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1: チンギス・カン第二次即位800周年記念(もう年の瀬だけど) 2006/12/07(木) 04:03:55 0
※チンギス・カン即位の記録

「かようにして毛氈の幕帳に住まいせる国民をば(ことごとく)服ろわせて、寅の歳、オナン(河)の源に集いして、九つの脚ある白い纛をうち立てて、(大クリルタイを開き、)チンギス・カハンにカンの称号をここにおいて(正式に)捧げ(奉っ)た」
(『元朝秘史』巻八、202段 村上正二訳)


「——九脚の白い纛が据え付けるよう命じ、チンギズ・ハンという尊称が彼に定められ、ナイマン部族の一半の帝王ブイルク・ハンの戦争へ彼が出発し、ブイルク・ハンを捕らえることのための、チンギス・ハンの大クリルタイの章 祝福と吉兆によって、バルス・イルすなわち虎の年、従ってヒジュラ暦602年(ラジャブ月)に入り、また春の初めに、チンギズ・ハンは九本の脚の白いトク(纛)をうち立てるよう命じられた。群集とともに壮麗さとともに、大クリルタイが催された。そのクリルタイにおいてチンギズ・ハンという尊称が彼の上に定められ、祝福をもって玉座の上に座った。」
(『集史』「チンギス・ハン紀」)

「(太祖)元年丙寅、帝大會諸王羣臣、建九游白旗、即皇帝位於斡難河之源。諸王羣臣共上尊号曰成吉思皇帝」
(『元史』太祖本紀)










3: 世界@名無史さん 2006/12/07(木) 04:44:24 0
○いわゆる『集史』パリ本のチンギス・カン即位の場面

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真ん中の人物がチンギスその人。彼が顔を向けている前列の3人は4人の嫡子たちのうちのいずれかだと思われる。白い房の垂れた纛の下に座る二人はトルイとテムゲ・オッチギンあたりかとも言われたりするが不明。

○グユク・ハンがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた勅書
ttp://asv.vatican.va/it/doc/1246.htm
※リンク切れ

ローマ教皇庁がモンゴル本土へ派遣したプラノ・カルピニのジョバンニ修道士が持ち帰った
勅書で、アラビア文字で書かれ、冒頭3行はテュルク語だが、文章全体はペルシア語で書かれている。文章作成にはモンゴル宮廷にいる間に大書記(ビチクチ)チンカイらが携わり、ジョヴァンニ修道士らと綿密な打ち合わせでラテン語訳も併せて作った事が彼の旅行記に記録されている。

訳文は中央公論の『大モンゴルの時代』やA.C.M.ドーソンの邦訳『モンゴル帝国史』第二巻などにも載っている。ハンガリー、ポーランド方面へのバトゥの遠征軍による劫略に対する教皇庁側の非難を一蹴し、欧州カトリック教圏の君主たちを引連れ、モンゴル宮廷へローマ教皇自ら伺候してモンゴル皇帝たるグユク・ハンの面前で帰順を宣言するよう督促する内容になっている。
文末にヒジュラ暦で発令された年月日(H.644年ジュマ-ダ第二月最後の日=西暦1246年11月11日)が付されている。ちなみにウイグル文字によるモンゴル語で書かれたモンゴル皇帝の朱印がふたつ捺され、「イェケ・モンゴル・ウルス」という「国号」が出てくる。

10: 世界@名無史さん 2006/12/10(日) 11:18:56 0
昔は蒙古じゃなく萌古と書いていた。

15: 世界@名無史さん 2007/02/24(土) 14:36:34 0
モンゴル人の名前今は無駄に長いよな

16: 世界@名無史さん 2007/02/24(土) 18:48:11 0
元代の詔勅の冒頭部、皇帝にかかる枕詞はやたら長ったらしかったそうな。

明朝はその弊を改めて「奉天承運皇帝」とだけ記すようにしたとか。

50: 世界@名無史さん 2007/07/19(木) 00:32:10 0
モンゴル帝国とハンティやサモイェードなどシベリアの諸族との関係はについて分からないものでしょうか?『元朝秘史』を読んでも出てこなかったので。
地理的には交易は何とか可能ですよね?

51: 世界@名無史さん 2007/07/19(木) 02:26:25 0
>>50
岡田英弘『中国文明の歴史』に書いてあったけど

また北モンゴルから、セレンゲ河を下ってバイカル湖に出、アンガラ河を下り、イェニセイ河との合流点からケチ河を下ってオビ河に出、オビ河を下り、イルティッシュ河との合流点からイルティッシュ河をさかのぼり、トボル河に入り、さらにトゥラ河に入って、その河源でウラル山脈を越えれば、カマ河の上流である。
カマ河からヴォルガ河をさかのぼればバルト海に出るし、ヴォルガ河を下ればドン河をへて黒海に出る。これが古来のシベリアの「毛皮の道」である。

↑ヴォルガ・ブルガールあたりへ出る交易路らしい。あの辺だとジョチ家か?

52: 世界@名無史さん 2007/07/19(木) 02:27:36 0
そういやイブン・バトゥータの旅行記でブルガールの商人と北極圏の狩猟民族の交易について書いてたけど、沈黙交易だったらしく「取引の相手が人なのかジンなのかすらわからない」そう。

54: 世界@名無史さん 2007/07/22(日) 00:38:31 0
>>51,52
早速の返信ありがとうございます。

ということは北モンゴルとシベリアは直接的な政治関係はなかったかもしれないが、少なくとも「毛皮の道」を通じた交易関係は少なくともあったということですね。

井上靖の小説などにも毛皮製品が貴重品として描かれてますね。
モンゴル民族にとってもシベリアとの交易は重要だったのですね。

57: 世界@名無史さん 2007/08/14(火) 00:52:13 0
モンゴル支配は、ロシアでは、発展のマイナスとなったという見方が強いけど(一部では、貢献もあったとの説も出てきているようですが)、中国やイランではどうなのでしょうか? 
元朝は、中国の歴史に貢献している印象がありますが、最近の学会ではどのような意見なのでしょうか?この場合の発展とは、経済・文化・技術・統治技術(政治)などとお考えください。

イラン史では、そもそもイル汗やチムール朝についての意見すら、殆ど聞いた覚えがありません。ロシア以外では、中国史はどのように評価されているのでしょうか?

58: 世界@名無史さん 2007/08/16(木) 01:16:38 0
>>57
ひところ前は、近現代的なナショナリズムの常でイランでもモンゴル=文明の破壊者的な見方が強かったらしく、今でもテュルク・モンゴル系の政権がイラン・中央アジアでの支配をしていた時代は外来勢力による一種の「暗黒時代」だという考えがあるそうだが、実際には、セルジューク朝にしろイルハン朝にしろティムール朝にしろ、いずれも当時の王族など支配層から手厚い保護によってペルシア語文学などの学芸が隆盛した時期だった。

モンゴル時代に限って言えば、イルハン朝も13世紀末まで定住民への複雑過剰な税負担や役人、モンゴル軍人による不当な苛斂誅求によって経済的も完全に破綻状態だったそうだが、ガザン・ハンによる強力な徴税の徹底や違反官吏・軍人らの粛清や定住民への干渉の排除、農耕地の開拓、商工業の保護育成など、経済的な回復と発展の基礎が築かれたと現在では考えられているみたい。

続くオルジェイトゥ、アブーサイードの治世初期までは中央政権からの強力な統制のお蔭で各地の自律的な経済発展は順調だったようで、税収も増加傾向にあったらしい。

59: 世界@名無史さん 2007/08/16(木) 01:26:49 0
>>58の続き

文化的な面で言えば、ガザン、オルジェイトゥの時代はひとつの重要な画期で、現存する物でも巨大で豪華なコーランが多く作成され、『シャーナーメ』やその他の様々な書物の良好な写本が大量に作られたし、『集史』やその他のペルシア語による世界史や地方史なども多く著作された。
特に歴史関係の書物で、挿絵付き写本のジャンルが一般化したのもこの時期。

イルハン朝が東方の大元朝と友好関係にあったこともあってか、医学や博物学など東方からの文物が流入したが、これらの東方からの影響は絵画について特に顕著に現れている。南宋画の影響が見られるデザインや絵画技術がこの地域で流行し、その後の中央アジアからアナトリアの地域でこの種の絵画技術が定着していく。

他にも『集史』の影響でオグズ・カガン伝説とそれに基づくテュルク・モンゴル的な族祖伝承が再生産され、この地域のテュルク系の人々に多大な影響を与えている。

ひとつひとつ説明して行くとそれこそきりが無いが、テュルク系にしろモンゴル系にしろ、歴代の政権は自分達のテュルク・モンゴル的な伝統を保持しつつ、ペルシア語文芸やこの地域でのイスラーム文化の庇護者であったので、宮廷文化や特に「政治的な安定性」にダイレクトな影響を受けつつイラン・イスラーム的な文化伝統も発展・衰退して行った、と見た方が良いみたいだ。

60: 世界@名無史さん 2007/08/16(木) 13:25:11 0
>テュルク・モンゴル系の政権がイラン・中央アジアでの支配をしていた時代は外来勢力による一種の「暗黒時代」

逆にクルト朝やムザッファル朝が持ち上げられたりしてるのかな

64: 世界@名無史さん 2007/09/15(土) 14:12:47 0
【今日は何の日】1368年:元が北京を放棄  2007/09/14(金)

ttp://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0914&f=column_0914_001.shtml
※リンク切れ
65: 世界@名無史さん 2007/09/15(土) 22:52:11 0
大都と北京は若干位置がずれているとか聞いた。

66: 世界@名無史さん 2007/09/16(日) 11:53:16 0
>>65
大都の北1/3を放棄して北京にした。後に南側に1/3ほど増築した。
つまり1/3だけ南にずれているように見える。


454px-Yuandadu_map

黒が大都、灰色が明の北京。

67: 世界@名無史さん 2007/09/16(日) 23:13:57 0
たしか北1/3は元代から空き地が多かったとか。

「金中都遺址」って廃墟? 浮浪者とか住み着いてそうだな。

68: 世界@名無史さん 2007/09/17(月) 14:19:49 0
グーグルアースだと明の北京の城壁跡だけでなく大都の城壁跡もはっきり見えるけど金の中都となると見えないのう。昔過ぎてあんまり残ってないようだ。

76: 世界@名無史さん 2007/11/18(日) 02:09:54 0
なぜモンゴル軍はコンスタンティノープルを攻めなかったんでしょう。
あそこまで遠征したんだから、勢いでいけた気がするんですが、そういう気配はなかったのでしょうか。

77: 世界@名無史さん 2007/11/18(日) 14:39:19 0
キプチャク汗国→それよりイル汗国からアゼルバイジャンを奪いたい
イル汗国→マムルーク朝がどう動くか分からない

こんな感じかな?

78: 世界@名無史さん 2007/11/18(日) 22:42:12 0
ビザンツ側にしたって、1261年にラテン帝国からコンスタンティノープルを取り返したばかりのビザンツ皇帝のミカエル・パレオロゴスはイルハンのアバカと、当時のジョチ・ウルスの実力者で、ビザンツ領から最も近いドナウ川の下流域に領地があるノガイに庶子の娘2人を嫁がせてるし、息子のアンドロニコス2世も同じようにジョチ・ウルスのハンのトクタに庶子の娘を嫁がせて、友好関係を保とうと努力してるし、ボスポラスやダーダネルスの海峡を通過して連絡を取り合うジョチ・ウルスやマムルーク朝の艦船の通行を黙認したりして、いわゆる「ナイル=ヴォルガ同盟」の維持に恩を売ったりと、生き残りのためにいろいろやってるだろう。

84: 世界@名無史さん 2008/01/05(土) 22:23:40 0
モンゴル帝国時代に今の支那地域では数千万人虐殺されたって本当なのかな?

85: 名無しの権瓶 2008/01/05(土) 22:55:47 0
数は判らないけどそれぐらいのインパクトのある虐殺はやったらしい。
ホラムズなんかは西だけど、完全に国がなくなっちゃうし。
ただ、統治後はうってかわって優しい兵隊さんだったらしい。
そのギャップに住民はとまどったそうだ。
ただし、長男の国キプチャク汗国はロシアで恐怖政治をしたけど

86: 名無しの権瓶 2008/01/05(土) 23:10:54 0
金では大虐殺をやったけど、フビライの代で南宋を攻略した時は比較的虐殺は少なかったらしい。と、言うよりその時代になると、さすがに虐殺は時代遅れといった風潮がモンゴル軍に芽生えていたようだ。略奪はあったと思うけど。

87: 世界@名無史さん 2008/01/06(日) 09:34:22 0
むしろフビライが南宋を征服したときは漢人の犯罪者・囚人を集めて作った「乾討虜軍」というのがあってそいつらの規律が悪すぎて(当たり前だが)問題になったようだ。
のちに解散されて別々の部隊に分散された。

93: 世界@名無史さん 2008/04/04(金) 12:14:48 0
今コーエーのチンギスハーンⅣをやってます
元のフビライのオリジナル息子たちを、中国文化圏にさせたいんだけど実際に、そんな状況に史実でもなったとすれば、何か良い漢字ある?

94: 世界@名無史さん 2008/04/05(土) 05:58:51 0
実際クビライは次男チンキムに漢籍の購読を指示し、元朝のモンゴル王族などは華北文化の影響で道・仏・儒に精通するような感じで漢籍の文化も受け入れている。

クビライ自身はオゴデイの治世にモンケやグユクなど兄弟や従兄弟たちとともに家庭教師となったイラン人官僚の養育によってペルシア語文学などの素養を身に付けていたらしいが、チンキムに漢籍の購読を支持した背景には、クビライがモンケの命によって西安から出向して中都(のちの大都)以南の漢地経営を任され、モンゴル王族による漢地の領有が本格化しはじめたため、現地の官僚との意思の疎通などにも漢籍の素養も必要と判断されて来たからだろうと言われている。

クビライの息子たちは記録に残る限りでも12人はおり(『元史』では10人)、夭折した長男ドルジ(朶而只)、三男マンガラ(忙哥剌)といったチベット語やサンスクリット語など仏教関係の用語などに由来した名前の人物が居るが、六男のフゲチ(忽哥赤)や七男アウルクチ(奧魯赤)、九男ココチュ(闊闊出)、十男クトルグ・テムル(忽都魯帖木兒)のような普通にテュルク・モンゴル的な名前の人物も多い。

王族の人名としてチベット語やサンスクリット語由来のものが定着するようになるのはカマラやダルマバラ、アーナンダといったクビライの孫の世代になる。アーナンダに至っては完全に仏教徒の名前だが、イスラム教に改宗してクビライからこっぴどく叱責されたりしている。

95: 世界@名無史さん 2008/04/05(土) 06:17:46 0
なので、無理にチベット語やサンスクリット語風の名前を無理に引いてくる必要もさほどには無いと思うが、ゲームで「中国文化圏」を領有するクビライの皇子を新たに作るとなると、まず母親がどう言う出自かを考え、宮廷での漢人官僚や浄土教団や禅宗寺院など華北の伝統的仏教教団やらサキャパンディタ、パスパ以来のチベット仏教勢力との立場を考慮せねばならないと思う。
(それまで漢人官僚の配給源として専横していた道教の一派、全真教団の政治的権力がモンケの時代に剥奪されてパスパが華北の宗教勢力の監督権を委任された事件「道仏論争」があったが、これを取り仕切ったのが他ならぬクビライだった)

台湾の中央研究院が二十五史のネット上に公開しているから『元史』宗室世系表とか『元朝秘史』関係やモンゴル帝国関係の書籍をあさって王族らしい人物の漢字表記を見比べて適当にきめるのが良いのでは。
(中国人的な人名表記は非現実的。飽くまでもテュルク・モンゴル語やチベット語やサンスクリット語由来の単語を漢字音写させたもの)

>モンゴル人やテュルク系の人物で「石」を意味する「タシュ」「チラウン」とか「鉄」を意味する「テムル」とかを含む人物が多いが、これは「金剛石」など仏教的観念の影響があるんだそうな。

まあ、ゲームの設定とかの話なのにあれこれ言うのも野暮だろうけど、「中国文化圏」といっても当時遼朝~金朝の華北の仏教文化に加え、テュルク・モンゴル系の人々に信仰されていたウイグル王国やチベット方面からの仏教文化なども流入して(勿論ネストリウス派とかイスラムもあるけど)ハイブリットな宗教社会な感じで北アジアから華北までの文化ってのは形成されていたので、その世界のただなかにある社会としてモンゴル帝国統治下の「中国文化圏」を考えたほうが良いと思う。

>もっとも「漢字文化圏」ならまだ分かるけど、「中国文化圏」って枠組みがどれだけ意味があるのか分からんけど。

96: 名無史さん 2008/04/11(金) 12:22:12 0

ロシア史で有名なのに【タタールのくびき】というのがある。

これはモンゴルの侵略の後、ロシアは巨大な破壊と流血の嵐に襲われただけでなく、のちのちずっと野蛮なモンゴルに生き血をすわれ、とことんしゃぶられ尽くしたとされる。ロシアを牛にたとえ、その首にはめられた【くびき】をあやつって、主人顔にやりたい放題をくりかえす寄生虫のモンゴルという図式

だがこれと真っ向から矛盾する話もロシアでは有名だ。

アレクサンドル・ヤロスラビッチ・ネフスキーはモンゴルの到来とその支配という苦難のなかを、ウラジミール大公としてロシア諸侯をとりまとめ、巧みな交渉と手綱さばきでモンゴルと穏やかな関係を保ち、破壊的な事態を生じせしめなかった。つまり無用の流血と破壊を回避した。

明らかに矛盾したふたつのお話を堂々と主張して平然としているのはいかにもロシアらしい

100: 世界@名無史さん 2008/04/11(金) 19:40:01 0
>>96
ロシアといっても広く、タタールの支配は長い。上手くやった街もあれば下手をうった街もあり、ぼこられた時代もあれば上手くやった時代もある。
そして最も上手くやった街であるモスクワがついに全ロシアと全タタールを飲み込むにいたった。

101: 名無史さん 2008/04/12(土) 21:21:37 0
>>100
納得できそうな理屈だが証拠か元ネタがないと説得力がないな
もっともあんたが間違っているという証拠もないが

103: 世界@名無史さん 2008/04/14(月) 00:11:56 0
>>101
いわゆる「タタールのくびき」時代の政治史については一番手軽な資料なら新書で出てる「ロシアの源流」って本

105: 世界@名無史さん 2008/06/09(月) 15:10:55 0
パクス・モンゴリカ・・・平和な時代

107: 世界@名無史さん 2008/06/18(水) 12:49:27 0
ロシアからみれば「タタールのクビキ」
モンゴルからだと  「パクスモンゴリカ」
国によって見方が違うのは当然です。
ロマノフの時捏造した歴史を、共産主義国家が脚色したのが、タタールのクビキ

124: 世界@名無史さん 2008/11/09(日) 10:38:16 0
チンギス・ハーンの軍事的な才能って実際どうだったの?
政治的才能は確かにあったんだろうけど軍事的には本当に天才だったの?
モンゴル軍団が最強だっただけな気がするんだけどあれだけの大帝国を作っていながら、アレクサンドロスのような圧倒的な神々しい存在感が全くない。
だいたい彼が死んだあとも後継のゴールデン・オルドやイル・ハン国はさらなる侵略を続けてるわけだし、チンギスが特に優れていたとも思えない 。
確かに遊牧民国家じゃ軍事と政治を一人でこなせなければ大国は維持できないんだろうけど裏を返せば政治さえできればモンゴル軍団の力で容易に帝国を作れたってことだよね
やっぱり個人の軍事的才能で比較すればチンギスよりティムールの方が上だろ?

129: 世界@名無史さん 2008/12/05(金) 10:47:37 0
>>124
チンギスは名将て言うより優秀な政治家・軍政家じゃないか?
戦闘では結構、負けたり苦戦してるからそこまで天才だとは思わない


125: 世界@名無史さん 2008/11/09(日) 11:46:55 0
そのモンゴル軍団を作ったのがチンギスだから、政治的手腕は超一級だし、その後の戦場での様々な戦略を全部チンギスが考えたわけじゃないだろうけど、そういったブレーンを敵味方なく登用した度胸も相当なもの。
後継の国家が膨張を続けることができたのは、彼のシステムがあまりにも完璧だったおかげ。

>裏を返せば政治さえできればモンゴル軍団の力で容易に帝国を作れたってことだよね

確かにそうだけど、事実として有史以来彼を越えるほどの有能者は出なかったわけだから、机上の空論。

>やっぱり個人の軍事的才能で比較すればチンギスよりティムールの方が上だろ?

軍事的才能だけに限定すれば、スベエデイやジェベのほうがもっと上かも。
でもそれだけじゃあねえ・・・

126: 世界@名無史さん 2008/11/10(月) 04:09:59 0
スベエデイやジェベ、ホラズムのジャラール・ウッデーンやチムール・マリクらは軍事技術屋ですな。
主君に兵を与えられてこそであり、自ら大軍を集める人望はないみたいだ。

130: 世界@名無史さん 2008/12/07(日) 01:19:16 0
中央ユーラシアの征服者ってティムールとかナーディル・シャーもそうだけどしょぼい勢力の頃は勝ったり負けたりしてるけど
軍事力がある程度の規模を越えると連戦連勝になるような・・・

131: 世界@名無史さん 2008/12/07(日) 13:40:40 0
> しょぼい勢力の頃は勝ったり負けたりしてるけど
軍事力がしょぼいから勝ったり負けたりになる

> 軍事力がある程度の規模を越えると連戦連勝になるような・・・
ある程度の規模を超えたから連戦連勝できる

134: 世界@名無史さん 2009/02/03(火) 04:18:54 0
クブライ以下の大カーンは「大元皇帝」を名乗り中華風のダードゥーを建設し、歴代皇帝に漢風廟号を送るまでしたのに、なんでチャイニーズは色目人以下!
などという差別をしたのかがよく分からん。
中華文明が気に入ったのか気に入らなかったのか、どっちなんだ。
大概中国に入ったらは中華思想のかぶれそうなもんだが。

135: 世界@名無史さん 2009/02/03(火) 05:02:42 0
大元といっても正式には大元大蒙古国で、遊牧世界に対しては大カァン、中華世界に対しては中華皇帝を名乗っていた。
生活も上都と大都の間を季節移動しながらテント暮らしで、城郭の中には入らなかった。
漢人南人に対する差別も実際には無く、有能なものは準モンゴルとして重用していた。
色目人が特に高位に就いたのは、国際経済に通じていたためクビライの重商主義政策と相性がよかったからでしょう。

141: 世界@名無史さん 2009/02/06(金) 18:38:32 0
>>135
>生活も上都と大都の間を季節移動しながらテント暮らしで、城郭の中には入らなかった。

でも大都の皇城に皇帝専用の入り口とかついてなかった?

142: 世界@名無史さん 2009/02/06(金) 20:57:51 0
>>141
カアンは普段はテントで寝起きして、儀式を行う時にのみ宮城に入ったそうです。

136: 世界@名無史さん 2009/02/03(火) 05:18:22 0
あーそうなんだ。

英語で書かれた宗教史書を読んでいたら、モンゴルにはクリスチャニティーが広範に受け入れられていたとか、チャイニーズはスァームーレン(色目人)以下の扱いを受けた、とか書いてあって、著者の人種意識が垣間見えて不快な感じがしたけど、やっぱり中国人差別はされてなかったのね。
ビザンチンの姫を娶るモンゴルが、なんで中国人を差別するわけないよな。

137: 世界@名無史さん 2009/02/03(火) 22:50:18 0
人種差別と言うよりも、「モンゴル」との距離の近さ・遠さが、待遇の差に繋がった感じなような・・・

138: 世界@名無史さん 2009/02/04(水) 01:00:53 0
>>137
「根脚」ね。

あと元朝での「漢人」というのは女真人や高麗人も含まれていて要するに「旧金朝臣民」のことだったとか。
「南人」が旧南宋臣民で。

で、「色目人」ってのは直訳すると「雑多な人々」ってことでモンゴル人でも旧金朝臣民でも旧南宋臣民でもない「その他」の人々。

139: 世界@名無史さん 2009/02/04(水) 05:00:28 0
色目人て実際はテュルク系が殆どでアラブ人や西洋人はごく僅かだったんでしょ

140: 世界@名無史さん 2009/02/04(水) 09:30:29 0
ペルシア人も忘れないでやって

引用元: ・【上天】モンゴル帝国史総合スレ【眷命】




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