1: 日本@名無史さん 2008/04/18(金) 22:16:59
藤原京家を語るスレッド







藤原京家

藤原京家(ふじわらきょうけ)とは、右大臣藤原不比等の四男藤原麻呂を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原四家の中では一番発展しなかった。

麻呂が藤原四兄弟で一番年下だったこと、兄たちよりも子女の数が少なく早世者も多かったことに加え、唯一参議に昇った浜成が氷上川継の乱に連座して流罪になったことで、一族全体の政治生命が絶たれてしまったためである。それでも平安時代前半には、藤原貞敏(琵琶)・藤原冬緒(儒学)・藤原興風(和歌)・藤原忠房(和歌、舞楽)など、文化・芸術面で多くの人材を輩出した。





4: 日本@名無史さん 2008/04/18(金) 23:17:24
wikipediaで藤原京家を引いたら、意外と平安時代にも活躍した人物が出ているので驚いた。

2: 日本@名無史さん 2008/04/18(金) 22:29:38
藤原京家の公家は、江戸時代まで残っているの?

5: 日本@名無史さん 2008/04/18(金) 23:23:27
>>2 
残ってない と藤原関係の別スレで見たことがあるよ

6: 日本@名無史さん 2008/04/19(土) 08:20:51
公家として生き残れたのは北家でも真楯系と魚名系のみ

7: 日本@名無史さん 2008/04/19(土) 09:01:25
藤原南家の系統は、高倉家として近世でも公家で残っているが?
藤原範季は藤原南家出身じゃなかったかな?

藤原南家の系統は武家としては、近世でも各地で残っているよな。

8: 日本@名無史さん 2008/04/19(土) 09:48:45
さすがに堂上家はないけど、南家は江戸時代でも諸大夫として残ってるよ。

9: 日本@名無史さん 2008/04/19(土) 09:52:40
京家は11世紀初頭(道長活躍時代)にはまだ存続している。
五位がやっとくらいらしいが。京家長者というのもまだいる。
いつ頃宮廷社会から消え去ったのかな。
血統上の子孫は居るんだろうけど、多分自覚ないんだろうな。
藤原氏や源氏はあまり下級の官職には就けなかったから、ある程度以下に落ちると一気に没落するようだ。

11: 日本@名無史さん 2008/04/19(土) 16:10:21
>>9
というか、鎌倉期以後は、勝手にどさくさ紛れに系譜を変える者も多々いるから、実際には「藤原京家」などの系統でも、「藤原北家」を名乗った場合も多いのでは?
勝手に系譜を源氏の系統に変えるのもあるのでは?

12: 日本@名無史さん 2008/04/19(土) 17:13:36
武家辺りじゃ系統改竄もありそうだが公家ではどうでしょうねぇ

14: 日本@名無史さん 2008/04/19(土) 17:40:11
武家の直江家(上杉家家臣)は藤原京家末裔を名乗っていましたがやはり改竄でしょうかねえ?

16: 日本@名無史さん 2008/04/19(土) 21:13:42
>>14
直江家の地盤にある法音寺は、真偽はともかく、藤原麻呂建立の伝説を持っている
今では上杉謙信の菩提寺としてのほうが知られているけれど。
藤原麻呂建立という縁起を持っている寺は非常に珍しいから、この寺、或いは南魚沼に藤原麻呂は何らかの関わりはあったとも考えられるが。

17: 日本@名無史さん 2008/04/19(土) 21:41:15
>>14
わざわざ京家に改竄する意味もあんまりあるのかという気もするけどね。


19: 日本@名無史さん 2008/04/19(土) 22:45:29
>>17
源氏、平氏、藤原南家、藤原北家のような有名な氏族だとあからさまに怪しいから、わざとマイナーな藤原京家を選んだ可能性もある。

20: 日本@名無史さん 2008/04/20(日) 16:01:36
そういえば徳川家康が藤原姓を名乗っていた頃にはたしかに遠い縁故の者であるというお墨付きを五摂家筆頭の近衛家から貰ってきていた(実際は出鱈目だろうけど)
一介の武士の身ではなかなかそうもいかないだろうから末裔が断絶していたりどこへ行ったか不明の家をわざわざ探してきて誰も知らないだろうから名乗るというのはあったかもしれない

21: 日本@名無史さん 2008/04/20(日) 17:47:45
>>20
ただ、それならもうちょっと藤原京家出自を名乗る武家が多くてもおかしくないわけで

25: 日本@名無史さん 2008/04/21(月) 23:43:24
麻呂っていう命名からしてもうやる気が感じられない。
京家はその出発の時点からして既に日陰の身を運命付けられた一族だったのだねえ。

27: 日本@名無史さん 2008/04/22(火) 00:22:44
麻呂の母親は不比等異母妹の五百重娘なのだがこの人元々は天武天皇夫人の一人ですわね

『尊卑分脈』?だったか
「不比等は五百重娘を姦して麻呂が生まれる」と書いてあったような
事情は分からないが余り恵まれた出生ではなかったのでしょうね

33: 日本@名無史さん 2008/04/23(水) 17:53:49
>>27
「尊卑分脈」には「不比等密通之令生麻呂卿」とある。
麻呂は不比等が異母妹五百重娘と密通してできた子だという。
もっとも、五百重娘は不比等の妻たちの中でも出自はかなりよく、しかも麻呂には一品に叙せられた天武皇子新田部親王という異父兄までついていた。
麻呂が出世できなかったのは四男という兄弟順、さらに兄たち3人と一緒にはやり病で死んでしまい、藤原四兄弟の中では一番短命だったためだろう。
兄たちより一人長生きしていればもう少し出世できたと思う。

28: 日本@名無史さん 2008/04/22(火) 02:22:37
天武没後の五百重娘自身が不遇だったんだろうね。

29: 日本@名無史さん 2008/04/22(火) 18:47:43
普通は天皇が亡くなると妃たちは実家へ帰るなり
皇子女に養われるなどして穏やかに過ごす
五百重娘を庇護する立場の異母兄不比等が
思い余って異母妹に手を付けてしまったというところだろう
もともと天武天皇は異母兄不比等よりも28歳程度年上、
五百重娘とはかなりの年の差婚だった
五百重娘にとって親子ほどに年の離れた夫天武天皇との結婚が
幸せだったかどうかわからないし

35: 日本@名無史さん 2008/04/23(水) 19:00:50
麻呂自身の昇進は兄たちに別段劣るものではない。差が付いたのは息子達の世代。
それも子息の年齢が原因だろうな。
武智麻呂の男子はどうやら全員が700年代の生まれ。
房前の子は鳥養はおそらく700年代中頃、永手以下は710年年代中頃から720年代前半。
藤原宇合の子は長子広嗣はおそらく永手とほぼ同年輩、下の方はかなり若年だが。
それに対して麻呂の男子でとにもかくにも政治活動をしている浜成は720年代生まれ。
四兄弟死亡時点で活躍できる年代に到達しておらずそれで後れを取ったのだと思う。
浜成がようやく壮年になる頃には年長の従兄弟達でポストが塞がってしまっていた。
それでも義兄(姉婿)豊成の引きはあったようだが、豊成死亡後はもう味方が居なかった。
つまり麻呂の子が少なくかつ若年であったのが不運だったのだろう。
まあ逆に若年で政治的事件に巻き込まれなかったために後に繁栄することもあるけどね。

39: 日本@名無史さん 2008/04/26(土) 21:44:45

百人一首によく出てくる藤原興風さんも京家出身なんだね。

40: 日本@名無史さん 2008/04/26(土) 22:45:35
浜ちゃん以外の麻呂の子供は何もしていないの?
勝人なんかは子孫も残しているのに本人の事蹟は一切不明なのか。

41: 日本@名無史さん 2008/04/26(土) 23:14:36
一応綱執(長男?)が従四位上参議、勝人は従五位下大隅介ってなってるな。
けど二人とも正史には全く出てこないようだ。
従五位下なら漏れってこともなくはないけど、四位だの参議でまったく顔を出さないのは有り得ない。まったく架空の人物なのか、浜成の別名だったのを混同したとか、実在したけど早死で官位は完全にふかしだったのかよくわからない。どっちにしろ事績と言うほどのものはない。
勝人の子孫ってもしかして天武系藤原氏(不比等の外孫系)が仮帽したのだったりして。
あれ子孫の代で別姓になってるけど、全員が改姓したって証拠もないし、藤原姓のままだった人もいる可能性があるんじゃないか?

46: 日本@名無史さん 2008/04/28(月) 10:31:10
一度は広嗣の乱に連座して隠岐まで流されながら返り咲き、桓武朝で何気に左大臣になり政界の首班となっている藤原田麻呂(麻呂の子)ってやり手?

47: 日本@名無史さん 2008/04/28(月) 20:56:44
田麻呂は宇合の子で式家

54: 日本@名無史さん 2008/05/01(木) 22:02:33
>>47
しかし何故か『尊卑分脈』の京家の項を見ると、浜成の子に田麻呂と百川の名が…。
何をどうトチ狂ってこんな間違いをしでかしたのか分からぬが。

55: 日本@名無史さん 2008/05/02(金) 11:14:30
藤原浜成(724-790)
藤原田麻呂(722-783)

田麻呂が浜成の子っていうのはただの誤植だろう

48: 日本@名無史さん 2008/04/29(火) 21:47:04
藤原麻呂-浜成-大継-河子-仲野親王-班子女王-宇多天皇…現皇室

この事実はもう少し知られていてもよい。

49: 日本@名無史さん 2008/04/29(火) 22:05:22
>>48
近世の京極氏は、女系では藤原京家の系統にもなっているのか。

50: 日本@名無史さん 2008/04/29(火) 22:47:03
藤原武智麻呂-巨勢麻呂-真作-美都子-長良-基経-穏子-村上天皇…現皇室
藤原房前-真楯-内麻呂-冬嗣-長良-基経-穏子-村上天皇…現皇室
藤原宇合-良継-乙牟漏-嵯峨天皇…現皇室

四家全てが皇室に繋がっている

56: 日本@名無史さん 2008/05/07(水) 09:40:21
浜成の孫の冬緒は大納言にまで上がっている。
それ以降は公卿になれた者すらいないようだが。

59: 日本@名無史さん 2008/05/13(火) 23:02:18
>>56
冬緒の存在は京家では異端だよな。なんで大納言まで昇進できたんだろうか。

60: 日本@名無史さん 2008/05/30(金) 00:16:58
きょうけ なんで京だったけ

61: 日本@名無史さん 2008/05/30(金) 11:50:54
京家の由来は藤原麻呂が左京大夫だったことから。

72: 日本@名無史さん 2008/07/16(水) 21:27:17
浜成って確か何かの史書で全くの凡才だと罵倒されてなかった?

74: 日本@名無史さん 2008/07/16(水) 22:58:12
>>72
『続日本紀』の浜成薨伝かな

73: 日本@名無史さん 2008/07/16(水) 22:07:36
たとえ浜成が優秀だったとしても他の藤原三家に対抗できなかっただろう。
京家の人材が浜成しかいないのは致命的。

74: 日本@名無史さん 2008/07/16(水) 22:58:12
>>73
そのとおり+血縁である新田部親王系統が聖武天皇没後の皇位争いに巻き込まれて没落したのも致命的だったかと

77: 日本@名無史さん 2008/07/30(水) 19:52:54
>>74
麻呂の時点で兄三人と異母兄弟だったのも痛かったかな

78: 日本@名無史さん 2008/07/30(水) 20:00:44
ただし式家・宇合は上2人と年が空きすぎているので母親は違う!
・・・つう意見を言う人は多いが

80: 日本@名無史さん 2008/07/30(水) 21:14:34
>>78
宇合と同母兄房前の年齢差 13歳
不比等と同母兄定恵の年齢差 15歳

鎌足の妻妾は不詳な者が多いが
不比等の妻妾は比較的分かっている
異母兄弟ならわざわざ上2人と一緒にしなくても
文武天皇の夫人だった藤原宮子も
聖武天皇の皇后だった藤原光明子も
藤原4兄弟とは異母姉妹だったことが分かっているし

81: 日本@名無史さん 2008/07/30(水) 22:24:42
>不比等と同母兄定恵

あれ同母兄弟でした?

82: 日本@名無史さん 2008/07/30(水) 22:47:40
不比等の母は定恵と同じ車持与志古娘という説もあるが、年齢差から考えて鏡女王の方が有力。

89: 日本@名無史さん 2008/08/23(土) 20:22:41
>>82
尊卑分脈には不比等の母は車持与志古
鏡王女を母としている史料は全くない
不比等が名前も分からないような卑母の出生で
のちに車持与志古の子だと公証したというのなら分かるが
車持与志古より出自の良い鏡王女の息子であるのに母を偽る意味がない
鏡王女を母だとするのは不比等天智天皇落胤説の根拠だが
鏡王女が不比等の生母である可能性は低い
鏡王女が子供を孕んだまま鎌足に与えられた可能性はもっと低い

84: 日本@名無史さん 2008/08/19(火) 23:50:55
京家の子孫て今もいるの?

90: 日本@名無史さん 2008/09/22(月) 21:37:13
>>84
京家の血筋は女系なら摂関家にも通じてるよ。

藤原麻呂-浜成-大継-河子-仲野親王-班子女王-宇多天皇-源雅信-倫子-藤原頼通

91: 日本@名無史さん 2008/09/22(月) 21:46:00
女系を含めるなら藤原四家は複雑な姻戚関係を築いているからね
もともと不比等一人から別れた家だが
その後も近親婚を繰り返していた

118: 日本@名無史さん 2009/02/10(火) 18:25:31
皇統が桓武天皇へと変わったとき、聖武天皇の皇女不破内親王とその子
氷上川継は、皇統を取り戻そうと反乱をおこそうとした。
しかし事前に潰され流刑に。
浜成の娘法壹が川継の妻だった為、京家は致命的な打撃を受けた。
しかも浜成は、他戸親王が廃されて次をどうするかの議論で、桓武の弟
稗田親王を推していたので、桓武からは敵対視されていた。
他三家のように兄弟が多ければ、一人没落しても他の系統が盛り返せるが、
京家の場合浜成の没落が即家の没落につながってしまった。

122: 日本@名無史さん 2009/04/02(木) 23:47:15
>>118
しかし浜成が没落しなれけば京家は栄えていたかといえばそうでもない

125: 日本@名無史さん 2009/06/21(日) 23:14:38
浜成の日本後紀の評は酷すぎるな
緒嗣は優秀かもしれんが主観が強すぎるじゃないか?
後から公卿になった冬嗣(嵯峨により近い)に追い抜かれたのも仕方がないな

128: 日本@名無史さん 2009/09/25(金) 02:41:46
緒つぐの官位は?

129: 日本@名無史さん 2009/09/27(日) 00:02:21
緒嗣の最終官位は正二位左大臣

131: 日本@名無史さん 2009/10/15(木) 07:02:18
冬緒(京家の極官(大納言))を調べたが公卿補任しか史料が無い
他に知ってる人がいればもっと知りたいので・・・

132: 日本@名無史さん 2009/10/15(木) 09:04:04
藤原冬緒、ぎりぎり「三代実録」時代より長生き。
もう4年ほど早く没していれば薨伝が載ったはずなのに。
長生きしすぎたもので。

134: 日本@名無史さん 2009/10/17(土) 21:26:22
一つの可能性と言うか妄想。

父:不比等(659~720、63歳)
姉妹:宮子(685頃以前~754、70歳程度以上:文武天皇夫人、聖武天皇生母)
妹:光明子(701~760、60歳:聖武天皇皇后)
女子:百能(720~782、63歳:南家豊成の妻)
男子:浜成(724~790、67歳)
孫:継彦(749~828、80歳)
曾孫:貞敏(807~867、61歳:継彦の六男) 
曾孫:冬緒(808~890、83歳:浜成の孫、豊彦の子)
同じ疫病で死去した兄武智麻呂は当時58歳、房前は同じく57歳であり、
この時点では特に健康に不安はなかったようだ。
親族全員が長生きしたわけではないので一概には言えないが、
43歳の麻呂が疫病に罹患しなければ、あと20年程度は生きられたのではないか?

そこで737年に蝦夷の大反乱が起きていたらと妄想してみる。
そのような状態では当然麻呂は帰京できないだろう。
結果的に疫病の罹患を免れたりして。
そうなると嫌でも政府首班の座が回ってくることになるだろう。
史実でも南家の嫡子だった豊成と娘百能が結婚しているわけで、
二人がくめば仲麻呂の出番はない?
なお婚姻時期は百能の年齢的にこの前後だとは思われる。

144: 日本@名無史さん 2009/12/27(日) 11:35:19
>>134
>曾孫:冬緒(808~890、83歳:浜成の孫・・・・

冬緒の子息たちは、どういう職位に就いたの?医術のない未開時代に、83歳という
長寿の理由は何だったのだろ?

145: 日本@名無史さん 2009/12/28(月) 22:30:22
冬緒は京家の出世頭だが、京家で最後に公卿になった人物でもある

146: 日本@名無史さん 2009/12/28(月) 23:41:03
竹田千継(757~857、101歳:系譜不明)
 典薬寮医生(773、17歳)→典薬允(855、99歳)→左馬允・蔵人所当直(757以前、101歳)
延命に効用のある薬草を栽培し服用していたところ、70歳をすぎても髪も黒く元気だった。
文徳天皇に召し出され99歳だと告げて典薬允に抜擢、その後左馬允となり蔵人所に直し、忙しくて薬草を服用で
きなくなって老化で101歳で死亡とのこと。
当然位階をもっていたと思われるが、六位以下だったのだろう。

なんて人もいるけど、普通は単に丈夫に生まれついただけだろうな。
それはまあ当然節制もしたんだろうけど。

147: 日本@名無史さん 2009/12/29(火) 00:18:42
どうだろうな、最下級の公家って官位につけなくて、つまり収入がないから結婚できなくて
子孫を残せなかったというのが本当のところじゃないの。
ちょうど現代のヒキニートみたいに。

148: 日本@名無史さん 2009/12/29(火) 11:34:51
>>147
>つまり収入がないから結婚できなくて・・・
現代感覚で、推量してどうする。史学の門外漢だな。
当時は妻問い婚だから、富貴家の子女と懇ろになって入り婿になれば、困窮もしないし、姻戚の引きで官位にもつけるよ。
子女を誘引する魅力が、当人に必要だがね。

149: 日本@名無史さん 2009/12/29(火) 23:43:01
>>148
で貧乏貴族が富貴家の子女と懇ろになるってのはよくあるケースなのかね。
ごく稀なケースを例にだされても納得感ないんだけどな。

163: 日本@名無史さん 2010/03/30(火) 21:24:31
>>147
収入がないから結婚できないというより収入がないから子供は出家させられる。
没落貴族の家では子供に良い官職を用意させてやれず、それならば仏法界で出世させるのが子供の幸せと割り切って食いぶちを減らす意味もあり男子をどんどん寺へ入れる。
尊卑分脈をみると没落していった貴族の家では男子がすべて僧侶にさせられていてやがて消滅していく。

150: 日本@名無史さん 2009/12/30(水) 00:27:49
冬緒の子ならせいぜい870年代以前の生まれ。
結婚するのは遅くとも10世紀初め、せいぜい910年代あたりか。
その頃なら結婚できないってこともないんじゃないのか?
京家の五位官人は道長時代、つまり11世紀初頭あたりまではいたらしい。
偽京家も横行していたみたいだけど。


151: 日本@名無史さん 2009/12/30(水) 13:03:10

> 京家の五位官人は道長時代、つまり11世紀初頭あたりまではいたらしい。

偽京家も横行していたみたい


ソースは想像力ですか

まさかあのコンジヤク物語?

152: 日本@名無史さん 2009/12/30(水) 14:04:32
図書館で読んだ本。
題名も著者も覚えてないけど、吉川弘文館歴史文化ライブラリーの1冊。
藤原氏の各家長者について書かれた本だったと思う。
大本のソースなんて覚えてないけど、日記かなんかでしょう、この時期なら。
この時期まではまだ一応は京家にも氏爵の割り当てがあって、他氏の六位が偽京家になって五位に成ろうとして発覚しただか、成ったあとで告発があったとかそう言う話だった。
これでソースになるとか思ってないから、信じる信じないはそっちの勝手。

153: 日本@名無史さん 2009/12/30(水) 19:03:41
京家の件は聞いたことはある気はするけど、思い出せない。
ただ、偽者が氏爵にありつこうとした事件は平安時代中期には何件か起きている。
王氏だと、長元4年に宇多天皇の子孫と言うことで叙位された良国王が実は九州の大蔵種材の息子(当然、皇胤でもない)判明して大騒ぎになっている件がある。

引用元: ・藤原京家を語るスレッド