51uqQW241mL



1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 20:07:58 ID:Qath1cTK0
馬超を語るスレです










8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 00:38:30 ID:eCIL5ppE0
馬援も一緒に語るというのはどうだろうかw

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 00:39:39 ID:ZDGrm4b1O
まあ一応ご先祖だしね

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/11(日) 01:16:48 ID:VT1qa0zoO
ずっと先祖をたどっていけば馬服君趙奢まで行き着くね

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/18(日) 08:36:58 ID:NYjMDY+m0
三国志演義でもいつの間にか死んでたからな・・・
影が薄い。
対曹操戦で一瞬パッと輝いて消えていったという感じがしないでもない。

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/20(火) 16:48:18 ID:QrR+HTZlO
吉川三国志の「彗星」という表現が好きだ

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/04(日) 23:56:33 ID:X6vs+Uuq0
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%B6%85

馬超(176年 - 222年)は、中国三国時代の蜀漢の武将。字は孟起(もうき)。諡は威侯。扶風郡茂陵県
の人。

後漢の名将馬援の子孫。祖父は馬平(子碩)。父は馬騰。子は馬秋・馬承。娘は安平王劉理の妻となっている。弟に馬休、馬鉄、従兄弟に馬岱がいる。馬騰は羌族との混血であり、この血を引いている馬超も漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。

『三国演義』では、その雄姿から「錦馬超」として称えられ、五虎大将軍の一人に選ばれたとされている。


経歴
若い頃から勇名をうたわれており、202年、司隷校尉鍾繇の要請を受け、部下の龐徳とともに、一万の兵を率いて平康の郭援と高幹を討伐した。その際、足に矢を受け負傷したが、その足を袋に包んで尚戦い続けたという。詔勅によって徐州刺史となり、後に諌議大夫に任命された。馬騰が入朝すると、偏将軍・都亭侯に任命され、父親の軍勢を引き継いだ。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/04(日) 23:57:03 ID:X6vs+Uuq0
211年、馬超は時の朝廷の権力者曹操と敵対し、韓遂、楊秋、成宜、侯選、程銀、李堪、張横、梁興、馬玩らあわせて十部隊らと共に兵を挙げ、十万の軍勢を率いて黄河、潼水の地に布陣した。このとき、蘭田の少将劉雄鳴が馬超に従わず、彼に撃破されて曹操のもとへ逃亡している。曹操もまた夏侯淵・曹仁らを率いて潼関にて馬超らと対峙した。

緒戦、曹操が黄河の渡河を試みると、馬超は精鋭を率いて船団に猛攻をかけ、曹操の軍勢は混乱し、曹操自身も命を落としかけるほどであった。その後も激しい攻防が続いたが、途中、馬超・韓遂と曹操の間に会談が設けられた。馬超は己の武勇を頼みに会談の場で曹操を捕らえようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった。最後は曹操の臣の賈詡の離間の策により韓遂と不和 になり、曹操に攻撃されて大敗北を喫し、西方の羌族の地に逃れた。

この戦役の後、馬超の挙兵の責任を問われ、父の馬騰と一族二百人あまりが皆殺しにあっている。曹操が引き上げようとしたとき、部下の楊阜が、「馬超は韓信・黥布のような武勇を持ち、羌族に心服されているので、警戒を怠ってはなりませぬ」と進言し、曹操ももっともだと答えたが、軍が既に引き上げを開始してしまっていたのでこの言を取り上げなかった。

212年、羌族の兵を集めて再び曹操軍を攻め、涼州刺史の韋康を殺害、冀城を根城にし、同州の他の城を味方につけてみずから軍事総督と称した。さらに救援にやってきた夏侯淵を撃破し、氐族の千万・阿貴らを味方につけてその勢力を盛り返す。しかし、韋康の復讐の為に挙兵した楊阜らの抵抗により冀城を奪われ、漢中の張魯を頼って落ち延びていった。

その後張魯に兵を借り、失地回復を試みたが、韋康の旧臣、趙昂とその妻王異の抵抗に遭い勝利は得られなかった。また、張魯配下の楊白らに非難されるなど、張魯陣営での立場も悪化した。そのため、214年、益州の劉璋を攻めていた劉備を頼って行った。劉備は馬超の来降を聞くと、「私は益州を手に入れたぞ」と言って喜び、すぐさま督郵の 李恢を使者として迎えにやった。馬超が劉備に帰順したという噂に恐れをなした劉璋は程なく降伏し、蜀は劉備の手中に入った。このとき馬超は、平西将軍に任じられた。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/04(日) 23:57:46 ID:X6vs+Uuq0
その後は、彭 羕の劉備に対する讒言と謀反の意を上表したり、漢中攻略に従軍しているものの目だった功績はあげていない。

劉備が漢中王になると左将軍・仮節に昇進し、 221年には驃騎将軍・涼州牧になるが、翌222年、47歳で亡くなり、子の馬承が後を嗣いだ。馬秋は張魯の元に残してきたが、張魯が曹操に降伏すると曹操は改めて張魯に引き渡し、張魯は馬秋を殺した。

また没する間際、馬超は「臣の一門宗族二百人余りは、孟徳めにあらかた誅殺されてしまい、ただ従弟馬岱だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を継承させてください。深く陛下にお託しいたし、もう申し上げることはございません」とも上疏している。

260年、威侯の諡号を送られた。


逸話
『三国志』の彼の伝に引かれる『山陽公載記』では、馬超は劉備からの待遇が厚いのをいいことに常々劉備を字を呼び捨てにしたため、関羽と張飛が怒り馬超を殺そうとしたという一文がある。しかし関羽は当時荊州の守りについており、益州に行った事は無い。よって馬超と関羽が共に劉備の傍にいた事実は考えられない。正史に対して注釈を入れた裴松之も本件については否定している。

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/04(日) 23:58:40 ID:X6vs+Uuq0
三国演義
『三国演義』では、初登場は長安を占拠した李カク一派と馬騰・韓遂が戦ったときである。弱冠17歳で敵将の李蒙、王方を討ち取る活躍を見せたが、父の馬騰が敗れたため敗退している。演義においては馬騰は曹操と対立する涼州の一勢力として描かれているため、高幹との戦いの際のエピソードは演義においては採用されていない。

馬騰が曹操暗殺計画に加担していた為、後に謀略によって一族のほとんどを曹操に謀殺されてしまう。涼州に留まっていたため難を逃れた馬超は、唯一生き残った従弟の馬岱と共に、復讐の為に兵を起こしたとなっている。挙兵と一族の殺害の前後が演義においては正史と逆転している。

復讐戦で馬超は韓遂と連合軍を起こしたが、賈詡の離間の計によりで韓遂と決裂する。韓遂は曹操軍に寝返り、馬超は敗走し、その後も挙兵するが敗れ、妻など残った一族をほぼ皆殺しにされる。

漢中の張魯の元に身を寄せて、劉璋への援軍として劉備軍と戦い、張飛と一騎打ちをしているが、これは演義の創作である。この時に馬超は孔明の策によって、玄徳軍に降り、劉璋を脅し、劉璋は援軍が来ない事を悟り、降伏したと記してある。

その後、馬超は五虎大将軍に任じられているが、蜀に身を寄せてからの馬超は精彩を欠き、西涼の錦と言われた力は発揮出来なかった。

他に、劉禅即位後に魏の司馬懿の進言で曹丕が五つの道を使い蜀を攻めようとしたとき、その一つ、北から攻めるはずだった羌族は守備する馬超を恐れ、攻め込まなかったという話があり、史実より延命したことになっている。北伐の際、諸葛亮が馬超の墓を訪れる場面があることから、演義においてはこのときまでに(南蛮征伐の時期?)死去した設定と思われる。

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/24(木) 15:50:27 ID:q+c4H4C10
左将軍・仮節か。関羽が気にするのも無理はないな。

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/10(日) 02:08:20 ID:kP7/eCGr0
み みんな
みんな殺された・・・
父上っ
休!
鉄!
おおおお
オオオオオ

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/10(日) 10:29:52 ID:GYA/bZ9g0
馬岱「(´・ω・`)」

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/10(日) 10:55:54 ID:D7Yet/CJ0
馬岱って族弟だろ? そんなに血縁濃くないんじゃないか。
とにかく何で彼だけ生き残れたのかも謎だな。
都に出仕せずに馬超と行動を共にしていたってだけか?

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/12(火) 08:14:32 ID:1k4iGbcZ0
生き残れた事そのものより、なんで馬岱が都に行かなかったのかが気になる。

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/12(火) 15:43:11 ID:wzpe1Ndp0
馬岱は馬超のお目付け役なのか、それとも馬岱は素行が悪すぎて都に行かせるわけにはいかないとか
あるいは馬岱は西域の異民族の部族長と関連が強すぎて涼州から離れるわけにはいかなかったとか

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/12(火) 19:14:07 ID:hW/gzq2V0
>>50
素行とかさすがには関係無さそうだし、
最後一行の理由だったら、蜀の北伐時にもっと重用されてそうなんだぜ?

一軍の将兵として組織に組み込まれてたとか、そんな感じなのかな。
軍事に携わらない身内=馬騰と共に都へ
軍事に携わってる身内=馬超の傘下となって槐里に残る

漢中から劉備に降る際、重臣ホウ悳や、妾子供は置いていってるのに
馬岱だけは連れていってるっぽいあたり、
(妾や子供は、距離的に連れてくの無理ってのもありそうだけど)
それなりに親族としての仲は良好だったのかも。

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/17(日) 09:42:41 ID:7/GY3HqO0
馬超って行政官の経験ある?

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/18(月) 02:19:59 ID:LV1eQn7d0
>行政官の経験

徐州刺史の経験が数年と、 地方行政官に近い経験として、馬騰入朝後の独立軍閥の維持が数年と、入蜀後の臨沮の監督(「督臨沮」とあるだけで役職不明)が数年て所かな。

馬騰の下に居る間も、三輔~涼州の住民慰撫や外交的な仕事はしてるだろうけど、そこらへんは想像に拠る所が大きいのでなんとも言えない。
入蜀後は行政に関わってた涼州牧は予約っつーか仮手形みたいなものだろうし経歴ではあっても「経験」では無いので除外。

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/06(木) 18:16:31 ID:T9e1uTli0
韋康を殺したのって失策なんですかね?
敢えて言うなら、刃向かいそうな勢力を根こそぎ削いでおけば良かったんじゃないかって気がするのですが。

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/09(火) 05:04:30 ID:Qm0mCWly0
>>72
潼関後の馬超の再挙兵は、涼州~三輔付近一帯の兵力を吸収しないと どうにもならんので、『刃向かいそうな勢力を根こそぎ削ぐ』は出来ないよ。

出来るだけ穏便に傘下として取り込むのがベターだろうから韋康を殺したのは失策っちゃ失策だけど、殺さなかったら上手くいったかというわけでも無いだろうし、なんともいえないなぁ…

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/30(日) 15:01:22 ID:CPPOvHhb0
皆さんの三国志オススメ小説とか教えてください。

81: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/30(日) 23:14:20 ID:bVbZxynEO
>>79
史実重視には勧めないが北方謙三の三国志。
馬超も斬新(過ぎ)だしこのスレ向きかと
関連記事【三国志】北方謙三の作品を語る【水滸伝】


83: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/02(水) 17:29:31 ID:qWNNd5AOO
確かに北方三國志の馬超は斬新だな
張飛との友情、蜀を去った後も何気に劉備や孔明を気にしてるところが泣かせる

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/01/09(水) 22:18:22 ID:oM+yysxT0
なんつーか呂布が生きてたらこんな感じだったのかなっていう人生だ
けっこう被る所があると思うんだよね

107: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/13(火) 18:16:40 ID:3NfECUYrO
馬超が劉備の下から独立を図るのって「破三国志」だっけか。
史実でも実行してほしかったな。

108: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/13(火) 23:10:40 ID:LBchP3YY0
実行して欲しいけど、やっぱそこに関しては警戒されてたんだろうなー

109: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/25(日) 23:42:47 ID:6DG7upFF0
蜀帝に嫁いだ馬超の娘、子孫はどうなったん

111: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/26(月) 14:04:12 ID:ftwbHUsSO
馬超の娘は307年の永嘉の乱があった時期に殺された。
夫の劉理は病死。後を継いだ子や子孫も早死に。

馬承については不明。


となんかの本で読んだのだが、もっと詳しい人よろしく。

112: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/26(月) 21:07:10 ID:xFWBpcLO0
劉理は244年、劉胤は256年、その子の劉承も翌年没。
それで劉胤の弟の劉輯が継いで、264年(蜀滅亡の翌年)に洛陽に遷る。
劉胤、劉輯が馬氏の子なんぽかはわからん。結構な確立で馬氏の子だとは思うんだけど…。
洛陽に遷ってるから、まぁ、もしかしたら劉姓でも馬氏の血続いてるかもな。
そして劉承死ぬの早い。怪しい…。

113: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/26(月) 21:23:22 ID:xFWBpcLO0
>劉氏で続いてるかも

劉永嘉の乱に巻き込まれて劉玄以外ほとんど死んだのか…。スマソ

127: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/08(日) 13:40:35 ID:psJspNNDO
伝が短いのは関張黄趙と合わせたからかな?
親不孝が陳寿に嫌われたのかな?
他の四人は本人の伝だけで大体つかめるけど、馬超は魏志を読まないと
訳わからないのにな。

128: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/08(日) 20:16:21 ID:Og0Bp5YS0
蜀では影薄かったんじゃないか
馬超は蜀に降ってから一気に精彩欠くし

129: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/09(月) 05:22:09 ID:4gczgy1YO
代わって馬岱が活躍するようになったよね
馬岱もはやく馬超から離れたかったのかもしれん

130: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/09(月) 23:33:38 ID:1d35kJYN0
なんだそりゃ…離れたかったら好機会なのは入蜀前だろう。
馬岱もいい仕事してるのに記述信じられんほど少ないな。
それにしても蜀書は記述量本当に少ない…陳寿は蜀の人なのに。

133: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/10(火) 23:17:42 ID:BkqmcgrI0
>>130
蜀書の量が魏書より少なくなるのは仕方ないっしょ。
ちなみに成都陥落の際に記録書が消失したとかはありえないらしい。
ただ単に蜀にそういう歴史編纂の際に機能するような役職自体がなかったんだ。
それに馬超はまーだ記述には恵まれてる方だぞ…それ以上に少ない人物なんて
いるから…(泣。伝の陳寿総評だってまずまず評価されてるし、贅沢いわないw

165: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/15(火) 21:51:20 ID:/I8xwvK3O
時々ふと「俺なんでこんな人好きなんだろう?」と思うことがある
もう自分でもよーわからんわ

166: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/16(水) 00:01:08 ID:Kh7ac2UN0
馬超は1回好きになるともうとことんな感じがする
全体的に陰惨としてる内容のはずなのにところどころ苛烈で華々しい雰囲気。
芯が折れそうで折れない、妙な不安定さも小説家に好かれそうではある。
正直自分の中の馬超像よう掴みきれないけどな。

167: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/16(水) 07:44:53 ID:YWWGC/ZAO
涼州を守るためには手段を選ばず立ち回るも、最終的には家族も土地も失って自分の名声しか残らず、最後にあの遺書から滲み出るもはや廃人状態の様な虚無感
こんなはずでは、と思っている馬超にとって、「親不孝者」という言葉はさぞ耳が痛かったんじゃないだろうか


179: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/14(木) 15:12:49 ID:Y1dhmRKg0
結局、馬超って何で父親兄弟が都に居るのに反乱起こしたの?
あと演義読んだ後に正史読んだ人ってかなり馬超に衝撃受けたと思うんだけど

186: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/16(土) 05:44:51 ID:V8+DmSzqO
>>179
曹操が漢中に進軍したから(最初の漢中進軍は韓遂連合軍を一気に討伐するため。)

181: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/15(金) 00:13:16 ID:e8jk7DA+0
演義と正史での差って?
家族を殺されたのが先か後かって事くらい?
演義読んだ事ないんだけどさ

182: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/15(金) 00:52:02 ID:mX1AxZh90
家族を殺される理由じゃね?
正史だとほぼ馬超の反乱で殺されるみたいなもんだし

183: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/15(金) 02:59:22 ID:t/u3IdW6O
馬超に関しては正史からだったからなぁ。
家族が死ぬ理由で騒がれるのみてから興味持ったというか。

でも正史も普通に悲劇じゃないんかね。

ハタから見れば正史でも演義でも暗い人だな。
本人がそう思ってたかは知らんが

184: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/15(金) 22:48:51 ID:+n7AO9Jn0
ショックではなかったけど、イメージが大分違うかも。演義と正史

185: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/16(土) 00:12:12 ID:l71F6y9Q0
単純に負け過ぎなのがショック

187: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/17(日) 20:23:16 ID:EyuxSAk/O
しかし勝ち続けてたら馬超のファンにはならなかったな。
負け続け、落ちてってるところがあるから好きだ

192: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/22(金) 09:20:15 ID:rOF9A5V4O
>>187
馬超って正史でも曹操を追い詰めてたっけ?

195: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/19(金) 08:09:41 ID:bBQwY0q/O
>>192
注の「馬児死せずば我葬地なし」の他にも、馬超伝には記載されてないが武帝紀と許チョ伝には211年の戦いで馬超が曹操をあと一歩で討ち取るところだったという記述がある。
これが211年のシ童関の戦いの前半の山場。賈クの離間の計は後半の山場。

188: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/18(月) 01:45:30 ID:m9V6TLuoO
敗走してるわりに評価が高いのはやっぱり戦の内容か。


189: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/19(火) 07:39:02 ID:adrsEVGN0
>>188
あと曹操の評価じゃない?
馬超が生きてたら首がつながってる気がしない みたいなやつ

190: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/19(火) 16:40:20 ID:G3iql+o1O
陳寿の評もまずまず良いしな。
満身創痍だったが、劉備の元で高位について子孫残したし。
早死にしたけど…。

199: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/24(水) 03:04:57 ID:1dtdc0kDO
魏延を斬ってのち歴史から消えた馬岱だけど子孫は四川に存続していたらしい
1400年後の張献忠の乱の時、地元の義民を率いた馬京、馬亭兄弟が馬岱の末裔だという

200: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/24(水) 11:36:56 ID:SmSN3UEC0
これか
http://blog.stnn.cc/StBlogPageMain/Efp_BlogLogKan.aspx?cBlogLog=1000931967
※リンク切れ

黎州宣慰司馬京及弟亭,起兵討賊。初,賊以蜀人易制,惟黎雅間土司難於驟服,
用降人為招誘,鑄金印齎之,易其章。馬京者,漢將馬岱後也

清史稿でも四川の土司の話で黎州土百戸,漢馬岱後とかいってるけどホンマかいな

201: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/29(月) 02:46:12 ID:iWB+Z6aGO
馬家の祭祀託されたしな。
本当に子孫残したならえらいぞ岱

210: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/03(金) 17:58:40 ID:vaalAWLoO
馬超が祭祠託したのは馬岱だけど、実際跡を継いだのは馬承だよな・・・

211: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/03(金) 20:39:37 ID:apjSvz3GO
跡継ぎといっても幼児だしなぁ

212: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/07(火) 11:14:01 ID:loNAixvEO
親と一族が都に行ってるのに何を考えて反乱起こしたんだろ?

214: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/08(水) 13:13:02 ID:7W+VM95l0
曹操が漢中・関中にプレッシャーをかけまくってた以上
人質なんぞ気にしてる余裕はない

一説には馬騰が都で内応する予定だったらしいが
なくはないかなとは思うが微妙なところだね

216: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/09(木) 02:22:26 ID:60u6urxfO
馬騰も軍を国に残して上洛してるあたりなぁ

217: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/09(木) 15:16:48 ID:Bb/4daMIO
馬騰、馬超も軍閥が曹操への牽制になると考えていたんだろうな。
曹操は関中軍閥と一戦交えるだけの覚悟があったことに気付いていなかった。
じりじりと追いつめられた馬超はついに武装蜂起する。
その武装蜂起が曹操の命をおびやかすほどのものだったことが曹操の誤算。

218: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/09(木) 19:51:07 ID:60u6urxfO
そうだね。曹操の動きに応じての行動だから、長安進出後の馬超がそこから更に天下ねらうため進出するかと言われれば、ない と思うし、想像できないというか天下つうビジョンが全くみえない。
普通に自国の領土侵攻に備えての蜂起だよなぁ…。
まぁ、結果はともかく対曹操戦の内容は良かったと思う。

219: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/09(木) 20:55:21 ID:K+9GjC++0
馬超と韓遂は仲間割れしてからも反曹の立場は変わらないし
もう少しなんとかならんかったのかとも思う。
協調性がもう少しあれば……

220: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/09(木) 21:54:55 ID:Bb/4daMIO
お互いに寝首をかかれるのを恐れていたのではないかな。
張既伝では馬超は韓遂に
「私は父を捨てあなたを父とするからあなたも私を子と思い、許都の子は見捨てて欲しい」
と言ってるけど、韓遂からすれば一度父を見捨てた馬超は二度父を見捨てるだろうし、馬超からすれば(誰から見ても)韓遂の経歴はとても信用できるものじゃない。

221: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/09(木) 23:28:10 ID:60u6urxfO
馬超も韓遂も反曹操じゃなく反中央政権という具合で状況も状況、挙兵ってことで一致したんじゃないのかね。個人的な信頼関係とかは…心底では結びつきもあるかもしれんけど、挙兵時の二人にはあんまりピンとこないなぁ。
あくまで表面的な、仕事モードって感じだよ(そんな軽いもんじゃないけど)

222: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/09(木) 23:36:53 ID:zNynKy2h0
大体韓遂は馬超の母ちゃん殺してるわけだし
本心から信頼は出来なかったろうよ

225: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/10(金) 23:24:39 ID:cKZHFdpW0
馬超を半殺しにした閻行も韓遂の部下だしな

226: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/17(金) 03:19:24 ID:czSfkSS3O
閻行は最終的にどうなったんだっけ?

227: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/17(金) 10:26:34 ID:D0J0PP0vO
韓遂に反乱を起こして返り討ち。
更に韓遂が攻めてくるというときに韓遂が亡くなり一命を取り留める。
それっきり何事もなく死んだはず。

234: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/12(水) 03:27:31 ID:VJ/Lz5is0
劉備配下にならなかったら、馬超の評価や印象も随分変わりそうだ。
色んな意味で乱暴過ぎる。

243: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/18(木) 14:05:42 ID:xhlsQxlJO
>>234
馬騰のように粗野な熊男って印象で終わってただろうな

235: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/14(金) 23:28:52 ID:TvkoIMVAO
光栄の三国志5武将ファイルで実吉達郎氏に水滸伝の花和尚魯智深や行者武松に比較されていたな。イケイケの武闘派だね。
演義ではそれでいて張飛のような熊男じゃなくて、美男子だというのが面白い。
馬超は先祖の伏波将軍馬援が絵に描いたような美男子だったということで「錦馬超」になったんだろうな。

236: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/19(水) 12:26:10 ID:husXozjaO
よく騎兵を大量に擁していたように言われるが、実際のところどうだったのだろう?
二世紀の涼州の環境から推測される事実に近い想像なんだろうか。

237: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/19(水) 21:18:22 ID:VGaInXDL0
鍾ヨウがそのあたりの名産である馬を曹操に贈ってるね。

239: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/19(水) 22:21:09 ID:husXozjaO
馬超に同調したテイ族の王の名前は出てくるのに、羌族の人物の名前が出てこないのは羌族が馬超の軍隊の主力に組み込まれていたからだろうか?

240: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/21(金) 23:45:46 ID:h7PwrneJ0
というより馬超自身が羌族の代表格だったのでは?
馬超って羌族の血のほうが濃いんでしょ

241: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/22(土) 08:27:48 ID:+IxQFiR9O
おばあさんだけ羌族。漢族の血の方が濃いよ。

248: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/25(木) 18:53:46 ID:yYz4AGo+O
馬岱は実績からいえば取るに足らない男だが、馬超の遺言から判断するに蜀に降伏してからの敗走後に馬超の軍団、もしくは馬一族の中では重きをなしていたのだろうな。

249: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/26(金) 03:21:11 ID:42vJB5cKO
そうだろうね。まぁ本当に字すらわからない程記述の無い人だから想像するしかないけど…。
馬超の子供は幼児だし馬岱しか。降ってからの馬氏(ってか馬超なんだろうけど)の微妙な立ち位置とか近くにいたならわかってただろうし。

257: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/26(月) 23:11:46 ID:5HNUdvCHO
>>249
馬岱の字は伯瞻(はくせん)だったはず

261: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/28(水) 23:52:58 ID:KkLuBF8B0
確かに扶風県郷土志の巻4・耆旧篇に「馬岱字伯瞻」と書いてあった
ただ、光緒32年刊の郷土志に先立つ嘉慶23年刊の扶風県志に巻11・人物って篇があって
郷土志・耆旧篇と同じように扶風ゆかりの人物の略伝を載せてる
で班固・班超や馬援からはじまる馬氏や耿況以降の耿氏やらを並べる順番はまったく同じ、
字句もほとんど同じで郷土志が県志をコピペしたと推測されるが
県志には馬岱の字は書いてない

県志の撰者が馬岱の字を知りながら敢えて書かなかったか
嘉慶年間にはまだ馬岱の字についての資料がなかったかのどっちかという事だよね
前者なら信ずるに足りないと判断されたように思われるし
後者なら清末にいきなり馬岱の字についての資料が出て来た事になる
「馬岱字伯瞻」てのを積極的に覆すものもないんだが根拠としては弱いだろう

250: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/28(日) 17:09:49 ID:RuWJOjC/O
馬超の遺言で馬岱に跡を継がさせてくれというのは、劉備の遺言の
「君、自らとるべし」
と同じような意味合いがあったんじゃないだろうか。

252: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/10(土) 20:58:46 ID:aksgVCsJO
馬超好きだからこそ思うんだが、楊阜や孔明が言うように韓信、彭越、鯨布のような漢初の超一流
武将と比べられるような才覚の持ち主かな?
楊阜は自分たちを田単と比較しているような人間ではあるが…。
せいぜいが中国史には腐るほどいる田舎軍閥の親分で、自称征西将軍。
袁術のように皇帝を僭称したわけでもない。
取り柄は戦争だけ。そこそこ強いとはいえ、件の三人ほどじゃない。
劉備政権下では五虎将の中でもずば抜けた実力(蜀将としての実績はともかく)の持ち主であった
ことは確かだが。

253: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/15(木) 05:02:41 ID:j5Rrl83xO
それらの人物を例に挙げたのは、馬超の武勇に関してじゃないのか?

254: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/18(日) 10:27:20 ID:6leef8NJO
関羽は自らの武勇を頼んでしばしば兵を失った。馬超も猪武者みたいに思われがちだが、戦機を
見抜くことに長けていて勝てる戦争しかしなかった(なのに最終的には負けた…)。
残念なのは本人の能力は突出していたのに股肱の臣がいなかったこと。
劉備はどんなに落ちぶれても関羽、張飛、趙雲、簡ヨウ、孫乾、糜竺、糜芳がついてきた。
馬超はホウ徳に途中で見限られてしまう。
呉蘭、雷銅が実は元から馬超配下だったとしても馬岱と同じく戦争に負けたというエピソードしか
残っていない人物。
やはり器の違いというものだろうか。

256: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/26(月) 20:13:32 ID:n/lG5Z/zO
梁興のシ童関の戦いでの行動は馬超の戦略にかなっている。
最後まで抵抗していたこともあるし、かなりの程度馬超と気脈を通じていたと見るべきだろうね。

後に馬超に背いた梁寛とは血縁関係があったのだろうか。

260: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/28(水) 21:36:11 ID:bw6r/GP6O
なんか三戦板に「馬超は何故父親を殺したのか」っつー
スレ立ってた。未だにループネタでスレ立つとはな。

262: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/29(木) 00:07:31 ID:iB0XYZIj0
>>260
馬騰は韓遂が殺したようなもんだと思うがね
韓遂の経歴見ると自分がサブになって御輿盛り上げる手法をとり続けてるわけだけど馬超の場合もそれだろ?

265: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/29(木) 12:26:50 ID:vsVuu4luO
>>262
武装蜂起を持ちかけたのは馬超だよ。
「もう東の人間は信用できません。私は父を捨てあなたを父とするのであなたも子を見殺しにして私を子としてください」
張既伝か鐘ヨウ伝の注釈にこうあったはず。

267: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/29(木) 22:00:10 ID:7QzvkveD0
「天下を為す者家を顧みず」という言葉がある
項伯が劉邦について人質作戦が無意味だと項羽に語った言葉

徐州に父がいても陶謙と戦った曹操と同じで、天下を争う覚悟の者は親でも捨てる

268: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/29(木) 23:00:46 ID:5SNvsbO0O
いや、さすがに自分が挙兵すれば
都にいる家族がどうなるかぐらい馬超だって分かってただろう

276: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/02/09(月) 06:01:07 ID:82EmOfQeO
天下を争う覚悟のある者というけど、馬超にその気持ちはあったのかな?
自分の家庭は涼州にあるんだし、後ろに敵が迫ってきたら守るのは当然で天下統一とかには、どうでもよさそう

278: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/02/09(月) 12:22:23 ID:DNM9eQeiO
>>276
涼州を曹操と争うということは天下の争いに参加することだよ。
馬超にその意識がなかったとしても結果としてそうなる。
曹操(丞相)にとっての天地は中華、馬超(征西将軍)にとっての天地は
涼州及びヨウ州というのは正に二人の器の差を表しているね。


引用元: ・錦馬超を語るスレ 8代目


馬超 曹操を二度追い詰めた豪将 PHP文庫
PHP研究所 (2016-04-29)
売り上げランキング: 152,780