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2: 冷凍庫 02/08/31 17:28
「晋書扶南伝」には、「東インドより、神から霊力のある弓矢を授かった人間が、貿易船に乗ってやってきた。その人間がこの地域を治めていた女王と結婚 して扶南という国を作った。」とかかれている。
 
これはインドからやってきた渡来人と現地人とが一緒になって、国を まとめあげたということを伝えるもののようだ。

4: 世界@名無史さん 02/09/06 20:49
カンボジアといえばポル・ポトを思い出しちゃう。東南アジアの人って、 普段は穏やかだけど、キレると狂ったように狂暴になるのかな。

7: 世界@名無史さん 02/09/06 23:03
内戦前のプノンペンって、マターリとした良い町だったとか。 
 
9: 世界@名無史さん 02/09/06 23:31
シアヌーク殿下は、映画制作が趣味だったというはなしをきいたことがある。
自分がつくった映画を、プノンペン駐在の各国外交官に見せていたとか。

11: 世界@名無史さん 02/09/07 00:17
シアヌーク殿下には14人の子供がいたけど、その半数がクメール・ルージュがカンボジアを支配していた時期に殺されたそうで。

15: 世界@名無史さん 02/09/07 00:48
タイのアユタヤ朝~バンコク朝の度重なるクメール遠征以降、カンボジアといくと 悲惨なイメージしかないけど、それまでは、インドシナで"諸王の王"を名乗ることが出来た、一流民族だったんだよね。

なのに今は・・・

16: 世界@名無史さん 02/09/07 00:53
クメールを目の敵にして、執拗に遠征を繰り返したタイ王朝に、ちょっと異常なものを感じてしまう。

インドシナ半島に南下してからしばらくクメール人の支配下にあったことが、それほど屈辱であり、かつ宗主国への憧れと対抗意識を燃やさせたのか?

タイのお粗末な建築を見ていると、クメールが弱体化したことがもったいなく思える

22: 世界@名無史さん 02/09/20 19:49
アンコールワットはすごいね。やっぱりビジュアルのインパクトは大きい。あれがなけれただのドキュソ民族にしか(以下略

25: 世界@名無史さん 02/10/08 12:11
>>22
アンコールワットや、インドネシアのボロブドゥールを見て思うんですけど、東南アジアには、宗教建築を石造にする伝統のようなものがあったんですか?
東アジアでは木造が主流だけど。

28: 02/10/23 08:24
>>25 
東南アジアは木造建築は腐りやすくて、永遠性を求める権力者には好まれなかった、と推測を述べてみる。

タイ建築は、レンガ&木が主流。
床と壁と柱(の一部)がレンガ。柱(の一部)と屋根が木造。

40: 世界@名無史さん 03/01/07 09:39
>>25
フナム期ですと、アンコール・ボレイから木造による祠堂跡が発掘されていますし、家屋や王宮は木造だったことが分かってます。

焼成レンガが主体のプレ・アンコール期には、木造を模倣したと思われるディテールが多数残っており、また設計手法も木造のそれとほぼ同一だったと考えられています。

アンコール期なら屋根は木造軸組で瓦葺きが多かったと思います。
棟木や桁を受ける為の加工の跡が有りますし、瓦も遺跡周辺から結構出土しています。
確かE.F.E.O.のデュマルセがプレ・ルプ(かな?)の木造軸組を復元していました。
因みに、ピメアナカスの隣の王宮跡は木造であったことが分かっています。

アンコール期はコー・ケル以降は砂岩が多いのですが、これは森林伐採により焼成レンガの作成が難しくなったのと、砂岩は加工しやすい割に耐火性能が高いのが原因だと思います。
しかし、地方によってはアンコール末期でもレンガ主体の所があったりします。

扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけて栄えたヒンドゥー教・仏教(5世紀以降)の古代国家。


26:   02/10/08 13:47
カンボジアの古代史書ってないのかなぁ?
隣のベトナムなでは大越国史、大越全史なんていう史書があるけど。
ベトナムは中国文化圏、カンボジアはインド文化圏。
ひとつ国境を越えただけでこれだけ違うとは摩訶不思議。
まぁ、どちらも仏教という点では通じているけどね。

38: 世界@名無史さん 02/12/19 04:49
キリングフィールドみたけどわけわからん。

47: 世界@名無史さん 03/01/21 17:12
>>38
(ざっとでも)カンボジア史を知らないと良くわからないかも

でも知ってから映画を見るとスリル度大幅アップ。いつ誰が殺されてもおかしくないあの時代をプランも、プラン役のニョールも、生き抜いたのは奇跡と思ってしまう。

48: 世界@名無史さん 03/01/22 14:20
ポル=ポト時代のカンボジア

1969年、アメリカ軍が、北ベトナムの拠点、補給ルートになっていたカンボジアに侵攻
1970年、クーデターで親米のロン=ノル政権誕生。政権を追われたシアヌークはクメール=ルージュと手を組み反米闘争開始。
1975年、プノンペン陥落。ポル=ポト指導のクメール=ルージュがカンボジアを支配。
プノンペンを初めとする都市から農村への強制移住開始

49: 48 03/01/22 14:21
ポル=ポトは極端な共産主義政策をとって行く
●共同農場や用水工事などの強制労働。都市からの強制移住者は「新住民」と呼ばれ、特に苛酷に扱われる。「お前達を生かしていても何の特にもならない。お前達を殺しても何の損にもならない」
●貨幣、宗教、学校、病院等の廃止。
●家族の解体。子供には徹底した思想教育が行われる。
●知識人の粛清。読み書きができるだけでも粛清の対象となる。外国への留学生も、本国に戻され処刑。少数民族も対象。無謀な食料増産政策により多数の餓死者が出ると、多くの人達が反革命分子のレッテルを貼られ無差別に虐殺。
ポル=ポト支配下で、カンボジア人口800万のうち100~200万が死亡したと言われる

50: 48 03/01/22 14:22
反ベトナム政策による国境紛争が激化。
ベトナムは、ヘン=サムリンやフン=セン等ポル=ポト政権から離脱した軍幹部を率いて1978年カンボジア侵攻、二週間でプノンペンを制圧し、ベトナムを後ろ盾としたヘン=サムリン政権を樹立。
タイ国境に逃れたポル=ポト派は、中国、タイの後ろ盾の元ゲリラ闘争を開始。

51: 48 03/01/22 14:23
映像の世紀で紹介されていた、ポルポトが子供達にかかげていたスローガン

我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。
従って、伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。
たとえ親であっても、社会の毒とおもえば微笑んで殺せ。
今住んでいるのは、新しい故郷なのである。

我々はこれより過去を切り捨てる。

泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんているからだ。

56: 世界@名無史さん 03/02/01 02:05
今のカンボジア王室ってアンコール朝の王家から血統的に連続してるんだっけ?

60: 世界@名無史さん 03/02/16 16:14
現カンボジア王室がアンコール朝の王統につながるかどうか以前にアンコール朝歴代の王の系譜関係自体よく分かってないんだな。

68: 世界@名無史さん 03/03/26 05:16
タイ人はカンボジア人を馬鹿にしているがそれとかつてクメールの勢力下だったこととは関係ないだろうな。 単に貧しい、遅れてる、みたいな感じで馬鹿にしてるっぽい。

ビルマに対してはどうなんだろうな。
テレビの時代劇でもビルマとの戦いが多い。

73: 世界@名無史さん 03/04/30 03:11
旅行先で聞いた話だと、タイ人はラオスやビルマに対しても優越感を持ってるみたいだね。
ま、タイはインドシナ随一の経済大国だもんな。
一昔前の日本人が抱いていた中国や朝鮮に対するイメージみたいなものか。

105: 世界@名無史さん 03/10/06 20:51
アンコールワットのレリーフの地獄図は、昔本当に行われた拷問や刑罰を再現したものらしい

前もってポルポト犠牲記念館を観ておいたらいい

106: 世界@名無史さん 03/10/10 19:13
なんか盛り上がっていないのでたたき台として話題を提供しましょう。
カンボジア史の概要ですが、間違いやおかしな点がいろいとあると思うので気が付いたらつっこみを入れて下さい。

最初に国名についてちょっとひとことふれておきます。
(クメール語[カンボジア語]のローマ字表記はあくまで近似的なもので、カナ表記に比べれば多少ましという程度のものです)


「クメール」と「カンボジア」
両者に語感の違いはあるが、意味の相違はほどんど認められない。

「クメール」(クメール語で Khmae、フランス語・英語等 Khmer)はクメール人の自称。
クメール語の文脈では日常的な用語。

「カンボジア」(クメール語 Kampucea、フランス語 Cambodge、英語等 Cambodia)は「カンプの子孫」の意味で建国神話に基づく。「クメール」に比べ正式な改まった語感を持つ。
『真臘風土記』(13世紀末にカンボジアを訪問した中国人・周達観の見聞録)に「その国は自称して甘孛智[カンボツチ]という」とある。西洋人も国名としては「カンボジア」を用いた。

107: 世界@名無史さん 03/10/10 19:14
<<カンボジアの歴史1>>

1.扶南

扶南は古代東南アジアで最古・最大の国家である。現在のカンボジア南部にインド文化の影響を受けて成立し、海上交易で栄えた。

1世紀頃
扶南建国。当時は海に囲まれた島であったアンコール・ボレイ(カンボジア・タケオ州)が勢力の中心地。

68年頃
インドのバラモン混填[コンデン]が扶南を征服して王となったのがこの頃とも言われる。

2世紀
扶南を中継点とした中国、インド、ローマの交易が盛んになる。シャム湾に面した外港オケオ(ベトナム・アンザン省)が繁栄(~6世紀頃)

3世紀前半
扶南の范師曼[ハンシマン]大王、タイ南部からスマトラの一部までを征服。インドシナ半島南部一帯からマレー半島北部に及ぶ地域が扶南の版図であった(~6世紀頃)

4世紀前半
東南アジア一帯でインド化が進む。

5世紀頃
南インドのパッラヴァ王国が海軍を動かし本格的な東南アジアの植民地経営に乗り出す。

5世紀初頭
インド南部のバラモン、カウンディニャ(橋陳如)が扶南を征服し、ジャヤヴァルマン王として即位。都はヴァイトボレア(アンコール・ボレイ)。
別働隊は北部を攻略。ソンペアボレア(クラチエ州サンボール)に拠点を築く。
シヴァ神信仰が広まり、リンガが多数建てられる。

490年
大乗仏教が伝来。

503年
扶南の王に中国が「扶南王」の称号を与える。

6世紀後半
メコン川上流から南下してきた真臘が次第に扶南を侵略。当時の王都ヴヤーダプラ(プレイ・ヴェーン州バ・プノム山、バナム村近辺)が陥落。ナラバラナガラ(アンコール・ボレイ)へ遷都。
扶南はその後マレー半島にあった一属国に移り7世紀ころまで存続したともいわれる。

620年代
真臘により最終的に吸収・併合される。

108: 世界@名無史さん 03/10/10 19:15
<<カンボジアの歴史2>>

「扶南」という名称

扶南の王は「山の王」を名乗ったと言われる。山の王とは古代インド世界で東南アジアに広がる属国の王の中の最高位に与えられる称号である。この「山の王」の古代クメール語は「クルン・プナム」で、山を意味する「プナム」の音訳が「扶南」であるとされる。その転用であるか否か不明だが、根拠地アンコール・ボレイのあった島を中国で扶南と呼んだという説もある。
英語名 Funan は北京語発音による「扶南」の音写。

建国神話

この地は竜の娘である女王の柳葉[リュウヨウ]が支配していた。南方の国に鬼神に仕える混填[コンデン]がいて、夢に従い神弓を得て商船で海に出る。柳葉は混填の船を奪
おうとするが、混填の射た弓が柳葉の船を貫くと恐れをなして降伏した。女王でさえ裸で刺青をしていたので混填は貫頭衣を着ることを教える。
混填は国を治め、柳葉を妻として、生まれた子供を7つの町の王にした。

(このパターンの神話は東南アジア各地に多く残る。混填が教えたとされる貫頭衣は『後漢書』などでは東南アジア固有の文化とされているので、インド文明が伝わる前にマレー半島あたりから文化伝来があり、その結果国家が生まれたとする説も有力になってきている)

109: 世界@名無史さん 03/10/10 19:17
<<カンボジアの歴史3>>

外港オケオの発見は1942年と新しい。出土品にアマラーバティ様式の青銅仏、ヴィシュヌ神像、漢の方格規矩四神像、2世紀頃のローマの金貨などがある。都のアンコール・ボレイとは運河で結ばれていた。

東南アジアの東西交通は初期の段階ではマレー半島北部を横断する陸路が主流であった。シャム湾に面したオケオは重要な中継地点となる。しかし6世紀ころから陸上を経由せず船だけで移動できるマラッカ海峡経由の水路に主流が移る。これがオケオの重要性を失わせ、さらには扶南を衰退させる原因にもなったと思われる。扶南滅亡後はオケオも放棄された。

サンスクリットの碑文があることから扶南の公用語はサンスクリットだったと考えられる。宗教はヒンズー教のシヴァ神・ヴィシュヌ神信仰、大乗仏教。

扶南の住民はクメール人であるとされるが疑問もある。
根拠のひとつである「扶南」とクメール語との関係にしても、扶南がインド系支配者と土着の被支配者からなる二重国家であったとすると、支配者の王が被支配者の言語で山の王の称号を名乗るのは不自然だし、支配者が住民と民族的に融合していたとしても、都市名や碑文でのサンスクリット使用とクメール語による称号との間にはそぐわなさが残る。
後続国家との比較でも、真臘とアンコール王朝は類似が多いのに対し、扶南と真臘では断絶が大きく、扶南はむしろ北隣に少し遅れて興った交易国家チャンパとの共通点が多いように見受けられる。
チャンパはマレー人の国である。

110: 世界@名無史さん 03/10/10 19:21
<<カンボジアの歴史4>>

2.真臘

真臘はカンボジア北部に居住していたクメール人勢力である。当初は扶南の属国であったが次第に勢力を増強し、メコン川下流方面に進出して扶南を併合する。

時期不祥
ラオス南部チャンパサック地方のチャム人の土地を奪って最初の王都を建設。

6世紀中葉
扶南への侵略を開始。

611年
イーシャナヴァルマン王、最古のクメール語碑文を作る。イーシャナプラ(カンボジア・コンポントム州のサンボールプレイクック遺跡群)に遷都。

620年代
扶南を併合。カンプチア(カンボジア)の国名はここから始まる。

707年
王の後継者問題から水真臘(南)と陸真臘(北)に分裂。

8世紀中葉
水真臘がスマトラのシュリーヴィジャヤに従属か?

787年
ジャワのシャイレーンドラ、水・陸真臘を占領。水真臘の王を殺害、王子らを捕虜としてジャワへ連行。真臘はシャイレーンドラに服属。

真臘の語義は不祥。英語名 Chenla は北京語発音による「真臘」の音写。
中国ではアンコール王朝に対しても真臘の名称を用いる。

扶南で行なわれていた大乗仏教は衰退し、もともと真臘で行なわれていたシヴァ神信仰が隆盛となる。

111: 世界@名無史さん 03/10/10 19:22
<<カンボジアの歴史5>>

真臘の衰退には東南アジア島嶼部に興った新興勢力が関係している。スマトラ島南部パレンバン地方には7世紀中葉シュリーヴィジャヤが勃興。7世紀末までに東西交通の要衝であるマラッカ海峡の両岸を押え、8世紀後半にはマレー半島北部まで勢力を拡げる。海上貿易により発展し、民族の言語ムラユ語(マレー語)はスマトラ島、マレー半島、ジャワ島の貿易共通語となる。大乗仏教を保護。8世紀中葉のシャイレーンドラの勃興により劣勢となるが、シャイレーンドラが衰退した9世紀後半以降ふたたび勢力を盛り返す。

一方、ジャワ島中部には8世紀中頃に強大な統一勢力としてシャイレーンドラが突如出現。
「シャイレーンドラ」とはサンスクリットで「山の王」の意味である。周辺各国へ侵攻を開始し、8世紀末頃までに中国統治下のトンキン(ベトナム北部)、チャンパ(ベトナム中部)、水・陸真臘、マレー半島を征服。現在のマダガスカル島民(インドネシア系)の先祖が東アフリカに辿り着いたのもこの頃だと言われる。
中部ジャワに大乗仏教の大伽藍ボロブドール寺院を建設(780~792年。824~833年に増改築)。
しかし勢力が衰えるのも急で9世紀前半に衰退、世紀後半に滅亡する。

112: 世界@名無史さん 03/10/10 19:24
<<カンボジアの歴史6>>

3.アンコール王朝

800年頃クメールの王子がジャワから帰還する。インドラプラ(コンポンチャムの東)を拠点として王国統一の事業に乗り出し、トンレサップ一帯を統一。802年、ジャヤヴァルマン2世としてアンコール平原を見下ろすプノン・クレーンで即位。約530年間のアンコール王朝はここから始まる。

802~ 850年
ジャヤヴァルマン2世。王都マヘンドラパルヴァタ(プノン・クレーン、アンコールの北東40km)
 
850~ 877年
ジャヤヴァルマン3世。
 
877~ 889年
インドラヴァルマン1世。王都ハリハラーラヤ(ロリュオス)。プリア・コー、バコン(ロリュオス)建設。
 
889~ 910年
ヤショヴァルマン1世。王都ヤショダラプラ(プノンバケンを中心とした一帯、旧アンコール・トム)
ロレイ(ロリュオス)建設。(この王の後しばらくしていくつかの地方勢力に分裂した模様)
 
910~ 928年
ハルシャヴァルマン1世。
 
928~ 942年
ジャヤヴァルマン4世。コー・ケー(アンコールの北東90km)へ遷都
 
942~ 944年
ハルシャヴァルマン2世。

113: 世界@名無史さん 03/10/10 19:27
<カンボジアの歴史7>>

10世紀半ばからアンコール王朝は隆盛期を迎える。潅漑施設として東バライや西バライの大貯水池が掘削される。アンコール王朝の経済基盤は水利潅漑による稲作農業であった。対外的にも領土を拡張し、インドシナ半島一帯からマレー半島北部に至るかっての扶南の最大版図を回復する。

しかし何よりもアンコール王朝の栄光と結びつけて考えられるのはアンコール・ワットやバイヨンなどの壮麗な宗教建築であろう。アンコール・ワットは、王がヴィシュヌ神の化身であるという思想に基づき、王の生前にはヴィシュヌ神すなわち王を崇拝するヒンズー教寺院として、王の死後は墳墓寺院となることを意図して建設されたと考えられている。のちに中央祠堂のヴィシュヌ像は上座仏教アユタヤ様式の仏像に置き換えられ、仏教寺院として現在に至っている。バイヨンは大乗思想に基づく仏教寺院。バイヨン様式と呼ばれる他に例を見ない四面に観世音菩薩の顔面を配した51基の四面塔を持つ。

114: 世界@名無史さん 03/10/10 19:29
<カンボジアの歴史8>>

944~ 968年
ラージェンドラヴァルマン1世。アンコールへ遷都。東バライ、プリ・ルップ、ピミアナカス建設。国内を再統一。チャンパに遠征、属国として朝貢させる。
 
968~1001年
ジャヤヴァルマン5世。タケオ、バンテアイ・スレイ建設。

1001~1002年
ウダヤーディトヤヴァルマン1世。

1002~1049年
スールヤヴァルマン1世。仏教を篤信、謚号は涅槃王。チャオプラヤー流域ロップリーまで領土を拡大。圧力を強めてきたベトナムに対抗するためチャンパと同盟。

1049~1065年
ウダヤーディトィヤヴァルマン2世。バプーオン、西バライ建設。

1065~1090年
ハルシャヴァルマン3世。

1090~1108年
ジャヤヴァルマン6世。

1108~1112年
ダラニンドラヴァルマン1世。

1112~1152年
スールヤヴァルマン2世。アンコール・ワット、バンテアイ・サムレ建設。チャオプラヤー流域を併合。チャンパを征服、クメール人王を派遣して統治させる(45~59年)

1152~1152年
ハルシャヴァルマン4世。

1152~1177年
ダラニンドラヴァルマン2世。
     
1177年
チャンパ軍、アンコール都城を占領して王を殺害。アンコール王朝を支配する。

1181~1220年
ジャヤヴァルマン7世。チャンパに連行されていた王子が帰国、チャンパを掃討して即位。アンコール・トム、タ・ネイ、プリア・カン、プリア・パリライ、 タ・プロム、バンテアイ・クデイ建設。帝国内に王道、宿場、施療院を建設。
     
1190年
チャンパを逆襲して支配(~1220) ベトナム南部、ラオス南部、チャオプラヤ流域、マレー半島北部に至る最大版図を実現。
     
1190年
このころ上座仏教がスリランカから伝来(13世紀後半伝来説も)

115: 世界@名無史さん 03/10/10 19:30
<<カンボジアの歴史9>>

ジャヤバルマン7世の死後、王国は急速に衰退へ向かう。重税・賦役への不満からの農民の反乱、仏教徒とヒンズー教徒間の紛争、王族・将軍間の殺戮が続いて起こる。王朝支配が緩んだことからシャム人が反抗するようになり、これが帝国の衰退に更に拍車をかける。
衰退期に入りながらも大帝国の威厳を保つ13世紀末にアンコール都城を訪れた周達観の『真臘風土記』はこの時代ばかりでなくクメール社会を知る上でも興味深い記録。

1220~1243年:インドラヴァルマン2世。
     1238年:シャム人がスコータイからクメール人を排除、スコータイ王朝を興す(~1378年)
1243~1295年:ジャヤヴァルマン8世。
1295~1307年:スリ・インドラヴァルマン王。
     1296年:周達観、元朝の使節としてアンコールに滞在(~97年)。『真臘風土記』を著わす。
1307~1307年:スリ・インドラジャヤヴァルマン王。
     14世紀 :上座仏教を国教とする。
     1350年:タイにアユタヤ朝成立(~1767年)
     1353年:アユタヤ軍がアンコール都城を占領、カンボジアを統治下に置く(~57年)。
           財宝と捕虜1万人を連行。
     1394年:アユタヤ軍が再度アンコール都城を攻略。
     1431年:アユタヤ軍の来攻でアンコール都城陥落か?

116: 世界@名無史さん 03/10/10 19:35
<<カンボジアの歴史10>>

4.ポスト・アンコール時代

アンコール都城を放棄してプノンペン方面に拠点を移してからフランス植民地支配が始まるまでの約430年間を一般にポスト・アンコール時代と呼ぶ。

アンコール末期の14世紀半ばにはアンコール朝とは別の政権がメコン川沿いのバサン(プノンペン上流45kmの左岸)に成立していた。バサンのポニャート王がアンコール都城に侵攻してきたアユタヤ軍を撃破してカンボジア全土の覇権を掌握する。しかしシャムの圧力に耐えられず、アンコール都城は放棄。

バサンの王統は現在のカンボジア王室に連なるものである。ポスト・アンコール時代はこの王統を中心に展開する。王朝の内部では初期から内紛が絶えず、また王朝には常にシャム・アユタヤ朝の影響力が及んでいた。

117: 世界@名無史さん 03/10/10 19:36
<<カンボジアの歴史11>>

1431年 :ポニャーヤート王、バサンを王都とする。しかし洪水に弱い土地だったので後にプノンペンへ遷都。
:プノンペンのスレイリチエ王(ポニャーヤート王次男)とバサンのスレイソリヨテイ(ポニャーヤート王長男)が抗争。

1471年 :ベトナム、チャンパのダナン一帯を占領。チャム人の多くがカンボジアへ逃れて定着。

1474年 :シャムの干渉でトワマリエチエ王(ポニャーヤート王の3男)即位。王はシャムの宗主権を認める。

1509年 :スレイソコンバート王(トワマリエチエ王の長男)とバサンの住民スダチコーンが戦闘。王は敗れて殺害される。スダチコーンがバサンで即位。南方のトボーンクモム近くに建都。

1513年 :アンチャン(スレイソコンバート王の弟)が亡命先のシャムから帰国。ボーサット(トンレサップ湖西岸)を拠点にスダチコーンと戦う。

1525年 :アンチャン1世(チャンリエチエ王)、スダチコーンに勝利しボーサットで即位。

1529年 :アンチャン1世、ロンヴァエク(トンレサップ右岸、プノンペン上流35km)へ遷都。

1546年 :アンチャン1世、アンコール・ワットを修理。

1557年 :アンチャン1世、2万の大軍でシャムを攻略。

16世紀後半:ポルトガルがプノンペンを拠点にカンボジア交易を独占。

16世紀末 :東南アジア各地に日本人町成立。

118: 世界@名無史さん 03/10/10 19:37
<カンボジアの歴史12>>

西洋では大航海時代に入る。東南アジア島嶼部ではポルトガル勢とマレー勢が対立していた。
その対立がカンボジアの宮廷にも持ち込まれる。

1594年
アユタヤの攻撃で王都ロンヴァエク陥落。ソター王はラオスに亡命。王弟スレイソリヨポワはアユタヤに連行される。

1595年
プレアリエムチューンプレイ、シャム軍を駆逐、スレイサントー(メコン左岸、プノンペン上流30km)で即位。
スレイサントーの宮廷には中国人、特にマレー人の移住が進み、コンポンチャム(チャム[=マレー]の港)が形成される。

1596年
ポルトガル・スペイン勢力、プレアリエムチューンプレイ王を殺害。
ビルマから先王ソターの次男チャウポニャートンを連れ帰りスレイサントーで王位につける。

1599年
マレー人がクーデター挙行しポルトガル・スペイン勢力を駆逐。
チャウポニャートン王も殺害される。

1603年:アユタヤに連行されていたスレイソリヨポワ王子が王族の要望で帰国し各地を平定。

1613年
スレイソリヨポワ王、ロヴィエアエム(プノンペン対岸)で即位。シャムの宗主権を認める。

1614年
チェイチェッター王(スレイソリヨポワ王の長男)即位。

1620年
ウドン(トンレサップ右岸、プノンペン上流25km)に遷都。
以後約250年間ウドンが王都となる。

1623年
フエ朝にサイゴン近隣での活動を認許。

1632年
森本右近太夫一房、アンコール・ワット参詣。

1641年
チャウポニャーチン(チェイチェッター王の子)、ウテイリエチエ(チェイチェッター王の弟)を殺害。勢力基盤をマレー勢力に求めチャム人と結婚してイスラムに改宗、チャム人を重用。

119: 世界@名無史さん 03/10/10 19:38
<<カンボジアの歴史13>>

この後、カンボジアの宮廷はシャムの援助を受けたウドンの正王派とベトナムの援助を受けたサイゴンの副王派に分裂。カンボジア王室は次第にシャムとベトナムの傀儡と化し、シャム派とベトナム派の王が交互に即位する慣行が成立。カンボジアの領土は東西から両国に蚕食され、19世紀になるとシャムとベトナムはカンボジアの領土をめぐりカンボジア領内で直接戦闘を交えるに至る。

1692年:約5千人のチャム人集団、カンボジアへ亡命。

1731年:サタ2世、カンボジア南部をフエ朝に割譲。

1792年:約1万人のカンボジア人、運河掘削のためバンコクに連行される。

1795年:宰相ベン、バッタンバン、シアムリアップ両州をシャム領に帰属させる。

1806年:アンチャン2世、タイより帰国して即位。ベトナムの宗主権を認める。

1814年:シャムがストゥン・トレン州など北部3州を併合。

1834年:アンメイ女王即位。政務はベトナム人高官が執行。

1841年:フエ朝廷がカンボジアを併合。アンメイ女王はサイゴンへ連行される。

1847年:アンドゥオン王、シャムとベトナムの合意により亡命先のシャムから帰国して即位。

1859年:ノロドム王(アンドゥオン王長子)即位。

1859年:フランス・スペイン連合軍、サイゴンを占領。

1860年:アンリ・ムオー、アンコール遺跡を調査。

120: 世界@名無史さん 03/10/10 19:39
<<カンボジアの歴史14>>

シャム(タイ)とベトナムの動向

中国南部のタイ系民族は数世紀にわたり南方や西方に移動を続け12世紀にはインドシナ半島中央部に到達。
アンコール朝の弱体化に乗じて1238年、スコータイ(バンコクの北400km)で独立、スコータイ王朝を興す。第3代ラームカムヘン王(在位1275~1317年)の治世に躍進。勢力範囲をチャオプラヤ中・下流域、メコン沿岸、ビルマ東南部、マレー半島南部に拡張、またタイ文字の制定、上座仏教の導入など民族文化の形成に貢献。

王国内部のアユタヤ(バンコクの北60km)では一貴族の勢力が王朝をしのぐ勢いに伸長。1350年、アユタヤ朝を建てる。アユタヤ朝は中央集権的な貿易国家。交易で繁栄するが、西のビルマと対立し相互に相手国を侵略。王朝は1767年、ビルマ軍のアユタヤ占領で滅亡。

ビルマ軍からアユタヤを奪還したのがアユタヤ朝の将軍・タークシン。バンコクの対岸トンブリを都としてトンブリ朝を興すが、のちに奇矯な行動により民心が離れ、1781年に王位を廃されたのち処刑されて王朝は一代で終る。

外征中のチャクリ将軍が帰還し、翌1782年にバンコク王朝を開く。王朝は英邁な王に恵まれ、またシャムを英仏両勢力の緩衝地帯とする国際情勢にも助けられてシャムは東南アジア諸国で唯一西洋列強の植民地化をまぬかれる。シャムが国名をタイに変更したのは1939年。ミャンマーのタイ系民族は現在もシャン族と呼ばれる。(ビルマ語では語末の -m/-n/ng の区別が失われた)

タイはインド系文化の受容、上座仏教信仰などカンボジアとの共通点が多く、また現在のタイ人は実質的にはクメール人との混血であるといわれる。

1238~1378年:スコータイ王朝
1350~1767年:アユタヤ王朝
1761~1781年:トンブリ王朝
1782~     :バンコク王朝(別名チャクリ王朝、ラタナコーシン王朝。現在のタイ王朝)

121: 世界@名無史さん 03/10/10 19:42
<<カンボジアの歴史15>>

一方、ベトナム方面ではキン族(ベトナム人)が現在のベトナム北部、紅河デルタに住んでいた。
前203年、趙陀が南越国を建国して中国南部からベトナム東北部一帯を支配。しかし、前111年には漢の武帝が南越国を合併する。以後、ベトナムは千年以上にわたって中国の支配下に置かれることになる。
939年、中国からの侵入軍を撃破してようやくベトナムは独立を実現。北には中国という巨大勢力があったのでベトナムの対外拡張は南進という形を取る。

ベトナム中部にはマレー系のチャム人が住んでいた。漢代に日南郡となるが、192年に独立してチャンパ(林邑)を建国。875年、新王朝インドラプラ朝(占城)に交代。中国方面とマレー方面との中継貿易で繁栄。

1104年、ベトナムがチャンパの領土であったドン・ホア地方を占領。1307年、フエ地方をチャンパから割譲。1471年にはダナン一帯を占領。ここからベトナムの南進が本格化。17世紀半ばにはチャンパを消滅させ、カンボジア領土であったメコンデルタ地方に至る。1698年、サイゴンを取得。1759年にはヴィンロン、チャウドックを取得して現在のカンボジアとの国境線にまで到達する。

ベトナム語とクメール語はともにオーストロアジア語族に分類される。しかし中国文明の影響を受けたベトナムと、インド文明を受容したカンボジアでは文化的な差異が大きい。

122: 世界@名無史さん 03/10/10 19:46
<カンボジアの歴史16>>

5.フランス統治時代

アンドゥオン王がシャムとベトナムの合意により即位した時点では、現実の危機としてカンボジアがメコン川を境に二分されシャムとベトナムに領土を奪われて国家が消滅する恐れがあった。フランスのインドシナ進出はこの状況を一変させる。国家の存続と領土の回復という観点からはフランスの植民地化はカンボジアに対し有利に働いたと言える。

1863年:フランス・カンボジア保護条約調印。

1866年:プノンペンへ遷都。

1867年:シャム、フランスのカンボジア保護権を認め、カンボジアへの宗主権を放棄。

1884年:フランス・カンボジア協約調印。フランスの支配強化。

1887年:仏領インドシナ連邦成立。

1893年:フランス・シャム協約。ストゥン・トレン、ラタナキリ両州の一部を仏領に帰属させる。

1904年:フランス・シャム協約。ストゥントレン、ムループレイ、トンレロパウ3州が仏領となる。
シソワット王(ノロドム王弟)即位。

1907年:フランス・シャム協約。バッタンバン、シアムリアップ両州が仏領となる。
ほぼ現在の領土に回復。

1927年:モニヴォン王(シソワット第1王子)即位

1941年:シハヌーク王(父方でノロドム王の曽孫、母方でシソワット王の曽孫)即位

123: 世界@名無史さん 03/10/10 19:47
<カンボジアの歴史17>>

フランスのカンボジア植民統治の特徴
・近代化や住民の福利には不熱心。
・ベトナム人下級官吏(警官、徴税、刑吏、看守等)を使った間接統治の性格が強い。
・王室内部には無干渉。王室内ではカンボジアの伝統が保持される。

フランスのインドシナ統治形態
・コーチシナ(ベトナム南部):直轄領
・アンナン (ベトナム中部):保護領
・トンキン (ベトナム北部):保護領
・ラオス          :保護国
・カンボジア        :保護国

124: 世界@名無史さん 03/10/10 19:48
<<カンボジアの歴史18>>

6.第二次大戦以降

(1)独立に至る経緯

1945年:3月、日本軍がカンボジアに進駐、フランス軍を武装解除。シハヌークは独立を宣言。

1945年:8月、日本、連合国に降伏。フランス軍はカンボジア戻り独立宣言は無効化。

1949年:フランス連合内におけるカンボジア独立を認める協定に調印。ただし実効支配権は譲渡されず。

1952年:シハヌーク、完全独立を公約して政権を掌握。

1953年:フランスとの間で、司法権、警察権、軍事権譲渡の議定書に調印。完全独立を達成。

即位時のシハヌークはサイゴンで学ぶ18歳の高校生であった。王位継承順位を変更したこの即位はフランスの指名によるもので、王を組しやすしと見たフランスの思惑があった。しかしシハヌークは派手なパフォーマンスで意外な政治力を発揮する。
53年3月、渡仏したフランスでの独立交渉が難航すると交渉を首相に任せ、自身はカナダ、アメリカ各地、日本を回り、国際世論に訴えるキャンペーンに打って出る。帰国後はシアムリアプに赴き、完全独立を達成するまでは首都に戻らないと宣言。
これが功を奏してフランスの譲歩を引出し、同年10月独立を達成するのである。そのあと、国王は使命を果たしたかと問う国民投票を実施、99.8%の支持を得て人気は絶大であった。

125: 世界@名無史さん 03/10/10 19:56
<<カンボジアの歴史19>>

(2)シハヌーク時代

1955年:シハヌーク、王位を父スラマリット殿下に譲渡。自らはサンクム(社会主義人民共同体)総裁に就任。サンクムは全議席を独占。

1956年:東南アジア条約機構(アメリカ主導の反共の集団安全保証体制)への加盟を拒否。
中立路線を誇示。

1965年:5月、アメリカと外交関係断絶(~69年4月)。

1966年:中国で毛沢東が文化大革命を開始する。

シハヌークは国内では共産主義を弾圧する。カンボジア共産勢力の通称「クメール・ルージュ」(赤いクメール)はシハヌークの命名である。クメール・ルージュは地下に潜った。対外的には中立路線を標榜する。中立路線は南ベトナム・タイ・アメリカとの関係を悪化させ、西側からの経済援助を困難にさせた。

この時期は第二次大戦後の東西両陣営が対立する冷戦時代であるが、冷戦の最前線である隣国ベトナムでは熱い戦いが戦われた。戦争の激化に伴い戦火はカンボジアにも飛び火する。南ベトナム解放民族戦線(南ベトナム内の北ベトナム支援組織)への補給ルート(通称ホーチミンルート)がカンボジア領内を通っていたため、アメリカ・南ベトナム軍によるカンボジア領内での「誤爆」が頻発するようになったのである。

これに怒ったシハヌークは65年にアメリカと外交関係を断絶するが、69年には共産勢力の増長をおそれて復交し、西側からの援助導入政策へ転換する。一貫しない政策は左右両陣営から不満を買い、シハヌークは求心力を失っていく。

126: 世界@名無史さん 03/10/10 19:57
<<カンボジアの歴史20>>

(3)ロン・ノル政権(クメール共和国)

1970年:3月14日、シハヌーク出国中にロン・ノル首相がクーデターを敢行。王制を廃し共和制とする。

1970年:3月23日、シハヌークが北京でカンプチア民族統一戦線を結成。
国民にロン・ノル政権への抵抗を呼びかける。

1970年:4~5月、アメリカ・南ベトナム軍がカンボジア領内へ侵攻。

1975年:4月初頭、ロン・ノルアメリカに亡命。

ロン・ノルのクーデターにアメリカが関与したか否かは不明である。しかしアメリカがこれを歓迎したことは確実で、さっそくロン・ノル政権を承認し、カンボジア領内侵攻作戦を開始する。ロン・ノルはこれを容認した。
一方、昨日の敵同士であったシハヌークとクメール・ルージュは反ロン・ノルで結託、カンボジアは内戦に突入する。つまり、「アメリカ+南ベトナム 対 北ベトナム」と、「ロン・ノル 対 シハヌーク+クメール・ルージュ」のふたつの戦いがカンボジア領内で戦われるという 構図になったのである。

アメリカ・南ベトナム軍によるカンボジア領内への侵攻は北ベトナム軍をカンボジア領内に深く進入させる結果となった。空爆も、爆撃と爆撃された北ベトナム軍の離散という連鎖を生み、カンボジア国内での戦火は拡大する。ロン・ノル軍が戦う相手はシハヌークの看板を掲げたクメール・ルージュだけではなくなった。
戦力の乏しいクメール・ルージュではなく、実質的にはこれを助けている歴戦の北ベトナム軍と戦うことになったのである。ロン・ノル軍は敗走し、首都に追い込まれ、そして明け渡す。

127: 世界@名無史さん 03/10/10 19:58
<<カンボジアの歴史21>>

(4)クメール・ルージュ支配(民主カンボジア)

1975年:4月17日、プノンペン陥落。ロン・ノル政権崩壊。

1975年:4月30日、サイゴン陥落。ベトナム戦争終結。

1977年:クメール・ルージュ、国境地帯でベトナム軍と衝突。12月、ベトナムと断交。

1975年4月17日にプノンペンが陥落、2週間後の4月30日にはサイゴンが陥落。
社会の不安定要因となっていた内戦とベトナム戦争という大事件が短期間にふたつながら終息し、カンボジアには平和と安定が戻るはずであった。だがそうはならなかった。
このあとカンボジアでは想像を絶する前代未聞の事態が展開されるのである。

1970年に60万だったプノンペンの人口はクメール・ルージュが入場した時点では戦火を避けて流入した人々で250万にふくれあがっていた。その首都の住民に下された命令は24時間以内に市外へ退去することだった。理由は空襲があるからと説明された。しかし空襲の心配がなくなったはずの頃になっても帰還は許可されなかった。

クメール・ルージュが実施した政策は次のようなものであった。
・都市、交通、通信、通貨の廃止
・教育、仏教、伝統芸能の廃止
・財産私有、家族生活、自由恋愛の禁止、強制結婚の実施
・農業労働、共同生活の強制

128: 世界@名無史さん 03/10/10 20:01
<<カンボジアの歴史22>>

つまり農業だけに価値を認め、それ以外の文明社会の産物は全て否定するという政策である。文明以前の家族制度のようなものさえ否定された。
このような政策は常識を越えるだけでなく想像を越えるものであり、政策と呼べるか疑問ではあるが、その成果について唯一の目標となったはずの農業について見ると、農業生産性は落ちて飢餓を招来する結果となった。無計画でやみくもな潅漑掘削を行なったため多くの場合は自然の水系が破壊され農業自体に被害を与えたのである。

クメール・ルージュは自己の権力への脅威には極度の猜疑心を発揮した。旧政権の関係者が容赦なく抹殺されたばかりでなく、将来の脅威になりうるというだけの理由で大多数の知識人が反革命の名の下に虐殺された。しかもその方法は甘言を用いての騙し討ちであった。また密告が奨励され、告発された者は些細な規則違反を理由に簡単に処刑された。
権力内部での粛正も熾烈で、国外へ逃亡したクメール・ルージュ幹部も多い。東部方面の地方幹部でベトナムへ逃れた者の中にはのちにヘン・サムリン政権の中枢となるヘン・サムリンやフン・センが含まれている。

クメール・ルージュ統治の特徴は原始共産制と恐怖政治であると言うことができる。しかしそれでは表現が穏当に過ぎて、人間の家畜化と自民族の虐殺というような言葉が思い浮かぶ。おそらくその中間あたりが実状に近いのであろう。
クメール・ルージュ支配は3年9ヶ月であり、それほどの長期間ではない。
しかしこの間の人的・物的な損失は甚大であった。虐殺、飢餓、過労による犠牲者の数は150万人から200万人と推定されている。しかも有能な人材ほど集中して抹殺されたのであり、社会経済基盤は壊滅していたから、クメール・ルージュ支配のあとの国家再建には多大な困難をともなうことになった。

129: 世界@名無史さん 03/10/10 20:02
<<カンボジアの歴史23>>

(5)ベトナムによる占領(カンボジア人民共和国、ヘン・サムリン政権[プノンペン政権])

1978年:12月25日、ベトナム軍がカンボジアに侵攻開始。

1979年:1月6日、ベトナム軍、プノンペンを制圧。クメール・ルージュをタイ国境付近へ掃討。
ヘン・サムリン政権樹立。

1982年:反ベトナムのポル・ポト派(クメール・ルージュ)、シハヌーク派、ソン・サン派が三派連合抵抗政権を結成。

1987年:12月、フランスでシハヌーク・フンセン会談(和平会談の開始)

1989年:9月、ベトナム軍、カンボジアから撤退。

ベトナム軍はカンボジアに侵攻してからわずか2週間でプノンペンを制圧した。侵攻の理由については国家の安全が脅かされたからだと表明している。クメール・ルージュはしばしば国境を越えてベトナムに侵入していたのである。
圧政からの人民の解放などの人道的理由については語っていないし、領土的野心
というようなことはもちろん口にしない。ベトナムの真意がどこにあったかは不明だが、結果としてカンボジアをクメール・ルージュの暴政から救ったという功績はあった。

しかしこれでまたカンボジアは占領と内戦状態に陥ったのである。
今度は「占領ベトナム軍+ヘン・サムリン政権 対 ポル・ポト派+シハヌーク派+ソン・サン派」という構図である。
連合三派のうち軍事力をもつのは実質的にはポル・ポト派だけであり、そのポル・ポト派をベトナム軍は短期間にタイ国境にまで追い詰めたのだから軍事力の差は明らかなようだが、事態は両軍がカンボジア西部で小競り合いを繰り返す膠着状態に陥った。その背景には、自国の目前に迫ったベトナムを警戒するタイと、やはりベトナムの強大化を牽制する中国がポル・ポト派支援に回ったという事情があった。

一方、和平への気運も高まってくる。87年のフランスでのシハヌーク・フンセン会談を皮切りに、当事者同士の協議を経て、89年7月にはカンボジアを含む19ヶ国が参加したパリ会議を開催。同年9月にはベトナム軍がカンボジアから撤退。和平交渉障害の要因のひとつが除かれる。その後も各地で会議が重ねられ、91年に和平への合意が成立する。

130: 世界@名無史さん 03/10/10 20:03
<<カンボジアの歴史24>>

(6)国連暫定統治

1991年:10月、カンボジア和平のための国際協定(パリ協定)締結。新憲法成立までの国連暫定統治開始。
社会主義計画経済から市場経済システムへの移行を本格化。

1993年:5月、総選挙実施。得票率はフンシンペック党45%、旧政権党の人民党39%。

1993年:9月、新憲法制定。フンシンペック党ラナリット第1首相、人民党フン・セン第2首相の連立内閣成立。国連暫定統治終了。

和平への合意の内容は、カンボジアに新憲法が成立するまでを暫定期間とし、暫定期間は国連暫定統治機関の監視下で既存の行政機関が行政を執行するというものである。実際の活動にはふたつの要点があった。
第1は各派の武装解除であり、第2は憲法を制定する議員を選出するための総選挙の実施である。

武装解除はポル・ポト派の抵抗で実現しなかった。また、総選挙もポル・ポト派がボイコットしたので完全なものではなかった。しかし、ともかく選挙は90%以上の投票率で実施され、新憲法が制定され、国家としての骨格が出来上がり、国連暫定統治は成果を得て終了する。

131: 世界@名無史さん 03/10/10 20:04
<<カンボジアの歴史25>>

(7)カンボジア自治(カンボジア王国)

1994年:ポル・ポト派を非合法化。

1995年:人口統計で人口976万人。

1997年:7月、フン・セン第2首相がクーデターを挙行してラナリット第1首相を追放。権力を掌握。

1998年:4月、ポル・ポト死亡。

1998年:7月、第2回総選挙。第1党の人民党と第2党のフンシンペック党とが再び連立政権を樹立。

1999年:4月、ASEAN正式加盟。

新生カンボジア発足時点での不安定要因としてポル・ポト派の存在と、不安定な二人首相制があった。
ポル・ポト派は幹部・兵士の投降・離脱などで弱体化、98年にポル・ポトが死亡、政府軍が拠点制圧、99年には壊滅状態に至る。

もう一方の二人首相制のに方は事件が起こった。1997年、ラナリット第1首相はポル・ポト軍を政府軍に編入する帰順交渉を進め7月6日に調印式が行なわれる予定であった。その前日の7月5日、掌握軍事力に優るフン・セン第2首相がこれを違法合意として武力で阻止、ラナリット第1首相を追放して実権を掌握するのである。

このフン・センの権力掌握には正当性に欠けるものがあった。しかし翌1998年の総選挙ではフン・セン率いる人民党が勝利し、フン・センは正式な手続きを踏んで単独首相に就任する。

133: 世界@名無史さん 03/10/13 15:38
>>106-131
30分でわかるカンボジアの歴史。いいね。
カンボジアの歴史は時代ごとに細切れで書かれることが多いから、こうしてまとめてくれるとストーリーが頭に入る。

アンコール朝の期間は630年じゃない?

135: 106 03/10/13 20:09
>>133
そう言ってもらえると嬉しいです。

アンコール王朝の存続期間は630年でしたね。
差が500以上の引き算はできないのかい>おれ



134: 世界@名無史さん 03/10/13 16:24
シアヌークは何を失敗したのかしらぁん。

ベトナム戦争時に、アメリカにすり寄っていたらよかったのか?

135: 106 03/10/13 20:09
>>134
どうなんでしょうねえ。

ベトナムは1946~54年の第1次インドシナ戦争(対仏戦争)を戦って、ようやくフランスから北半分だけの独立を手に入れます。このどさくさに紛れて戦争もせず交渉だけで独立を手に入れたカンボジアは非常にうまく立ち回りましたが、独立できたのはベトナムのおかげだったとも言えます。

ベトナムはその後さらにアメリカと戦って(64~73年、ベトナム戦争)、75年に南北を統一するわけですが、このときカンボジアがアメリカにべったりすり寄ったりしたら、今度はベトナムに征服される危険があったのではないでしょうか。
137: 世界@名無史さん 03/10/13 22:06
>>135 
時代的に、ベトナムに肩入れすれば(即座に)親米のクーデター、アメリカに肩入れすればそのうち親越の侵攻/クーデタ、という状況でしょうねぇ。 

地政学的に、安定が難しいところだったのでしょうか。 
タイは安定していた(ように思える)のですが、王家の伝統の違いなんでしょうか

138: 世界@名無史さん 03/10/13 23:40
>>137 
ラーマ4世(モンクット王、在位1851~68年)は西洋人から学問を学び、英語に熟達して西洋の事情に通じていたと言われます。子女の教育にイギリス女性の家庭教師を雇って「王様と私」のモデルになったのがこの王です。
そういう環境で育ったのがタイの近代化に尽力して独立を保ったラーマ5世(チュラロンコーン王、在位1868~1910年)ですから、タイ王室には西洋列強諸国に対する理解の伝統があったようですね。 

第二次大戦後は軍部独裁政権が続き民主化などの問題はあっても、植民地からの独立という問題を抱えていた他の東南アジア諸国に比べれば格段に安定していたと言えるでしょうね。ベトナム戦争の時には親米政策をとってアメリカに基地を提供、援助を受けて経済発展します。 
バンコク・パッポンの風俗産業もベトナム戦争のおかげで大発展しました(笑)

136: 世界@名無史さん 03/10/13 21:57
ベトナムはソ連の後押しがあったとはいえ強いなー。
国土は狭いはずなのに。

144: 世界@名無史さん 03/10/14 17:56
よく王政復古ができたなあ。
東南アジアの優等生タイとマレーが共に君主制だから、それを参考にしたのかな。

145: 世界@名無史さん 03/10/14 17:59
国民統合の象徴が必要だったんでしょう。

146: 世界@名無史さん 03/10/15 09:35
単に和平のための妥協の産物かと
王子がフンセンに国外追放された以上、王政も名のみ
いずれ共和制に戻るでしょう

147: 世界@名無史さん 03/10/15 10:28
漏れは結構長持ちすると思う。現在の王室には600年近い歴史があるし、
それに、王制を廃したあとの最近の共和制や社会主義の時代がひどすぎたからね。

152: 世界@名無史さん 03/10/17 22:14
カンボジアの地名とか人名の表記って一定していないよね。
シアヌークだったりシハヌークだったり。
ポル・ポトの本名がサロト・サルだったりサロト・ソーだったり。

156: 世界@名無史さん 03/10/18 19:33
>>152
クメール語の文字は表音文字ですが、文字と発音の対応が不規則な場合があります。
その際フランス人は発音より原語の綴りに忠実にローマ字転写する傾向が強かったようです。
これはこれで筋は通っているのですが、そのローマ字綴りをローマ字読みしてカタカナで表記すると、音節文字のカナが元の綴りを表わすことなど出来ないしそういう習慣もないので、単に原語の発音から外れた奇妙な表記になってしまうということになります。
英語の the を「トヒー」、name を「ナメ」と書くようなもので、日本におけるカンボジアの固有名詞の表記にはこの手のものが結構ありそうです。

ポル・ポトの本名「サロト・サル」もそういう例のひとつで、原音に近いのは「サロト・ソー」のほうでしょう。
(現代クメール語では語末の r を発音しません)

「シアヌーク」の場合は、やはりフランス語が絡んでいるようですが事情はちょっと違っていて、h の文字は書かれても発音されないというフランス語の発音規則から来たものじゃないかと思います。
クメール語を知らずフランス語なら知っている人が、「シハヌーク」はフランス語に無知なダサい表記で、「シアヌーク」のほうがカッコイイと思うようなことがあったかどうかまでは知りませんが。

163: 世界@名無史さん 04/01/13 23:05
クメール・ルージュ統治には常識では考えられない要素が多いよね。
なぜこんなことが起きたのかとカンボジアの歴史や社会構造について少しは調べてみて
一応理屈では理解したつもりになった後でも、当時の具体的な事実に接するとやはりまた不思議な気持ちが湧き起こってくる。
75年のポル・ポト軍によるプノンペン制圧直後から支配の実態が少しは外部世界に漏れてはいたんだが、そんな話は反共のデマだと決めつけてハナから受けつけない人が多かったし、ポル・ポト政権がつぶれた後の80年頃になっても、日本では虐殺は事実かと議論されているありさまだった。

164: 世界@名無史さん 04/01/13 23:20
あまりに無意味な殺しを
連発したせいで世界でも半信半疑の人がおおかったっぽいね。
なんせ完全な鎖国政策で情報が外部に漏れないようにしてたんだから。

165: 世界@名無史さん 04/01/13 23:58
鎖国と言ったってそう簡単に情報を遮断できるものではないよ。
クメール・ルージュのプノンペン入城時には国人がいて、フラソワ・ポションは76年に
「カンボジア・ゼロ年」を書いて、自分の目で見た当時のプノンペンの状況を紹介しているし、その後もタイやベトナムに逃れた難民の数は少なくなかった。
話が異常すぎて信じがたかったという側面はやはりあったと思うよ。

170: 和田俊 04/01/14 05:29
アジア的優しさ持つ 
カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、武力解放のわりには、流血の跡がほとんど見られなかった。

入城する解放軍兵士とロンノル政府軍兵士は手を取り合って抱擁。政府権力の委譲も平穏のうちに行われたようだ。しかも、解放勢力の指導者がプノンペンの裏切り者たちに対し、「身の安全のために、早く逃げろ」と繰り返し忠告した。

「君たちが残っていると、われわれは逮捕、ひいては処刑も考慮しなければならない。それよりも目の前から消えたくれた方がいい」という意味であり敵を遇する上で、きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる。 〈中略〉カンボジア人の融通自在の行動様式から見て、革命の後につきものの陰険な粛清は起こらないのではあるまいか。」

179: 世界@名無史さん 04/01/19 19:34
ポルポト派の虐殺なんていまだに信じてる奴いるの?
言われるような大虐殺は一切なかったことが、近年の研究によって証明されている。

181: 世界@名無史さん 04/01/20 08:38
>>179
もれはプノンペンの大虐殺の記念館(正式名称忘れた、頭蓋骨のカンボジア地図があるとこ)に逝ったけど、確かにプロパガンダ目的の施設であることは感じた。
ポルポト派による殺戮のシーンは全て絵画で、決定的な証拠と思しき写真は皆無
あとは、監禁されていた跡やおびただしい死体や人骨の写真だった。
展示されてる資料で「虐殺があった」と結論を出すのは少々抵抗はある。
あと、ポル・ポトもなんか突然死んだって印象だったしね。なんかしゃべられるとまずい
ことがありそう。

188: 世界@名無史さん 04/01/21 02:35
>>181
S21尋問センター、現ツールスレン博物館だね。
そこの所長ドゥイは、予想外にベトナム軍が早く進攻してきたため、虐殺の証拠隠滅が間に合わず、決定的な証拠のほとんどを残してしまったらしい。
ポルポト派幹部、ヌオン・チアは後にドゥイにこういったという。

「党の文書は、すべて焼き払われた。おまえのを除いてな。お前は馬鹿だ」

「なぜ同胞を殺したのか」井上恭介 藤下超 NHK出版

199: 世界@名無史さん 04/01/24 16:27
民主カンボジア発足前後の記事読んだよ。
ロンノル政権が倒れたのが昭和50年4月17日。
>>170の記事が朝日に掲載されたのは4月20日。
同年シアヌーク殿下が元首に推戴。
翌年3月の総選挙で赤色クメール躍進でシアヌーク辞任。キューサンファン元首就任。
4月王国政府内閣総辞職を受け、ポルポト新内閣発足。
意外だったのは当初、サロンサリ共産党総書記がポルポト首相と別人と考えられていたこと。
最初、新首相にはトル・トットという無名の別人がなったと報道されていた。
ポルポト=サロンサリと認識されたのはそれより後っぽい。
あと日本も含め100カ国以上の国がポルポト政権と外交関係を樹立していたのも意外だった。
日本政府は承認に慎重ながら、4月中には承認したんだが、社会・共産・民社・公明は足並みを揃えて政府の承認の遅れを激しく非難してた。

引用元: ・カンボジア史



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