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1: 世界@名無史さん 2013/09/30(月) 22:21:26.24 0
モンゴル帝国に勝利するなど同時代に比類なき軍事力を誇った鎌倉時代の日本。
広大なユーラシア大陸の諸民族が極東の島国に過ぎない日本に軍事面の進歩で後れを取った理由は何か?









13: 世界@名無史さん 2013/10/01(火) 16:40:38.26 O
世界最強とは思わんけど武士のモチベーションの高さは良く分からないかなあ

14: 世界@名無史さん 2013/10/01(火) 21:32:21.90 0
南宋のから情報は何年も前から来てるのでモンゴルに対する危機感は凄かったらしいね

15: 世界@名無史さん 2013/10/02(水) 01:19:45.99 0
サムライが強かったら、文永の役直後に高麗くらい征服できてるだろ。
それが高麗遠征を中止して代わりに元軍の再来を迎え撃つために、高麗遠征に負けない労力と富をかけて元寇防塁を作るくらいだから、日本海を渡っての高麗遠征に勝算がなかったんだろう。
鎌倉幕府の高麗遠征計画

鎌倉幕府の高麗遠征計画とは、文永の役以後に元軍の根拠地と考えられた高麗に遠征を行って日本侵攻の拠点を制圧しようとした構想のことである。

文永の役で元軍を撃退したものの、鎌倉幕府では再度の侵攻を予想して、元軍が行動を起こす前に日本侵攻軍が拠点とするであろう高麗を先に制圧することで遠征を阻止しようとする構想が浮上した。

1275年(建治元年)11月に金沢実政が異国征伐のために鎮西(九州)に下向したとされ、翌月には安芸国の守護である武田信時に異国征伐に関する関東御教書が出され、明年3月を目途に異国征伐を行うこと、鎮西で水手が不足した場合には山陰・山陽・南海各道から調達するため、御家人・本所(公家領・寺社領)を問わずに水手を募って博多への派遣準備を進めるようにという内容であった。だが、この時は本来鎌倉幕府の支配が及ばない筈の本所にも動員がかけられたことに対する抵抗の動きや同時に行われていた博多湾での石塁構築との二重負担の問題があり、実施されることなく終わった。

その後、弘安の役が発生し、1281年(弘安4年)8月には再度高麗遠征論が唱えられ、九州の有力武士であった少弐経資と大友頼泰を大将とし、彼らが支配する九州北部の御家人たちを動員し、更に山城国や大和国の悪徒(僧兵)にも協力を要請するもであったが、これも実施されることなく終わり、以後幕府内の政争などもあって中断されたまま終わった。


16: 世界@名無史さん 2013/10/02(水) 01:33:33.75 0
>>15
高麗みたいな貧しい国を征服しても意味ないじゃん。
日本が高麗遠征中止したのは、南宋滅亡が決定的となったため高麗に出兵しても江南方面からの侵攻を阻止できないからだよ。つまり遠征に戦略的価値が無くなったから。
高麗自体は倭寇のせいで衰亡しちゃう程度の雑魚ね。

24: 世界@名無史さん 2013/10/02(水) 07:45:49.56 0
>>16
当時、安芸国の守護である武田信時充てに北条時宗が出した異国征伐に関する関東御教書にも本来なら記載しているはずの南宋との連携について記載してはいない。
それに弘安の役直後の1281年8月にも高麗征伐が企だてられたがこれなんか南宋は全く関係ないんだが

25: 世界@名無史さん 2013/10/02(水) 07:54:25.86 0
武田信時充てに北条時宗が出した異国征伐は単なる動員令だろ。
もともと何の目的で高麗遠征を行うのかは書かれてないわけで、南宋情勢との関連が書かれてないのも当然じゃん。当時の状況考えたら南宋滅亡以外に理由は考えられないよ。

28: 世界@名無史さん 2013/10/02(水) 08:26:32.03 i
高麗征伐が三月に計画されてたから、一月に南宋が滅亡したゃったんで止めたんだろうな。

>>25のいう通り、高麗征伐を実行しても江南方面からのモンゴル軍の侵入は南宋滅亡で防げなくなって、高麗征伐自体価値が無くなってるし。

30: 世界@名無史さん 2013/10/02(水) 13:14:00.92 0
>>28
当然中国、日本それぞれにおいて日宋同盟による
作戦計画についてのソースはあるんだろうな。

31: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 12:12:44.32 0
>>30
日本の対モンゴル戦略もモンゴルの対日戦略も同時に進行してる対南宋戦の状況によって影響されるって当たり前のこと言ってるだけ。モンゴル側だって文永の役の後で一旦日本遠征を延期して、先に対南宋戦を終わらせるって選択してる。
そうすれば、朝鮮半島と江南地方の2方向から日本に侵攻できるからね。当然日本側もそれに備える必要がある。
つまり日本が高麗遠征を中止したのも、モンゴルが日本遠征を延期したのも同じ理由ってこと。

33: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 12:38:06.12 0
>>31
言い訳はいいからさっさとソースだせや!

39: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 19:59:13.03 0
>>33
「其国主疑奉表講和。会々宋人使僧曰瓊林者、来渝平。以故和事不成。」
『元朝名臣事略』

もともと日本とモンゴルの外交も南宋戦の進行状況を睨みながら行われていた。
鎌倉幕府が最終的に返書拒否したのも南宋との関係があったから。
だから、高麗遠征が中止になったのも南宋情勢の激変が原因としか考えられない。

41: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 20:23:08.95 0
>>39
弘安の役直後の1281年8月にも高麗征伐が企だてられたがこれなんか南宋は全く関係ないんだが

43: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 20:35:18.41 0
>>41
一概に関係ないとは言えないよ
幕府は引き続き間諜を出してる
弘安の役では南宋の艦隊は壊滅したけど高麗艦隊は7割くらい生還してる
つまり3次侵攻があるとしれば次ぎの拠点は
高麗からだと判断したんじゃない?
だとすると高麗の艦隊を先手を打って攻略するのは戦略として常道じゃん

32: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 12:21:05.56 0
日本に攻め込む選択肢を増やすために南宋を滅ぼすとか
蒙古帝国の世界戦略はスケールでか過ぎだろ

40: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 20:06:41.41 0
>>32
でも、それがモンゴル帝国のもともとの対日戦略なんだよ。

1269年11月に枢密院で行われた議論
「馬亨はまた述べた『(前略)日本に遣使して親仁善隣の道を説くのも、また同じ意味だ。南宋を平定してから、彼らに他心が無いか明らかにし、兵を送って平定するというのも、決して遅くはない。むしろ一挙にして両得である。全勝の策である。今すぐに兵を発したりしたら、敵を作るだけのことだ。』他に賛同する者もおり、枢密院は、馬亨の意見を詳しく聞いた。」

47: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 20:52:30.78 0
鎌倉幕府による高麗征伐は1276年、1281年、1291年と三度も企てられながら結局一度も実施していない。文永の役、弘安の役とも幕府側はほとんど得ていない状況で御家人の元軍を撃退した働き(奉公)に対して、恩賞(ご恩)に不足していた幕府としては、高麗から土地と人を手に入れることを強く希望していたに違いない。
それでも実行に移さなかったのは、対馬海峡を当たって敵地に攻め込むことのリスクに及び腰にあったからだろう。

48: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 21:05:47.86 i
>>47
>御家人の元軍を撃退した働き(奉公)に対して、恩賞(ご恩)に不足していた
>幕府としては、高麗から土地と人を手に入れることを強く希望していたに違いない。

これ、単なる妄想じゃん。
幕府からの恩賞は不足していない。
それに高麗の土地は貧し過ぎて恩賞としての価値が無い。

49: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 21:06:36.37 i
そりゃあ、大陸に攻め入って半島のモンゴル軍を撃滅しても言葉も通じない民族を統治する労力と
モンゴル軍といつ終わるともしれない戦争に突入するリスクは考慮されているでしょう。

ただ、一番鎌倉幕府が本腰を入れていた一度目は明らかに南宋の滅亡が中止理由だとする説が説得力あるね。高麗に出兵しても、南宋滅亡により江南ルートからからの侵攻ルートが開かれている。ここで出兵する戦略的価値は皆無。

二回目は弘安の役の延長。大陸に逃げ帰ったモンゴル軍の撃滅が目的だろう。ただ、逃げ帰ったモンゴル軍を壊滅させてもそれはいつまで続くかわからない戦争に突入にすることを意味する。鎌倉幕府の判断は正しかったと思うよ。目先の戦果より、長期的な戦略で中止した。

50: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 21:11:39.35 i
高麗征伐は土地を得るのが目的じゃなくて半島のモンゴル軍を撃滅して日本遠征の予防をすることにあるよね。

54: 世界@名無史さん 2013/10/03(木) 23:52:53.37 0
伊勢平氏を相手に戦った源平合戦では平氏の領地を
奥州藤原氏を相手にした奥州征伐では藤原氏の領地を
京都の朝廷を相手にした承久の乱では朝廷の領地を
それぞれ手に入れたので御家人に恩賞を配れたけど
文永・弘安の役では大元国の領地を寸土も手に入れら
れないのに恩賞はどうするんだ。

56: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 00:08:03.29 0
>>54
岩門合戦で手に入れた領地を分配したんだよ

61: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 00:51:00.08 0
>>56
>岩門合戦で手に入れた領地を分配したんだよ

弘安の役から3年後である1285年11月の内乱で手に入れた領地を分配に充てたってことは、やっぱり恩賞が足りてなかったてお前も認めるんだな

62: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 01:07:37.58 0
>>61
1281年の高麗遠征の史料は、大和・山城の悪徒や寺僧を動員しようとした記録だけじゃん。
御家人でもなく弘安の役と直接関係があったわけでもない地域で動員って恩賞問題とは全く無関係としか考えられない。

63: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 01:14:53.84 0
 
>1281年の高麗遠征の史料は、大和・山城の悪徒や寺僧を動員しようとした
>記録だけじゃん。
>御家人でもなく弘安の役と直接関係があったわけでもない地域で動員って
>恩賞問題とは全く無関係としか考えられない。

その後、弘安の役が発生し、1281年(弘安4年)8月には再度高麗遠征論が唱えられ、九州の有力武士であった少弐経資と大友頼泰を大将とし、彼らが支配する九州北部の御家人たちを動員し、更に山城国や大和国の悪徒(僧兵)にも協力を要請するもであった。

65: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 01:31:12.20 0
>>63
ところが九州の御家人に動員をかけられた史料は一切存在しない。
あるのは公家とか僧が残した間接的な記録だけ。
つまり御家人も恩賞も無関係。

66: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 06:22:28.34 i
恩賞のためなら、弘安の役で全く戦っていない山城と大和国の悪徒に動員をかける説明が全くつかないな。

二回目はそもそも御家人に動員をかける前の計画段階で中止されたのだろう。

67: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 07:01:26.74 0
そもそも元寇なんてもともとの作戦自体が無謀だったんじゃないの?
日本が震え上がって自分から降伏しない限り、鎌倉武士団がもう少しだらしなければ元軍がもう少し九州の奥深くまで一時的に進軍できるかどうかってだけで、どの道最後はああいうことになるのはやる前から決まっていたも同然な気がする。
20世紀に入って、当時世界最強の海洋帝国のはずのイギリスもガリポリで格下のトルコ相手にボロ負けしてるし、敵前上陸作戦なんて余程の圧倒的な海上輸送能力や航空支援がない限りめったに成功するものじゃないってことでは?

68: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 08:05:19.04 i
敵前上陸なんてしてないよ。

元寇は文永の役にしろ弘安の役にしろ上陸してから戦闘が始まっている。

例えば、秀吉の朝鮮出兵なんて文永の役より兵力の少ない小西隊1万8700がたった20日で朝鮮の首都漢城まで進撃している。

元寇はただ単に元軍が日本軍に比べて戦力で劣っていたってだけの話なんだよ。

71: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 09:55:05.19 i
並の軍隊では無く、間違いなく元軍は強かったよ。

同じ渡海侵攻でも、三別抄の珍島、済州島を落としているし、樺太の渡海侵攻でもアイヌを樺太から駆逐し、ジャワ島のクディリ王国を渡海侵攻で滅ぼしてる。

渡海作戦でも元軍は強かった。

74: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 13:54:11.85 0
博多と下関に同時上陸し六波羅からの増援を阻止しつつその間に九州諸侯軍を各個撃破すればよかった
全盛期のモンゴル軍ならこの程度の戦略は朝飯前だったろ

76: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 14:14:13.60 0
>>74
モンゴル軍の全盛期は弘安の役だよ。
チンギス汗死亡時には総兵力12万9000騎でしかなかったんだから。
博多と下関に兵力二分したらモンゴル軍の方が六波羅軍と九州諸侯軍に
各個撃破されちゃうな。

107: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 23:13:37.59 0
世界最大の地上軍を擁する国・モンゴル帝国
世界最強の地上軍を擁する国・鎌倉幕府

110: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 23:37:31.15 0
>>107
>世界最強の地上軍を擁する国・鎌倉幕府 
 
東シナ海や対馬海峡(日本海)の荒海を渡ってきて本調子じゃない
元軍や高麗軍相手に防衛戦争に勝っただけで世界最強とか

112: 世界@名無史さん 2013/10/04(金) 23:50:56.22 0
>>110
元軍も高麗軍も東シナ海や対馬海峡(日本海)の荒海を渡ってきて本調子じゃない
日本からの襲撃に全く歯が立たなかったんだけど・・・

『いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔ゼツして居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。』
(論倭)

『結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく荒れにけり。』(太平記)

113: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 00:44:51.07 0
>>112
そりゃ、倭寇による襲撃は、いつ、どこからくるかわからないから対策の取りようがないしな。
元寇のように敵の待ち構えているところに襲撃してくるのとは違うだろ。

114: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 00:59:54.97 0
>>113
いつ、どこからくるかわからなくないよ。
日本と元との交易は基本慶元府でしか行われてなかったから、元側も軍を置いて備えていた。
倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。

115: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 01:05:04.48 0
>>114
へー、そりゃ初耳だな
でそのソースは

121: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 13:15:06.00 0
>>115
元史 巻020 成宗三 大徳六年
「冬十月甲子,改浙東宣慰司為宣慰司都元帥府,徙治慶元,鎮遏海道。」

元史 巻021 成宗四 大徳八年
「夏四月丙戌,置千戶所,戍定海,以防歲至倭船。」

元史 巻021 成宗四 大徳十年
「夏四月甲子,倭商有慶等抵慶元貿易,以金鎧甲為獻,命江浙行省平章阿老瓦丁等備之。」

124: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 14:50:57.56 0
>>121
お前がソースとして提示した文章のどこに

>倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。

って書かれてるんだ?

125: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 15:09:44.78 0
>>121は元側が日本からの襲撃に備えて慶元府に軍を置いていたソース。
その慶元府が日本からの襲撃で焼き落とされた記事は↓

『島夷歳以土物互市。郡境吏卒侵漁之、不堪以忿、持所賚流黄等薬火城中。官府・故家・民居幾尽、
観亦与。至大二年也。』(慶元府玄妙観碑銘)

『倭人入市慶元、有司不能用公前後持之道、而利其貨宝刧之以兵、反被殺略焼焚之禍』(程雪楼文集)

程雪楼文集には「兵をもちいたら反って殺略焼焚の禍にあった」と書いてあるわけで
もろに「倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落とした」だろ。

126: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 16:11:07.74 0
>>125
それってことだろ
>大徳11年(1307)、実際には至大2年(1309)のことであるが、寧波にて日本
>の商人が暴動を起して放火し、寧波の城中がすべて焼失する事件が起こって
>おり、これにより日本僧の摘発が天童寺にも及び、龍山徳見(1284~1357)
>を含めた十数人が逮捕されて大都に送られている(『東海一オウ集』巻5、真源大照禅師行状)。
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003f.html
 
交易に来た日本の武装商人(倭寇)が商いに不満をもって慶元府内で暴れまわったってことだろ。
俺が聞いてるのは、

>倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。


ていうお前の主張の裏付けとなるソースなんだけど!?
だいたいお前が出してきた「程雪楼文集」でも倭人入市慶元って日本人が慶元府内に入ったて
記されてるじゃん

130: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 16:38:11.36 0
>>126
あと、補足すると当時の慶元は日本人入城禁止だから単なる暴動じゃなく外部から攻め落とした以外の可能性はないよ。
127: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 16:29:24.51 0
>>126
日本の武装商人(倭寇)が商いに不満をもって慶元府内で暴れまわったどころじゃないだろ。
元が軍を駐屯させていた慶元が全焼した上、住民が虐殺されてるんだから。
思いっきり焼き落とされてるじゃん

128: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 16:37:04.11 0
>>127
>元が軍を駐屯させていた慶元が全焼した上、住民が虐殺されてるんだから。
>思いっきり焼き落とされてるじゃん

だから軍が駐留しているところに、商取引装った海賊が入り込んで、だまし討ちをしたんだろ。
その結果、慶元府が全焼した上、住民が虐殺されたんだろ。


131: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 17:23:23.32 0
>>130
>あと、補足すると当時の慶元は日本人入城禁止だから単なる暴動じゃなく
>外部から攻め落とした以外の可能性はないよ。

AD1306 日本商船、元の慶元(寧波)に到り貿易
AD1309 日本商船、異賊蜂起する
日本の交易・文化史_2 
http://www.geocities.jp/yasunobuogawa/rekisi_3.htm 

132: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 17:34:49.98 0
>>131
日本人入城禁止と貿易はずっと並行して行われてたんだよ
つまり日本人は慶元の城の外で貿易させられてたってことね

133: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 19:01:39.37 i
慶元で日本人入城禁止と貿易が並行して行われていたソース
「郡城に入れるなかれ、貿易を止めるなかれ」だからね

「舶有定制。輸其物以上干官、勿入郡城、勿止貿易、則得以永遠。」(馬元帥防倭記)

139: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 22:12:57.43 0
>>133
>慶元で日本人入城禁止と貿易が並行して行われていたソース
>「郡城に入れるなかれ、貿易を止めるなかれ」だからね

ふーん、じゃあ日本人が交易の為に慶元府に訪れていたことを
認めるんだな。
じゃあ俺が主張している

>軍が駐留しているところに、商取引装った海賊が入り込んで、だまし討
>ちをしたんだろ。
>その結果、慶元府が全焼した上、住民が虐殺されたんだろ。

でことでいいな

140: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 22:32:56.98 i
>>139
だから日本人の商人は慶元の城の中には入れてもらえないんだよ。
城の外で貿易するしかないの。
商取引を装ってもだまし討ちとかできないわけ。
つまり慶元は外から攻め落とされたってこと。

116: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 11:24:51.11 0
モンゴルも日本もほとんど弓騎兵オンリーの兵制だったから、軽装にしてもたいして機動力を稼げない日本の地形ではより重装の鎌倉武士のほうが有利だっただろう。
同じく地形の問題で飛距離が長い複合弓の効果は限定的で、矢が重く殺生力の高い和弓のほうが有利。
さらに攻撃三倍の法則を考慮すると、兵の補充もきかない元軍にはどのみち全く勝ち目のない勝負だったと思われ。

117: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 11:58:25.55 0
モンゴルの馬は扱いやすくするために去勢されていたのに対して、日本には馬を去勢する習慣はなかった(そもそも武士は気性が荒々しい暴れ馬ほど名馬として好んだらしい)
そういうの乗り回していた割に落馬事故死の話をあまり聞かないってことは、実は鎌倉武士の乗馬技術は本家騎馬民族以上だったのかも。

119: 世界@名無史さん 2013/10/05(土) 12:34:53.17 i
そりゃあ、小さい時から日々流鏑馬と犬追物漬けの毎日を送っていたから、鎌倉武士の馬術は相当なもんだったでしょう。

鎌倉武士並に個々の戦闘レベルが高く武具も独自に発達した民族は世界広しといえども、少数だろうしモンゴル軍が敗北するのも不自然でもない。

144: 世界@名無史さん 2013/10/06(日) 01:04:31.65 0
朝鮮製船(高麗)は頑丈で帰還できた船もあったことを後で知る無知な俺

146: 世界@名無史さん 2013/10/06(日) 05:31:27.08 O
まあ朝鮮の船は度々日本に海賊に来て実戦に裏付けられてるもんな

153: 世界@名無史さん 2013/10/07(月) 00:15:42.11 0
対馬に拠点をつくってじっくり攻められれば無理だった

155: 世界@名無史さん 2013/10/07(月) 02:55:09.17 0
>>153
あの時代に長期的な兵站を組織的に行うとか無理だし、対馬には大軍を養う生産力も無いから無理

そもそもモンゴルに限らず、大規模な渡海作戦で、対岸に支援してくれる勢力が無い状況で勝利するとか無理

157: 世界@名無史さん 2013/10/07(月) 03:26:27.96 0
>>155
浅学ですまんスレチだけど豊臣秀吉は支援がないのになんで朝鮮に上陸できたの?

158: 世界@名無史さん 2013/10/07(月) 07:44:46.96 0
>>157
あの時代としてはかなり大規模かつ計画的な兵站の存在、李朝自体の内部空洞化
もちろん、補給あったにせよ、基本は現地調達なんで、明軍の焦土作戦は効果的だった模様

159: 世界@名無史さん 2013/10/07(月) 07:57:41.32 0
実際半島が焦土になったのって焦土作戦が原因だもんね・・

165: 世界@名無史さん 2013/10/08(火) 00:42:26.63 0
当時の鎌倉幕府に
超巨大軍事国家との戦いという自覚はあったのかな

170: 世界@名無史さん 2013/10/08(火) 06:55:22.23 0
>>165
当時の日本はモンゴル帝国について正確に認識してたよ。
だから牒状が届いた段階で重大な国家的危機として大問題になった。

「麗しき御賀の儀、いかばかりの事にてか有んずらんと覚えしに、蒙古国とかやより牒状を奉る。
高麗の牒を相副たり。宰府よりまづ関東へつげて、関東より二月六日牒状をまゐらせたり。
これに依て御賀止めらる。
公私本意なき御事也。蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。
大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。高麗も同せめおとされて、
臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。牒使には趙良弼と云ものわたれり。
高麗の使を副たり。牒状二通あり。一通は高麗の牒也。蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。
至元三年と載たり。高麗国、同彼年号をうけて至元となせり。去年八月の状也。
数多の方物を相副て、正月一日大宰府に着たり。 」
【五代帝王物語】

171: 世界@名無史さん 2013/10/08(火) 11:03:49.87 0
モンゴル帝国軍の戦略も戦術も当時としては妥当なものだったが
幕府軍は文字通り個の力で元寇に打ち勝ったんだな

173: 世界@名無史さん 2013/10/08(火) 11:28:05.57 i
元軍は歩兵が多かったようだから、ユーラシア各地での「モンゴル騎馬弓兵に翻弄される歩兵主体の各国の軍隊」という構図が局地的に逆になってたんだよな。
半島の馬鹿連れてこないで、その分本物の馬を増やしたほうが良かったんでは?

182: 世界@名無史さん 2013/10/09(水) 15:03:51.76 0
蒙古の軍勢がそのまま攻めてきたら勝てない
地続きでなくて良かった

184: 世界@名無史さん 2013/10/09(水) 15:45:57.84 0
>>182
蒙古の軍勢をそのまま船に乗せて攻めてきてるじゃん
陸続きと何も変わらないぞ

186: 世界@名無史さん 2013/10/09(水) 18:17:17.52 0
今の航海・航空技術ですら陸続きか海を隔ててるかと言うのは防衛上大きな違いになる
当時考えればお察し

189: 世界@名無史さん 2013/10/09(水) 20:13:52.55 0
しかし朝鮮から対馬海峡に船の橋をかけられないかマジで検討していたというぞ

190: 世界@名無史さん 2013/10/09(水) 20:17:57.32 i
>>189
木造船繋いで使うんでは放火されて赤壁の戦いみたいなことにw

208: 世界@名無史さん 2013/10/10(木) 13:43:37.41 0
名称こそモンゴル帝国軍だが
軍の内容は指揮官・中国の軍官僚、兵士・朝鮮農民では何とも心もとないなw

209: 世界@名無史さん 2013/10/10(木) 14:13:12.71 0
>>208
中国の軍官僚ってメチャ使えるよ。
フレグの西方遠征で暗殺教団壊滅とかバグダード攻略とかの時に中核となって
活躍したのが郭侃だろ。
モンケが死んで中国人がゴソッと東方へ帰還した途端に勝てなくなってるし。

218: 世界@名無史さん 2013/10/10(木) 23:12:39.26 0
蒙古軍はドイツ兵を恐れていた
ドーソンによると、ハンガリーにおいても、エステルゴムの内城
Albe-Julie Saint-Martinの三城は陥落せず、本国よりオゴタイ
崩御の報を得て囲みを解いたという。これとは別に蒙古軍は
オーストリア に侵寇し、ウィーン南部のノイシュタイン城を包囲した。
この攻城戦は、『ローマ帝国衰亡史』のエドワード・ギボンが次の
ように叙述している。

一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声と武勇に恐れを
なしていて、オーストリアのノイシュタインの町への彼らの攻撃は
五十人の騎士と二十丁の石弓兵で勇敢に防衛され、彼らはドイツの
一部隊の来援で包囲を解いた。 (「ローマ帝国衰亡史」巻10)

このようにギボンは蒙古人がドイツ人(フランク族)の勇猛さに
恐れをなしていたと記している。
たった五十人の騎士で一城が守れるとは信じがたいがノイシュタット
の防衛はドーソンも、 ノイシュタットには僅かに五十人の守備兵と
二十人の石弓兵とを備える のみなりしが、蒙古兵はオーストリア公、
ボヘミア王、カリンチア公、 バーデン侯Agrar管長の連合軍近けるを
以て退却したり。(「蒙古史」)
 今村明著 『封建制の文明史観』P60-P61

219: 世界@名無史さん 2013/10/10(木) 23:29:31.79 0
どこの世界にも狂信的兵士たちに手こずらされた話は存在するからな
その類じゃね

220: 世界@名無史さん 2013/10/11(金) 00:05:04.91 0
1241年8月初め、バトゥの命により、モンゴルの先遣隊はオーストリアに侵入
し、ウィーン近くのノイシュタットまで侵攻した。しかし、オーストリア公、
ボヘミア王、その他の君侯、アクレイアの総主教ら率いる強力な合同軍に迎撃
され、退却した。モンゴル勢はそれ以上西方に踏み込むことは出来なかった。

またハンガリー王から皇帝に宛てた書簡で、「領土奪還のあかつきには、神聖
ローマ帝国に臣従する」とまで明言して救援要請を訴えるとw
彼はすぐさま 嗣子コンラートに軍団を委ねて派遣した。同軍団は、タタール勢
とその傘下に入ったキプチャック勢の合同軍を迎え撃ち、ドナウ川の一支流河
畔で激戦の末に撃退した。
モンゴル vs.西欧 vs.イスラム 13世紀の世界大戦 (講談社選書メチエ)

221: 世界@名無史さん 2013/10/11(金) 00:43:05.82 0
モンゴル軍は最初から連戦連勝だった訳じゃないからな
一時は撤退を余儀なくされてもすぐに態勢を立て直し外交戦情報戦で骨抜きにし
最後に精鋭部隊の偽装撤退半包囲戦術で息の根を止める

249: 世界@名無史さん 2013/10/11(金) 21:17:04.62 O
実際ガチャガチャに鎧固めた相手にパルティアンショットって効くのかな

251: 世界@名無史さん 2013/10/11(金) 21:29:47.82 0
>>249
遠矢は割と貫通するし、馬に当たりゃ落馬するしな

まあ、重武装云々より、欧州の騎士どもは戦術とか集団行動とか大の苦手なのから
なんとかしろと
だから半数のウェールズ弓兵に殲滅されるんだ

253: 世界@名無史さん 2013/10/11(金) 23:50:02.67 0
どんだけ厚着の鎧を着込んでも
矢をしこたま飛ばしてくる相手に向かっていくにはよほどの強心臓が必要だろ

254: 世界@名無史さん 2013/10/12(土) 00:04:20.72 0
第1回十字軍においてセルジュークトルコ軍はドリュラエウム付近
で野営していた十字軍の一隊に対して攻撃を仕掛けたが、トルコの
騎兵の放つ弓矢は甲冑で重武装した十字軍の騎士らに対して効果を上げず、
他の十字軍部隊が次々と救援に現れるに至って、大きな損害を出した
トルコ軍はついに敗走した。

280: 世界@名無史さん 2013/10/22(火) 16:36:28.24 0
>>254
十字軍の装備がセルジュークトルコ軍に有効だったのは第一回だけ。
その後にアナトリアを突破して聖地にたどり着いた十字軍は存在しない。
特に酷かったのは1101年の十字軍で3つの大規模な十字軍がセルジュークトルコ軍
によってあっさりと全滅させられてる。
つまり、第一回は単にセルジュークトルコ側が分裂してた隙を衝かれただけね。
まともに戦えば後進地帯のヨーロッパ軍はイスラム軍に勝てないよ。

255: 世界@名無史さん 2013/10/12(土) 00:24:19.32 0
モンゴル軍って重装備の歩兵騎兵には重騎兵が相手をするんじゃなかったか
そして軽騎兵の弓矢は罠にはまってパニくる一般歩兵がターゲットだったかと

256: 世界@名無史さん 2013/10/12(土) 01:35:45.53 0
ナショジオで豚肉に鎧かぶせて刃物の打撃の実験やってたけど
刃物で鎧が裂けても中身は打撲か軽傷程度済むケースが多かった
矢が貫通しても必ずしも戦闘不能になったとは限らんからな

257: 世界@名無史さん 2013/10/12(土) 01:59:13.27 0
さらに鎧の下にも衝撃吸収するような服とか着込んでるだろうし
そんなに簡単に飛び道具だけで相手を無力化できるなら白兵戦なんて必要ないからな
今の時代の戦闘はそういう状態だけど
クレシーでウェールズの射手にやられたのは騎兵がぬかるみにはまって的になったから
通常の動ける騎兵に飛び道具だけで勝てんでしょ
ちなみにモンゴルも相手を崩すときは重騎兵使うし、オスマンも重騎兵使ってたよ

引用元: ・なぜ鎌倉時代の日本は世界最強国になれたのか?


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