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1: 人間七七四年 2010/12/03(金) 17:41:50 ID:h7Z7C6Ck
妻子を見捨てて逃亡した彼ですが反省はしていたようです







Araki_Murashige


荒木 村重


荒木 村重は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。

天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した。村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功するが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ移ってしまった。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。天正9年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。しかし肝心の村重本人は息子・村次と共に荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされる。





3: 人間七七四年 2010/12/04(土) 00:22:49 ID:NzQYWewB
まあとっとと死んだ負け組には用はない

4: 人間七七四年 2010/12/09(木) 14:26:49 ID:cLHBLhq5
別に当時としては短命ではないし、子孫が残ってるから負けてもいない

8: 人間七七四年 2010/12/16(木) 23:06:29 ID:v1W8g+r0
家臣が可哀想

11: 人間七七四年 2011/01/09(日) 15:05:36 ID:9XGxCYrO
しかし何で生き残ったんだろうな。あそこで死んどけば評価も上がっただろうに。

12: 人間七七四年 2011/01/12(水) 14:10:43 ID:IorcAiap
「戦国期三好政権の研究」で、荒木村重の謀反は村重の決断というよりも領民からの突き上げによる行為だったこと。花隈城への移動は純粋に戦略的な理由からのこと。
村重が毛利に救援要請にいったあとも戦争を継続した主体は領民たちだったこと、さらにこの、領民たちによる反織田行動は、本願寺などの扇動ではなく摂津領民の自主的な蜂起だったこと、などが考察されていた。

領民というフィルターを通してみた戦国大名像はかなり面白かった。

15: 人間七七四年 2011/01/26(水) 15:35:44 ID:XaITnNDK
>>12
荒木は被害者だよね…なんで謀反したかわからないとか、黒田如水を捕らえたとか、領民国人たちの意志であって荒木の意志じゃないよね。

18: 人間七七四年 2011/01/28(金) 21:22:17 ID:L0qlrjT2
>>15
でも逃げたのは変わらないし国人抑える力量もなかったって事だよね
いくら何でも黒田捕らえて閉じ込めるのまでは国人のせいじゃなくて荒木の私怨だろう
被害者面しても足使えなくなったり子供殺されかけた黒田が可哀想
国人の言いなりになってたヘタレなのか信長に一度は従ったけど嫌になったから裏切った気骨ある奴なのか
どちらにせよ一族見捨てて一人逃げたのは薄情者すぎる

19: 人間七七四年 2011/01/28(金) 22:58:57 ID:N5TNvFZS
>>18
人望ある実力者の池田勝正が追放された時点で領民の意志だろ…。
当時、信長から摂津守護に任じられていたが播磨や但馬遠征させられたり 、石山本願寺攻めさせられたりと休む暇なく連戦激闘続きでついに領民の反信長の意志決定で勝正が追放されて荒木が擁立されて摂津の要衝に籠城したんだから。
ちょうど謙信上洛の噂が京洛内外に広がり畿内各国ことごとく蜂起鳴動して混乱してたし。
柴田は謙信の前に北陸に敗走し、丹波の赤鬼に光秀は敗走させられてしまい、秀吉は背後を封じられ播磨に孤立し、大和河内一帯で松永久秀は野心に目覚め…
摂津和泉&北陸一向宗は謙信と手を結んで協調体制。
近江では六角や斉藤や浅井残党が再蜂起…

21: 人間七七四年 2011/01/29(土) 10:14:51 ID:D0Z3PJe1
>>19
担がれた時点で纏める自信なきゃダメだろ・・・御輿から降りろよ
優柔不断な奴だったのか?そのせいで一族は悲惨な目にあったんだが
担がれるにせよ黒田閉じ込めも領民の意志にせよ一族を見捨てて一人逃げたのは無責任だろ・・・

34: 人間七七四年 2011/11/05(土) 10:48:15.84 ID:pbf/wSxc
荒木村重でくぐったら興味深いレス見つけた。


654:人間七七四年:2010/07/24(土) 20:17:21 ID:mS+ismrB

三好軍は元亀元年10月に山城御牧を落とし、山城まで進出して、淀城に石成友通が入っている(天正元年8月落城)。唯一の信長派高屋城畠山昭高は同年4月(6月とも)三好派家臣遊佐・安見に殺されてる。畿内の状況は圧倒的に反信長方だったと考えるべき。

荒木村重は元亀元年6月主君池田勝正を追放したけど、勝正が将軍義昭を頼ったため、単に反義昭派に追い込まれただけ。2年8月に池田勝正・細川藤孝らの攻撃を受けている。
畿内で孤立した状態だったので、結果として信長に賭けるしか生き残る術がなかった。
細川藤孝の理由は不明だが、
3月の時点では兄三淵藤英を将軍側に残しているから、真田のように家を二つに割った感じがする。
後の関係から考えると、荒木も細川も明智光秀の誘降の成果かと。

35: 人間七七四年 2011/11/05(土) 10:53:26.02 ID:pbf/wSxc
658:人間七七四年:2010/07/25(日) 01:42:59 ID:kl5cVkzn
畿内三国は本願寺が20~30%程度の領土を有しているので、それを除く。

攝津
ここは一言で言えば「義昭=信長」体制から、元亀2~3年頃「義昭=三好」に変わったため混乱した。

その被害者で、かつ台風の目になったのが荒木村重。

永禄11年
義昭・織田は和田惟政・池田勝正・伊丹忠親の三守護体制を敷いた。
三好・本願寺の誘いを受けて「伊丹忠親」、池田配下の「荒木村重」、勝正弟の「池田知正」らが三好党となる。
城を逐われた池田勝正が義昭を頼り、原田城に入って抗争。義昭援軍と荒木軍戦う。

元亀2年
三好党荒木村重・池田知正が、義昭党和田惟政を討つが、やがて「義昭=三好」
路線が明らかになり荒木沈黙。
三好氏による攝津安定化。

天正元年
3月荒木、誘いを受けて織田方へ。高山右近を味方につけて和田惟長を暗殺。
池田知正も誘う。 11月織田軍により、三好衆・伊丹・勝正など逃亡または討死。

河内
三好義継と畠山昭高の分割支配。義継三好派転身。昭高も三好派家臣遊佐信教・安見直政に暗殺。
天正元年、織田侵攻により義継自害。家臣降伏。遊佐・安見斬首とも逃亡とも。


36: 人間七七四年 2011/11/05(土) 10:53:42.17 ID:pbf/wSxc
大和
筒井順慶は興福寺官符衆徒(荘園管理官・事実上の守護代)であるため、基本行動は外敵排斥。
そのため大和支配を目指す松永久秀と永年抗争し、松永の行動如何で派閥を変える。
天正元年信長が松永を赦免したのも、寺院領廃止の目的があったため。

高市郡高取城には越智家高(旧南朝)。筒井氏と永年抗争。戦国期は河内畠山氏に属。
元亀前期は畠山派として松永と組んで筒井と戦うが、2年9月伯父家益に暗殺。
天正後は筒井下。 本能寺の変で明智党となり滅亡。

山城
北部は義昭配下の山本・磯貝・渡辺ら、天正元年明智に討伐される。
長岡辺は革島など細川配下なので藤孝の動向次第。
南山城は真木島昭光ら義昭配下、木津川辺は松永支配。淀周辺は石成。

和泉
三好分国として安定。配下領主松浦・寺田・沼間・眞鍋など。
讃岐十河存保が織田に通じた後、誘降を受け入れる。

37: 人間七七四年 2011/11/05(土) 10:55:56.88 ID:pbf/wSxc
659:人間七七四年:2010/07/25(日) 01:44:12 ID:kl5cVkzn
ついでに堺・京商人の動向。
まず堺会合衆だが、一般には永禄12年に信長に屈服したと言われるが、事実は違う。
会合衆の長老格天王寺屋津田宗及は日記(天王寺茶会記)によると、 元亀争乱期を通じて、何度か本願寺や三好と会い、信長が天満森で敗走した直後に本願寺にも訪問し、御茶を点てている。 逆に織田方とは全く会っておらず、津田が仲間の会合衆と共に初めて信長に会うのは、天正元年11月京妙覚寺においてである。

元亀期、堺会合衆は二派に分かれ、津田が長老格に対し、信長派今井は新参なので、反信長派が優勢だったと考えられる。 むしろ今井を残しておいて、裏目が出た時に対処する商人らしいやり口だったのだろう。 また津田は元亀2年2~3月京へ赴き、京町衆と数度会合をもっている。

天正元年4月信長は上京を焼き、町衆の多い下京に自分に従えと命じているため、京町衆も反信長派になっていたかと。 畿内一円の商人逹は「矢銭」をかけた信長を嫌い、反信長派の動きをしていたと推定。 資金流通や弾薬物資も、信長よりも反信長陣営に有利に回っていたと考えられる。

39: 人間七七四年 2011/11/05(土) 11:02:37.86 ID:pbf/wSxc

松永が降伏したのは天正元年12月26日「多聞院日記」「尋憲記」
これも公記の誤記で、本来天正2年の頭に記すべきもの。丸1年ズレている。
ちなみに軍記物「和州諸将軍伝」に松永筒井は明智の扱いで元亀2年 11月1日和睦したという。 実際、この間の同時代史料に戦闘はなく、逆に翌年3月筒井が上洛している。戦闘再開は4月末(松永謀反)。

私見では畿内の大まかな流れとして、元亀元年攝津武将寝返り工作。 元亀二年義昭方武将と信長方武将の重なり合う問題頻発のため、義昭と和睦交渉。11月頃徐々に戦闘停止。
元亀三年3月義昭・三好和睦成立。

義昭・三好和睦の裏には、近い将来の義昭・信長の正式な手切れを見越しての事であり、 和睦で無駄な争いが続く攝津を安定させ、更に松永らを誘って河内をも平定させる計画だったと思う。 松永・畠山の対立は表向き織田領内の内紛として。

誤算は和睦によって生じる荒木の主君追放責任(旧主池田勝正は義昭側にいる)からの織田転身と、 突如、三好本国で起きた「大形殿騒動」かな。

大形殿騒動。天正元年初頃~5月と推定される。

阿波・讃岐は名目上守護細川真之のほか、阿波国主は三好長治(実休子)、讃岐は十河存保(長治弟)。 実休の右腕だった篠原長房が鬼十河・実休死後、長治・存保の後見として二国を実質的に統治していた。 長房は三人衆の次席に位置し、永禄期の松永内戦では三人衆側として度々畿内に上陸して形勢を逆転、元亀元年野田戦では2万を率いて上陸し追撃、瓦林・茨木を落とすなど、三人衆を勢いつける力となっていた。

だが一族の篠原自遁が「大形殿」を側室にした事を怒ると、自遁の讒言で後見を解雇され、川島城に謹慎。 大形殿とは守護細川持隆の後室で、持隆が実休に討たれると実休の妻となった女性。3月真之・長治(共に母が大形殿)の攻撃を受け5月討死。存保も別事で長房と対立し参戦したのが決定打という。 この騒動で四国からの後方支援が無くなってしまっていた。

40: 人間七七四年 2011/11/05(土) 11:30:12.55 ID:pbf/wSxc

以上、信玄上洛スレ64より。

荒木村重についての推測を抜粋し簡単に纏めると、
・永禄11年、三好の調略により主君・義昭派の池田勝正を追放。池田知正を担ぐ。
・元亀2年、同じく義昭派の和田惟政を殺害。
・同年、義昭と三好の和睦により、池田勝正復権、荒木村重は責任を問われる。
・天正元年、織田派へ転向。義昭派の和田惟長を殺害した高山右近を取り込む。
・天正2年、池田勝正と伊丹忠親を攻め、その所領を乗っ取る。
という事になる。

この説の疑問点は
・池田勝正の復権が本当に存在したのか?
・池田知正の扱いはどうだったのか?
・織田信長への内通はいつごろからか?
・和田惟長は義昭派だったのか?
というところだろうか。

41: 人間七七四年 2011/11/05(土) 12:59:55.75 ID:sxdyxd5/
>>39
>>松永が降伏したのは天正元年12月26日「多聞院日記」「尋憲記」
>>これも公記の誤記で、本来天正2年の頭に記すべきもの。丸1年ズレている。

これ詳しく。たしか11/22に筒井と松永が戦ってたよね。
その後、信長に松永久秀が降伏したって書いてある。たしか最初に降伏したのは息子だっけ?
なんでこのタイミングで松永だけ信長に降伏したのかまったく理解できないんだよね・・・

>>「大形殿騒動」は作り話もしくは天正元年7月前後じゃない?
日本史人物生没年表によれば長房は7/16に死んでるとしているし、元亀3年12月には三好康長・篠原自遁・大和守らが大山崎で禁制出してるが大和守って長房もしくは、息子に大和守を譲ってたんじゃないかい?
信長に金を出させて義昭が修築した淀城には石成友通もいたし10/2付け六角承偵書状の内容には義昭側近六角義堯からの話として信玄西上開始の秘密情報と共に三好甚五郎に四国衆の渡海を命じてる。
(三好神五郎政長の子である三好政勝?姉妹は池田信正の正室だね。その子が池田長正)
三好勢も総力あげてる感じで、このタイミングで四国本国で内輪もめしてるとは思えない。

42: 人間七七四年 2011/11/05(土) 14:03:13.53 ID:kVMbVI9U
大形殿騒動って軍記に載ってる話だろ。
本当にあったかも疑問だな。
なんせ天正6年正月にも義堯の命で謙信の上洛支援として、阿波淡路の兵が堺に上陸してるし。いまだ義昭側に三好衆が帰属してる。

43: 人間七七四年 2011/11/05(土) 16:44:04.22 ID:pbf/wSxc
>>41
信長公記では松永降伏が昨年冬(元亀3年~天正元年)となっているけれど、今年冬(天正元年~天正二年)の間違いというだけかと。三好義継が11月に死んでいるので久秀の降伏はやむなしだろうし、信長が久秀の降伏を許したのは、>>36の通りかと。

篠原長房については、日本史人物生没年表の方も疑わしい。
淀古城の戦いと一致させているだけではないだろうか。
篠原長房が死んだ後、三好長治が三好本国を纏めたのだろうけど、比較すると力不足だったと思う。

>>42

いくらなんでも年代比定がおかしいかと。

44: 人間七七四年 2011/11/05(土) 18:47:02.01 ID:sxdyxd5/
すると、「多聞院日記」「尋憲記」には天正元年12月26日に松永が信長に降伏してるって書いてあるの?

たしか尋憲記では天正元年3/6に義昭も義継と松永を許して京都にくるのはめでたい。
足利家への奔走を頼むって書いてあるんだよね。

公記の記述から信長に降伏を装いつつその裏で義昭への降伏交渉してて3月にまとまり義昭に内応してたと考えてたよ。個人的には和田を殺した荒木も同様な真似をしてると思う。

篠原長房に関しては日本史人物生没年表のとおりに義昭の抵抗に最後まで付き合って戦死したのではないかと思うが。

>>42に関しては
大和多武峰(談山神社)の宗徒に義堯は呼応を命じており談山神社文書と義堯文書は裏が取れるっぽい。ちょうど毛利に東進がスタートし栗屋が摂津に入り、児玉が淡路岩屋に入り三木城が織田から離反するなど一連の流れから天正6年で合ってると思われ。

45: 人間七七四年 2011/11/05(土) 19:19:57.74 ID:pbf/wSxc
>>44
>すると、「多聞院日記」「尋憲記」には
>天正元年12月26日に松永が信長に降伏してるって書いてあるの?

おそらく。(>>39も引用なのでスマソ)

但し信長が検分のため接収した多聞山城に入城したのは元亀2年だから、多聞山城の落城は天正元年12月26日頃であり、信長公記の記述は明らかにおかしい。

>たしか尋憲記では天正元年3/6に義昭も義継と松永を許して京都にくるのはめでたい。
>足利家への奔走を頼むって書いてあるんだよね。

天正元年正月には信長と義昭の対立が表面化しているから、これは義昭ー三好ー松永の密約を世間に公開し、織田派への圧力を目的とした行動と考えるのが自然かと。

50: 人間七七四年 2011/11/06(日) 09:22:40.91 ID:uoDdFOSJ

一族見捨てて一人逃げたというのは、完全に誤伝だよね。

51: 人間七七四年 2011/11/06(日) 09:30:14.79 ID:75MIDmdY
無理でしょー 
城主が死を覚悟して戦う兵士においらは戦術的に考えて他の城に移動するけどおまえらはここで死ぬまで戦ってねなんて通らんでしょー

53: 人間七七四年 2011/11/06(日) 09:52:41.27 ID:uoDdFOSJ
>>51
花隈城、尼崎城、石山本願寺には毛利軍の乃美宗勝、荒木元清、桂元将らが来てるのだから、援軍待ちの状態であって死ぬ覚悟なんか必要無いし、有岡城は相当な堅城だから早々に落城するなんてありえないという判断で妻子残したんだと思う。(実際は部下の裏切りで落城。)

54: 人間七七四年 2011/11/06(日) 10:15:32.12 ID:M2pfJRlb
責任を取る必要がない民衆のほうが好戦的な時もあるんだな
今も昔も

55: 人間七七四年 2011/11/06(日) 10:45:50.77 ID:7I+cZwYv
まぁ惣村一揆の都市版だもんな。

57: 人間七七四年 2011/11/06(日) 15:23:29.71 ID:hfSGak8T
そりゃある程度の武将なら織田の強さも解るけど、摂津の庶民は
「尾張の田舎者なんかたいした事ないやろ」程度に考えていただろうし。

58: 人間七七四年 2011/11/06(日) 17:38:54.06 ID:Y4W8iLl3
本願寺や毛利も後援してたし。
天皇の和睦斡旋で時間稼ぎをしてるうちに中川や高山の調略に信長が成功しなければ、織田は丹波戦線も崩壊する可能性もありやばかったのも事実。

59: 人間七七四年 2011/11/06(日) 21:14:50.51 ID:uoDdFOSJ
池田勝正も荒木村重も信長の度重なる出征の犠牲者ということなのか。
それとも矢銭が問題?

77: 人間七七四年 2011/12/11(日) 12:16:05.38 ID:HKYURfLF
信長が無理な動員を要求しすぎて、松永や荒木は国人たちの突き上げをくらってたんだろうな。

78: 人間七七四年 2011/12/12(月) 01:29:00.59 ID:WhvTvc1Y
配下の国人たちが細川三好時代みたいに幕府を介した同盟者きどりでいたら完全に部下扱いでこき使われてぶち切れあたりが真相だろうとは言われている

79: 人間七七四年 2011/12/12(月) 02:03:52.11 ID:WccinQ+F
村重謀反の時摂津の惣村は、村重敗亡後も織田軍と戦い続けているので、信長の搾取は惣村レベルで非常に過大なものだったことがわかる。

80: 人間七七四年 2011/12/12(月) 15:35:06.11 ID:XLNc+V27
あれだけ多方面で戦を継続してりゃ、兵糧も兵士も欠乏するわな。
61: 人間七七四年 2011/11/07(月) 16:39:32.51 ID:VFUExXY9
「信長の棺」だったかなあ、なんかの歴史小説で村重が逃げたのは包囲軍の責任者が秀吉から信長公嫡男、織田信忠公に交代した直後、と書いてあった気がする 
それで信長公は跡継ぎ息子に何してんだ!と思う反面、息子かわいさにその憎しみを村重に向けてしまい、女子供全串刺しというルーマニアのワラキア公ヴラドなみの残虐性を発揮してしまったという気がする

62: 人間七七四年 2011/11/07(月) 18:05:10.28 ID:WbOS3hPd
>>61 
村重は逃げてないし、逃げて信長が怒る理由もわからないし、捕虜を虐殺したのは有岡城陥落後だから、織田信忠公は褒められる側だし。 

82: 人間七七四年 2011/12/19(月) 23:31:17.10 ID:1ED4TY0J
ここでの信長の戦後処理の方法がどうも理解できない。
人を指図する身分の妻子は全員極刑の磔(長槍串刺し・長刀腹裂・鉄砲縦銃創)に処せられているのに、村重一族は、殆ど京で一番楽な死に様の斬首刑である。
本来ならば、見せしめに村重一族を磔に架けるべきだと思うのだが、皆様はいかがでしょうか。

85: 人間七七四年 2011/12/30(金) 13:57:46.05 ID:E33jn4C3
>>82
>>京で一番楽な死に様

公記がウソを書いてるだけ
実際は群集を呼び集めた上で六条河原で車裂きの刑で殺害してる。

86: 人間七七四年 2011/12/30(金) 17:16:13.08 ID:uTCVrNwi
>>85
フロイス日本史にも同じ事書いてあるからそれはない。

88: 人間七七四年 2011/12/31(土) 15:21:48.27 ID:aEVH4OsC
>>86
フロイスが見たことをすべて完璧に記したとは言えまい。
例えば立入宗継が「立入宗継記」において処刑の感想を「かように恐ろしき御成敗は仏の御代より此方の初めなり」と普段とは明らかに違う処刑に恐怖してる記述があるし、但馬史や八鹿町史、出石町史、養父町史、兵庫県風土記を記述している宿南保氏は但馬の中世史において信長が車裂きで処刑したと明記している。

89: 人間七七四年 2011/12/31(土) 15:46:16.14 ID:u7IABh34
>>88
>「かように恐ろしき御成敗は仏の御代より此方の初めなり」

そんな事はフロイスも書いとる。
見たことを完璧に記さない理由は?
わざわざ荒木の妻が詠んだ歌の意味まで載せる理由は何?

97: 人間七七四年 2012/01/04(水) 12:59:49.48 ID:ZuP2iPx4
信長は岩村落城の件では、叔母を騙し討して逆さずりし磔にして処刑してるくらい。
身内ですらこの扱い。

114: 人間七七四年 2012/06/07(木) 06:43:25.82 ID:OO1uiFtl
百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消
えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れ
やらざる由にて候なり。— 信長公記

かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。— 立入左京亮宗継入道隆佐記

126: 人間七七四年 2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:cO7JCZ6i
道糞ってあんまりだろ。自分で付けたのか?

127: 人間七七四年 2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN ID:TdjXKN36
>>126
そうだよ。秀吉がそれ聞いてあんまりだからと道薫に直させた

142: 人間七七四年 2015/03/01(日) 21:18:25.48 ID:TZJErqGe
道糞にはハイセンスすぎて吹いた

132: 人間七七四年 2013/12/04(水) 06:36:28.52 ID:nvSWl66j
官兵衛、幽閉への遺恨なし? 荒木村重への書状確認

兵庫県伊丹市は2日、来年のNHK大河ドラマで描かれる戦国武将・黒田官兵衛が伊丹の武将・荒木村重に宛てた書状を確認した、と発表した。
ともに織田信長の家臣だったが、村重は信長に反旗を翻し、説得に訪れた官兵衛を有岡城に幽閉。
“敵同士”のイメージが強いが、有岡城落城4年後の書状からは、豊臣秀吉の下で協力する2人の姿が浮かび上がる。
同市によると、書状は京都市の光源院所蔵で、1583(天正11)年11月12日付。
光源院は当時、現在の鳥取県にあった領地を地元豪族に奪われたため、秀吉に茶人として仕えていた村重に調停を願い出ていた。
村重は、中国地方の領地問題を担当していた官兵衛に意見を求めたとみられ、この書状は官兵衛からの返事。
解決への協力を約束した上で、「(秀吉の)お供で姫路においでになると思っていたが、おいでにならず残念。機会があれば会うことを考えている」などと記されている。
書状の存在は昭和初期の歴史書に記載されていたが、検証されたことはなかった。
神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)によると、所蔵の書状は原本の写しで、村重が光源院へ送った可能性があるという。
今井教授は「幽閉後の2人の交流を示す唯一の史料。官兵衛は非道な扱いをされた印象があるが、両者には一定の信頼関係があったことが分かる」と分析している。(太中麻美)

http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/img/b_06542208.jpg
黒田官兵衛から荒木村重(茶人名・道薫)に送られた書状の写し(光源院所蔵)

140: 人間七七四年 2014/07/20(日) 11:38:18.07 ID:bk+xBssH
村重は本当に反省してたんかね
秀吉の悪口言って処刑恐れて逃げた時、再婚していた妻を同じように見捨てたという逸話があるし
真偽は分からんけどな

141: 人間七七四年 2014/09/29(月) 10:33:27.59 ID:JmDKH5hG
裏切りといっても林秀貞と違って織田家譜代の家臣ってわけでもない

146: 人間七七四年 2016/03/13(日) 17:42:02.07 ID:XTEBXmNN
村重の謀反の際に最初は信長に釈明に行こうとしたが、中川、高山の二将がそれを止めたって本当ですかね
海音寺潮五郎氏の本で何とかという本に載ってたとあったんですが
もし事実ならあっさり信長に降伏しているこの二人っていったい…

引用元: ・【反逆者】 荒木村重 【薄情者】



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