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1: 紫のユニ、ピンクのユニ 2014/03/06(木) 08:26:41.35
今川家の後を継いだ嫡男今川氏真公を語ろう。 
とても温かみのあるいい人だと思うがな








3: 日本@名無史さん 2014/03/06(木) 12:39:44.45
漫画の徳川家康を読んでたら、今川氏真は相当な馬鹿殿に描かれていた
蹴鞠と酒と女にしか興味がないとか・・・
史実はどうか知らんけど

4: 日本@名無史さん 2014/03/06(木) 17:26:16.70
>>3
でも、家康もなんだかんだと言って、今川氏真の生活を援助しているのだよな
家康も粘着質なところがあって、人質時代虐めた人は切腹させたりしているのにも関わらずだ

40: 日本@名無史さん 2014/03/12(水) 13:53:07.41
>>4
氏真に対しては恨みとかないんでしょ
出来の悪くて身を持ち崩した幼馴染の兄ちゃんを世話するような感じだったんじゃないか

5: 日本@名無史さん 2014/03/06(木) 18:28:32.03
家康と今川氏真との関係は超微妙なんだなぁ。
ライバル関係なのか友達なのか家臣なのか

懸川城開城の条件に駿河から武田信玄を追い出したら
又、氏真公を駿府の殿さまにするって
徳川家康さん約束したんだなぁ。

で今川家が滅亡しても家康さん、頭の片隅にこの事があってね
金谷のお城の城主にしたり(1年だけでしたけど)、
織田信長に氏真公を駿府の殿さまにもう一度成って頂こうかと相談したらしい。

7: 日本@名無史さん 2014/03/06(木) 22:34:43.52
織田信長

今川の流れの末も絶果てて 千本の桜ちりすぎにけり

8: 日本@名無史さん 2014/03/06(木) 23:19:52.83
今川の流れの末も絶果てて 千本の桜ちりすぎにけり

と詠んだ織田信長公。
武田勝頼を滅ぼし駿府で生意気言ったものの僅か2ヶ月後には本能寺にて惨死。

13: 日本@名無史さん 2014/03/08(土) 20:53:47.36
しかし何だな、
今川義元は家康の教育は成功したのに、どうして息子の教育は失敗したのだろうか?
家康には偉いお坊さんを家庭教師につけたのだろう?さしずめ戦国のアレキサンダー大王とアリストテレスに匹敵するくらいの息子にだって付けたらいいと思うのだけど

18: 日本@名無史さん 2014/03/09(日) 00:02:39.22
家康の場合は明らかに努力の人だからな
勉強好きだからな
これが信長の家みたいな放任主義だと、今川義元の家来になるか
尾張の小大名で終わったかしたのでないの
もっとも信長もそれなりにお坊さんが付いて勉強した形跡は
あるし、秀吉にしても読み書きの手ほどきは受けて、
まめに勉強をしていたようだけどな

14: 日本@名無史さん 2014/03/08(土) 21:37:33.94
今川氏真公は
16歳で元服
17歳で結婚(北条氏康娘早川殿)
20歳で跡目相続を
しています。

今川義元公御自慢の
息子だったようです。

21: 日本@名無史さん 2014/03/09(日) 09:02:46.72
今川の御曹司今川氏真公と徳川の御曹司徳川家康公の差は関ヶ原の戦いにあるんじゃないの。

今川家は親方の義元始め重臣の松井(二俣城城主)、由井美濃守(徳一色城主)、井伊等がことごとく討ち死に。 一方、別の地点で食料運搬係の徳川家康勢はほぼ無傷。
この機をチャンスに、岡崎の御曹司殿は今川家の重しが取れたと云う事で独立しちゃった。

氏真公は父の仇討を希望したんだが、三河の徳川家康の火事場泥棒的動き、遠江の反乱の前になかなか事が前に進まなかったようです。

22: 仇打ちの気持ちはあった。 2014/03/09(日) 13:28:24.10
>>21の訂正じゃぁ

今川の御曹司今川氏真公と徳川の御曹司徳川家康公の差は桶狭間の戦いにあるんじゃないの。

当時の書簡などで今川氏真殿に仇討の気持ちがあった事は、ハッキリ分っているんだが岡崎の御曹司徳川家康は従わないどころか三河を切り崩そうとまでするのだから始末に負えない。
遠江も独立しようとする動きも出てさすがの氏真公も家臣団を纏まり切れず地団駄を踏んだようです。

氏真に桶狭間の敗戦の復讐戦の気持ちはハッキリとありました。

23: 日本@名無史さん 2014/03/09(日) 21:56:07.61
三河どころか遠江まで押さえられないのが氏真の器量不足という事だろ。
一方家康はそれで独立するだけの器量があった。

24: 日本@名無史さん 2014/03/09(日) 22:46:17.65
いやそれがねえ。
今川義元公でさえ遠江がやっと、三河は抑えるのに苦労していました。

三河も実は安泰では無かった。織田信長は大高城の周りにぐるりと砦を築き、食料の運搬を閉ざす作戦。救援に駆け付けた今川義元が大高城に食料を運びこみ、ホットしたのが運のつき。
なんと織田の若輩者に義元公始め重臣のお歴々等、3千数百人が首を刈られたと云う。

25: 日本@名無史さん 2014/03/10(月) 13:33:24.39
今川義元公が泡を食って三河に向かったのは孤立気味の大高城、鳴海城に兵糧を入れる為。
織田信長本隊との衝突は想定外(出会いがしらの事故)だった可能性がある。

2つの砦を落とし、味方の城に食料を入れた時点で今川の当初の目的は達成。今川義元公は田楽狭間で三曲謡を歌い舞ったと云う。

所が織田信長軍は織田家存亡の危機と捉え、遮二無二に突っ込んだ。

今川さん、戦争は前線部隊がやる物で、本陣はただ見ているだけとの甘い認識だったと思う。織田信長さんは義元の首というより、今川部隊の中核部隊を狙っての戦、要するにヒットアンドランを狙っていたんだと思う。中枢部分を掻きまわし出来れば破壊したかった。

網を上げてみたらなんと大物の義元公始め今川の重臣がみんな入っていたと云う事でしょう。

26: 日本@名無史さん 2014/03/11(火) 18:00:06.08
今川義元さんが馬ではなく輿に乗って出陣と云う事は足利家の血統だと云う事を広く天下に知らしめるためでしょう。下剋上の世の中と言っても有難がる住民は山といるからね。

私は戦争とは言ってもデモンストレーションを兼ねていたんだと思う。 名門今川家の良さを、最近靡いてきた三河、遠江の城持ち衆にアピールする機会だと思っていたんだと思う。接待することで今川支持が増えると思っていたと思う。
ゆるゆるゆるゆる輿に乗って移動しているからヒットアンドランの織田勢に捕捉されたんだと思う。

今川公の不覚は、織田信長本隊の動きを把握していないこと。砦を攻め落とす前に清州城を釘づけにすれば良かった。織田信長が野戦型で神出鬼没、全天候型で激戦の尾張を刃で手にした事ぐらい事前に把握しても良かった。サッサと大高城に入りこんでいれば、織田勢にチャンスはなかった。

今川義元公の不始末で、嫡男の今川氏真公に苦難が襲いかかった。

27: 日本@名無史さん 2014/03/11(火) 18:19:15.56
親に死なれたぐらいで苦境に陥るなら、それだけの器量ということ。
親に死なれても、人質に取られても、主君に死なれても天下を取れる器量人も居るんだから。

30: 日本@名無史さん 2014/03/11(火) 21:06:46.50
家康に独立された上に遠州を攻略されたのが痛かったな。
家康が重臣で雪斎のように補佐してくれたら良かったんだろうが、さすがに無理だったな。

32: 日本@名無史さん 2014/03/12(水) 00:09:21.99
>>30
逆に家康が氏真を>>5の言うとおり、ブレーンだか友達だか家臣だかしらんが、傍においているよな
普通なら、氏真は絶対に家康に殺意を抱くだろうに
逆に家康も警戒はするだろうに

37: 日本@名無史さん 2014/03/12(水) 08:24:08.79
今川氏真は死の直前まで徳川家康に保護され旧友の中。
大名にはなれなかったけど、息子たちは徳川幕府の高家に列席。
信長時代も、家康は氏真を駿河の国主に返り咲けるように
信長に持ち掛けたんだろう?

34: 日本@名無史さん 2014/03/12(水) 05:57:26.51
氏真ねえ、昔やった信長の野望で知力、武力、魅力が一般のザコ武将と比べても遥かに低い設定に笑った記憶が。

でも氏真って没落後に家康に連れられて信長に拝謁して蹴鞠披露されてるんだよね。
屈辱の様な気もするが、家康としては氏真の為にしたんじゃないかと。
その時の家康と信長とにどのような会話があったのか気になる。

35: 日本@名無史さん 2014/03/12(水) 06:00:24.07
氏真って、けっこう好人物だったのかね。
家康も信長や秀吉に比べると、人格者なのはまちがいないし。

そういう二人だから、個人的にああいう良好な関係を築けたのかも。

38: 日本@名無史さん 2014/03/12(水) 09:05:16.00
家康は、義元を恩人と言ってたから、息子もそれなりに処遇したんだろうな。
家康の学問好きは、駿府時代に教育してもらったお陰だろうし、義元の姪を妻にするなど、厚遇されてたからな(手なずけるためだろうが)。
駿府の少年時代の思い出が悪いものではなかったから、駿府に隠居したんだろうしね。

39: 日本@名無史さん 2014/03/12(水) 09:57:17.84
家康って名門マニアで戦国時代に没落した名門やかつての大大名を高家旗本や小大名で復活させてるしね。

42: 日本@名無史さん 2014/03/12(水) 20:31:21.26
今川氏真公は長篠の戦では客分として織田信長軍に加わっているんだよなぁ。

今川氏真の見ている前で武田勝頼軍はかわいそうなぐらいの一方的な敗戦。
柵を巡らしている中を真っ正面に突っ込めばそりやぁ火縄銃の集中砲火も浴びるわな。

氏真公にその時の感想を聞いてみたいよなぁ。
ザマァ見ろと思ったのかそれともお気の毒に思ったのかどうか
それともよそ事だったかな。。

43: 日本@名無史さん 2014/03/12(水) 22:02:20.82
>>42
調べたら調べるほど、この人ものすごい数奇な運命を送っているのだよな
本人もこのような生活を望んでいたのかどうか結構気になるな

44: 日本@名無史さん 2014/03/13(木) 01:22:18.85
数奇と言っても、天寿を全うできたし、晩年は天下人となった竹千代の庇護もあったわけで、勝頼のような悲惨な目にはあってないよね。


46: 日本@名無史さん 2014/03/13(木) 10:45:21.48
今川氏真がなんとなく女っぽく感じるのは姉妹に囲まれて育ったせいなのかも。

男の子は氏真一人で女の子は三人か。姉と妹が感染症で亡くなり、看護した母上も病気が移ったらしく一三歳で亡くなってしまいます。父義元は一〇年後、倒れ残った肉親は武田義信に嫁いだ氏真の妹君一人になります。

武田義信と妻(氏真の妹)、今川氏真は仲が良かっただけに織田家に目移りした武田信玄の今川離れは大変残念な事でした。

47: 弟もいたぞ 2014/03/13(木) 14:26:03.90
なんとなんと今川氏真公には弟君もいました。
77歳で死去の際の葬儀には三男坊が葬儀を執り行っています。

幼少より坊さんとして育てられていたとの事。

一月長得出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内、 検索 凡例一月長得
時代 戦国時代
別名 今川長得
主君 今川義元→今川氏真→徳川家康
氏族 今川氏
父母 父:今川義元、母:定恵院(武田信虎女)
兄弟 今川氏真、嶺松院(武田義信室)、ほか

一月長得(いちげつちょうとく)は、駿河今川氏出身の僧侶。
今川家第9代当主・今川義元の三男であると伝えられる。
生家の苗字を冠して今川長得と記されることもある。


生涯[編集]長子でない為に出家を余儀なくされ、一月長得と名乗って曹洞宗の僧侶となった。
寺伝によれば天正2年(1574年)、仏照円鑑禅師(喚英長応)を招いて江戸に万昌院(現・萬昌院功運寺)を開いた。
今川家の直系としては、父の死後に今川家が滅亡して、後に兄の今川氏真が徳川家康から高家として迎えられるとこれに従った。

慶長19年(1615年)に氏真が亡くなった時に弔いを行ったのは長得と伝えられており、万昌院は観泉寺に移動するまで江戸時代の今川家にとって墓所となった。
また万昌院は、今川家の本家筋にあたり、当時は極めて近い姻戚関係にあった吉良家の墓所ともなった。

52: 日本@名無史さん 2014/03/14(金) 09:47:12.87
秀吉は今川氏真を御伽衆に招かなかったのかなぁ

53: 日本@名無史さん 2014/03/14(金) 10:17:05.25
>>52  
太閤秀吉と今川氏真との逸話は今のところ、発見されていません。若いころ秀吉は今川の領地遠江の浜松にもいたし桶狭間の戦いにも加わっています。
織田信長と徳川家康、氏真の逸話は残っています。

逸話[編集]氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。

『続武家閑談』は、天正10年(1582年)に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに本能寺の変が発生したという。

『及聞秘録』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れては長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。
『故老諸談』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

56: 日本@名無史さん 2014/03/15(土) 09:45:37.77
>>53
家康さんと氏真さんの人柄・性格が伝わる面白いエピソードだw

169: 日本@名無史さん 2014/04/19(土) 19:26:47.51
>>53

結構、仲いいな、この二人。

江戸城に来て長話ってw

58: 日本@名無史さん 2014/03/16(日) 08:42:16.14
今川氏真なんて徳川と武田で今川領を分割したときに死んだとばっかり思ってた
しかも、家康が氏真を援助していたなんて全然知らなかった
絶対に家康は氏真に良い印象持ってないと思ってたから・・
漫画徳川家康を子供の頃に愛読していた自分の感想です

59: 日本@名無史さん 2014/03/16(日) 18:01:16.99
漫画徳川家康というかその原作の山岡荘八は、創作で氏真を敵役にしすぎてるからな。
築山殿と関係があったとかなんとか。
氏真は、女性関係がなかったとは言わんが、早川殿を愛してたし、あれはないわ。

61: 日本@名無史さん 2014/03/16(日) 19:38:08.26
調べれば調べるほど今川氏真公の出来の良さに驚くわ。
剣は塚原卜伝から免許皆伝の腕前、蹴鞠は織田信長が所望するほどの腕前。
和歌は詠んだ作品が2000首も今に伝わっています。。

書も達筆だョ。繊細で鋭い。
おさるさんと書道名人大会を開けばおさるさんに負けるはずはない。
おさるさんが地面にひれ伏し「後もう一回!」とダダを捏ねるところが見てみたい。


70: 日本@名無史さん 2014/03/19(水) 19:53:32.08
>>61
出来が良ければ今川家は没落してないだろ?
暴君では無いが名君であるはずは無い。
気のいいおぼっちゃんで戦国大名としては落第だったんだろう。
逆に大名として無能だったから生き延びられたのかもしれない。

62: 日本@名無史さん 2014/03/17(月) 21:10:46.49
江戸時代のような平和な時代の殿様だったら、文化的な名君として名を残したのに、生まれてくる時代とタイミングが悪すぎた。

63: 路傍の石 2014/03/17(月) 23:05:18.98
調べれば調べるほど今川氏真公の意外な事実に驚くわ。

なんと今川氏真公について書かれた本は只の1冊も出ていないのね。
自称小説家も学者も歴史ファンも多々いると思うのにただのお一人も書かれた人がいないとわ驚くと云うより 魂消たわ。

流転の人と云うより路傍の石としての扱いか。
でも私、北条早雲も今川義元も今川氏真も徳川家康公も尻尾を掴んだ気がします。
ヤッパ駿府。特に今川のメッカ藤枝市に住んでいる事は大きい。

今日、私は東京品川にある、息子の大学の卒業式に行って来たんだが綺麗な大学で華やかな雰囲気。春の到来を感じたわ。

タクシーの運転手さんに「今川氏真公の品川屋敷跡は分りますか」と聞いたところ「品川だけでは分りません」とのお答えでした。

帰ってきて調べたところ、品川屋敷跡は路傍の石と言うより、線路の下になっているみたいね。

65: 日本@名無史さん 2014/03/17(月) 23:36:58.89
>>63
天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真 (新潮書下ろし時代小説)?[単行本]

赤木 駿介?(著)

内容(「BOOK」データベースより)
公家や連歌師たちによって全国に張り巡らされた文化を仲立ちとする緊密な情報網。
天下を窺う戦国大名と公家ネットワークの結節点に、名家今川の嫡男・氏真はいた。
徳川家康を政権の座に導き、その武力を知力で支えた知られざるフィクサーの50年。戦国の時代観を180度覆す力作長編。

氏真主人公の本は1冊出てる。新刊で読んだことがある。
アマゾンで中古が買えるぞ。

64: 線路の下 2014/03/17(月) 23:14:28.74
残念ながら今川氏真公品川屋敷は跡かたもなく無くなっています。
線路の下?

今川氏館
http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.imagawashi.htm

75: 今川家を背くわけにはいかん 2014/03/20(木) 13:52:24.11
父と息子では全然違うなぁ。徳川家康の親父は織田信長の親父率いる大軍に岡崎城を包囲された時、救援に駆け付けた今川義元軍に心底感謝しているなぁ。
「今川家に背く訳にはいかん」。

今川義元公も徳川家康を人質になんか貰わなければよかった。
親切を仇で返す、とんだ食わせもんだった?

静岡県駿府編「悲運の地・駿府城」深い因縁物語
http://www.s-b.biz/tokugawa-ieyasu/shizuoka1/

76: 日本@名無史さん 2014/03/21(金) 11:09:40.25
さすがの今川氏真公も徳川家康の謀反だけは読めなかったんじゃァないのかなぁ
豊臣秀吉公だって家康のたぬきに騙されているもん。


城とshizuoka戦国浪漫
http://www.sengoku-shizuoka.com/stage/history/03/0002.php

77: 日本@名無史さん 2014/03/21(金) 22:09:16.92
義元は、徳川家康元服の時、「家康は、年まだ若いと言えども、其の分別が明なのは全く天より得たもののようだ。成年になれば、如何なる大人物となるか知れない。広忠が今生きていたら、どれほど喜んだろう」
と、涙を浮べて喜んだそうです。

義元は、竹千代の屋敷の隣に、祖母(源応尼)を住まわせた。
織田家での扱い(寺に軟禁)と比べて、思いやりに満ちていたといえるのではないか。
家康は織田家に100貫文で売られたのを見ればなおさらね。

78: 日本@名無史さん 2014/03/22(土) 00:23:07.43
元信は、今川家による三河統治の重要な手駒。だからこそ雪斎が織田信広を捕虜にして捕虜交換で奪還してきた。
今川家にとって利用価値が大きいから、厚遇は当然。
しかも義元は、三河に代官を置いて年貢を取り立てているから、元信処遇の経費は十分に賄ってお釣りが来る。

102: 日本@名無史さん 2014/03/28(金) 22:38:21.48
正室早川殿は可愛いなぁ。
晩年の画像とはとても思えん。
吉永小百合より可愛い。
北条氏康御自慢の娘だったようです。

今川氏真 メロメロだったと思います(笑)

138:   春(ハル) 2014/04/08(火) 08:47:26.89
早川殿のお名前が分りました。法名から読み解きました。

春(ハル)


早川殿/早河殿(はやかわどの、生年不詳 - 慶長18年2月15日(1613年4月5日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。相模国の戦国大名北条氏康の娘。甲相駿三国同盟の一環として、駿河国の戦国大名今川氏真の室となった。

実名は不明。法名から蔵春院殿、蔵春院とも称される。ウイキペディア

139: 義元家は三男三女 2014/04/09(水) 21:37:19.34
今川氏真公の次男坊の消息が分りました。
この人も三男同様、お坊さんになっていますね。

という事は今川義元家は三男三女の子沢山という事ですか
姉と妹は流行り病で亡くなり看病した母上も感染したらしく
氏真公一三歳の時に亡くなっています。

140: 義元家は三男三女 2014/04/09(水) 21:50:45.11
氏真公の弟君の次男坊のお名前が分りました。
今川義成(泉)。

幼くして僧侶に出され、南部拈香寺開山僧になっています。
三男坊が今川長得で市ヶ谷 昌院開祖僧です。
氏真公も最後は剃髪して宗誾(そうぎん)と名乗っていますね。

143: 日本@名無史さん 2014/04/12(土) 09:53:46.87
家康は源氏として武家の棟梁めざすのなら、インチキくさい新田源氏の末裔を自称するより、上杉謙信の例みたいに、氏真さんの養子になって今川元康になった方がよかったと思う。
その方が潔かったのに。

150: 日本@名無史さん 2014/04/15(火) 10:32:13.69
>>143
それは難しかったのではないかな?
一応三河物語では、家康の家の先祖は、新田の末裔を名乗っていた
流れ坊主だと書いていたから
何も家康の代になって、新田の末裔だと名乗っていたわけじゃ
なさそうだから

151: 日本@名無史さん 2014/04/15(火) 18:30:43.53
とはいえ、平氏の長尾景虎が藤原氏の上杉家の家督を相続したり、自称平氏の羽柴秀吉が藤原氏の近衛家の猶子として関白任官してるのだから、自称新田の家康が本物の足利庶流の今川家の養子になっても問題ないと思うが。

178: 日本@名無史さん 2014/04/25(金) 19:00:43.76
今川義元、氏真親子ほど親切な人はいないと思うぞ。

何度となく裏切った一門の吉良14代めに対しても義元はやさしいなぁ。
必ずチャンスを与えています。一門筆頭の瀬名氏俊に対しても義元はやさしいなぁ。必ずチャンスを与えています。義元は性善説。ひとに対してやさしいんだなぁ。

許せないのは徳川家康。恩を仇で返すんだなぁ。幾ら戦国の世の中とは云え家康は冷たい。家康くんに言わせれば、今川氏真は恵まれている。親はいいし周りも盤石。俺を見ろよ。両親はいないし人質の身。今川親子の親切には騙されないぞという事でしょう。

でも最後に帰ってきたのは静岡。今川義元公の後継ぎとして
家康くん頑張るのよね。

179: 日本@名無史さん 2014/04/25(金) 19:32:50.08
若いころは家康、突っ張っているからね。今川義元親子の親切なんてなに糞と思っていたんじゃァないの。

お母さんとは3歳にして生き別れ。お父ちゃんも暗殺されるんだもん。幾ら徳川家康でもネクラに成るよね。しかも岡崎の御曹司とはいえ500貫で織田家に売られ雪斎が取り戻しての今川家の人質だもんね。

今川義元公は徳川家康を同盟軍の盟主として優遇したんだけどね。瀬名の御姫さんを家康くんのお嫁さんに配してるしね。

親の心子知らず。実の親の気持ちを知らず
親代わりの今川義元翁の気持ちもわからず、
若気の至り、徳川家康突っぱねたのであった。

183: 日本@名無史さん 2014/04/25(金) 20:44:14.30
家康は駿遠参をゲットしたら本拠地を駿府にしたし、
大御所になって老後を駿府で過ごした。
今川時代は楽しかったんだろ。普通に考えて。
嫌な土地で老後は過ごさんわな。l
氏真を裏切ったのは個人的感情と関係ないでしょ。
あの時代だからチャンスがあったら自立したり領地掠め取るのは当たり前。
江戸時代じゃないんだから。

184: 日本@名無史さん 2014/04/25(金) 22:04:05.69
岡崎は苦い思い出のほうが多そうだしな。
一向一揆・信康

195: 日本@名無史さん 2014/05/06(火) 14:48:15.14
>>184
東京と静岡だったら、静岡の方がはるかに温暖だからな
雪の積もる回数が断然違うからな
年寄りには堪えるだろうて

223: 日本@名無史さん 2014/05/14(水) 20:55:41.14
武田信玄に駿河を攻められたのもさりながら、北条国王丸を養子にし、
駿河回復の暁には国王丸が次期駿河国主と認めろ と小田原からいわれた氏真の心中はいかばかりか

229: 忠臣朝比奈泰勝 2014/05/29(木) 09:41:19.11
私は今川氏真の忠臣の一人に小田原退去後も主従苦楽を共にした
朝比奈泰勝を揚げます。花沢城の大原鎮実と共に
もっと評価されていい人物です。

長篠の戦の時、朝比奈泰勝は今川氏真の使者として徳川家康の陣に赴く。
そのまま合戦に参加して武田軍の重臣内藤昌豊の首を得た。
その後、氏真の了承を得て請われていた徳川家康の家臣に成ります。
小田原城の攻防戦でも豊臣秀吉の命を受けた徳川家康の使者として活躍。
熱海市(日金山)で鬼退治をしたと言う伝説が残っています。
墓所は静岡県駿河区大谷の大正寺。87歳没。

あぁ~ア 瀬名3代目瀬名氏俊がもう少し忠臣だったら今川家は潰れなくて済んだ。

設楽原の戦い
http://tenkafubu.fc2web.com/nagasino/htm/sitara02.htm

263: 日本@名無史さん 2014/08/28(木) 11:46:05.19
今川家一族の瀬名家は没落。
関口家は破滅。両親は徳川家康裏切りの責任を取り自害。

瀬名家の菩提寺は今も健在ですが
瀬名姫(瀬名姫)の生まれた屋敷跡は
ハッキリとは分らないらしい。

確りさせてよ静岡市民。
僕ら歴史ファンは今川一門
お嫁さんの瀬名姫(鶴姫)の
生家も知りたいんです。

276: 日本@名無史さん 2014/10/11(土) 09:35:40.48
松平元康が、信長と同盟を組まずに、今川に義を建てて従属を続けてたとしたら、どうなってたか?

結果的には史実とあまり変わらないらしいというのを、どっかで見たことがある。
本能寺の変も起こるし、小牧長久手や関ヶ原の戦いも起こり、その度に手柄をたて
その後、今川幕府が開かれたあと、今川を補佐する有力な重臣として、名を残した可能性があると。

277: 日本@名無史さん 2014/10/11(土) 10:02:00.27
>>276
信長が拡張出来ないだろ
甲信越同盟も崩れる理由無いしね
上杉が恐らくダウン、或いは今川と武田に襲われて織田と斎藤が持たんかと

278: 日本@名無史さん 2014/10/11(土) 15:20:23.39
今川幕府はないでしょ。あくまで足利の後ろ盾役で。
織田以外であり得たのか。足利ぶっ潰すということは。

279: 日本@名無史さん 2014/10/12(日) 09:59:30.25
松平、今川、武田、北条が同盟を結ぶ可能性はある。
それに対して、織田は、せいぜい浅井・朝倉と同盟を結んで、堺の商人を味方につけるぐらい。
多少、織田方の方が不利だが、木下藤吉郎(秀吉)がいるから、計略で切り抜けられるだろう。

286: 日本@名無史さん 2015/08/25(火) 16:44:08.38
再来年の大河、伊井直虎だそうだ。
今川義元、氏真親子も登場だろうな。

287: 日本@名無史さん 2015/08/27(木) 21:43:52.77
>>286
100%馬鹿に描かれるかと思うとツライな・・・

引用元: ・今川氏真公とその時代


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