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1: 名無しさん@おーぷん 2017/12/03(日)20:27:21 ID:L2t
ここはワイが正史三国志の人物の伝を意訳するスレや
良かったら見て行ってクレメンス









788: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:30:21 ID:BcU
そろそろ始めるで
まずは費禕伝からや

789: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:30:34 ID:BcU
費禕、字文偉、江夏鄳人也。少孤、依族父伯仁。

費禕は、字を文偉といい、江夏郡鄳県の人である。若くして父を失い、おじの伯仁を頼った。

790: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:31:32 ID:BcU
伯仁姑、益州牧劉璋之母也。璋、遣使迎仁、仁將禕游學入蜀。

伯仁のおばは、益州牧劉璋の母であった。劉璋は、使者を遣わして伯仁を迎えさせ、伯仁は費禕を連れて遊学し蜀に入った。

791: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:32:30 ID:BcU
會先主定蜀、禕遂留益土。與汝南許叔龍、南郡董允、齊名。

折しも先主(劉備)が蜀を平定し、費禕は益の地に留まった。汝南の許叔龍、南郡の董允と、名を等しくした。

792: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:33:33 ID:BcU
時、許靖喪子、允與禕欲共會其葬所。允、白父和請車、和遣開後鹿車給之。允有、難載之色、禕便從前先上。

この時、許靖は子を亡くし、董允と費禕は共に葬儀に行こうとした。董允が、父董和に申して車を求めると、董和は後ろが開けている小さな車を給わった。董允は、乗るに難色を示したが、費禕はただちに前方に先んじて乗った。

798: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:35:23 ID:gzH
>>792
このときから漂うヒイの大物感ww

802: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:36:43 ID:BcU
>>798
マイペースな大物って印象

794: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:33:55 ID:tc1
蜀最後のまともな内政官キター

796: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:34:32 ID:BcU
及至喪所、諸葛亮及諸貴人悉集、車乘甚鮮。允、猶神色未泰、而禕晏然自若。

葬儀場に着くと、諸葛亮及び諸貴人がことごとく集っており、車は甚だ豪華だった。董允は、なおも気色が安泰ではなかったが、費禕は落ち着いていて自若であった。

799: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:35:36 ID:BcU
持車人還、和問之、知其如此、乃謂允曰「吾常疑、汝於文偉優劣未別也。而今而後、吾意了矣。」

御者が戻り、董和が問うと、そのような様子を知り、董允に言った「私は常にお前と文偉(費禕)の優劣を疑って判断出来なかった。今は、わかった。」

801: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:36:37 ID:gzH
>>799
董允のいいところはなんでもカッツリやるところやから(震え声)

804: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:36:52 ID:BcU
先主立太子、禕與允俱爲舍人、遷庶子。後主踐位、爲黃門侍郎。

先主が太子を立てると、費禕と董允は共に太子舍人となり、太子庶子に昇進した。後主(劉禅)が帝位につくと、黄門侍郎となった。

808: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:39:00 ID:BcU
丞相亮南征還、羣寮於數十里逢迎。年位多在禕右、而亮特命禕同載、由是衆人莫不易觀。

丞相諸葛亮が南征から帰ると、官僚たちは数十里まで迎えに行った。年と官位は多くの者が費禕の上だったが、諸葛亮は特に費禕を共に(車に)乗せ、そのため衆人で見方を変えぬ者はなかった。

821: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:48:19 ID:BcU
亮以初從南歸、以禕爲昭信校尉、使吳。孫權、性既滑稽、嘲啁無方。諸葛恪、羊衞等、才博果辯。

諸葛亮は南から帰った当初、費禕を昭信校尉とし、呉に遣わした。孫権は、性が能弁で、人を嘲ることきまりがなかった。諸葛恪、羊衛らは、才が多く弁が立った。

824: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:49:22 ID:BcU
論難鋒至、禕、辭順義篤、據理以答、終不能屈。

論難し舌鋒をふるったが、費禕は、正しい言葉と篤実さで、理によった答えをしたので、終いまで屈さなかった。

825: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:50:39 ID:rzQ
費禕さん伝承で鶴に乗ってるとかあって草

828: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:52:26 ID:BcU
>>825
そんなんあるんか
どんな話なんや?

831: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:54:19 ID:rzQ
>>828
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/費イ

これの伝承のとこに載ってるで
まぁ、大した記述やないけど
伝承
武漢の代表的な名所である黄鶴楼(223年(呉の黄武2年)に建てられたという)には、費禕が黄色い鶴に乗って飛来し、ここで休んだという伝説が存在する。

826: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:50:44 ID:BcU
權、甚器之、謂禕曰「君、天下淑德、必當股肱蜀朝。恐不能數來也」還、遷爲侍中。

孫権は、甚だ重んじ、費禕に言った「君は、天下の徳がある人物で、必ず蜀朝の股肱となろう。恐らく何度も来られないだろう」帰ると、侍中に昇進した。

838: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:56:30 ID:gzH
>>826
鄧芝と並ぶ孫権のお気に入りすこ

841: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:57:47 ID:BcU
>>838
孫権特有の論破してやろうと思って出来なかったら尊敬
いいやつなんだか悪い奴なんだか

827: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:51:51 ID:BcU
亮北住漢中、請禕爲參軍。以奉使稱旨、頻煩至吳。建興八年轉爲中護軍、後又爲司馬。

諸葛亮は北のかた漢中に行くと、費禕を参軍とした。使命を奉じるとその旨にかなうので、頻繁に呉に行った。建興八年(230年)中護軍となり、後にまた司馬となった。

829: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:53:02 ID:BcU
值軍師魏延與長史楊儀相憎惡、每至並坐爭論、延或舉刃擬儀、儀泣涕橫集。

この時軍師魏延と長史楊儀は憎み合っており、同席して論争するたびに、魏延はあるいは刃を挙げて楊儀に突き付け、楊儀は涙を流し顔の横にためた。

830: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:54:02 ID:BcU
禕、常入其坐間、諫喻分別、終亮之世、各盡延儀之用者、禕匡救之力也。

費禕は、常に座の間に入り、諌め諭して分かれさせ、諸葛亮の時代が終わるまで、魏延と楊儀が働きを尽くせたのは、費禕が助けたおかげである。

832: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:54:48 ID:XMY
軍師魏延…すごく違和感w

836: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:56:09 ID:BcU
>>832
軍師って現代のイメージと違うんや
決して魏延が参謀ってわけではないで

835: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:55:17 ID:BcU
亮卒、禕爲後軍師。頃之、代蔣琬爲尚書令。琬自漢中還涪、禕遷大將軍、錄尚書事。

諸葛亮が亡くなると、費禕は後軍師となった。しばらくして、蒋琬に代わり尚書令となった。蒋琬が漢中から涪に帰ると、費禕は大将軍、録尚書事に昇進した。

837: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:56:23 ID:BcU
延熙七年魏軍次于興勢、假禕節、率衆、往禦之。

延熙七年(244年)魏軍が興勢に駐屯すると、費禕に節を与え、衆を率いさせ、防ぎに行かせた。

840: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:57:34 ID:gzH
>>837
そして、ちゃっかり軍事もできちゃう費禕ほんとすこ

845: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:59:10 ID:BcU
>>840
演義やと軍事は姜維の功績に吸収されるからね

843: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:58:24 ID:BcU
光祿大夫來敏、至禕許別、求共圍棊。于時、羽檄交馳、人馬擐甲、嚴駕已訖。禕、與敏留意對戲、色無厭倦。

光禄大夫来敏は、費禕に別れを告げに来て、共に囲碁をするよう求めた。この時、羽檄(急を告げる文章)が飛び交い、人馬は鎧をつけ、車の用意も済んでいた。費禕は、来敏との対局に熱中し、嫌がる様子はなかった。

846: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:59:20 ID:BcU
敏曰「向聊、觀試君耳。君、信可人。必能辦賊者也」禕至、敵遂退、封成鄉侯。

来敏は言った「先ほどはいささか、君を試しただけだ。君は、信ずるに足る人だ。必ず賊を処理出来よう」費禕が到ると、敵は遂に退き、成郷侯に封じられた。

847: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:59:58 ID:gzH
>>846
老害来敏きたー!

849: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:01:09 ID:BcU
>>847
行動が異常とか書かれてるんだよね
いったいなにしたんや

848: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:00:22 ID:BcU
琬、固讓州職、禕復領益州刺史。禕、當國功名、略與琬比。

蒋琬は、州の職を固辞したため、費禕はまた益州刺史となった。費禕の、国に対する功名は、ほとんど蒋琬に比肩した。

850: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:01:19 ID:BcU
十一年、出住漢中。自琬及禕、雖自身在外、慶賞刑威皆遙先諮斷然後乃行、其推任如此。

十一年(248年)、漢中に出て留まった。蒋琬から費禕に至るまで、身体が外にあっても、恩賞と刑罰は皆遥か先に諮問して決定されしかる後に実行され、その信任はこのようであった。

851: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:01:25 ID:rzQ
蒋琬さん、自分の能力の幅理解してるのすこ

852: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:02:13 ID:BcU
>>851
論議の逸話とか読むとその部分がよくわかるよね
蜀屈指のぐう聖

853: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:02:23 ID:BcU
後十四年夏、還成都。成都望氣者云、都邑無宰相位、故冬復北屯漢壽。

後の十四年(251年)夏、成都に帰った。成都の運気を見れる者が、都には宰相の位がないと言い、ゆえに冬にまた北のかた漢寿に駐屯した。

854: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:03:25 ID:BcU
延熙十五年、命禕開府。十六年歲首大會、魏降人郭循、在坐。禕歡飲沈醉、爲循手刃所害。諡曰敬侯。

延熙十五年(252年)、費禕に府を開かせた。十六年(253年)の年初の大宴会に、魏から降伏した郭循が、座にいた。費禕は楽しく飲んで泥酔し、郭循の刃で害された。諡して敬侯といった。


855: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:04:23 ID:BcU
子承嗣、爲黃門侍郎。承弟恭、尚公主。禕長女、配太子璿爲妃。

子の費承が後を継ぎ、黄門侍郎となった。費承の弟費恭は、公主を娶った。費禕の長女は、太子劉璿と配偶して妃となった。た。

856: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:04:24 ID:gzH
酒に酔いながら死んでいったのは、一国の宰相としては糞だけど男としてはかっこいい気もする

857: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:05:25 ID:gzH
>>856
いや、かっこ悪いか

864: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:08:21 ID:BcU
>>857
暗殺はいい死に方とはいえんな
858: 【28】 2017/12/06(水)21:06:05 ID:o8p
蜀は惜しい人を失ったわね…

864: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:08:21 ID:BcU
>>858
本当にそうやな
彼が残っていたら姜維をセーブできたかもしれないし

引用元: ・正史三国志・夏侯惇伝の全文(意)訳と解説をするで




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