1: 日本@名無史さん 2008/04/20(日) 18:36:04
藤原南家を語るスレッド







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藤原南家

藤原南家(ふじわら なんけ)とは、奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家(軍事貴族)の名族を多く輩出した。




5: 日本@名無史さん 2008/04/20(日) 19:24:30
確か、羽林家の高倉家が藤原南家だっけ。

16: 日本@名無史さん 2008/04/21(月) 18:28:05
>>5
一応養子ってことにはなってるみたいだけど、
最後の当主の没後半世紀くらいあとに生まれた人だし。
実質は再興の形をとった新規取り立てでしょう。
江戸時代の藪=高倉家は北家閑院流の分流と見なすべきじゃないのかな。

6: 日本@名無史さん 2008/04/20(日) 19:30:52
熱田神宮も藤原南家なんだよな。

7: 日本@名無史さん 2008/04/20(日) 19:44:20
工藤、伊東、二階堂なんかの武家も南家だな。

9: 日本@名無史さん 2008/04/20(日) 20:25:26
仲麻呂の失脚後、南家は衰えたと言われているが、種継の死から薬子の変までは、一番有力だったのは南家。

10: 日本@名無史さん 2008/04/20(日) 20:45:59
>>9
百川、魚名は?
吉備真備は?

12: 日本@名無史さん 2008/04/20(日) 21:23:04
>>10
種継の死の時期には皆死んでいる。

13: 日本@名無史さん 2008/04/21(月) 07:51:18
>>12
だが、それまでは最も有力だろう。

14: 日本@名無史さん 2008/04/21(月) 09:42:21
平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇
すべて藤原南家を外戚とする天皇
この頃藤原南家が他氏を超越して権力を持っていたことは事実だろう
桓武天皇の皇后、平城天皇の贈皇后も藤原南家

18: 日本@名無史さん 2008/04/21(月) 20:46:18
>>14
平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の外戚は式家。
南家を外戚にしているのは是公の外孫にあたる伊予親王。

20: 日本@名無史さん 2008/04/21(月) 23:50:09
南家と北家、どちらが格式上なんだろ、長男と次男なのに(初代が)。

21: 日本@名無史さん 2008/04/22(火) 00:20:11
本来は不比等長男家の南家の方が格上・・・のはずなのだが伊予親王の変で失脚したからね・・・

伊予親王の変

伊予親王の変(いよしんのうのへん)は、大同2年(807年)に起こった政変。藤原吉子・伊予親王母子が処罰され2人は自殺したが、後に無罪が認められた。

桓武天皇の第三皇子である伊予親王は父桓武の生前深い寵愛を受けていた一方、外伯父(母吉子の兄)の藤原雄友は大納言として右大臣・藤原内麻呂に次ぐ台閣の次席の位置にあり、政治的にも有力な地位にあった。実際に、平城朝においても、大同元年(806年)から中務卿兼大宰帥を務めて、皇族の重鎮となっていた。兄の平城天皇とも良好な関係を保っており、大同2年(807年)5月には、神泉苑に行幸した平城天皇に対して献物を行い、終日宴会にも参加している。

ところが、同年10月に藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めているという情報を藤原雄友が察知し、これを右大臣・藤原内麻呂に報告する。一方、伊予親王も宗成に唆された経緯を平城天皇に報告する。そこで朝廷が宗成を尋問した所、宗成は伊予親王こそ謀反の首謀者だと自白した。この自白を聞いた平城天皇は激怒し、左近衛中将・安倍兄雄と左兵衛督・巨勢野足に命じて、藤原吉子・伊予親王母子を捕縛し川原寺に幽閉した。二人は身の潔白を主張したが聞き入れられず、11月12日にそろって毒を飲んで心中したという。後に二人の無罪が認められ、墓は山陵とされた。

この事件で宗成は流刑となり、伊予親王の外戚にあたる藤原雄友も連座して伊予国へ流罪に処された。また、この事件のあおりを受けて中納言・藤原乙叡が解任された。この事件により大官が2人も罰せられた藤原南家の勢力が大幅に後退した。


29: 日本@名無史さん 2008/04/23(水) 21:37:28
南家が藤原氏嫡流から転落したのは豊成の失脚、もしくは仲麻呂の敗死からじゃないかと思う
藤原 豊成

藤原 豊成(ふじわら の とよなり、大宝4年(704年) - 天平神護元年11月27日(766年1月12日))は、奈良時代の貴族。藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の長男。

正二位に昇進するものの、同年7月の橘奈良麻呂の乱において、答本忠節から謀反の企てに関する報告を受けながら孝謙天皇への奏上を行わず、謀反の露見後も究明に努めなかった事を理由に、右大臣を罷免され大宰員外帥に落とされた。が、豊成は抗議の意を込めて「病気」と称して難波にあった自分の別荘に籠ったことから、大宰府行きは無期限延期状態となり、そこで8年間の隠遁生活を送った。

天平宝字8年(764年)仲麻呂が道鏡排斥に失敗して敗死すると(藤原仲麻呂の乱)、橘奈良麻呂の乱における罪状は仲麻呂による偽りの中傷とみなされ、豊成は罪を赦されて従一位・右大臣として政権に復帰した。


31: 日本@名無史さん 2008/04/23(水) 21:45:32
豊成没後は藤原氏嫡流は消滅したと考えるべきだと思う。
もちろんその時々の族長格は居るわけだが、それは嫡流ではない。
藤原氏に再び嫡流が現れるのは、良房に継承された時頃だと思う。
内麻呂から冬嗣への継承段階ではまだ嫡流形成と言うには少し早い、と個人的には思っている。

32: 日本@名無史さん 2008/04/24(木) 20:54:11
豊成に祖父の不比等くらいの政治手腕があれば、藤原氏の嫡流は揺るがなかっただろう。

33: 日本@名無史さん 2008/04/24(木) 21:12:21
名門の嫡孫にそれを期待するのは無理。
そういうふうにならないように教育される。

39: 日本@名無史さん 2008/04/25(金) 16:14:17
大師仲麻呂卿は分家でつか?

40: 日本@名無史さん 2008/04/25(金) 16:35:09
正式に分家した!





・・・


と書いてある史料はないけど、淳仁天皇即位後に「恵美」という副姓を名乗り、名前も”次男”の意味合いがある「仲麻呂」から兄弟順の感じられない「押勝」に変えたところを見ると分家、というより独立した一家を建てたと見ることもできるだろう。

43: 日本@名無史さん 2008/04/25(金) 19:40:38
藤原南家は仲麻呂以外はおとなしい人物が多いな。
是公といい継縄といい朝廷の首班になったにしては、目ぼしい事跡がない。
特に是公は伊予親王の外祖父なのに。

51: 日本@名無史さん 2008/04/26(土) 18:23:17
種継死後に是公が伊予親王を皇太子に擁立しようとしなかったのは是公に野心がなかったからかな。
百川のような野心家ならば何らかの行動はしただろう。

藤原 是公(ふじわら の これきみ)は、奈良時代後期の公卿。初名は黒麻呂。藤原南家、武部卿・藤原乙麻呂の長男。



59: 日本@名無史さん 2008/04/28(月) 14:53:26
>>51
早良親王が廃されたばかりでそれはできない

164: 日本@名無史さん 2008/07/31(木) 19:41:12
>>51
そもそも桓武の意思は皇后所生の嫡流への皇位継承。
大伴親王に至っては嫡流外孫の恒世親王へ皇位継承をさせるために仕方なく皇位継承権が認められた存在に過ぎない。

52: 日本@名無史さん 2008/04/26(土) 19:01:05
南家の場合仲麻呂が反面教師になってアレルギーがあったんじゃないのかな。

60: 日本@名無史さん 2008/04/29(火) 21:41:55
巨勢麻呂は仲麻呂とともに敗死した人物なのに子孫が結構続いてるよね。
摂政になった良房は巨勢麻呂の曾孫だし。

藤原 巨勢麻呂

藤原 巨勢麻呂(ふじわら の こせまろ、生年未詳 - 天平宝字8年9月18日(764年10月17日))は、奈良時代の貴族。藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の四男。

天平宝字2年(758年)淳仁天皇が即位して、藤原仲麻呂(恵美押勝)の独裁体制が確立すると、仲麻呂政権の中核メンバーとして、同年従四位上、天平宝字3年(759年)正四位下・播磨守、天平宝字4年(760年)従三位と、急速に昇進を遂げる。天平宝字6年(762年)正月に仲麻呂の子・真先と共に参議に任ぜられる。同年11月には仲麻呂が計画した新羅征伐のため、香椎廟奉幣使となった[1]。天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱で仲麻呂側に加わったため、官軍により斬殺された。一説に天平宝字7年(763年)に死去したともされる。


61: 日本@名無史さん 2008/04/29(火) 23:39:50
孫娘の美都子が藤原冬嗣の正妻になったことが大きいと思われ。
また美都子の弟・三守の妻は檀林皇后・橘嘉智子の妹。

62: 日本@名無史さん 2008/04/30(水) 07:24:43
藤原伊尹・兼通・兼家らの母藤原盛子も南家出身だね。
美都子の兄弟三守の曾孫に当たる。

64: 日本@名無史さん 2008/05/02(金) 09:42:55
平安中期では大納言にまでなった藤原元方(もとかた)が南家では目立つ存在ですが、この元方の子息の一人が出家して法名を「元方(がんぽう)」と名乗っていたようですね。
父親の諱名をそのまま音読みにして法名にしたなんて、日本史上他に例があるのかな?

65: 日本@名無史さん 2008/05/02(金) 10:22:11
是公の孫に「藤原道長」なる人物がいる。
もちろん御堂関白とは別人だが。

66: 日本@名無史さん 2008/05/02(金) 16:50:05
!! 北家からの苦情は、なかったのですね

67: 日本@名無史さん 2008/05/02(金) 17:00:23
御堂関白はずっと後の時代の人だからな

68: 日本@名無史さん 2008/05/02(金) 19:17:22
てことは、みど関白さまの詐称ってこと?!

69: 日本@名無史さん 2008/05/02(金) 21:56:25
是公の孫と御堂関白が同姓同名なのは偶然だと思う。
兼家が従五位下止まりの是公の孫にあやかりたくなるとは思えない。

70: 日本@名無史さん 2008/05/02(金) 22:34:50
そもそも是公に孫の名前なんて知っていたのだろうか?
直系先祖や近い親類、著名人でもなければ気にしないんじゃないの?
ほぼ同時期に同姓同名が居るときもあるし。

71: 日本@名無史さん 2008/05/02(金) 22:50:13
でも南家藤原是公は、眞盾の甥、内麿のいとこ。無視するほど遠縁とも言えない...まさか道長は南家から来た東三條殿の養子?

72: 日本@名無史さん 2008/05/02(金) 23:07:39
そもそも北家は兼家の子供達からにわかに道の字を使い始め、それまでは誰もいない。南家は豊成の孫などたくさんある。つまり兼家は本来、兄の伊尹や兼通の下であったが、北家主流を願い、南家にあやかったのかも知れない

74: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 12:00:42
兼家は5人の息子いずれもに「道」のつく名前を付けている
そら全然別の時代の人と重なることもあるって同時代の人と重なるなら改名もするだろうけれどね
別スレで関白藤原教通の息子信長の話をしているときに織田信長のことと勘違いして割り込んできた奴がいたが信長が平安時代の教通の息子の名前にあやかっているはずもなし

77: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 13:19:25
道長の時代までに藤原氏は何千人っているもんな。
せいぜい親戚だと思ってるのは忠平子孫くらいだろうし、考慮するのは兼家が覚えている世代の名前くらいじゃないの?

79: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 14:35:55
だいたい是公(727~789)の旧名黒麻呂と同名の従兄弟がいるんだよね。
こっちは巨勢麻呂の子で810年没。
改名後の命名だろうけどほぼ同時代人でややこしい。

81: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 14:47:17
是公と同じ時代で北家には藤原小黒麻呂(733-794)という人物もいたな。

83: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 15:48:40
忌み名がかぶったところで、実生活にほとんど支障はないわけでいちいち改名などしないでしょう。ややこしがってるのはわれわれ後世の人間だけ。

84: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 15:58:21
>>83
さすがに同時代の人とかぶると改名した例はある
当時も名は官位を受ける際、文書に署名をする際に使う大事なものだった

85: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 16:04:23
式部省にサインの決まりは無いの? いみなって親がつけるの、それとも後の人? 呼び名とちがうんでしょう。

86: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 16:13:53
>>85
貴族の子弟は元服と同時に官位を受けるから、いみなは元服したときに付ける。
特に高貴な人から一字貰うとかいうことがなければ親がつける。
入内させる娘などには学者を呼んできて選定させることも。
貴族社会では官職(中将どの、とか右府どの、とか)で呼ばれるから名前で呼ばれることはあまりなかった。
だけど、貴族の日記などにもいみなは登場しているから、一般的に周囲に知られてはいたのでしょう。

75: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 12:56:19
信西はみなみけ?

76: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 13:15:38
信西は南家巨勢麻呂の子孫。
平安以降活躍している南家出身者は巨勢麻呂系が大半。

80: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 14:44:24
藤原鎌足━藤原不比等━藤原武智麻呂━藤原巨勢麻呂━藤原貞嗣━藤原高仁━藤原保蔭━藤原道明━藤原尹文━藤原永頼━藤原能通━藤原実範━
藤原季綱━藤原実兼━藤原通憲(信西入道)

87: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 16:19:09
ところで、四辻宮家は、南家藤原重子(修明門院)さまから出ているってのは本当ですか。

88: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 16:22:54
藤原重子ー順徳天皇ー善統親王(四辻宮)ー尊雅王ー善成王

89: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 16:36:01
 四辻善成公(王?)は、左大臣になったものの親王に格上げしてもらいたかったようですね。それにしても、源氏物語古注のなかで最高の水準にある河海抄や源氏物語の秘説を集めた珊瑚秘抄って凄すぎ(超学者ですね)。

90: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 17:21:26
藤原季範-由良御前-坊門姫(源義朝女)-全子(一条能保女)-西園寺実氏-大宮院-後深草天皇…現皇室

91: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 17:41:36
藤原武智麻呂-巨勢麻呂-真作-美都子-長良-基経-穏子-村上天皇…現皇室
藤原房前-真楯-内麻呂-冬嗣-長良-基経-穏子-村上天皇…現皇室
藤原宇合-良継-乙牟漏-嵯峨天皇…現皇室
藤原麻呂-浜成-大継-河子-仲野親王-班子女王-宇多天皇…現皇室

93: 日本@名無史さん 2008/05/04(日) 17:59:13
藤原季範-範忠-女子-足利義兼-畠山義純-泰国…(略)…政煕
-女子-万里小路房子(万里小路秀房女)-誠仁親王-後陽成天皇…現皇室


96: 日本@名無史さん 2008/05/06(火) 19:20:12
足利将軍家にも女系で藤原南家の血が流れている

藤原範季ー藤原重子ー順徳天皇-善統親王-尊雅王-智泉尼-紀良子-足利義満

97: 日本@名無史さん 2008/05/06(火) 22:20:57
まあ足利氏については、>>93で見るように、
義兼流には全て藤原南家の血が入っているけどね。

98: 日本@名無史さん 2008/05/07(水) 00:05:28
そんで義満はなおさら北家摂関家に対して強く出てて、太上天皇の称号まで薦められたわけか。

99: 日本@名無史さん 2008/05/07(水) 11:35:04
北家藤原実頼(小野宮)流や中の関白家との繋がりやゆかりをご存知の方はいますか。

100: 日本@名無史さん 2008/05/07(水) 22:42:06
>>99
その両家と藤原南家の繋がりってこと?

101: 日本@名無史さん 2008/05/07(水) 22:51:02
>>99
そうです。教科書的には聞いたことなかったので。

102: 日本@名無史さん 2008/05/08(木) 12:38:57
>>99
>中関白家とのつながり

道隆や道長兄弟の祖母に当たる藤原盛子は藤原南家出身。
藤原盛子は九条流の祖藤原師輔(藤原実頼の弟)の妻。

藤原盛子ー藤原兼家ー藤原道隆

111: 日本@名無史さん 2008/05/11(日) 19:50:58
仲麿の子孫は堂上には二度となれなかったのですか。また廃嫡になったのですか

112: 日本@名無史さん 2008/05/11(日) 21:03:48
仲麻呂の息子は恵美押勝の乱の際にことごとく捕まえられて殺された
生き残ったのは11人いた男子のうち六男刷雄と十一男徳一だけ
当時年少だったとみられる徳一は出家して東大寺に入り子孫はなし
刷雄は遣唐使に留学生として参加した経験を惜しまれて配流、
のちに都へ戻り従五位下になったものの
刷雄自身父のような出世はしなかったし刷雄の子孫もぱっとしなかった

113: 日本@名無史さん 2008/05/11(日) 21:31:44
藤原刷雄よしおは、桓武天皇の陰陽頭になり、子孫に 藤原千世-富繼-眞行とある。
また正一位藤原恵美押勝 は、他に子孫は 藤原薩雄-朝忠-能鷹-大町-雄蔭-有聲-能幹とあるが養子で繋がれたのか。

114: 日本@名無史さん 2008/05/11(日) 22:50:52
徳一法師が仲麻呂の実子という話は確定したのかな
岸俊男氏らは年代の問題から懐疑的だったが

119: 日本@名無史さん 2008/05/15(木) 03:00:26
仲麻呂の弟で4男の子孫の家系は華族に列されましたが、3男はどうなったのでしょうか

120: 日本@名無史さん 2008/05/15(木) 04:00:02
藤原乙麻呂は孫の真友、雄友兄弟が公卿になってるけどそれ以降は落ちぶれた

124: 日本@名無史さん 2008/05/17(土) 07:01:20
乙麻呂の子孫はどっちかって言うと武士として繁栄したな。
工藤・伊東・二階堂・天野・吉川・相良の各氏。

121: 日本@名無史さん 2008/05/15(木) 04:52:07
4男は何故末流が華族になったのでしょう

122: 日本@名無史さん 2008/05/16(金) 02:19:25
結局、巨勢麻呂の子孫藤原範季の娘藤原重子(修明門院)が後鳥羽上皇に順徳天皇を儲けたことによる

125: 日本@名無史さん 2008/05/17(土) 11:19:14
巨勢麻呂の子孫て今もいるの?

126: 日本@名無史さん 2008/05/18(日) 10:15:52
巨勢麻呂の子孫なら大道寺氏がある

127: 日本@名無史さん 2008/05/18(日) 13:56:56
熱田大宮司の千秋氏もいたな。近世以降はどうなっているのか知らんが。

引用元: ・藤原南家を語るスレッド