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1: nita ★ 2018/01/01(月) 15:30:02.94 ID:CAP_USER9

東京・中野のキリスト同信会に保存されていた機関紙「おとづれ」。大正2年の大凶作時の記憶が静かに閉じ込められていた。左ページ3段目に「浅田又三郎」の名が見える
 
1913(大正2)年の大凶作に際し、青森県の状況を記した新聞が、東京・中野のキリスト教団体「キリスト同信会」で新たに見つかった。当時、藤崎町出身のキリスト者で実業家の長谷川誠三(1857~1924年)が大量の救済米を購入したという逸話が知られているが、記事にはこの救済米が伝道とともに県内各地に配布されていった様子が克明につづられている。凶作史の一端として注目され、長谷川の事績を具体的に裏付ける記録にもなっている。

大正2年凶作の各種史料を所収する、県史資料編「近現代3」によると、同凶作の際、県内の米の収量は平年の2割程度。損失額は当時の県の総生産額3千万円の3分の2に当たる2千万円に上ったとされ、経済、産業はもとより、政治などあらゆる分野に影響が及んだ。

行政による救済活動のほか、日本メソジスト弘前教会などが救済組織をつくり、外米の廉価販売などを展開した当時の記録が多数残るが、県外からの民間の救済活動については、これまであまり知られていなかった。


(略)
窮状の描写も生々しい。2月の現地視察の記事を見ると、浅田が長谷川の地元藤崎から浪岡、青森付近などを歩いたことが記されており「食するものもなき上に此寒中に小供に綿入を着する事を得ざる人もあり」「四日も何も食ふを得ずして飢に泣きをる老人などもあり」などと伝えている。

「縣下(けんか)にて最も悲惨に陥れる處(ところ)」とされた三戸郡では、松の木の甘皮を細かく削って煮たものに、そば粉などを混ぜて塩で食べる「松皮餅」や、わらの柔らかい部分を細かくしていり粉にし、野菜や麦粉を少量混ぜて煮て食べる「藁(わら)こうせん」などを食べていたと記述。これらは「獣も厭(いと)ふほどのもの」で、実際に食べた人からの伝聞として「藁こうせんの方は喉(のど)にひりつきて呑(の)み込むさへ困難を感じ松皮餅は丸で半紙をかむが如(ごと)き由に候」などと書き残している。



全文は
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180101-01122759-webtoo-l02








4: 【鹿】 【136円】 2018/01/01(月) 15:36:28.58 ID:BkhKNtuU0
魚とか獣食えばいいじゃない

11: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 15:46:01.98 ID:vlJKWmjg0
東北のやませ 飢饉のときは同時進行で魚もとれません山の幸もないです

23: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 16:12:28.48 ID:KmrXluJ80
江戸時代にあった元禄の飢饉
元禄8(1695)年~元禄9(1696)年
東北地方での冷害で死者は11万人
食糧難になると食べれる物の争奪戦になるんだろうな

26: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 16:19:36.47 ID:BnV3xW0U0
大正じゃあさすがに人は食えなかったか

28: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 16:30:58.74 ID:cb6K3L870
人を売買していたから喰っているのと同じ

34: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 16:47:31.18 ID:5fTCjuwC0
もともと熱帯の産物であるイネが今のような植物になったのは大正10年の陸羽132号以降だからな
それに江戸時代があまりにも長く平穏無事であったせいで日本は生産力に比べて人口が過剰
昭和になっても日本は統治下の台湾と朝鮮半島から大量のコメを内地に移送してそれでようやく足りる状態だった

37: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 16:53:05.28 ID:V70PNrFE0
土粥を食べなかったのか?
土の中の栄養分を粥にして食べるやり方、松も藁も無い場所で飢饉を生き抜く究極の方法。
豊かな土壌だと太るぐらい栄養分を取れる。

57: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 22:47:33.94 ID:i518glbc0
>>37
現実に土粥が食べられるかどうかは証明されていない。大躍進政策時代の中国で、腹痛を訴えたのち死亡した者を医師が解剖したところ、消化器に泥が詰まっていた複数の例があり、土をなんらかの方法で食べようとして死亡に至ったものと推定されている。

50: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 18:14:07.87 ID:r4y/pg540
温暖な地域の植物である稲を寒冷地で育てようとしてたからな
今は品種改良により冷害に強い稲が作られるようになったけど

八戸藩
東北、南部藩の支藩であり、南部藩領よりも北方に位置し小藩である八戸藩は本藩よりも深刻で
江戸時代中期の天明3年の収穫は実高から9割5分以上の減
翌4年も8割を超える減となった。南部本藩も困窮しており援助は期待できず、
天明5年の調査で藩人口6万5千あまりのうち、3万人が餓死していることが判明
その直後に伝染病が蔓延、さらに数千人が死亡

54: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 19:55:14.80 ID:+LaCyblt0
娘は身売りに出された時代
女衒という人身売買業者も存在した
東北の厳しい現実

55: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 19:56:08.42 ID:N1FiXT44O
こういうの見聞きする度に食べ物を粗末にしてはいけないなと思う
故にお残し出来ず太るのであります

53: 名無しさん@1周年 2018/01/01(月) 19:50:42.13 ID:IDmDvrEM0
あの時代にTOKIOがいれば・・・。

引用元: ・【青森】飢えに泣き、わらで空腹しのいだ大正大凶作/青森の窮状克明に記録 都内の教会で掲載紙発見




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