1: 日本@名無史さん 2007/06/14(木) 14:58:02
藤原道長と、その娘たちについて語りましょう。










3: 日本@名無史さん 2007/06/14(木) 15:55:36
藤原盛子は道長の娘なんでしょうか?

4: 日本@名無史さん 2007/06/14(木) 16:06:06
長女;彰子(988~1074 母;源倫子)
一条天皇に入内、翌年立后して中宮。初の一帝二后の例となる。後一条、後朱雀母。上東門院。紫式部、和泉式部らが仕え、87歳まで生きた。

次女;姸子(994~1027 母;源倫子)
東宮居貞親王に入内、居貞親王即位後(三条天皇)、立后して中宮。三条天皇が長年連れ添った妃女成子を立后させたことで父道長と不和になり、夫と別居。

三女;寛子(999~1025 母;源明子)
父道長によって東宮を辞した小一条院妃。若死にしたのは、小一条院元妻父子の怨霊であるとされた。

四女;威子(999~1036 母;源倫子)
姉彰子の産んだ9歳年下の後一条天皇に入内。立后の際、三人の娘を立后させた父道長は望月の歌を詠む。夫後一条天皇の死後まもなく、後を追うようになくなる。

五女;尊子(1007~1084 母;源明子)
源師房室。道長の娘で皇族に嫁がなかったのは、尊子だけ。

六女;嬉子(1007~1025 母;源倫子)
甥の後朱雀天皇の東宮時代の妃。後冷泉天皇を産んだ2日後、19歳で死去。

三条天皇の尚侍、盛子については史料が少ないね。
「御堂関白記」などの一級史料に現れない点、仮に道長の娘であったとしても、卑母だったのかもしれない。
明子の娘だとしても、待遇が劣っているような・・・

6: 日本@名無史さん 2007/06/14(木) 18:47:37
彰子・妍子・威子・嬉子(母・源倫子)→摂関家一軍
寛子・尊子(母・源明子)→摂関家二軍

7: 日本@名無史さん 2007/06/14(木) 19:08:55
摂関家一軍、二軍は当てはまらないな。
息子なら、
母源倫子=摂関になった(頼通、教通)
母源明子=摂関になれなかった(頼宗、顕信、能信、長家)
って感じだが。
倫子と明子の息子たちの出世の差が、どれくらいの時期に定まったかも検証の余地あり。
明子腹の寛子は、当初、東宮妃候補と目され、結局敦明親王が廃太子に追い込まれたためそうなれなかったものの、天皇の中宮に立てられる可能性も十分にあった。
倫子が重んじられたのは、彼女が長女彰子をはじめ、持ち駒となる娘を多く持ったことも大きく、倫子(宇多天皇の曽孫)と明子(醍醐天皇の孫)の妻の格差がはじめからあったとも思えない。

8: 日本@名無史さん 2007/06/14(木) 19:43:47
明子は父が流罪並びに政界復帰ならず、方や倫子の父は左大臣のまま死去。
道長が17歳の時に明子父が死去していることもあり、東三条院から後見されていた明子であっても、倫子とはお互いの婚姻当初から、格の違いがあったと思う。

9: 日本@名無史さん 2007/06/14(木) 21:07:29
明子の父源高明が安和の変で失脚したことは認めるが、明子はその後父の弟醍醐皇子盛明親王の養女となり、さらに道長の姉東三条院詮子の養女になっているから、それほど悲惨な待遇であったわけではない。
東三条院の養女になった経緯は、永井路子の「この世をば」では藤原氏の多氏排斥への反省と怨霊対策のように述べられているが、むしろ明子の母は東三条院や道長の父兼家の妹であり、明子はいとこにあたっていた血縁関係の近さにあるように思う。
倫子の父源雅信は、左大臣の要職にあり、道長も結婚当初は気を使っただろうが、倫子は雅信晩年の子で(後妻との子)、雅信は孫の彰子の入内を見ずに死んでいる。
高貴な家柄の姫君でも父の死により失脚する例はあり、倫子の兄弟は凡人で全く出世しなかったため、兄弟に頼ることは不可能で、倫子が絶対的優位にあったとは思えない。
東三条院の四十の賀の席でも、一条天皇が倫子腹の頼通を差し置いて、明子腹の頼宗に衣装を与えたのを、倫子が見咎めて道長に文句を言う話が「御堂関白記」に出てくる。

10: 日本@名無史さん 2007/06/14(木) 21:33:58
藤原朝臣頼通(992~1074、83歳)
正五位下(1003、12歳)→侍従→右少将(1003)→従四位下(1004、13歳)→従四位上(1005)→従三位(1006、15歳)→正三位(1006)→従二位(1008、17歳)→権中納言・左衛門督(1009、18歳)→正二位(1011、20歳)→権大納言(1013、22才)→左大将(1015、24歳)→内大臣(1017、26歳)→摂政(1017、26歳)→関白(1019、28歳)→従一位(1021、30歳)→太政大臣(1021、30歳)→関白(1045、54歳)→左大臣辞任(1060、69歳)→太政大臣(1061、70歳)→太政大臣辞任(1062、71歳)→准三宮

藤原朝臣教通(996~1075、80歳)
正五位下(1006、11歳)→侍従(1006)→右兵衛佐(1007)→右少将(1007)→従四位下(1008、13歳)→右中将→従四位上(1008)→左(権?)中将(1009)→従三位(1010、15歳)→正三位(1011、16歳)→権中納言(1013、18歳)→従二位(18歳)→検非違使別当(1013)→正二位(1015、20歳)→左大将(1017、22歳)→権大納言(1019、24歳)→内大臣(1021、26歳)→皇太子傅(1037、42歳)→皇太子傅(1046、51歳)→右大臣(1047、52歳)→従一位(1058、63歳)→左大臣(1060、65歳)→氏長者(1064、69歳)→関白(1068、73歳)→左大臣辞任(1069、74歳)→太政大臣?(1069?74歳?・1070?75歳?)→太政大臣辞任?(1071、76歳)→贈正一位

藤原朝臣頼宗(993~1065、73歳)
従五位上(1004、12歳)→侍従(1005)→右兵衛権佐(1005、13歳)→正五位下(1006)→右少将(1007)→従四位下左(権?)少将(1007、15歳)→右(権)中将(1009)→従四位上(1009)→正四位下(1010)→従三位 (1011、20歳、19歳?)→正三位(1012)→従二位(1013、21歳)→権中納言(1014、22歳)→右衛門督(1016、24歳)→検非違使別当(1016)→左衛門督(1017、25歳)→正二位(1018、26歳)→権大納言(1021、29歳)→按察使(1028、36歳)→右大将(1045、53歳)→内大臣(1047、55歳)→従一位(1058、66歳)→右大臣(1060、68歳)→出家(1065、73歳)

11: 日本@名無史さん 2007/06/14(木) 21:36:33
藤原朝臣能信(996~1065、70歳)
従五位上侍従(100611歳)→右兵衛佐(1007)→蔵人(1010)→正五位下(1010)→少納言(1011)→蔵人→従四位下(1011、17歳)→左権中将(1013)→従四位上→蔵人頭(1013)→従三位(1014、19歳)→左京大夫(1014)→正三位(1015)→左(右?)権中将→従二位(1016、21歳)→権中納言(1017、22歳)→正二位(1018、24歳)→左兵衛督(1020、26歳)→権大納言(1021、27歳)→按察使(1033、39歳)→贈正一位太政大臣(1073)

藤原朝臣長家(1005~1064、60歳)
従五位上(1017、13歳)→侍従→右(権?)少将(1017)→正五位下(1018)→権中将→従四位下(14歳)→従四位上(1018)→正四位下(1019)→従三位(1022、18歳)→正三位(1023)→権中納言(1023、19歳)→従二位(1024、20歳)→正二位(1024)→権大納言(1028、24歳)→→按察使(1038、34歳)→出家(1064、60歳)

どうみても任官当初から差を付けられてます。

13: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 08:53:34
>>11
頼通、教通の同母姉が中宮彰子であった影響が大きいと思うよ。
彰子は道長の第一子でかつ長女であり、彰子が一条天皇の中宮に立てられたとき(1000年)、頼通は9歳、明子の長子頼宗は8歳で、まだ元服もせず、任官もしていなかったため。
彰子の入内以前から差がついていたのならば、倫子が正室、明子が第二夫人であったせいだといえようが、彰子の入内以前から腹違いの兄弟に差がついていたことの証明にならない。
倫子が女子に恵まれず、一条天皇に入内したのが明子の娘であったならば、あるいは、倫子が四人も娘を産まずに仮に一人でも明子の娘が天皇の中宮に立てられていたならば、歴史は変わったと思う。

14: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 09:42:47
彰子があそこまで長寿じゃなくて、教通と能信の没年が逆だったら、能信系が摂家になった可能性はあるな。

16: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 17:54:26
>>14
もし能信が白河天皇即位後まで長生きしてくれたら、倫子系直系の没落がもっと激しかったかも。

歴史への「もし」は、後世の人間が楽しむためだけに存在しているけどね。

15: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 12:35:13
後三条ー白河親子にとっては、後三条立太子の立役者、能信には頭が上がらなかっただろうね。
白河は常日頃、「この祖父(能信は、白河の母藤原茂子の養父)なかりせば(今の自分はなかっただろう)」
といっていたというし、能信は後三条の即位を見ずに権大納言でなくなったけれども、後三条即位後、養子の能長は内大臣に就任、能信が生きていれば大臣昇格は確実だったろうね。
能長は実兄を超えてはならないという理由で右大臣就任を辞退していたから、能信ならば、甥たちを超えて生前に太政大臣に就任していたかもしれない。
摂関になれたか、というのは、どうかなあ。
能信自身は後三条の外祖父ではないので、白河天皇の関白になれたかということなんだけど。
白河天皇は、頼通の子藤原師実の養女賢子(師実の妻源麗子の弟顕房の子)を寵愛、恩義ある能長の娘女御道子を退けて、賢子を中宮としたからね。
能信、後ろ盾のない後三条立太子の手腕は見事で、頼通や教通よりも有る意味、有能だったろうけどね。
ちなみに、能信には実子がなくて、後三条天皇の東宮妃藤原茂子は養女(茂子は、能信の妻ネ止子の弟の子)、能長は養子(実際は、能信の実兄頼宗の三男)だね。

18: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 19:15:14
彰子・頼通・教通は母倫子の血を引いてか長生きなんだよね。
結局この一番重要な人物達が長生きしたことが権勢維持の秘訣か。
でこの三人が相次いでなくなると、瓦解してしまった。
もう一世代前なら完全に零落していたかもしれない。

19: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 19:29:15
道綱も同母姉妹に国母がいなかったためかな。
才能の問題という気もするけど。

20: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 19:47:11
道綱は無能だったが異母弟の道長のおかげで大納言になれたらしい。

21: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 20:00:14
道長は、無害な異母兄道綱を「よろずの兄君」と呼んで厚遇したみたいだね
道綱が蹴落とされんかったのは、道綱に同母姉妹がなかったこと、無能だったことが幸いしたのかな
道長は道綱を倫子の同母妹の婿に迎え、一時、土御門殿に一緒に入り婿同居してたらしい
(この道綱妻は早逝したが)
道長は道綱を大臣にしたかったらしいが、やっぱり能力に問題あったらしい

23: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 20:34:31
顕光も無能だ何だとぼろくそに言われているが左大臣。
それより酷いとすると本当にどうしようもない無能人物だったのだろうか。
まあ顕光も若い頃は蔵人頭だったりするし、あれは本当の馬鹿じゃあ勤まらないと思うから、まあ普通の無能だったのか、若い頃はまともでぼけただけだろうか?

24: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 20:47:52
後三条天皇が誕生しなかった場合、小一条院系に皇統が遷ったりするのかな?

25: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 20:57:38
学者の中には、なぜ頼通は、藤原氏と縁が薄い後三条を廃太子にして、異母妹寛子が産んだ小一条院の皇子を天皇にすえなかったかといってる人もいるみたいだね
顕光女延子が産んだ皇子に帝位がいくことはなかったと思うけれども、寛子の皇子ならば可能性があったと思う
道長ならきっとそうしていただろうと

27: 日本@名無史さん 2007/06/15(金) 21:53:56
>>25
同母妹の外孫と異母妹の子とどっちを選ぶかってところか。
自分に駒がないから悩ましいところだ。

28: 日本@名無史さん 2007/06/16(土) 08:47:44
この時代、天皇の外戚として権力を振るうには、天皇の外祖父か外舅(叔父、伯父)であることが重要だったから、それだったら異母妹の子のほうがまだましだったろうね。

後三条にしても、もともと母の禎子内親王(三条皇女)は、外祖父道長にかわいがられ、嬉子没後の東宮時代の後朱雀後宮に入内した際、道長の命令で頼通が同行して後見人になっている。
若くして父母をなくした禎子内親王は、伯父の頼通をとても頼りにしていた時期があったんだよね。
もっとも、頼通は、姉彰子の勧めもあり、後朱雀の後宮に養女の女原子を入れたため、禎子内親王はこれを激怒、頼通に反抗的な異母弟能信が禎子内親王に付け入る隙を与えてしまったわけだけだが。
これ以後、養女の入内が増えるから、どの妃を後見するか、これは重要なことだったかもしれない。


34: 日本@名無史さん 2007/06/20(水) 10:34:25
道長時代に話を戻すけど、源俊賢は、道長の妻明子の異母兄でありながら、退出する藤原定子の供を勤めたり、一線を画している。
けして明子の縁で道長に擦り寄ることなどない人だったけれども、それでも四納言の一人として道長が重用するほど、有能であったんだろうね。
明子の同母弟経房は、姉明子と道長の結婚の際、幼少だったために姉に伴われて道長の庇護を受け、その後、やはり官僚として活躍している。
逆に、倫子の兄弟は、中宮彰子の立后時に中宮職の官僚として取り立てられたりしたのに、その後あまり出世していない。
倫子の子の出世ぶりとは対照的。

36: 日本@名無史さん 2007/07/11(水) 20:50:18
平安時代になれば、正妻とそれ以外の妻が産んだ子は出世のスピードはかなり違うもんなのかな

37: 日本@名無史さん 2007/07/12(木) 18:31:43
>>36
この時代は通い婚だし、後の時代のような正室、側室の区別は明確にはなかったようだけれどもね。
例えば、藤原道長の祖父藤原師輔、この人は、醍醐天皇の皇女を3人までも妻にした。
このうち、勤子内親王、雅子内親王には子がなかったけれど、村上天皇の同母姉康子内親王には深覚、公季などの男子があり、血筋は妻たちの中で最も良い。
しかし、師輔の子の中で摂政、関白になったのは、いずれも中流貴族に過ぎない
武蔵守藤原経邦女、盛子の産んだ伊尹、兼通、兼家ら。
師輔と盛子の間には村上天皇中宮藤原安子があり、兼家らは同母妹安子の恩恵をかなり受けたようなんだね。
一方、藤原道長の母は、やはり中流貴族の摂津守藤原仲正女、時姫。
時姫もまた、兼家の妻の中で特に身分が高かったわけではないけれども、道長らは同母姉妹の冷泉天皇女御藤原超子、円融天皇女御藤原詮子の恩恵を受けた。
ちなみに兼家の妻には、「蜻蛉日記」を書いた伊勢守藤原倫寧女、道綱母や、太宰大弐藤原国章女、対御方(三条天皇尚侍の母)があって、いずれも出自は時姫と同じく国司クラスの中流貴族の娘、兼家には三人の妻があった、としている史料もあることから、これら三人の妻たち自身には特に序列はなかったようだ。
同母姉妹に天皇妃が出ると、その同母兄弟たちは恩恵を受けたけれどもね。

39: 日本@名無史さん 2007/07/13(金) 18:14:28
実資は自分の家が藤氏嫡流の意識が強かったせいかプライドが異常に高い

40: 日本@名無史さん 2007/07/13(金) 22:23:20
実資が三条天皇の強行した娍子立后の儀式に参列したのも、小野宮流の矜持だろうね。

41: 日本@名無史さん 2007/07/15(日) 17:18:31
同じ小野宮家の藤原公任が、藤原道長べったりで、道長の五男坊を自分の長女の婿に迎えて孫娘の入内を夢見ているのとは大違いか・・・

42: 日本@名無史さん 2007/07/15(日) 21:19:50
実資より公任のほうが合理的だね
ところで教通(と公任の娘)の子孫って何家なの?

43: 日本@名無史さん 2007/07/18(水) 17:49:07
教通の子・信長には、兼実・知房・信子(師通の室)などの子がいたが、「はかばかしき末もおはせぬなるべし」(『今鏡』)とあるので、繁栄せず断絶したものと思われ。
信長は承暦4年(1080年)に太政大臣になるが、席次が関白・左大臣の師実よりも下だったことから「もう出仕はしない」と怒り狂い参内のための牛車を燃やしたそうだ(『古事談』)。

44: 日本@名無史さん 2007/07/18(水) 20:57:29
どの本で読んだか忘れたが信長は太政大臣に「左遷」されたと書いてあった。
その当時は太政大臣で左遷かよ!と思ったが、実験が伴わず席次が関白の下じゃあ左遷と思ってもおかしくないか

45: 日本@名無史さん 2007/07/18(水) 23:26:35
頼宗や長家の子孫がわりと繁栄しているから教通の子孫も繁栄していると思ったら滅んだんだね・・・
では公任の子孫は今は・・・

46: 日本@名無史さん 2007/07/25(水) 17:17:11
公任や実資の子孫だけでなく、小野宮流(実頼の子孫)全てが断絶です。
by『尊卑分脈』   

48: 日本@名無史さん 2007/08/26(日) 01:41:36
こうやって見ると道長って能力、本人の努力に加えて運にも恵まれてるな
兄達の早逝、特に道兼の死がなかったらその後の展開は変わったはず
子出しが良く体が丈夫な源倫子という妻にも恵まれて

49: 日本@名無史さん 2007/08/26(日) 03:49:05
上東門院彰子は可哀想
子には先だたれ同母兄弟姉妹の中で残ってたのは教通だけか

50: 日本@名無史さん 2007/08/26(日) 06:59:13
道長の娘たちの中では最も早死に
甥と結婚させられて19歳で産で死んだ六女嬉子よりましだろう

52: 日本@名無史さん 2007/08/27(月) 23:19:00
嬉子(よしこ)が生まれたとき、道長は42歳。倫子は44歳。すごいな・・・。
嬉子が長命だったら、禎子(よしこ)内親王は後朱雀天皇の后にならず後三条・白河の登場も無かっただろう。もっとも、頼通・教通の娘たちは皇子を産まなかったので、結局は同じことかな?円融天皇の系統も、あるいは断絶になっていたかも。

55: 日本@名無史さん 2007/08/28(火) 15:09:44
結局は国母である彰子の存在が一番大きかったのだと思う。
寛子が長生きしていれば、寛子の子に皇位がいった可能性は有ると思う。

56: 日本@名無史さん 2007/08/28(火) 16:27:09
>>55
頼通が異母妹寛子の皇子を登位させなかったのは、頼通に敵対心をもろに見せる、寛子の同母兄能信や、従順そうに見えて、さりげなく娘を後宮に押し込む頼宗を恐れていたんだと思う。
頼宗、能信らは、腹違いとはいえ紛れもなく道長の息子で、同母妹の寛子が仮に長生きして、国母、皇太后に納まるようなことになったら、当然上東門院に匹敵する権力を手中にした寛子の贔屓で摂関の地位が狙えるはずだった。
寛子の皇子が登位しなかったのは、寛子の早世のせいではなく、頼通や彰子の意向だと思う。
三条天皇や後冷泉天皇は、生母の死後に登位しているから、生母が存命であることが絶対だったわけではない。
小一条院は、妍子と争った皇后娍子の皇子、しかも寛子の皇子は明子腹の兄弟たちによって庇護されている。
彰子や頼通自身が、異母妹の生んだ小一条院の皇子よりも、彰子の直系の孫に当たる後三条の即位を望んだのだと思う。
事実、後三条の中宮馨子内親王(後一条と威子の皇女)は、威子の死後、上東門院彰子の後見を受けており、馨子内親王の皇子が登位していれば(実際には早世)、彰子と頼通は政治の中枢に居続けることができたはずだった。

61: 日本@名無史さん 2007/08/31(金) 02:17:56
>>56
道長も倫子の生んだ子女とそれ以外の出生の子供とではきっちり序列を付けてるみたいだし。
そのせいかは知らんが頼宗と能信などは、結構問題のある行動を起こしてたみたいだな。

58: 日本@名無史さん 2007/08/28(火) 19:50:26
道長に養女はいても養子がゼロだったのは史実か。基経など他に例は散見出来る筈。

59: 日本@名無史さん 2007/08/28(火) 22:47:12
猶子はいたけど、養子はいたっていう証拠はないよね。
いなかったって断言は出来ないけど。

60: 日本@名無史さん 2007/08/30(木) 10:54:36
道長の養子(家系図上、道長の子と記載される)となったとされる人物

・藤原通基(道長五男教通の子。祖父道長の養子となる)

道長の猶子(家系図は実父のところに入っているが、道長と義親子関係にあった)とされる人物

・藤原兼経(道長の異母兄道綱の子。実母は道長室倫子の同母妹で、兼経を産んだとき産でなくなってしまったので、母の姉倫子の手元で育った)

・藤原兼隆(道長の同母兄道兼の子。父道兼が死んだとき幼少であり、母藤原遠量女が別の公家と再婚後、道長の庇護下に置かれる。道長が加冠を勤めるなどした)

道長に幼少期から庇護を受けた人物

・源経房(道長室明子の同母弟。父源高明が死んだとき幼少で、姉明子が道長の妻となった際、姉に伴われて道長の庇護を受けた。明子腹の能信などと親しかったとされる)

57: 日本@名無史さん 2007/08/28(火) 19:40:16
今更だがものすごい近親結婚社会だな

66: 日本@名無史さん 2007/09/01(土) 14:09:57
考えてみると後一条天皇、後朱雀天皇、威子、嬉子の4人って兼家・時姫・円融天皇・倫子の血しか引いてない。
さらにこの組み合わせから生まれた後冷泉天皇と章子内親王ではさすがに純粋培養が過ぎる。
まずまともな子にはなりそうもないな。
それともとてつもない天才が生まれるかも。

後一条天皇、後朱雀天皇
兼家1/4・時姫1/4・円融天皇1/4・倫子1/4
威子、嬉子
兼家1/4・時姫1/4・倫子1/2
後冷泉天皇、章子
兼家1/4・時姫1/4・円融天皇1/8・倫子3/8
仮に後冷泉と章子に皇子誕生として
兼家1/4・時姫1/4・円融天皇1/8・倫子3/8

67: 日本@名無史さん 2007/09/01(土) 14:45:25
ちなみに後三条天皇は
村上天皇1/8、師輔3/16、盛子(兼家と安子の母親)3/16、時姫1/4、倫子1/4と後冷泉天皇、章子内親王、馨子内親王に劣らず濃い。

69: 日本@名無史さん 2007/09/01(土) 15:25:16
細かく言うと兼家・時姫・円融天皇・倫子自体親類同士だし、恐るべき血の凝集、血統書付きの犬猫ってこんな感じ?

70: 日本@名無史さん 2007/09/01(土) 16:12:46
この時代、天皇は配偶者を選べないからね。
それに対して、摂関家はある程度選べる。
藤原師輔ー藤原盛子
藤原兼家ー藤原時姫
藤原道隆ー高階貴子
これらは男が摂関家の子息であるのに対して、妻は受領階級、いろいろいわれることもあるが、近親婚ではない。それに対して、藤原道長ー源明子(従兄妹同士。明子の母愛宮は、道長の父兼家の異母妹)源倫子と道長は多少離れるが、倫子の祖母(時平女)と道長祖父師輔がいとこ。
道長は少し近親から妻を選びすぎたかもしれない。
道長以降は、摂関家同士での近親婚も起こる。
同じ道長の子孫同士、摂関家嫡流となった倫子系子孫が、明子系の子孫から妻を娶る。
藤原師実(頼通の子・倫子孫)-源師房女麗子 (尊子の子・明子孫)
藤原師通(師実の子・倫子曽孫)ー藤原俊家女全子(俊家は頼宗の子・明子曽孫)
藤原忠通(師通の子・倫子曽々孫)ー藤原宗通女宗子(宗通は俊家の子・明子曽々孫)
倫子系と明子系の融合が起こる。

72: 日本@名無史さん 2007/09/01(土) 21:10:55
>>70
忠通は師通の孫(忠実の息子)。
忠通の母源師子は源麗子の姪。
忠通と宗子には五人ほど子供がいたらしいが皇嘉門院聖子以外は全員夭折。
忠実は麗子の別の姪との間にも数人子供がいたがこれまた全員夭折。

71: 日本@名無史さん 2007/09/01(土) 19:12:46
結局同等か直近下位としか婚姻関係を結ばないからどうしても最上層は近親婚にならざる得ない。
明みたいに皇后は下級官吏とかから選んだ方が血統的にも政治的にも得策かも。
武士は側室の子が多いから比較的活力を維持できたんだろうか。

75: 日本@名無史さん 2007/09/05(水) 10:58:23
結局、>>2にある道長の娘たちの中で、現代にまで血を残せたのは
彰子(後朱雀天皇~)
妍子(禎子内親王→後三条天皇~)
尊子(村上源氏)
だけってことかな?

この三人の中でもなんだかんだ言って夫が出世して長生き・大勢の子供も出世して長生き・自分自身も長生きな尊子が一番穏やかで幸せな人生だったんじゃないかと思える。
源師房と結婚するときには「ただ人」だとがっかりした尊子も孫の賢子が東宮貞仁親王に入内するときは嬉しかっただろうな。

77: 日本@名無史さん 2007/09/08(土) 23:57:39
>>75
尊子は娘も摂関家に嫁いでるから子孫の数はとんでもないだろうなw

78: 日本@名無史さん 2007/09/11(火) 03:28:39
>>77
麗子だね>摂関家に嫁いだ娘

師房・尊子の長女である女元子も頼通の長男通房に嫁いだけど通房は早くに死んでしまった。

四女の麗子は藤原信家(教通長男)の養女になり、信家は東宮(後三条)に入内させたいと思っていたらしい。
しかし馨子内親王に遠慮して結局師実を婿に迎えたとか。
結果としてこれは大当たりだったんじゃないかな。
麗子は師実の嫡男師通を生み、養女にした姪の賢子は皇子を生んで中宮にまでなった。
麗子は村上源氏の発展に少なからず貢献したと言えるかもしれない。

79: 日本@名無史さん 2007/09/11(火) 16:58:11
>>77
妍子については顔の描写はないけれども、栄華物語に、髪がとても長いと褒めちぎっている。
髪が長いことは、美人の条件だったけれどもね。
母親の倫子のほうは、小柄で大層ふっくらしている、とあるみたいだね。
当時、40を超えていたはずの倫子を20ぐらいに見える、とあるのはいいすぎだとしても、栄華物語の作者は、倫子の娘に仕えた女房だといわれているから(最有力は赤染衛門)、当然倫子とも面識があったはずで、倫子は小柄でぽっちゃり、童顔の女性だったと考えていいみたいだね。
妍子は、男子2人を生んで道長に貢献した姉彰子と常に比較されるも女子しか生めず、夫三条天皇とも道長の意向で別居状態になったから、ちょっと羽目を外していたのかな?
妍子付きの女房が、十二単を20枚も重ねて着るという派手なことをやって、責任者の頼通が父道長に叱られているけど、気の毒な面もある。

76: 日本@名無史さん 2007/09/05(水) 13:23:20
尊子は道長の娘たちの中では一番扱いが低くて、(美人ではなかったという説もある)未婚時代は六人の娘たちの中では一番父道長からの愛情が薄そうだったけれどもね。
息子の顕房が有能だったから、報われた面はあるけれども。

77: 日本@名無史さん 2007/09/08(土) 23:57:39
>>76
一番美人は妍子だっけ?
派手好きで、だけど自分の死期を悟るや
悲しむ道長を尻目に毅然とした態度で出家に臨んだという。

80: 日本@名無史さん 2007/09/11(火) 22:43:13
倫子は高齢出産したぐらいだから肉体的にも若々しかったのだろう

82: 日本@名無史さん 2007/10/12(金) 20:10:20
>>80
44歳の時に末の子を産んだんだっけ?

83: 日本@名無史さん 2007/10/12(金) 20:34:22
倫子は44歳で末子嬉子を産んだが、同年、道長のもう一人の妻明子も尊子を産んでいる
明子の正確な年齢はわからないが(倫子の1歳年下説が有力)
どっちみち40歳は過ぎていた

85: 日本@名無史さん 2007/10/12(金) 21:06:32
倫子は父母とも相当な長命、出産とかで早死にした娘も多いが、残る長女と息子は二人は当時としては嫌になるほど長寿。
やはり遺伝的なものも大きいのかな。
孫はさほど長生きじゃないけど。

86: 日本@名無史さん 2007/10/12(金) 22:27:09
倫子の孫は、長命だった人もいるよ。
藤原寛子(92歳で没・長男頼通の娘)
藤原歓子(82歳で没・五男教通の娘)
禎子内親王(82歳で没・次女?子の娘)
章子内親王(79歳で没・四女威子の娘)
藤原信長(73歳で没・五男教通の息子)

源明子も、源倫子が死ぬ4年前になくなっていて、そこそこ長生き。
明子の孫源俊房は、87歳まで生きている。

87: 日本@名無史さん 2007/10/12(金) 22:35:06
明子の両親の寿命は?

90: 日本@名無史さん 2007/10/12(金) 22:45:28
源明子の両親

父;源高明(914-983)70歳で没
母;藤原愛宮(生没年不詳)

明子の母愛宮は、道長の父兼家の異母妹なので、道長と明子は従兄弟同士。

91: 日本@名無史さん 2007/10/13(土) 08:39:36
このころの女性は出産で命を落とさなければ(あと、はやり病に引っかからなければ)そこそこまで長生きだったんだろう。
ただ、初産年齢が比較的低い(現代で言う中高生)のと多産が多いので、体への負担が非常に大きい

96: 日本@名無史さん 2007/10/14(日) 04:00:09
>91
初産年齢が低いと早死にの傾向はあったかもしれないね
藤原教通の最初の妻藤原公任女は、十代半ばから産み始めて24歳で7人目の子を産んで死んだ
倫子も明子も当時としては晩婚で、いずれも20代後半で初産だった。
(倫子が第一子彰子を産むのは25歳)
子供のいない女性や少ない女性は、長命だった人が少なくない。

引用元: ・◇藤原道長とその娘たち◇