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1: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/05(日) 13:11:21
なかったので建ててみた。まあキョウイがずば抜けてるんだけど。

蜀滅亡を語るとどうしてもショウエン、ヒイ時代が重要になってくると思うので。
キョウイの比べて地味な二人だけど。ヒイって結構裏がありそうな人物なんだよな。
正史を見てると。








9: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 00:22:39
益州派閥と涼州派閥ってのは実際あったのかね。
考察系サイトとかだと派閥争いみたいのあったらしいが出身地で派閥組むかな?

10: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 00:27:02
当時の中国では、出身地はかなり重要
出身地が同じだと、簡単に仲良くなれたらしい
王允も、呂布と同郷である点を持ち出して董卓暗殺に引き込んだとか

11: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 00:36:03
ってことは益州出身が数多いだろうから
やっぱ益州派閥が与党になるのか

中国ってそういえば言葉とかどうなってるんだろう?
涼州と益州じゃ距離から考えてもそうとう方言とかあって意思疎通できんかな

12: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 02:09:20
>>11
政権中枢はほぼ荊州人が独占してたよ。蜀末期の最高首脳で益州出身なのは張翼ぐらい。

12: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 02:09:20
>>9
無かったと思う。蜀内部で何度か派閥争いらしい事件は何度か起きてるけど、当事者の両方が荊州人だったり、両陣営に荊州人と益州人が混じったりしてるから。
あと、蜀の構成員は荊州人と益州人だけじゃなく、後漢末の混乱から逃れるために益州に逃げてきた中原の人間もだいぶいる。

13: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 12:08:23
>>9
漢中幕府派と蜀中央政府という区分けの方がいいだろう
これが出来てくのは劉備亡き後の遠征のために諸葛亮が権力構築してから
逆に言うと劉備生前は派閥なんてなかった

16: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 16:15:32
>>13
その区分けだと、誰が漢中幕府派のボスで、誰が中央政府派のボスなんだ?
蒋エンや費イは両方に影響力あったし、ずっと中央にいた董允も特に漢中と対立した形跡は無いんだが。

34: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/09(木) 18:10:45
>>16
明確な対立構造が出来るのは姜維の頃になってからだろう
それまでは漢中派が中央をグラップリングしてたが権力構造としては
本来上位である筈の中央を漢中が抑え込み
皇帝→漢中→中央政府という二重構造で政権が運営されてたことは間違いがない

36: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/09(木) 21:22:28
>>34
漢中と成都の対立構造ができるのは、姜維の頃になってすぐじゃないよ。
姜維は費イの漢中と成都の両方に持つ権力を引き継いで、費イの成都における代理人陳祗ともうまくやってる。陳祗と劉禅の蜜月関係が続いてる間、姜維は成都の劉禅・陳祗と漢中の軍隊の両方の支持を得て、毎年出兵を続けてる。

これが崩れるのは陳祗が死んで黄皓が台頭し、尚書令が姜維の思い通りにならない董蕨になってから。やがて、諸葛瞻と董蕨が平尚書事に、樊建が尚書令になって、黄皓と結託して姜維下ろしに動き出して、成都と漢中は決裂する。
14: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 12:21:48
蒋琬・費禕は諸葛亮の後継指名を受けていたし、席次の面からも姜維は独断で動けない。
また、両人ともそれだけの大局観を持つ有能な政治家だったということだろう。
彼らの死後、姜維を納得させられるだけの政治家がいなかったのが全て。
北伐を国是とする将軍が名実ともに軍権を掌握した以上、誰も制御できないのは当然のこと。
(しばらく陳祗がうまくやっていたのはさすが曲者というべきか。)

諸葛亮・蒋琬・費禕と最高権力者が続いてきた流れの後で、
費禕のアクシデントにより政治と軍事の権力が分かれてしまったのが痛恨。
姜維が有能な将軍だっただけに余計にバランスが崩れてしまったとも言えそう。

18: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/07(火) 16:17:45
>>14
陳祗は姜維に協力的だったよ。
むしろ、姜維が外征してる間、その後ろを固めてた。
姜維への反対勢力が成都に出現するのは、陳祗の死後。

20: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/08(水) 12:14:17
>>18
「制御=反対」という意味で使ったわけではないよ。
「姜維の思うがままにさせるか否か」というニュアンスで解釈していただければ。

費禕の突然の死によって、席次面で姜維を制御することはできなくなった。
その状況下において北伐協力という現実路線で国を運営した陳祗も、
前任者たちとはタイプが違うが優秀な政治家だったということだろう。
もともと費禕に高く評価されていた逸材なんだしね。

そして、陳祗路線で国を運営する才覚がないと自覚していたであろう後任者としては、
北伐の中止(少なくとも抑制)という路線に戻したかった。
そうすると、姜維がその提案を受け入れてくれるはずはないから、
彼の実権を取り上げるという方法しか選択肢がなかったのかな、と思う。

あくまでも個人的な感想だからあしからず。
Jominian氏のように緻密な論理ではないのであまりツッコまないでね^^;

22: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/08(水) 12:52:37
>>20
陳祗執政中の姜維の出兵記録

253年 数万の兵で南安を包囲するも撤退。
254年 襄武を包囲。救援に来た徐質と会戦して大勝する。河関、臨トウの二県を攻略後撤退。
255年 王経とトウ西で会戦して大勝する。狄道を包囲。救援に来た陳泰の軍と対峙。勝利できずに撤退。
256年 祁山、上ケイに進軍。鄧艾と段谷で会戦して大敗する。
257年 諸葛誕の乱に呼応して進軍。長城で迎撃に来た司馬望、鄧艾の軍と対峙。勝利できずに撤退。

陳祗が政権を握っている間、姜維は毎年大規模な出兵を行っている。
完全に陳祗は姜維の思うがままに北伐を行わせており、
段谷の大敗後に姜維の威信が急落した後ですら、出兵を続けている。
姜維が思い通りにできなくなるのは陳祗が死去した258年以降。
陳祗が死去してから254年までの4年間、姜維はまったく軍事行動を起こしてない。

38: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 11:03:51
諸葛瞻はどうして姜維と対立したんだろう

40: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 14:35:24
>>38
なあなあで済ます事ばかり考えて政治を正そうとしなかったとか、
黄皓と付き合っていたとか書かれてるから、
政治姿勢と派閥関係の問題で姜維と合わなかったんじゃないだろうか?

41: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 17:40:48
センが実権を握ったのは最後の三年だけ

みたいのを前に見たんだけど。本当だとしたら
出世遅くない?孔明の息子なのに。

42: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 18:17:55
>>41
17歳で皇帝の娘婿になり、騎都尉任命。
18歳で羽林中郎将となり、その後20代から30代前半の間に射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進。
34歳で行都護・衛将軍・平尚書事。

エリート中のエリートでも、騎都尉になれるのは早くて30代。羽林中郎将は30代後半。
射声校尉や侍中は40代。尚書僕射は50代。衛将軍・平尚書事は60代。

皇族でも有り得ないレベルの超スピード出世ですが何か?

43: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 18:24:25
諸葛瞻は17歳のとき、公主を娶り、騎都尉を拝命した
その翌年、羽林中郎将となり、あいついで射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進し、軍師将軍の位を付加された

45: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 20:09:36
センって調べたら結構若いんだな。
キョウイと25歳も離れてるのか、30代後半で死んだのか。
若いとも思うが。

キョウイとか劉備、まあ孔明でもいいけど30で一応それなりに軍率いて戦ってるから
若かったから負けたって言い訳はたたないな。

46: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 20:13:18
ずっと成都の朝廷で要職を務めてきた諸葛瞻にとっては、
ずっと外征してる姜維より、皇帝側近の実力者黄皓と仲良くした方がメリット大きいだろ?
それに軍事経験が無くてずっと成都にいた諸葛瞻が、姜維にシンパシーを抱く理由も無いし。

47: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/10(金) 20:15:21
諸葛瞻は劉禅の要請で動いたんだったな
都に残ってたのは雑兵ばっかりだったし
とりあえず蜀の象徴として出陣したんだろう
それが逆に漢中の時の曹彰的位置になってあいつを討てば大手柄だと思わせ魏軍の士気上げたのかもしれんが

51: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 21:32:49
>>47
都に雑兵のこすか?最悪に備えて
残すだろ

53: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 21:57:13
>>51
漢中にありったけの兵を援軍に送った後だから、
たぶん、諸葛瞻が率いた兵は、実戦経験のない近衛兵だろうな。雑兵と言っても差し支えない。

48: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/10(金) 20:19:19
綿竹は諸葛瞻・尚親子ばかりがピックアップされてるが
一緒に戦った黄崇・李球・張遵ら名将の子が忘れられてる

50: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 21:22:12
>>48
近衛兵の指揮官の羽林右部督李球はまだいいとして、
なんで尚書張遵や尚書郎黄崇のような事務方が兵を率いているのか理解できない。

52: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/10(金) 21:52:42
>>50
それほど人がいなかったかこいつらも象徴的に出したかだな
張遵張飛の孫だし

54: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/10(金) 22:00:37
あと最前線で戦ってた鄧艾には勝てないだろ
諸葛瞻は孔明の子って言ってもほとんど戦ったことないし夏侯楙が少しマシになったみたいなもんだろ

56: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/10(金) 22:24:16
>>54
軍事的には夏侯楙と同レベルじゃねえか?そもそも実戦経験無いんだから。

57: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 14:42:41
>>56
諸葛瞻も一回は勝ったからな
夏侯楙は兵数で勝っただけ

あいつらこんなに官位高かったんだな
しかしこの頃の主力の廖化やら張翼やらがみんな出てるから人手不足だったんだな

58: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/11(土) 15:28:15
>>57
本来、鄧艾指揮下の兵力は・天水太守王キ、隴西太守牽弘、金城太守楊欣の軍を主力とする三万。
姜維との沓中での戦いでは、この三将が指揮をとっている。

しかし、山越えの際を終えて蜀本土に侵入した時に率いていた兵力は一万。
この時から蜀降伏に至るまでの一連の鄧艾の作戦行動の中に、主力で歴戦の武将である三将の名は出てこない。
綿竹の戦いでは、これまでの作戦行動の中に名前が出てなかった鄧艾の子鄧忠と司馬師簒が、
諸葛瞻を攻撃して敗れている。おそらく、鄧艾は山越えの時には主力の三将の軍をどこかに置いてきたらしい。

そして、戦歴不明の鄧忠と、蜀討伐のために司馬昭が鄧艾の下に派遣した腹心の文官師簒という、指揮能力が信用できない二人を諸葛瞻との戦いで使わざるを得なかった時点で、鄧艾軍の質もかなり怪しい。

主力の三将の軍を欠いていて、軍事能力が怪しい将に指揮させなければいけなかった時点で、数・質ともに鄧艾軍はかなり苦しかった。一度諸葛瞻に敗れたのは、数・質ともに苦しかったからで、諸葛瞻の軍事能力とは関係ないと思われる。

59: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 16:04:45
>>58
おおそうだったのか
諸葛瞻も結局は親の七光りで育ったんだな
とにかく人材不足に尽きるな

60: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/11(土) 19:01:13
譫は亮の子だけど、一緒に付き従ってた時期なんてほぼ無いわけだし、彼に亮と同じ功績を求めるのはちょっと可哀そうだな。

62: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/11(土) 19:27:01
>>60
でも、出世の速さと、30代で宰相になった地位の高さを考えると、父親ほどではないにせよ、それなりの功績は残さないと許されない立場。

61: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/11(土) 19:11:33
成功者の2代目はぼんくらな法則ってあるしね。

63: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 19:47:33
とりあえず譫も好きでそこに生まれたわけじゃねーんだからかなりの重圧だったろうな

>>61
だが陳泰や司馬師・昭、諸葛恪なんぞは優秀だったな
この差はどっから来るんだろう

65: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/11(土) 20:18:26
>>63
陳泰や司馬師や司馬昭や諸葛恪は、功績をあげて、経験を積みながら普通に昇進して出世したけど、諸葛瞻は功績も経験も無いのに、どんどん出世して若くして実力に見合わない地位に就いたから。ちゃんと功績をあげて経験を積みながら出世してれば、もう少しマシだったかもしれない。

64: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/11(土) 20:02:25
諸葛亮と陸遜は単独で伝が立てられてる人物として対比されることがあるが、彼らの二世は功績という観点から見て真逆の立場だな。
譫も抗も期待やプレッシャーが凄まじかったと思うが、何が彼らを分けたんだろう?

65: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/11(土) 20:18:26
>>64
陸抗は校尉から出発して、功績を重ねて昇進したから。

68: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 21:38:45
諸葛瞻ももっとはやく実戦に出すべきだったな
しかし趙雲の子の趙広みたいに早々と死なれたらさすがに困るが

70: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/11(土) 21:53:16
趙雲くらいの地位や名声があった将軍は他にいくらでもいたから、その子孫だって言っても、そんな希少価値無いでしょ?
趙雲の息子なら、地道に実績積み重ねていかないと偉くなれないけど、諸葛亮の子で皇帝の娘婿なら、超弩級の御曹司だから、前線に出してあっさり死なれたら困る。

71: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 22:00:08
なるほどな
しかしそんな要人なら護衛の用心棒みたいな将でも付けるべきだろ
要人の警護が甘いから費禕が殺されたりしたんじゃないか

72: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/11(土) 22:31:44
ヒイは大将軍となりながら、本性のおもむくままに博愛心を示し、帰順したばかりの者をあまりにも信用しすぎていた
結果、魏の降将郭循に刺殺された
悲しいことではある

74: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 22:52:17
>>72
信用し過ぎたのがあだになった
郭循は本当は劉禅を刺したかったができなかったから費禕にしたみたいだな
劉禅死んでも後継ぎ劉濬で五十歩百歩だからむしろ魏には好都合だったろう

73: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/11(土) 22:43:21
そもそも、諸葛瞻は前線に出るべきという考えが間違っている。
諸葛亮死後の蜀の宰相は、姜維以外前線に出て戦ってない。
諸葛瞻は未来の宰相なんだから、戦争なんかやらなくていい。
将軍号を与えたのが間違いだった。

74: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/11(土) 22:52:17
>>73
確かに諸葛瞻は自ら敵陣に突っ込んでくような勇猛なやつじゃないよな
どちらかと言えば文系
後方で輸送だの物資補充だの指揮してればよかったんじゃないかね

76: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/12(日) 02:15:16
綿竹は成都の喉元、抜かれたら首都攻防は必至。
蜀は、総力動員して綿竹を防衛すべきだったと思うんだが。
前レスにもあるが、鄧艾の奇襲部隊は主力では無いので、戦歴で劣る蜀軍でも
総力戦になれば勝つ算段はあった。
問題は剣閣防衛だが、まぁ姜維が負けるなら蜀は終わりだから仕方ないね。

77: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/12(日) 04:11:31
>>76
剣閣抜かれたら、鐘会の13万が四川盆地に雪崩れ込んでくるんだけど
蜀の総兵力以上の軍勢が全軍成都に向けて進軍してきたら、
姜維指揮で総力挙げても負けるわ。

78: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/12(日) 09:13:32
もうちょっと早く鍾会と乱を起こす打ち合わせを出来ていたら、何か変わったかね?
会は晋将だけど蜀の将とも親交があったし(蒋斌とか姜維とかさ)。

79: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/12(日) 09:43:29
>>78
とりあえず将達の結束がない
鍾会達はいいかもしれんが胡烈とか不満なやつらを手なずけるのが先だと思う

80: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/13(月) 20:12:14
>>78
時間が足りなさすぎる。
そもそも、魏の兵が鐘会にまったく心服して無いと言うのが問題だ。
旧蜀軍の将兵を動かせたとしても、10数万の言う事を聞かない魏兵を押さえられるかどうか難しいと言わざるを得ない。

84: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/19(日) 21:11:20
>>80
兵の家族を人質に取ったのがまずかったのでは、あれは

91: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/19(日) 23:42:20
>>84
蜀を平定した時点で遠征軍を用いて自立できるほど、
鐘会は将兵の心つかんで無かったから、人質取らなくても兵は離反してただろ。

81: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/19(日) 18:09:16
ショウカイと乱起こした時点でもうキョウイは老将でしょ?
若いうちにもっとがつがつ攻めさせるべきだったなあ。

82: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/19(日) 18:35:32
いつ攻めたら勝てたと思う?

83: 燕人常元 ◆01/.GQR7dI 2010/12/19(日) 20:17:02
夏侯覇がいた時

85: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/19(日) 21:12:48
夏侯覇って、蜀に降ってからはほとんど何したか分からない空気じゃん。
姜維の指揮下で王経を撃破したぐらいしか、記録が無い。
生きてても生きてなくても、大勢に影響無い人間だろ。

87: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/19(日) 21:50:04
魏時代だって無駄に戦歴長いだけで大した功績は無いし、
夏侯覇程度の実戦経験と能力のある武将なんて、蜀にだって掃いて捨てるほどいるだろ?
頭数以上の役には立たない無能なベテランなんて、いてもいなくても大して変わらん。

88: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/19(日) 22:06:49
もうちょっと公孫淵が空気読んで存続してくれてたら変わったかも

89: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/19(日) 22:26:15
遼東公孫氏が存続してても、別に国境に兵を貼り付ける必要は無かったから関係無かったんじゃ?
国境に兵を貼り付けなきゃいけないような関係になった時点で、遼東公孫氏は潰されるだろうし。

92: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/20(月) 22:20:28
魏の内部分裂を狙うとか出来なかったのかなあ。
司馬一族と相反してる奴らとかいたはず

100: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/26(日) 12:42:15
>>92
諸葛亮の目標はまさに魏を割ることでしょ。
でも蜀漢スローガンは「北伐遂行内閣」であり、荊州派益州派のバランスのためにも、
魏の分裂を誘うためにも定期的に軍事行動しなければならない。

よく魏延の長安奇襲は名案という人が居るが、長安を手に入れることだけが目標ならそれでいい。
でも長安落とせても維持は困難で、まして進撃できるかというと微妙なわけで、
総合的にはリスクに見合わない行動になってしまう。
魏延とか姜維は軍人だから短期目標しか無くてもいいんだろうけど、そーいう人がトップになると
大国とガチンコ勝負を繰り返した挙句ジリ貧ということになる。

楽毅が斉と戦うのに外交を尽くしたように、小国が大国を攻めようとする時はガチンコ以外の
道を選ばなければいかんということですな。

101: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/26(日) 12:49:24
>>100
長安維持が困難なら孔明の北伐だって意味なくなると思うが。
孔明だって領土拡大のために北伐してたんだろうし。

102: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/26(日) 21:17:52
孔明の場合、長安はゴールでは無く目安だったんじゃないか?
仮に到達したとしても、そこで徹底的な防衛戦を行うとは考え難い・・・・・
>>100の通り、魏の内乱や弱点を探りつつの軍事行動だったと思うよ
諸葛亮は慎重だったが、それは先見の明と冷静な分析力の結果だったと思う
魏は何度か負けても耐えられるが、蜀は一度の大敗で国力が一気に傾くし

103: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/26(日) 22:14:39
>>102
長安取った後防衛しようがさらに攻めようが維持できなくちゃ始まらないと思うが。

104: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 10:16:43
長安を維持できない理由
・圧倒的な国力差
・本拠地が遠い
・魏の全力討伐が始まるお
・後背地域(涼州方面)押さえてない
・荊州持ってない
・呉はなにかとやる気が無い
などなど

長安にこだわると遠征軍が孤立撃破され漢中以南も危険。

関羽敗死の時点で蜀の自力優勝はなくなっていることは諸葛亮自身が知っていただろうから、
魏と本気で領土の取り合いをしようとは思っていなかっただろう。

小競り合いで勝ち続ければ敵の権力闘争に影響を及ぼして、離間工作もしやすくなる。
北伐というのは魏の領地を削るよりも魏を揺さぶり続けるという意味のほうが大きかろう。
でもそれは非常に難しいことなので主旨を理解していた蒋苑費偉は自重して国を保ち、
軍功にこだわる姜維はやりすぎて国を滅ぼした。

105: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 13:05:45
>>104
やっぱり馬超は長生きすべきだったんだな。
馬超って名前だけで羌族らとある程度連携がとれるもんな。
羌族を手なずけるだけで涼州方面は大丈夫でしょ?

106: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 13:27:39
>>105
羌族に評判がいいのは、馬超の数少ない美点だからな・・・・・
成都包囲の威圧に一役買った程度で、短命の上に後継も残さなかった生粋の破壊者

107: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 16:47:40
姜維はすごく優秀なんだろうけど、蜀における立場が悪すぎだよね。
戦功立ててなんぼになっちゃうのは仕方ない気がする。

地元の名士でもなく先主以来の来歴も無く元は魏将でしたって辛いなあ。

108: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 17:30:04
でも、姜維は戦功がまったく無いのに、蜀に仕えて6年で輔漢将軍まで昇進して、平襄侯に封じられてる。
これは趙雲が降格される前より高い地位。初めて戦功らしい戦功をたてるのは、その4年後。

110: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 20:09:32
>>108
正史に書かれてないだけでなにか戦功あったんじゃね。

111: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/27(月) 20:29:53
>>110
蜀に仕えてからの姜維の官職から推測すると、軍政畑と思われるから、
戦功よりは実務能力を見込まれて昇進したんじゃないかと思われ。
33歳で軍首脳の一角の輔漢将軍になれるほどの人間が、
そこまで昇進する前にどんな戦功あったかまったく分からんってのは不自然。

112: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/28(火) 00:58:07
魏からの降将というのもありそう>出世コース
我が国へ降れば良い待遇もらえますよアピールとかさ。

113: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/28(火) 01:24:21
>>112
降伏したばかりの時に将軍に任命されて、亭侯の爵位をもらってるから、郡の参軍事程度の人間には過ぎた厚遇だろ。
普通ならこのまま飼い殺しにしても十分宣伝になるけど、目立った功績が無いうちから、
出世し続けて、帰還する北伐軍を統率して成都に入るという大役を担ったんだから、相当能力を評価されてたんだろう。

114: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/28(火) 22:44:39
キョウイの前半生って結構謎だよな。
親が馬超の乱で死んでいるなんて説もあるけど。

115: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/28(火) 23:32:16
>>114
親父の名前と官職と死因がバッチリ分かってて、
なおかつ学んだ学問の流派や、初めて出仕した時から蜀に降るまでの官職まで、
詳細に記されてる人間の前半生に謎もクソも無い。

116: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/29(水) 02:58:11
むしろ、関羽の方が謎じゃないか

蜀にとって重要なのは、やはり有能な政治家だったのかな?
軍事じゃ、魏がガチで来たら勝ち目は無い訳だし
生き残るためには、内政と外交でギリギリのバランスを保つしか無かった気が

118: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/29(水) 10:06:14
>>116
魏がガチでこようが蜀内部の国力や体制が整ってれば十分守れる
てか実際に最後の滅亡までに魏は何度も攻め込んで負けて帰ってるだろうが
なんでか魏の勝ちが最初から最後まで決まってるかのように語るのがいるのが謎

119: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/29(水) 10:59:36
魏にとって蜀討伐は国家の命運がかかるほどのものではない
司馬派閥と曹派閥で政争の具に出来る程度の問題なのである

で任されたほうは何か失敗して弾劾されてはかなわんので自然と事なかれ的になる

諸葛亮の狙いはそこにあり、勝たなくても負けない状況を長く続けることで
魏の内部抗争を助長できると思っていたのであろう

実際のところ司馬派がキレたり、もっと力がなかったら分裂していたかもしれないよ

120: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/29(水) 13:56:24
事なかれ・・・?
魏は諸葛亮の北伐にも姜維の北伐にも
何度も野戦で挑んで負けているというのに・・・?
むしろ諸葛亮の北伐では野戦で負けまくってるから防衛主義になってるような

121: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/29(水) 14:00:05
諸葛亮の北伐では野戦で、しかも追撃した将軍は二人とも死亡
正面からの会戦でも蜀軍が勝利
これでなして事なかれ主義なのかわからん

124: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/29(水) 14:51:17
仲達なんかお得意の機動強襲で正面から孔明の本陣を狙い、
なおかつ歴戦の張コウに背後から襲撃させるという大胆な策戦で挑んでいながら
諸葛亮率いる蜀軍に両方とも大破させられているというのに
これで言い訳するのは無理ありすぎ

126: 無名武将@お腹せっぷく 2010/12/30(木) 22:02:00
蜀軍は局地的には強かった。特に隴西での軍事的プレゼンスというやつでは、
諸葛亮に留まらず姜維時代のかなりの時期まで優勢を維持していた。

しかし、「状況を作れば戦場では勝てる」という以上の優勢を築けないまま、
国家レベルの戦略構造を覆すような大勝や政策を生み出せずに、30年を過ごしてしまった。
その間に魏は苦闘しながらも隴西の支配力を順次強めていき、
反撃可能な体制を生み出し、実際に反撃を成功させた。
これが勝敗の岐路。


引用元: ・蒋エン 費イ 姜維の流れを語るスレ

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