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: 日本@名無史さん 2011/12/21(水) 07:44:13.44
どうなってたかな?








3: 日本@名無史さん 2011/12/21(水) 09:35:13.33
足利尊氏が将軍で新田義貞が管領とか?
もしくはその逆?
足利尊氏と新田義貞は鎌倉幕府の御家人であり、
執権北条氏と姻戚関係を持つ足利は特別待遇だったとはいえ、両者は同僚だった。
どっちかがどっちかの下に入るのが嫌だったからこその合戦だろうに。

4: 日本@名無史さん 2011/12/21(水) 10:38:45.40
だから組んだらどうだったかの話なんだが。

5: 日本@名無史さん 2011/12/21(水) 11:14:34.14
>>4
組んでも子か孫の代で謀反だろ
だいたい、足利一門の斯波氏ですら鎌倉幕府では同僚の御家人だったとして、ときの斯波氏当主が足利家管領となって尊氏の部下になることを拒み、やむなく当主の子が義詮の代に管領になってる

7: 日本@名無史さん 2011/12/21(水) 21:30:41.05
>>5
鎌倉幕府では同僚の御家人だったのは北条も一緒だろ・・・
その北条には尻尾振ってたんじゃないのか・・・

10: 日本@名無史さん 2011/12/22(木) 00:37:53.00
>>7
一番北条に尻尾振ってたのは足利だがな
鎌倉時代の足利歴代当主の正室はほとんど北条氏の娘で
足利氏はかなり北条の血が濃い
尊氏正室も執権の妹

16: 日本@名無史さん 2011/12/23(金) 05:13:53.44
尊氏にとっては新田は外様になるの?それとも一門になるのかな?一応系譜じゃあ同族なんだけど、どういうことになんの?新田が心底足利と連携しますとなると、織田と徳川みたいな関係かな?それとも朝倉浅井?

21: 日本@名無史さん 2011/12/23(金) 11:24:13.41
>>16
佐竹と武田も同じ関係
でも完全に他人の関係

22: 日本@名無史さん 2011/12/24(土) 09:32:53.22
新田系といえども当初から足利に付いた山名とか後に幕府中枢に入った大館とか居るしね。

でも、本家としては鎌倉陥落直後に臣従を判断しなけりゃ、あとは同盟する機会は難しいかな。

24: 日本@名無史さん 2011/12/24(土) 10:08:06.84
建武の新政に首を捻った足利と新田の両者は、鎌倉で起きた北条時行の乱鎮圧の口実で鎌倉に向かった。北条を駆逐して足利と新田は鎌倉から動かない。やられたと思った後醍醐天皇は護良親王を筆頭に足利新田追討軍を派兵した。

って流れを考えた。
新田って自前の軍は集められてどれくらいなのかな。6000くらい?

25: 日本@名無史さん 2011/12/24(土) 10:38:25.47
>>24
都からの征討軍を返り討ちにして、そのあとは足利+新田連合軍vs北畠奥州軍か。
如何にも先鋒を買った義貞が討ち死にしそうな展開だな。

27: 日本@名無史さん 2011/12/24(土) 17:15:29.56
>>24
つーか、中先代の乱当時、護良は鎌倉に幽閉中だから
>護良親王を筆頭に足利新田追討軍を派兵した。
ってのはないなあ。

じゃあ、誰が総大将よ?となると適任を思いつかないが。

29: 日本@名無史さん 2011/12/24(土) 21:30:16.12
>>27
中先代の乱のときの官軍総大将は一応、成良親王でしょ。
足利直義が後醍醐天皇の命により成良親王を旗印として関東下向していた。
直義は中先代の乱のときに幽閉中の護良親王を殺害しているが、成良親王は都へ連れ帰っている。

28: 日本@名無史さん 2011/12/24(土) 18:08:07.30
よっぽどのバカじゃない限り、足利と新田がベッタリだったら護良をずっと近くに置いておいたでしょ。
てか足利と新田って元々仲悪いの?

30: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 09:12:20.15
>>28
よく知らんが新田荘と足利荘が隣同士でいざこざが絶えなかったとか・・・

32: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 11:34:51.32
尊氏と義貞自体最初はふぅんって程度の認識なんじゃね?
しかし義貞は勝算があって立ち上がったの?

33: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 12:12:54.86
>>32
義貞は鎌倉を攻める際、鎌倉から逃げてきた
尊氏の嫡男千寿王を保護してるからな。
同僚意識程度はあっただろう。

34: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 13:36:08.74
隠遁癖のある尊氏と優柔不断の義貞が手を組めば……
現実主義の義直と積極決断の脇坂の二人で新政権樹立か反乱軍組織して兄に謀叛ちゃうか?

38: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 17:24:43.18
早めに尊氏に屈服してれば
関東管領くらいにはなれたかな?

39: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 19:53:04.51
北条時代は心の中で二人とも
「いつか北条をつぶす」って思ってて、そのきっかけが欲しかったんだろう。後醍醐を後ろ盾につけて両者は倒幕へ動き出した。
足利は兵を万単位で繰り出せるから六波羅攻めちゃえ!負けても九州逃げちゃえ!って出来ただろうけど、義貞の場合は新田系集めてもようやく6000くらいでしょ?
それに六波羅陥落したから新田についた武将がたくさんいたわけで、義貞が立ち上がった時は自前の軍のみの算段でしょ?もしかしたら裏で足利と新田が通じ合ってて、新田の鎌倉攻めを六波羅云々関係なく支援していたのでは?

40: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 20:06:10.33
無論、新田足利間でそれなりの連携はあったし事前準備もあったんじゃないかな。
そうでなければ越後勢などあんな早急に駆けつけられると思えんし、千寿王の合流もスムーズ過ぎるし。
そのへんの調整を誰がどう付けてたかは興味深いが。岩松とか船田かな。

43: 日本@名無史さん 2011/12/25(日) 23:56:42.62
何だかんだで足利と新田は談合があったって見解でいいって事かな?
たしかに幕府を倒すには六波羅と鎌倉を同時に叩かないと戦乱は収まらないし、新田が軍を挙げたのもタイミング良すぎだしね。
仮に足利系が加わらなかったとしたら…新田軍だけで鎌倉落とせたかな?もしかしたら尊氏と義貞が鎌倉をはさみうちにするって案もあったのかも。だけど新田だけで幕府倒しちゃったから後日揉めることにみたいな…

44: 日本@名無史さん 2011/12/26(月) 10:32:13.76
>>43
足利尊氏はわずか4歳の嫡男千寿王(後の義詮)が鎌倉幕府を倒したとか無茶言い出すしな。
尊氏は鎌倉幕府を滅ぼすまでは多くの武士たちと同盟関係を結んでいたが、鎌倉幕府滅亡後は自分ひとりで戦功を独り占めしようとしてボイコットにあった気がする。

45: 日本@名無史さん 2011/12/27(火) 03:33:53.10
正直、北条家の勢力ってなんでこんなに弱かったの?
多くの所領を一族で独占してて収入も多かったし、多くの守護を兼ねてたのに。
後醍醐が敵になっても、それこそ持明院統の皇族を立てて朝敵でないと言うことは北条家にもできそうなものだけれど?
(それこそ当時の将軍である守邦親王を押し立てて戦うとか。)

46: 日本@名無史さん 2011/12/27(火) 05:11:12.12
源氏の協力あってこその幕府だからなぁ

49: 日本@名無史さん 2011/12/28(水) 20:56:59.86
実際のところ、源氏の我等が平氏の北条を討つという感覚が、当時の足利新田にどれだけあったかね。
正統化の根拠にはなりうるだろうけど。

治承寿永だって源平入り混じっての勢力争いってのが実相だし。

50: 日本@名無史さん 2011/12/29(木) 06:52:16.87
もうこのころになれば源氏も平氏も関係ないんじゃないのかな?ただ北条の執権政治を転覆させたいだけでしょう。実際尊氏も六波羅倒した後シラネだったんでしょ?同族の新田に根回しして鎌倉攻めてよって言ったかもしれん。
なぜ新田が率先して兵をあげたのか?が俺にはわからないが。

51: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 01:07:31.25
むしろ、南北朝時代になってからのほうが、やたらと何々の嫡流というのが幅をきかせる時代になったんじゃないかな。

新田も普通にいえば随分と没落してしまった旧家にすぎないのに、桓武平氏の北条はもとより、弟の家系の足利よりも嫡流だと考えるからこそ骨肉の争いになったわけだ。
実際には足利は頼朝とも北条とも縁戚を重ねて鎌倉時代には有力者に成り上がっていたのだが。

52: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 01:14:57.66
(続き)
もっとも、そんな没落旧家の新田から義貞という傑物が出てきた一方で、足利のお坊ちゃま尊氏がまったく無能だったせいで南北朝の争乱が泥沼化してしまったとみることもできる。

54: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 17:01:26.72
「新田から義貞という傑物が出てきた一方で」

え?

55: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 18:38:04.94
あれだけ出来れば十分傑物。
竜頭蛇尾の典型だから、もう一花咲かせて欲しかったとは思うが。

57: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 23:13:50.82
北畠はなんで義貞嫌いなの?

58: 日本@名無史さん 2011/12/31(土) 00:42:39.66
北畠親房は、一般には貴族意識で武家全般を低く見ていたといわれているが、義貞の場合は、最期が余りにあっけない犬死だったからガッカリ感が半端なかったことも加わったのではないだろうか。

それに北畠親房の思想は中世仏教的なもので、藤原氏や村上源氏(北畠など)の血統が栄えたのも功徳の高さゆえというもの。
『神皇正統記』のトーンからは、武家ごときが高位高官にあずかったりしたのが分不相応だったがゆえに、あっけない最期を遂げたと解釈されたのだろうなあと想像される。
しかも、義貞が尊氏よりも悪運が尽きるのが早かったのは、そもそも新田のほうが足利の末族にすぎないからだという解釈にもつながったのかもしれない。そこは少なくとも当家同士にとっては不正確な情報なのだが、お公家さんからみれば末端のどうでもよい話、だったのだろう。

60: 日本@名無史さん 2012/01/01(日) 05:22:39.32
尊氏は足利の世を作るために北条を倒したんだか分からん人だな。
結局武家の世をというならもっと新田とうまくやってればこんなに乱世にはなってないだろうに。そうではなく、ある程度力を持ってしまった新田は邪魔に見えたんだろうか。
中先代で新田が鎌倉行ってたらどうしたかね。

61: 日本@名無史さん 2012/01/02(月) 18:18:14.55
鎌倉攻略が上手く行き過ぎたことが新田足利の不幸の始まりではあるね

62: 日本@名無史さん 2012/01/02(月) 23:03:37.35
後醍醐が義貞に征夷大将軍を与えればよかったんじゃね?

63: 日本@名無史さん 2012/01/03(火) 11:33:32.47
尊氏は優柔不断だからなあ

66: 日本@名無史さん 2012/01/03(火) 22:24:43.75
新田が屈伏して山名のように従えば
有力守護大名として生き残れたかもね
それ以外では手を組むってありえないでしょ

68: 日本@名無史さん 2012/01/04(水) 19:31:02.29
問題はどこで屈服するかって話であって。

71: 日本@名無史さん 2012/01/08(日) 04:29:50.66
新田宗家は、守護国も、国司任用経験もない一地方豪族。
足利は泰氏までは順調に「将軍家御門葉」「北条得宗家との婚姻による縁故」で守護、国司任用を受けて、国内各地に所領を増やしてきた、門閥。
足利が、血統では兄筋というだけで、生母もちがう異母兄弟の新田を同族として見るわけもなく、他の武士団でさえも、そこは見誤らないはず。
経済的に豊かでなく、鎌倉北条氏に冷遇されてきたからこそ、猪武者として先陣を切り、手柄をたてて後醍醐天皇から恩賞をあずかろうとしたんだろうな。

72: 日本@名無史さん 2012/01/08(日) 15:35:07.26
なんで足利って万単位で兵動かせるのになかなか謀叛の兵を挙げなかったの?

75: 日本@名無史さん 2012/01/09(月) 11:01:40.37
>>72
その足利の勢力が鎌倉幕府の恩恵によるものだから
鎌倉存続より滅亡の方が望ましいと思わなきゃ動かないだろう

76: 日本@名無史さん 2012/01/10(火) 15:36:32.76
最初は畠山貰ったり北条様々だもん

82: 日本@名無史さん 2012/01/12(木) 10:39:43.52
新田義貞って本当に尊氏のライバルの地位にいたのかね
戦もたいして強くないし、源氏といっても傍流の傍流だし

84: 日本@名無史さん 2012/01/12(木) 15:36:02.83
ライバルにさせられた

85: 日本@名無史さん 2012/01/12(木) 15:46:34.05
血縁は足利も新田もどっちもどっちでしょ
足利義兼は伯父新田義重の庇護を受けて育ったくらいだし
ただし義兼は頼朝挙兵に際して新田より先にいち早く頼朝に臣従、頼朝の信任を得て、
頼朝の妻北条政子の妹時子を妻とするよう命じられ頼朝の義弟となることに成功した
この先例により足利は鎌倉時代を通じて北条執権家の親戚として発展
足利氏歴代当主が北条氏の正室を娶っていたために鎌倉幕府御家人の中でも別格扱いだった

88: 日本@名無史さん 2012/01/13(金) 04:35:15.42
荘園の大きさからいえば、義康な足利荘より、新田荘が大きく、荘園の形成に、源義国、義重ら親子が共に腐心したことが知られている。たしか義重を嫡子として扱っていたという研究者の論文が、いくつかあるはずだが、論文の詳細はわすれた。すまぬ。
義康は藤姓足利氏との所領を巡る緊張関係を優位にするため、中央に出仕して官位をあげて、権威で支配権を握ろうとしたと記憶している。

89: 日本@名無史さん 2012/01/20(金) 23:17:12.56
たしか足利荘も領有していたのは半分だけじゃなかったか。
後の半分は、籐姓足利氏のものだったはず。

90: 日本@名無史さん 2012/01/21(土) 07:32:05.69
新田荘って、「空閑の地」と言われていて、平安末期には浅間山の噴火で荒れ果てていたので、開発しなければ使えない土地だったと言われてるんだけど。

荘園の大きさで比較するなら、まずは新田・足利ともに、本領以外に土地がない、という前提になると思うのだけど?
因みに、新田氏は新田荘以外に、八幡荘(高崎市の山名)辺りも所領だったようだね。
そもそも、初期は新田・足利が別の一族という意識があったのかな?
義康が死ぬまでは、
都の義康
開発領主の義重
という図式だったのかも知れない。

101: 日本@名無史さん 2012/08/15(水) 22:52:26.33
義貞の鎌倉攻めが成功したことが、逆に新田家の滅亡につながったんだな。

歴史の皮肉だ。


102: 忍法帖【Lv=2,xxxP】 2012/08/16(木) 12:29:08.62
清盛をみて思ったが、源氏と平氏で婚姻関係を結んで同盟を結べなかったのかとは思う

107: 日本@名無史さん 2012/09/06(木) 07:42:35.73
>>102
平正盛あたりまではやってたろ。

111: 日本@名無史さん 2012/10/06(土) 06:43:33.40
>>102
受領で院近臣かつ財産家の武士、平正盛の娘(平忠盛の姉)と、源義家の嫡子、源義忠が結婚しており、源氏内でさらに力をもつことを恐れた、義家の同母弟の新羅三郎義光が、兄の義綱の犯行に見せかけて、義忠を暗殺したため、伊勢平氏と河内源氏の共栄はなくなった。
忠盛の忠の字は、姉婿である源義忠が烏帽子親だった可能性を示す。
義忠の子孫は、のちに義家流源氏の家督となった、為義にはつかず、平家とともに行動したことからも、源氏内部での対立の深さを示す。
平氏の側の問題より、源氏一族内部の内訌が問題だった。

103: 日本@名無史さん 2012/08/17(金) 14:06:41.56
婚姻関係を結んでいたにも関わらず、まったく関係改善や抑止になってない例もあるけどね。
(南北朝の両天皇家、豊臣・徳川とか)

109: 日本@名無史さん 2012/09/26(水) 04:49:08.67
新田は足利が六波羅を攻めてるって知ったのは、自らが出立してからでしょ?仮に談合で尊氏と義貞が出立する日を示し合わせてたとして、六波羅攻略失敗したらどうしてたのかな。新田軍は史実通り膨れ上がってた?
それとも多摩川渡れなかったかな?

110: 日本@名無史さん 2012/10/02(火) 16:24:46.83
たぶん尊氏は義貞に千寿王を向かわせたのは足利と新田が一緒になって北条を倒しましたってアピールしたかったんじゃあないの?
倒した後は天皇に任して新田と仲良くしたかったんじゃあないかな。

しかし新田の小さな勢力がなぜ北条を倒すと軍を挙げたんだろうか。
もっと他にも新田以上の力を持った一族は関東にいただろうに。

112: 日本@名無史さん 2012/10/18(木) 18:31:54.74
新田だけで鎌倉は落とせないが、関東の源氏が動いたって事で鎌倉方には動揺させる効果はあったんじゃないか?

それか尊氏が、新田に鎌倉攻めさせれば鎌倉方の軍は新田にかかる事になるから、六波羅に攻めてくるのを遅らせる事ができる程度に思ってたのかな?
後者だと千寿王を新田にやった意味が理解不能なんだが。なぜ新田に逃げたのか。最初から新田のとこ逃げろと言ってたんなら談合済みか。

115: 日本@名無史さん 2012/10/19(金) 11:53:18.08
>>112
鎌倉が滅んだのは新田義貞の功績ではなく、足利家嫡男である千寿王が旗印になったことにより関東武士たちが皆が味方したから、というのは尊氏の妄言でしょうね。

叔父赤橋守時の庇護下で育っていた千寿王は鎌倉脱出が遅れた、新田義貞が尊氏の協力者として保護してあげた、という大河「太平記」あたりが真実だと思うけど。

116: 日本@名無史さん 2012/10/20(土) 12:58:26.42
>>115
鎌倉陥落後足利方に参集する武士たちの多さが当時の足利と新田の力の差を物語っている。結果的には足利が手柄を横取りした面は否定できない。ただ鎌倉攻撃には白河結城や信濃の小笠原なども参加しているようにどう考えても当時の新田の影響できたとは思えない連中が多いから足利の影響力も無視できんと思う。

千寿王の鎌倉脱出は慎重にしたから遅れたのだろう。現に千寿王の庶兄は殺されている。

113: 日本@名無史さん 2012/10/18(木) 22:07:29.95
諸説あるが、千寿王は何処かに潜伏していたところ、新田方が思わぬ大軍勢に膨れあがった形勢をキャッチした腹心に連れられて
新田方に合流した、あるいは鎌倉陥落後に押っ取り刀で細川三兄弟に連れられてやってきた、というあたりがリアリティがありそうに思う


117: 日本@名無史さん 2012/10/21(日) 04:29:15.41
よく分からんが鎌倉を三方から攻めた時、軍を割いたのは義貞の独断なのかな?足利方は義貞の命令通り、すなわち鎌倉攻めの大将として認めて従ってたのかな?
戦が終わった後は義貞は足利方の論功についてどう考えてたんだろう。
手柄は平等って感じなのかね。

118: 日本@名無史さん 2012/10/21(日) 14:08:27.45
三方を任されたのが、義貞本人と大館、堀口という新田直系だから現場の指揮権は義貞にあったんだろう。

それが陥落後の政治的な局面で、見事に足利に政治的に逆転されたね。

119: 日本@名無史さん 2012/10/21(日) 15:33:31.28
鎌倉攻めに参加した武士たちの多くがが戦功を記した軍忠状を足利に提出したことから新田が追い出されたのは当然の流れだがね。

指揮官とはいえ護良の令旨(綸旨は怪しい)しか持たない無官の新田では不安を感じるのも仕方がない。

121: 日本@名無史さん 2012/10/21(日) 16:15:57.99
で、鎌倉を出たあと、結局一度も鎌倉にも上野国にも戻ることなく討死。悲しいのう。

123: 日本@名無史さん 2012/10/30(火) 00:03:25.01
まさか尊氏は無位無冠の新田が鎌倉にいても人望は集められず、いずれ鎌倉で戦った武将は足利になびく事まで予想して、新田を鎌倉攻めに立たせたとか?まさかねぇ

124: 日本@名無史さん 2012/11/02(金) 23:48:59.96
大族の足利のことだ、新田以外にも関東の諸将に声掛けしてたんじゃないか。
その中で新田が疾風のごとく鎌倉を落としたものだから話がややこしくなった。

126: 日本@名無史さん 2012/11/04(日) 10:39:53.82
尊氏は鎌倉方を六波羅に向かわせないための時間つぶしとして新田を鎌倉攻めにと思ったんじゃないか?そしたら鎌倉落とされちゃってさあ大変となった。
新田は足利と手を取り合って天皇政治を盛り立てようとしたんだが、足利が新田ネガティヴキャンペーンを開始しておかしくなった。

127: 日本@名無史さん 2012/11/16(金) 02:12:41.73
義貞が尊氏に鎌倉攻めの恩賞を頼めば良かったのか

128: 日本@名無史さん 2012/11/16(金) 09:21:43.84
>>127
義貞と尊氏はただの同僚
当時の主君は後醍醐天皇だろ

131: 日本@名無史さん 2012/11/28(水) 08:09:14.57
新田義重の時代からずっと手は組んでたんだよ。
急速に仲悪くなったのは、たぶん後醍醐の尊氏外しからで…

133: 日本@名無史さん 2012/12/20(木) 10:50:08.77
足利の尊氏、直義兄弟も、もともと「仲が悪かった」から分裂抗争に発展したわけでもなかろう。
権力闘争は不可避とはいえ、この時代の異常さは、尊氏の能力、資質に問題があった面も大きかろう。
家勢だけでなく能力、実績も上ならば、新田方も文句はいえなかったろう。

151: 日本@名無史さん 2013/09/06(金) 16:24:47.99
規模が違いすぎて、手を組むというより新田が吸収されちまう

152: 日本@名無史さん 2013/09/06(金) 16:42:29.49
>>151
それはそれで良かったかもよ

なまじ後醍醐天皇に重用されたから夢見ちゃったのかもね
歴代の積み重ねでひらいた差を義貞の一代で逆転するなんて無理がある

引用元: ・新田と足利が手を組んだら




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