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1: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 2000/12/02(土) 23:36
戦国大名里見氏について、なんでもいいから語りましょう。









13: 日本@名無史さん 2000/12/05(火) 03:08
確か、土岐氏の分家も配下にいたよね。
土岐為頼とか。
どんな流れで美濃から房総まで来たんだろう?

里見に関係ないけど、伊達家臣の大内定綱も中国地方の大内氏の流れらしい。
よくあることといえばそうだけど、意外なやつが意外なやつの分家だったりする。

16: 日本@名無史さん 2000/12/05(火) 07:23
土岐頼房は攝津(美濃説あり)出身の流浪の武者であったが里見義実が安西氏の食客となって安房に落ちてきた折、その同輩であった。安西氏は義実を篤く用い安房を席巻したが、次第に義実を疎むようになり暗殺を計画した。義実はそれを知り、安西氏の平松館を急襲、安房を制圧。その後、義実は真里谷と戦端をひらき、上総に侵攻。
これらの戦いで先陣を担ったのが土岐頼房であった。頼房は上総夷隅郡に万喜城を築き、家督を嫡男為頼に譲った。弾正為頼、そのこ右京大夫頼春も優れた武将で、北条氏に属し里見氏と戦った際にも、負け知らずであったという。

のちに本多忠勝がこの地に封入された折この土岐一族の武功を大いに賞賛し土岐は謙信、信玄に少しも劣らぬ名将だ、と云って家臣たちの手本にさせたという。

18: 国際プロレス 2000/12/05(火) 13:09
>>16
前期里見氏についても、最近研究が進んでいます。従来、里見義実が結城合戦に敗れて、三浦半島に落ちのび、海を渡り安房に渡ったといわれていましたが、実はこの話は全くのデタラメで、里見が安房に来たのはこれよりも15年ほど後の享徳の大乱と密接な関係があるのです。
この大乱で足利と上杉が対立した時、里見は足利方として参陣しました。当時の安房は上杉が白浜を中心に支配しており、足利が安房の上杉の支配を排除するために里見を送り込んだというのが真相です。となると土岐氏との関係についても改めて考え直す必要が出てくると思います。

3: 松戸市民 2000/12/03(日) 08:10
国府台の合戦(第二次)ですかね~。
あれに勝ってればねぇ~・・・・・。

里見義堯

永禄7年(1564年)、北条方の太田康資の内通に応じて、義堯は義弘と共に敵対する千葉氏の重臣高城胤吉の勢力圏にあった下総の国府台に侵攻し、北条軍を迎え撃った。緒戦では北条方の遠山綱景・富永直勝を討ち取るものの、一時の勝利に酔いしれて油断をした里見軍は、翌明け方、氏康の奇襲と北条綱成との挟撃を受け、重臣正木信茂が討死するなどの大敗を喫した(第二次国府台合戦)。

この敗戦により義堯・義弘父子は上総の大半を失い安房に退却し、里見氏の勢力は一時的に衰退することとなる。しかし、その後は義弘を中心として里見氏は安房で力を養い、徐々に上総南部を奪回し、永禄9年(1566年)末頃までには久留里城・佐貫城などの失地は回復していた。


12: 国際プロレス 2000/12/03(日) 23:12
>3
国府台合戦って、実は3回あったんですよ。天文6年、永禄6年、永禄7年。
詳しくは原田正紀氏が「戦国史研究」8号で「永禄6年国府台合戦の発掘-西原文書の再検討-」という論文を書いています。

5: 与六 2000/12/03(日) 18:58
対北条戦にあれだけの執念を見せながら、小田原の役にはなぜか遅参。秀吉の不興を買い安房一国のみ安堵。やっぱ人形劇の印象が強すぎるな。我こそがたまずさが怨霊。怖かったよ。

10: 名無しさん@そうだ選挙にいこう 2000/12/03(日) 22:53
>>5
里見義康が遅刻をしたというのは全く根拠のないことです。
里見より遅くれてきた大名の方が多いいくらいです。ではなぜ上総国を没収されたかというと、里見は北条の領国に制札や禁制を出し、これが豊臣秀吉の出した大名同士の争いを禁じた惣無事令に違反したとして、上総を取り上げられたというのが真相です。詳しいことは、市村高男氏が「千葉県史研究」という雑誌の第2号に「豊臣政権と房総-里見分国上総没収をめぐって-」という論文を書いています。

50: 国際プロレス 2000/12/10(日) 10:49
>>5
里見義康は鎌倉公方の復活を目論んでいたみたいですね。天正18年、相模国に出した禁制には、鎌倉公方を再興するために行動しているんだというような事が書かれています。この義康の考え方が豊臣秀吉に認められるはずもなく、惣無事令違反を問われて上総国を没収される悲惨な結果に終わったわけですよね。(くどいようだが遅刻したわけではない。)

ただ天正15年10月の段階で、里見義頼は秀吉に使者を送っており、中央の動きに全く無関心でもなかったみたいですね。

19: 日本@名無史さん 2000/12/05(火) 13:52
政治に疎い大名は秀吉につぶされちゃうんだよね。
島津、佐竹、伊達はさすがに名家で外交というものを知っていたので生き残ったね。
里見、長曾我部なんてほとんどつぶされたも同然だった。南部もやばかったね。
僻地にいる大名は情報を有効に使えないとね。

49: 与六 2000/12/09(土) 15:08
太田資正に、秀吉へのとりなし頼まなかったかな?蘆名を滅亡させた政宗には、あのパフォーマンスが史実だとしても寛大な処置だったのに、本当にもったいない。あっ猿は最初から上総を取り上げて、関東に家康を押し込める気だったんだ。

51: 国際プロレス 2000/12/10(日) 11:05
>>49 
里見と秀吉の取次ぎは増田長盛が行っていました。惣無事令違反に問われている以上、安房国まで没収されたとしても文句は言えないはずで、安房が残っただけでも、むしろ上出来ではないでしょうか?

53: 与六 2000/12/10(日) 14:15
政宗にしろ仙石秀久しろ大げさな演出をすると、秀吉は直に許すことがあるから、里見も何かやってみれば良かったのに。地震加藤も清正が駆け付けたから生まれたエピソードでしょ。

25: 日本@名無史さん 2000/12/06(水) 00:22
里見は秀吉によって取り潰されたのですか?

27: 国際プロレス 2000/12/06(水) 13:43
>>25
上総国を取り上げられただけで、安房国は安堵されました。里見は江戸時代の始め、跡継ぎがいなくて滅びました。

31: 里見氏(清和源氏新田氏流) 2000/12/06(水) 19:38
里見氏は清和源氏新田氏流であるが、新田義重の三男義俊の後裔であることから、大新田氏流といわれている。義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み、はじめて里見氏を称した。
しかし、戦国大名としての里見氏といえば、ふつう安房の里見氏のことをさすので、安房にはじめて住むようになった義実を安房里見氏の祖とされている。
 
安房移住のきっかけは、里見家基が足利持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して足利義教に敵対し、嘉吉元年に戦死。子義実は城を逃れて相模の三浦から海上を安房の白浜に渡り、その地の諸豪族の抗争に乗じて、ついに白浜城を本拠とする安房一国の支配者に成長したのである。しかしその後、一族内で家督を争う抗争が繰り広げられた。実堯の子義堯が義豊を討ち、安房・上総を掌握することになった。里見氏の全盛期はこの義堯とその子義弘の時代であった。
 
里見氏は後北条氏と敵対関係にあって、義堯は足利義明と結んで国府台で北条氏綱と戦い、敗れている。また、義弘は上杉謙信と同盟して後北条氏と対決、謙信の小田原攻めに際しては援軍を送っているほどだ。
 
永禄七年の北条氏康と戦った、第二次国府台合戦も里見氏の敗北となり、義弘は上総久留里に退くことになった。その後も後北条氏と敵対し続けたが、後北条氏に圧迫されて上総南部と安房に大名領国制を展開するだけであった。秀吉の小田原征伐には、上総の奪回に手間どり小田原参陣に遅れ、上総を没収されてしまった。のち、家康に属し、関ヶ原合戦後加増されている。

33: 国際プロレス 2000/12/06(水) 23:39
>>31
水を差すようでもうしわけないんですけど、里見が安房にきた事と、結城合戦は全くの無関係です。里見は享徳の乱の時、足利氏が安房の上杉氏を牽制するために送り込んだというのが真相なんです。ですから里見は別に落ち武者ではないし、三浦氏のお世話になっていたわけでもないんです。あと秀吉の小田原征伐でも里見は遅刻をした訳ではないんですよ。里見は北条の領国に制札や禁制を発給し、これが秀吉の出した、大名同士の私戦を禁止した惣無事令に反したとして、上総を没収されたというのが真相なんです。現に里見は他の関東や東北の大名のなかでも比較的早く小田原に参陣しています。

39: はるな町のひと 2000/12/08(金) 15:07
群馬県群馬郡榛名町里見の出だと聞いたのですが、マジでしょうか?
里見には、今でも"中里見"という姓の人が沢山います。
歴史オンチなオイラに、どうかご教授を。

40: 国際プロレス 2000/12/08(金) 22:28
>>39
マジです。平安時代の終わりから鎌倉時代の始めにかけて、里見義俊が里見郷(群馬郡榛名町の上里見・中里見・下里見)を中心に活躍していました。詳しいことは千葉県館山市の館山市立博物館が発行している『さとみ物語』を読んでみたらいいと思います。

41: 与六 2000/12/08(金) 22:36
滝沢馬琴はどうして南総里見八犬伝で、里見義実の名を出したのかな?たまたま、偶然。

47: 国際プロレス 2000/12/08(金) 23:11
>>41
滝沢馬琴は千葉には一度も着ていないのに、なぜ里見を題材にしたのかは全く不明です。ただ千葉経済大学の川名登氏は、里見は江戸初期に滅び、史料もあまり残さなかったので、脚色しやすかったのではないか、というような事を言っています。

60: 日本@名無史さん 2001/01/02(火) 17:33
里見公園の土地って里見氏の城かなんかあったの?

62: 国際プロレス 2001/01/02(火) 20:04
>>60
市川市の里見公園には、国府台城がありました。また、この辺りで、里見氏と北条氏が最低でも2回、合戦をしています。


59: 国際プロレス 2001/01/01(月) 20:04
里見氏研究で最近、明らかになったこと。その1

里見氏が安房国に来たことと、結城合戦は全く無関係。全く関係ナシ!!
享徳の大乱の時に足利氏が、安房国の上杉氏を牽制するために里見氏を送り込んだというのが史実である。

66: 国際プロレス 2001/01/06(土) 11:02
里見氏研究で最近、明らかになったこと。その2

2代目当主と言われてきた、里見義成(里見成義)だが、実は実在しない架空の人物であることが判明。

69: 日本@名無史さん 2001/01/12(金) 17:10
>>66
というと
義実-義通=義尭
となるの?

70: 国際プロレス 2001/01/12(金) 23:22
>>69
義実-義通-義豊-義尭
このように考えるのが、最新の研究成果です。
義成(成義)は実在しない架空の人物。
実尭は里見家の有力者だが、当主ではないです。

76: 日本@名無史さん 2001/01/23(火) 16:04
>>70
すると義尭は義豊の子供なの?

78: 国際プロレス 2001/01/23(火) 20:30
>>76
義尭は実尭の子供。
里見家当主の義豊が、不穏な動きをした叔父さんの実尭を暗殺しました。
その後、実尭の息子、義尭がお父さんの仇である義豊を討って、新しい当主になりました。この考え方が最新の成果です。つまり従来言われてきた義豊が家督を譲らない、実尭を不満に思い稲村城を攻撃したというのは全くのデタラメ。当主の義豊が実尭を稲村城に呼びつけて暗殺したんですよ。

67: 国際プロレス 2001/01/10(水) 21:47
里見氏研究で最近、明らかになったこと。その3

里見実尭は、里見家の当主ではありません。従来は4代目の当主と言われていましたが、これは大きな誤りです。

74: 日本@名無史さん 2001/01/19(金) 11:55
里見氏に関するHPより
http://www.asahi-net.or.jp/~yu9t-skrd/satomi/index.htm

里見成義さとみしげよし
(1448~1505)
里見家第二代。里見義実の長男。「成」の字は古河公方足利成氏からの一字拝領といわれる。軍記などによれば、南上総に版図を拡大したという。軍記がいう里見家十代のうち、実在が最も疑問視されている。永正二(1505年)4月15日病没。慰月院殿大幢勝公居士。

里見實堯さとみさねたか
(1483~1533)
里見家第四代。里見成義の次男。義通の死後、里見家の事実上の当主として政治を行った。足利義明に属し、その命により鎌倉を攻撃して北条軍を破る。その際に鶴岡八幡宮の社殿が全焼するが、出火の原因ははっきりしない。
1533年7月、甥の里見義豊に居城・稲村城を急襲されて自害。

79: 日本@名無史さん 2001/01/24(水) 16:39
八犬士のもとになった人たちの名前を教えて。
板倉昌察って入っているの?

80: 国際プロレス 2001/01/24(水) 23:22
>>79
里見忠義が死亡した時、板倉牛洗斎を始め何人かが殉死しています。
他の人の名前は分かりませんが、彼らが八犬士のモデルらしいです。
堀村の屋敷跡には殉死した家臣が六人塚として祀られています。
倉吉の大岳院の忠義の墓所には八人の殉死者が葬られ、位牌では七人が殉死したとされています。

90: 国際プロレス 2001/02/16(金) 23:31
里見氏研究で最近、明らかになったこと。その4

足利義明が小弓に来る前、東北にいたというのは、全くのデタラメ!!
小弓に来る前は、下総国高柳にいました。
しかも小弓に来た日付けは、永正14年10月ではなく、永正15年7月が正しい。

102: 日本@名無史さん 2001/02/26(月) 13:34
義成の発給文書と考えられていたものは、土岐氏最後の当主のものらしいというのは本当ですか?

103: 制服向上委員会 2001/02/27(火) 13:43
>>102
そのようです。
高野山西門院の義成書状には「土岐山城守義成書状」という付箋が貼ってある。
西門院に上総国の領主名を記した過去帳があり、土岐義成の名前が見える。
花押の形は戦国時代末期に流行した形。
そもそも里見義成は実在しない架空の人物。

ただ研究者の中には、土岐義成ではなく、里見義成が出した古文書だと言い張っている人が約1名いるにはいます。

112: 日本@名無史さん 2001/03/12(月) 11:11
>>103
「高野山西門院の義成書状」が、今まで里見義成の文書とされていたのに土岐義成の文書とされるのはなぜですか?義成と右京大夫頼春との関係は?
最後の当主は頼春だとおもいましたが。

117: 制服向上委員会 2001/03/13(火) 23:29
>>112
前期里見氏の歴史は、今まであまりにも謎に包まれていて、そのために義成という人物の文書を単純に里見義成ではないか?と連想してしまう部分があっても仕方がなかったのではないでしょうか?
ただ、ここ数年の間に里見氏研究が急速に進んだ結果、里見義成がほぼ架空の人物であることが証明され、さらに103でまとめた理由等により、土岐義成の古文書と解釈するほうが妥当ではないかと思います。

118: 制服向上委員会 2001/03/13(火) 23:57
>>112
土岐氏の系図はいくつかあり、戦国時代末は、

為頼-義成(高野山過去帳等)

為頼-頼春(海雄寺土岐系図等)

頼定-頼春(光福寺記録等)

こんな感じです。あるいは頼春と義成は同一人物かもしれません。
これ以上の事は、私の能力では説明できません。あしからず。

107: 制服向上委員会 2001/03/06(火) 23:24
里見氏研究で最近、明らかになったこと。その5

国府台合戦は、今まで天文6年と永禄6年の2回と言われてきたが、実は、天文6年と永禄6年と永禄7年の3回であった。

108: 横須賀 2001/03/07(水) 01:38
>107

国府台合戦は有名なわりに資料が少ないので、たいへん貴重な情報ですね。
実際、里見氏は後北条氏に圧迫されて滅亡寸前だったという「幻想」は後世人が勝手に作り上げたものですから、里見氏と後北条氏の合戦も何回もあったんでしょうね。
一番新しい永禄7年の合戦は上杉謙信との共謀によるものでしょうか?

109: 世界@名無史さん 2001/03/07(水) 02:32
>>107
3回とも里見方の敗北ですよね?勝ってたら大事になってたでしょうから。

111: 制服向上委員会 2001/03/11(日) 11:43
>>108>>109
永禄6年末に上杉謙信が、里見氏に対し下総に出陣するよう求めているので(妙本寺文書)、永禄7年正月の合戦に上杉氏が関与している事は間違いないと思います。
北条方の感状や北条が市川の中山法華経寺に駐屯している事からも北条の勝利です。

113: 世界@名無史さん 2001/03/12(月) 11:38
なんで里見氏って北条に勝てなかったのに滅亡せずにすんだのだろうか。
地勢上の問題ですか?


119: 横須賀 2001/03/14(水) 00:10
>113
里見氏は後北条氏の脅威に滅亡寸前だったという考え方が根本的に誤解です。
その理由は、里見氏が意外と(ってこともないか)強大だったから……というより、後北条氏の限界がその程度だったからです。戦国大名はけっして「絶対君主」ではありませんでした。甲斐の武田氏だって信虎の代までは甲斐国内の「国人」との抗争をしている程度した。
これは安芸の毛利氏、薩摩の島津氏も何ら変わりません。つまり、戦国大名は各地の武士が結成した「国人連合」に過ぎなかったということです。

後北条氏も一見強大なようで、実は伊豆~相模~武蔵の地方武士の連合の上に成立していた政権でしかなかったのです。範囲をさらに狭めると、後北条氏の根拠地は伊豆と相模南西部に過ぎませんでした。三浦半島や今の横浜市周辺にはそれほど強い支配を実現できなかったのが現実でした。

にも関わらず、「里見氏は弱く、後北条氏は強い!」という偏見がまかり通っているのは、「信長の野望」や一連の歴史小説がまき散らしている一種の「英雄史観」によるものだと思います。原哲夫の「花の慶次」などもその一種でしょうね(このマンガ自体はけっこう評価してるんですが)。

120: 日本@名無史さん 2001/03/14(水) 00:50
後北条氏は巨大化しすぎて結局、体につられる形で頭の方も鈍くなってしまい、それが滅亡を早めたという印象ですね。
対里見に関しては一挙に滅ぼそうというよりは上杉に同調しない、ちょっかいをかけてこないように痛めつける程度みたいな感じがします。

124: ななちさん 2001/03/17(土) 06:03
里見の武将って正木氏しか有名じゃないの?
土岐とかも上がってるけど、ほかには秋元義久や酒井敏房ってのもいたようだけど、結局裏切ってない?
水軍が強かったんだよね。領土の広さ的には北条とあまり変わらなかったんじゃない?

125: 横須賀 2001/03/17(土) 18:01
>124
有名いかんではなく、正木氏の勢力が異様に大きかったんですよ。ほかに並ぶ者なき、って感じで。里見氏研究の第一人者・川奈登先生は「里見=正木枢軸」なんて表現を使っています。
一応、「安西」とか「神余」なんて被官もいたようですが、正木氏がダントツだったんです。

184: 日本@名無史さん 01/08/30 06:17 ID:bbwXvY5A
里見氏って江戸時代はどうなったんでしたっけ?

185: 日本@名無史さん 01/08/30 18:35 ID:MmSn4ZOo
かなり早い時期に改易されたと聞きました。
詳しい方教えて下さい(大久保氏のとばっちりだったかも・・・)。

186: 日本@名無史さん 01/08/30 20:02 ID:Pr9Z6hCI
そのころの当主里見忠義は、大久保忠隣の孫娘を正室にしていたために、大久保の失脚とともに連座、1614年9月に伯耆倉吉3万石へ減封、その3年後、改易の憂き目に遭った。
その後は池田光政に預けられたが、1622年、29歳で死去。
このとき殉死した8人の近習が、里見八賢士といわれ、里見八犬伝のモデルになったとかならないとか・・・。

うい、概説はこんなもん。あとよろしく~

188: 日本@名無史さん 01/08/31 21:27 ID:/pxz0t6c
おまけ
大久保忠隣の改易は、確か大久保長安の銀の不正蓄財事件がもとだったと思う。
同じ大久保でも長安は武田の家臣だったから血縁関係はないはず。
ともに直参だから主従関係もないと思うので幕閣として責任取らされたと思う。
そう考えると里見氏の改易はなんかとてもかわいそう。
全然もとの事件と関係なさそう。

189: 188 01/08/31 21:35 ID:/pxz0t6c
少し訂正:でも、大久保忠隣の改易は幕府の勢力争いも絡んでそうだから仕方ないのかなあ。
私の先祖が館山の郷士だか侍だったかなので少し興味ある。うちの先祖にもこの事件が影響あったかも。

191: 歴史の勉強 01/08/31 23:12 ID:tUxPc/po
里見氏の改易は、外様大名を遠国に飛ばすという、徳川幕府の政策もあったんじゃないでしょうか?佐竹氏もそうだしね。

徳川氏は新田氏の末裔を称していたから、新田氏の末裔の中で当時最も有力だった里見氏を廃絶に追い込んだという考えも成立しませんか?

193: 日本@名無史さん 01/09/04 13:08 ID:V52ZIjrI
里見讃岐守忠重の実名についておしえて。
忠重の前は義高?義英?
それから忠頼というのは根拠あり?

194: 制服向上委員会 01/09/07 23:33
>>193
里見忠重が実名ですよ。忠重という名前で出した古文書が2点確認されています。
忠重の前の名前はわかりません。
ただ戦前の研究者の大野太平氏は、根拠不明ですが、忠重よりは、義高の方が実名の可能性が高いというようなことを述べています。

195: 日本@名無史さん 01/09/10 12:55
>>194
ありがとう。
重ねて聞きますが、では、義英と忠頼はどうですか?
「忠」の字は、たしか秀忠の一字書き出しの写しかなんかが残っていた気が・・・・

196: 制服向上委員会 01/09/17 23:54
>>195
うろ覚えなんですが、たしか忠重の息子が、「自分の父親は最初は忠頼と名乗り、その後、忠重に改名した。」というようなことを言っていたような気がします。

197: 日本@名無史さん 01/09/18 11:12
>>196
それはたしか酒井家に仕えた子孫が、主君に提出した先祖の書き上げにあったもの。
それは知っています。ただそれ以外に「忠頼」というのがあるのか知りたかったので。

299: 日本@名無史さん 02/07/07 21:59
義弘と義頼の関係は?
親子?兄弟?、、、結論出てるの?

301: 日本@名無史さん 02/07/07 22:13
私はわかりません。
ずっと義弘と義頼は親子だと思っていましたが。
私が知っている系図では、義弘に二人子がいて、一人が義頼、もう一人が正木家に養子にはいった大膳亮というものです。

302: 正木君 02/07/08 00:59
里見義たかの子が、義弘と義頼。義たかが死んだあと義弘の子、梅王丸と争った後家督を継ぐ。義頼の次は、義康。

305: 日本@名無史さん 02/07/08 03:31
私は兄弟だと思ってるんですが、親子の系図も多いんですよね

>正木家に養子にはいった大膳亮というものです。

正木時茂(堯時)のことかな、義頼3男かと

306: 日本@名無史さん 02/07/08 08:01
最近、出版された本や論文を見ると義弘と義頼は親子みたいですね。
ちなみに義頼と梅王丸は異母兄弟だそうです。

315: 日本@名無史さん 02/07/21 00:17
>>306
親子というのが有力ということでしょうか?てか確定なんですかねぇ?
なんで2説あるのかも不思議ですね。

316: 日本@名無史さん 02/07/24 22:43
義尭の子は、義弘と義頼。
義弘は弟の義頼を養子に迎える。
つまり、兄弟であり、親子。
義弘死後、義弘の実子海王丸と養子である義頼の間で、家督継承問題が発生じゃなかったけ?

307: 日本@名無史さん 02/07/08 22:24
里見氏って言っても、家臣は正木家と里見家のみ。この両家の関係について知ってる方教えてください。

312: 日本@名無史さん 02/07/09 07:31
>>307
里見と正木(小田喜)は、主人と家臣というよりは同盟関係に近かったらしいです。
大雑把に言うと、内房正木は里見の家来、小田喜正木は里見の目下の同盟者、勝浦正木は後北条と親しいらしいです。

引用元: ・里見氏について語ろう




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