41HbR5+q6dL



1: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 01:58:17
誰よ?








2: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 01:59:32
二科盛信

12: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 15:00:32
冷泉隆豊。
陶晴賢に謀反されて、殺された大内義隆の家臣。
家臣団のほとんどが陶につく中、最後まで義隆に従って切腹の時間稼ぎや
介錯をしてあげた義理堅い立派な人。
>>2の仁科盛信に似てるね。
切腹した後、自分の腸を壁にぶちまけたなんていう伝説があるのも共通点。

44: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/08 00:00:29
>>12
ぶちまけるのは村上義光が元祖ではないかと。
もっと古い例あったら教えてください。

5: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 02:22:18

・松永久秀
・足利義輝
・村上義光
・護良親王
・真田幸村(信繁)

この辺は候補、かな。
石田三成も「死に至るまでの数日」はなかなかだと思う。

追加希望。
できたらその死の描写つきで。

46: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/08 00:11:12
>>5
護良親王の死にざま詳細

やはり衆を向こうにまわして寡で戦うのが人気のようで…
五郎の高遠落城の様は子供心に衝撃的だった

61: 05/02/08 18:22:06
>>46
大塔宮護良親王、ですか

後醍醐天皇第三皇子。
若くして比叡山にて出家。天台座主まで登りつめる。
(宗教(僧兵)界と後醍醐周辺の倒幕勢力との結託の象徴)
のちに還俗しますけど。本人、仏教界にはさらさら向いてなかったようで。

挙兵時は親王綸旨を発行して全国に檄を飛ばし、自らは
比叡、吉野、信貴山らを僧兵や土豪を従え、山岳ゲリラ戦して転戦する。
(村上義光の最期、はこのへん)

建武新政時は願って征夷大将軍となる。
(同じく希望してた足利尊氏は鎮守府将軍)

ただ、彼の権力は薄いものでした。
後醍醐天皇の周辺にいた寵妃・阿野廉子の子ではなく、
(だから後醍醐は護良には”宗教界勢力支配”をして欲しかった)
所詮は還俗法親王。地盤もない。
新田も足利も征夷大将軍になりたい。

政争に破れ(つーか後醍醐がしっかりしてないから・・・)、
建武元年冬「皇位を狙った」として名和長年により捕縛。
(実質足利支配下の)鎌倉に送られ、足利直義の監視の下、
東光寺裏の土牢に幽閉される。

翌年、中先代の乱勃発。
破竹の勢いで鎌倉を目指す北条時行軍が、スターである親王を奉じる事態は
避けたい・・・境川合戦で北条軍に敗北、鎌倉に逃げ戻ってきた直義により殺害。
南北朝の英雄が一人、花舞台から退場となります。

62: 05/02/08 18:23:10
その死の風景ですが
足利直義は、「時行の手に落ちると厄介だ。親王を殺害せよ」と命じます。
受けたのは直義の家来、現在の淵野辺あたりの地頭職であった、淵辺伊賀守義博。

淵辺とその郎党が、東光寺にあります土牢、護良親王の下に参りました。
すると淵辺を見遣った親王は

「・・・お前は俺を殺しに来たな!俺はわかってるぞ!!」

と叫んだやいなや、淵辺の刀を奪おうと猛然と襲い掛かりました。
すかさず淵辺、その太刀鞘をもって親王の膝を払いました。
牢に半年以上幽閉されていた親王、足が弱っております。ぐらり、と倒れる親王。
淵辺は親王の胸元にまたがり、刀を抜いて首を掻き切ろうと試みました。

しかし親王は首をすくめ、その刀に”食らい付き”ました。
あせる淵辺!必死の親王、ふんがぁっ!っとばかりに刀の先を折ってしまいました。
しかしそこを脇差一閃。
親王は止めを刺されてしまいました・・・

やれやれ、と首を掻き切り、明るいところで再確認するとその形相は・・・
死後も折れた刀を加えたまま、おどろおどろしき憤怒の表情を浮かべ、
その目があたかも生きているように淵辺を睨みつけました。

おっそろしくなった淵辺一党、その首を草むらに投げ捨てて逃げてしまいました。


首は縁あるものが拾い上げ持ち去り、供養したそうで。
今日「首塚」とされるものが残っています。


以上、そもそも誇大表現の太平記を基本に(笑)
史実、脚色を加えまして乱文乱筆失礼。

63: 05/02/08 18:54:27
あ・・・すんません親王が出すのって「令旨」でしたっけ?

7: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 02:43:36
国盗り物語の中での道三(庄九郎)の最期はカッコよかった・・
あとは項羽かな

14: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 20:21:51
今井兼平を忘れるな。
今井 兼平

今井 兼平(いまい かねひら)は、平安時代末期の武将。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。

義仲が討たれると、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ(いまは誰をかばうために戦をすべきであろうか?東国の武士どもよ、これを見よ。日本一の剛の者の自害の仕方よ)」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害した。


22: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 21:14:00
三国志ならやはり審配かな。
処刑人に「北面させよ。我が君は北に居られるのだ」
審 配

審 配(しん ぱい、? - 204年)は、中国後漢時代末期の武将。

東門を守っていた審配の兄の子の審栄が城門を開いて曹操軍を城内に導いた。激しい市街戦の末、ついに審配は生け捕られた。審配は声音も気力も壮烈であり、少しも弱音を吐く様子を見せなかったため、見る者はみな感嘆したという。

曹操は審配と対面した際、「先日わしが城を包囲した時、何と多くの弩を射かけた事か」と威圧すると、審配は「その数が少なかったのが残念だ」と答えた。曹操は、袁氏父子に対する彼の忠節を高く評価して部下に迎えようとしたが、審配は最後まで袁尚への忠義を貫いて拒絶した。また、辛毗が篭城の間に兄の辛評一家を審配に殺害されたと、強く申し出たため、曹操もついに審配を処刑することを決めた。審配は最期に「我が君は北におわすのだ」と言い放ち、主君の袁尚がいる北を向いて斬首された。


17: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 20:52:51
高橋紹運と鳥居強右衛門も必須だな。

25: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 21:17:41
蜀の傅彤・傅僉親子。
死ぬシチュエーションが似てるのがまたいい。

傅 彤

傅 彤(ふ とう、? - 222年)は、中国三国時代の蜀漢の武将。「傅肜」(ふゆう)とも表記される。

劉備が呉に惨敗を喫した夷陵の戦いにおいて、退却する蜀軍の殿を務めた。その際、呉の降伏勧告を受けたが「漢の将軍が呉の狗に降れるか」と罵って戦死した。その死は、蜀漢滅亡の際に戦死した子と共に、後世から称えられた。


28: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 21:40:32
鬼庭左月入道良直。
老体に鞭打って人取り橋で奮戦する様は涙を誘う。

鬼庭 良直

鬼庭 良直(おににわ よしなお)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。伊達氏家臣。左月斎の号で知られる。永正10年(1513年)、伊達郡小屋館(赤館)城主・鬼庭元実の子として生まれる。

天正13年(1585年)10月、嫡男・政宗に家督を譲っていた輝宗が殺害されると、同年11月17日(西暦では翌1586年1月)には常陸の佐竹義重が、政宗を見放して伊達氏から離反した南奥の諸侯を糾合し二本松城を包囲中の伊達軍を攻撃するため安達郡へと攻め寄せた(人取橋の戦い)。

この時、左月斎は政宗から指揮を任されて金色の采配を与えられた。しかし、兵力に劣る伊達軍はたちまち潰走し、佐竹軍に本陣への突入を許す状況となったため、左月斎は政宗を逃がすために、殿軍を引き受けて敵中に突入した。左月斎は高齢のために重い甲冑が着けられず、兜の代わりに黄綿の帽子を着けるという軽装であったが、最前線に踏み止まって力戦し、鬼庭隊は200余の首級を取ったという。この間に政宗は辛うじて本宮城に逃げ込むことができ、九死に一生を得たが、左月斎は岩城常隆の家臣・窪田十郎に討ち取られた。享年73。



30: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 21:57:25
メジャーどころでは、信長の死に様も良かったような気がする。

明智の謀反と聞いて、「是非に及ばず」。
自ら弓を取り、奮闘後に自刃し、首級は敵に渡さない。
もちろん、女子供は落ち延びさせてる。

権力の頂点にあったものが、腹心の謀反にあって、
恨み言一つ言わず、奮戦・自刃ってのは、なかなか稀有でしょう。

「ブルータスよ、お前もか」のカエサルとは対照的。

よく俗説で、信長は晩年、少しおかしくなっていたと言うのがあるけど、
果たしてそういう人物で、こういう死に様が出来るか疑問。

34: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 22:29:42
諸葛遷親子もいい死に様だ
無能だけど最後まで蜀の為に戦ったところがいい


39: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 23:28:16
マクロに死に様を見るなら信長
ミクロに死に様を見るなら義輝・久秀
死に至るまでが長くて、そのタームが格好よかったのは三成

43: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/07 23:56:39
マイナーだけど伊賀久隆。
殺したのは宇喜多直家。

伊賀 久隆

伊賀 久隆(いが ひさたか、生年不明 - 天正9年(1581年)4月)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

天正9年(1581年)4月、突如として謎の急死を遂げた。『桂岌円覚書』に寄れば、宇喜多直家の家臣である河原四郎右衛門尉に毒を盛られたという。これは織田氏への寝返りに不満を持つ宇喜多家臣の流言に騙された直家によって毒を盛られた等いくつかの記述が残っている。また、直家はこの頃「尻はす」という出血を伴う悪性の腫物を患いかなり弱っており、自分の死に際して広大な所領を持つ久隆の存在を危惧したという説もある。


45: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/08 00:01:54
>>43
元々仲間なのに毒マニア直家に毒を盛られた、としか知りません。
詳しく教えてください。

82: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/10 23:26:41
>>45
久隆は直家の家臣で妹婿。天正2年には、小早川隆景率いる毛利軍を居城
である虎倉城下で、完勝に近い形で撃退するなどの軍功をあげている。
元々、久隆は松田氏家臣だったが、主君を裏切り滅亡させた。そういう点
は、直家とよく似ている。
疑い深い直家は、政略結婚で義弟にしたものの、久隆が後継者争いに絡む
ことを危惧したのかも知れない。


47: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/08 00:36:47
有馬新七の「おいごと刺せー!」

49: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/08 01:20:28
おまいら、袁術陛下を忘れてないか?

54: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/08 09:23:21
>>49
蜜ドゾー
つ●

69: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/09 03:08:49
崇偵帝
「汝等は何故我が家に生まれたか!!」って言って娘を斬る


崇禎帝

崇禎帝(すうていてい)は、明朝第17代(最後)の皇帝。諱は由検(ゆうけん)。廟号ははじめは思宗、のちに改めて毅宗(以上は南明弘光帝による)、威宗(隆武帝による)、懐宗(清による)。

第15代皇帝であった泰昌帝の第5子として生まれた。天啓2年(1622年)に兄の天啓帝より信王に封じられた。天啓7年(1627年)に天啓帝が急死し、その男子がみな夭折していたため、翌崇禎元年(1628年)に皇位を継ぐことになった。即位してすぐに、兄帝の下で専横を振るった宦官魏忠賢を誅殺し、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組んだ。
当時は北に満州族の後金が進入し、南では李自成たちの反乱が多発した、まさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと懸命に努力した。

崇禎帝は李自成軍に次々と討伐軍を送るが、その討伐軍を組織するため増税を行ったことにより、窮迫した民衆が李自成軍に加わり、まったくの逆効果であった。

崇禎17年(1644年)、李自成の順軍は北京を包囲し、3月19日に北京は陥落した。前夜から、崇禎帝は息子たちを紫禁城から脱出させ、側室と娘たちを自ら手にかけて殺害し、周皇后の自害を見届けた後、危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官はすべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。ここにいたって紫禁城の北にある景山で首を吊って自殺した。享年34。李自成の命令で、皇貴妃田秀英の墓が開かれ、崇禎帝と周皇后が合葬された。

娘の長平公主を斬るときは「ああ、そなたはどうして皇帝の女に生まれてしまったのか!」と泣いたという。



76: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/10 15:05:33
水滸伝の 李キ 兄と慕っていた宋江に「俺死ぬから お前も毒酒飲め」
と言われ飲んだ人 できるか?こんなアポ~な死にかた
宋江の墓の近くの木で首吊った呉用・花栄は?と思う

87: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/11 01:57:57
おまいら今川義元様を忘れるな!

熾烈な家督争いを勝ち抜き、武田・北条にそれぞれ恩を売って同盟、分国法で豪族を掌握し、三河をも併呑。
この経歴は名実ともに東海の弓とり。
しかし、田楽狭間の合戦で織田信長本隊が急襲。義元は自ら太刀をとって斬り防ぎ、服部小平太を斬り倒す。しかし毛利新助に押し倒され、ついに討たれた。
その首は、食いちぎった新助の指をくわえたままだったという。

90: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/11 08:15:19
項籍
信長のような最後

101: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/11 22:03:15
>>90
裏切った元配下に首をとらせようとしたんだよな。そしたら雑兵が少しでも勲功を得ようと、項籍の体をずたずたに切り裂いて持ち去った。
覇王の最期にしてはあんまりだ・・・。゚゚(ノД`)゚゚。

99: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/11 21:16:15
大谷吉継が小早川に呪いかけて見事に成就ってのが素敵

102: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/11 23:36:08
切腹の際に腸を引きずり出したという武将が何名かいるが考えただけでもおっそろしい。

103: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/12 00:21:29
自分で腹切ったぐらいではなかなか死ねないというの事実らしいね。
そりゃま、確実に死ぬし痛いけど。
丹羽長秀なんかがやると、それまでのキャラが地味なだけにメチャ壮絶。
(事実かどーかは知らんが)

104: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/12 00:33:33
丹羽長秀って何かの責任とって腹切ったわけじゃないよね?
なんで切ったの?

105: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/12 00:39:53
丹羽は秀吉にまんまとだまされた(織田家のっとり)ことにきづいて絶望して自害
じゃなかったっけ

106: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/12 02:24:17
>>105の説のようなことを考えていたのではないかと思われるが、わからない。
病魔に毎晩苦しみ、「わが腹中に宿りながら主に徒するとは何事か!」とかなんとか叫んで、
腹を切り、病根と思われる腫瘍を抉り取り秀吉に送れと命じたんだったと思う。

108: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/12 08:24:10
三国志じゃねーが、張世傑の最後はいい
嵐の中一人船に残って「天よ!大宋を滅ぼすというのなら、この船を覆したまえ!」

「船、遂ニ覆ル。世傑溺ル。宋滅ブ」
この男の死によって一つの王朝が滅ぶ物語のラストを飾るんだからねぇ・・・(文天祥のおまけがあるが)
張 世傑

張 世傑(ちょう せいけつ、生年不詳 - 1279年)は、南宋末期の軍人。文天祥や陸秀夫と共に南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。

1275年には元軍の侵攻を一度は撃退したが、1276年に首都・臨安が陥落すると陸秀夫と共に前皇帝であった度宗の遺児を引き連れて脱出し、亡命政権を形成した。

その後も南宋の将軍として失地回復を図ったが果たせず、かつての上司の張柔の9男である元の武将張弘範は張世傑の甥を派遣して、元に帰順させようと試みたが失敗に終わった。

1279年に元軍の猛攻の前に帝昺と陸秀夫が自殺して南宋が滅亡すると陳朝大越国(現在のベトナム北部)に向かって再起を果たそうとしたが、逃走中に嵐で船が沈没して死亡した。

『十八史略』においては、香を焚いて天を仰ぎ「天が宋を滅ぼそうとするなら、この船を覆せ」と叫んだと記述されている。


115: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/13 07:30:00
意外に出ない宗治。
つことで忠義の士、清水宗治。

116: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/13 10:37:30
>>115
「部下の命が助かるなら、俺の命なぞくれてやる」って言った人ね。
漢だよね

122: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/13 13:48:23
歴史のターニングポイントであり、
水攻めという戦法を使ったその戦い自体、秀吉の代表的な戦いの一つとして有名であり、
舟上での切腹という美しい光景。
昔も今も表舞台に出れる人はほんの一握り。
そういう意味では、清水宗治は恵まれていたと言えるかもしれない。

126: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/13 15:13:00
別所長治

赤松家一族で東播磨の盟主。
播磨・三木城主。

羽柴秀吉との2年以上に渡る篭城戦を耐えるが
ついに兵糧が無くなり、城兵の助命を条件に切腹・開城。

辞世の句
「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代わる 我が身を思えば」


129: _ 05/02/13 16:03:29
吉川経家もカッコイイ最期だったような……。

後は、楠木正成、楠木正行。

138: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/13 19:25:19
遠藤直経
敵兵に扮して信長の首を狙うも、見破られて死亡

143: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/13 21:09:23
戦国じゃないけど
高杉晋作
「おもしろき こともなき世を おもしろく」

161: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/17 02:41:34
公孫瓚が死んだのを聞いて袁紹軍に突っ込んで戦死した忠節無比の人は誰だっけ

163: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/17 13:01:25
関靖
根っからの酷吏で、媚びへつらうばかりで長期的な計画など持っていなかった。しかし公孫瓚には格別に信頼、寵愛された>>公孫瓚伝
忠節無比かどうかわからんが、潔い人間ではあるな。

162: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/17 10:04:06
>>161
関靖だと思う。

袁紹の下で青州を治めたが旧主・張超の救援に行くのを許可してもらえず、反乱した臧洪って人もいい。
外からの支援の当てもない自滅的な籠城に最期まで付き従う部下と民。
「これは自分の問題であり皆が苦しむ必要はない」
と陥落寸前の城から退去するよう命じるが、一人も応じる者はなかった。

190: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/21 18:02:45
死後も灯火となって都の人々を暖かく照らし続けたという
トウタクたんが最強。

206: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/24 06:25:07
相良義陽

島津家の圧力に抗しきれずに已む無く臣従し、
長年の盟友であった甲斐宗運との戦の先鋒を命じられる。

合戦になると、甲斐家に押されるが不利を悟りながらも撤退せず、
周囲の臣下が逃げる事を勧めたにも関わらず、床机に腰を下ろしたまま
抵抗もせず首を討たれた。
当初から甲斐宗運に討たれる覚悟で出陣したとも言われる。

219: 無名武将@お腹せっぷく 05/02/28 22:29:44
乃木まれすけ
明治天皇崩御の日に割腹、殉死。

250: 無名武将@お腹せっぷく 05/03/05 01:03:03
呉の干詮を挙げてみる。

魏の諸葛誕の反乱に呼応する形で寿春に
呉軍が派遣されたが、その中に干詮が居た。
その後包囲された寿春城を巡って激戦となったが、
解囲かなわず外部の呉軍が撤退後、内紛や食糧難から
寿春城は陥落する。
他の呉将が魏に降っていたこともあってか降伏を勧められた干詮だが、

「加勢するよう君主から命ぜられて来たのに、救うことができず、
その上おめおめ降参するなど義理にもできぬ」

と兜脱ぎ捨てて敵陣に斬り込んで戦死。

252: 無名武将@お腹せっぷく 05/03/05 06:22:55
呉の末期は多いよな
敵軍に突っ込むとか

254: 無名武将@お腹せっぷく 05/03/05 11:51:05
つーか于詮だろとツッコミ

304: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/22(火) 22:46:23
日根野弘就
弘就の最期は、実は自殺であったという。
世間の噂では、関ヶ原の合戦の折、石田三成に通じていたためで、
それが露見することを畏れて自裁したのだという。その死に様が凄まじい。
腹を切って、腸をつかみ出し、エイヤッと庭の木にひっかけた。
おそらく、庭に面した部屋か縁側で切腹したのだろう。

◆これで最期と思いきや、弘就の心気はいまだ乱れず。そのまま二階へ上がって、
書状などを調べて不要なものを破って、さらに念入りに縄で縛った後、火中に投じた。
普通、身辺整理をしてから切腹するのが順序かと思うが、
弘就の場合は逆だった。あるいは腹を切ったあとで
「あ。あの文書を始末しておくのを忘れた」と思い至ったのか。

◆整理をすると誰でも経験はあると思うが、時間がたつのが実に早い。
そうこうしているうちに、明日になってしまった。
けれども弘就の心気は昨日と変わらず(繰りかえすが、
彼の腸は庭の木にひっかかったまま)。あまつさえ、
近侍の者に「まだ死にそうにない」とぼやく始末。
晩になってようやく苦しみが生じ出した。
「いよいよだ。わしが死ぬのも近い」と弘就はついに自らの首を刎ねて息絶えた。

315: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/24(木) 16:09:13
ちょっと名前がわからんのだが、史記の、劉邦の身代わりで馬車に乗って出てきたヤツ
誰だっけ?

323: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/24(木) 20:23:41
>>315
紀信。で、その親友で篭城して死んだのが周荷。
…ほんといいよな…紀信。

326: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/25(金) 23:58:11
呉最後の丞相 張悌
280年晋軍を迎え撃つが元より勝てるはずもなく、沈瑩・諸葛静は降伏を勧めるが
「君臣共に降伏し一人も国に殉じないのは恥辱じゃ!!」と叫び乱戦の中斬って入り、沈瑩と共に壮絶な戦死を遂げる

332: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/26(土) 23:22:58
沖田畷の戦いで全滅した龍造寺四天王の最後は全員結構かっこいい


成松信勝
沖田畷の合戦で隆信の戦死を知ると名乗りを上げて敵陣に突撃
島津軍の注意を引きつけ多くの味方を逃がすも討ち死にした。


百武賢兼
竜造寺隆信を守り奮戦するも主従共に討ち死にした。


円城寺信胤
隆信の戦死を知ると隆信に似せたいでたちをした後「我こそが隆信」と名乗りながら敵陣に突撃した。
           

木下昌直 
隆信の死を聞き、斬り死にしようとした鍋島直茂を説き伏せ退却させる。
昌直は直茂を逃がす為に踏みとどまり、直茂の退却を確認した後討ち死。


江里口信常
味方の首を手に単身で島津本陣へ乗り込む。敵将・島津家久の目前まで近づくことに成功し、傷を負わせたが討つ事はできず、周りの護兵に殺された。


336: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/28(月) 00:09:46
龍造寺四天王何で5人

339: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/28(月) 01:25:37
>>336
5人そろって竜造寺四天王だから


実際のところは四天王筆頭の成松信勝が軍奉行になったんで抜けて
代わりに円城寺か木下が四天王になったんじゃなかったかと

346: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/29(火) 08:25:56
姜維の死に様について詳しく知ってる人いたら説明してくれまいか?

347: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/29(火) 12:37:18
>>346
魏の大将に囲まれて「心を労したのも、蜀漢の復興を願えばこそだ・・・かえすがえすも無念よ」とか言って自害

348: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/29(火) 14:44:57
鍾会伝じゃ焦る鍾会に「戦うだけです」とか言って5,6人殺してるからな。
カッコ良すぎ。

349: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/29(火) 15:33:27
姜維が鍾会を唆したとも
鍾会が姜維を誘って画策したとも
胡烈とかに殺されたとも
自刃したとも

姜維と鍾会の最後は謎が多いな

406: 無名武将@お腹せっぷく 2005/05/06(金) 01:44:58
閻温 えんおん
馬超に冀城を包囲した際、城から抜けて夏侯淵に知らせようとしたが、捕らえられた。
馬超は「援軍は来ないと城に向かって言えば命は助けよう」と言い、
閻温はそれを快諾して城の前に連れられた。
しかし彼は「援軍はあと3日でくるぞ」と叫んだ。
長い間包囲しても城を落とせずにいた馬超は、閻温を引き込みたかったので
「城に内応に応じる者はいないか」と閻温に尋ねると
「主君に仕える場合、死んでも裏切らないものだ。
あなたは私を裏切らせようとするが、私は命を惜しまない」、
と答えたので閻温は殺された。

413: 無名武将@お腹せっぷく 2005/05/06(金) 02:49:32
>>406
鳥居強右衛門と全く同じ死に様。鳥居本人も、もしかしたらこの逸話を知っていたのかも。
それにしても、馬超の器量の乏しさを物語るエピソードだな。

416: 無名武将@お腹せっぷく 2005/05/06(金) 08:06:22
>>413
それと良く似たエピソードは中国史上に結構あり、
知る限りでは春秋時代に宋の都を包囲した楚の荘王の話が時代設定は最も古い。
宋と同盟していた晋からの使者を捕え降伏を勧めるよう強要するまでは同じなのだが、
援軍は来ると叫んだ使者を荘王は殺さず、帰国させている。

結局晋は援軍を出さず、宋は自力で城を守り楚と講和するのだが…

引用元: ・【斬首】死に様がカッコよかった武将【毒殺】


項羽
項羽
posted with amazlet at 17.04.12
佐竹 靖彦
中央公論新社
売り上げランキング: 248,428