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1: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/07/01 01:49
マイナーですが興味深いハンガリー史について語りましょう。








9: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/07/01 22:35
そういえば「ブラド・ツェペシュ」に関するTVをやってましたが
イスクラは登場してましたか?


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ヤン・イスクラ(1400年 – 1469年)は、ハンガリー王国の武将。傭兵部隊『黒軍』の指揮官で北部ハンガリー(現在のスロヴァキア、当時はハンガリー領だった)一帯の実質的支配者だった。

ボヘミア出身。フス派の急進派に加わりフス戦争に従軍。急進派が穏健派によって滅ぼされた1434年のリパニの戦いでは、生き残り部隊を率いて北部ハンガリーまで逃げ延び部隊の名を黒衛軍と変えて傭兵部隊にした。当時のハンガリー王国は、ハプスブルク家から国王を選ぼうとする一派とオスマン・トルコ戦の英雄であるトランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュ派が1437年から対立していたがイスクラはハプスブルク派だった。


10: 世界@名無史さん 03/07/01 23:00
ヴラドを逮捕した人でしたっけ?

11: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/07/01 23:05
そうです、マーチャーシュの命でブラドの援軍として出撃しています。
で、王の密命でブラドを逮捕しています。

16: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/07/12 01:09
前スレでもちょっと書きましたが、ターボルの残党と思しき人物としてはコショフのペトル・アクサミットという人物がいます。彼は、ターボル近郊の村の小貴族出身と言われます。イスクラが北部ハンガリーで勢力を増していく課程で合流したようです。
彼は、だんだんイスクラに従わなくなり、独自に略奪行為を行うような存在になっていきます。イスクラが一時的にスロバキア地域での支配権を失った時に喰い詰めた兵を糾合し大勢力となりました。
結局、イスクラが戻ってきても、この状態は解消しなかったようで、ヤノシュ・フニャディと4度戦って一度も負けずという強さはイスクラ軍に戻らなかったようです。
アクサミットの勢力圏は恐らくスロバキアのポーランドに近い地域だったと思われますが、イスクラ軍の大拠点であるスピシュ城からそう遠くもない場所にアクサミットに属したと言われる城のあとがあったりして両者の関係がどんなものだったのか興味があるところです。

25: ◆z3kTlzXTZk 03/07/14 03:09
ところで,オーストリアのハンガリー支配への抵抗運動はコッシュート・ラヨシュの臨時革命政府が最後なんですかね?
セルビアがオーストリア皇太子暗殺を起こすなど、20世紀に入っても抵抗運動を続けているのに比べ,諦めが早いような…….

コシュート Kossuth Lajos

[生]1802.9.19. スロバキア,モノク
[没]1894.3.20.

トリノハンガリー独立運動の指導者。下級貴族の出身。プロテスタント系の学校で法律を学び,弁護士の資格を得た。 1832~36年国会議員。反政府的言論活動により 37~40年入獄。釈放後もジャーナリストとして活動し,社会変革の綱領を作成。その理論的・実践的貢献により,47年再び国会に選出され,野党の指導者となった。 

48年のハンガリー独立戦争で最も重要な役割を果し,同年4月ハンガリー王国初代立憲政府 (首相バチャーニュ ) の蔵相に就任,9月国民防衛委員会議長となった。 49年4月ハンガリーの独立,共和制を宣言,執政官として名実ともに国政を指導したが,ロシアの介入によって形勢が不利となり,8月辞任。オスマン帝国に逃れたのち,51~52年イギリス,アメリカでハンガリー独立の宣伝活動を行い,ロンドンに定住,マルクスらと交わった。

26: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/07/14 23:07
>>25
ハンガリーの抵抗運動ですが、エルジェーベト王妃の活躍なんかもあってハンガリーサイドの言い分が認めれて、この後に二重帝国化していきます。ですので、コッシュート達の独立戦争のような形のものはありません。
二重帝国内でのハンガリー政府は帝国内で我を通し、ハンガリー領内の他の民族にマジャール化を強要しようとし、スラブ人の願う三重帝国化を妨害するというような状態を引き起こしていくことになります。
その後のハンガリーの災厄はこの時播いた種が大きく育った結果と私なぞは思ったりします。

コッシュート自身は諦めが悪くて、いろいろと策動しましたが実りませんでしたね。
明治時代の東海散士の「佳人の奇遇」という小説にこのころのコッシュートが登場します。友人が所蔵しているので、見せていただいたことがありますが、旧カナは苦にならないにしても地名人名が当て字で読むのを断念してしまいました。


47: ◆z3kTlzXTZk 03/07/22 00:12
>>26
ご教示いただきありがとうございます.
しかし少数民族へのマジャール化政策は,もっと前からでは?
例えば,
1848年9月には,ハンガリー政府に対抗するクロアティア人・スロヴェニア人の武装勢力がハンガリー本土に侵入したり,1848年10月の,ウィーン政府がハンガリーに対して宣戦布告した際には,マジャール化政策に反発していた少数民族はウィーン政府についたと聞きましたが.


余談.貴腐ワインとラーコーツィ二世が関係しているとは知らなかった. 
ttp://e-wine.suntory.co.jp/selection/yamada/05yamada.html
※リンク切れ

48: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/07/28 01:05
>>47
おっしゃる通りかと思います。マジャール語を強制する言語法の成立は1843年5月の成立です。 一番、これに反発したのが、古くからの王国の伝統を持つクロアチアでした。
ハンガリーに革命政府が成立したとき、クロアチア総督のイエラチッチ将軍はウイーン宮廷と結びつき、クロアチア王国をハンガリー王国から切り離そうとしましたが結局、ウイーン側に利用されただけという結果になりました。
お書きになっておられるのはイエラチッチのクロアチア軍がハンガリーへ侵攻した際の話ですね。
スロバキアやトランシルバニアでもハンガリーの革命政府が成立しとき、少数民族は自言語の使用を求めましたが、政府はこれを退けています。

後年ドナウ連邦構想を言い出すコッシュートですが、この当時はマジャールしか見ていなかったようで・・・。
フランスにいた、ポーランドの亡命政府のチャルトリスキ伯爵はコッシュート達とイエラチッチを結びつけようとしたそうですが、双方の考えがまとまることは無かったのでした。

ラコーツィ・フィレンツ2世の本拠はトカイ地方で今も彼ゆかりのワイン醸造所があります。彼はハプスブルグ家の背後を突くためにルイ14世に利用されたようなもので、後にフランスに亡命し、さらにトルコへ逃れ再起を図りましたが、同地で客死しました。

因みに、彼にくっついてフランスへ逃れたマジャール騎兵がフ
ランス軽騎兵の元祖になります。

51: 消印所沢 ◆z3kTlzXTZk 03/08/03 03:23
>>48
イエラチッチはクロアチアでは広場の名前になってますね,確か.

これを見ると,フランス革命の余波でハプスブルク家勢力圏では,ほうぼうでガタガタしていたようですから,そういうハンガリー国内の民族対立がなければ,完全独立を勝ち取っていたかもしれませんね.

http://www.geocities.co.jp/MusicHall/8541/kenkyuu2-11.html
※リンク切れ

あるいはもう暫く力を蓄えておいて,ナポレオンと結びつくことができたなら.

30: 世界@名無史さん 03/07/15 22:11
マジックマジャール伝説も今は昔だな・・・
マジック・マジャールとは、1950年代前半に4年間無敗の記録を作り、ヨーロッパ最強といわれたサッカーハンガリー代表チームの通称である。

31: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/07/15 22:35
>>30
ハンガリー動乱で主力選手が亡命してしまったのでしたっけ。
(プスカシュ選手等)
今のハンガリーのサッカーはお世辞にも強いとは言えませんね。

37: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/07/19 23:23
トプカプ宮殿を紹介する番組をやっていたので見てましたが、 破竹の快進撃のオスマン帝国軍をフニャディ・ヤーノシュはよくベオグラードで敗ったもんです。この時負けていたら、ウイーンくんだりまでトルコ領になったかも・・・。

ところで、大砲を作ったウルバンの名前はよく聞きますが、その後の彼がどうなったかというのは伝わっているのでしょうか?

38: 世界@名無史さん 03/07/20 05:02
フニャディ・ヤーノシュはあだなが格好良い。
「白の騎士」

40: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/07/20 23:03
>>38
それって当時あった綽名なんでしょうか。
アルバ・ユリアの彼の墓所の像はイタリア式の甲冑を身にまとった姿です。銀色に輝く甲冑だったのでしょうか・・・。

53: 世界@名無史さん 03/08/04 19:57
ドイツから車でハンガリー行った。
思ったほどたいしたことなかった。
金の無駄だった。

おわり。

54: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/08/05 00:09
>>53
城とかを見られるならドイツのほうがいいでしょうね。
ハンガリーの場合はラコーツィ戦争の後で主だった城が破壊されたりしてますから。
ハンガリー王国時代の城を見ようと思うとスロバキアやトランシルバニアの方が残っているでしょう。

まぁ、金の無駄ということに関してはご愁傷様としか言いようがないです。

55: カレス ◆AUvFvohlXU 03/08/05 03:57
>>54
数年前にハンガリーの城っていう写真集を買ったんですよ。
(宮殿や単なる館も含みますが)
掲載数としても、また保存状態の良い見ごたえのあるものも、半数以上がスロヴァキアやルーマニアやクロアチアにある城や館なので、実際は、ハンガリー史上のハンガリーの城なんですけどね。
今のハンガリー国内には残っているのは、この手の写真集にのらないようなのが多くて、ちょっと物足りないです。歴史にもっと興味があれば、それはそれで見る価値もあるんでしょうね。

ドイツといえば、ロマンチック街道沿いの城とか、古城街道とかいつか車で移動しながら観てみたいです。あとフランスのロワール古城巡りとか、行ってみたいなあ。

56: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/08/05 13:18
>>55
3冊構成のマジャール語の太い本ですか。
私は英文の「ハンガリーの城」「ハンガリーの宮殿」という写真集を持っています。
城に関して言えば旧王国の城でまともに建物が残っているのはスロバキアが多いのでは。
コシュツェからブダペストへ帰る道すがらいくつも保存状態の良い城を見ました。時間がなくて見学できなかったのが残念です。

廃墟になった城も、変に復元されているより、趣があって私は好きです。イスクラの居城の一つだったゾーヨム(現ズボレン)城なんかは建物はちゃんと残っているのですが、内部が完全に博物館に改装されてしまって興ざめも甚だしかったです。

68: 世界@名無史さん 03/08/17 12:49
ハンガリーは曲がりなりにも列強になった時期もあったね。

70: 世界@名無史さん 03/08/17 15:59
>>68
オーストリア・ハンガリー二重帝国の場合、イングランド・スコットランドの関係と同じく同君連合でありながらハンガリーはオーストリアに従属する関係にあったから、実質的にはハンガリーが列強だったのでなく、オーストリアが列強だった。
マリア・テレジアのそれは、ハンガリー人も同じカトリック教徒であるという宗教的観点と、帝国維持のためハンガリー人を懐柔する策としての政治的な目的があった。
後者の策が現在にも生きているという面がある。
同様の二重目的は娘を嫁がせるという方法でフランス王国に対しても向けられた。

71: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/08/17 18:20
>>68
アンジュー王朝時代のカーロイ・ローベルト王、ラヨシュ1世の時代、あるいは少し時代が下がったマーチャーシュ・コルヴィヌス王の時代は中欧の強国と言えたでしょう。
二重帝国時代のことを言っておられるのなら>>69氏の書き込みのとおりかと思います。

69: 世界@名無史さん 03/08/17 15:26
オーストリアもハンガリーも対等に扱ったアリア・テレジアをハンガリー国民は敬愛してるとか

88: 世界@名無史さん 03/08/25 21:41
600人以上の少女を殺した殺人レコードホルダー、ハンガリーのエリザベート・バートリ

90: 世界@名無史さん 03/08/25 22:21
>>88
そんなに殺したのか?
ハンガリー人て野蛮だな

91: カレス ◆AUvFvohlXU 03/08/25 23:28
>>90
この人は「女ドラキュラ」ってあだ名がついてるくらい有名です。
バートリ家に嫁いでから、スロヴァキアの山中にある城で処女の生血を浴びると美容に良いとか老化しないとかの理由で、近辺の娘達(=スロヴァキア人?)を殺しまくって、血の風呂に入ってたそうです。確かウィーンのバートリ家の館でもやってしまって、バレたんだと思う。
最後は上述の城の一室に死ぬまで幽閉されてたとか。

93: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/08/27 00:08
>>91
嫁ぎ先はハンガリーの大貴族ナーダシュディ家で舞台となったと言われるのはスロバキアのチェイテ城です。ナーダシュディ家は他にも城を持っていましてシャールヴァール城は現存しています。
エルジェーベト・バートリーについては以前、「しい坊」さまが具体的に書籍名も挙げて書いておられたましたが冤罪説もあります。

以下前スレより


474 名前: しい坊 投稿日: 02/01/15 09:55
ちなみに、『ハンガリー大百科事典』(アカデミー出版、1994)に
はバートリ・エルジェベトは以下のように紹介されています:

エチェディ=バートリ・エルジェーベト (ecsedi Báthori Erzsébet)。
1560年、サボルチ県 (Szabolcs vármegye) ニールバートル郡 (nyírbátorijárás) ニールバートル村 (Nyírbátor ) 生れ、1614年8月21日、ニトラ県 (Nyitra vármegye) ヴァーグーイヘイ郡 (vágújhelyijárás) チェイテ村 (Csejte) [現在スロヴァキア共和国東スロヴァキア道 (Západoslovenský kraj) トレンチーン郡 (Trenčínokres) チャフティツェ村 (Čachtice)]没。

エチェディ=バートリ・ジェルジュ (ecsedi Báthori György)
(1571年以降生) とショムヨーイ=バートリ・アンナ (somlyói BáthoriAnna) の娘。バートリ・イシュトヴァーン (Báthori István) (1555~1605)の妹、ナーダジュディ・フェレンツ (Nádasdy Ferenc) (1555~1604) の妻 (1575年より)。

94: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/08/27 00:10
結婚により5人の子供(2男3女)を生む。娘のアンナ (NádasdyAnna) は高名な詩人のズリーニ・ミクローシュ (Zrínyi Miklós)の叔父のザラ県知事ズリーニ・ミクローシュ (Zrínyi Miklós)の妻となる。娘のカタリン (Nádasdy Katalin) はホモンナイ=ドルゲト・ジェルジュ (Homonnai Drugeth György) の妻となる。
バートリ・エルジェーベトは早く夫を亡くし、その後未亡人として城と数百ホルドの領地を含む荘園を管理し (1 hold=1,600ネージセゲル=約0.57 ha)、外国を渡り歩く学生らの援助をした。

一部の資料によれば1609年にベンデ・ラースロー (Bende László)という名前の貴族との再婚を望んだが、彼女の遺産の自分らの取り分を心配する親戚らによって妨害されたという。
この時から彼女に対する中傷誹謗攻撃が始まる。従兄弟のバートリ・ガーボル (Báthori Gábor) が彼を失脚させようと謀るウィーン宮廷の一部の勢力との対立を深め、対ハンガリー戦の準備を進めていた1610年12月30日にバートリ・エルジェーベトは、彼女がチェイテの城で農奴の若い娘らを拷問に掛け、一部の者を殺害せしめたという容疑で逮捕された。裁判の記録によれば彼女は精神に異常をきたし、それらの殺人を行なったということになっている。

95: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/08/27 00:14
これらの告訴を最初に考え出したのは副王トゥルゾー・ジェルジュ (Thurzó György) であった。 1611年1月にトゥルゾー副王が裁判長を務める裁判所は彼女の無実を証明しようとした従僕を断頭の刑に処し、2人の女中を焚刑に処し、バートリ・エルジェーベト本人はチェイテの居城に幽閉した。彼女は貴族世論や国王の支持を取り付けて再審を求めたが、副王はこれに抵抗した。バートリ・エルジェーベトはほどなく不可解な状況の下で死亡した。

その後伝説は彼女を血で湯浴みをする怪物として描くようになった。しかし最近の推測では遺産相続人のいないまま未亡人となった彼女は政治的な理由による思想的な領地裁判の常套手段の犠牲者であり、彼女の密かな反ハプスブルク、親トランシルヴァニア政策のために幽閉されたものとされる。彼女が犯したとされている犯罪のうち、確実に彼女の犯行だと証明されたものは1件もない。

彼女を描いた有名な文学作品にはファーイ・アンドラーシュ著『2人のバートリ・エルジェーベト』(Fáy András: A két Báthori Erzsébet) (1827)、シュプカ・G著『呪われた女 (Supka G.: Az átkozott asszony) (1941)などがある。

参考文献:
レクサ・D『バートリ・エルジェーベト』(Rexa D.: Báthori Erzsébet)(1908)、ナジ・L『悪名高きバートリ一族』(Nagy L.: A rossz hírű Báthoryak)(1984)、ペーテル・K『チェイテの女城主、バートリ・エルジェーベト』(Péter K.: A csejtei várúrnő) (1985)、サーデツキ=カルドシュ・I『バートリ・エルジェーベトの真実(Szádeczky-Kardoss I.: Báthori Erzsébet igazsága) (1994)。

[Magyar Nagylexikon, III. köt., Bah-Bij, Akadémiai Kiadó, Budapest, 1994]

とのことです。
以上は前々ハンガリースレの書き込みの引用です。
ご参考までに。

96: カレス ◆AUvFvohlXU 03/08/27 18:09
ヤーノシュさま
詳しい情報どうもです。
私はこのバートリ家(ナーダシュディ家だったかも)の子孫にあたる作曲家のWEBサイトで読んだ話(=伝説かな…)しかしりませんでした。
もうURLを忘れちゃったのですが、この作曲家はバートリ・エルジェーベトのオペラを作曲したので、その上演のスポンサーを募集するためにWEBサイトを作ったそうです。

97: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/08/28 00:08
カレスさま
そのページは私も見たことがあります。しい坊さまにご教示いただいたこと以上には私もわかりません。非常に興味があるところなので、これからも調べていきたいと思っていますが・・・。

それにしてもどんな内容のオペラなんでしょうね・・・。

98: カレス ◆AUvFvohlXU 03/08/29 17:08
ヤーノシュさまもご覧になったことがあるとは驚きました。
オペラは、伝説をもとにしたストーリーだったと思います。
サイト閲覧者からのメールを紹介してるページに、スロヴァキア人からの、スロヴァキア人の娘を殺しまくった人物を主役のオペラなんてふざけるな、という内容のメールもありました。

99: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/08/30 23:29
>>98
大量に人を殺した人間を主人公にしたオペラがけしからんなら判りますが・・・。

それにしてもネット上も含めて一般的に得られる情報は大量殺人説ばかりのようです。しい坊さまがご紹介くださった本はマジャール語の上に既に絶版になってるみたいですし・・・。

100: カレス ◆AUvFvohlXU 03/08/31 05:00
>>91で私が書いてるように、そっちで有名ですからねえ…
それをネタにスロヴァキアが公式に謝罪要求をしてるわけじゃないから大してハンガリー人も気にしてないんじゃないでしょうか。
直系じゃないにしろ、子孫が伝説の方を土台にオペラ化しちゃうくらいだし…

101: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/08/31 14:05
彼女の血を引いているとなるとナーダシュディ家が現存してますね。
ズリーニ家・フランコパン家といった大貴族と一緒にハプスブルク家に対する謀反を企てたとして当主が処刑され、財産没収となったのですが、後に子孫が武功を挙げて貴族として復活してます。戦後、ご当主はカナダに亡命されておられたと思いますが、現在はハンガリー国内にナーダシュディ財団とかいう組織を作っておられます。

102: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/04 23:33
バートリーの直系は絶えているようです。
分家筋だと残っているのかもしれませんね。
以前、ハンガリーの合唱団が来日したとき、メンバーの名前にガライ他中世のハンガリー史に登場する大貴族の名を見つけてその血を引く人なのかと思ったことがあります。
会食する機会があったので聞けばよかったと今になって思っています。

103: 胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg 03/09/05 00:14
自分の知り合いのマジャール人夫婦が子供出来たんで観にいったんですがケツが青いんですよ。

これってトルコ系かなんかの血が混じってるんでしょうか?
両親の顔はスラブ系なんですけど。

104: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/05 01:02
マジャール人は元々はアジア起源の遊牧民族です。
周辺の民族との混血が進んで、今や外見ではそれとわからぬようになりましたが、赤ちゃんには蒙古斑が見られることがあるそうです。

105: 胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg 03/09/05 21:17
>>104
ありがとうございます。
そういえばたまにマジャールの古い物にはモンゴロイドみたいな顔の肖像画がありますね。

あれはモンゴル来襲後にキリスト像がモンゴロイドっぽく描かれているのと同じ理由だと思っていましたが、どうやらそれだけではないようですね。

106: 世界@名無史さん 03/09/05 21:55
マジャール人ってフン人のことだよな?

107: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/05 22:11
「彩色年代記」(ケーペシュクロニカ)とかラースロー1世の伝説を描いた画なんかでしょうか。モンゴロイドぽいというのか独特の絵柄ですね。
肖像画には非常に興味がありまして、もし良かったらどこでご覧になられたのか教えてください。

>>106
フン人=フン族ということだとすれば違います。
ただ、マジャール人の建国神話ではアールパード家の祖先を遡るとフン族のアッチラ大王にいたるという伝説はあります。遊牧民族であった彼らにとってアッチラ大王は英雄だったでしょう。

112: 胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg 03/09/06 23:52
>>107
例のマジャール人夫婦の旦那の方は
彼が日本に留学してた頃に柔道を一緒に練習した仲なんですが、私がトルコに遊びに行った時に 「こっちに来るんなら、ついでにうちにも遊びにきて。」と言われたのでハンガリーの彼の実家まで遊びに行ったんですよ。

その時に12~13世紀頃?の貴族の肖像画ってのを見せられたんですが、眼が細くて、彫りの浅いアジア人風の男の肖像画でした。タレントの堺正章を端整な顔立ちにしたような男の肖像画でした。どうも彼の家の祖先の物らしいのですが、ダニエルとは全く似てませんでした。これは時代からしてモンゴルの影響があった頃の物だろうなと思ったのです。

でも、貴族の子孫の割には普通の家に住んでたんで、没落貴族の子孫なのか?とも思いましたが。

ちなみに彼の息子の「ベンデグーズ」とは彼らマジャール人の英雄からとった名前だそうですが、キリスト教改宗以前の英雄なんでしょうか?聞いた事ありません。

ベンデグーズって知ってますか?

114: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/07 01:16
>>112
ハンガリーの貴族は戦後所領を没収されてますから暮らし向きは良くはないのではないでしょうか。殺されたり、亡命を余儀なくされた方も多かったと聞きます。
また、西欧諸国と違って中小貴族の数がやたらと多かったのも特徴で「わらじ貴族」と言われるような貧しい方もいたとのこと。日本で言えば士族が全部貴族扱いという感じになるのでしょうか。

肖像画、非常に興味深いですね。ハンガリーにはマジャールの他にモンゴルに追われて逃げ込んできたクマン人という遊牧民族もおります。当時の国王ベーラ4世の妃もクマン人でした。

因みにベンテグーズというのはフン族の大王アッチラの父親の名前です。キリスト教導入以前の英雄たちの名前をつけるのが流行ったことがありまして、それ以来、一般的な名前になりました。

109: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/06 01:58
失礼しました。
フン人はマジャール人の先祖ではないですと書こうとしたら意味不明の文章になってしまいました。
御寛恕願います。

余談ですが、アッチラ大王の墓がハンガリー国内にあるという伝説があるらしく、徳川の埋蔵金ではないですが、宝探しを続けている人がいるそうです。

111: 世界@名無史さん 03/09/06 05:05
ハンガリーという言葉からすればフンの国っぽいんですが、マジャールはフンとは無関係でウラルのあたりにいたのが、現在地を占拠したのは9世紀末というのが定説です
ウエブスター地理事典によれば894~901年頃とかフンとは500年くらいタイムラグがあります

113: 世界@名無史さん 03/09/07 00:22
>>111
「ハンガリー」は「ホノグール」という民族名が語源だという説を何処かで見た気がするのですが…
詳細を御存知の方がおられましたらご教示ください。

114: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/07 01:16
>>113
ハンガリーの語源はパノニア平原に定住する以前にトルコ系のオノグル人の傘下にいて、彼らと同一視され「オノグル」と呼ばれていたことによります。 
115: 胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg 03/09/07 03:51
『シベリアに仲の良い兄弟がいた。兄は魚が好きで魚をとりに東の果てまで行った。
 弟は肉が好きで良い放牧地を探して西の果てまで行った。』
『その時のお兄さんの子孫が日本人で、弟の子孫が我々マジャールなのさ。』
とか言うような事をダニエルのお母さんに聞いたことがあるような気が・・・・。

これってわざわざ日本からハンガリーまで遊びにきた私をねぎらう言葉だったのか、本当に有るマジャールの民族の言い伝えなのか、どっちなんでしょう?

当時は『息子を留学させるだけあって、お母さんも親日家なんだな。』位にしか思いませんでしたが。

118: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/07 14:57
>>115
言い伝えとしては無いのではないかと思います。
しかし、それに類する話を私も言われたことがあります。
魚が好きというのではなく、「俺は西へ行く、お前は東へ行け。」と言って別れたという話でした。

歓迎の意味で言ってくださったのだと思いましたが、考えてみるとなんとも壮大なスケールの話ですね。

121: 胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg 03/09/09 00:27
マジャール人は遊牧民出身の民族だそうですが、その出自を利用してモンゴルの皇族と血縁関係を結んだりはしなかったのでしょうか?

123: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/10 01:42
>>121
モンゴルと通婚というのは王族では例がないと思います。
モンゴル侵入時の王ベーラ4世の息子イシュトヴァーン5世の正妻がクマン人出身とかその息子ラースロ4世に至っては正妻を離縁してクマン人の王族と結婚しようとしたという例はありますが・・・。

124: 胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg 03/09/13 16:18
>>123
ギシュクラ・ヤーノシュさんありがとうございます。
クマン族とかクマン人とか言われる人々ってのはチェルケス族やキプチャク族と同じチュルク系の人のことなんですか?

彼らとの通婚をマジャールの王族が求めた理由はやはり彼ら遊牧民のもつ強大な軍事力が目当てだったのですか?

125: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/14 00:24
>>124
クマン人はポロヴェーツ人とも言われチュルク系の遊牧民族の一派だそうです。

ハンガリーのアールパード王家と血縁関係が出来たのはおっしゃる通り、彼らの軍事力を期待してのことです。金印勅書で有名なアンドラーシュ2世の時代に大貴族の力が王がどうこうできないほど強大化してしまい(王妃が大貴族に暗殺されても王が手出しできないほど・・)、彼の息子のベーラ4世は王権の回復を計って悪戦苦闘する破目になりました。
そこへモンゴルに追われたクマン人がハンガリー王国へ逃げ込んできました。ベーラ4世は彼らの軍事力を対大貴族、そして予想される対モンゴル戦に役立つと期待して国内に受け入れました。

しかし、受け入れてみると遊牧生活をするクマン人と畑を荒らされる農民の軋轢が高まり、大貴族達が農民を煽動した結果、クマンの族長が殺されて内戦状態となってしまい、クマン
人は国を去ります。そこへバトゥ率いるモンゴル軍が来襲、ベーラ4世はシャイヨー河畔のムヒでモンゴルを迎撃するも大敗し国内はモンゴル軍に蹂躙されて滅茶苦茶になってしまいます。彼らが去ったあと、国を建て直すためにベーラ王は再度、クマン人を国内に呼び戻し王子イシュトヴァーンを族長ケテニュの娘と結婚させます。この王子が後のイシュトヴァーン5世でその息子がクン・ラースロと呼ばれるラースロー4世です。
彼は母方のクマン人の軍事力をバックにして大貴族たちに対抗しようとし、悲劇的な結末を迎えることになりました。

彼については日本語のサイトで詳しく書かれたものがあります。
検索するとすぐお分かりになると思いますので、一度ご覧下さい。

126: 胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg 03/09/14 01:29
ラースロー4世は母から受け継いだ遊牧・チュルク系文化を大事にしたのでしょうが、当時の民衆から見ればとんでもない異教徒の王にしか見えなかったのでしょうね。

ポロヴェーツ人ってアレですね。
ボロディンのオペラ『イーゴリ公』に出てくる「韃靼人の踊り」の韃靼人のことですね。
イーゴリ遠征物語等もオペラに影響されて読んだのですがかれらルーシの貴族たちも遊牧民の軍事力目当てに通婚したり同盟を結んだりしていたみたいですね。

マジャール人も彼らの強大な軍事力を目当てにしていたようですが、マジャール人自身はかっての遊牧時代にもっていたはずの騎射技術や騎馬戦術はキリスト教を受け入れ定住農耕生活を送るうちに失っていたのでしょうか?

127: 胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg 03/09/14 01:51
そういえば、学生時代に柔道留学に来ていたダニエルと話して思ったことなんですが、ハンガリーって他のヨーロッパ諸国の選手に比べると体格で劣ってる選手が多いんですがやたら柔道が強いんですよ、100kg以下級で有名なコヴァチを筆頭にして。

それでダニエルに
「お前らの国にもモンゴル相撲やグレッシュみたいな柔道・レスリング系の民族格闘技があるんか?」
って聞いたんですがダニエルは
「いや、無いよ。伝統的な格闘技はフェンシングぐらいかな?」
って言ってました。

この間電話した時も「お前ら元遊牧民なんだからなんかあるだろ?」
って聞いたんですが「う~ん、多分無い。有ったとしても俺は知らない。」
とのことでした。
モンゴル・チュルク系民族なら必ず相撲・レスリング系の格闘技が伝統的スポーツとして有るもんなんですが彼らマジャール人はチュルク系民族の影響を大きく受けているはずなのにこんなことは影響されなかったんですかね?


131: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/16 00:47
格闘技に関しては聞きませんね。仰る通り相撲の類なんかがあっても不思議ではないように思いますが・・・。

ハンガリーのフェンシングは強いです。
強豪が揃っています。日本の選手でハンガリーへ留学してる方がおられてそこのホームページを見ていると国内選手権でオリンピックのメダリストが負けたりするほど選手層は厚いそうです。因みに確か、サーベルはハンガリー起源だと聞きました。
サーベルのルールでは峰の側の切っ先で払っても有効な攻撃になるのですが、これってマジャールの刀は切っ先部分だけが両刃になっていることによるのでしょうか。

130: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/16 00:43
>マジャールの騎射術

ヨーロッパに侵攻してきた頃は有名で逃走すると見せかけて、振り向きざまに撃つという射撃術は大いに恐れられたといいますモンゴル騎兵と比べられると、既に定住化した後ですから部が悪かもしれませんね。
ムヒの合戦自体はハンガリーサイドが狭いところに車陣を作って夜営しているのを襲撃されて大敗したというありさまですので、射撃術以前の話なのですが・・・。

ハンガリー騎兵自体は後々まで勇猛を持って知られています。
フランス軽騎兵(フサール)は元々ラコーツィ・フィレンツ2世がフランスに亡命した時についていった連中だったりします。軽騎兵のど派手な服装自体、元々ハンガリー騎兵のユニフォームからきているそうです。

133: 128 03/09/16 02:15
>ヨーロッパに侵攻してきた頃は有名で逃走すると見せかけて、
>振り向きざまに撃つという射撃術は大いに恐れられたといいます

これはパルティアン・ショットのことだね
...スキタイ系の民族で、メディア人の衣服をまとい、アーリヤ人の言葉を使用した。
すぐれた騎馬民族で、弓の名手でもあった。
戦いにおいては、しばしば馬で逃げるふりをして、ふりむきざま敵に矢を放った。
これが英語の「パルティアン・ショット(すてぜりふ)」の語源となった。 
142: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/17 01:52
>>133
これまた情報感謝です。遊牧民族に伝えられる一般的な騎射術だったのでしょうか。捨て台詞の語源とは知りませんでしたよ。
157: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/24 00:07
パルティアンショットに関して面白い話を読みました。 
なんでも、本当のパルティア人の騎射術には馬に逆に跨って、後ろを向いたまま馬を走らせて、後方に向かって射撃するのだとか・・・。そういう画があるのだそうですが、曲乗りというかなんというか、聞くだに難しいことのように思えます。

141: 胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg 03/09/16 23:11
ロシアから柔道留学に来ていた友達もうちの学校にいましたのでロシア史なんかはそいつに影響されて勉強しました。そいつの家も元はバトゥ家の血を引くロシア貴族の家柄だったそうです。
マジャール人は自分たちがアジア出自の物だという事を誇りにしているそうですがロシア人は違うようで、バトゥ家の血を引いていても誇りに思うどころか馬鹿にされるそうです。

何故か私の周りにいる外人は高貴な血筋の奴が多いですw

143: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/17 02:09
>>141
ジュチ=ウルスの末裔ですね。クリミアタタールの系統の方でしょうか。
クリミアハン国はかなり後まで残っていますね。
トランシルバニア方面には結構後まで攻め込んで来ていたという話を戦前にかの地を旅した英国人旅行者の紀行文で読んだことがあります。

バトゥの血を引いていても馬鹿にされるというのもなんか悲しいですね。
ハンガリー人の心中には白人・キリスト教世界の防衛者だという自負と勇猛な騎馬民族の末裔としての誇りが混在しているように思います。

しかし、興味深い友人の方が多いですね。正直に申し上げてうらやましい
ですよ。



166: 胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg 03/09/29 23:51
ハンガリーは何故、正教ではなく、カソリックを選んだのでしょうか?
地理的には正教を選んでも良かったんでしょうが・・・。
何故なんでしょう?詳しく知らないので誰かお教えください。

167: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/30 00:18
隣国であるドイツからの攻撃を回避するためです。
かつては侵略をほしいままにしていたマジャールの騎馬軍団も955年にオットー1世にアウグスブルク近郊のレヒフェルトで大敗してからは守勢に回るようになりました。
このまま在来の宗教を奉じていては滅ぼされると判断したアールパード家のゲーザ大公がキリスト教に帰依、息子のヴァイクとバイエルン王女のギーゼラを結婚させました。このヴァイクが洗礼名イシュトヴァーンでゲーザの死後初代国王となるのです。

さて、もちろん在来の宗教を奉ずる連中もだまってはおりません。
ゲーザの死後、昔からの慣習に従い一族の最年長者にしてイシュトヴァーンの叔父、バラトン湖地方に勢力を有するコッパーニュは族長の地位とゲーザの未亡人シャルロタとの結婚を要求、イシュトヴァーンは自らに族長の地位はあるとしてこれを拒否しました。

168: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI 03/09/30 00:38
外国からの騎士を主体としたイシュトヴァーンの軍はコッパーニュを破り、殺害されたコッパーニュの死体は4つ裂きにされてハンガリーの3つの城の門に釘付けにして晒され、1つはトランシルバニアに勢力を有する族長ジュラに送りつけられました。

さて、このジュラの一族ですが、トランシルバニアを勢力圏とする彼らはビザンツに接近しジュラ自身がコンスタンチノープルへ赴き洗礼を受けています。
この後、イシュトヴァーン1世の侵攻でジュラは敗北してしまいますが、在来宗教は弾圧されたものの、東方正教会が禁止とかいうことはなかったようです。
アールパード家の当主でビザンツ皇帝の娘と結婚した例はままありますし、ベーラ3世のようにビザンツ皇帝の養子になっていた(結局、実子ができたので皇帝位にはつけず)人もいたりします。王が正教会を立てたという例もあるそうです。

何時頃からカトリック王国化したのか私にはわかりませんが、アールパード家が断絶してイタリアのアンジュー家のカーロイ・ローベルト王が即位してからだろ
うかと思ったりします。
モンゴル来襲時のベーラ4世以降はビザンツ皇女との結婚(ベーラの場合はニカイア皇帝ですが)がないのでそう考えた次第です。
どなたか、詳しい方にご教示賜れば幸いです。

引用元: ・ハンガリーについて III




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