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1: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/12(月) 22:00:41
鉱山資源と塩の専売で、装備ははるかに魏より上
魏は物々交換が主流だったが、蜀は貨幣経済が主流だった

関連記事蜀は実は魏より豊かな国だった







6: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/16(金) 09:25:05
魏のように戦乱の主戦場になっていないし、呉のように異民族と難民だらけということも
ないだろうから、一人あたりのGDPは蜀が一番高い可能性は十分あるな。

49: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/19(月) 12:46:55
>>6
蜀は普通に異民族だらけじゃ無いのか…?

7: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/16(金) 12:43:10
問題は人が居ないことだ

9: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/16(金) 15:34:20
まともに兵糧も用意出来ないのに豊かとか…

10: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/16(金) 15:36:46
あれは糧道の問題であって
蜀の国内の問題では無いのでは?

13: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/16(金) 18:39:49
武器の質も魏より蜀の方が良かったって話は聞くな

14: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/16(金) 19:01:35
鉱山資源が豊富だからね
生産力は下回るが、魏の方が養わなければいけない人間の総数が多いから一人当たりのGDP的には豊かと言えるかも

15: 清一色 2010/04/16(金) 20:53:19
魏の場合、貨幣経済をぶっ壊した董卓の影響が後々まで響いたんだなぁ。

20: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/17(土) 21:57:22
ちなみに呉は国家成立前は豪族割拠で漢にも服してない地域が多かったので金銀はそこそこあったが会稽や特定の街でしか貨幣流通は基本的ではなく豪族に収められるのも物税だったので長江流域で貨幣経済があったくらい
孫権が董卓銭500枚にあたる貨幣をつくってみたりしたが本格流通にいたらず、魏に準じた税体系になったと思われる
当時の魏地域で近年大規模な出土貨幣(貯蓄されていたものがそのまま埋まったもの)があり数万枚に及ぶ銭の種類を類別した記事があったが内訳は董卓銭96%、後漢末期以前の良貨3%、蜀直百銭(前述の蜀で鋳造された貨幣)1%
蜀だけ貨幣がまともに税としても使えていたようだが蜀でも絹が貨幣のかわりに税で納められる地域もあったようだ
Goshu-sen


五銖銭

五銖銭(ごしゅせん)は中国の古代に流通した貨幣。前118年(元狩5年)に前漢の武帝により初鋳された。

後漢末の董卓の乱では董卓五銖銭と称される粗悪銅銭が発行された。これは各種銅銭を打ち抜いて使用し、外側は削り小型化させたものであり(磨辺銭、剪輪銭)、これにより私鋳銭が広く流通し五銖銭は貨幣としての価値を失い、それ以降は100枚や1000枚を紐で束ねたものが流通するようになった。


336: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/29(木) 15:11:46
蜀が唸るほど金を持っていて、鉄装備で充実して、皮装備の魏に北伐していたというイメージは実際の北伐のイメージを覆すものだろう。

鉄の専売で蜀が儲けていたのは魏と違い、民間人も鉄の農具を使っていたということか

337: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/29(木) 15:47:38
>>336
鉄の農具は別に珍しくないだろ
漢代はそれが普通だ

338: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/29(木) 15:50:07
棺桶の釘を盗むくらいユーアーショックな時代だったらしい

兵糧切れで撤退=兵站が役立たずとか思ってたけどさ
よくあんなに戦争ばっか出来たな
まともに政権を維持出来るだけでおかしい

339: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/29(木) 15:53:27
蜀は益州一州で逼塞してたとか言われてるが並みの焦土化してる州より国力は上のようだ伸びる要素は十分にあったというのは意外
機会と地の利に欠けていたんだろうか

340: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/29(木) 16:27:26
>>339
というより、古代から現代に至るまで蜀に割拠した政権は無数にあったが、どれ一つとして蜀の外の領域を恒久的に支配できていない。
蜀は外に出るには交通が不便すぎて、引きこもるには天然の要害で豊かで蜀だけで一つの経済圏を形成していて、蜀一つの支配者でも満足できるだけの国力がある。
ポテンシャル的には高い潜在能力があっても、実際問題として伸びる事が出来ない。
蜀の豊かさは蜀を守ることにしか役に立たない。

341: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/29(木) 17:13:32
蜀+漢中→劉邦
蜀+関中→始皇帝
蜀のみ→公孫術

というそこまでの時代の形を見れば荊州南部でもいいから拠点さえあればって気になるな
また長安さえ取れれば秦と同じ形に持っていけるわけで夢が広がる
特に内陸国なのに塩を自給自足できるってのは非常にでかい

342: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/29(木) 17:29:26
>>341
中国には蜀以外にも内陸の塩の大産地はいくらでもあるが。

343: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/29(木) 18:31:14
>>342
いくらでもあるがそれがどうかしたのか?
自給自足できるところが素晴らしいってことだよ
内陸部で塩が自給自足できないってなると経済的にかなり弱くなる
自前で塩を作れることは素晴らしいことだよ

352: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/30(金) 00:26:01
ところで劉備や孔明は漢より古い時代にあった古蜀国については知っていたのだろうか

目が飛び出た仮面とか中華文明とは異質な文化を持つ国家があったみたいだし

353: 無名武将@お腹せっぷく 2010/04/30(金) 13:25:15
史記に載ってること程度なら知ってるでしょ

375: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 01:47:33
>>20を読み直してみたが、

>内訳は董卓銭96%、後漢末期以前の良貨3%、蜀直百銭(前述の蜀で鋳造された貨幣)1%

これの元ネタは「貨幣の中国古代史」なんだろうな。
だとするなら、正確には、「悪銭は96%を占め、とりわけ小銭類が多かった。」だ。
董卓小銭が96%なのではない。
96%の内訳は中文の論文に当たらなければわからないが、魏代に小銭と言ったときに董卓小銭と考えて良いのならば、董卓銭は当時も相当の影を落としていたことになる。

注意せねばならないのは、当時魏に存在した貨幣の96%が悪銭だったというわけではない。
グレシャムの法則によって、良貨は(特に富貴の家に)退蔵され、市場には悪貨ばかりが流通し、それによって売買せざるを得なくなるので、「96%」という数字が出る。
董卓が小銭を鋳造したのは初平元年190年の秋か冬ごろと考えられるから、当然山東蜂起によって洛陽より東と切断されており、漢帝国全土から貨幣を集めることはできない。
しかしながら、董卓は、手許の既存の五銖銭だけを改鋳したわけではなく、洛陽及び長安の銅人、鍾キョ、飛廉、銅馬之屬を悉く取り、以って鑄に充てた。という。
この銅人らがどこから来たのかというと、霊帝が黄巾の乱の後に民田一畝ごとに十銭を徴収しそれを鋳潰して作ったものが想起される。
将来董卓銭になるための、「中原中の貨幣」がを集められたのはこの時ということになる。
それでも後漢代の全国流通量と比べれば大したことのない量かも知れないが、ただでさえ危機的だった経済に致命傷を与え、小銭の流通と共に全国へ拡大させるには十分な政策だっただろう。

377: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 11:27:07
単純に、董卓以後も曹操が董卓銭を使ってたってだけだろ。

380: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 12:31:50
>>377
使ってたというより、曹操時代も改鋳続けてたってことだろうな

378: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 11:42:26
改鋳する暇がなかったんじゃないか?当時の魏は戦時体制下で改鋳に必要なモノなんてまず戦争に回されただろうし

379: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 11:44:38
銅は軍需物資としてはあんまり需要ないと思うが。

381: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 12:38:13
>>379
武器とかに使えるだろう銅は。
まだ銅類をつかった武器は多かった。

384: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 14:35:16
>>381
三国時代はもう青銅なんて使ってないだろ。

403: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 23:03:55
>>384
製造効率やコストで言えば銅のほうが相変わらず上。

412: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/03(月) 17:33:14
>>403
銅に比べ遥かに希少だよ。この時代になれば鉄と銅の価値は逆転してるだろう
基本的に鉄は何処でも取れる。大昔の原始の海は、鉄を豊富に含んでいたらしいし。
しかし、銅はそうではない。
赤壁の戦いは、銅山の無かった魏が銅山を欲して呉に攻め込んだといいわれるくらいだし。
そんな魏で、わざわざ銅製の武器を使うなんてことは勿体無くて、しないはずだろう

383: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 13:04:05
大量の悪銭を回収して品質の高い良貨に改鋳するという、技術と手間が必要だがそれ自体は何の生産性もない活動に、十分な予算を割く余裕が魏晋南北朝の朝廷にはなかった、ということだろう。

385: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 14:44:48
乱世で貨幣経済が衰退するのは割とよくあること。
商業保護とかないからね。

386: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 14:46:12
貨幣経済が発達していない場所での銅貨は、文字通り銅の価値で取引される。
つまり銅で物々交換やってるようなもの。

413: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/03(月) 17:41:10
>>386
それも違うな。
鉄銭の価値が鉄屑とイコールなら、誰も私鋳銭など作らん
少なくとも、魏においてさえ、董卓銭は鉄屑よりは価値が高かったという事実は否めない。
経済学的にはねグレシャムの法則を地で行く、最古かつ、最長の先例とも言える董卓銭の研究は面白そうな課題ではあるがな

414: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/03(月) 17:55:00
>>413に補足
んなこたーない
じゃあ、戦時体制に入ってた、蜀が銅銭作っていたのはなぜなんだという話だ
さっきも言ったが、董卓銭は、一応現実に「通用力」があった鉄屑+αの価値がある。
さらに希少価値の高い銅銭に至れば、その+αの部分はもっとあったとも思われる
蜀は董卓銭の価値100倍の銅銭を市場に回し、輸出することで、現実の銅屑の価格より遥かに高いロイヤリティーを受けていたはずであり
それで蜀の国庫は相当に潤ったはず、劉巴が貨幣改革を行った後に、北伐が行われているからも、その証拠となる。
つまり、改鋳は立派な収益になる行為であり、魏がやれなかったのは、資源(蒔)に不足していたためだと思われる。もちろん董卓銭の量が多かった、増えていたという現実もあるだろうが

387: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 17:14:08
貨幣経済が発達していないってどこの話だ?

389: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 18:39:51
>>387
銭より現物が貨幣として信用されてた魏の事じゃね?

390: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 18:45:31
>>389
それどこに書いてあるの?

391: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/02(日) 19:31:32
>>390
文帝紀。政策として決定されている
貨幣での取引が正式に復活するのは明帝の時代

417: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/03(月) 18:14:11
ついでに、銅銭を作るだけでは意味が無い。
それを市場に回ことができて、初めて貨幣改革は成功したと言える。
蜀は官営市場や官営工場などを作ることで、商人や兵士、失業者などに貨幣を供給したと思われる
銅百銭は、大規模決済に向いているから、大商人にまわしておけば、中国全体に広がる。
しかし、これだけではまだ不十分。

一番手っ取り早いのは、もっと大規模な公共事業を行うことである。
当時の公共事業とは、言うまでも無く戦争である。失業者も減らせるし。
とすれば、出師の表には書かれていないが、北伐の動機の一つに「金が余った」「自国通貨を通用させる」という目的があったこということにはならないだろうか

418: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/03(月) 18:18:32
確か孫権が五百銭を作ったが失敗だったそうだぞ。
なんで百銭だったらうまくいくんだ。

421: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/03(月) 20:20:57
>>418
高額貨幣の鋳造は大抵失敗する。

423: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/04(火) 09:17:52
>>421
長期的には、だろ

短期的に見れば劇薬として上手く作用する場合もある
要はタイミングと期間だろ

422: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/04(火) 00:47:38
日本でいえば10万円金貨みたいなものか

432: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/06(木) 02:16:45
蜀が豊かだったろうってのは確かだろうけど、結局、土地のもつポテンシャルに比べて人口が少なかったから、一人当たりの「富」が多かっただけなんだよな。
かといって、人口を増やそうとしても、中原といわれる大平野を持っている魏ほどの食料生産は無理だろうし。

春秋戦国時代に、蜀+関中の秦が最強だったことかんがえりゃ、長安を落としていたら、かなり強国になれたのかなあ、と。
そんで、呉が荊州の全土を持っていたらと仮定すると・・・・・かなり三国の国力接近するんじゃね?。
蜀=秦、呉=楚+呉+越、魏=斉、趙、韓、魏、燕って領土だったら、かなり良い勝負になっていたのに。

465: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/08(土) 02:09:43
>>432
資源や資産もさることながら法制度の差もお忘れなく
秦が強かったのは資源もさることながら、峻厳な法律による強固な統治があったことを忘れては片手落ち

433: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/06(木) 02:41:13
三国時代だと斉と秦が没落
そのかわり巴蜀、楚、呉越が発展してる

439: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/06(木) 23:09:24
益州って涼州より田舎だったのでは?

440: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/06(木) 23:21:51
文化的には田舎だった。中原から遠く離れた交通の外れだからね。
他の国の人間に「きみんとこって誰か過去の偉い人いたっけ?(プ」
みたいなこと言われたりする。

産業としては、秦の灌漑によって天下統一の重要な物資供給源となり、前漢時代まで入植が多く続けられた、豊かな田舎だった。

441: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/06(木) 23:24:32
>>440
まあそんなこと言ったら「司馬相如や揚雄知らないんだこの人・・・」って物凄く憐れみの目で見られるだろうけどなあ

442: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/06(木) 23:26:42
>>441
蜀人はたいてい、その二人を持ち出して切り返して面目を保ったぜ、というのが逸話のパターン。
逆にいうとそれくらいしか歴史的に威張れる人間がいない。

444: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/06(木) 23:45:01
「遅れた」というのとは違うだろう。
そういう文化風土なんだよ。中華では諸国固有の風土によってそれぞれ異なる人間性が育まれると信じられていて、巴蜀の風土がそういうもんだと思われていたって事。他には他の一長一短がある。

447: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/07(金) 13:48:30
人少ないのは呉も同じこと
だから異民族攻めて人連れてきたはず蜀も呉もね

448: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/07(金) 14:10:33
人口94万で兵力10万、官吏4万を抱えていたら、どんな豊かな土地でも国庫や民衆の生活はかなり苦しくなると思うが。
全人口の15%以上が兵士か官吏だぞ。
そんなに非労働人口が多い国が、豊かなわけがない。
かなり苦しい経済状況だったのではないか?

451: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/07(金) 19:44:58
>>448は間違っているんだよね

領戶二十八萬,男女口九十四萬,帶甲將士十萬二千,吏四萬人,

「領戸」ってことは、支配している戸数ってことだよ
つまり被支配階層の戸数 官吏の家などは含まない

「男女口九十四萬」ってのは全人口ではなく、子供を除く成年男女の人数じゃないか

>「官吏四萬人」

蜀の官吏は約4% 
屯田してるし兵士も民に養なわれているわけではないだろう

日本の武士は7%だった それに公家・僧などもいた

江戸時代の日本と三国時代の蜀では生産高が違うだろうが
蜀の非生産人口の比率は日本の半分
おまけに輸出で儲けてる

蜀は“産油国”なんだ
「豊かなわけがない」ことはない

465: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/08(土) 02:09:43
>>451
子供の数が入ってないのにも関わらず子供も統計に入った日本よりも非生産者が少ない!とか主張するのはどうかと
それと蜀は屯田してることはしてるが10万の内で屯田してる数は不明だし少なくとも全員ではないことは確か
半分が屯田してたとしても5万、官吏と合わせて9万、人口の10%はほぼ確実に非生産者だと思われる

大体人口の15%くらいが15歳以下の子供だとすると生産に寄与できるのはその半分以下
計算すれば計算する程、蜀の非生産者は増えるよ

479: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/08(土) 20:16:18
>>465
子供は別にいいよ
民も子供が含まれるから相殺される
がしかし考えてみれば武士は妻を含むだろうが官吏は含まないね
江戸時代の武士と三国時代の蜀の官吏はほぼ同率か

江戸時代の方が耕作地の生産高が高いが、
参勤交代という大きな支出があったことを考えればトントンかな
プラス蜀には大きな特産品収入がある

10万の兵の内、非生産者が半数?
いやぁ?? 平時8割は耕作してると思うよ
8割の労働力からのアガリで10割賄うくらい余裕だろう
確か羊祜が前線で兵の半数で屯田し、半数で守ったよね
これは呉の急襲に備えてのこと
急襲の虞のないところでは多くの兵を割くことが出来る 

506: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/09(日) 00:57:57
魏と蜀の兵糧備蓄はどれだけ差があったのだろう?
鄧艾の提案した屯田が大成功したようだが

514: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/09(日) 17:42:41
>>506
ソース引っ張ったわけではないんだが、とうがいの屯田って最前線で余剰兵力を使った「軍屯」だったんじゃないか?
征西将軍以前の職歴わすれたが、中央外軍だったはずだし。
堤防作ってた時とかだったら「民屯」なのかも知れんけど、許など中原周辺で長期間行われていた「民屯」とちがって

517: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/09(日) 18:14:16
>>514
カン丘倹の乱で20万を使えるって事は6割~同数くらいの輸送兵がいるってことだし
準備不足でカン丘倹が6万程度の兵を動員してるところから見て
魏は輸送兵込みで50万くらいならすぐに動かせると考えても問題なさそう

あと鄧艾の屯田はちゃんと軍屯
兵士が余ってるし休養も充分、耕作に適してて西で耕作するよりも3倍は収穫が見込めるので働かせようぜって言ってる

518: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/09(日) 18:22:43
>>517の一段目に書き忘れたけど、50万を即座に動員できるってことは備蓄を魏全体で考えると最低限3000万斛(50万の兵士が1年で食う量)くらいはあったんじゃないかな
この3000万斛てのは鄧艾が試算した淮水周辺での屯田で見込める年間収益の1/6だから魏全体で考えると備蓄は本当に膨大な量になってた可能性が高いとは思う

あくまでも推論に推論を重ねた丼勘定だけど

522: 514 2010/05/09(日) 19:53:17

丁寧な解説ありがとう。
兵○人が何日戦うのに、兵糧○、それを支える補給部隊○人って言うのは
何かの兵法書にあった気がするけど、試算すると莫大な数字になるんだな。

>>517

中原と淮水周辺は疲弊していたとはいえ、50万の兵が一年くえるだけの兵糧の6倍が淮水付近の屯田のみで賄われたのか…。
ということは、全部が懐に入るわけじゃないにしろ、民屯や税であがる兵糧より回収率は良かったはずだから、全体の回収率の8割と見ても360~400万人が一年食える量が、丼勘定でも賄えたわけだな。

525: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/09(日) 20:50:55
>>522
あ、すまん
>この3000万斛てのは鄧艾が試算した淮水周辺での屯田で見込める年間収益の1/6だから

というのは主客逆転してた間違い
3000万の1/6が屯田で見込める、に訂正をば

526: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/09(日) 21:24:21
でもこの鄧艾の計算おかしくね?
前漢時代の農夫一人当たりの収穫は粟で1斛半だった。後漢では数斛に上昇したとされる。
水稲の収穫量を加味して農夫一人当たり年間10斛と計算しても、ただ500万斛を得るだけでも50万人の農夫(+一家の支援)が必要になる。
これは淮水流域全体の予想収穫量じゃないかな。それでもかなり多いけど。
それから、黄巾の乱後の許昌屯田を移したものだから、これは民屯だろう。
徴兵でも兵家制でも、当時、兵士の主力は農戦一致の農民兵なのでもあるし。

529: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/09(日) 23:43:40
>>526
>黄巾の乱後の許昌屯田を移したものだから

どこにそんなソースが?

530: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/09(日) 23:50:04
「昔破黄巾,因為屯田,積穀于許都以制四方.」
これが鄧艾の言葉。で、許都屯田とはどういうものかと遡ると、

魏書曰(中略)是歳乃募民屯田許下,得穀百萬斛.於是州郡例置田官,所在積穀.
征伐四方,無運糧之勞,遂兼滅羣賊,克平天下.

曹操政権の重要な特徴と言える兵戸民屯の始まりが、この「募民屯田許下」とされる。

531: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/09(日) 23:52:36
あ、この場合の「黄巾の乱」というのは184年のことじゃないよ。ごめん。
群雄割拠後、曹操が黄巾(残党)の討伐をしたあとのことという意味。
「因為屯田」だから、おそらく青州兵のような土地を持たない流民の兵を許都屯田地に定着させたのだろう。

547: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/10(月) 01:07:42
「徴募」によって集められ、一家と共に常時、屯田地を耕すのが民屯。
身分的にその屯田を耕すことが定められたのが兵戸とか士戸と呼ばれるもの。
曹操は各郡に「徴募」による屯田を開いたが、魏になると効率的な前線や洛陽に兵糧を蓄積するために、士戸の移動も図られた。前線の士戸は「秋冬習戰陣,春夏修田桑.」と即応守備兵の役割を兼ねた。

軍事召集された前線で、屯田に従事するのが軍屯。つまり単身赴任のようなもの。
漢武帝が始めた西域屯田が有名だが、魏でも冀州などから召集された兵が揚州を守っていた
という話があるので、彼らは緊急時以外は軍屯に従事していただろう。

548: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/10(月) 01:14:13
民屯と軍屯には制度と身分上の差があるってことね。

魏の場合は、前戦配備されて軍屯に従事した者も、出身としては内地の兵戸の人間だったのだろうけど。
(漢ではもちろん、徴兵されて軍屯に従事したのは一般良民だった。
ただし後漢になると、金銭を貰って兵役を代行することが蔓延したというが)

549: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/10(月) 20:07:00
亜熱帯気候の蜀は米作 冷態の魏は麦作

米は、温暖多雨の気候条件は必要だが、少ない面積で大量の収穫を得れる
ただし、一家総動員の労働力が必要であり、集約労働型であり、一般的に兼業は難しい。

麦は、冷涼少雨で育つ。また種をぱっぱと撒けば育つが、面積あたりのカロリーは米に比べ少ない。しかし、酪農や兵士など兼業が楽

555: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/11(火) 23:30:00
>>549
「蜀は米 魏は麦」ってよく言われるね

ちょうど「許昌左右諸稻田」って記述が挙がってるが
「稻田」=「米」だよ
「積穀于許都以制四方」ともある
ってことは魏の兵糧の中心は案外米だったんじゃないのかな

556: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/11(火) 23:46:54
>>555
兵糧には兵士の俸給も含まれてるから当然価値の高い米の方が基準になってく

559: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/12(水) 00:34:27
本当に兵士や吏にそんなに俸給払ったのかな
ほとんど払わなかったんじゃないの?

560: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/12(水) 00:39:52
吏及び吏待遇の士官にはそれなりに払わないといけない。
兵卒には…普通に考えれば支給品以外払ってないだろうね。兵役だから。

561: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/12(水) 13:38:50
>>560
兵卒こそちゃんとした報酬で釣らないといけない存在なわけだが
鄧艾の試算による1人に年60斛という分量を米で換算すると現代の6000合強に相当する分量
兵士が1人で食う分だけなら多くても1日10合、年3600合程度でどう考えても配り過ぎなんだよ
明らかに鄧艾の計算には必要最低限以外に兵士への俸給としての兵糧も含まれてる

570: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/12(水) 22:01:24
>>561
米で換算しちゃまずいんじゃないか
まず鄧艾の言ってるのはその作物なのか
そして脱穀してるのかしてないのか
それらによって全く変わってくるぞ

572: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/12(水) 23:01:08
>>570
稲作してんだから米換算でいいだろ
淮水流域は米作地域だし、鄧艾の話を読む限り水田の話に見えるから

脱穀するかしないかなんて、当然してないだろうと考えられる
脱穀した米なんて脱穀前に比較したら全くと言っていい程日持ちしないのだから
「物資」として考える場合、脱穀前と見るべきだろう
米の場合大体籾殻が1割程度なので、脱穀前でも2倍必要理論の裏付けには全くならんのだが

574: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/12(水) 23:09:35
>>561
http://mojizuri.at.webry.info/200710/article_15.html
「だいたい籾すりをして玄米にすると、袋詰めの体積で約半分になります」


https://zh.wikipedia.org/zh/度量衡
1毫升=1cc    1斛=2万cc=20?

穀物3千万斛で、兵10万人分の食料5年分

兵1万×5年=300万斛
兵1万×1年=60万斛
年、兵1人=60斛

1斛=2万cc=20?

577: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/12(水) 23:21:03
>>574
言われてみれば斛って体積の単位だったな
重量で計算してたわ
それなら2倍でも不思議ではないな

578: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/12(水) 23:42:56
一般兵の俸給が月額5斛だとすると、
後漢の話だが、
百石月十六斛,
斗食月十一斛,
佐史月八斛.
凡諸受奉,錢穀各半.」
とある。最末端官吏の左史より安い、くらいか。

ただ、官吏は農地を持っているのが普通なので
八斛の俸給だけで一家を養って暮らしていたとは考え難い。
魏の兵卒にもこれが当てはまるのかどうか。

581: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/12(水) 23:56:09
>>578
米の現物支給で貰ってたとすると米売って安い雑穀買って食ってたという事も考えられるかもしれない。
貨幣が信用されずに物々交換が流行ってる魏だと米の価値が後漢に比べて高まってるように見えるし。

584: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/13(木) 02:58:06
>>581
当時の米が高かったのか? という問題もあるんだよね。
当時の中原の租税の基本は粟で、麦や米は辺境で食べるものだった。

585: 無名武将@お腹せっぷく 2010/05/13(木) 06:05:43
>>584
米は酒の原料になるよ。
ただ、酒をつくるには普通に食う分の10倍ぐらいの分量がいる。
曹操や劉備や呂布などの群雄がたびたび禁酒令を出してたのは、
別に本心から酒がけしからんといいたいわけではなく、兵糧の節約が目的。
要するに戦争やるための兵糧がほしいだけ。

引用元: ・蜀は実は魏より豊かな国だった




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