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1: 世界@名無史さん 2009/01/23(金) 12:15:43 0
幸いにも我が国そしてインド、東南アジア、アラビア半島、西欧、シベリア?
これらの地域についてジックリ話そうか

関連記事モンゴル帝国に支配されなかった地域







191: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 13:19:14 0
東南アジアはベトナムがふんばってくれたお陰が強いだろうな。
あとモンゴルはやっぱ船にゃ弱いよw

日本も神風とかいうが、二回目の時はかなり頑張ってた。

194: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 17:55:57 O
地の利があった日本よりモンゴルに平原での騎馬戦仕掛けて完勝したバイバルスのが凄いだろ。

195: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 19:02:11 i
>>194
地の利ならホームの中東で戦ったバイバルスにもあったから同じ。
アイン•ジャールートで1万ちょっとのモンゴル軍に勝っただけのバイバルスより、福岡平野で4万のモンゴル軍に騎馬戦で勝った鎌倉武士武士の方が凄い。

196: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 19:06:44 0
俺が疑問に思うのは、鎌倉幕府の異常な動員能力なんだけど
あれは何でなんだろう?

197: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 19:10:49 0
ポーランド王がワールシュタットで3万人を動員してた時代に鎌倉幕府は奥州戦や弘安では20万以上を動員してたわけだからね。

3万なんて日本ではせいぜい奥州藤原氏レベル。
なんか農業とか産業で世界と隔絶した部分があったのかな?

202: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 23:34:56 0
19世紀まで国力はアジア>ヨーロッパ、
植民地補正で逆転しだすのもここら辺から
戦力だけなら17世紀ぐらいには逆転してるだろうが。

203: 世界@名無史さん 2009/02/17(火) 00:35:21 0
キエフルーシは8万の軍勢を動員していたという。
この時はモンゴルは3万程度で軍勢の数ではキエフの方が多かった。

222: 世界@名無史さん 2009/02/18(水) 03:24:50 0
>>203
チンギス・カンの時代にキエフ・ルーシと戦った部隊は、ホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの追撃のため派遣されたジェベとスベエデイが率いた二万騎。

今のイラクとイランの北西国境付近での会戦でムハンマドを補足しそこない、右往左往した挙げ句カスピ海西岸を北上。アゼルバイジャン高原のイルデニズ朝を叩き、アルメニア王国、グルジア王国の軍を破って臣従の確約を取り付け、カスピ海を西回りでチンギス本軍のまだ居るマーワラーアンナフルへ帰還するルートだったらしい。そこでアスと交戦し、さらにキプチャクの一派と遭遇してこれとも交戦。

ロシアの年代記、『ガリーチ=ヴォルイニ年代記』によると、このキプチャク(年代記では「ポロヴィッツ」)側がキエフなどのルーシ諸侯たちに、自分達はけちょんけちょんにやられたが、放っておけばいずれルーシ側にも甚大な被害を及ぼすゆえ、今駐営中のタタールとかいう連中を襲撃して撃退すべきだ、というようなことを主張してルーシ側と連合して攻撃した、ということらしい。>いわゆるカルカ河畔の戦い

ルーシ側は普段苦戦を強いられているポロヴィッツ勢が大負けして助けを求めて来るような連中だからとこの作戦に協力したらしいが、逆に包囲迎撃されて返討ちにされてしまう。

ジェベとスベエデイが率いた戦力が二万騎だったことは、『世界征服者史』や『集史』などのモンゴル側のペルシア語年代記にはっきり書かれ、モンゴル帝国の境域地域に派遣・駐留する鎮守軍もだいたい二万戸(騎)なので(有名なカシュミール鎮守軍も2万騎)、多分実際そのくらいの戦力を派遣したのだろう。

邦訳の『ガリーチ=ヴォルイニ年代記』にはルーシ・ポロヴィッツ連合軍の規模について特に書かれていなかったように記憶しているんだが、「8万」という数字は別の年代記に出て来るんだろうか。

228: 世界@名無史さん 2009/02/18(水) 18:40:09 0
>>222
モンゴル強。
てか、ヨーロッパ勢は全部、偽装撤退~包囲射撃戦法にまたかと思うぐらい引っかかってる
印象がある。リーグニッツ、モヒ、カルカと全部このワンパターン戦法に実にワンパターンなひっかかり方してるよね。

282: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 00:41:16 0
ドイツの川は凍らない。ロシアの川は凍る。
案外河の凍結の有無がモンゴルの勝利の要因として大きいのかもしれない。

284: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 00:47:47 0
>>282
つ長江

まぁ長江を初めて渡河した時、色々苦労したらしいけど
みんな長江に脅えて、護符を貼ったりしたとか(だっけ?)

205: 世界@名無史さん 2009/02/17(火) 07:19:39 0
ヘロトドスのペルシャ軍百万人とか、源平の20万騎とかはみな物語的誇張であり、ありえない数字なのだそうだね。

206: 世界@名無史さん 2009/02/17(火) 08:11:50 i
今も昔も人間の営みは基本点に同じ。何時代の文献だろうが、その性質によって数字が信頼できる場合もあれば、信頼できない場合もある。
そんなこと、歴史を語る上ではイロハのイだぞ。

226: 世界@名無史さん 2009/02/18(水) 12:10:41 O
ベトナムは日本がなす術なく完敗したアメリカに勝ってるぞ

227: 世界@名無史さん 2009/02/18(水) 12:32:02 0
>>226
ベトナム戦争の結果、狂喜した左寄り連中が700年も前のモンゴルとの戦いまで、資料無視してマンセーするようになったんだよな。。。
わずか3000人のモンゴル軍に首都破壊され、ベトナムがモンゴル帝国の属国と化した第一次侵攻まで、何故かベトナムが勝利したことになってるし。
あと、時系列無視して日本が助かったのはベトナムのお陰だとか言ってみたり。
実際には全く逆で、ベトナムが助かったのが日本のお陰なのに。

231: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 02:11:27 0
>あと、時系列無視して日本が助かったのはベトナムのお陰だとか言ってみたり。
>実際には全く逆で、ベトナムが助かったのが日本のお陰なのに。

どっちも違うと思うが。あんま関係ないんじゃないか?
聞いたこと無い話だな。

233: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 02:14:28 0
東方三王家の反乱の方が元寇への影響大きいような
ま、反乱自体元寇、その準備が一因な気もするが

235: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 02:21:04 0
南宋がふんばってた影響がもしかしたらあるかもしれんかなあ?
ベトナムのおかげとか、逆に日本のおかげでベトナムは~~なんてのはは初耳だな。

236: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 07:01:13 0
いや、ベトナムは大いに日本の恩恵受けてる。
第三次ベトナム侵攻の際、元軍は大軍を投入するにあたり、その兵站を海上からの船舶を使った輸送で賄おうとしたんだよ。
でも、元寇で3500隻もの江南艦隊が全滅しちゃったから、元軍が用意できたのは結局数百隻単位の小艦隊だけだった。
で、ベトナム軍は野戦ではまったく歯が立たず、元軍は連戦連勝であっさり国都とか占領したんだけど、海軍が相次いで兵糧輸送に失敗したため、食糧不足が理由で撤退に追い込まれた。元寇で日本が江南艦隊を壊滅させてなかったら、ベトナムは元軍に簡単に征服されていたよ。

237: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 10:48:59 0
>>236
そんな話はにわかに信用できん。

大体当時の軍なんて現地調達が基本だろう?
ロジスティックスみたいな考えあんまない。
あと陸で運べばいいじゃん。地続きなんだし。

251: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 18:24:52 0
>>237
> 大体当時の軍なんて現地調達が基本だろう?

いや、文永の役だったか弘安の役だったか忘れたけど、日本に派遣する前に慶州のどこそこは糧秣をこれぐらいを負担すべし、鳳州のなんとかはこのくらい負担すべしみたいに、派遣前に兵站部門への配給割当てが各々課されていて、合浦の司令部がこの配給を管理していたようだ。

事前に派遣地域に近い地域などが兵站の負担を事前に命じられるのが普通だったみたいだが、負担が過剰だったりして準備不足なまま軍が到着すると司令官が無理矢理強制的に徴発する場合もあって、現地の担当者と衝突することも良くあったらしい。

基本的にモンゴルの遠征では軍が展開する前線の後方に「アウルク」 Aγuruq と呼ばれる兵站基地が置かれ、ここに戦利品の集積や後背地から供給される糧秣の配給などを管理していたそうだ。漢籍ではこれを「奥魯」などと音写している。軍ととも連れて来られた各戸や部隊の家畜群の管理もここで行われていたようで、穀物以外の食品などもここで生産するなどしていたらしい。

『高麗史』でも高麗領南部を中心に文永・弘安の役の時の兵站への課田として色々な地域が「奥魯」として設定されたことが出て来る。

戦利品は理念上、モンゴル皇帝の獲得物でそれを軍や兵士に公平に分配し褒美(Qubi)として下賜される、という建て前があった。そのため、決算前に横領すると反逆扱いされて部隊ごとに連帯責任をとらされ死刑になったそうだ。

戦利品獲得→そのまま食糧に  という展開は、モンゴル帝国の政治的軍事的理念としてアウトなので、普通、大規模な遠征の時はこういうことは無かったようだ。

(モンゴル軍が良く占領した地域の住民を数えさせて捕虜として売り捌いたとか、男女を別けて一部を戦闘要員として転戦させたとか、商人と一般住民を別けて残りを農耕地へ回した、あるいは虐殺した、とかいう話が出てくるが、基本的には上のモンゴル皇帝の名のもとで行われる戦利品の分配と同じ現象)

252: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 20:46:45 0
>>251
なんか鋤鍬がみつかってるとかね。
殖民するつもりだったんかねーと俺は理解しとったが。

ロジスティックスの仕組みがどの程度だかしらんがあんま高いものとはおもわないんだが、どうだろうね。とりあえず興味深いレスありがとう。

244: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 13:30:28 0
>>236
永楽帝の時代の明軍は元寇の江南艦隊ほどの規模の海軍は使わなかったけど20年もヴェトナムに居座ってるよ。
この当時の明は、洪武帝の定めた開中法によって軍糧の輸送に民間の商人を利用していた。
商人が国境まで食糧を持ってくると政府専売品である塩の販売許可証と交換され、商人は官営の産塩所で入手した塩を売って利益をあげる。
食糧は内地から運んでくるばかりでなく、広西とかに商屯をどんどん作って輸送のコストを削減、それが地方の開発にもつながって一石二鳥だったわけだ。

302: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 14:44:29 0
>>244
まず、ベトナムへ侵攻した明軍が、20年間本国からの軍糧輸送で維持されていたわけではないということ。
明軍がベトナム入りしたのは1406年10月だけど、翌1407年6月には胡氏を滅亡させて統治体制に移行し、1408年6月には駐屯する兵力を大幅に削減させている。
胡氏滅亡以後、統治体制に入った明軍を支えていたのは、基本的に現地で得られる軍糧でしょ。それまでは広東から海路輸送される軍糧に多くを依っていたわけで、元軍の場合とそれほど違わない。

あと、1418年と1421年に施行された開中法は、基本的に現地調達で不足しがちな分を補うためのものだし、あんまり問題解決につながったようにも見えないから、ベトナムへの軍糧輸送という問題では過大評価するべきではないだろ。

255: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 21:22:31 0
鍬鍬っていっても必ずしも耕筰に限定されて使用されるわけでもなし、野営地建設に使用する目的もあったかもわからんね。

256: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 22:07:55 0
>>255
南宋兵メインだから殖民という名を借りてモンゴルは反抗的な南宋人を追い出したかったんじゃねーかなと思ってたわ。
とはいうもののその線もありえるべ。


289: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 01:07:43 0
ベトナムへの遠征自体、唐代後半以降の江南と南海貿易発展のお陰なんだろうな
元朝や明朝の遠征共に

294: 244 2009/02/20(金) 01:39:04 0
>>289
うーん、ヴェトナムを征服することによるメリットといった話かな?
軍事侵攻自体はそれこそ漢の時代からやってるけど

300: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 04:08:04 0
>>294
ウリヤンカダイが最初にベトナムの陳朝を征服した時は、モンケの南宋遠征の一環で南宋の勢力が南方へ逃亡ないし南回りで反撃するのを警戒して、その押さえとして征服した、って感じ。
バトゥの遠征軍がハンガリー王国征服時にチャガタイ家のバイダル(らしい人物)がハンガリーに北隣するポーランド王国に侵攻したのと大体同じような展開だと思う。この時陳朝はモンゴル帝国に臣従し、その後に起きたクビライとアリクブケの後継戦争ではクビライ側についたため陳朝は貢納義務を課される代わりに従来の諸領を安堵されている。(ダルガチの常駐と課税がまた負担が大きかったようだ)

一方、1285年1月、クビライの時代に陳朝が反抗したのはクビライの庶流の皇子、鎮南王トガンがチャンパーへ遠征した時、その南方への経路に陳朝を通過せねばならなかったことに始まる。
雲南から下って来たトガンは陳朝側に遠征軍に必要な物資を供給するよう命じ、軍が陳朝に入国すると、そこでかなり無理に膨大な物資を徴発したためこれに陳朝の君主仁宗らが反発。トガンはこの態度を反逆と看做して攻撃したため戦争になった、ということらしい。

トガンが南方へ派遣される数年前、弘安の役の翌年である1282年に大都でクビライの世継ぎであった皇子チンキムが宮廷内クーデターを起こして実質国政を掌握しているんだが、トガンの南方遠征もそこら辺の「チンキム政権」のゴタゴタが色々絡んでいるような気がする。(クビライの隠居状態にさせられたらしい)

1288年に陳朝と元朝軍の双方散々な消耗戦の末、仁宗が再度元朝側に臣従を貢ぎ物を献じて懇願しているが、クビライ側はこの先方の降伏条件をほぼ飲んでいるようで、仁宗は1293年までそのまま在位している。
当時クビライは1287年に東方三王家を率いるテムゲ・オッチギン家の当主ナヤンの叛乱を鎮圧するため遼寧へ老骨を押して親征するという大事件の直中で、現在の中国東北部から高麗はその戦後処理とカチウン家のカダアンの抵抗がまだ終わっていない時期だった。

元朝の南方政策はクビライの構想の他に多分大都中央の政争なんかも色々影響しているとは思うんだが、今一つ自分としては全体像が掴めない。

301: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 09:20:23 0
フビライの代がモンゴル帝国最大版図だが同時に帝国の分裂が決定的にもなったな
五つのハン国でもやっぱり本家の元朝は群を抜いて国力があり好戦的だな、そのあたり東アジア方面は運が悪いな
西のハン国はみな急速に力が衰えて侵攻も緩やかになったからな

304: 222=251=300 2009/02/20(金) 21:32:51 0
>>301
好戦的というか・・・ 
1266年に統一クリルタイを開催するはずが、肝心のフレグ、アルグ、ベルケの西方王家の3当主が立続けに逝去した影響で流会。『集史』でそこら辺明確に主張されてるけど、南宋作戦はモンケの遺業を受け継ぐ、という名目で是が非でも完遂させる目標だったし、統一クリルタイ流会の挫折をなんとか糊塗するために同年ともかくもう力ずくで言うことを聞かることにした中央アジアのカイドゥへの遠征では、特命を受けたチャガタイ家のバラクが、クビライに協力することになってたチャガタイ家当主のムバーラク・シャーや母妃のオルクナ・ハトンから勝手に当主位を簒奪してカイドゥどころかジョチ家の新当主モンケ・テムルやフレグ家のアバカを巻き込んでカイドゥ以上に中央アジアを混乱させる始末。

さらに1276年にはバラクに代わって嫡子ノムガンらを総大将にした遠征軍は、今度は遠征軍に従軍していたモンケの遺児シリギが首班となってアリクブケの子ヨブクルとメリク・テムル、庶弟トクテムルが軍中で叛乱を起こしノムガンは拘束されて遠征軍は崩壊。シリギらはカイドゥと共同しようとしたけど、先方から拒絶され、行き場を失い迷走したあげく新たに南宋作戦から転戦を命じられたバヤン丞相に鎮圧される。


305: 222=251=300 2009/02/20(金) 21:33:31 0
>>304の続き。

しまいに後継者チンキムには宮廷内クーデターを起こされるし、晩年には頼みの綱でもあった東方三王家のナヤンにも叛乱を起こされるしで、クビライは南宋作戦の完了で経済的領土的にはモンゴル帝国の諸王家では随一の勢力を築き上げたが、モンゴル帝国全体からすると、本来クリルタイによる「帝国の全体の王侯君臣の総意によって選抜されるモンゴル皇帝」という建て前のはずが、モンケ没後にクーデターによって、「力ずくで獲得し勝手に名乗っているモンゴル皇帝位」というアキレス腱を抱え、その危うい支配正統性を巡って常に綱渡りな政策をクビライは晩年まで強いられている。
(グユクでさえ建前上ジョチ家も含むクリルタイの総意で選抜されたことになっている)

幸い、ジョチ家とフレグ家とは「トルイ家とジョチ家の親密なるよしみ」が保たれていたのでカイドゥと足下で「何時反抗するか分からない反クビライ勢力」と対峙するだけで済んだが(それでも危機的)、クビライの即位から晩年までの争乱や政策を見回すと、自分には「クーデター政権としての脆弱さを糊塗する『モンゴル皇帝』」としてのある種の『必死さ』が見隠れしてならない。
(ここら辺はまあ某杉山先生あたりの受け売りだけど)

309: 世界@名無史さん 2009/02/22(日) 11:57:56 0
>>1
スレの趣旨とはズレるが支配はされなかったが攻撃された地域も含めればやっぱりモンゴルの行動範囲は尋常じゃない
逆に攻撃すらされなかった地域ってどこ?

311: 世界@名無史さん 2009/02/22(日) 13:15:57 P
>>309
オーストラリア大陸
南極大陸
マダガスカル島
シチリア
マグリブ


ただイル・カン国の使節がシチリア経由で欧州とか行っているけど

316: 世界@名無史さん 2009/02/23(月) 05:04:40 0
>>309
アラビア半島西南のイエメンのラスール朝(1229-1454)なんかもモンゴルの侵攻とは基本、無縁だった政権。ただ、このラスール朝、第6代君主のアル=アフダル・アル=アッバースal-Afdal al-Abbas の時代(在位1363-1377)に君命によってアラビア文字で書かれたアラビア語-ペルシャ語-テュルク語-ギリシア語-アルメニア語-モンゴル語の6言語対照辞書が編纂されていて、モンゴル時代史的にも歴史言語学的にも非常~~~に重要な資料を残している。
(明代初期から編纂された『華夷訳語』にも匹敵というか甲乙つけ難い重要な資料)

数十年前に発見された時は、ともかく各方面の研究者たちの度胆を抜いた代物だった。

318: 世界@名無史さん 2009/03/08(日) 19:30:28 0
モンゴルの支配から免れた地域て本当幸せだよな

320: 世界@名無史さん 2009/03/21(土) 04:28:55 0
>>318
ドイツ以西のヨーロッパ、そして日本。当時まだ外部からの侵入が無かったアメリカも含めて近代以降の世界の主要国は奇しくもロシアを除けば全部モンゴルの支配を免れてるんだよね。

323: 世界@名無史さん 2009/03/22(日) 00:42:22 0
ロシアの領土ってシベリア除けばほとんど旧モンゴル帝国領土だよな

328: 世界@名無史さん 2009/03/24(火) 18:39:54 0
馬がいないモンゴル軍なんか鎌倉武士団以下ってことだ
大陸限定の軍団

331: 世界@名無史さん 2009/03/25(水) 14:32:31 O
>>328
ある意味ではそういうことだな。>大陸限定
まあモンゴルは城攻めのやり方など征服した土地の戦術や兵器を取り入れてるわけだから、単純に馬がいなかったら云々はナンセンス極まりないがそれでも日本、ベトナム、インドの征服に失敗したのは草原で暮らす遊牧民の限界と言うべきかもしれんな。
日本もベトナムもインドも当時の軍人層が、よく奮戦した結果モンゴルを撃退したがそれ以上にモンゴルがあれ以上版図を拡大するのには無理があったんだ。

332: 世界@名無史さん 2009/03/26(木) 00:38:52 0
インドのデリー・スルタン朝あたりは充分騎馬民族の行動範囲だと思うが

333: 世界@名無史さん 2009/03/26(木) 19:46:53 O
日本は海と台風、ベトナムは密林と暑さが武士やベトナム人達に有利に作用し、マムルークはフラグ死後にバイバルスがまだ引き上げてなかったモンゴルの駐屯軍を袋叩きにしたわけだが、インドだけはマジでわからんな。やっぱ象さんかな?

335: 世界@名無史さん 2009/03/27(金) 00:14:38 0
>>333
アイン・ジャールートの戦いは1260年にモンゴル皇帝モンケの訃報によってフレグがアゼルバイジャン高原に北還したしばらく後に起きた戦闘で、マムルーク朝のスルタン・クトゥズとその旗下の諸軍がシリアに「侵攻」してガリラヤ湖南西のアイン・ジャールートで会戦した。ただ、マムルーク朝側とイルハン朝側では開戦に至る経緯についての記録で内容にかなり違いがある。
(1260年以前、シリア・パレスチナの大部分はまだアイユーブ朝の王族たちが領有していてアイユーブ朝の王族たちは基本的にマムルーク政権のエジプト支配を認めておらず、この戦い以前にはシリア・パレスチナのほとんどはまだエジプトの支配下には無かった)

アイン・ジャールートの戦いではバイバルスが前衛指揮官として奮戦しているが、戦闘後にスルタン・クトゥズと不和になって軍中でクーデターを起こし、反クトゥズの将軍たちとともにクトゥズを謀殺している。その直ぐ後にバイバルスはこれらの将軍たちの推戴を受けて自らスルタンに即位し、カイロに凱旋している。(この時までに、手薄になっていたシリア北部までマムルーク朝軍は接収している)

フレグはこの後ジョチ家のベルケとアゼルバイジャン北部で熾烈な戦闘を続けることになり、もう五年程存命している。バイバルスは幾度かシリア北部のキリキア・アルメニア王国などイルハン朝の南西境域を侵攻しているが、フレグの没後、(バイバルスの晩年になるが)アバカの時代に再び大規模な侵攻を行っている。

338: 世界@名無史さん 2009/03/27(金) 23:27:14 0
ベトナムは歴代中国王朝も支配しにくかったし
元でも難しいだろうね

340: 世界@名無史さん 2009/03/28(土) 02:08:31 0
チベット地域は支配されたのか?
なんか勢力図によってはモンゴル帝国の領域に入ってなかったり入ってたり・・・
半独立状態だったのかな

344: 世界@名無史さん 2009/03/28(土) 09:43:44 0
しかしチベットと元や清の間で見られた「施主と帰依処」の関係って
実質上は属国化じゃないか? 宗派間のもめごとに軍事介入されてたり・・・

あとどこかで交戦もあったような気がするが

346: 世界@名無史さん 2009/03/30(月) 05:20:13 0
チベットて山岳地帯という地の利もあって結構攻めるのに苦労しそうだな
それにチベット族て今と違って嘗ては好戦的な遊牧民族というイメージがある、歴代中国王朝もなかなか手を出せなかったしね
吐蕃のような大帝国築き上げた実績もあるしな

349: 世界@名無史さん 2009/03/31(火) 12:17:47 0
チベット仏教のせいでモンゴルは弱体化した

354: 世界@名無史さん 2009/03/31(火) 22:40:14 0
>>349
いや、順番が逆。
クビライがチンギス・カン家というかクビライ家によるモンゴル皇帝位の支配正統性の強化のため、宗教サイドからの支援として利用したはずのチベット仏教に、皇太后ダギの時代なんかが特にそうらしいけど、成宗テムル没後の皇位継承をめぐる内紛でボロボロになった大元朝の内実を取り繕うため、ダギはじめ大都のモンゴル宮廷が耽溺した、というのが実態らしい。(例の杉山センセの説明だと)

352: 世界@名無史さん 2009/03/31(火) 20:39:14 0
なぜかチベットの西の方から一度モンゴル系の軍隊が侵入してきたという記録があるとか

353: 世界@名無史さん 2009/03/31(火) 22:00:35 0
カギュ派を支持していたイル=ハン国かな?
1285年に、カギュ派の一つディクン派が主流のサキャ派に対して反乱を起こしている

354: 世界@名無史さん 2009/03/31(火) 22:40:14 0
>>353
1280年代でイルハン朝支配下のの軍がチベットに侵攻したという話は少なくとも『集史』では出て来ないのでチベットの西部からとなると、アフガニスタン~カシュミール方面の駐留軍(カラウナス万戸隊のあたり)か中央アジアのチャガタイ家、ないしオゴデイ家の誰かじゃないだろうか。

381: 世界@名無史さん 2010/01/12(火) 22:23:48 0
外興安嶺以北には一度も攻めなかったのだろうか。
明代には毛皮貢納民が往来していたようだけど。

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386: 世界@名無史さん 2010/02/14(日) 02:10:48 0
シベリア方面からロシアに攻め入るという経路は進行ルートになかったんですかね。

毛皮の道の交易ルートを抑えて、強敵もいないし。やはり気象条件ですか。
もしくは早い段階からシベリア勢力がモンゴルに服属していたんですかね。

引用元: ・モンゴル帝国に支配されなかった地域




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