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1: 日本@名無史さん 04/05/22 20:06
会津より目立たない庄内藩
新選組より目立たない新徴組
南洲神社もあるよ。








3: 日本@名無史さん 04/05/22 20:12
偉人さんもそれなりに輩出してるんだけどね。
清河八郎とか石原莞爾とか大川周明とかウド鈴木とか。

8: 日本@名無史さん 04/05/22 20:28
後、逆立ちしても豪商の本間様の足下にも及ばなかった藩ね。

9: 日本@名無史さん 04/05/22 20:37
>>8
本間って、あの相場の神様の本間か?
マジ?庄内藩だったの?江戸とかじゃなくて。

11: 日本@名無史さん 04/05/22 20:47
>>9
本間光丘の方は「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」
なんて言われておりますな。
所で酒田って庄内藩に入るの?

14: 日本@名無史さん 04/05/22 22:14
南洲神社があることはおかしい。

18: 日本@名無史さん 04/05/23 00:01
実は薩摩藩邸焼き討ちの中心だったりする。

21: 日本@名無史さん 04/05/23 08:09
庄内藩について語って欲しいという哀願も空しく、またもやここでも薩摩の話題に・・・

24: 日本@名無史さん 04/05/23 10:14
酒井玄蕃は最強だったな。
長岡藩あたりと連携してればもしかしたら勝てたかもしれんな。
酒井 了恒

酒井 了恒(さかい のりつね)は、出羽庄内藩家老酒井了明の長男。戊辰戦争において庄内藩二番大隊を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた名将として知られている。


27: 日本@名無史さん 04/05/23 17:54
酒井玄蕃は、新庄でまちかまえる薩摩・長州・新庄藩連合軍を簡単に打ち負かしているな。薩摩長州を信用した新庄秋田藩はえらい迷惑だ。

42: 日本@名無史さん 04/06/08 17:23
庄内藩がスターダムにのし上がるチャンスはなかったのか

48: 日本@名無史さん 04/06/09 23:22
>>42
幕末に清河八郎ぐらいしか輩出してないのでムリポ
藤沢周平に『回天の門』書かせるのが精一杯(名作だが)

49: 日本@名無史さん 04/06/09 23:52
>>48
叩かれない限り黙ってるが、酒井玄蕃の活躍は鬼神級だぞ。河井継之介より目立っておかしく無い筈なんだが。

47: 日本@名無史さん 04/06/09 23:03
庄内藩は東北戦争で、
一番官軍相手に粘った藩だと思う。

50: 日本@名無史さん 04/06/09 23:57
やはり目立たないのは庄内人の奥ゆかしい性格に由来してるのでは?

53: 日本@名無史さん 04/06/10 02:15
庄内藩が佐幕でなく、尊王だったら、清河八郎の悲劇は無かったかも。

56: 日本@名無史さん 04/06/11 21:51
幕末の庄内藩て官軍相手にえらく積極的に戦っているけど、そんなに幕府に恩義感じてたのかな。それとも時勢に疎すぎただけ?

57: 日本@名無史さん 04/06/11 22:24
朝敵指定されたんだからしゃあないやん

69: 日本@名無史さん 04/06/14 02:56
そう言えば明治になってから薩摩と交流し始めて西南戦争にも留学生が参加してたような気が。

72: 日本@名無史さん 04/06/15 18:47
>>69
寧ろ薩摩を攻撃するべきだ。

75: 日本@名無史さん 04/06/16 00:17
>>72
なんも知らんだろ。薩摩は責める時に島津家の人間や兵士が多数死んでるが庄内藩にたいして罪を問わないのよ。結局西郷さんのおかげと思うけど,それをきっかけに薩摩好きに。
これが長州主体の攻撃で西郷さんが居なかったら庄内藩の殿様やらは責任取らされてたよ。

76: 日本@名無史さん 04/06/16 00:23
そこで南洲神社な訳ですよ

87: 日本@名無史さん 04/07/21 12:44
幕末明治を勉強していると言う某有名憲法教授に
「徹底抗戦して意地を見せたのは、城も捨てて戦った長岡と会津の二藩だけですよね」
って言われちゃった。

庄内も大ダメージを受ければインパクトがついたのかな。

102: 日本@名無史さん 04/09/18 09:22:28
>>87
庄内の奮戦は特筆ものだけど、基本的に藩外で戦ったからな。
天童藩・新庄藩・久保田藩を焦土化したけど、南から攻められて、藩境の関川関所を占領された途端に降伏したから、ある意味ヘタレ。仙台藩や米沢藩に比べれば比べ物にもならないけどな。

それにしても、南洲翁も庄内藩に寛大な態度を取るのならば、県庁所在地を山形にしなくてもよかったのに。鶴岡のほうがよっぽど適地だったと思う。まぁ、北海道開拓では、桑園とか円山とか良い場所をあてがわれたけどね。
今となっては札幌の都心だから、勝ち組だよね。

184: 日本@名無史さん 05/01/21 08:14:32
>>102
廃藩置県後の酒田県は、戊辰戦争の大暴れのおかげから、別格扱いで行政のほとんどを旧地元藩士が握って離さないまま黙認された特別扱いの県。でも、薩長政府の意向を無視して好き勝手やって調子に乗りすぎたところに、西郷と大久保との政争なんかにも巻き込まれて山形県に編入ってかたちで特権を取り上げられたんだよね。
身のほど知ってボチボチやってれば、今頃、羽前は酒田県で県庁所在地は鶴岡だったろうにね。


112: 日本@名無史さん 04/09/29 03:28:54
年表でも書いてみる

元和八年(1622) 八月 最上義俊改易。酒井宮内大輔忠勝信州松代十万石より庄内三郡十三万八千石で入部

九年(1623)  鶴岡の町割り始まる

寛永三年(1626) 六月 フランシスコ会のディエゴらが酒田・鶴岡を伝導。鶴岡では二百人以上のキリシタンが追放される
   
六年(1629) 九月二十七日 酒田十人大山五人鶴岡九人のキリシタン処刑
   
九年(1632) 六月一日 加藤忠広、庄内丸岡に配流

正保四年(1647) 酒井忠勝の三男忠恒を松山二万石、七男忠解を大山一万石に分地

寛文四年(1664) 田川・櫛引・遊佐の三郡から田川・飽海の二郡に改める
   
八年(1668) 酒井忠解の改易により大山領は天領となる

宝暦五年(1755) 奥羽地方大凶作。「宝五の飢饉」

寛政八年(1796) 農政改革を行う

文化二年(1805) 二月藩校致道館を大宝寺(現日和町駅前通の東側)に建てる
   
八年(1811) 九月二十二日総穏寺で土屋丑蔵・虎松兄弟の仇討ち一件が起きる
 
十三年(1816) 致道館馬場町に移転

天保四年(1833) 洪水地震津波飢饉発生。合積を実施
 
十一年(1840) 十一月幕府、酒井忠器に越後長岡への国替えを命令。 領民が取りやめ運動を起こし、江戸や近隣諸藩に嘆願する。国替えは中止

弘化元年(1844) 幕領の百姓が庄内藩の領地になることに反対し大山騒動を起こす

安政四年(1857) 与内坂(七窪)で総軍の大調錬を実施
   
六年(1859) 蝦夷地警備を命ぜられ派兵

文久三年(1863) 酒井忠篤江戸市中取締を命ぜられる

元治元年(1864) 幕領地を加増され十七万石となる

慶応三年(1867) 改革派の首謀者を処罰。「大山庄太夫一件」庄内藩兵江戸の薩摩屋敷を襲撃。鳥羽伏見の戦いが起きる
   
四年(1868) 戊辰戦争。庄内藩政府軍と戦う。九月庄内藩政府軍に降伏

明治二年(1869) 七十万両献金を条件として磐城平への転封が中止

明治四年(1871) 廃藩置県

210: 日本@名無史さん 05/02/17 09:33:45
>>112
遅レスで申し訳ないが、大山って確か、19世紀前半は天領ではあったけど庄内藩の預地だったんじゃないっけか?
その後、三方領知替え失敗した水野が怒って預地召し上げにして完全な天領にしたけど、水野失脚で再び庄内藩の預地になったところで、大山騒動勃発。って感じだったと思うよ。

寛文八(1668)年の酒井忠解の改易の後、いつから庄内藩預地だったのかは知らないけど

114: 112 04/10/04 02:40:34
今度はお城。

元和八年 1622 酒井忠勝庄内藩主となり鶴ヶ岡城を居城とする。御花畑(現NHK放送局)に仮御殿を建てる

承応元年 1652 大手門が建てられる
  
二年 1653 本丸御殿の御居間・書院・長局ができる
  
三年 1654 二の丸に隅櫓が建てられる

明暦元年 1655 本丸御殿の御広間・玄関ができる

万治元年 1658 西門・内北門・外北門が建てられる
   
二年 1659 本丸隅櫓が建つ。その後延宝三年(1675)まで 渡櫓や土蔵などの建築が続く。

貞享元年 1684 金峰山から切り出した石材で二の丸石垣を築く

宝永元年 1704 お城稲荷社が祀られる

文政四年 1821 同九年(1826)にかけて城内の建物を瓦屋根に葺き替える

明治元年 1868 城を官軍に明け渡す
  
九年 1876 城址が公園になり、本丸御殿などの建物解体・土居を崩し堀を埋める
  
十年 1877 本丸跡に荘内神社を建てる
かなり時間をかけてるけど大坂の陣も終わってるから急ぐ必要はなかったってことかな?

125: 日本@名無史さん 04/12/13 07:53:08
「桑名藩戦記(新人物往来社)」を執筆した郡義武氏(先祖、元桑名藩士)が「庄内藩戦記」も書いてるね。先祖が桑名藩士だったおいらとしても庄内藩には親近感を覚えるよ。

131: 日本@名無史さん 04/12/15 10:04:34
昔は風情ある町並みだったよな、酒田。しかし大火でアボーン。

139: 酒井攝津守 05/01/06 21:40:06
荘内藩は15万石、実高25万石。江戸城では溜詰格。そこらの貧藩とは格が違うのだよ。
格が。

140: 日本@名無史さん 05/01/06 21:43:15
でも、民間人の方がうらやましがられてる殿様ってのもなんかなー。
うたにもなってるし…。

167: 日本@名無史さん 05/01/17 02:06:50
庄内藩は、一国一城令でも、徳川四天王筆頭家老家という事で特例で、鶴ヶ岡城(鶴岡)と亀ヶ崎城(酒田)の一国二城が許されていた。

168: 日本@名無史さん 05/01/17 02:21:20
庄内藩の新徴組(しんちょうぐみ)の隊士には、新撰組の沖田総司の兄である沖田林太郎が居りました。

169: 日本@名無史さん 05/01/17 03:06:29
その新徴組に男装の麗人、中沢琴も参加してた。

172: 日本@名無史さん 05/01/18 02:03:26
新徴組の小説とかってあるのかな?

173: 日本@名無史さん 05/01/18 02:15:03
藤沢周平は、書いてないか。

74: 日本@名無史さん 04/06/15 23:58
庄内と長岡と川越の国替え騒動についてはやはり藤沢さんの義民が駆けるが一番いい

188: 日本@名無史さん 05/01/23 03:29:24
天保国替騒動では、藩の御用商人本間と佐藤藤佐が話し合って、酒井左衛門尉は一旦長岡領に移り、松平大和守が荘内入部の暁には大一揆を起こさせ、佐竹、南部、仙台、米沢を動員する規模にし、松平大和守が失政のとがで他国に移し、酒井左衛門尉が長岡領で神妙にしてれば、荘内復帰は容易だと

189: 日本@名無史さん 05/01/23 08:45:08
国替えのときは年貢は取ってから行くの?

190: 日本@名無史さん 05/01/23 10:17:40
>>189
どっちの時もありそうだよねぇ。基準があるんだろうか?
上杉景勝と堀秀治、毛利輝元と福島正則が年貢を取って移る・置いて行けで揉めてたし。

208: 山形の鳥居左京亮忠政 05/02/17 04:03:21
ところで、荘内藩の鶴ヶ岡城、亀ヶ崎城の天守閣や御殿は残っているんですか。

209: 日本@名無史さん 05/02/17 04:12:32
>>208 
鶴岡については痕跡はあるので「微妙」
ちなみに鶴岡「致道博物館」には酒井家由来の国宝刀剣があるぞ

212: 日本@名無史さん 05/02/19 23:46:14
戊辰戦争後、荘内藩を減封のうえ磐城平に十万石格で移すことが決定したが、藩が明治政府に七十万両を献金することで辛くも食い止めたそうですが、その金どっから捻出したんですか。天保三方領替えに比べて比較にならん額のようですが

641: 日本@名無史さん 2005/12/23(金) 14:59:52
>>212
藩士や領民の献金で30万ぐらいは集まったらしい。
取りあえずそれを献納した後に政府から「残金献納に及ばず」という指令が下された(大隈辺りが絡んでたらしいけど詳しくは忘れた)。

272: 日本@名無史さん 2005/04/17(日) 17:22:07
昔、鶴岡に赴任してきた酒井タンがとっても女好きで「庄内の女はイイ!」とばかりに、野良仕事をしてる農婦を手当たり次第手付けにするので、それに困り果てた農夫が女房や娘の顔を布で隠して仕事をさせた。イスラームみたいだが、今でも田んぼなんかで顔を隠して農作業してるおばさんはよく見るな。

化け物祭りで顔を隠して酒を注ぐのもそこから来てるのかな?

273: 日本@名無史さん 2005/04/17(日) 19:04:33
>>272
んなわけねえだろ。
昔、菅原道真が大宰府に流されるとき、道真を慕う人々が別れを惜しんで酒を酌み交わしたという伝説からきている。別れの際に素性が知られるとマズイというんで皆、誰だか判らんように変装してきたそうな。

釣りだったのか?もしかして。

275: 日本@名無史さん 2005/04/17(日) 20:53:35
>>273
なるぽ。化け物祭りの由来はわかった。
ただ農婦の顔隠しの件は釣りではなくどこかで聞いたことのある話だ。
ま、農民のネタである可能性もあるがな。

276: 日本@名無史さん 2005/04/17(日) 21:25:29
>>275
ああ、そういうことだったのね。なるほど。
謹んでお詫び申し上げる。庄内藩は比較的善政をしいたらしいからそういうユーモアも生まれるというものか。と、持ち上げてみる。

278: 日本@名無史さん 2005/04/19(火) 22:29:36
>>275
しかしあのパターンの化け物祭が完成したのは近年になってから。
だから水戸黄門11部「奇祭・化け物まつりの対決・鶴岡」は間違い。

283: 日本@名無史さん 2005/04/24(日) 18:58:30
葛飾北斉の弟子出身にして、大山って荘内藩幹部は元気なの?

284: 日本@名無史さん 2005/04/24(日) 21:45:52
>>283
はあ?意味が解りません。

285: 日本@名無史さん 2005/04/25(月) 20:32:32
荘内藩江戸留守居役の大山庄太夫のことであろう。
大山は、葛飾北斎の弟子服部北李の子である。
江戸で荘内藩主酒井忠器に才幹を見出され、頭脳明晰で弁舌が立ち、酒井忠発に近仕したそうな。

286: 日本@名無史さん 2005/04/25(月) 20:39:48
>>285を読むかぎりでは、とっくに死んでるじゃねえか!
・・・あの世で元気かもな。

326: 日本@名無史さん 2005/05/24(火) 01:26:41
俺んちの近くに南洲神社あったな・・・西郷の挑発にのって薩摩藩邸に大砲ぶっ放したんだか火つけたんだかしたせいで攻められたのに、西郷どんが『庄内は許す』とかいったからって、西郷をまつちゃったおめでたい神社って習いましたよ。。

327: 日本@名無史さん 2005/05/24(火) 21:59:24
>>326
江戸市中警備にあたっていた庄内藩の屯所に、薩摩の支藩佐土原藩士が発砲。
幕府は庄内藩らを薩摩藩邸に出向かせ、犯人の引渡しを求めたが、薩摩藩はこれを拒否した為、庄内藩らは強行手段に出て発砲。薩摩藩邸を焼き払った。

鶴岡市と鹿児島市は、今は姉妹都市。

335: 日本@名無史さん 2005/05/24(火) 23:42:56
戊辰戦争時の庄内藩の死傷者は734名、秋田藩の戦死者は461名。
戦力的には秋田藩以下だろう。

338: 日本@名無史さん 2005/05/25(水) 00:18:42
その戦死者の「差」も結局は「銃の差」だけじゃないのか。
取り立てて庄内藩が精強ともいえない。

340: 日本@名無史さん 2005/05/25(水) 00:28:08
いや、戦術的な違いもあると思われる。
どこぞの藩と違い、ウィンチェスターの前に白兵戦で挑むなんて有得ん。
ラストサムライじゃあるまいし。

341: 日本@名無史さん 2005/05/25(水) 00:57:45
何はともあれ東北諸藩のなかでもいち早く、近代兵器を取り入れていた
というわけだな、庄内は。そりゃ火縄銃じゃ勝負にならんわ。

342: 日本@名無史さん 2005/05/25(水) 08:55:25
いや、庄内藩は新庄で新式の銃を持った薩長・新庄藩連合を撃破(庄内藩の方が人数が少ない)
しているから、銃の能力だけじゃないな。

346: 日本@名無史さん 2005/05/25(水) 17:04:20
荘内藩酒井左衛門尉、会津藩松平肥後守、仙台藩松平(伊達)陸奥守、米澤藩上杉弾正大弼、二本松藩丹羽左京大夫らは共同して西方にあたるという誓約があったわけで、米澤が荘内の向背を突くなんて考えずらいんですが、マジですか

347: 日本@名無史さん 2005/05/25(水) 18:28:06
米沢藩は8月末に謝罪降伏し、その謝罪を証明するため会津・庄内に軍を進めた。
会津藩は篭城1ヶ月超えで西軍は南門が攻略できず、包囲することすら出来なかった。そんな最中に敵中に米沢藩の軍旗があがり、米沢藩が寝返ったことを知った容保は降伏を決意した。庄内藩は米沢が軍を進めたという情報を入手したため、久保田城の包囲網を解いて本領防衛作戦を開始した。鬼玄蕃率いる庄内藩二番大隊が撤退を開始すると薩長肥+久保田藩は追撃をかけるが、途中で撃破されてしまい二番大隊は帰城する。9月25日(だったと思う)に謝罪降伏するが、如何せん西軍は負けっぱなしだったため長岡戦に参加した家老・石原のみに責任を押し付け薩摩藩邸焼き討ち事件の追及はなしとなった。

東北最弱は仙台藩。ちゃっかり者は米沢藩。
世良修三曰く「弱小2藩、恐るに足らず」は本当…

350: 日本@名無史さん 2005/05/25(水) 19:35:27
>>347
世羅修蔵はそもそも人間のクズw

引用元: ・庄内藩の事も話題にしてよ~御願い・・・


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