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1: 日本@名無史さん 2012/01/16(月) 22:13:52.64
琉球(王)国に征服される以前の沖縄(本)島や他の島々の歴史を語り合いましょう。











346: 日本@名無史さん 2014/09/17(水) 06:38:10.36
オキナワの歴史

629(舒明天皇元)掖玖(屋久島)に大和朝廷から使者を派遣
682(天武天皇11)多禰人・掖玖人・奄美人に禄を与えた
699(文武天皇3)多禰・掖玖・奄美・度感が朝貢
714(和銅7)信覚(石垣島)・球美(久米島)などの人が大和朝廷に朝貢(『続日本紀』)
715(和銅8)信覚・球美・度感・奄美・信覚が朝貢
720(養老8)南島232人に位階を授ける
727(新亀8)南島132人に位階を授ける
→琉球ではなく大和朝廷に服属してる島があることがわかる

古琉球時代
17世紀 流刑となった源為朝が琉球に流れ着き琉球の始祖舜天となったと伝わる(『中山世鑑』『おもろさうし』『椿説弓張月』等)

1422 沖縄本島を統一する(第一尚氏王朝)
1470 クーデターにより重臣金丸即位(第二尚氏王朝)
この頃 八重山を侵略
1524竹富島を強制的に服属させる
1447奄美大島に侵略
1466喜界島に侵略(奄美併合完了)
1571再び奄美を服属させる
→どうみても平穏に南西諸島を統一してない

347: 日本@名無史さん 2014/09/17(水) 06:38:43.43
1609 薩摩藩が琉球侵攻のため奄美に立ち寄る。奄美の親方(地主)たちから服属したいとの申し出を受ける
琉球に到着した薩摩藩兵に琉球王国は戦わずに降伏し服属する
1610 尚寧王、徳川家康、秀忠に謁見
薩摩藩領となる。奄美は薩摩藩の直轄となる

明治5 琉球藩となる
明治12 沖縄県となる
明治18 大東諸島を編入
明治27 下関条約で清国日本の主権を認める
明治28 尖閣諸島を編入
→大東と尖閣は琉球の範囲でないことがわかる

昭和20 米国に接収される
昭和27 トカラ列島が返還される
昭和28 残りの奄美群島が返還される
昭和47 沖縄が日本に返還される
→沖縄と奄美はアメリカも別とみなしていたことがわかる

415: 日本@名無史さん 2016/06/30(木) 20:20:56.55
沖永良部と徳之島が千竈氏のもとから離れて北山の手に落ちたのはいつ頃のことだろ
千竈氏

千竈氏(ちかまし)は、日本の中世の武家。御家人である一方、御内人として得宗家の各地所領の代官職を務めた。千竈氏は鎌倉時代を通じ、尾張国千竈郷(現在の名古屋市南区千竈通)を本拠地とした御家人であると同時に得宗家の被官として海上交通を掌握したと見られている。

薩摩国の所領については承久の乱以降に与えられたものと見られ、川辺郡を拠点に坊津、喜界島、奄美大島、沖永良部島、徳之島、屋久島下郡などの重要港や奄美群島の島々までが挙げられている。これらの所領について、近年、中世国家の東西境界周辺の得宗被官である、東の安東氏と西の千竈氏の比較検討研究が進み、ともに中央部の武士団に比べて所領面積が広大であり、国家の境界外に及んでいる点が指摘されている。その実態は、交易を通じての経済的権益であると推定されている。この処分状を含む『長島千竈文書』については、通常奄美群島史において「グスク時代」と捉えられている時代に鎌倉幕府の権力が一部とはいえ及んでいたことを示すものとされている。


416: 日本@名無史さん 2016/07/04(月) 20:43:11.71
>>415
鎌倉幕府が滅びた後のおそらく室町時代からか

417: 日本@名無史さん 2016/07/05(火) 19:58:53.15
奄美のグスクって九州の中世山城と同じ様式だけどあれ千竈氏が築いたんだろうね


2: 日本@名無史さん 2012/01/16(月) 23:04:50.33
石垣は、オヤケアカハチとかの時代かな?
オヤケアカハチ

オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂、於屋計赤蜂)は、沖縄県八重山諸島石垣島の大浜村(現在の石垣市大浜)を根拠地とした15世紀末の豪族である。

オヤケアカハチの生誕地は波照間島で、幼少の頃から豪傑としての頭角を表していたという話があるが、不詳。波照間には生誕記念碑がある。

歴史資料上は大浜住人として登場する。妻は石垣村の長田大主の妹の古市。1500年、彼は島民の広範な支持[1]を背景に、琉球王府への八重山からの朝貢を断たしめたが、2月13日[2]からの中山軍3,000人との戦いに敗北し、討ち取られた。これを、オヤケアカハチの乱と言う。

4: 日本@名無史さん 2012/02/09(木) 09:00:44.39
三山時代ドラマ化しろ

6: 日本@名無史さん 2012/02/24(金) 13:50:42.53
英祖時代の元軍との戦いをドラマ化しろ

英祖

英祖(えいそ、1229年(紹定2年)? - 1299年8月31日(大徳3年8月5日)?)は、『中山世鑑』や『中山世譜』などの琉球王国の歴史書に登場する王である。

史書によると、英祖は沖縄本島で最初に王朝を築いた神の子の王統とされる天孫氏の末裔伊祖城の恵祖世主の子であり、舜天王統の義本からの禅譲を受けて5代90年にわたる英祖王統を築いたとされる。また、彼の生誕時に母親が太陽を飲み込む夢を見たところから、「てぃだこ(太陽の子、の意)」とも呼ばれたという。

『おもろさうし』巻十二・六七一では、「伊(ゑ)祖の戦思(も)ひ」と記されているが、この「いくさおもい(イクサモヒ)」とは英祖の若い頃の尊称であり(『おもろさうし』の原注に記述あり)、「戦いに勝れた人」の意である。

なお、英祖在位中の13世紀半ばには、南宋から僧禅鑑が来沖し、仏教が伝来したという。


57: 日本@名無史さん 2012/03/10(土) 08:42:00.05
>>6
>英祖時代の元軍との戦いをドラマ化しろ

英祖が元軍と戦ったなんて話は「中山世鑑」「中山世譜」「球陽」
其の他あらゆる史料に存在しません。
元軍がマジで来てたら英祖ごときが勝てるわけねーじゃん。
常識で考えろよ。

58: 日本@名無史さん 2012/03/10(土) 11:27:24.04
日本は島といっても決戦の場が九州くらいの大きさだったから補給もでき、迎え撃つことが出来た。 
壱岐、対馬、松浦、五島列島は大きな被害を出しているんで、沖縄では無理でしょうな。 
まとまった水軍を含めた兵が沖縄にいたとしても戦うだけなら戦えても勝つのは難しい。 
それに日本を攻めた経路が違うので、元軍は沖縄を通過すらしていないだろう。 
江南軍が沖縄を確保しようと思えば出来ただろうし、そうすれば薩摩を目指したはず。 
当時の航海技術で大船団を組んで上手く沖縄経由で島を伝っていけたかどうかは知らないが。

8: 日本@名無史さん 2012/02/25(土) 10:31:36.22
アマワリ・護佐丸のあたりなんて
十分ドラマ化できる

阿麻和利

阿麻和利(あまわり、? - 1458年)は、15世紀の琉球王国において、勝連半島を勢力下に置いていた按司である。

史書によれば、悪政を強いる前城主の茂知附按司を倒して勝連城の按司となる。東アジアとの貿易を進め、大陸の技術などを積極的に取り入れた。勢いを増す阿麻和利に第一尚氏王統の第6代国王・尚泰久王は娘である百度踏揚を妻に娶らせ懐柔策を取り、同王の娘婿の立場になった。当時琉球では麒麟児との評判が広まり、首里の尚氏は伯父である護佐丸の次に滅ぼす計画を練る。史書によれば首里城攻略を計画していたとされる中城城主の護佐丸を王の命令で攻め、忠誠のあかしとして自刃させた。

さらには阿麻和利自身が首里城攻略の野望を抱いたとされ、王府の疑いにより差し向けられた越来賢雄(鬼大城)の軍に攻め滅ぼされたとされているが、城趾には大きな戦いの痕は見られない。



護佐丸

護佐丸(ごさまる、生年不詳 - 1458年)は、15世紀の琉球王国(中山)の按司。恩納村出身。第一尚氏王統建国の功臣で、尚氏6代の王に仕えながら晩年に謀反を疑われて自害し、忠節を全うしたと伝えられる。毛氏豊見城殿内の元祖。

勝連城を根拠地とする茂知附按司が勢力を拡大すると、尚巴志は1430年、中城の地領を護佐丸に与え、築城を命じた。さらに息子の尚布里を江洲、尚泰久を越来に置き、勝連を牽制した。護佐丸は、与勝半島を指呼に望む中城城の改築にかかり、1440年、尚忠が第3代国王となると、王命で同年に完成した中城城に居城を移した。

阿麻和利が茂知附按司を滅ぼし、対外交易で実力を蓄えた。1454年、王位継承権をめぐる王族の内乱「志魯・布里の乱」が起きて尚布里が失脚、尚泰久が第6代国王として首里に入ると、勝連城の阿麻和利の掣肘は護佐丸の双肩にかかった。護佐丸の娘を正室としていた尚泰久王は、長女百度踏揚を阿麻和利に降嫁させ、護佐丸・阿麻和利の有力按司との姻戚関係を後ろ盾に、内乱で失墜した王権の復興を図った。

しかし1458年8月、護佐丸・阿麻和利の乱が勃発した。王府史書によると、阿麻和利に対抗するため護佐丸が兵馬を整え、これを阿麻和利が護佐丸に謀反の動きがあると王府に讒言。尚泰久王が阿麻和利を総大将に任じ、中城城を包囲すると、王府軍と聞いた護佐丸は反撃せず、妻子とともに自害した。仇敵の護佐丸を除いた阿麻和利は首里を急襲するが、百度踏揚が勝連城を脱出して王府に変を伝え、阿麻和利は王府軍によって滅ぼされたと伝えられる。



17: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 13:02:04.74
過去の定説

忠臣 護佐丸
逆賊 阿麻和利

ところがどっこい歴史の研究が進むに連れ

全ては首里の陰謀でしたに様変わり

当時、首里を脅かす力を持っていたのが二人の按司
首里の画策で二人を争わせ、勝った側を首里が叩く
こんなドラマ見たい奴いるか?

11: 日本@名無史さん 2012/03/06(火) 18:58:56.37
平和の国、琉球が八重山を蹂躙するドラマ作って。

12: 日本@名無史さん 2012/03/06(火) 23:51:50.50
>>11
2ちゃんでは首里王府が離島に一方的に攻め入ったみたいな論調あるけど
奄美や八重山は地元の豪族が首里の力借りて敵対勢力を潰してるんだぞ実際は
与那国は別だがな

13: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 01:18:58.33
奄美と言っても有人島は八つもあるし、それぞれ事情が違うだろ
北から喜界島は一方的に十回以上攻められた挙句に王自ら乗り込んで占領された
奄美大島も王が直接攻め込んでいるし、2度の反乱もそれぞれ王が乗り込んで潰してる
加計呂麻島と与路島と請島は奄美大島とセット
徳之島と沖永良部島と与論島は従えと脅迫されて降伏

それとあんまり話題に上らない久米島も一方的に攻め込まれてる

八重山侵攻は宮古が主体だって言われているけど、占領からたった2年で支配権は王府に移っているよね
怪しくね?

53: 日本@名無史さん 2012/03/10(土) 07:43:07.89
>>13
>八重山侵攻は宮古が主体だって言われているけど、

46艘の中山軍をおしのけて主体になれるような兵力も資金も
宮古にはありません。

>宮古山の仲宗根豊見親、大将軍に随ひて八重山を征伐し、以て平治を致す。

このとおり、仲宗根豊見親は中山のオマケです。

54: 日本@名無史さん 2012/03/10(土) 07:48:26.61
>>13
>占領からたった2年で支配権は王府に移っているよね
>怪しくね?


あなたが怪しいと思うのは勝手だが、「球陽」には
「地元から苦情が出たのでクビにしました」と書かれており、
疑う根拠は何もない。

「亦、真列金豊見親(仲宗根豊見親の次男)を
陞せて始めて八重山頭職と為す。
真列金、衿驕自恣にして人民を暴虐す。
彼の島の人民、みな疏文を具し、豊見親を中山に告訴す。
即ち頭役を革め去り故郷に摘回す。」

18: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 14:37:56.74
琉球王国って、王統が
前期と後期と二系統あるんだよな。
その辺、沖縄人はどう思っているのか?
前期のほうが本来の正統な王統って思っているのか?
それとも、歴史の長さから後期のほうが正統だと思っているのか?
まあ、前期だって、もともと三山時代の一国の家臣からの下剋上だしな。

51: 日本@名無史さん 2012/03/10(土) 07:24:06.75
>>18
琉球国王には天皇陛下みたいな権威も歴史もないから
県民には何の思い入れもないし、
正当性なんて心の底からどうでもいい。
まさに「物呉ゆしどぅ我が主」ですよ

19: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 15:06:33.73
天孫氏の末裔は西威で途切れてっから
そういった意味では前期も後期も正統ではない

20: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 15:41:06.44
まあ、天孫氏と第一、第二の王家が無縁だったかというと
その二人の出身地、伊平屋、伊是名からして無縁だとも言い切れない。
第二尚家を起した尚円王金丸の童名は思徳金といい
琉球において名に(君)(思)(真)が入るのは高位の者にしか使われない字であり
琉球神道の神の名にも使われている字である。

21: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 18:50:06.81
>>20
それって後付の脚色なんじゃね?

22: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 19:36:29.66
沖縄民はいつも被害者顔するが、自分たちより弱い者がいれば攻め込むし
本土から来た者をヤマトンチューと言って差別するが
栄光の琉球史を作ったのは源氏の為朝。

25: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 21:06:35.22
>>22
>琉球史を作ったのは源氏の為朝。

は・・創り話の可能性大だよ。
死んだ地が伊豆諸島だか、伊豆半島で、どうやって、生き残って、沖縄に辿り着くんだっつー話W
陸路だと、絶対バレバレ出し、船だと黒潮海流とは逆だし、表層海流は、東電の件で、東寄りに流れてるので、帆を立てて夏の北風に乗っても星が読めて、太平洋は、南からの夏の台風の暴風雨でイカダだと確実に難破するのに、矛盾だらけ・・。
如何よっ!

24: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 21:06:23.57
金丸の「禅譲」話って、かなりうさんくさいよなw
その前の王様は、暴君扱いされたあげく謎の死をとげているし

55: 日本@名無史さん 2012/03/10(土) 08:14:35.59
>>24
どこに金丸が禅譲を受けたって書いてあるの?
参考までに教えてくれる?
ちなみに「球陽」には、尚徳王の死後開かれた会議で
推薦を受けて即位したって書いてあるね。
ちなみに尚徳王の奥さんと幼い子供は殺したともはっきり書いてある
「王妃・乳母、世子を擁着して真玉城に隠る。兵、追ひて之れを殺す。」

32: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 21:43:11.03
阿麻和利と護佐丸の件も怪しいけど、その前の志魯・布里の乱も怪しいよね
共倒れパターンw

時代は後になるけどオヤケアカハチの件も、奄美の与湾大親の件も、
地元同士が争ってたから片一方に肩入れして王府軍が征討みたいな
与湾大親の死に方も護佐丸に似てるし
なんだろうねこれ

52: 日本@名無史さん 2012/03/10(土) 07:39:47.65
>時代は後になるけどオヤケアカハチの件も、奄美の与湾大親の件も、
>地元同士が争ってたから片一方に肩入れして王府軍が征討

アカハチの乱については完全な間違い。
そもそも正史「球陽」には「アカハチが貢物を絶ったので征伐しました」
とはっきり書かれてある。これはアカハチと琉球の戦いなんだよ。

確かにアカハチは、琉球と戦う前に
名田大翁主という地元の豪族を討伐しているが、
そもそもその原因が、アカハチに従って琉球に対抗するかどうか、という事だ。
「那礼塘・嘉佐成等、恒に忠義を存し、赤蜂に従ふを肯んぜず。
遂に他の為に殺害せらる。名田大翁主、洞窟の中に隠居す。」

56: 日本@名無史さん 2012/03/10(土) 08:39:28.53
>>32
>阿麻和利と護佐丸の件も怪しいけど、その前の志魯・布里の乱も怪しいよね
>共倒れパターンw


王位継承を巡る骨肉の争いっていう、
ありがちな話のどこが怪しいのか分からないが、
仮に陰謀なら、首里城を全焼させるようなヘマはしないと思います。

44: 日本@名無史さん 2012/03/07(水) 22:43:03.73
奄美の1文字姓 琉球の3文字姓って薩摩統治の時代から?

47: 日本@名無史さん 2012/03/09(金) 07:56:12.92
>>44
そうだよ
60: 日本@名無史さん 2012/03/13(火) 19:32:53.24

あくまで個人的感想だが、
琉球王国の正史とは、薩摩以前は勝者の歴史、以後は敗者の歴史だよね
その時代ごとの都合に合わせた理由付けが行われているから
完全無欠の正しい歴史だと言い切ってしまうのは間違いではないかな
具体的にはあげないが、正史に載っていない遺跡もあるからね

67: 日本@名無史さん 2012/03/13(火) 21:25:31.46
>>60
薩摩の属国となりはしたが、国が滅んだわけではあるまいし、
中国で王朝が滅亡した時のような大きな改訂はなかっただろう。
薩摩の侵攻以前のものが存在したのなら残ってるはずだよ。

61: 日本@名無史さん 2012/03/13(火) 19:40:58.80
歴史は勝者のもんだからよ。それは島津も一緒。

64: 日本@名無史さん 2012/03/13(火) 19:51:26.52
>>61
そうそう、島津にも言えるよね
そして沖縄被害者史観に沈泥してる奴らも
薩摩以前の事を知らん振りだよな

68: 日本@名無史さん 2012/03/14(水) 05:35:54.24
>>60
あなたの個人的感想とでは、史料的価値では比較にならないけどね。正史は。
つーか前王の女房子供ぶち殺して即位しました、
なんて身も蓋も無い話のどこに改ざんした形跡があるの?

あと正史は遺跡カタログじゃないので
どうでもいい遺跡が載ってないのは当たり前です
あなたの先祖が載ってないのと同じです

70: 日本@名無史さん 2012/03/14(水) 11:09:27.23
>>68
琉球弧の遺跡は馬鹿に出来ないぜ。
日本の考古学観点からも。

貝塚時代は土人が貝齧って暮らしてたなんて言われていたが
日本や中国との交易の跡も出てきてる。
※翡翠の製品、古代中国の貨幣、穀物など

古代墓の遺跡もあるが、鹿児島の横穴墓に似た形態してるのも
意外に知られていないよな。
グスク自体が謎に包まれてる遺跡そのものでもある。

73: 日本@名無史さん 2012/03/14(水) 14:14:41.46
>>70
あなたが遺跡好きなのは分かりましたが
それと正史の信頼性とでは何の関係もありませんよね。

あなたにとって特別な遺跡でも
琉球王国の大多数にとってはどうでも良かった。
それだけの話です。

76: 日本@名無史さん 2012/03/14(水) 14:43:23.19
>>73
あと>琉球王国の大多数にとってはどうでも良かった。

遺跡は聖地やらあるから各村々で大事に管理されてる。
どうでもよかったという事は有り得ない。


77: 日本@名無史さん 2012/03/14(水) 14:48:50.30
>>76
あなたの御先祖様の位牌はあなたが大事に管理してるでしょうが、
沖縄県民の大多数にとってはどうでもいい存在ですよね。

それと同じで部落レベルでは大事だろうが大多数にとってはどうでもいいことです。
正史にはスペースの都合上、どうでもいい事は載りません。

あなたが歴史上どうでもいい事に感心を持つのは結構ですが、
その事物が大多数にとってどうでもいいという事実を覆す事にはなりません。

79: 日本@名無史さん 2012/03/14(水) 15:01:22.54
>>77
【おもろさうし】って知ってるかい?
あれは各地の伝承などを纏めた琉球版叙事詩みたいなもんだが。

おもろさうし

『おもろさうし』(おもろそうし)は、琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌謡集。「おもろ」の語源は「うむい(=思い)」であり、そのルーツは祭祀における祝詞だったと考えられており、「そうし」を漢字表記すれば「草紙」となり、大和の「草紙」に倣って命名されたものと考えられる。全22巻。

83: 日本@名無史さん 2012/03/14(水) 17:03:30.03
>>79
文学史上は重要だよね「おもろさうし」
歴史学上は無価値だけど。

72: 日本@名無史さん 2012/03/14(水) 11:41:56.75
民俗学的見地からも琉球・沖縄は面白い。

北部のとある祭りで神女が歌う歌に
勾玉を買いに大和に上る歌がある。

日本で勾玉を使った祭祀が行われていたのは古墳時代まで
奈良時代には勾玉は消えている。
上記の歌の成立時期はそこまで遡ることが出来るということでもある。

また、上記の近くの地域の祭りでは
紀元前の中国の文献に記されている神祭りの系譜も存在する。

239: 日本@名無史さん 2012/09/06(木) 23:02:35.64
古琉球時代は先島諸島どころか沖縄・奄美でさえも手巾などの織物の柄は台湾原住民風と言うか華南の少数民族めいている。入れ墨と洗骨あたりが古俗の代表で、ちょっとおどろおどろしいイメージ。湧き水場の石組なんかから感じる濃厚なオーラなんかも古琉球っぽい。

240: 日本@名無史さん 2012/09/06(木) 23:06:42.47
王国以前ではないけれど、王廟の浦添ようどれの漆喰壁や首里の玉陵の丸っこくてちょっと気持ち悪い獅子像なんかもユニークで古琉球めいている。

244: 日本@名無史さん 2012/09/13(木) 19:46:52.10
台湾の先住民たちとの関係はどうなんでしょ?

246: 日本@名無史さん 2012/09/14(金) 12:01:22.95
>>244
台湾先住民も色んな柄の機織りしますが
沖縄との関係は不明ですね
沖縄には大交易時代にジャワやマラッカから
伝わったと考えられます。


418: 名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote! 2016/07/10(日) 08:39:04.98
千竈氏の支配下にあった頃の奄美群島は日本の境界域という位置づけだったか
その外は異国(異界)で奄美群島も海外との私交易によって中国朝鮮の陶磁器や徳之島のカムィ焼きも
琉球列島全体に広く流通した

428: 日本@名無史さん 2016/08/07(日) 13:17:40.39
はじめまして。まず最初にスレ違いをお詫びします。琉球王国関係のものがこちらしか見つからなかったので
やむを得ずこちらに投稿させていただきました。こちらにしか頼る所もなかったので。

それで質問の方なんですが、質問内容は称号についてです。

琉球国王は明王朝・清王朝から冊封を受けて琉球国王となっています。

ですが国王自身の書状は「琉球王」ではなく「中山王」と署名していたり、羽地朝秀が書いた書物の名前も
「中山世鑑」となっていますがなにか意味があるのでしょうか?

もちろん琉球の歴史は凡そは知っております。初めて明に朝貢したのは共に洪武五年ですが、中山の記録が
不明なのに対して南山は22回も記録がある事から元は南山が明に認められていた事。南山の一豪族の尚氏
が中山を滅ぼして王位に着いた後、北山に続いて南山も滅ぼして本島を統一した事等々

で、明や清の朝廷から「琉球国王」の称号を認められていたので自身が権威付けの為にも積極的に琉球国王
を名乗るのが普通なのに、琉球国王という書状が一つも無くもっぱら中山王という一地方政権の王号を名乗
っていることが不可解でなりません。

実際日本国も朝鮮国はきちんと○○国王と名乗ってますし、阮朝も印綬と同じ「安南国王」と名乗っています。ところが琉球
の書状に至ってはただただ「中山王」なのが不可解なのですが、統一志関連の問題なのでしょうか?

どなたか是非教えてください

431: 日本@名無史さん 2016/08/08(月) 21:03:36.83
>>428
明王朝には琉球国中山王統の正統性をアピールする事が大切だったのかもしれない

第二尚氏王統からは中山「尚」姓の信頼性にも頼った

当時の冊封関係や諸外国との外交をスムーズに行うにはやはり琉球国に突如出現した新興勢力より
「中山」という琉球国王の伝統的な正統性や信頼性が重要視されたのはではないか?
高良センセイや上里センセーなら分かりやすく答えてくれるだろう

432: 日本@名無史さん 2016/08/09(火) 00:09:30.60
>>431
ありがとうございます。一つの参考にさせていただきます。

>「中山」という琉球国王の伝統的な正統性や信頼性が重要視されたのはではないか?

なるほど。ただの「琉球国王」だと解りにくいので、その出自を強調したと言ったところ
でしょうか?

>高良センセイや上里センセーなら分かりやすく答えてくれるだろう

今すぐにでも質問したいんですけどね^^; 連絡方法を知らなくて

446: 日本@名無史さん 2016/08/24(水) 12:16:34.24
>>428
>自身が権威付けの為にも積極的に琉球国王
>を名乗るのが普通なのに、

この辺が勝手な勘違い、思い込みだね。

日本でも、源頼朝も徳川家康も、
日本国王号は使わず征夷大将軍を名乗っている。
秀吉も日本国王は名乗らず関白を名乗っているでしょう。

むしろ伝統的な称号を継承する方が、
権威づけとしては普通だよ。

また、征夷大将軍もそうだが、
古代ギリシャ語で「王」を示すバシウレウスは
ミケーネ時代には単なるムラオサ程度の意味だった。
ミケーネの「王」はアナクスと呼ばれている。
当初は単なるムラオサだったバシレウスという称号に
歴史的経過の中でいろんな権能がくっつけられていき
最後には王として振る舞ってもみんな納得するようになったわけだ。
それで言えば、伝統的な中山王を使っても
皆が「中山王ということはこいつがナンバー1なんだな」と
納得するのであれば
わざわざ新しい称号を使うのはむしろリスキーでしょう。

引用元: ・琉球王国以前の時代


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