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1: 人間七七四年 2009/09/17(木) 13:18:42 ID:m29zloPe

関ヶ原に散った仁将、大谷吉継について語るスレです。







8: 人間七七四年 2009/09/18(金) 22:47:26 ID:EZ3fHafi
これだけの有名人物なのに、出身地が不詳ってのも不思議だな。
近江と豊後のどっちが有力な説だろ?

10: 人間七七四年 2009/09/19(土) 00:31:52 ID:4JjVRoGT
>>8
昨今は近江説が有力と言われているが、ぶっちゃけどっちも決めて無し。

ちなみに高階氏家系 青蓮院門跡坊官大谷氏の出身説ってのも一応ある。
が、これもやはりまだ決めてが無い。

11: 人間七七四年 2009/09/19(土) 00:41:13 ID:TkTfYMXA
wikiを見ると、オヤジの諱にも通字らしき「吉」(吉房)が付いてるね。
吉継の吉って、秀吉からの偏諱と思ったが、そうでもないのかね?

12: 人間七七四年 2009/09/19(土) 01:31:42 ID:4JjVRoGT
>>11
父を吉房とするのは、近江出身説の在原姓家系図から来ているだけなので確定ではないよ。
豊後出身説の平姓大谷氏の系図からだと父の名前は盛治になる。
そして青蓮院門跡坊官大谷氏の系図だと泰珍。
どれを信用するかで変わって来るし、どれも確定じゃない。
wikiの内容は結構いい加減。

吉継の吉は秀吉から、って説はあるけど信頼性のある出典は無い。可能性はある。

14: 人間七七四年 2009/09/19(土) 14:12:14 ID:62z0gJnj
吉は秀吉からで思い出したが隠し子説があるんだよな

15: 人間七七四年 2009/09/19(土) 14:28:09 ID:xt9nCUVl
隠し子説は眉唾
だいたい実子だったら隠す理由が無い

16: 人間七七四年 2009/09/19(土) 15:03:37 ID:GgI/V2Be
時慶記に関ヶ原のあと孝蔵主と同様に大谷の母東殿が捕縛されたとあるそうだがその後どうなったんだろう。
孝蔵主は解放されたけど。

17: 人間七七四年 2009/09/19(土) 17:57:08 ID:9YHcOYaZ
>>16
ことさら処分が記録されて無い場合は、開放されたか、捕縛している最中に病気にでもなって死んだか、どっちかじゃね?

25: 人間七七四年 2009/09/21(月) 22:30:49 ID:oUp9fcVq
なんかこの人って人気だよね

34: 人間七七四年 2009/09/23(水) 06:38:35 ID:Dvl8kSe6
なんかのTVで大谷は梅毒って言ってたが、wikiではハンセン病みたいな事が書いてあった。
結局、どっちなの?
詳しい人、教えてm(__)m

35: 人間七七四年 2009/09/23(水) 07:25:42 ID:1ysLNlSo
梅毒は10年経ったら脳を冒される
刑部は頭がしっかりしていたのでハンセン病と思われる

55: 人間七七四年 2009/09/25(金) 23:49:44 ID:82sBy5ux
三成との茶会のエピソードが実話であってほしい
勝猛にしろ、彼にしろ、三成の為に西軍について、散っていったのをいつまでも感涙出来る

64: 人間七七四年 2009/09/28(月) 03:23:46 ID:W47+xpFf
徳川美術館にいったんだが、美術館所蔵の刀の目録の中に吉継が徳川に贈ったという謂れの短刀があった。
美術館には400をこえる刀があるそうだが、月代わりで展示してるらしいのでタイミングあえば見られるんだろうな。

69: 人間七七四年 2009/09/30(水) 00:08:09 ID:ttjFlBll
>>64
>>短刀

吉継といえば戸田流(だったか)の小太刀の達人だと聞いた


70: 人間七七四年 2009/09/30(水) 06:05:31 ID:6qiBr3ns
>>69
なにそれkwsk

72: 人間七七四年 2009/09/30(水) 17:43:14 ID:AGXk9B/H
富田勢源でお馴染みの富田流じゃね
吉継に関係してるかは知らん

73: 人間七七四年 2009/09/30(水) 19:30:57 ID:nJrb7p+h
富田流の流れの伊東一刀斎の弟子だって話しはあるよね。
そこからの尾ひれがついたのかな?

47: 人間七七四年 2009/09/24(木) 09:29:24 ID:CoNEeUKh
『大谷刑部のすべて』、最近になって大谷さんに興味持ち始めたんで当初の値段より千円くらい高かったけどマーケットプレイスでこの間購入したよ。
もしぜひとも購入したいって方は、重版はどのくらいの可能性があるかわからないから待つより本屋に問い合わせたりした方がいいかも。普通の本屋とか、古本屋とか。
あと気長な話になるがオークションでアラート設定しとくとか。成せばなる、かもしれない。

76: 人間七七四年 2009/10/03(土) 00:03:44 ID:1g/YbSA5
みんな「すべて」ばかりでなく池内氏の「智将 大谷刑部 」も忘れないでくれ。
まぁこっちは確実に古本しかないけど。
この人のこの本こそ近江出身の方が有力説を最初に唱えた本だ。

古い本なので武功夜話をソースにした記述も多いが、それは「すべて」もだし「すべて」はこの本を引用して焼き直したような内容も多いので先行の「智将 」の方も一読しておくのも悪くないぞ。

最近の研究は外岡氏のやつ一択だけど、書籍としてはまとまってないので氏の説はあまり浸透してないのが残念。

111: 人間七七四年 2009/10/08(木) 20:58:32 ID:AcVuyBsC
歴史読本にあった外岡氏の刑部のルーツをめぐる論説は興味深かった。しかし何で1565年(永禄八年)生まれ説を採ってるんだろうな。 そのくせ天正六年に織田信長の朱印状を草刈氏に届けさせられたかもという情報を書いてる。信憑性はそもかく、数えの14歳じゃ無理だろうに。
賤ヶ岳(1583年)のときも在地の武将と折衝した書状が残ってるようだけどいくら昔の武将が早熟といっても、とても10代の仕事とは思えん。参考が『すべて』となっていたので、『大谷刑部のすべて』をざっと読んだが生年の根拠をめぐる論説はなかった。(見逃したかもしれないが)

42歳で没した説とって1559年生まれという研究者も多いし、それが順当だと思うんだがどうだろう? 生年をめぐる史料についてわかる人いる?

112: 人間七七四年 2009/10/08(木) 22:18:30 ID:vONOJHF2
>>111
永禄8年説は『兼見卿記』に書いてある吉継の年齢からの逆算。
草刈氏云々は知らんが、賤ヶ岳の頃であれば19歳だからいいんじゃないの?

113: 人間七七四年 2009/10/08(木) 23:34:41 ID:wYP0bkNy
>>112
『兼見卿記』か。ありがとう。
歴史読本の諏訪氏の稿によると、賤ヶ岳のころには相応の権限、立場を持って在地の武将の調略や折衝にあたったようで書状の内容も細やかな心遣いがあるとあるので、18~19歳の若者の仕事かなあと思ったんだけど微妙なとこかね。
あと三成より大人っぽいイメージだったけど、この説だと5歳若いことになるね。

114: 人間七七四年 2009/10/09(金) 03:39:03 ID:saLttNGQ
「兼見卿記」の吉田兼見は吉継、東殿親子と交流も有り祈祷など行う人間だからその人物の記した記録であるからには、簡単に無視できない信憑性があると思う。

三成より5歳年下、という所はその仕事ぶりを三成らと比較すると結構納得する所がある。
例えば「輝元上洛日記」には天正16年に輝元が上洛の際、世話になったり挨拶周りした諸大名らの名とそれぞれへの献上の品が細かく記されてるんだが、三成、増田たちと吉継の扱いがだいぶ違う。
奉行衆の中では格下っぽいんだな。この頃はまだ敦賀領主ではないからその差かもしれないが、その敦賀城主になるタイミングも同期の連中とくらべると若干遅いので、年齢が低いほうが周りと折り合う。

能力差や出世スピードと年齢は関係ないのは解ってるんだが、常に行動をともにしてる三成らと比べて見て行くと、どうも一歩引けてる感じがね。後輩として補佐役だったのかなと思わせる所がある。
敦賀城主になって後以降はわりと対等っぽく見えるんだが。

賤ヶ岳の「吉村文書」についてだが、あれは同じ日付で秀吉の書状もあってセット。
つまり吉継単独の文書ではなく秀吉の添え状。
あくまで秀吉の側近として指示を伝える立場で(これも重要ではあるが)
この頃はまだ単独で強い権限があったというのとは違うだろうから、若年でもおかしくはないと思う。
あと一応、諏訪氏は眉唾と書いてる先駆け14人衆だが、このメンバーの年齢層的には吉継19歳でも全然おかしくないよ。

草刈氏への朱印状の件は事実なら興味深いが自分も検討中。

115: 人間七七四年 2009/10/09(金) 07:32:53 ID:pCUJ50DR
>能力差や出世スピードと年齢は関係ないのは解ってるんだが、常に行動をともにしてる
三成らと比べて見て行くと、どうも一歩引けてる感じがね。

そうだね。
大名になる前とあとじゃ、扱いに差があるのは当然と思うけど出世の順番には年齢が関係していたかもしれないね。
吉村文書は秀吉の添え状でも小姓に近い年齢ではたいしたもんだと思うけど。

116: 人間七七四年 2009/10/09(金) 12:07:06 ID:/9eOX6Pf
吉継が1565年生まれだと非常に若くしてふたつくらいしか年の違わない真田信繁の岳父になったわけですね。
まあ養子養女で縁戚関係を増やした戦国時代では珍しくないんでしょうけど。
ところで没年42歳という方は何が根拠なんでしょうか?

117: 人間七七四年 2009/10/09(金) 12:45:13 ID:q57fRvZ8
>>116
享年42歳の出どころははっきりしないので探し中。
たぶん後の誰かの日記とか家記だと思うんだが。それか関ヶ原関係の軍記とか?

外岡氏が過去の記事で「27歳で刑部少輔に任じられた」という所伝から計算されてる説って書いてたが、その所伝がどこからなのかは書いてなかった。
その他の人の記事でも通説すぎるのか、出典書いてるのをなぜか見かけない。
名将言行録にも享年42歳て書かれてるけど、これは出典にはならないしな。


119: 人間七七四年 2009/10/09(金) 21:35:35 ID:eFpgB/SG
>>116
享年42は例えば『烈祖成績』。

118: 人間七七四年 2009/10/09(金) 18:45:59 ID:IKXnk3Z3
花ヶ前さんも、天正十三年、七月十一日、二十七歳のとき、刑部少輔に叙任されたと日付まで書いてますが、なぜか出典がないですね。

122: 人間七七四年 2009/10/09(金) 22:36:01 ID:eFpgB/SG
そういえば『関原軍記大成』も享年42説。同じく出典記載なしだが。

123: 人間七七四年 2009/10/09(金) 22:48:42 ID:/1I/MT8w
う~ん、なかなか時代が遡れませんね。
関ヶ原から5、60年の後には享年42歳説が広まっていたようだから何か元になる記録があると思うんだけど。

124: 人間七七四年 2009/10/10(土) 00:24:59 ID:f2tnWgkA
各書読み返してちょっと気づいたんだが、「27歳で刑部 叙任」の所伝とやらの件。
花ヶ前氏が「すべて」で
>天正十三年、七月十一日、二十七歳のとき、刑部少輔に叙任された
と書いてるのは、そういう出典があったからじゃなくて
どうもこの記事自体、享年42歳説から逆算の「永禄2年生まれ」を前提に書いてるようなので只単にそこから数えて、叙任時期の天正13年は27歳、って書いてるだけだと思う。
ちなみに叙任の日付は秀吉が関白就任の決まった日で、参内の儀式に吉継含む12名を大夫に叙任させ列席させた記録が有る事から、その12人の叙任もその時期のはずであろう、という事から。

で、その「すべて」を参考文献にしていた外岡氏はその花ヶ前氏の文章を見て「27歳で刑部に叙任」の所伝が~、という文を書いただけなんではと思う。

つまり結局、どこかにある「享年42歳」の記録だけが出典なんだろう、って事です。

126: 人間七七四年 2009/10/12(月) 14:52:10 ID:zrVMYy80
Click Times 平家物語を熱く語る 平 貞盛
をキーワードにしてググると、大谷吉継が末裔として調べられている、というブログが出てくるんですよね。
で、それよりも、そのブログにレスを付けている大谷氏は大谷刑部の子孫のようなのです!!!
大谷の首級をつつんだ片袖のない小袖が家にあるそうで・・・
その話、有名なんでしょうか?

127: 人間七七四年 2009/10/12(月) 15:45:29 ID:2G413tc+
>>126
その御子孫と伝えられてる方なら「歴史研究」平成20年5月号に記事を書いておられます。
その家系に伝わる家系図などと一緒にその袖の残りとか槍などの品が掲載され、そこから導かれる吉継の出自に関してなど、書かれています。

ちなみにその系図だと豊後出身説と同じ、桓武平氏の大谷氏系図で吉継は大谷盛治の子になってます。御子孫は吉継の嫡男・大学の長男・吉刻の家系という事です。系図はその吉刻が記した物だとか。個人的な考えとしては正直信憑性は微妙だな、という感想です。
系図に吉継の事は詳しく書いてる(といっても通説にある有名な事柄)のに、父にあたる大学の事は名前しか書いてないとか、系図の他に書かれている吉継の情報が通説とは異なり、
他の史料と照らすかぎり間違ってると思われるとか理由は他いろいろです。

ちなみに吉継の子孫と伝わる家系の方は、他にもいらっしゃいます。
吉継の孫で大阪の陣の時に、徳川方で働きその功績で家康から50石を賜ったという大谷隠岐隆昌(大谷五衛門隆昌)の家系の方です。
『大谷刑部少輔吉隆とその一族』の著作者もその家系の方のようで、本家には掛け軸と吉継が描いたという秀吉の肖像画が伝わっているそうです。

128: 人間七七四年 2009/10/12(月) 15:46:01 ID:wt30JpHh
>>126
それ、読んだことがあるよ。
刑部の子孫という人だと奈良(だっけ?)の歯医者さんが有名らしいけどブログのコメントの人が関係あるかは知らない。
墓参りで子孫の方に会ったとかいう報告も珍しくない。

「家では代々吉隆と呼んでいる」つうのはちょっともっともらしいね。
・元和6年に吉継の孫、大谷吉勝長男吉刻が記述したと伝えられる家系図がある
・立花家(柳川藩)よりの手紙が残っている
・首を包んだ片袖のからくさあやし紋の布が在る
という話だけど、片袖の布はいささか信じがたいなあ。
僧祐玄が首をもって立ち去ったという説もあるので興味深くはあるけど。

あと平貞盛の子孫大谷盛治を刑部の父とする説は
主君とされている豊後大友氏の家臣に大谷姓が見つからない等の理由で最近は否定されてきている。
「大谷家」に家系図やなんかが伝わっているなら鑑定・公開して欲しいけど子孫を自認する人の心情としては嫌だろうね。

131: 人間七七四年 2009/10/12(月) 16:07:21 ID:2G413tc+
>>128
吉刻の系図は昭和56年に一度信憑性を「市当局に否定された」と書かれてます。

133: 人間七七四年 2009/10/12(月) 19:34:20 ID:osOg15oi
>>131
一度否定されたということはその後判定が変わったのかな?

134: 人間七七四年 2009/10/12(月) 20:41:37 ID:jcAH04o8
>>133
否定されっぱなしのはず。
他に「吉継」の名を贈るという内容の秀吉朱印状なども一族に伝わっており掲載されていましたが、分家に別々になって伝わっており、判定当時はそれがなかったから否定されたんでは、と書かれてました。
記事を書いた方の先代の時に否定されたので、朱印状などが出て来たからその疑念も晴れたはず云々と書かれてます。

しかしその朱印状ともう一通の秀吉書状(刑部少輔に脇差を与える内容)なんですが、それ自体の信憑性も疑問です。
宛名が「刑部少輔との」となっているのに日付が天正10年6月となっており、通説の叙任時期より早すぎます。
(複製からなので翻訳がまちがってるかも、ともありましたが。実際かなり画質悪いです。)

埼玉県文書館に複製が保存されてると有りましたが、以前文書館の史料検索したときには出てきませんでした。
正式に秀吉書状と認められていない物なのかもしれません。

135: 人間七七四年 2009/10/12(月) 21:58:46 ID:q3iRbkXE
>徳川方で働きその功績で家康から50石を賜ったという大谷隠岐隆昌(大谷五衛門隆昌)

この人も興味深いですね。
出家して伊与久に龍昌院を建立、今もお墓があるのはググってわかりましたが父親は誰と伝わっているのでしょうか? 

136: 人間七七四年 2009/10/12(月) 22:21:57 ID:MhANFAG/
>>135
つっこんで調べていないので何ですが、父の名前は不明なようです。
『大谷刑部少輔吉隆とその一族』著者の本家に伝わる掛け軸にも、吉継と大谷隠岐隆昌の名が祖先として書かれているのみのようです。

137: 人間七七四年 2009/10/12(月) 22:23:46 ID:cRyb0swZ
>>135
>父親は誰と伝わっているのでしょうか?

大谷吉勝らしい。

154: 人間七七四年 2009/10/17(土) 05:20:01 ID:RE9TMix5
可成り若い頃から発病していたらしい(千人斬りの風評から推して)が、石田三成との男色関係は何歳ぐらい迄つづいていたんだろう?
流石に晩年は念契関係には無かった模様ぢゃが。

182: 人間七七四年 2009/10/19(月) 22:57:44 ID:Temlcymt
藤堂高虎の旗印って、大阪の陣では紺地に白の餅三つになっていて、大谷吉継の旗印と同じになっていますね。
関ヶ原に飾ってあるのは朱の餅(日の丸)三つだけど・・・
偶然かぶっただけなのか、それとも?
ご存知の方いらっしゃいますか?

183: 人間七七四年 2009/10/19(月) 23:19:05 ID:/WFP+n47
当時、白餅や黒餅の旗印は縁起かつぎから定番のものだったようなので偶然では?
高虎の旗は見るものによって紺地だったり黒地だったりしますね

ちなみに最初高虎は白地に黒餅3つだったところ、関ヶ原時に共に岐阜城攻めをした
黒田長政と黒餅なのがカブっていたため、長政に「カブって紛らわしい」と文句を言われたので「黒餅(石持ち)より白餅(しろもち)の方が良い」などと言って黒地に白餅3つに染め直したという逸話があるようです(出典不明)

184: 人間七七四年 2009/10/21(水) 00:20:47 ID:WftZCGr9
大谷は崇高な武将だと思いますが、かつて賎ヶ岳で柴田氏を内応させた大谷が最期は小早川や脇坂ら多数の内応により滅ぼされてしまう・・・
いわば因果応報の憂き目にあっている。

辞世に「六つの巷」を詠みこんでいることや、当時前世での悪業の報いといわれた「業病」を患っていたことなども併せると、大谷は戦国時代に生きた武将としての業を深く感じていたのではないかと思う。

186: 人間七七四年 2009/10/22(木) 00:53:12 ID:BzXNTrcx
>>184
は?なんの話?
長浜城主柴田勝豊を吉継が調略したとか言う意味?
そんな手柄立てたっけ?

つか調略内応茶飯事、討ったり討たれたりの乱世に開城交渉くらいで因果感じた暇人もいないと思うけどなんか刑部の単独工作が伝わってるわけじゃなし、なんともいいようがないな

六つの巷(六道の辻)はあの世とこの世の境目
彼の今生の業と前世の迷信がなぜ結びつくのかもわからんし為広にあの世で会おうと詠んだというだけの句に妄想心理解説入れられても返事にも困るよ

189: 人間七七四年 2009/10/23(金) 00:15:00 ID:pVL4+LkR
>>186
柴田勝豊の調略にあたったのが吉継って話はいろんな本で目にするけど出典は何なんだろうな?

192: 人間七七四年 2009/10/23(金) 00:43:16 ID:AGkNUJIV
>>189
柴田勝豊の調略の話は「真書太閤記」にあり。

193: 人間七七四年 2009/10/23(金) 01:23:51 ID:7Kq/uF5R
>>192
ありがとう、やっと判明した

詳しそうな人いるみたいなんでついでに質問
真田に嫁いだ吉継の娘について、下間氏の娘を養女にしたって書かれてる史料が何かわかりますか?

196: 人間七七四年 2009/10/23(金) 21:15:05 ID:AGkNUJIV
>>193
検索すると『仙台真田代々記』に書いてあるようなのだけれど…。書いてあったっけ?

197: 人間七七四年 2009/10/23(金) 23:08:14 ID:sXu/FZbC
>>196
図書館通いなんでまだ半分くらいしか読めてないけどちっともそんな記述ありそうな気配ないんだよな……
がんばって最後まで読むけどさ、「代々記」にあるなら更に出典あるはずだよなーって思って

198: 人間七七四年 2009/10/23(金) 23:23:59 ID:AGkNUJIV
>>197
以前一通り目を通したけどそんな記述は見つけられなかったんだよなぁ。

下間頼廉の庶子、頼亮の妻が吉継の妹というから(下間系図)、その辺から生まれた話なのかもしれないけれど。

187: 人間七七四年 2009/10/22(木) 22:18:15 ID:oMKnf/K+
吉継が称したのって源姓でいいんだっけ?

189: 人間七七四年 2009/10/23(金) 00:15:00 ID:pVL4+LkR
>>187
刑部叙任の際に源姓を自称してるらしい

永賞寺の供養塔に「預修源朝臣」の刻銘があるそうだし
実際の本姓が何かはともかく自称は源だったのかもしれない

229: 人間七七四年 2010/01/25(月) 12:44:40 ID:hlwI/94V
そういや天正19年の吉継から政宗への書状で宛名が「政宗」って呼び捨てになってるのが二通くらいあるんだけど、官位とか地位が政宗より上ってこともないだろうし(政宗への敬称は秀吉で「との」、家康で「殿」、三成で「様」だった)
内容をちゃんと覚えてないんだが礼状?みたいだったので実はすごくプライベートな書状だったんだろうか

宛名に諱呼び捨てって仲良くてもあまりやらないイメージがあったんだけど実は結構よくやることなんだろうか・・・?

230: 人間七七四年 2010/01/25(月) 14:41:35 ID:rXpNhEGE
>>229
プライベートではないね。
奥州仕置きの最中の奉行としての指示とかで
9月7日の水沢・江刺に伊達政宗の代官設置を認める内容のと
9月22日の政宗に対して水沢・江刺に守備兵を求める内容。

そういえば敬称無いってめずらしいな。「政宗」だけだし。
でも宛名の位置は同格の位置か。
この書状は「大谷刑部のすべて」のしかしらないけど
原本でもそうなのかな?

231: 人間七七四年 2010/01/25(月) 15:14:42 ID:hlwI/94V
>>230

内容ちゃんと覚えてなかった、ありがとう
自分が見たのは大日本古文書の伊達家文書だった
原本どこにあるんだろう、見てみたいなぁ

232: 人間七七四年 2010/01/25(月) 22:21:06 ID:WyxJFOLo
>>231
原本、仙台市博物館にある模様。目録に載ってた
情報資料センターとやらに「資料のご相談も受け付けております」ってあるけど展示してないのも頼めばマイクロフィルムくらいなら見られるのか?

255: 人間七七四年 2010/02/28(日) 09:15:43 ID:USJbbefX
最近吉継を知って好きになった。友情に篤いところがかっこいいです。

256: 人間七七四年 2010/02/28(日) 18:29:02 ID:73GPJA/7
自分もだ。今まで知らなかったのが悔やまれる。

257: 人間七七四年 2010/03/01(月) 08:53:51 ID:gDYrD/L6
自分の中では、カッコいい武士は大谷吉継と土方歳三が双璧です。
二人とも自分たちが負けることをきっと確信していたと思う。
でも、あえて「勝ちに行く」道じゃなく「義を貫く」道を選んだ強さに惚れるね。

260: 人間七七四年 2010/03/04(木) 20:52:50 ID:nVedHtzY
茶会でスルーされたり辻切り疑惑かけられた逸話が本当なら悲しかっただろうね(′;ω;`)
今でも沢山の人が刑部を愛していると伝えたいよ(′;ω;`)

261: 人間七七四年 2010/03/04(木) 21:48:43 ID:HTaBLvDl
>>260
千人斬り疑惑をたてられたのは本当
実際に大阪の街で噂になったから宇野主水日記とかに書かれている
もちろん真犯人は別に捕まってるのでただの濡れ衣
 
茶会の逸話は99%後世の創作
wikiだと出典が「宗湛日記」になってるが載ってないので間違ってる
さらになぜか天正15年て書かれているが、単に大阪城で1/3に大茶会があっただけ
宗湛が出席してるので勘違いされてるっぽいが、そんな記録はない
本当の出典が何か未だに不明なので99%にしたが、ぶっちゃけ100%創作だと思われる
 
病を煩ったと思われる時期から後も、刑部が周りにさけられていた様子は
一次史料からは一切見受けられない

263: 人間七七四年 2010/03/05(金) 09:59:16 ID:ZCc+/0Wm
千人斬りの噂は天正十四年だったか、1565年生まれ説だと21歳だな
天正十七年に敦賀拝領の時点で24歳ということを考えると
もの凄い勢いで出世してたことがわかるし、
それが嫉妬をかって立てられた噂と見るのが妥当じゃないだろうか

ところで、吉継の使った号「白頭」が白髪とか頭巾だったから、とよく言われるけど
号って外見で付けることないよね?
これそこらじゅうでいわれてるけど、あんまりそういう例なくね?と思うんだが
青蓮院関係だとすると、そっちでの僧号みたいなもんじゃないのかな

269: 人間七七四年 2010/03/05(金) 16:57:18 ID:ZCc+/0Wm
号を調べてたら面白いのに当たったので>>263に自レス

吉継の号を白頭でなく白以とする説もあるようなんだが(どうやら定まってないぽい)
Wikiの号(称号)のページを見ると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B7_%E7%A7%B0%E5%8F%B7%29

>例えば、李白は、名が白、字が太白、別号が青蓮居士

青蓮院門跡出自としたら、李白をもじって号したってのもアリかな?と思った
まぁ、ただのこじつけっていうか妄想なんだけどw

270: 人間七七四年 2010/03/05(金) 18:03:09 ID:OOck9Ows
>>269
お、面白い考え方だな
青蓮院大谷家の家系なら漢籍に精通しててもおかしくない
そういえば号を外見から決めるってあんまり聞かないし
あながち妄想とも言い切れないかもよ

271: 人間七七四年 2010/03/05(金) 20:21:52 ID:a0sOFFA4
>>269
「白次」と読むのではないかとされているのもある
号ではなく、吉継より以前に名乗った初名ではないかと
署名のされ方的にあり得るが、諱に「白」という字を使う例を知らないので違和感がある
実際の筆致からは白頭、白以、白次、どれもそう読めなくもない
 
外見が白髪だった、髪が病で抜けていた、白い頭巾をかぶっていた等の理由で
白頭を名乗ったというのは自分も違うと思う
白頭と読める署名は天正11年の紀介名義の書状からなので
そんな若い頃からそのような外見だったら、もっと記録に残ると思う
特に宣教師の記録には書かれやすそうだが、外見についても病についても何も書かれていない

273: 人間七七四年 2010/03/06(土) 18:52:28 ID:u/1YtcNi
茶会の逸話の出所は何なんだろうか?
江戸期の史料では見たことないんだよなぁ。
福本日南が『英雄論』や『豊太閤』で秀吉と吉継の逸話として書いているから、
元が存在するはずなんだけれども…。

274: 人間七七四年 2010/03/06(土) 18:59:42 ID:tlEGd54O
>>273
自分もそれ以上遡れないわ
というかこの逸話、いわゆる逸話集的な物には一切載ってないんだよな
講談本にも無かったし近年の小説くらいでしか見ない

福本日南も他の逸話とかは出典書いてたりするのに
これについては書いてない
なんかの随筆とか当時の雑誌とかにのった小説とか
そういうのの創作ネタのような気がする

276: 人間七七四年 2010/03/06(土) 19:59:38 ID:C3pthBD+
ライ病者の膿をウンヌンって話しは光明皇后の昔からあるしな
仏教説話にもあったような気もする

282: 人間七七四年 2010/03/09(火) 14:41:24 ID:PD5IsPJx
ところで、文禄三年に草津に吉継が湯治に行ったということなんですが
書状で「草津の湯は目に効いた」という類の内容を誰かに送っている、ということですが
誰宛の書状かわかる人はいませんか?

283: 人間七七四年 2010/03/09(火) 15:04:28 ID:p2lgi25X
>>282
草津の件は文禄3年10月1日付けの直江兼続宛です
ちなみに「草津の湯は目に効いた」とは書いてないです
湯治は満足いったという事と、眼病については
「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」とあり、目を悪くしていた事が伺えます

285: 人間七七四年 2010/03/09(火) 23:12:33 ID:tKUDnsNL
>>283
よかったらその手紙が何に載ってるか教えてくれないだろうか?
今個人的に吉継関係文書類のデータベースを作ってるんだけど、
東大の大日本古文書のテキスト検索で出てこなかったんだよね

改めてまとめてると毛利と吉川広家宛の秀吉朱印状に出てくることが多いな
家が残ってるからそれだけ多いのかもしれないけど、毛利・吉川は吉継の担当だったのかね

286: 人間七七四年 2010/03/09(火) 23:47:33 ID:1n9w4H4p
>>285
自分が確認したのは木村徳衛の「直江兼続伝」
他に「温泉草津史料」第一巻所収との情報あり、こちらは未確認

毛利は輝元上洛の際にも接待勤めてるしね

引用元: ・【敦賀城主】大谷吉継 2【刑部少輔】




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