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1: 人間七七四年 2010/04/20(火) 04:18:41 ID:NfrMKedD
落ちたので立てました。

龍造寺氏について語りましょう。


関連記事龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ
 







190: 人間七七四年 2010/10/06(水) 22:08:37 ID:iwXyED5V
天正八年の龍造寺勢力を1600年の推定人口で計ってみる
http://ja.wikipedia.org/wiki/近代以前の日本の人口統計

筑前国122,800・9/15郡=73,680
筑後国104,400・10/10郡
肥前国253,200・11/11郡
肥後国248,100・14/14郡
豊前国97,100・3/8郡=36,413
対馬国5,900
壱岐国9,300
計730,993
73万1千は当時の国内人口の約6%

ついでに
大友
筑前国6/15=49,120
豊後国204,800
計253,920

島津
薩摩国77,700
大隅国52,600
日向国90,200
計220,500

大友所領はほぼ肥前一国と互角で、島津の勢力範囲に至っては肥前一国より3万人も下回る
島津は後年の肥後半国を加えても35万程
龍造寺の本拠地東肥前8郡だけでも18万4千人、龍造寺の動員力がどれ程のものかが分かる

196: 人間七七四年 2010/10/16(土) 23:03:08 ID:VeUBHCM7
すんません。
この時代についてはド素人もいいところなんで、ちょっとお聞きしたいです。
ある戦国本読んでたら、戦国大名の鉄砲保有数の比較が載ってて、龍造寺隆信が9000丁とダントツだったんですが、この数って本当に根拠があるんでしょうか?
根拠となる資料があったとして、それは信用できるものなのでしょうか?

197: 人間七七四年 2010/10/17(日) 01:37:53 ID:1Hij7UwS
九州の種子島銃は有名だし、北九州の方にも、近江堺には及ばないにしても結構な数の鉄砲鍛冶屋がいたような

198: 人間七七四年 2010/10/17(日) 23:38:03 ID:ifs/XTcN
鉄砲持ってても使えたん?
宣教師に嫌われてたんしょ

199: 人間七七四年 2010/10/18(月) 19:16:09 ID:1m24lKzq
肥前高木氏の一族で開港直後の長崎に移住し、貿易で大成功して長崎でも有力な豪商になっている人物がいるから輸入品に関しては長崎の高木氏と取引していたんじゃないか?

204: 人間七七四年 2010/10/20(水) 00:58:15 ID:gd+zyvct
いくらなんでも9000丁はありえない数字だな。
そもそもそんなに所持運用できるほどの硝石の貯えがあるとかどんだけ南蛮貿易で女童を奴隷に落として売りまくって手に入れてんだよって話だし

大友の場合はキリシタン保護を通じてゴアの提督に硝石や火器の援助を頼んだりしてる。

沖田畷の戦いでの竜造寺軍は鉄砲1000挺に大砲を投入したらしいから各地に鉄砲の配置はあるだろうがせいぜい3000挺くらいなんじゃね?

206: 人間七七四年 2010/10/20(水) 01:58:43 ID:gd+zyvct
嫌われてたって言うかもともと出家してた僧体だったこともあり隆信が嫌ってた。
だけどキリシタン弾圧してしまうとキリシタンの支部のあるゴアでいろいろとゴアの提督への讒言を言われた挙句にゴア提督のの指示で南蛮貿易に支障が生じるかも知れないから放置してた。
隆信の考えでは、島津を討って九州を支配した暁には宣教師を弾圧しまくって九州から追放するつもりだった。

島津の例を見れば実際には宣教師を排除してても収益が上がる南蛮貿易をポルトガル人商人がやめるわけもないし、やめたらスペイン人商人やらが代わりに商売するだけ。
中国人経由で南蛮人と商売することまでできるし当時の支配層は東南アジア海上取引を取り締まることは不可能。

208: 人間七七四年 2010/10/20(水) 06:59:02 ID:enCi2b9l
戦国末期に50万丁あったって言われてるんだから、龍造寺が9000丁持ってたって不思議じゃないよ

弾薬の事を考えても遠く離れた関東の佐竹が3000丁持ってたって事は、国内でも確保出来ていたと考えて良い

209: 人間七七四年 2010/10/20(水) 09:23:25 ID:eqQaEwSq
そもそもその全国50万丁には根拠ないから。
それに佐竹は小規模な金山を多数開発所持してて財力の裏付けもあったから。中国商人も関東まで直接に船で行き交い貿易してたし。
佐竹の所持した採掘技術ノウハウは凄いもので秋田へ転封後もわずか4年で院内銀山を発見して江戸期を通じて東洋一の銀山と呼ばれ活況を呈したほど確かなもので、戦国期において今川、武田、上杉と鉱山開発ノウハウでは劣るものではなかった。
しかし北条ほど技術導入に熱心さを感じられない家は無いな…

211: 人間七七四年 2010/10/20(水) 19:20:52 ID:lTApKTBc
>>209

> しかし北条ほど技術導入に熱心さを感じられない家は無いな…

北条氏康は名将ではあったが、技術革新とか水軍の活用はうまくなかったみたいだね。

217: 人間七七四年 2010/11/11(木) 17:58:06 ID:JlBiClf4
佐賀藩は伊万里焼きでどの位儲けてたんだろうか

218: 人間七七四年 2010/11/11(木) 19:51:39 ID:OL1ydP+F
国内だと瀬戸物というぐらいに、磁器は瀬戸の方が有名だったってことは国内シェアはそんななかったのかね

219: 人間七七四年 2010/11/11(木) 20:13:06 ID:JlBiClf4
白磁とそれ以外だと需要が微妙に違うんじゃないのかと思ってたけど
http://ja.wikipedia.org/wiki/瀬戸焼
によると徐々に瀬戸焼は伊万里焼、というか白磁に国内シェアを奪われていったみたい

220: 人間七七四年 2010/11/12(金) 02:00:29 ID:r9mdAxgI
天保6年に伊万里港から積み出された陶磁器は約31万俵、内海外輸出は4万6千俵
1石=2.5俵換算で12万4千石、1万8.4千石
1俵=60kgとしたら18,600t、2,760t
同重量あたりの陶器と米の価格が等しいのかは知らんけど、輸出量はこのぐらい

223: 人間七七四年 2010/12/05(日) 14:56:49 ID:NrktKaD8
>>220
内訳のは佐賀藩以外の焼き物
すんません

231: 人間七七四年 2011/01/08(土) 07:00:24 ID:0ERBW86/
沖田畷合戦時に政家の居場所がよく分からないんだけど。
鍋島と山手の陣にいた?それとも佐嘉城で留守番をしてた?。
龍造寺政家

龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、肥前国の戦国大名。龍造寺隆信の嫡男。戦国大名としての龍造寺氏の最後の当主。


232: 人間七七四年 2011/01/08(土) 13:23:01 ID:9pYg7dWO
鍋島と一緒に出陣してた。
隆信敗死の報を聞いて鍋島さんと一目散に逃げた

233: 人間七七四年 2011/01/08(土) 23:08:08 ID:vTN1i3sK
討ち死にしなかっただけましじゃない?
当主と跡継ぎと続けざまに討たれちゃ織田家みたいになっちゃうだろうし

234: 人間七七四年 2011/01/09(日) 10:09:47 ID:f31P6s9j
一応、跡継ぎが生き延びたのに鍋島に実権取られちゃうのが政家の凄いとこ

236: 人間七七四年 2011/01/09(日) 19:57:48 ID:aCs3t2B9
そりゃ、政家を支持している重臣たちがが沖田畷で全滅したのと、生き残った有力者がこぞって政家を支持してなかったからだろうな。

特に信周、長信、家晴のビッグ3が不支持表明してたらどうもならん。

237: 人間七七四年 2011/01/09(日) 23:52:01 ID:8jc0uehp
当時信周は一ノ岳、長信は梶峯、家晴は南関に居て沖田畷には参陣してない。
逃げ戻った政家には一族からの風当たりが強かったことだろ。
武雄の家信はノイローゼになってしまったらしい。

242: 人間七七四年 2011/02/02(水) 19:16:07 ID:3zeDNjhk
佐賀の手明槍と足軽の違いは藩からの禄が在るか無いかの違いだけ?
手明槍

 龍造寺隆信の全盛期、北九州一帯の大小名を包括して家臣団がにわか形成されたが、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおける隆信の横死により、龍造寺家の勢力が衰退し、支配地は大幅な減少を見せた。にもかかわらず、初期の家臣団をそのまま維持していたため、大きな財政負担になりつつあった。そこで初代藩主鍋島勝茂は、知行50石以下の侍の知行地を召し上げ、無役とし、蔵米から禄を支給することにした。

ただし、戦時の際には、槍一本具足一領で軍役を担うこととされた。後年に至っては、手明槍でも諸役に任じられるようになった。


243: 人間七七四年 2011/02/04(金) 13:50:30 ID:wu+Vx45c
>>242

手明槍は途中で待遇の変化があったはず。


変化後は

侍 > 手明槍 > 御徒

だと思った。

257: 人間七七四年 2011/02/10(木) 09:59:43 ID:49wm4FjB
>>242
手明槍は50石以下の録を一旦召し上げ、一律切米15石としたからちゃんと録はある。
手明槍の意味は手明(手が空いてる)=無役。
江戸時代になると幕府、諸藩は経費削減のため平時にはあまり必要としない無役の武士はリストラされていったが、佐賀藩は極力リストラしない方針を取ったための策。
戦国期に活躍した苗字が多いのは家柄的に解雇するのは忍びないと優先されたから

245: 人間七七四年 2011/02/04(金) 20:34:14 ID:rd3TVPby
手明槍制があるの本藩と蓮池だけなんだよね
龍造寺系の領地には必要なかったのかな

247: 人間七七四年 2011/02/08(火) 14:55:07 ID:qS3h1EOD
>>245
龍造寺四家は裕福だから手明槍制は必要なかったんじゃない?

248: 人間七七四年 2011/02/08(火) 20:00:24 ID:20drfCQw
手明槍って隆信時代華々しく活躍した苗字が殆どだね。
分家筋だろか。

252: 人間七七四年 2011/02/09(水) 01:11:40 ID:C67ORMom
>>248
どんな苗字の人達がいるの?

253: 人間七七四年 2011/02/09(水) 01:25:56 ID:8aOBDGrN
>>252
佐賀藩手明鑓(元禄15年)

鍋嶋左大夫与内 中嶋七兵衛組
横尾惣左衛門、北原孫三郎、執行三左衛門、古賀太左衛門、千々岩覚左衛門、
原五郎左衛門、千々岩藤兵衛、大野千兵衛、江里口庄左衛門、千々岩長右衛門

鍋島主水組内 大隈加兵衛組
富永弥六衛、池田弥兵衛、上野利兵衛、前山十郎右衛門、北嶋三左衛門、
牟田十五左衛門、池田藤左衛門、横尾孫助、大渡甚左衛門、成富伊右衛門、
諸岡杢兵衛、堤与市左衛門、犬塚弥次兵衛、横尾内蔵允、田原利左衛門、
田代小左衛門、久保与右衛門、蒲原藤五左衛門、高木代右衛門、本村作助、
田代正右衛門、柿原利右衛門、北原太兵衛、深川幸左衛門、大嶋八郎兵衛、
安住格右衛門、馬渡平左衛門、高木安兵衛

鍋島主水組内 村上孫兵衛組
重松源衛門、山田嘉兵衛、小林源七、野田吉十、小嶋与左衛門、牧口与市、
香田貞兵衛、秀嶋藤右衛門、小嶋次郎兵衛、加々良八郎左衛門、久富善左衛門、
南里六郎左衛門、加々良九五郎、林武左衛門、小林安右衛門、江頭十郎兵衛、
相蒲藤左衛門

石井修理組内 石井小右衛門組
井上嘉兵衛、赤星久右衛門、吉原甚太郎、香田市郎左衛門、北村善左衛門、
杉町孫助、増田左助、志波勘左衛門、副田喜左衛門、堤弥右衛門、嶋五郎助、
古賀利兵衛、嶋清右衛門、藤山藤七兵衛、牛嶋新五郎、鮎川貞右衛門、大塚与助、
執行十郎兵衛、坂井戸兵衛、青柳藤次左衛門、堤善助、東嶋彦左衛門、
増田藤右衛門。

鍋嶋喜左衛門与内 倉町市郎右衛門組
大坪忠左衛門、成冨八兵衛、早田儀左衛門、小川源左衛門、真崎右之助、
平野次郎八、石井久左衛門、久冨貞右衛門、吉田弥五兵衛、香田清兵衛、
俣野久左衛門、牟田部兵衛、永渕九兵衛

254: 人間七七四年 2011/02/09(水) 01:27:53 ID:8aOBDGrN
千葉頼母組内 西五太輔組
光岡清左衛門、光安源次郎、土山与助、渡辺徳右衛門、諸岡喜兵衛、松岡新之丞、
藤瀬源左衛門、馬郡久五郎、古賀市良左衛門、執行太郎左衛門、増田孫左衛門、
灰塚五郎左衛門、小柳伊右衛門、大庭平次兵衛、廉江八十郎、大江新左衛門

鍋嶋庄兵衛与内 川瀬十郎左衛門組
高木久兵衛、増田彦左衛門、立川十之允、大石小兵衛、栗波弥右衛門、
中溝部右衛門、川原千兵衛、野田利右衛門、中村平太輔、江頭孫六、
土屋三五左衛門、中山新次左衛門、梅崎治部右衛門、武冨次兵衛、永田太右衛門、
田尻善左衛門、徳嶋弥左衛門、福田幸左衛門、南里忠左衛門、武冨次六、
岸川弥五右衛門

鍋島靭負組内 諸岡彦右衛門組
副田藤次兵衛、野口武左衛門、犬塚平内、堤三左衛門、上野兵助、野田平蔵、
石田兵左衛門、新郷千兵衛、松永弥太右衛門、小川与兵衛、副島久右衛門、
藤山諒斉、吉原五右衛門、藤野蔓竹、相良九八郎、横尾弥吉郎、空閑三五右衛門、
江口九郎左衛門、江口藤次郎、江口吉左衛門、江口半右衛門、山辺惣右衛門、
江口小左衛門、柳川弥右衛門、原十郎右衛門、百武勘右衛門、牟田嘉左衛門、
宮地甚兵衛、城島六右衛門、吉村源内

中野数馬組内 犬塚武左衛門組
安住二左衛門、井上吉左衛門、藤井福右衛門、諸隈孫三郎、牛島作右衛門、
小出次左衛門、中野真右衛門、福田文蔵、小川茂右衛門、江口武右衛門
古賀権内、成富三右衛門、古川権太夫、無藤助右衛門、三上平八、槙利右衛門、
指山源六、野口甚兵衛、秀島嘉平次、蒲原八右衛門、上瀧久五郎、井上甚九郎

成富九郎兵衛組内 古賀清兵衛組
江越太郎右衛門、田中善次郎、宮地八郎左衛門、福地藤七兵衛、江嶋二兵衛、
江嶋吉兵衛、田口久左衛門、牛嶋利右衛門、中溝源六、藤崎万吉、藍川次郎左衛門、
陣内覚兵衛、海野千右衛門、野副二左衛門、■田六右衛門、大隈藤左衛門

鍋島官左衛門組内 深堀新左衛門組
川副戸右衛門、川副祐右衛門、中西源之允、秀嶋新右衛門、坂井太左衛門、
千布用之助、円城寺権兵衛、田代藤左衛門、江口彦左衛門、仁戸田正左衛門、
赤司市左衛門、堤次郎左衛門、松野喜兵衛、志岐新五右衛門、枝吉清兵衛、
林吉兵衛、杉町牛兵衛、馬渡佐左衛門、執行孫兵衛、伊東二右衛門、古賀与左衛門、
草野藤五左衛門、柴田伝兵衛、堤与兵衛、石井弥右衛門、亀川新右衛門、
相浦五郎右衛門、伊東近右衛門、森戸次左衛門、相浦近左衛門

250: 人間七七四年 2011/02/08(火) 23:01:54 ID:f+JMpLC+
三十俵ニ人扶持(約14石)を武士の平均禄だと考えると50石はかなりの上級。やはり戦国期に活躍した家系筋になるケースが多いだろうね

256: 人間七七四年 2011/02/09(水) 07:22:02 ID:wz1259UR
安政年間で手明鑓+足軽が佐賀藩全部で約五千人
手明鑓のリストラだけで五千石分ぐらい浮かしているから、それ以前はもう1.5倍ぐらい手明鑓+足軽の人員は居たと思う

258: 人間七七四年 2011/02/10(木) 10:20:16 ID:49wm4FjB
手明槍制が佐賀本藩、蓮池藩だけだったのは元龍造寺家臣団の家系筋が多かったせいだろうね。
龍造寺家が御家事情で必要の無い無役の龍造寺家臣を解雇するは仕方がないと納得もするだろうけど
鍋島家の場合はねえ、、、

259: 人間七七四年 2011/02/10(木) 20:46:40 ID:mccUiRx+
隆信時代から小城は直茂、鹿島は信房と殆ど鍋島領だったし必要がなかったんだろうね。

295: 人間七七四年 2011/09/05(月) 00:31:16.33 ID:6JAlZuqs
鍋に従うのがいやで帰農した者も多かったのだろか

296: 人間七七四年 2011/09/05(月) 05:04:24.17 ID:YgIvo4ld
龍造寺侍やってても飯が食えないって理由が一番大きかったと思う

298: 人間七七四年 2011/09/05(月) 12:56:29.31 ID:YgIvo4ld
佐賀以外の知行地を喪失している状態で龍造寺をそのまま引き継いでしまうと隆信の代に肥大化した譜代家臣団もそのままくっついて来るので龍造寺から鍋島への権力移行期は絶対的に知行地が足りなかった

それで土地がこれ以上増える見込みも無くなった勝茂の代で家老衆(龍造寺四家含む上級家臣)に対する三部上地(給地一律三割カット)と下級武士層の家禄没収&無役化で龍造寺家臣系を自主退職に追い込んでいったの
その無役化した譜代家臣団に対する救済処置が手明鑓制

299: 人間七七四年 2011/09/06(火) 23:24:33.71 ID:qc45R4Wx
豊臣秀吉から竜造寺高房への朱印状   天正18年(1590)正月8日
※肥前国竜造寺藤八郎(高房)知行割之事

30,000石 竜造寺藤八郎京賄分(高房)
11,200石 佐嘉にて台所入(高房)
5,000石 竜造寺民部大輔(政家)
14,000石 後藤善次郎(家信)
10,070石 竜造寺六郎次郎(長信)
5,250石 竜造寺阿波守(信周)
19,188石 竜造寺七郎左衛門(家晴)
6,040石 神代二郎(家良)
44,500石 鍋島加賀守信生(直茂)
9,000石 竜造寺伊勢松(勝茂)←江上家種分
80,000石 馬廻分
67,650石 小給人分
合計309,902石

天正15年(1587)島津討伐時の恩賞
鍋島加賀守(直茂)
5,700石-養父半郡
5,000石-高来郡神代

301: 人間七七四年 2011/09/07(水) 08:28:15.21 ID:ohP6nCoK
>>299
家種が生きてる間に養子に入った勝茂が江上領分を相続してたんだっけ?

308: 人間七七四年 2011/09/09(金) 21:56:43.39 ID:/ASahCmw
>>301
家種は慶長2年(1597)2月に朝鮮役で卒してるので生前に勝茂へ譲った事になる。
実際の知行は10,200石で9,000石を勝茂へ、残り1,200石は隠居分として手元へ残していた。
家種が卒した後に1,200石は実子の江上孫太郎(佐野右京亮茂美)へ800石、残り400石を
江上左近允(勝山大蔵勝種)へ分配された。
存知の通り勝山大蔵はのち伯庵と共に鍋島騒動の立役者となった人物。

300: 人間七七四年 2011/09/07(水) 02:03:32.13 ID:LwQtcZQv
四天王が健在なら鍋島なんて

302: 人間七七四年 2011/09/08(木) 19:27:36.99 ID:f/xYAKe7
戦場で殉死まがいの討死するような盲目な人が生き残っても政治的な活動なんて出来ないだろ

殉死は武士の価値観からすれば美しいんだろうけど組織の人間としては責任逃れの自殺と大差ない

303: 人間七七四年 2011/09/09(金) 00:44:08.88 ID:gC+/df+S
かといって全員が全員一目散に逃げ出しちゃ、追い討ちかけられて余計殺されるんじゃないの

304: 人間七七四年 2011/09/09(金) 01:44:51.33 ID:lPyzWMiv
遺体の引き取り拒否で後世でクズ扱いみたいにされるのも
あまり賢いとは思えない

305: 人間七七四年 2011/09/09(金) 07:12:19.12 ID:9whva2jS
その逸話の大意は戦って取り返すからワザワザ持ってくるな。という所だろ
それをクズかどうか思うのは受けての感性の問題

訳文だと部分だけ切り抜いてい曲解する訳者の見解が入るからその限りじゃないが

313: 人間七七四年 2011/10/17(月) 13:25:18.56 ID:ZUYs4MMG
天正11年に安国寺が、毛利の大幅譲歩による秀吉との和睦の決断を促す書状で、百姓同然の龍造寺と書いていてワロタw
他の大名については悪口書いてないのに。

314: 人間七七四年 2011/10/18(火) 17:35:24.80 ID:QGHr1v2T
今和睦しないと百姓の秀吉が百姓同然の龍造寺をけしかけて毛利領を侵犯するかもしれないぞって感じ?

315: 人間七七四年 2011/10/24(月) 23:53:21.88 ID:GRpQQhot
中央の人間とか、大内・陶家の文化をまるまる吸収した大毛利にしてみればそりゃあ九州ってだけで田舎モン扱いされるだろうねえw
しかも大名自身がクマーなんだからどんだけだよって話だw

しかしトンデモ学説では当時日本最大の鉄砲保有大名だったって資料もあるくらいでさすがにそれは大げさだとしても、純粋な軍事力では馬鹿に出来ないだろう




クマー本人は馬鹿だけどね^^

316: 人間七七四年 2011/10/25(火) 08:44:20.93 ID:rXp3516N
フロイスの日本史では、
金ピカ装備で大量の銃を
龍造寺は所持してて
島津はビビりまくり陣の後ろの方に閉じ籠ったって書いてるぜ。
有馬らは鉄砲は使わず突撃戦法と、
海岸からの砲撃で
隆信の息子らを押しまくったので
隆信が彼らを督戦するために中央から海岸側へ移動したとか。
もともとの作戦では、
隆信は山側へ布陣予定だったが、
柳川にいた信生が、突然に主命を破ってやってきて、
自分が山側に布陣した島津と対陣するので、
隆信は山側でなく
中央を進軍に作戦を
土壇場で捻じ曲げたんだよね。
信生は、わざわざその変更のために柳川から来たわけで、
柳川での調略や外交で、
何らかの勝算が出来ての陣替えだったのだろうか。

317: 人間七七四年 2011/10/25(火) 18:15:55.01 ID:77G4hy4A
>島津はビビりまくり陣の後ろの方に閉じ籠ったって書いてるぜ。

実際にはどういう表現で書いてあるの?

318: 人間七七四年 2011/10/25(火) 19:42:08.16 ID:TsZDbvvC
有馬兵ら味方があまりに少なく
島津兵はこりゃ絶対に敗北確定だわと確信したらしく
兵力・装備が充実している隆信軍を見て色を失い、
互いに顔を見合わせ死の汗を流したとか
鎮痛な面持ちになったとか書いてあるね。

有馬軍が鉄砲の餌食になりそうだから
義久が篭った山へ退却しようとしたが
島津側がそれを許さなかったので
有馬はその山の麓で
地面にうっぷして銃弾を避けてから
肉薄突撃をして戦ったが、
竜造寺は槍兵と槍兵の間からも銃弾をぶっ放してきて
苦戦してたが、海岸からの大砲の支援を受けて盛り返した。
そんでなぜか突然現れた少人数の島津軍の川上に、隆信は味方だと誤解した挙句に殺されたと書いてる。

ちなみにフロイスは日本では盾を使わないと書いてる。

319: 人間七七四年 2011/10/26(水) 00:09:08.82 ID:ORi6wkD+
なんで義久いんの?

330: 人間七七四年 2011/11/05(土) 17:50:32.71 ID:gR0wke7p
鍋島が裏切る動機は?

331: 人間七七四年 2011/11/05(土) 17:58:55.48 ID:sxdyxd5/
戦国に動機が必要かね?

332: 人間七七四年 2011/11/05(土) 20:00:21.68 ID:5AX4fCer
仮に下克上を狙ってたとしてもこのタイミングはありえんと思うわけだが

それはそれとしてもしその意思があったとして動機を考えるならば
ただひとつ「隆信に呆れ見切りをつけた」だろうなあ
どう考えても沖田畷前の数年の行動は人として疑問符が付くし
そういう家臣の声が、一番人望のあった鍋島を動かした、っていう風になっちまうな

334: 人間七七四年 2011/11/05(土) 22:10:14.05 ID:UpGVVV5k
むしろ鍋島が隆信に悪事をやるように誘導してたような…

335: 人間七七四年 2011/11/05(土) 23:19:38.70 ID:lKB1+MEc
蒲池の騙し討ちだってやったのは鍋島だろ

336: 人間七七四年 2011/11/06(日) 00:26:14.37 ID:jWJ3X2Jm
隆信の悪行は同盟国や自勢力下の領主・武将たちへの仕打ちだからな
それも歳を取ってから猜疑心が強くなってそういう傾向が強まった
決して評判のひとり歩きじゃない

そして蒲池の事件は確かに鍋島と計ってという記述をしてる場合が多いが
鍋島は反対したが結局主君の命には逆らえずというのも見たことがある
その辺の真実は分からないが結果的に共犯になるのは間違いないだろう

だが隆信のやり方で配下の叛乱が連発したのに
それを主導したのが鍋島だというのなら当然ながら隆信亡き後の
鍋島に他の家臣が従うはずがない
その辺りの推移を考えても隆信に往年のカリスマが無くなっていたのは明らかであり
隆信亡き後に残された家臣団には鍋島以外に立て直してくれる能力を持った武将は
いないという共通認識があったのは間違いない

364: 人間七七四年 2012/01/24(火) 02:58:08.80 ID:hKpG0aYS
>>336
指導者たる者、己の力量によって悪行を為さずに済ます、なんてことは不可能。
特にこんな時代ではね。
もしできたとすれば、よほど運が良かったか、隠蔽したかのどちらか。

338: 人間七七四年 2011/11/06(日) 09:21:04.26 ID:7I+cZwYv
隆信と信生の母の慶誾尼の指示だから仕方が無く
竜造寺家臣団も一時的に信生に家政を任せただけだな。
その基盤の弱さを補うために信生は秀吉政権を味方につけて
家内掌握を図っただけ。
鍋島藩がかなり信生の悪事を隆信の悪事に摩り替えて捏造藩史を
残しているからこそ化け猫伝説まで民間で生まれたんだろうな。

349: 人間七七四年 2012/01/04(水) 22:34:14.99 ID:jrA2Rkuu
『四天王なのに5人いる』のフレーズが有名な龍造寺氏

350: 人間七七四年 2012/01/05(木) 01:46:16.44 ID:oFANvQ3q
そればっかが有名になり過ぎよな、結構がんばって下剋上してんのに

351: 人間七七四年 2012/01/06(金) 15:59:19.96 ID:4ICcQa7t
もうちょっとお互いに信用していたら少弐との対立は避けられたはず

365: 人間七七四年 2012/01/27(金) 21:21:25.48 ID:iackNJ0G
龍造寺は血筋が良いわけでも中央にコネがあるわけでも無く
大名として勢力を張れる根拠が戦争に強いという事だけ
その根拠が大将敗死で一挙に吹き飛んじゃったんだろうな
逆に言うと勝ててるうちは内部の事なんてどうとでもなった

366: 人間七七四年 2012/01/28(土) 15:20:32.64 ID:aDMXHqVW
そのへんはたぶん本人たちもよくわかってたから、
「じゃあ、次に戦争強い人誰よ?」
「鍋島じゃね?」
「しょうがないから、野郎にやらせとけ」って感じになったんだろうな

368: 人間七七四年 2012/01/29(日) 23:26:44.14 ID:6eWLgMF4
龍造寺は確かに名前がいいよなあw

ま、戦の強さが戦国大名として存在し得る根拠というのは確かにあるわな
でその当主が死んだらもともと地方国人・城主の集まりなんだから空中分解する可能性高い

しかしせっかくここまで大きくなった龍造寺勢力を空中分解させるわけにもいかない
戦争に強いリーダーが必要だった

「どうするよ、若殿さまじゃまとめきれんぞこれ」
「もう鍋島でいいんじゃね、一応龍造寺一門と言えなくもないしw」
「サルどのの覚えもめでたいしそれで行くか」

こんな感じで家中特に異論もなくまとまった気がするw

378: 人間七七四年 2012/04/10(火) 18:35:44.29 ID:VAi8jNEY
状況からすると政家は兄弟ともども押し込み食らったとしか思えない

379: 人間七七四年 2012/04/14(土) 19:28:26.60 ID:vtPFuk9G
状況からすると一番現実的に考えられるのは
政家らが頼み込んで直茂に当面の仕切りを完全委任したという感じだろうな。
政家は病弱だったと言われているが、少なくとも自身の力を過大評価するほど
愚鈍ではなかったと思われる。

それは隆信の血の繋がる誰にも言えることで、
隆信急死後に誰かが直茂の仕切りに反発してたら肥前は大藩として生き残ることはなく
幕末の肥前の活躍もなかっただろう。

その時の龍造寺の後継候補たちが自らの器を量れる人間であったことは
肥前にとっての幸いであったと思う。


引用元: ・龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ


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