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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/15(土) 17:14:12 ID:FbHP8oii
戦国時代の端緒を開いた東軍の将、細川勝元
そして管領職を独占し勝者になったにもかかわらず一族合い抗争して権力を失っていく
こんなかわいい細川氏を語りましょう

細川藤孝・忠興や地下官人細川蔵人家の話題も可







細川氏

細川氏は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。細川という名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。細川氏は初め四国と淡路国の守護にすぎなかったが、赤松氏から摂津国の守護職を、山名氏から丹波国の守護職を譲り受けたことにより急速に発展、嫡流は室町幕府の管領家の一つに列した。




4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/15(土) 21:23:42 ID:FRMRgjXt
蔵人細川家ってたしか和泉半国の細川元常に、元春という息子がいたって話になってるんだよな。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/16(日) 00:48:44 ID:neRFsVDe
細川藤孝って文化人のイメージが強いけど剣術や弓術にも秀でていたんだよね。

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/17(月) 18:42:31 ID:2uOnfbpW
忠興は基地外

長男を追放し
次男を無理やり切腹させ
家を継いだ三男とは喧嘩別れをして争う始末
16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/19(水) 21:09:58 ID:fWRWG4U6
没落後に細々生き延びたのに細川全隆がいる。 
徳川から十五人扶持もらって仕えたらしい。
81: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 01:58:20 ID:HGET73Ky
細川興秋は大阪の陣で豊臣方として戦ったんだな 
この頃完全に徳川側だった忠興は怒り心頭だっただろうな 
しかもちゃんと活躍しているし 

忠興は何か信長に近い性格のような気がする

82: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 12:16:23 ID:nbYeIkBg
茶をやったり、すぐ手討にしたりするところは信長と似てはいるが・・

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/17(月) 23:50:46 ID:XdQE+VGJ
三淵晴員とはどういう系譜の人物ですか?
細川家の同族?
三淵 晴員(みつぶち はるかず)は、戦国時代の武将。室町幕府幕臣(申次衆)。細川藤孝(幽斎)の父。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/18(火) 08:54:32 ID:BBXlBdvU
三淵家は足利氏の一門。
血筋からいうと足利尊氏以降、足利将軍家から分かれた家。

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/18(火) 15:48:30 ID:Fio7aWUO
>>11を補足すると、
三淵晴員は和泉半国守護(上守護)細川元有の子です

和泉上守護家は細川頼之の弟、頼有の流れ(元有は頼有の玄孫)


17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/19(水) 21:12:39 ID:0knJuAEZ
細川藤孝って管領細川家と別系統なんですか?
その辺不勉強なんで詳しい方簡単に聞かせてプリーズ

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/19(水) 21:34:49 ID:fWRWG4U6
すぐ上>>12見ろ
晴員の子が藤孝
これでわかったろ

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/20(木) 15:11:34 ID:9OYjOJEo
藤孝は和泉上守護家元有の養子となり、家督継いだ
これが出発点

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/20(木) 16:25:05 ID:mhS6qpuH
なんで長岡に変わったの?

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/20(木) 16:33:35 ID:9OYjOJEo
天正元年(1573)信長から山城長岡を与えられ、長岡と改姓したそうだ

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/20(木) 21:22:53 ID:djycgZPs
細川に戻ったのは関ヶ原の頃かな

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/20(木) 22:15:03 ID:mhS6qpuH
ということは、若い頃は「細川」というブランドには関心がなかったのですね。
細川に戻したのは、清和源氏を仮冒した徳川への対抗心でしょうか。

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/20(木) 22:21:38 ID:djycgZPs
信長がいないからだけだと思うけど
もともと細川なんだから対抗はしないでしょ

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/21(金) 02:24:37 ID:QzIAry47
中央の細川の没落とほぼ時を同じくして西の大内、東の今川が没落・・・
きびしいでつな

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/21(金) 13:07:10 ID:2ZFF2Zar
・大内 義隆自害 天文二十年(1551) 完全に滅亡 弘治三年(1557)
・細川 晴元逃亡 天文十八年(1549) 氏綱が死去 永禄六年(1563)
・今川 桶狭間戦 永禄 三年 (1560) 完全に滅亡 永禄十一年(1568)

若干今川が遅い程度ですね

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/21(金) 15:18:11 ID:KOQGpQeX
今川は氏真が追われたのが最後じゃないか?

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/22(土) 00:36:22 ID:6JdwM7Ix
藤孝が元常の養子なら、元春なる人物も実子ではありえない。
細川 元常

細川 元常(ほそかわ もとつね)は、戦国時代の和泉上半国守護・山城国勝龍寺城城主。文明14年(1482年)、細川元有の嫡男として生まれる。天文23年(1554年)6月16日に死去。享年73。甥の藤孝(弟の三淵晴員の子)を養子として後を継がせた(ただし、藤孝が養子になったとされる天文7年(1538年)当時の当主は晴貞であったとみられ、藤孝が晴貞の養子であった可能性もある)。

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/23(日) 01:08:37 ID:kQdqNJsh
元常の実子は、天文7年には和泉守護になっていた晴貞じゃないの?

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/25(火) 14:58:58 ID:250M6HAG
元春って、明治期に正六位で宮内省京都支庁殿掌などをした、常典のご先祖さまのことね
謎?だね

晴貞?
三淵晴貞ならわかるが・・・

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/25(火) 20:47:12 ID:Mhg+Q8X1
>>31
「座中天文日記」に「和泉守護殿(元常)御弐息五郎殿」と元常次男の五郎が出てくる。
これが「細川家文書」の封紙上書に「刑部大輔晴貞」とある人物と同一人物であると岡田謙一氏が明らかにされていた。

最近出た書籍にはこういう説もあるということで。

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/25(火) 21:53:10 ID:iBG40bvv
でも家督を嗣いだのは藤孝なんだよね

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/25(火) 22:09:17 ID:Mhg+Q8X1
うん、藤孝だね。
ただ継嗣がいるのに、藤孝を養子にしなければならなかった理由はまだ不明なんだよね。
晴貞が早い段階で死亡したりしたのかな。

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/27(木) 14:26:35 ID:JKIBdTxE
とりあえず謎ということで

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/28(金) 09:54:08 ID:ppCn7quO
細川忠興ってガラシャの事すごく愛してたんだね
この時代の政略結婚にしては珍しいくらい妻に執着

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/30(日) 17:28:01 ID:kNRI4itZ
>>36
というよりすごくアブナイ性格だったらしいぞ
妻と会話した自分の部下全員を殺してるし

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/30(日) 18:31:59 ID:HaEqrI5O
幽閉から戻ったガラシャを城の奥に軟禁
父の藤孝と弟の興元以外は絶対男子禁制
(それも内心は嫌々)
重臣がやむを得ぬ話のある時は襖越し

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/02(水) 16:34:06 ID:CYl+4rJu
明応の政変で天皇も将軍も、掌中にした細川政元だったが、禁裏と幕府を支える財政的負担に苦しんだ

それがもともとの端緒となって、後柏原天皇の即位の礼が遅れることとなる
ちなみに先帝(後土御門)の大礼のときは、三十ヶ国以上の国役で財源をつくったそうだから
京兆家だけの負担は、あまりに重すぎたようだ


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細川 政元


細川 政元は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。室町幕府の棟梁たる足利将軍家の在職将軍(10代義材)を追放し、政治権力を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。

父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元で、母は不明(勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)を母とする説もあるが、根拠となる史料は無い)。将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り、近隣にも出兵するなど細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。



45: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/11(金) 15:38:15 ID:nnFNLocG
政元がしっかり後継者決めてれば、畿内はその後あんなに混乱してないと思う

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/12(土) 15:07:17 ID:yLGBMV4j
明応の政変を起した、着想と行動力はたいしたものだが、修験道に凝って、政務をかえりみない、子もいないではね 

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/12(土) 16:48:09 ID:yLGBMV4j
高国とか
澄元とか
義興とか

知名度がないからねえ

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/13(日) 00:40:25 ID:/r5Sh1QW
そういえば明応の政変って、戦国時代突入の画期をなす事変だが学校で習った記憶がない

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/13(日) 16:21:36 ID:9JURzeVT
応仁の乱は細川勝元、山名宗全と出てくるけどね斯波義敏とか畠山義就とかも出て来なかったかな?

>戦国時代突入の画期をなす事変

やっぱり政元が戦国の発端なのかな

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/15(火) 00:02:41 ID:5a9CNw0e
明応の政変自体再評価されたのは近年だしな。

67: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/29(火) 20:51:10 ID:WIELFPsJ
>>50>>52
明応の政変は今なお異常なほど知名度が低いね。
平禅門の乱、永享の乱、嘉吉の変などにも言えるけど、NHKの「その時歴史が動いた」はこれらの大事件を必死にスルーしてるようにしか思えない。
文字通り「歴史が動いた」歴史的大事件なのに。
どういう理由で無視し続けているのか分からないな。

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/17(木) 14:58:18 ID:/ztd8l/G
政元による政権の実質的簒奪が、果たして戦乱の世のスタートといえるかどうか
畿内的には従来の応仁の乱が、しっくりくるような気はするけど
それとも戦乱云々じゃなくて、キーワードは下克上なのかな?

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/19(土) 02:02:28 ID:i6GANpEi
管領や守護などの幕府諸職の権威は、将軍家の権威あってのものだから、明応の政変で将軍権威にとどめを刺したのは、長期的にはまずかったのでは

まぁ、お陰様で室町末期がめちゃめちゃ面白い時代になったので、政元様と日野富子にはめっちゃ感謝してます

てか政変前後の権力闘争自体、かなり面白いから、NHKあたりに一度ドラマ化してほしい

59: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/25(金) 16:04:25 ID:n7caQM+F
政元に唯一対抗出来たのは、畠山政長
政長は当然東軍なんだけど、義就の死後政元が掌返しちゃうんだよね
やはり邪魔だったのかな

60: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/25(金) 21:22:59 ID:6n4uywvo
足利義材は畠山政長の意見を入れ、畠山義就の子基家を討伐する事を決定

危機に立った基家は、上原元秀を通じて足利義材を廃立するよう細川氏内衆を説得

細川政元は畠山政長を正覚寺に攻め自害させ、義材は元秀に捕らえられる

結果、幕府内のライバルが排除できた上に将軍も幽閉できて(゚Д゚)ウマー

61: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/25(金) 23:48:43 ID:Z0Rh7tEE
誰か「政元」没後の細川管領家の勢力争いを分かりやすく説明してくれ。
澄元・高国らがボコボコと勢力争いしてた歴史を教えて。

62: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/26(土) 13:56:55 ID:MS85cFmB
簡略に(抜けてる人物・事象があったらごめんなさい)、政元没→三好長慶実権まで

・永正四年(1507)六月、政元が澄之派の香西元長らに殺される、七月澄之が家督を相続

・同年八月、澄之が澄元と結んだ高国に攻められ、香西元長、薬師寺長忠らとともに討死
・同年同月、義澄将軍のもと、澄元家督を相続、三好之長が補佐

・永正五年(1508)四月、高国入京、澄元・之長・義澄が近江に逃れる
・同年六月、大内義興が足利義材を伴い入京、義尹(義材)将軍、高国管領に

・永正六年(1509)八月、一時澄元が京を奪還するが、船岡山で高国、義興に敗退、摂津から阿波に逃れる

・永正十五年(1518)八月、大内義興帰国

・永正十六年(1520)三月、三好之長、高国らを近江に追い入京
・同年五月、高国、等持寺で三好之長を破る、之長捕らわれ処刑、六月、澄元が阿波で病没

63: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/26(土) 13:58:13 ID:MS85cFmB
・大永元年(1521)三月、将軍義稙が高国と対立し堺から阿波へと落ちる、義晴将軍に

・大永七年(1527)二月、柳本賢治・波多野稙道ら、高国、義晴将軍を近江に追い入京
・同年三月、足利義維、晴元、三好元長ら堺に入る

・享禄三年(1530)六月、天王寺で高国、三好元長らに敗れ、討死
・翌年、六角定頼の仲介で、義晴将軍と晴元和睦、義維阿波へ

・天文元年(1532)六月、晴元の要請で木沢長政と一向一揆が三好元長を攻め、元長討死
(こののち一向一揆を抑えるため、晴元が法華衆を利用、延暦寺との対立で天文法華の乱に)
(この間に晴元と三好長慶和睦)

・天文十一年(1542)三月、木沢長政が三好政長らに討たれる

・天文十七年(1548)三好長慶が細川氏綱と結び、晴元と対立

・天正十八年(1549)六月、晴元方の三好政長が摂津江口で敗死、晴元、義輝将軍近江に落ちる
・同年七月、三好長慶入京(天文二十二年、義輝将軍と和解)

だいぶ抜けてるかな?

64: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/26(土) 18:46:56 ID:bA0iU9EK
>>62>>63サンクス!よく分かります。

いわゆる「大物崩れの戦い」とはどれのことでしょうか?

65: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/28(月) 10:08:54 ID:m1Tzt+JD
>>63で一年間違ってるけど、享禄四年(1531)六月に高国が天王寺で敗戦
逃れたが、尼崎の大物で捕らえられ、大物広徳寺で自刃させられた

天王寺合戦~自刃までを、俗に大物崩れという

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/28(月) 12:06:08 ID:Ud4M6/ls
>>65のご指摘の通りです、>>63一部訂正します

・大永元年(1521)三月、将軍義稙が高国と対立し堺から阿波へと落ちる、義晴将軍に

・大永七年(1527)二月、柳本賢治・波多野稙道ら、高国、義晴将軍を近江に追い入京
・同年三月、足利義維、晴元、三好元長ら堺に入る

・享禄四年(1531)六月、天王寺で高国、三好元長らに敗れ、尼崎大物広徳寺で自刃

・天文元年(1532)六月、晴元の要請で木沢長政と一向一揆が三好元長を攻め、元長討死 、義維失脚
(こののち一向一揆を抑えるため、晴元が法華衆を利用、延暦寺との対立で天文法華の乱に)
(この間に義晴と晴元、晴元と三好長慶和睦)

・天文三年(1534)九月、義晴将軍が入洛、この年、義維阿波に入る

・天文十一年(1542)三月、木沢長政が三好政長らに討たれる

・天文十七年(1548)三好長慶が細川氏綱と結び、晴元と対立

・天正十八年(1549)六月、晴元方の三好政長が摂津江口で敗死、晴元、義輝将軍近江に落ちる
・同年七月、三好長慶入京(天文二十二年、義輝将軍と和解)

また間違いあれば指摘下さい


69: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/30(水) 21:26:23 ID:FVu+IWqw
政元って変な人だけど
事績はすごいね

70: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 10:25:08 ID:EnrgXjb+
怪しげな宗教に凝って、妻帯しなかったんだよね。
澄之の実父も変な人物だが。


87: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/17(日) 12:08:30 ID:x1yTqrCi
政元・晴元と大内義興は事績が大きいのに一般の知名度があまりにも低すぎるな。
(この3人の諱は単語登録しないと一発変換できない)
政元や晴元より藤孝や忠興のほうが有名だなんて理不尽だよ。
(「忠興」はなぜか一発変換可能)

88: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/17(日) 19:07:52 ID:CvN91WA7
まあ近代まで生き残った大名家で、子孫が首相にまでなったっていうことじゃない?藤考の流れは。晴元の直系の子孫は秋田で細々と血脈をつないではいたらしいけど。

128: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/27(水) 01:19:19 ID:yzGClvym
>>88
秋田じゃなくて福島県の三春藩。
細川京兆家の細川昭元の娘が秋田実季に嫁入りした事から細川京兆家は江戸時代、代々秋田家の家老となった。
1645年から秋田家は福島県の三春藩主5万石となった。
先日福島県三春町の細川京兆家家の墓を見て来たよ。
さすがに立派な素晴らしい墓だった。
反対側にある三春藩家老の荒木家
(丹波の波多野家臣の細工所城主荒木山城守氏綱の子で明智光秀家臣となった荒木氏清の子孫。
荒木氏清の妹が細川昭元の娘の侍女となり、秋田家の側室となった事から、荒木氏清の子孫は秋田家の家老となり、藩主の秋田家と代々密接な親戚となり、秋田家に養子を出してついにその子が藩主となって、お家乗っ取りに成功したが、幕府を巻き込んで大騒動になり、化け猫騒動まで起こった)の巨大な墓が倒れたままだったのは大変残念だった。
貴重な史跡だから三春町か福島県で何とか保存して欲しいものです。

106: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 19:22:10 ID:dnqP/aO3
頼之・勝元・政元より藤孝・忠興親子のほうが有名というのは理不尽すぎる。

107: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 20:53:28 ID:QNIZ+pzv
有名人がいるだけでも斯波よりまし

119: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/29(水) 22:41:33 ID:Dc5G1xqS
>>107
三管領家で一番格下なのに、なぜか有名人が多い細川。
足利分家の中で最も格上なのに、なぜか有名人がいない吉良。
(俺の中では、大河「太平記」の影響で貞義が有名人だけど)

109: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 23:19:28 ID:sbqsgOeh
主筋より傍系のほうが台頭するのはよくあること
大概が室町時代に内紛続きで主筋が衰え、戦国時代に傍系にのっとられる構図
武田とかよく持ちこたえたよな

115: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/27(月) 22:03:52 ID:Pd147PBG
勝元は有名だと思うんだけど、今では一般レベルだとマイナー?

息子の政元は残念ながらマイナーだよなぁ・・・
実際には勝元を上回る大物だったといえるのに。

116: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/28(火) 14:16:33 ID:/QmXfrGu
勝元は応仁の乱の原因なだけで、事績はそれほどでないよね
どちらかといえば京兆家にとってはプラスにはなっていない

政元は終わりは良くないが、斯波・畠山を排斥し、将軍も無力化したからね

117: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/29(水) 21:47:13 ID:1c6gzcLI
>>116
政元は3人の養子とって家中を混乱させた上、暗殺という絵に描いたような
凋落ぶりがまた面白い。評価は人それぞれだろうけど。

133: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/14(日) 19:05:36 ID:nFr3hfUo
細川の分裂と三好の謀反で一番得したのって、摂津衆じゃね?

134: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/16(火) 12:32:40 ID:n+UG/1At
う~ん、まあ三好の謀反に加担して晴元政権を追い込んだのは他ならぬ摂津衆だし。
晴元VS氏綱でもあっちについたりこっちについたりと、好き放題だったな。

135: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/16(火) 12:52:02 ID:pQ0ZIBqU
元長の死も晴元に阿波衆か摂津衆を選ばせた結果だったり
そう考えると恐ろしいな、摂津衆って

136: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/16(火) 13:08:42 ID:iJTTEtUv
それでも結局三好長慶には屈服しなくてはいけなかったのだから、基盤となる軍事力のない晴元についたほうが、自由にやれたのではないだろうか。

137: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/16(火) 14:55:26 ID:0pmWZJA5
今谷氏の著書の受け売りで申し訳ないが、
晴元が荘園保護派だったのが摂津衆離反の原因って言うから
その辺の利害がからんで三好についたと
狡猾なイメージはあるね、摂津衆

138: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/16(火) 22:18:03 ID:DFxy+Z+E
政元は自分が将軍になるつもりはなかったのだろうか?
細川自体が家臣格だから無理だと考えたのか

158: 人間七七四年 2007/05/01(火) 00:10:39 ID:Xlf1UOoJ
>>138
細川家は足利の傍流だから義澄の養子になる手もあっただろうが、実子のいない政元にその気がなかったんだろ。

142: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/26(金) 01:36:26 ID:q372am0t
オファがあったら喜んで将軍職引き受けそうな高国
いや根拠のないただの偏見だけど

引用元: ・★管領家★  細川氏総合スレ  ★応仁勝者★




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