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1: 人間七七四年 2008/03/09(日) 00:03:06 ID:FfuX1AuH
関東、南奥州の盟主にして武田家無き後は源氏之頭領!
若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒!
武田信玄、上杉謙信と対等に渡り合いあった戦国最強武将佐竹義重の武勇伝を語り合おうではかいか!! 








9: 東義久ってどぉ? 2008/03/12(水) 16:34:08 ID:dsPPvJ6V 
>>1の関東の盟主は「北関東の盟主」に訂正した方がいいんじゃない?

10: 人間七七四年 2008/03/12(水) 17:40:34 ID:RkCGS8Si
ついでに言えば南陸奥を入れるのも若干やりすぎだ

11: 東義久ってどぉ? 2008/03/12(水) 18:09:14 ID:dsPPvJ6V 
>>10
陸奥は広いからどこまでが「南」なのかが漠然と過ぎるよね?

12: 人間七七四年 2008/03/12(水) 18:22:06 ID:RkCGS8Si
>>11
たぶん陸中以北は少なくとも南陸奥には入らないと思うなあ
陸前のうち大崎あたりはともかく伊達領は入ると思う…んだけど…?わからんですw

いずれにしても北関東はともかく南奥州の盟主までいくと、佐竹贔屓したい俺から見てもやりすぎと突っ込みをいれさせてもらいたい

14: 奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/03/13(木) 00:06:00 ID:DTjcfbOK
建前上、大掾一門の領土はすべて加算しておくべき。

15: 奥七郡の人 2008/03/13(木) 21:19:13 ID:Sg5EWhgu
建前でも微妙だと思う
江戸氏でも建前上の関係だし
大掾となると更に外に位置する

25: 人間七七四年 2008/04/13(日) 18:19:31 ID:vQBEjTg8
伊達と佐竹は偉大スレ立ててよ。

仲悪すぎだろ。

26: 奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/04/13(日) 23:20:36 ID:TneVOK7w
従兄弟同士でなにやってんだか、って感じ。

27: 人間七七四年 2008/04/20(日) 03:38:06 ID:EntL3eQz
義重と輝宗、義宣と政宗…二代にわたって従兄弟同士だもんネ。

だからこそ、骨肉の争い・泥沼化。
まあ、輝宗当主時はそうでもないが…。

28: 人間七七四年 2008/04/22(火) 07:24:26 ID:oXx/iOYO
義重と政宗って会って話した事あるのかな?

政宗「叔父上、叔母上はお元気ですか?」

義重「あぁ、元気じゃ。いつもソチの事を案じておるわ。」

政宗「叔母上には色々と助けて戴きましたゆえ…」

義重「だったな…」

政宗「宜敷くお伝え下さい…」

義重「伝えておこう。義宣や義広には内緒にな…」

政宗「恐縮です」

30: 人間七七四年 2008/04/23(水) 12:56:13 ID:amUM+Cxg
>>28
実は義重と政宗は八百長やっていて、律儀な義宣だけが奥州の反伊達勢力を結集してまじめに戦争している図が浮かんだw

29: 奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/04/23(水) 01:02:09 ID:5LkUsh+F
料亭政治みたいだなそれ。

32: 人間七七四年 2008/05/23(金) 03:38:30 ID:ocnQwiEq
佐竹で大河ドラマは無理かなぁ…?
義昭・義重・義宣の三代で…じゃなくて義重・義宣の二代で…

茨城県と秋田県が協力して大河誘致運動すれば良いのに…って。
今、茨城県は塚原卜伝の誘致をしてるけど。


58: 人間七七四年 2008/08/28(木) 04:24:15 ID:O/sOkD9k
>>32
義重や義宣が史実では関わらない場所にまで出没してくることになるよ。
一豊やまつみたいにw

33: 人間七七四年 2008/05/24(土) 19:26:11 ID:pHpM4Cl0
佐竹のドラマは見たいけど1年持たせるのはきついよな


38: 人間七七四年@全板トナメ開催中 2008/06/07(土) 12:59:43 ID:hgp+GdMK
独眼竜で佐竹の幟が真っ赤だったのを見てびっくりしたな。てっきり白地だと思っていたがあれどうなん?

39: 人間七七四年@全板トナメ開催中 2008/06/07(土) 20:47:40 ID:lpyFVPg+
>>38
数年前の茨城県立歴史館での「佐竹展」で、赤い旗指物が展示されてました。

秋田からの借り物です。
秋田へ行って見て来て下さい…とは軽々に言えませんが、お近くにお寄りの際は是非とも…orz


54: 39 2008/07/26(土) 01:19:30 ID:fk0SmwpD
展示されてた旗指物は「白地に赤」でした。
赤地に白ではありません。訂正致します。



56: 人間七七四年 2008/08/17(日) 12:04:48 ID:Scj2QxqE
佐竹が関東管領を譲られそうになった有名な話があるけど、あれって本当なの?
出所が確認できないので信用していいのかどうか迷うんだけれど。

佐竹 義昭

佐竹 義昭(さたけ よしあき)は、常陸の戦国大名で、佐竹氏の第17代当主。

天文15年(1546年)、河越夜戦にて関東管領・上杉憲政が北条氏康に大敗した。憲政は、当時常陸に勢力を拡大して勢いに乗る義昭に、関東管領職と(山内)上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めたという(山内上杉氏から佐竹義人(第12代当主)を婿養子に迎えて以降、佐竹氏は上杉氏の男系子孫となっていた)。しかし、義昭は父系が代々世襲した関東管領職にこそ魅力を感じたようだが、系譜上(母系)として清和源氏義光流の末裔としての佐竹氏の誇りからか、上杉氏の家名を継承する気にはなれず、これを拒否したという。


63: 東義久ってどお? 2008/09/17(水) 09:50:39 ID:78Aw6xBg
>>56
ザッと調べてみたが、どうやら『義昭家譜』だけらしいよ。
という事は、2つの理由が考えられます。
1.佐竹側の拡大解釈。
2.義昭が断ったので、上杉側の資料に記載していない。
これは皆さんの想像に任せます。恐々謹言。

64: 56 2008/09/17(水) 10:49:03 ID:9Nqs2vzM
>>63
おお、これは有益な情報ありがとうございます。
仮に事実だとしても佐竹側しか記録に残さないでしょうけれど、それにしても諸条件から鑑みてありえない話のような気がしてなりません。

66: 東義久ってどお? 2008/09/17(水) 14:13:34 ID:78Aw6xBg
>>64
「管領譲渡の話」ですが、実は私もほんの少し気になっていました。
「憲政自ら常陸へ行った」というのは、眉唾物だと思いますが…
本当のところは「使者を送って打診した」ぐらいでしょうね。

67: 人間七七四年 2008/09/19(金) 01:40:38 ID:QtNSSukv
>>66
何も憲政が常陸まで出向かなくとも下野辺りで落ち合って会談した可能性はあるのでは…などと想像してみる。
が、使者を遣わし口上述べさせた…ってのがやはり妥当でしょうね。
管領様からの御使者に対して一門重臣総出で饗応しただろう…だから佐竹に記録が残ったとも考えられる。

68: 人間七七四年 2008/09/19(金) 17:03:20 ID:OFx11GNo
じゃあ、関東管領を受け取れるかどうか、重臣達が総出で検討しただろう。

でも、憲政の領地の上野や武蔵あたりまで維持できるか?となると、当時の佐竹氏の力では、そこまで遠征するのは難しかったんじゃないか?。

後年、栃木南部が北条軍に押されて、佐竹氏は何度も後詰めしているが、やっとという感じ。軍勢は、南に行ったと思ったら、次は福島県の方に北上したりして、南と北で大忙し。

69: 人間七七四年 2008/09/20(土) 04:54:07 ID:D9RWt+LL
憲政は「家名」と「管領職」をセットで譲渡し庇護ないしは援助を求めた…

義昭は今更「家名」を貰った所でマイナスばかりでメリット無し
「上杉」を名乗ったら、一門が許さないだろうし…対北条への思惑もあっただろう
「管領職」だけを受けるのなら、必ずしも北条との敵対を意味しないだろうな

と、思った

70: 人間七七四年 2008/09/27(土) 13:50:13 ID:2rV+hiuN
実際にそういう話があったとしても、常陸だけで精一杯の佐竹じゃ
管領職を譲られても謙信のように北関東を一時的にまとめあげることも叶うまい

72: 東義久ってどお? 2008/10/02(木) 15:41:42 ID:gHAvo8a2
>>67-70
弘治二年(1556)頃まで義昭は、白河結城氏に対する北上政策一本だけで…
太田より南の江戸・大掾・小田や、西の宇都宮(というか放浪中の広綱)と仲が良かったようだよ。
南下を始めて小田と戦うようになったのは…海老島の戦い辺りでしょうかね。

これはあくまでも私見ですが…
その頃、北条や里見が独断で「管領」「副将軍」を名乗っているから、問題ないと思いますよ。
ただ、>>69さんの言う通り「一門が反対した」が「今の所」一番真実に近いように思います。恐々謹言。

73: 人間七七四年 2008/10/02(木) 19:23:00 ID:4Vwy1rOB
名乗るのに問題あるとは言ってないが、名乗っても上杉謙信のように関東管領というネームバリューをフルに近い形で利用するのは難しいんじゃないの?って話

76: 東義久ってどお? 2008/10/13(月) 15:24:45 ID:hEfmoIx9
>>73
そういう意味なんですねぇ。確かにその通りです。
義昭時代の政治・軍事力は、やや低かったのでしょうか?
永禄七年(1564)1~2月や九年2月の小田攻めを見ても、小田領は(常陸国で)自身の守護管掌国であるのにも関わらず、謙信(の政治・軍事力)に頼っていたようですし…、
前者ではその後、北義廉が小田城代になったけど、簡単に氏治に奪回されていますね。
加えて、自らも府中に移住してまで力を入れた、大掾乗っ取り計画(永禄七年6月~九年6月27日)も僅か3年で頓挫してますね。

常陸南部に対して政治・軍事力を高めたのは…
太田三楽斎父子が片野に入城(永禄九年6月28日)してからでしょうね。

77: 人間七七四年 2008/10/13(月) 17:18:06 ID:dTudji6b
>>76
小田城が奪還されたのも大掾の取り込みが頓挫したのも義昭の死後だよ
小田攻めは謙信の関東管領就任後だから共戦するのは自然だと思う
佐竹が常陸守護と言っても、小田氏もまた幕府から所領を安堵されているわけで
佐竹が独断で潰していいという事はない
その点、公方や管領を味方陣営に引き込めばその大義を得る事ができる
謙信にしても管領就任間もなくだから力を誇示して関東衆を掌握する必要があった
双方の利害が一致した結果として行われたものだ
無論、関東衆にとって謙信の持つ兵力が魅力的であったのは間違いない

78: 人間七七四年 2008/10/14(火) 06:02:41 ID:ChlxBYbR
でも実質的に北関東から南奥の諸氏を纏め上げたは佐竹だろう
南関東は北条は纏め上げたと言うより領国化を進めてたが…

ここで一つ皆さんに考えて戴きたいのは「左京大夫」は南奥などの諸大名に乱発されてるのに対して「右京大夫」はほぼ関東では佐竹のみって事

たしか足利幕府の右京大夫って細川管領家…じゃなかった?


79: 人間七七四年 2008/10/14(火) 08:16:49 ID:Irp0eGmE
いいところに気づいたな。
確かに足利幕府では右京大夫は細川管領家しか任じられない官途。
つまり右京大夫=管領ということなんだな。知ってのとおり関東独立志向の関東公方は、京都寄りの関東管領上杉家と仲が悪かった訳だ。
そこで関東公方は「私的な」管領を任じることで、関東の体制を見直そうとした。
佐竹義人は血脈も管領に値する人物だったことから、足利持氏は京都とは関係無しに義人を「右京大夫」にした。佐竹はそれ以来「関東だけの右京大夫」を名乗った。
何故佐竹に上杉憲政が関東管領を譲る気になったのか、何故佐竹が北関東南奥の盟主になれたのか、ちゃんと理由があるのだ。同じように岩松や小山も右京大夫を名乗ったことがある。だが数代後の子孫にまで受け継いだのは佐竹のみだろう。
ついでに里見は関東公方の政所管理関係者だったっぽいので、これまた「関東副将軍」を名乗る下地があったということだな。

佐竹の関東での政治的立場は中央も知っていたらしく、織田信長は佐竹義重に初めて手紙を送ったとき「左京大夫」と下り書きしている。「右京大夫」は慣例からダメなので左京大夫にしたんだろう。
ただ山内殿に遠慮したのか京都に配慮したのかは知らないが、佐竹義重自身が「佐竹右京大夫」と示された例は知らない。子の佐竹義宣は正式に朝廷から右京大夫を任命された。
足利幕府が滅亡してフリーになった「右京大夫」を、故事を知っていた秀吉が義宣に名乗らせた訳だ。こういうところは秀吉の粋なところであり、おっかないところでもある。

ちなみに戦国時代の越後の上杉と佐竹の通常の動員兵力は同じくらいだ。
5000よりは多いが10000まではいかないくらい。6000~8000くらいだな。
永禄四年の大小田原攻めといい、永禄七年の小田攻めといい、佐竹義昭は山内殿をフルにコキ使って自制力の拡大に利用しているな。
こういうことを言うとまた荒れるかもしれないけどな。

80: 人間七七四年 2008/10/14(火) 10:44:24 ID:t1v7XdzA
そういう経緯があったから義重も常陸介を貰っておきながら全く名乗ろうとしなかったわけだ

83: 人間七七四年 2008/10/20(月) 10:32:02 ID:VUtgz3xv
岡本梅江斎って実際どんな立場だったんだろうね
岡本 禅哲

岡本 禅哲(おかもと ぜんてつ、享禄元年(1528年)- 天正11年(1583年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。常陸国の戦国大名佐竹氏の家臣。僧籍にありながら佐竹義篤・佐竹義昭・佐竹義重の三代に仕えた。娘を佐竹氏一族に嫁がせた事もあって、一門衆に準じて扱われた。父・曾端と同様に佐竹氏の外交面で活躍し、あるときは主君に代わって公的文書を発給したとまでいわれている。

84: 人間七七四年 2008/10/20(月) 12:23:37 ID:cAFXcO2Z
>>83
宿老で佐竹家中で最高位の権力。
東、北、南、小貫、和田、梶原と同格で、こいつらとタメ口をきける立場。
仕事としては、上記の連中と違って、常に当主のそばにいて、外交、内政、軍事にわたるかなりの権限をもった。
公方、管領、関東八館などが書状を送るときには岡本が奏者となる事が多く、また佐竹の直轄地および新たに入手した土地の年貢の管理、外様的立場にある地侍等の三分の一上前の上納請求、戦争での戦術、戦略に関する参謀などなど、家中最大の実力者。

85: 人間七七四年 2008/10/22(水) 20:45:15 ID:0bokgfdA
岡本家の存在なくして、佐竹家の存在はない!
岡本家は出羽でも家老職を出した家柄。

86: 人間七七四年 2008/10/23(木) 12:18:47 ID:oY/Vetbu
単に入道した武士なのだろうか?それともどこかの寺の住職で佐竹に協力していたのだろうか?
佐竹関連の書状を見ると梅江斎宛てのものが非常に多いけど
いまひとつ岡本氏の実像が掴めない

87: 人間七七四年 2008/10/24(金) 12:18:22 ID:5j3zVTYY
>>86
岡本氏は藤原秀郷流で鎌倉幕府御家人の家系。
もとは奥州の岩城付近に所領を持っていて、次第に強くなった岩城氏に法体で家臣となった。(法体で家臣となったということは所領をほぼ全て没収されたのかもしれない)
そして佐竹山入の乱に岩城氏が介入した時に、岡本妙誉が直接反佐竹勢力との間に入って交渉し、佐竹義舜に所領を貰い、やがて次第に佐竹家臣化していく。
この頃一時妙誉は在京していたこともあり、ここに京都とのつながりがある。
太田では松山という場所に少林院という禅寺を構えて定住。
妙誉の孫禅哲が水戸に移ったときに住んだのが千波湖の北にある梅香。
もちろん禅哲の号の梅香斎から来ている。
(ひょっとすると梅見での三十三館主暗殺はここで行われたのかも知れず、あるいは偕楽園造立は梅好きな禅哲に最初の起源があるのかもしれない)
ちなみに佐竹にきた岡本妙誉の子のひとりは岩城に住み、ここで佐竹系岡本と岩城系岡本に別れた。

88: 人間七七四年 2008/10/25(土) 09:49:54 ID:A3TRH0O9
>>87
なるほど
家臣てのとは微妙に違うみたいだね
天海とかみたいなものか
禅哲も高僧で顔が広かったのだろう
小山氏みたいな名門大名から室を迎えたぐらいだし

90: 人間七七四年 2008/10/29(水) 23:08:25 ID:2o/Z2UHB
岡本氏の娘が佐竹家にとついでいるよね。
簡単にいうと東、北、南と同格で筆頭的立場で、佐竹本家と他大名家の折衝お取次ぎ役で格式は非常に高い。
まあ、のちの貞隆が岩城氏介入のときにも岡本氏が筆頭で介入している。

108: 人間七七四年 2009/01/09(金) 08:51:49 ID:UZ5nwWis
関ヶ原後に義久が家康から佐竹領安堵を受けたが急死して白紙に戻されたって話の真偽はどうなの?
以前、義久が安堵を勝ち取った話はウソで、義宣に露見しそうになって自害したらしいって話を戦国板で読んだんだが
いろいろ見てみたがどっから出てきた話だかわからん。

109: 人間七七四年 2009/01/09(金) 14:27:27 ID:3UzszSvF
>>108
義久が家康に「自分の存命中は国替えをしない」と約束を取り付けたと言うのは江戸中期に小野寺道維が古老の話しを纏めたものが出典
秋田叢書に収録されている
これによると義久の独断で行ったらしい
書状などが残っているわけではないから真偽は不明
藩史類を見る限り義久はあまり家中での評判はよくなかったようだ
どこの藩でもそうだけど、あまり強大な力を持ちすぎると嫉みも手伝って動向を疑われやすく色々と責任を押し付けられて奸臣のようにされてしまう事が多い
義久も伊達との内通や義重夫人との密通までにおわせるものがある

110: 人間七七四年 2009/01/09(金) 16:20:27 ID:UZ5nwWis
>>109
おぉありがとう。
東義久はけっこう好きだから、評判が下がるのは個人的には(涙)なんだが、好きな梶原政景も一度は北条側へ寝返りしたりと一癖あるから仕方ないな。
それが忠実すぎたらアゴで奴隷のように使われるし、少し危ういくらいが待遇よくなるだろうし乱世の生きる術だし。

116: 人間七七四年 2009/01/16(金) 01:15:33 ID:EkFG22/S
>>110
三楽や梶原さんは、中央政権とも独自に繋がろうとしたりしてるし、
中々したたかだよね。

117: 人間七七四年 2009/01/16(金) 08:19:12 ID:Czt3HAV7
彼らは基本的に自立した領主であり佐竹の家臣ではないからね
佐竹三家にしてもそうだ
義久は佐竹宗家とは別に秀吉に音物を送ったりしている
小田原着陣の際に献上したものを見ると東家は宇都宮や結城などと同じぐらいの量がある
いかに義久が力を持っていたか窺い知れる

そういや三家の通称は
南=三郎
東=源六郎
北=又七郎
でいいんだっけ?

118: 人間七七四年 2009/01/17(土) 09:50:43 ID:7PtnoQDu
>>117
わしもいろいろ悩むところなんだが、佐竹三家は「自立した領主ではない」訳ではないはず。戦国時代は、権限が分掌された、宗家の意を受けて動く存在。
無論ある程度の自由はあったが、それは北条にとっての氏照や氏邦の所領と同程度のもの。
「北条氏照は北条家臣ではない」とは普通言わないのと同じで、「佐竹義久は佐竹家臣ではない」と言うことはないだろう。

豊臣政権時代は、豊臣から六万石を貰い一見独立した領主に見えるが、これは「奏者領」とでも呼ぶべきもので、巨大な所領を持つ大名の多くが、豊臣政権との交渉窓口として家臣に分割給与されたもの。豊臣から見て外様の旧族大名、例えば毛利(安国寺)や、島津(伊集院)、宇都宮(芳賀)なども同程度の所領を貰っている。

ついでに佐竹「家臣」の範囲だが、実際問題は「家臣」の定義次第だが、佐竹の場合は洞中(≒分国)に属する領主は佐竹「家臣」として見なしても問題ないと思う。
じゃあ例えば小田、大掾、太田、江戸、小野崎、真壁、船尾、大山、小場の何処までが「家臣」で、何処までが「家臣」じゃないの?と問われると、ぶっちゃけ厳しいものがあるからな。「全部家臣じゃねーよ」というなら、他の大名だって「家臣」じゃなくなるのが当然出てくるわけで。
佐竹は彼らの軍勢指揮権は持っており、彼らの家臣に対して官途付与等の人的関係を持つことまではあったが、独自の外交は許していたし、その本領内部に立ち入ることもなかった(が、ある程度の監督、所領宛行はしていた)。歴史的経緯を見れば、これらは豊臣政権によって最終的には佐竹に帰属すると見なされたわけで、広義の佐竹家臣と見なして問題はないだろう。

121: 人間七七四年 2009/01/18(日) 17:23:53 ID:F7+Tdxfo
>>118
しかし彼らは
・軍事指揮権
・外交の権限
・婚姻の権限
・農民に対する兵役や年貢などの賦課権
・宗家旗本以外に対する知行の権限
・官途、受領や一字の付与権
・商人、職人に対する諸役賦課・免除権
・過書の発給権
・制札・禁制の発給権
など、大名が持ち得る権限を全て持っていたと言っていい
彼らはあくまで佐竹宗家とは別家であり起請文でもって盟約を結んでいた点、江戸や真壁らと同じであったと言える
まだ佐竹宗家から分離して年月が浅い点、他よりは宗家に近い関係ではあったが義久の代は上記のような権限を持つに至っていた
例えば真壁氏についてだが、その家譜に於いても天正18年に佐竹の配下となったと記している
つまり彼ら自身も佐竹の配下であったつもりはなかったのだろう
秀吉の名により佐竹の家臣に位置付けられた事によってお互い主従の契約を結ぶに至ったと見るべきではなかろうか

123: 人間七七四年 2009/01/21(水) 18:09:11 ID:UBb7tS/b
>>121
だからその辺は「家臣」の定義次第なわけだよ。
「家臣」という言葉を乱用してしまうために、こういう齟齬が出てきてしまう。
(ただオイラは学問的な場でない限り、別にある程度の乱用はかまわないと思うけど)

戦国期の佐竹の家格制(あくまで格式)の中では、

・御一家 = 東北南、江戸、大塚、山能、大山、石塚、小場等々
(擬制的な血縁関係を元にした佐竹の「一門」。特に東北南と宗家から養子が入った家は「御親類中」と呼ばれ、その他の一家より格が少し上だった)

・御諸家 = 千葉、小山、宇都宮、那須、小田、大掾、伊達、蘆名、岩城、小田原等々
(本来は佐竹と同格の家々。ただし大掾は1564頃以降、小田は1583頃以降、佐竹の洞に含まれるようになる。つまり洞は格式でなく実力を元に構成された、佐竹氏の諸勢力編成原理ということになる)

・諸家からお分かり候御傍 = 塩谷、武茂、松野、宍戸、太田、梶原等々

・近進 = 和田、小貫、伊藤新蔵人、井上信濃守等々
(その他恐らく別名「氏子(うちこ)」、あるいは「抱え」を宛がわれた人々もこの中に入る。和田、小貫などの宿老は御一家と同格とされる。)

などに分かれており、近世的?に「家臣」などとは言わないわけだ。
>>121の定義だと、佐竹では、「家臣」=近進だけ、ということになってしまう。 
さらにこの定義で見るならば>>118でも言ったとおり北条氏照も「北条家臣」ではない。 松山城の上田はどうなの?あるいは織田の柴田や明智、羽柴はどうなの? ってことにもなりかねない。それほど「家臣」を厳密適用する必要はあるのかな? むしろ厳密にするなら「家臣」ではなく、「近進」を使うべきじゃないか。

それに>>121の権限はあくまで宗家大名を後ろ盾として行使できるものであって、佐竹東らが「自立」的に運用できるものではないはずだよ。
どれだけ自立的かどうかで「家臣」か否かを計るのは微妙じゃないかな。あるいは中世的な諸勢力混在の在り方を、近世的、あるいは現代企業の社員的な意味合いで「家臣」の定義付けを行うのがそもそも間違っているか。
あと一応文書での裏づけだと、上杉謙信は、北義廉、東義久、梶原政景、岡本禅哲、小貫頼久を「義重家中衆」と認識しているみたいだよ(上杉家文書。私未見)。
もっとも家中と「家臣」をどこまで同じと見るかは謎。

111: 人間七七四年 2009/01/14(水) 17:11:44 ID:U4x70mWL
東義久って、北酒出か南酒出へ養子に出されてた
東家は義久の兄が継ぐが若死に
東家の養子に義重の次男喝食丸内定
「喝食丸」は東家嫡男の幼名とか…
その義重次男が白川結城家に入嗣
東家に義久復帰
義重に重用され、事実上の三家筆頭へ

って事でOK?

112: 人間七七四年 2009/01/14(水) 19:53:11 ID:Uoeqbp17
>>111
義久は養子ではなく、恐らく義久の為に再び酒出家が創出された。
というのは北酒出家は承久の乱の時に美濃に所領を得て移り、たぶん所領を横領されて幕府奉公衆になったあと、義篤の時に常陸へ戻ってきて、佐竹基親が馬場家を創出し馬場篤親を名乗った。 南酒出家も同じく美濃へ移ったと思われ、北酒出と争って吸収されたか滅亡した。つまり養子というか養父がいなかったので、創出だな。

そんで佐竹東家の幼名が喝食というのは正しい、また東家を白川義広が継ぐかもしれなかったというのも恐らく正しい。だが白川義広は結局東家を継いでないので、義久はずっと東家のまま。義久は義広が成人する前から活躍しており、元亀年間からすでに佐竹一家筆頭。

酒出家は義久の兄の義忠が継ぎ、さらに後に馬場家の子孫で大山家の女婿で大山を名乗っていた何某が継いだ。血脈としては本来の酒出に戻ったことになる。

119: 人間七七四年 2009/01/17(土) 13:33:32 ID:a94peSOZ
秀吉から直江みたいに陪臣扱いされてたんだっけ義久?
毛利家臣から秀吉直臣になったのは小早川隆景くらいか。

122: 人間七七四年 2009/01/20(火) 02:02:21 ID:YMJ2b2W8
まあ、秀吉の登場はひとつの契機にはなったろうね。それが最終的に秋田転封後の、佐竹義宣とその側近層が主要な位置を占める体制になっていくわけだけれど

130: 人間七七四年 2009/01/24(土) 09:39:50 ID:TinKFnJU
佐竹と高倉家(藤原北家)の関係について詳しい方はいませんか?
大概の佐竹関連書籍では存在すらスルーされているけど義重の娘は高倉権大納言永慶の正室となっていますよね
戦国時代に高倉家を介しての朝廷や中央政権との動きがあったのだろうか

132: 人間七七四年 2009/01/25(日) 12:02:25 ID:NingtQUk
>>130
その義重の娘は江戸重通の長男に嫁ぎ、江戸氏滅亡時に救出された後に公卿高倉家に再嫁したんじゃなかったか…
高倉家に嫁いだ時期は、(推測ですが)豊臣政権が全国統一してからだと思う。

134: 人間七七四年 2009/02/19(木) 23:16:10 ID:wnvTtZjb
この前、近衛龍春著の「佐竹義重」とゆうのを読みました。
とても面白かったです。
これ原作で大河ドラマは、どれぐらい現実味があるでしょうか?

135: 人間七七四年 2009/02/20(金) 00:32:58 ID:a+/38exg
近衛の史料調査能力は一流だけれど、それを消化して小説として完成させる能力は皆無だから、永遠に大河作家にはなれないだろう。

136: 人間七七四年 2009/02/20(金) 11:38:17 ID:7UYxD/Ev
近衛著の「佐竹義重」と「佐竹義宣」を更に加筆訂正して、NHK出版から出せば…或いは?

序章として義昭を取り上げ、転封後の家中騒動や大坂の陣を丁寧に描けば良いと思う…

139: 人間七七四年 2009/02/26(木) 12:04:03 ID:WuHMPLTN
茨城では「桜田門外の変」映画化支援の会が発足して幕末フェアが開かれている
やはり茨城では幕末史があまりに強烈だから佐竹が省みられる事がない…
秋田の方で支援してもらわねば映像化はまず無理

140: 人間七七四年 2009/03/06(金) 13:17:10 ID:wdDcDnb+
佐竹は知名度無さ過ぎてムリだろ。
常陸の佐竹ゆかりの観光地自体がほとんどないから観光の誘致は難しいし。
佐竹寺くらいなのがもうちょっとあればなぁ。
秋田は関ヶ原後だからなー。
常陸太田市と宇都宮市で共同誘致とか県を越えた同盟誘致しかないだろ。
でもまぁ県を越えた誘致なら、より結び付きの強い群馬栃木両毛地区の由良足利兄弟に遅れを取るかも知れん。

142: 人間七七四年 2009/03/07(土) 09:27:47 ID:7asJ7pXb
>>140
義宣を主役にすればよいかと
義宣時代は歴代で最大の繁栄を誇ったし久保田藩初代藩主でもある
そうすれば茨城と秋田が繋がるし

143: 人間七七四年 2009/03/08(日) 05:23:36 ID:Qbk18K1u
>>142
1 北条に圧迫され、北から伊達も圧力をかけてきて滅亡寸前
2 小田原の役で復活、常陸全土を領国化 全盛期
3 関ヶ原
4 減封され秋田へ

メリハリがあって良いのか?
・・・いやなんかストーリーのバランス良くないよな?

144: 人間七七四年 2009/03/08(日) 10:45:03 ID:P03DhLlh
伊達と和平しろと惣無事令における天下人秀吉の恫喝で苦悩し葦名救援を躊躇する義宣
葦名家臣団からは佐竹が葦名支援から手を引き続けるなら伊達を頼るしかないと脅迫される。
しかし小田原参陣で常陸一国を安堵され選択が間違ってなかったことに家中の声望がたかまり、父の鬼義重も越えられたかと噂される。
会津征伐では隣国徳川を牽制し天下への野心を見せる。
しかし上杉と打ち合わせした白河口決戦シナリオと違い、徳川は上杉侵攻せず引き返す。
三成では家康には勝てない!ここに至って家臣分裂し義宣は無念に思う。
そして秋田での再出発では新たに経済通の家臣を使って新たな佐竹を作る!

145: 人間七七四年 2009/03/14(土) 12:42:29 ID:wXc1E6jv
よし
そのストーリーで原作を書いて
NHKに提出するんだ!


引用元: ・\●/常州旗頭【鬼】佐竹義重 其之弐




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