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3: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:09:50.00
保元の乱もし崇徳上皇側が勝利していたらどうなっていたんだろうか?
少なくとも後白河法皇を四国に追い出すマネはしないと思うから日本を今後数百年呪縛する呪いは発生しないと思うのだが

30: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:17.00
>>3
そもそも崇徳上皇が勝つという設定があり得ないのでは?
保元の乱は信西が頼長や崇徳上皇を計画的にハメた陰謀だから、崇徳上皇側は訳わからない間に敗者になってたわけで。

32: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:19.00
>>30
崇徳天皇に政治への野望がなかったかどうかは分からないよ
重仁親王の立太子にあれほど賭けていたのだから父鳥羽上皇さえ死ねば無能な弟後白河に代わって自分が治天の君に担がれたい期待は多少はあったろう
結果として後白河が勝ち崇徳が負けたという事実だけがある


7: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:09:54.00
天皇は誰が即位したかな?
武士は脳筋しか残って無いから、頼長中心の政治かもね。
でも治安悪そう

8: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:09:55.00
そりゃ重ちゃん即位で崇徳上皇の院政開始できまりでしょ。
11: 日本@名無史さん 
為朝さんが勝った場合戦後どう動くかだね。 頼長とは対立しそうな気はする。 美福門院得子は島流しだろうから、 宮中の女性関係も大幅に変わりそう、

14: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:01.00
後、美福門院が権勢を失うことはかなり重要かも

後白河法皇が鳥羽上皇ほど権勢を手にすることができなかった理由に美福門院が鳥羽上皇から上皇の所領する王家荘園のかなりの部分を受け継いでいて天皇の実子である後白河法皇がそれに手を付けることができなかったためだし

崇徳上皇側が勝てば彼女が持つ鳥羽院領と美福門院領を奪うことができたから後の南北朝まで影響を与える王家荘園の分離が起きなかった事になる。

24: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:11.00
家盛が生きていたらどうなっていたでしょうか?
平家も分裂ですよね。

25: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:12.00
>>24
家盛、頼盛は崇徳上皇方だっただろうね。少なくとも頼盛という不平分子がいなかった分、平家はさらに安定していただろう。

31: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:18.00
為朝の夜討ちが成功していたら?

33: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:20.00
>>31
「夜討ちの成功」とはこの場合、後白河天皇の身柄確保か信西の逮捕又は殺害だが、多分それができる程の兵力がなかったのだろう。
上皇方は天皇方の夜討ちで警戒していたにもかかわらず防戦できなかったことから寡兵なのがわかる。
だからこそ頼長は南都からの僧兵の到着をまっていた。

為朝は小戦闘では勝利するだろうが戦略的な勝利はおさめられないだろうと頼長は踏んで夜討ち拒絶したのだろうし、その判断は妥当だと思う。

35: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:22.00
平安時代は(織田信長のちょっと前までそうだけど)主力は知行地に置いてあるから、首都で戦闘する場合は準備のいい方が勝つ。
そういう意味で上皇側は乱を起こすには準備悪すぎるし、天皇側は逆に良すぎる。

36: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:23.00
なんか頼長贔屓が増えたせいか忠通が無能扱いされるのをよく見かけるな

37: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:24.00
あの異母弟にとりあえず勝ってるし
無能なわけがないと結構マジで思う
39: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 
>>36
あのまま忠通に男子が生まれず頼長が摂関を継いでいたら頼長もそれなりに功績が残せただろ
結果的に忠通の運が強く頼長死亡忠通は念願かなって晩年に作った息子を摂関の座に据えることができた
忠通の子慈円は「愚管抄」で父賛美
これが一次史料とされているため忠通有能説が出る
41: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:28.00
性格に問題があって~とか書いているのも慈円だが
よく言われる日本一の大学生、とか書いてるのも慈円じゃなかったか
親父と対立はしたが一応叔父だし
褒めれる所は褒めとくか、みたいな

42: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:29.00
>>41
>コノ頼長ノ公。日本第一大学生。和漢ノ才ニトミテ。ハラアシク
>ヨロヅニキハドキ人ナリケルガ。


慈円は頼長を、和漢の才能こそあったが、腹黒く、やることすべてが危うい人であった
(とても摂関の器ではなかった)と大批判してるよ。
忠通は「カレ(頼長)君ノ御ウシロミニナリ候テハ天下ノ損ジ候ヌベシ」と主張、
とにかく頼長が父忠通と対立する摂関候補であったことが許せなかった様子。

43: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:30.00
>>42
なるほどね

人物評はどこまで信じていいのか難しい

46: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:33.00
慈円は頼長と、直接話したことはないだろう。
ならば、
「日本一の大学生」てのは、慈円による頼長の評価ではなく、
「なんとなく、皆がそう言ってた」という程度のこと。

47: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:34.00
慈円自身が対立したわけではないしなー
なんだかんだで身内だし
まあ人物の肯定的評価はよっぽど大袈裟なものでない限り受け入れる派だけど

48: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:35.00
異母兄や甥をディスった時の酷さに比べれば、頼長はまだ好意的に書いているぞ>慈円

52: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:39.00
>>48
会ったこともない叔父藤原頼長のことより、慈円が実際に対立した異母兄たちのほうが
書く際に熱が入るのは当たり前。

51: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:38.00
慈円が自分が12歳の時に死んだ異母兄(近衛基実)を「無能」呼ばわりするのは、良く考えてみればドン引きもの。

52: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:39.00
>>51
慈円には多くの異母兄たちがいたが、共に育った同母兄九条兼実と特に親しく、常に九条家に出入り。
兼実の子九条良経は慈円の和歌の弟子であり、九条家は大いに慈円の活動を援助していた。
良経早世後、慈円は道家や立子といった良経の遺児たちの後見を積極的にみている。
何が言いたいのかというと、慈円は同母兄の系統九条家の身内同然だったということ。
九条家が嫡流であることを世に知らしめたく、異母兄たちを貶めた。
承久の乱の際にも、九条家を外戚とする仲恭天皇の即位により天下はめでたく泰平になろうとしているので乱を起こすべきではないと後鳥羽院に相対する内容のことを愚管抄で書いているのは有名。

53: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:40.00
>>51
じゃあ何百年も前の歴史上の人物をにわか知識で無能無能と散々にけなす一部の歴オタたちは・・・・・もっとすごいな

54: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:41.00
>>53
(俺も含めて)当然だ。

57: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:44.00
よくわからないことがあるから教えて下さい。

平時の乱って25日に二条天皇が六波羅行幸した段階で既に勝負は決まっていたのに大儀も無くし、戦力に乏しく、敗色濃厚を悟った身内の裏切りにもあい、勝算が限りなく無いに等しい義朝があえて六波羅に突撃したのは何か理由があるのでしょうか?

あの段階で東国に落ち延びていればあんな無様な最期も迎えずいつの日にか再起を期す日も来ただろうに・・・と思うのですが。

58: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:45.00
>>57
平治物語では、義平が、
天皇は六波羅へ上皇は仁和寺に逃げたと報告するのに対して、
義朝は、
「とはいえ源氏のならいとして、心変りはもってのほかだ。」
と答えてる。臨機応変の対応ができない人だったのだろうか?(w

59: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:46.00
>>58
軍記物は所詮物語だから。
義朝は保元の乱で一族のめぼしいところを斬られてしまった。
中央政界に源氏は自分しかいないんだから、落ちて再起は無理だと踏んだと思う。

60: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:47.00
>>57
あの時点ですでに東国までは逃げ切れないと思ったんじゃないかな。
逃げるなら最後に派手に戦ってからにしようと思ったとか。
やっぱり逃げ切れずにつかまり晒し首になったが。

63: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:50.00
>>57
六波羅奇襲して天皇を奪い返そうとして失敗したのでは?
普通、そう考えると思うが。

62: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:49.00
義朝は保元で一族を失い過ぎたからね。保元で心ならず敵味方に分かれてしまったからね。

一族の不平分子を悉く上皇方につくよう仕向け、にも関わらず頼盛の処分に失敗した 清盛とは逆の意味で対象的。

63: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:50.00
>>62
そこまで清盛と頼盛とは仲悪くないだろう?
清盛死後に平家は池殿と小松家と宗家とに分裂するが、そこまでは清盛のあづかり知らぬこと。

64: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:51.00
>>63
頼盛の立場は重盛と同じく、院近臣としての立場を重視するものだったから、清盛と後白河の対立が無ければ、このまま平穏に行ったんじゃないの?

65: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:52.00
清盛と頼盛って極めつけに仲が悪いよ。理由だが、清盛が側室の長男なのに対し、家盛、頼盛は正室の弟だからね(このパターンで御家騒動が起きるのは黄金パターン)。
家盛は既に死んでいたから、清盛の敵対 勢力は頼盛、忠正、家弘だった。清盛はこの3者を結びつけ、上皇とともに葬ろうとしたが、頼盛が載らなかったので、結局不平分子として残った。

ちなみに、池禅尼の嘆願で頼朝を助けることも、絶対にあり得ない。不仲の義母の言うことなど、聞く必要など欠片もない。単に義朝が大した役割ではなく、頼朝が死罪に値しなかったという理由だろう。

66: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:53.00
>>65
頼朝の流罪を決定したのは、朝廷

助命するだけでなく、よりよって亡父の勢力圏の近くにさりげなく置いておく(w

67: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:54.00
確かに言える。何故よりによって東国に流した?

77: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:04.00
>>67
伊豆は平時忠の知行国で、地勢的には国が小さくて海に囲まれた土地なので、そういう意味では監視しやすいと考えたのかも。
あと西国にはこの頃保元の乱の関係者が配流されていた(讃岐に崇徳院、土佐に藤原師長)のと、頼朝にとって叔父に当たる源為朝が九州で合戦を繰り返してた過去があることを考慮したのかも。

78: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:05.00
>>77
平時忠は監視者として信頼に足りる男だろうか?

頼朝は、義朝の嫡男であり、平治の乱にも実際に参戦していた。
決して、甘く扱うべき者ではなかったはずだ。

弟の希義が土佐なら、頼朝は佐渡とか隠岐あたりが適当ではなかっただろうか?
しかし、いずれにしても配流先を決めたのは、清盛じゃなくて朝廷でしょう。

68: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:10:55.00
朝廷が何かの時に役立つと踏んであえて力を温存させてたとか?
義朝が何かの時にお役にたつので子孫の息の根をとめないでくれと朝廷に頼んだとか・・・
以仁王の令旨など最たるもの。 
源氏が瀕死の状態だったのならば令旨出しても誰も来てくれない。

79: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:06.00
監視し易いにしては北条の娘に伊東の娘と好き放題してるじゃね。

83: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:10.00
為義が棟梁だったのかどうか自体疑われている。幕府を開いた頼朝が嫡流である事になるように、遡って棟梁だった事にされていると。

『源義親の四男として生まれる。 『尊卑分脈』の為義傍注によれば、父の義親が西国で乱行を起こしたため、祖父・源義家は四男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。』
何故義忠の実子が継嗣じゃないのか?変な話である。

84: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:11.00
>>83
>孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。

義家は、為義を引きとって育てていたらしい。溺愛で目がくらんでいたのでは?

また、義忠が暗殺されたとき、嫡男の経国がまだ幼かったからだとも考えられる。

85: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:12.00
>>84
wikipediaによると義家が死んだのは1106年で義忠は1109年。
そもそも義忠を暗殺したのは義家の弟の義光で、義家亡き後の実権を握るのが目的だ。
尊卑分脈の記事を信じるならば義家が為義を継嗣と定めたのは義忠の暗殺より前で経国の立場を考えない不自然な行為。
義忠暗殺の時点で経国が幼少故に為義が実力で奪ったならあり得る。

86: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:13.00
為義の「為」って誰からもらったの?
偉い人?

87: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:14.00
それも不思議。兄弟は義信、義俊、義泰、為義、義行、宗清で為義と宗清だけ仲間外れ。保元の乱/
平治の乱も他の兄弟は為義と行動を共にしていない。
『角田文衛は、義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は庶子だったのではないかと推測している』という話も有る。

91: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:18.00
>>85>>87を総合すると、こういうことじゃないかな?
経国が成人後に義忠が死んだのなら、嫡男の経国が家督を継げたはずだ。
しかし義忠死亡時に、幼かった(たぶん10歳未満?)のではずされた。
それで、もとの義家の嫡男の義親の子に戻すとすると誰が適当か?
義親の嫡男の義信は、(為義が14だとすると)明らかに20を越えていてどこから見ても後継にふさわしい。
なぜ彼が家督を継げなかったのか?
そのとき、京都にいなかったのかもしれないが、それよりも、義光にとって都合が悪かったと考えられる。
一人前の大人の義信だと、源氏の実権を奪えない。
そこで、ちょっと頭の悪そうな為義を立て、義綱を討伐させる。
朝廷から為義に官位が与えられて、源氏の後継として確定したあたりで、義光は、義忠暗殺野の犯行がばれて東国へ逃亡。
その後、義家の遺言の話が後付ででっちあげられた。

92: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:19.00
1084年 義忠生まれる(母は藤原有綱女)
1091年 義国生まれる(母は藤原有綱女)
1096年 為義生まれる(母は藤原有綱女?)
1102年 義親配流される
1106年 義家没す
1108年 義親討たれる(子に対馬太郎義信・対馬次郎義俊・対馬三郎義泰・陸奥四郎為義・宗清・対馬四郎義行)
1109年 義忠討たれる(子に河内源太経国・義高・飯富源太忠宗・義清・義雄)
1109年 義明ら為義に討たれる
1114年 為義・義国が相論

95: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:22.00
>>92
その3人が同じ母親ってことは、
義親、まさか父親の女に手を出して、為義を種付けしたのか?www

>1114年 為義・義国が相論
何を論じ合ったのかな?

96: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:11:23.00
>>95
上野で国司に濫妨を訴えられた家綱という武士について
為義・義国双方が自分の郎党じゃないと責任逃れした

頼朝って義朝の嫡男なの?
義朝って為義の嫡男なの?
為義って義親の男子なの?
義国って義家の三男なの?っていう

引用元: ・【貴族】保元・平治・治承の動乱【没落】



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