろ戦略縦深の放棄じゃあるまいか

109: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/05(火) 01:01:45
>>102
漢中方面の事ではなく、それまで対策の為されていなかった陰平・武都方面に、多数の防御陣地を築いた事を言っているのだろう。
まぁ、これは規模から言って、相対的防御による時間稼ぎと、情報伝達を主眼に築かれたんだろうけど。

104: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/03(日) 18:11:48
焦土作戦は意味がないというか、「できない」んだな
君主にそんな強大な権力がある時代じゃないから

105: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/03(日) 18:56:19
光武帝は国家規模で、匈奴に対する一種の焦土戦術をとっているけど…
ま、一種のであって、戦術とはいえないけど。

114: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/05(火) 16:34:51
焦土作戦か…
劉備の江陵方面への逃亡は
そこからへんも考えたからかも試練

115: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/05(火) 19:04:19
董卓が洛陽焼いたのは?

119: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/06(水) 02:15:47
城なんて象に乗って突撃すれば一発じゃん!

121: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/07(木) 00:14:41
象相手ならば、ローマレギオンの様な小部隊の方陣を格子状に配置したものや、戦闘陣形の最前列に散兵を配置したものが有効だろう。
前者はザマの戦い、後者はヒュダスペス川の戦いを参考にすれば良い。

123: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/08(金) 20:04:04
史伝で話をするなら、南蛮に象はいなかったんはずじゃないかな
運用するとしたら蜀よりも呉の方が可能性がありそうだ

もし運用するとしても、遠征で体調管理するノウハウもまた別に必要だし、
三国時代では有効ではないと思う

130: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/11(月) 06:01:34
火砲が出るまで、十分な城壁を持つ城塞は難攻不落。
落ちるのは城でなく人がへばるから。
優秀な指揮官と忠実な十分な兵と糧食と水があって落ちた例はほぼ無い。
ただし、どれか一つでも足りないと落ちる。

136: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/13(水) 22:12:01
コンスタンティノープルはそれで落ちたね
それだけじゃないけど

三国時代だと、どれだけ効果的だったんだろうか
城壁の強度も西洋中世末ほどじゃないと思うけど

137: 無名武将@お腹せっぷく 2006/09/13(水) 23:23:14
遼東征伐で司馬懿が襄平の城壁に大型の連弩車を使ってたはず

145: 無名武将@お腹せっぷく 2006/11/24(金) 15:35:55
食料がなければそれまでだー


引用元: ・三国志の時代ってとりあえず城篭れば負けなくない?


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