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1: ナナシーヌ名無し 2006/12/23(土) 20:23:37 0
1900年から1914年くらいまでのパリについて、
「あんなエピソードが好き……」「こんな小話が好き……」「あの建物最高……」などなど
どんなことでもかまいませんので、語りませんか。









3: フランスが死ぬほど嫌いな人 2006/12/23(土) 21:47:36 0
この時代ぐらいのパリが本当のパリ、フランスだろうね。
今のパリは欧州でもっとも欧州らしくない、「アメリカ化した街」の一つだね。

『旧東ヨーロッパは遅れているから昔ながらの欧州らしさが残っているんだ!』

なんていう人がいるけど、たとえそうであっても本当の欧州の街が見たい人はドイツより東に行った方がいい。
「コーラ、ハンバーガー、」「下品なポルノ、」「ストリップ劇場、」「性犯罪、」「強盗とかっぱらい、」
「黒人、アラブ人、中国人、ベトナム人、‥‥多様な人種、」

パリは半分アメリカだなwww。

8: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 03:23:12 0
>>3
当時のパリを美化しすぎ
「下品なポルノ、」「ストリップ劇場、」「強盗とかっぱらい、」
これらは別にアメリカ’的でもなければ現代都市特有のものでもない

まあこの時期のパリを始めとした欧州都市が、現在とくらべ遥かに華やかに煌いて輝いて見えるのは同意だけど。

17: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 21:01:28 0
>>8
>「強盗とかっぱらい、」

ジャン・ジュネを連想した。

この当時、ヤクザや泥棒を呼ぶ呼称は…(-_-)ゞ゛
(「ギャング」ではない)


>「下品なポルノ、」「ストリップ劇場、」

地下出版だけど印刷されて流通してました。
ムーランルージュの踊り子なんて、紳士相手の娼婦も兼ねていた。


75: 世界@名無史さん 2007/01/02(火) 16:22:57 0
当時のやくざ者は、
アパッシュ【(フランス)apache】

76: 世界@名無史さん 2007/01/02(火) 16:29:25 0
>>75
1902年頃に当時の新聞が街の不良たちを指して、ひわ的に使ったのがはじまり。

※アパッシュ・スカーフ
アパッシュというのは不良ですから、女持ちのハンカチーフなんかを取ったりする。
で、これを自分の首に巻く。
20世紀はじめにはさぞかし下品な風俗であったのでしょうが、いつの間にか粋なスタイルとされるようになる。

ごく一般的には細長く畳んで、首に巻き、前で結ぶ。
http://www.9393.co.jp/izuishi/kako_izuishi/2005/05_0727_izuishi.html


168: 世界@名無史さん 2007/08/12(日) 18:55:56 0
>>76にある「ひわ的」って何だろう。

174: 世界@名無史さん 2007/08/30(木) 02:02:12 0
>>168
文脈から想像するに、比喩的の間違いなのでは?
枇杷的(意味不明)でも卑猥的でもなさそうに思える。

4: 世界@名無史さん 2006/12/23(土) 22:15:44 0
美術ではキュビズム、素朴派のアンリ・ルソー

詩人だとアポリネール

5: 世界@名無史さん 2006/12/23(土) 22:19:57 0
モーリス・ルブランの怪盗ルパンもの

自動車、電話、バイクの普及


6: 世界@名無史さん 2006/12/23(土) 22:23:30 0
映画が娯楽として広まり始めた

18: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 21:12:02 0
>>6-7
フランス映画史
http://www.rose.ne.jp/~french/history/history.html

初期は見世物小屋的だったのは、何処も同じみたい。

アメリカの映画屋にしても、サーカスなどの興行師のユダヤ人が転業したものだった。
サーカスなら、フランスでも盛んだったよね?

ちなみに、サーカス屋の踊り子などの女も売春をすることが多かった。

19: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 21:15:55 0
マルセイユが、悪徳の巣窟みたいに言われてのにしても、この当時にもあてはまります。
薄暗い酒場でストリップ・ショーもやっていた。

移民のスラム街があった(当時はイタリア系が主。同国人ではコルシカ人。)。

20: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 21:25:01 0
>>19
イヴ・モンタンも、北イタリアからの移民の子で、まずマルセイユで歌手として売り出した。

11: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 12:54:50 0
フランスってユグノー戦争で泥沼になったり、ナントの勅令廃止したり、主流派以外には非寛容のイメージがあるのですが、何故に今は寛容?

15: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 20:51:07 0
>>11
この時代のフランスの場合、英語の使用禁止なんぞする必要なかったの!!
外交官の世界の共通語がフランス語だったくらいだから

パリには、他の欧州からの移住者が来ていた。

シャガールやスーチンみたいな貧しいユダヤ系の画家がロシアからやってきたりして、パリでもっとも貧しく不潔な家畜屠殺場の近くのバラック(と言っていい)共同住宅に住んでいた。
スペインから来たピカソにしても、貧民の出でないにもかかわらず、パリでは当初暖色系の絵の具を買えなかった。

移民のスラム街もあった。


89: 世界@名無史さん 2007/01/06(土) 22:14:04 0
>>15
そういやモディリアーニは生前大して売れてもいないのに、カフェになんかいるところを写真に撮られてるな

仕送りのおかげ?それともモデルの女と待ち合わせか?

14: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 20:47:19 0
エコールドパリについて語ろうっていうのか?
エコール・ド・パリ

エコール・ド・パリは、「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを指す。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちの総称。

狭義のエコール・ド・パリは、パリのセーヌ川左岸のモンパルナス(詩人の山)につくられた共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に集った画家たちをさす。一方、セーヌ河右岸のモンマルトルには、ピカソが住んでいた「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」があり、キュビスムの画家が多かった。狭義のエコール・ド・パリはキュビスムなどの理論に収まらない画家たちのことだが、広義のエコール・ド・パリは、キュビストも含めてこの時代のパリで活躍した外国人画家(異邦人的なフランス人画家も含む)すべてを指す。

外国人画家の中でも、モディリアーニ、シャガール、スーティン、パスキン、キスリングなど、国籍は違えどもユダヤ系の画家が多い点も指摘され、「エコール・ド・ジュイフ(ユダヤ人派)と呼ばれることもある。また、それぞれの作風は個性的であったが、モディリアーニをはじめ、後の世代の画家たちへの影響は大きい。

16: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 20:56:17 0
>>14
画商の名前で「~スキー」ってのが目立っていたような。
画家でも外国から来たユダヤ系が多数住んでいた。


23: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 23:09:36 0
>>16 
モディリアニの絵にもズボロフスキーがあるくらいだからな
25: 世界@名無史さん 2006/12/24(日) 23:13:47 0
no title


ドガの踊り子の左上には、パトロンがいる

26: 世界@名無史さん 2006/12/25(月) 00:11:50 0
>>25
19世紀後半期のバレリーナはそんなのばかりだったらしい

28: 世界@名無史さん 2006/12/25(月) 07:53:47 0
こんにちでも、映画監督と愛人だのそういう話はあるけど、この頃はそれどころじゃない状態。

まあ、現代日本の芸能事務所もやくざまがいが牛耳ってるから、売春まがいは多いだろうな。

27: 世界@名無史さん 2006/12/25(月) 01:47:32 0
以前それTVで見たなと思ったら、あった
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/001118.htm
※リンク切れ

30: 世界@名無史さん 2006/12/25(月) 08:03:40 0
>>27
>ドガは裕福な銀行家の長男でした。
>ところが1874年、その父親が死んでしまったのです。
>残されたのは債務と、容赦ない取り立て。

戦前の日本でも、銀行は倒産するのが当たり前だった。
この当時のフランスでは、銀行開業した後、預金集めてどろんぱする頭取までいたようだ。

かと思えば、破産しても免責はなく、まっとうな人間には過酷な時代。

31: 世界@名無史さん 2006/12/25(月) 08:12:33 0
>>30
戦後のパリの破産管財人も、ハイエナ呼ばわりされることが多かったようだ。
(現在、改善されたかどうかは知らない。)
任意整理の整理屋のように、残った会社財産の大半を頂いたらしい。

公証人もフランス社会では大きな比重を持った職業で、結婚から遺産相続、アパートの賃貸借、何から何まで関与して手数料を稼いだ。バルザックは、「金に汚い」「どぶねずみ」とか呼んでいたはず。そういう本人は、慣れない事業に手を出して借金背負った挙句、ロシアの貴婦人(金持ち未亡人)を口説いて、結婚しているが。

33: 世界@名無史さん 2006/12/25(月) 08:26:05 0
ユトリロがルノワールの隠し子だと聞いたのですが

35: 世界@名無史さん 2006/12/25(月) 08:32:26 0
>>33
ありえない話じゃない
当時のモデルは、半ば娼婦扱いで、画家の愛人になることが多かった。
ユトリロの母親ももともとモデルだよね。

56: 世界@名無史さん 2006/12/30(土) 21:58:46 0

ユトリロはアル中 モディリアニはヤク中
ロートレックは身障者 ゴッホは基地外


57: 世界@名無史さん 2006/12/31(日) 07:32:16 0
>>56
同時代の一般のフランス人から見れば、ニートみたいな扱いだったろうな

現にゴッホはアルルで排斥されてる
ロートレックも余生は廃人

59: 世界@名無史さん 2006/12/31(日) 07:41:45 0
>>56
ゴーギャンは、そのどれでもないけど、逆境の中で己を貫いたな

パナマ運河では、白人なのに奴隷並みの労働体験

60: 世界@名無史さん 2006/12/31(日) 12:25:06 0
ウイーンの世紀末芸術が終わってからパリの時代になったのだろうか

61: 世界@名無史さん 2006/12/31(日) 21:19:51 0
>>60
パリのほうも同時期アールヌーヴォーの流行はあったけどね。
その後、野獣派、キュビズム。

他方、20世紀初頭ドイツのミュンヘンでは、表現主義勃興の時代。

62: 世界@名無史さん 2006/12/31(日) 21:28:29 0
>>60-61
20世紀初頭といえば、1902年2月20日、詩人マリネッティ、パリの新聞「フィガロ」に「未来派宣言」
http://www.tanken.com/miraiha.html

北イタリア出身の芸術家が多かった。
43: 世界@名無史さん 2006/12/28(木) 06:37:01 0
フランスの地下鉄は、1900年に開催されたパリ世界万国博覧会に合わせて開通した。
1863年に世界で最初に開通したロンドンに遅れること37年、パリ・メトロポリタン鉄道会社
(CMP:Compagnie du chemin de fer Metropolitain de Paris)が1号線をポルト・マイヨー
(Porte Maollot)~ポルト・ド・ヴァンセンヌ(Porte de vincennes)間で運行したのが最初である。
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/life/177/
※リンク切れ



46: 世界@名無史さん 2006/12/28(木) 06:59:51 0
このころには、ナポレオン3世の近代パリ市になってから半世紀も経っていなかった。
古い建物の大半が取り壊された現代都市だったわけだ
オスマン知事の功績は大きいよな
上下水道と広い道路、緑地公園の整備

 

Portrait_haussmann


ジョルジュ・オスマン

ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン(1809年3月27日 - 1891年1月11日)は、19世紀フランスの政治家。1853年から1870年までセーヌ県知事の地位にあり、その在任中に皇帝ナポレオン3世とともにパリ市街の改造計画を推進した。この都市改造はフランスの近代化に大きく貢献し、現在のパリ市街の原型ともなっている。

まず、入りくんだ路地裏をとりこわし、道幅の広い大通りを東西南北へと走らせた。また、凱旋門や広場から放射状に広がる大通りを建設した。こうして交通網が整えられたことで、パリ市内の物流機能が大幅に改善された。また、現在では観光名所として名高いセーヌ川の中州に位置するシテ島(ノートルダム大聖堂などがある)は、19世紀当時においては貧民窟と化していたが、架橋、道路建設などを通じて雰囲気を一新させた。その傍ら、新進気鋭の建築家を登用してルーブル宮、新オペラ座などの建設も進められた。

こうした首都の大規模な改造は、パリを訪れる各国の政治家を驚嘆させるものであり、ナポレオン3世の威光を高めることにもつながっていた。街の景観を保つことにも配慮がなされ、建造物の高さは一定までに制限された。衛生面においても、上下水道の整備が進められたことで、大幅な改善がみられ、コレラ発生の抑止にも貢献した。大通りに並ぶ街灯の数も増やされ、万国博覧会で訪れた日本人もその風景をたたえている。こうした一連の改造計画は「オスマン化」とも称され、この際の都市計画は、フランス国内にとどまらず各地における都市建設の手本ともされた。


54: 世界@名無史さん 2006/12/30(土) 08:27:53 0
鉄道ストライキの労働者を予備役招集して、社会党の入った内閣がスト潰しをしたのもこの頃。

49: 世界@名無史さん 2006/12/28(木) 18:53:06 0
戦前の日本伊にあった警察代執行による身柄留置
犯罪捜査での任意宿泊

あれはフランスで既に行われていた法制度や実務運用を模倣したもの

51: 世界@名無史さん 2006/12/29(金) 18:41:23 0
>>49
刑事たちは、庶民を取り調べるときは高圧的だったが、上流階級には手が出せなかったようだ。

52: 世界@名無史さん 2006/12/29(金) 22:58:41 0
Jean Valjeanを追ってた刑事は立派だ

53: 世界@名無史さん 2006/12/30(土) 08:22:24 0
>>52
なぜか監獄の看守(憲兵隊?)、地方の都市警察、パリ警視庁と、組織系統の異なる警察組織を転々としているがw

ユゴーはフランスの警察組織について無知だったようだ

55: 世界@名無史さん 2006/12/30(土) 21:55:54 0
ジャベールの最期の言葉
「お前を解放しよう。だが法は私に慈悲を行うことを許さない。私は法を守る一生を全うする」

58: 世界@名無史さん 2006/12/31(日) 07:34:25 0
>>55
こんな人、実際にはどれくらいいたんだかね

大戦直後の日本の裁判官で闇米食わんと餓死した裁判官は一人だけだった

65: 世界@名無史さん 2007/01/01(月) 12:03:51 0
>>58 
ジャベール警部も、冤罪事故を起こして
その意味では、法を過信しすぎていたワケだが


70: 世界@名無史さん 2007/01/01(月) 20:44:28 0
パリがよかったのはオスマンの改造が行われる前までさ。

71: 世界@名無史さん 2007/01/01(月) 21:01:29 0
>>70
ボードレールは、何のつもりでそういったんですかね?

本人はブルジョワジー階級なのに、二月革命の熱狂?

旧来の狭くて汚水まみれの道路を懐かしむというのもねぇ
治安だって悪かったみたいだし・・

72: 世界@名無史さん 2007/01/01(月) 21:08:45 0
ブルジョワジー以上と、労働者階級以下では、入る刑務所も違っていたようです。
空想的社会主義者の連中は、割と快適に読書をしてすごしたらしい。
戦後のイタリアの女優ソフィア・ローレンの服役もそうだった。

戦後フランスでも、デビ夫人が同じような刑務所にいたと聞いたことがある。

99: 世界@名無史さん 2007/01/10(水) 20:32:45 0
今でこそヨーロッパといえば、旧い街並みの景観重視だけど、19世紀には大なり小なり旧い建物を取り壊しているんだよな。

イタリア王国の首都になったローマも、壮麗なヴィラと広い庭園のあった区画に、官庁街などを建設した。

100: 世界@名無史さん 2007/01/10(水) 20:57:25 0
>>99
旧きパリを懐かしんだのは、観光客(金持ち外国人?)と一部のインテリだったでしょうね。

大多数のパリ住民は、快適に暮らせるようになったと喜んでたんじゃないか?

102: 世界@名無史さん 2007/01/11(木) 21:41:03 0
中近東から来た人間が、軍人や銀行家として成功することもあったらしい。

外人部隊があったのと、当時の銀行家というのは高利貸し兼投資信託だったからだろうか。


103: 世界@名無史さん 2007/01/11(木) 21:55:13 0
>>102
白人の外見だったかによっただろうな。

アルメニア人やトルコ人、レバノン人なら活躍できただろう。

121: 世界@名無史さん 2007/01/24(水) 16:08:07 0
>>103
『黄金三角』には、銀行家と将校で登場していた。
現在ならカルロス・ゴーン。
アルメニア人の成功者も多いようだ。


http://ja.wikipedia.org/wiki/アルメニア人の一覧

106: 世界@名無史さん 2007/01/13(土) 18:18:19 0
この時代のフランスは、美術も映画もでてくるわ
科学捜査も文明の利器も普及するわ
アフリカに植民地広げるわ

なかなかの盛況ぶり

107: 世界@名無史さん 2007/01/13(土) 19:58:05 0
この頃のフランスは、純粋文化主義じゃなく、海外の文物取り入れるのに抵抗なかったようだ。

哲学は、敵国のドイツの影響が強かったようだ。
第二次大戦後でも、ドイツよりハイデッガーの影響が残っていたくらい。

114: 世界@名無史さん 2007/01/19(金) 17:09:25 0
当時の労働者の娯楽は、どんなものだったのでしょうか?

映画はまだまだ普及していなかった?

115: 世界@名無史さん 2007/01/20(土) 00:43:22 0
映画は大衆的な娯楽として親しまれてましたよ。
20世紀始めの映画は5~10分程度の短いものでした。
30分もあれば大長編。
それでもメリエスなんかが特撮を使っておもしろい映像を作って喜ばれてました。
ついでに、フランスに弁士はいません。弁士がいるのは日本だけ。

131: 世界@名無史さん 2007/04/07(土) 21:37:58 0
フランス映画って昔から犯罪ものが多いんだってね

135: 世界@名無史さん 2007/04/26(木) 20:08:18 0
現在でも映画界とかでは二キータ女優が妊娠したままリュック・べっそんとお別れしたり


まあ、元犯罪者とかがウヨウヨしてる業界ですが

「天井桟敷の人々」の時代から犯罪が映画の大きなファクターの国

「悪の道は多々あれど、善の道は少ない」バルザック

146: 世界@名無史さん 2007/06/06(水) 08:31:16 0
共和制の大統領に選ばれたルイ・ナポレオンが、やがて軍事クーデターを成功させ皇帝ナポレオン3世となると、オスマン男爵(写真左)をセーヌ県知事に任命して、街を囲む城壁を取り除き本格的な下水道を完成させて、近代的な都市を造るインフラを整えさせました。

次に労働者大衆の住宅を郊外に築いて強制移住させ、狭くてゴミゴミした街路を一掃して、ブールバール(幅の広い街路)や並木道を縦横に通しました。新しい広い街路には、5,6階建ての美しい石造りの建築を街路沿いに整然と並べ、富裕階級を豪華なアパルトマンに招き入れました。
凱旋門を中心としてブールバールが360度、12筋に分かれて走り、至る所に公園、庭園、噴水、大理石の彫像、池、森を造って街路を美しく見せることに専念しました。
セーヌ川には芸術性豊かな橋が幾筋も渡され、大建築の中央市場も建設されました。
また、シャルル・ガルニエに命じて、資産家や富裕階級の社交の場として、大理石と彫像と壁画と金箔の世界屈指のオペラ座も完成させました。
 
鉄骨技師グスターブ・エッフェルによって建設されたパリの象徴エッフェル塔も、この時代に設計が始まりました。

つまり、今日のパリに現存する建築や街並みは、殆ど全部この時代に造られたのです。そして「ドロのパリ」から【花のパリ】へと生まれ変わったのです。


152: 世界@名無史さん 2007/06/23(土) 05:25:05 0
それ以前の古い建物のほとんどが取り壊されたようですね
同時に道路が広くなり舗装された
18世紀にはウィーンの方がはるかに清潔で美しい街だった

154: 世界@名無史さん 2007/06/24(日) 07:03:17 0
>>152
リンク・シュトラッセは例外として、ウィーンの街はたしかに道路が狭いね。
車が離合できないような狭い路地に、全貌も捉えられないくらい巨大な18世紀に建てられた貴族の邸館が聳えていたりして吃驚する。

160: 世界@名無史さん 2007/07/26(木) 16:07:13 0
ルパン・シリーズじゃ貴族がけっこう美化されているけど
これもむしろ政治的経済的影響力なくしたことからくるノスタルジーだな

20世紀初頭のブールジュの「伝統主義」もそう
批判せんがための「存在しない過去」幻想

201: 世界@名無史さん 2007/10/27(土) 09:37:22 0
エディット・ピアフのシャンソンのような大衆歌謡は、いつごろから広まりだしたの?

202: 世界@名無史さん 2007/10/27(土) 10:55:20 0
どこの国でも大衆歌謡が全国民的な人気になったのはレコードとラジオの普及から。

203: 世界@名無史さん 2007/10/27(土) 21:00:11 0
>>201-202
ということは、20世紀に入ってからか・・

209: 世界@名無史さん 2007/11/03(土) 11:30:56 0
1852年にブーシコーがパリに開店したオ・ボンマルシェが、フランスにおける本格的なデパートの始まり。
(それ以前から大型総合小売店は少しずつ姿を現していた)

19世紀前半までのフランスの商店では、入店自由の原則がなかったばかりか、出店自由の原則もなかった。つまり、いったん商店の敷居を跨いだら最後、何も商品を買わずに出てくるということは許されなかったのである。
おまけに、商品には値段がついていなかったから、客は、できるかぎり高く売りつけようとする商人と渡りあって、値段の交渉までしなければならなかった。

しかしブーシコーは、ウィンドーショッピング・薄利多売方式・バーゲンセール・ 展覧会・カタログによる通信販売といった現代まで続いている方法を考案した。

213: 世界@名無史さん 2007/11/03(土) 21:43:00 0
>>209
ナポレオン3世のクーデターの年だっけ?

それ以前のパリは、不潔なうえに、商人もハイエナだったんだな

210: 世界@名無史さん 2007/11/03(土) 14:13:13 0
ベル・エポックの街頭美術 街頭ポスターに登場した殺菌牛乳
「バンジヤンヌの殺菌牛乳」 テオフイール アレクサンドル スタンラン 作
ルーブル装飾美術館  蔵
レ プウル ド ラ バンジャンヌ ステリリゼ  1894年   制作
19世紀末のパリの街頭を彩ったポスター。猫を好んで題材にした社会主義者で
画家のスタンラン。その彼の傑作のひとつがこの殺菌牛乳の宜伝ポスター。
当時、牛乳から伝染する恐ろしい病気のひとつに結核があった。しかし、結核歯は
細菌学の租パスツールが1864年に考案した「低温殺菌」で殺菌できることが
分かり、牛乳の殺菌に実用化されるようになった。この絵の少女はスタンランの
愛娘コレツト、そして可愛がっていた猫三匹。殺菌牛乳なら安心、という絵である。

no title

214: 世界@名無史さん 2007/11/04(日) 10:49:41 0
no title

1852年に開業した当時のボンマルシェ

ブシコーはたんに目玉商品やバーゲン・セールといった商品の力で消費者に足を運ばせるだけでは満足せず、新しい〈ボン・マルシェ〉という建物それ自体の魅力、デパートというイメージの力によって消費者を誘惑しようと考えたのである。いいかえれば、消費者が、とくに何を買うという目的がなくとも、無料のスペクタクルを見物するような軽い気持ちで〈ボン・マルシェ〉にやってくること、これこそがブシコーが新店舗を設計するにあたってもっとも重要な眼目とみなしたものだった。

ディスプレイの基本は、店内に一歩足を踏みいれた客が思わずハッと息を呑むような、不意撃ちによる驚異(メルヴェーユ)の喚起にあった。すなわち、必ずしも、洗練された趣味のよさや色彩の調和などには囚われない、人の意表をつく仕掛けが〈ボン・マルシェ〉の大売り出しのときの特徴だった。

221: 世界@名無史さん 2007/11/04(日) 15:38:55 0
ドイツの技師ダイムラーがガソリンエンジンの四輪自動車を完成させたのは1886年だったが、本格的に利用可能な自動車は90年代に入って、まずドイツとフランスで改良製作されていった。
1895年にドイツのベンツは135台、フランスのプジョーは72台を生産している。
同年における保有台数となると、ドイツは75台、フランスは350台で、どうやらフランス市場のほうが、新しいスピード装置に関心が強かったようだ。

223: 世界@名無史さん 2007/11/06(火) 22:22:33 0
>>221
怪盗紳士ルパン・シリーズは、流行に敏感でした

224: 世界@名無史さん 2007/11/08(木) 19:53:45 0
1891年当時、車はあった。蒸気自動車ですが。英国やフランスでは今のバスのように広く利用されていた。 石炭ではなく油で動く車が発明されたのが1900ねんごろ

226: 世界@名無史さん 2007/11/08(木) 21:01:03 0
1895年にはフランス自動車クラブが結成され、98年には最初の自動車展示会がパリで開催され、1900年にはタイヤ会社ミシュランによる有名なガイドブックの刊行が始められている。

238: 世界@名無史さん 2007/11/17(土) 10:49:11 0
パリ万博で、既に動く歩道が御披露目されてたそうですね。

239: 世界@名無史さん 2007/11/17(土) 10:52:44 0
>>238
あんなもの、床下に滑車を備え付けて、床板を回していけばいいだけ
エスカレーターよりも簡単
エレベーターがすでにあった時勢なら、あっても不思議はない。

247: 世界@名無史さん 2007/11/25(日) 19:28:50 0
http://www5b.biglobe.ne.jp/%7Ekabusk/dentoh53.htm
オスマン化以前の、狭くてじめじめしたパリの裏通りの写真




248: 世界@名無史さん 2007/11/25(日) 21:03:53 0
>>247
なるほどこれは中世都市だ。

249: 世界@名無史さん 2007/11/25(日) 21:20:28 0
>>248
田舎町が大きくなっただけだったんだろう
ウィーンの方は、当時から舗装された道路だった


引用元: ・パリ万博~第一次大戦くらいまでのパリについて

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