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1: 人間七七四年 2008/01/15(火) 17:10:53 ID:TqLaahDj
斗星の北天に在るにさも似たりと評された安東愛季について語るスレです







200px-Chikasue_Andō


安東 愛季

安東 愛季(あんどう ちかすえ/よしすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての出羽国の戦国大名。檜山系安東氏第8代当主。居城は檜山城。

長く分裂していた檜山系と湊系の安東氏を統一し、安東氏の戦国大名化を成し遂げた智勇に優れた人物であったといわれている。統一の経緯には諸説があり不詳であるが、婚姻関係と養子縁組とにより檜山系が湊家を事実上吸収したものと推測されている(愛季の父母はそれぞれ檜山、湊出身である)。更に半ば独立勢力であった比内地方の国人の浅利則祐を討って、その弟の勝頼を傘下に置き勢力を拡大した。永禄7年(1564年)から南部領に侵攻し鹿角郡獲得を目論むが、これは永禄12年(1569年)に南部晴政に阻まれた。

領土経営に関しては、それまで湊家が低率の津料を支払うことを条件に認めてきた、雄物川上流域の大名・国人による湊における交易を統制することにより、旧来の蝦夷地貿易などの外海交易に加え河川交易への統制強化(江戸時代においても、庄内藩が最上川流域・秋田藩が雄物川流域に対し津料制を柱とする河川交易統制を敷き、内陸諸藩の主要問題となっていた)を断行しつつ、土崎港を改修して北日本最大の港湾都市に育て上げた。

天正元年(1573年)から天正10年(1582年)まで織田信長に毎年の貢物を贈ることで誼を通じ、信長の死後は羽柴秀吉と誼を通じるなど、中央権力とも連絡を密にしており、天正5年7月22日(1577年8月6日)には従五位下に、天正8年8月13日(1580年9月21日)には従五位上侍従となるなど、安東氏の最盛期を築き上げたと伝えられている。

天正10年(1582年)に浅利勝頼を蠣崎慶広を使い謀殺。出羽北部の沿岸部をほぼ統一し、内陸部に進出し雄物川流域の支配権を巡り戸沢氏との戦いに向かったが、1587年(天正15年)、角館城主戸沢盛安と戦った際、仙北淀川の陣中で病死した。

文武に秀で、秋田郡・檜山郡・由利郡などを版図に収めて羽後(出羽北半)最大の大名となった彼は、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された。





4: 人間七七四年 2008/01/15(火) 21:01:50 ID:mfeqIqZl
あと10年長生きしてたらな
実季なんか長命だったのに

12: 人間七七四年 2008/01/29(火) 04:51:01 ID:E+oFpzSM
政宗よりはすごいが義光には勝てないな。

13: 人間七七四年 2008/01/29(火) 05:55:16 ID:iiT9ElE4
小野寺や戸沢や武藤よか格上だろうが、伊達・芦名・南部・最上らの足元にも及ばない
もしかしたら津軽為信より格下かも
大体大名と呼ぶのもおこがましいし、国人レベルでしょ?
桶狭間以前の織田家よりも勢力は弱小だし、
せいぜい今川の被官だった頃の三河松平家とか、
大内・尼子の間で右往左往してた頃の毛利家レベル

153: 人間七七四年 2008/05/08(木) 19:09:57 ID:25v0Zew+
>>13
調べてからいえ…
安東愛季は津軽より上だ…
その証拠に六羽川で勝っている。
由利・秋田・比内・山本・西津軽を手中に納めて国人か?
桶狭間前織田・松平よりは絶対に強い
土崎湊を改修しアイヌ貿易を独占し日本海から河川流通を抑えて金銭も有った

16: 人間七七四年 2008/01/29(火) 13:21:53 ID:E+oFpzSM
蛎崎氏を従属させてアイヌ貿易を独占し日本海から河川流通を抑えて裕福だった件。

17: 人間七七四年 2008/01/29(火) 13:53:48 ID:iiT9ElE4
>>16
コシャマインの乱の平定以後蛎崎は力をつけ
愛季の頃はほとんど独立してた

19: 人間七七四年 2008/01/29(火) 19:16:35 ID:kxj8cb14
鎌倉時代以来の蝦夷管領の家に向かってたかが豪族とか
どんだけ日本史の知識がないのよと

27: 人間七七四年 2008/01/30(水) 15:31:42 ID:cMHWsm6+
>>19
鎌倉時代はね
戦国時代は南部家の隆盛に圧迫されて十三湊を失い
さらに家自体が湊・檜山に分裂していた
愛季は両家を統合したとはいえ、その力は全盛期の半分以下
当時の出羽最強は間違いなくなく伊達であり、ついで最上
その下に安東・武藤・戸沢・小野寺がどんぐりの背比べをしている状態
その中では安東が頭一つくらいは抜け出ていただろうが、
伊達・最上に比べたらはるかに小粒
抗争相手の南部家にしたって動員力は安東の倍以上はある
安東は永録九年の鹿角長牛城攻略戦での六千が最大だが、
南部はその長牛城の奪還に一万五千を動かしてる

35: 人間七七四年 2008/01/30(水) 19:45:37 ID:RhOWM+xY
>>27
その南部は連合軍だけど?いや、石川や九戸も南部家に統括されるっていう信ヤボゲーム脳なら確かにそうだけど

41: 人間七七四年 2008/01/30(水) 21:00:16 ID:cMHWsm6+
>>35
それ言ったらあんた、安東も全く事情は同じで、浅利なんかも完全に屈伏してないわけでして半従属の諸豪族をかき集めても六千が限度ではどの道南部の足元にも及ばないよ

23: 人間七七四年 2008/01/30(水) 00:27:58 ID:BEqseUcI
安東愛季にとって最大のライバルは南部?

24: 人間七七四年 2008/01/30(水) 03:21:58 ID:mKMTD+S7
南部と言うより九戸じゃないか?

25: 人間七七四年 2008/01/30(水) 08:39:09 ID:RhOWM+xY
ライバルっていうか単純に河川上流を抑えて流通を安定させたかったんだろう
言ってしまえば周り全てが敵だ
それに蠣崎は愛季の頃はまだ伺候していたぞ。やはり実季の湊合戦が大きい

56: 人間七七四年 2008/02/04(月) 19:50:38 ID:sJrn/dJz
秋田で安東愛季の特番作らないの?

57: 人間七七四年 2008/02/05(火) 11:26:28 ID:iXSdpEOi
>>56
確かにやって欲しいな。
今の安東の子孫の人に突撃インタビューとかしないかな。
愛季が政宗みたいなインパクトのある戦をしてれば、BASARAとか無双に出てたと思うが・・・

70: 人間七七四年 2008/02/14(木) 05:57:01 ID:BdVes/js
>>56>>57
俺岩手県民なんだけど、10~15年くらい前かな?
安倍氏の特集番組やっててその後半部分が安東氏の話で、当主の秋田なんとかさんがインタビューされてた
当時糞ガキだった俺は岩手にいた安倍氏の子孫がなぜ秋田さんなのかサッパリだったw

67: 人間七七四年 2008/02/12(火) 18:36:43 ID:t13HugPG
安藤氏の遠祖は反逆者長臑彦とか。
官位をもらう際に「反逆者の子孫になんてやれるか」と異論がでた、という逸話がある。

68: 人間七七四年 2008/02/13(水) 22:38:23 ID:PyNcpy+O
蝦夷だからね。

69: 人間七七四年 2008/02/14(木) 00:43:20 ID:asyYRATl
てか安東家はエゾというより、縄文人の直系にあたるらしいね
血縁がどうのより文化的な意味合いで

72: 人間七七四年 2008/02/15(金) 22:31:57 ID:LctTfwpn
ところで秋田(佐竹)って戊辰戦争の時何してたん?
なんで袋叩きにされるとわかってて列藩同盟から真っ先に抜けたん?
「壬生義士伝」程度の知識しかないうらに教えてちょーよ

73: 人間七七四年 2008/02/16(土) 17:53:52 ID:1FAmzVOf
>>72
官軍参謀が秋田藩の過激派をたきつけ、同盟を離脱させようとしていた。
それを察知した秋田藩重役が、直接官軍にあたったのが痛かった。
十分な証拠も無いまま談判したため、天朝の軍隊に疑いをかけるか、と逆ギレされた。
ことをこじらせた秋田藩は十分な警戒もできない。
結果、過激派による仙台藩使節殺害が起こり、秋田藩は同盟を離脱した…というお話。

76: 人間七七四年 2008/02/16(土) 20:50:53 ID:m7Aq+GZQ
>>73
そもそも列藩同盟に参加してる時点で
官軍の使者など問答無用で斬り捨ててしかるべきじゃない?
藩の重役たちはなぜ今さら「天朝様」の名を出されてびびったのか
あと、第一次長州征伐時の長州藩のように、
保守派が革新派を粛正して藩論を列藩同盟寄りに統一することもできたはず
なのに革新派の暴発をみすみす見逃してるとはこれ如何に
藩が潰れるか潰れないかの瀬戸際なのにお粗末すぎやしませんか?

77: 人間七七四年 2008/02/17(日) 08:58:44 ID:kz0aPxd2
>>76
薩長の使者・参謀だけなら間違いなく斬り捨てていたでしょう。
ここで厄介なのは、お公卿さんを従えた「鎮撫使」の体裁をとっていたこと。
宗教的権威のお使い、中央政府の外交団、官軍先鋒の三つの顔を持っていたわけ。
武力の威圧は凌いだ秋田藩も、前二者にはどう対処していいかわからなかった。
あと、秋田は平田篤胤の故地で、尊王派がもともと強かったこともある。

80: 人間七七四年 2008/02/18(月) 10:13:31 ID:bbTdsb+X
ここの住人ってほとんど秋田出身なのかな?

81: 人間七七四年 2008/02/19(火) 14:59:57 ID:148Dauh6
いえ私は神奈川県民です。

82: 人間七七四年 2008/02/19(火) 15:40:09 ID:giiyKeKG
>>81
ほほう、ここで言っちゃ何だが
安東は全国的に知名度がマイナーだから
秋田県民か、東北の人が多いと思ったら
関東に住人がいるなんてびっくりした。

やっぱ安東と北条でガチで戦わせれば
安東負けちゃいますかね(泣)

北条は有名で優秀な家臣団が豊富に対して
安東は・・・・

自分秋田県民でも知ってる人は五十目ぐらいしか知りません。

浅利は謀反で誅殺されるけど

83: 人間七七四年 2008/02/19(火) 20:05:29 ID:148Dauh6
>>82
2年前に一泊二日で急ぎ三戸城・弘前城・久保田城・横手城を見に行きましたがたしかに秋田県に安東氏への愛は無さそうでした。
佐竹市長?の政策で意図的に消してるのかもしれませんね。
横浜市民なので小田原には愛着はありませんので北条は興味なしです。
津軽・安東・最上・白井長尾あたりが好きですね。

276: 人間七七四年 2010/03/31(水) 13:46:50 ID:2IUzz7mZ
>>83
今の秋田市で『安東』と言っても誰も????
秋田市中心部は佐竹氏以降の町なので。

土崎湊に行けば、ほとんどの人が知っている。
夏の山車の飾り物だからね。
安東(秋田氏)の人形は有っても、佐竹の人形は乗らない。

96: 人間七七四年 2008/02/22(金) 23:30:16 ID:SJQYRGjJ
唯一愛季が残したものって、土崎湊だよね
愛季が開発した土崎湊からロシア、中国、アメリカ、欧州などへ貿易が行われているしね
ソースはここ
http://www.geocities.jp/kitadewa/tikasue.htm

97: 人間七七四年 2008/02/23(土) 11:57:23 ID:C9ivt2OU
>>96
もし、秋田を離れることがねければ伊達みたいに外国に使節を送ってどっかの国と連合して徳川を倒そうととする野望を抱いてたかもしれないね。

101: 人間七七四年 2008/02/23(土) 22:34:35 ID:U1DDmfC6
管理下にある太閤蔵入地含めてもたかだか8万石しかない秋田がそんな大それた陰謀を企てるなんて経済的っつかもはや物理的に不可能
当主の器量以前の問題
つか実季も伊達同様怪しい動きして最上に訴えられてあやうく改易されかかってね?

106: 人間七七四年 2008/02/24(日) 11:36:04 ID:0A8cSgmW
いやあながち夢想とまでは言えないんじゃない?
日本海貿易と雄物川の流通経済。
それに金山衆の開発で佐竹時代にそこそこ金が出てたような…。
北東北は石高だけでは語れないよ。

104: 人間七七四年 2008/02/24(日) 10:56:54 ID:0A8cSgmW
ただ関ヶ原では津軽の行動も不透明なんだよな。
東軍に参加して大垣攻めしてたとか主張してるが…証拠がまったくないし家康から加増もされてない。
安東としては庄内の上杉と小野寺が西軍だし津軽の動向が不明で、真の狙いが不明なままの南部が最上支援で山形へ入るとなると不安だろうな。たしか戸沢は東軍で小野寺攻撃してたんだったな。上杉や安東や津軽の日本海組は三成と親しかったと言われているな。

108: 人間七七四年 2008/02/24(日) 15:33:57 ID:O38izJi3
>>104
不透明、って大垣まで出張ってきて不透明呼ばわりでは為信もやってられんわな。
小部隊を率いて、誰かの与力として大垣城監視部隊にいたらしいぞ。
上野で加増された2000石は、その恩賞。

110: 人間七七四年 2008/02/24(日) 18:17:41 ID:0A8cSgmW
津軽為信の関ヶ原時の出兵に関しては謎のまま。
唯一の証拠は徳川秀忠が「家康の上方出陣するので為信も出陣して欲しい」との内容の書状のみ。
しかもこの書状は関ヶ原後84年経過した後に商人から購入したもので、それまでは津軽藩も為信出陣についてはまったく不明だった。
津軽藩はこれを受けて関ヶ原131年後に為信は関ヶ原決戦前に駿府で家康と面会したと主張し始めたが駿府は中村一氏の居城なのでウソ。
大垣城攻め参加武将の
水野勝重・西尾光教・松平康長は津軽為信の兵2000に対して半分以下の兵しかいなかったのに1万石加増である。
兵力で言えば津軽が主力でありながらわずか新田郡二千石加増は有り得ない。
大阪城には為信の長男信建がおり佐和山城落城後に三成次男重成を津軽に脱出させた。

111: 人間七七四年 2008/02/24(日) 18:27:56 ID:0A8cSgmW
一説によると家康敗死の誤報で安東・戸沢・南部らは驚き慌てて義光に挨拶すらせずに退却したらしい。

142: 人間七七四年 2008/03/03(月) 23:22:14 ID:u7uR6LhW
愛季にとって残念だったのは、「六羽川の戦い」で為信の首を取らなかったことだな。
とっていれば、津軽は安藤氏が代々の領主だろうな。

145: 人間七七四年 2008/03/05(水) 10:27:40 ID:YatvcgIK
実際南部は安東、葛西には勝利。葛西は大崎に連勝。大崎は伊達に勝利。北から南にかけて弱体なのは気のせいだろうか。
大崎に勝てない伊達は葛西にも勝てんな。

146: 人間七七四年 2008/03/05(水) 22:19:49 ID:jw7duRBi
>>145
日本海側が強いような気がする

愛季は情報伝達速度が東北の割にはすごい
信長の死を1ヶ月くらいで掴んでいる

155: 人間七七四年 2008/05/08(木) 20:17:30 ID:7uHZSH47
安東は動員しようと思えば蝦夷のアイヌも動員できるんじゃないの?

156: 人間七七四年 2008/05/08(木) 20:23:40 ID:/g3YmZpt
海渡ってくるのかw

159: 人間七七四年 2008/05/11(日) 18:53:27 ID:GkqeZVAz
安東は蠣崎氏も動員できるからな。しかも九戸討伐で豊臣諸将が恐怖したアイヌ兵には毒矢攻撃があるし。

162: 人間七七四年 2008/05/25(日) 13:06:39 ID:cgl7mVB9
秋田に旅行行ったら佐竹一色で安東臭が抹殺されてて泣いた。
しかし茨城に行ったら佐竹が存在してなかったかのように水戸徳川臭ばかりでクソ過ぎだった。
常陸太田市は佐竹をもっと前面に出せよ…いや秋田市長を宣伝支持する側面支援になるからダメか。

164: 人間七七四年@全板トナメ開催中 2008/06/01(日) 12:21:07 ID:PcqHs9zU
安東愛季の生涯は、陣営を塒に東奔西走といった戦野に明け暮れた。
しかしそうした忙中にも打つべき手はぬかりなく打った。
神社・仏閣の保護に手を差しのべ民心の把握につとめ、
中央の覇者織田信長に使を派し交誼の絆を固め、己れの顕在を示した。
国にあっては檜山郡に接する浅利氏、その東方の南部氏、北隣の津軽氏、
内陸にあっては海湊を求め雄物川下流地域の攻略を目指す
仙北の戸沢・小野寺氏、由利侵入を企てた庄内の武藤氏駆逐など、
まさにあたたまる暇とてない多難な年月を送った
コピへだがここら辺を見ると
愛季は晴政より名君だと思えてしまうんだよなあ。

170: 人間七七四年 2008/06/27(金) 18:47:42 ID:Zv+KD1ph
>>164
統治政策は室町時代のまんまで全然戦国大名らしくなかったけどね
まあ戦国大名に脱皮できたのは東北では伊達・最上くらいなものだけど

172: 人間七七四年 2008/07/02(水) 03:28:16 ID:9xMeYvov
最上は分枝の豪族などを粛清して集権化につとめているね
伊達は曖昧な基盤だったけど、天文の大乱を契機に、
勢力範囲を縮小させつつも盟主としての存在から脱皮している
それを微妙に取り込みながら勢力を拡大したのが蘆名だね

これらと比べると安東は見劣りしてしまうけど、日本の北端なので仕方ない

173: 人間七七四年 2008/07/02(水) 07:07:56 ID:p0NgIOki
最上のそれを集権化と呼び
檜山と湊を統合や浅利らを支配下に置いた愛季を集権化と呼ばない理由がわからない

174: 人間七七四年 2008/07/08(火) 04:40:18 ID:YJeX9R+Y
>>173
んだな
安東愛季は湊家の実質吸収だけでなく秋田湊・雄物川水運の掌握という形で国人衆への影響力を強め、結果として豊島玄蕃の湊騒動が起きたが、これを鎮圧して、周辺一帯を安東家の完全な勢力下に置くことにすら成功している
これを秋田湊一帯の安東家による集権化と言わずになんと言うという感じ(それに比べると北部の集権化という面では緩みがなかったとは言わないが集権化できていなかったわけではないと思う北部は常に南部との緊張関係があったので、どうしても不安定要素があった)

そういう意味では集権化の完成を期すべきタイミングでの愛季の急死はあまりにも痛かったね
後継者は完全に決定されてたわけではなく、嫡男の実季はまだ若い(当時12歳)
これは外の勢力からすれば格好の介入のチャンスなわけで、結果として、湊家・檜山家の因縁に名を借りただけの後継者争いが起こってしまったと

175: 人間七七四年 2008/07/08(火) 05:03:17 ID:4BaWnrCu
でも湊騒動ので実季側に付いたのは檜山湊問わない一族や重鎮、周辺豪族ということを考えると、
この時点で完璧に檜山系に安東家は収斂されてた事が分かる

その後のお家騒動のぶり返しをみると転封が仇になってるように見えてならない
安東家としては最上・徳川に対して恨んでも恨みきれないものがあるだろう
戊辰戦争での裏切りはなるべくしてなったと言える

176: 人間七七四年 2008/07/08(火) 17:38:51 ID:cG1EONOq
第2次湊騒動の際数万単位の軍勢が押し寄せて実季側は籠城人数不明だけど敵側の10分の1程度の人数が鉄砲300挺で応戦したと「奥羽永慶軍記」にあるけどこの数字はどこまで信憑性があるの?北奥州の戦で万単位ってありえなくない?

177: 人間七七四年 2008/07/08(火) 18:21:34 ID:YJeX9R+Y
>>176
典型的な過大数字でしょうねぇ
唐松野の合戦での安東勢が3000、戸沢勢が1200

湊合戦の時は包囲側が道季方+戸沢勢+小野寺勢ということも考えても
5000にも満たないと考えるのが自然でしょう

出羽北部の戦国時代は軍記物ばかりなのがつらいところですな

201: 人間七七四年 2008/10/09(木) 19:29:21 ID:KbiBFo2X
いま手に入る安東氏の良書を紹介してくれ

203: 安東愛季 ◆fFbyB4nmD. 2008/10/18(土) 21:30:19 ID:BVfdDXHr
>>201
安東氏~下国400年物語はいけるな。

204: 人間七七四年 2008/10/19(日) 00:38:18 ID:9RC2TGeQ
秋田の中世・浅利氏
秋田「安東氏」研究ノート
このへんはどうなの?

205: 安東愛季 ◆.ZQKoiWGLk 2008/10/19(日) 00:47:00 ID:tz3QNxOu
>>204
あれは・・・ほぼ私のことしか書いておらんぞ・・・・
愛季調べるならそれ。
全体的に調べるなら安東氏~下国400年物語。
だな
あと、浅利の方は、すまんが読んだ事無い。
こんど買っておく。

241: 人間七七四年 2008/11/10(月) 09:55:14 ID:P9N3pkOt
最上と安東って石高はどの程度?

244: 人間七七四年 2008/11/10(月) 17:35:26 ID:wDaUp48K
>>241
安東の石高は
太閤検地だと五万二千四百石
湊騒動で没収された蔵入り地(代官は実季なので実質預かり)が二万六千百石
文禄検地で二万六千七百石が増えた
最上の方は太閤検地で約十三万石

247: 人間七七四年 2008/11/11(火) 15:07:20 ID:A2m+ujD/
>>244
最上は24万石じゃないの?のちに秀吉からなんか加増されたんだっけ?

245: 人間七七四年 2008/11/11(火) 04:15:30 ID:5rotz1gv
つまり安東愛季は10万石に満たない小大名だったんだね
ライバルの南部家の石高はどれほどでしょう

248: 人間七七四年 2008/11/11(火) 16:16:35 ID:8Z8r+DrR
南部は十万石と言われてるが
紫波、和賀、稗貫、閉伊などの北上川流域の諸郡を含めての事
津軽は太閤検地で三万石+蔵入り地一万五千

255: 人間七七四年 2008/11/30(日) 02:02:21 ID:wEAk/W/h
>>254
石高を米だけだと思っているヤシ? 麦・雑穀に加えて商業等の生産力そのものも
あらわしているんだけど。

297: 人間七七四年 2011/01/15(土) 22:12:19 ID:5UQa4dhB
>>255
北東北(太平洋側)に関しては
石高=兵力ではないよ。
九戸の乱のときの九戸勢の勢力は5千で
三戸勢の勢力も5千だった。
それに石高=兵力なら鹿角が九戸に落とされることもなかったし。

249: 人間七七四年 2008/11/11(火) 18:41:21 ID:rhcX93G6
北陸奥はまともに米が取れないから、面積のわりに本当に石高低いなぁ。
それなのに無理して米を作ると、江戸時代の南部のような大馬鹿治世になってしまう。

252: 人間七七四年 2008/11/16(日) 17:53:24 ID:Tuv2JANb
最上の石高というか山形県側に関しては太閤検地なんて参考にならないよ。

出羽一国31万8095石だがはっきりしている安堵分で14万5630石+α
=安東5万2400石・戸沢4万4000石・小野寺3万1600石・
六郷約5000石・由利衆1万2630石+α
残り17万2465石が最上領・上杉領庄内・蒲生領置賜。
最上が13万石だとすると残りは4万石強だが、
蒲生の城持ち家臣だけで米沢3万8000石・中山1万3000石・小国1万石でオーバー、
庄内は何処にいったんだ?となる。

個別大名の石高については秋田県側が強制的な検地の結果の
大名石高なんで正確だろうとは思えるが
最上は自己申告なんで13万石というのはごまかしてると考えた方がいい。
豊臣期の最上は24万石といわれることが多いが、詳細は見た事がない。
加増はされていないね。

はっきりしてくるのは1622年に豊臣時代の最上領に入部組の石高で、
新庄6万8000石・山形22万石・左沢1万2000石・
白岩8000石・上山4万石の合計34万8000石。
30年間での石高の伸びとして13万石の2.7倍よりは、
24万石の1.45倍のが個人的にはうなずきやすい。
佐竹領は太閤検地で19万8933石から約70年で1.6倍の総石高31万9847石。

258: 人間七七四年 2008/12/19(金) 16:34:06 ID:bh2Rug/Z
最上は13万石前後だろ。
25万石には根拠がまったくない。

268: 生禿げ 2009/08/24(月) 22:51:48 ID:hkQVTsvu
かみさんの実家が男鹿なので安東愛季に興味を持ったものですが、居城の脇本城って現存する城でいうとどの位の規模だったのでしょうか?

271: 人間七七四年 2009/10/10(土) 18:28:04 ID:C5b7QRw9
>>268
俺はあんま詳しくないけど、愛季の居城って檜山城じゃなかったけか?
そこなら男鹿から車で一時間以内でいける場所(能代市)にある。
一度跡地に行ったことがあるが、典型的な山城で三の丸まであった気がする。

272: 人間七七四年 2009/10/17(土) 19:36:24 ID:FR3g/uqV
最初檜山でそのあと男鹿の脇本に拠点移したんじゃないっけ

283: 人間七七四年 2010/11/07(日) 11:08:22 ID:IrfYQ8XK
蝦夷の末裔秋田家の転封先が、征夷大将軍の坂上田村麻呂の末裔田村家支配地 三春とは面白いよね
ここいらへんの事情を豊臣政権では解ってたのだろうか?

284: 人間七七四年 2010/11/07(日) 13:17:12 ID:yADPS1zy
豊臣?
ちなみに安東は朝敵だからと言う意見を
信長が排除して官位を安東に出させてるから問題ない。

286: 人間七七四年 2010/11/19(金) 02:05:08 ID:EKlCsWYP
関ヶ原での行動を問われ
安東実季は宍戸へ懲罰移封され
のちに三春へ。
安東実季の三人の子は三成が烏帽子親となった為に「三」を付けられていた。

314: 人間七七四年 2011/04/24(日) 09:12:29.45 ID:RDYs+rhA
安東が信長と誼を結ぶときの織田側の担当者は誰だったのかな?
まさかいきなり信長の元に使者送るわけないし。

316: 人間七七四年 2011/04/26(火) 07:53:57.24 ID:f5IaHhaH
秀吉だよ

319: 人間七七四年 2011/04/30(土) 00:23:45.09 ID:j/lAM0+L
>>316
秀吉が誼を結ぶ仲介役を果たしていたのに
小田原後に南部と比べて冷遇されてたのはどうしてでしょうか?
向こうの惣無事例違反、伊達政宗よりも遅い小田原参陣、そして九戸の乱
これら不祥事を連発してた南部になんの罰則も加えられなかったのが
理解できないのですが・・・

320: 人間七七四年 2011/04/30(土) 03:48:40.01 ID:XtG60ChP
南部が起こした違反なんかよりもっとでかい湊騒動っていう不祥事を起こしたから

323: 人間七七四年 2011/05/01(日) 03:39:28.37 ID:CCley3v5
>>320
不祥事という意味では九戸の乱の方が
湊合戦に比べてはるかに大きいだろ。

324: 人間七七四年 2011/05/01(日) 06:07:31.87 ID:OGdRIs5K
九戸の乱は不祥事ではないだろ
豊臣の決めたことを守らない九戸を潰しただけで南部側に違反は無い。
南部が頼った前田は蒲生や浅野と親しく
この人脈からの保護が南部にはあった。
これに対抗するためには津軽や安東は三成や大谷や景勝を頼るしかなく
これがのちの関ヶ原での安東や津軽の西軍内通とも疑われかねない数々の不信な行動を生んでる。

321: 人間七七四年 2011/04/30(土) 08:14:24.06 ID:jxxRZULE
前にもどこかに書いたが
安東は2つに別れ
南部が前田を通して正統とする南部で保護されている通季と対立する実季のどちらが正統か秀吉政権はわからなかった。
しかし前田側の発言力は強く実季は討伐されることになる。
昔、愛季が信長に使者を出して秀吉と会談したのが南部弥左衛門で、以前には山科言継にも使いしたこともあり
信長公記に出てくる南部宮内少輔と同一人物とされ
安東の危機に実季が使者に選んだのが湊宮内少輔介と言う男で、これが愛季が遺産の中で最大のものだった。
これ南部弥左衛門その人で、さっそく上洛するや秀吉旧知の仲であり、この人の登場は実季が正統だと証明するに足るものだった。
これで南部による津軽に続く安東潰しは阻止された。

322: 人間七七四年 2011/04/30(土) 09:27:10.76 ID:qedx0+Qd
あと安東が主に接触していたのは織田政権で、秀吉政権が出来てからの接触はかなり少なくなっている
逆に秀吉政権成立後に接触頻度が高くなったのが南部で、それが秀吉の信頼の差になったのかも


引用元: ・【羽後】安東愛季【最強?】

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