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1: 世界@名無史さん 04/05/15 15:09
長い間ソ連支配下で経済が遅れてしまったが、それでもヨーロッパ随一の文化大国である偉大なチェコ共和国。
EU加盟で対内投資が激増し、いまや経済的にもチェコの時代といえる。
この国について何でも語れ。








2: 世界@名無史さん 04/05/15 15:12
昔のチェコはSFが面白かった。これは社会主義時代も。

3: 世界@名無史さん 04/05/15 15:15
フス戦争は中世ヨーロッパ最初の民族戦争。
チェコ人の民族覚醒が最も早かった。
ソ連圏時代の後遺症を引きずっていても、ヨーロッパで最も先進的な民族であることにはかわりない。
関連記事フス戦争を語ろう


5: 世界@名無史さん 04/05/15 15:28
スメタナとドボルザークだな。
バドワイザー・ブドバルとシュコダ財閥。
チェコといったら「文化」と「先進工業」だよ。

9: 山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM 04/05/16 01:14
真っ先に頭に浮かんだのが沼正三も推薦の『山椒魚戦争』。「日本のテンノウ」も話に出て来る。

10: 世界@名無史さん 04/05/16 01:19
チェコ軍団がシベリアで反乱

チェコ軍団とは、第一次世界大戦中にロシア帝国がオーストリア・ハンガリー帝国軍のチェコ人及びスロバキア人捕虜から編成した軍団級部隊。正式名称は、第1チェコスロバキア軍団。ロシア革命後、ボリシェヴィキに対して蜂起し、日本を含む列国はチェコ軍団の救出を口実としてロシア内戦に干渉した。


12: 世界@名無史さん 04/05/16 01:21
第二次大戦前はチェコの戦車が世界で最も進んでいた。
チェコを併合しなければ、ヒトラーはソ連侵攻はおろか、ポーランド解体もできなかったろう。

13: 世界@名無史さん 04/05/16 01:32
ボヘミアンカットグラスを忘れてませんか?

800px-BLW_Bohemian_Jug (1)


ボヘミアガラスは、ガラスを加工するチェコの伝統産業のひとつ。ボヘミア(チェコ西部)産の木灰からとれたカリ(炭酸カリウム)を原料とする無色透明のカリガラス、17世紀に考案された彫り込み(エングレーヴィング、グラヴィール彫刻)がボヘミアガラスの特徴である。

銅製の回転盤による浮き彫り、研磨、カットに適したカリガラスによって、独特の特徴が確立されている。



27: 世界@名無史さん 04/05/16 10:31
1620年にプラハ近くのヴァイセンベルクの戦いの後で、勝者フェルディナンド2世はプラハの旧市街で27名の処刑を行い、カトリックを勝利に導いた。ハプスブルクに対する抵抗は宗教的な性格を持ち、その地域の政治の問題であった。したがって勝利を祝うためにボヘミアのカトリックが戦場に聖母マリア教会を建立した。しかし19世紀になるとチェコ民族主義の覚醒によって、この事件のイメージは大きく変わり始めた。

この戦いの敗北は民俗の破局とされ、処刑された27名はボヘミアの領主層とされた。実際はそのうち3名だけが領主層に属し、大部分のものはドイツ語を話していた。一方で復活祭前夜の金曜日と受難の日が、他方で運命的な戦闘とチェコ民族の苦難の道が意図的に重ねられて理解されたのである。この事件の神話化を完成させたのはスメタナの民族的なオペラ・リブシェであった。そこでは民族がかつてのキリストのように地獄の恐怖に打ち勝ち、栄光の中に立っている。

28: 世界@名無史さん 04/05/17 01:42
スメタナってドイツ語はできてもチェコ語はほとんどだめだったらしい。

Bedrich_Smetana


ベドルジハ・スメタナ
(1824年3月2日 - 1884年5月12日)は、チェコの作曲家・指揮者・ピアニスト。スメタナは、当時、オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア帝国)によって支配されていたチェコの独立国家への願望、チェコ民族主義と密接に関係する国民楽派を発展させた先駆者である。そのため祖国チェコにおいては、広くチェコ音楽の祖とみなされている。


31: 世界@名無史さん 04/05/18 01:38
>>28
民族覚醒期のチェコ人はそういう人がおおいよ。

34: 世界@名無史さん 04/05/19 00:02
ボヘミアの由来って何?

35: 世界@名無史さん 04/05/19 01:24
>>34
ボイイー族というケルト系の民族が住んでいたから。
「ボイイー族のいる場所」という意味。
その後ボイイー族は西に移動しゲルマン系のスエビ族が侵入、4世紀にスエビがフンに追い立てられていなくなった後、5世紀に西スラブ系の諸部族が移住して、これが9世紀に統一してモラビア王国を立てる。現在のチェコ人の先祖。

40: 世界@名無史さん 04/05/20 20:22
>>35
回答どうもです。
話がずれて申し訳ないのですが、BohemiaとBohemianは何か関係があるのでしょうか

41: 世界@名無史さん 04/05/20 20:36
>>40
フランスではロマ(ジプシー)がボヘミアから来たと考えられていたらしく、Bohémienと呼んだ。転じて、放浪者や自由気ままな生活をする人(特に作家や芸術家)のことを指すようになった。その英語形がBohemian。

43: カラジチ ◆mWYugocC.c 04/05/20 22:44
>>41
「ジプシー」も確かエジプトから来てるんだよね?

44: 世界@名無史さん 04/05/21 00:18
>>43
イギリスではロマはエジプトから来たと勘違いされていたことがあって、「イジプシャン(エジプト人)」が訛って「ジプシー」という言葉ができた。
本当はロマはインド起源の民族なのだが。

45: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/05/22 00:24
>>44
ヨーロッパに現われた当時にエジプト出身と彼ら自身が自称していたらしいです。

38: 世界@名無史さん 04/05/20 11:32
チェコ機関銃生産していたのに、どうしてヒトラーにあっさり降伏したの?

39: 世界@名無史さん 04/05/20 12:05
>>38
チェコでは国民の間に戦争を厭う気分が広がっていたから。
当時のフランスやイギリスと同じ。
また、防共という点で、ドイツとは同じ政治的方向性を持っていたから。

47: 世界@名無史さん 04/05/22 01:10
>>39
プラハの春でも大して死傷者が出なかったらしいしなんだかな。

49: 世界@名無史さん 04/05/22 19:36
君主は神聖ローマ帝国の選帝侯。
ハプスブルク家当主もオーストリア大公の資格ではなくボヘミア王の資格で選帝侯だった。

50: 世界@名無史さん 04/05/23 00:27
先にボヘミア王国があって、それが神聖ローマ皇帝に臣従する形になったわけですね。

51: 世界@名無史さん 04/05/23 02:41
ボヘミアとモラビアというの違いが分からん。

52: 世界@名無史さん 04/05/23 13:35
大雑把に言うと、現在のチェコの西部がボヘミア、東部がモラヴィア。
モラヴィアの領主はモラヴィア辺境伯で、これはボヘミア王に臣従していた。
だからチェコをボヘミアで一括しても一応間違いにはならないはず。

67: 世界@名無史さん 04/05/30 19:07
>>52
>モラヴィアの領主はモラヴィア辺境伯で、これはボヘミア王に臣従していた

この辺境伯は、ボヘミア王によって設定されたんでしょうか。
それとも、皇帝によって設定されて、その後、ボヘミア王に服属する羽目に陥ったんでしょうか。
辺境伯なんて、帝国諸侯にだけあるような先入観があるもんで、要するに、ラントの中にあるというイメージがないもんで。
モラビアは、ボヘミアの一部がモラビア辺境伯領になったのか、ボヘミアの外のモラビアが、ボヘミア王の宗主権を認める羽目になったのかと。

(端的にいうと、帝国議会へ出席できたのかと気にしますが)

69: カラジチ ◆mWYugocC.c 04/05/30 19:40
>>67
少なくとも帝国議会には参加していないと思いますが>モラヴィア辺境伯
そういやシュレジエンの諸侯もボヘミア王の宗主権下に入りましたな。

91: 世界@名無史さん 04/06/16 21:56
>シュレジエンの諸侯もボヘミア王の宗主権下にはいった。

それって、いつでしょうか。
また、シュレジェンは、神聖ローマ帝国の版図ですか。
*地図見ればわかること聞いてすみません。
ていうか、神聖ローマの範囲がよくわかんなくて、
狭くなる一方みたいな感じがあって、
また、広くなることがないみたいで
=皇帝の領土(家領)に入っても、
図に加わるわけでもなく
=ハンガリー、両シチリア、ベネチア
皇帝の家臣の領地になっても、やはり別みたいで。

神聖ローマ帝国の諸侯であったなら、それがボヘミア王に従うとしたら
直臣から陪臣になるんだし。

96: カラジチ ◆mWYugocC.c 04/06/16 23:00
>>91
シュレジエンの諸侯がボヘミアの宗主権下に入ったのは、1327-29年頃、とのことです(山川の『ポーランド・ウクライナ・バルト史』によれば)。
それ以前はポーランド王国の版図なので、神聖ローマ帝国外。
それ以後は神聖ローマ帝国内のボヘミア王国の中、ということになります。つまり陪臣ですね。

104: 世界@名無史さん 04/06/19 20:15
>>96

それは、ルクセンブルク家のボヘミア王のとき?

皇帝→ボヘミア王→モラビア辺境伯 ということで、帝国の版図になるわけですな。

ただ、 ハプスブルク皇帝時代、ハンガリー王を皇帝が兼ねても、ハンガリーは帝国に入っていない。(理由1:皇帝としての立場と、ハンガリー王としての立場は、対等だから???)

バルバロッサ皇帝は、シチリア王を兼ねても、シチリア王国は帝国の版図ではない。
(理由1:シチリア王国の宗主権は、ローマ教皇にある?
理由2:皇帝の位 と シチリア王位は、対等並列の関係にある??)
プロシア王国(公国)は神聖ローマ帝国の版図ではない。
(ブランデンブルク辺境伯としての立場では家臣であっても、プロシア王としての地位では、皇帝と序列の差はあっても臣下ではない)

ということでしょうか。   

108: カラジチ ◆mWYugocC.c 04/06/20 00:15
>>104
カレルの父親のヨーハン盲目王の時なので、ルクセンブルク家ですね。

シチリア王位は教皇が戴冠したものですので、ハンガリー王位と同様に教皇の宗主権下にあるということになるのでは。

53: カラジチ ◆mWYugocC.c 04/05/24 00:54
チェコの真ん中に山地があって、西のボヘミア盆地はモルダウの流域。
モルダウは北に流れ、エルベ川と合流してザクセンへ。
東のモラヴィアはドナウ川の流域、川は南へ。

モラヴィアからスロヴァキアにかけてって、スラヴ人最古の国があったんですよね。

56: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/05/24 21:48
>>53
大モラビア王国といわれる王国ですね。

54: 世界@名無史さん 04/05/24 20:14
タトラってスロバキアの山の名前だよね。
チェコにタトラ社ってまだあるの?

55: 世界@名無史さん 04/05/24 20:43
>>54
トラック専業になりますた(涙)。

V8DOHCを車軸後方にマウントしたRRの4ドア・サルーンなどというとんでもない車を80年代に作ってたのはタトラだけ。

56: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/05/24 21:48
>>55
四つ目のお化けみたいな車のことですか。
走っているのを見て何かいなと思いました。

今はトラック専業ですか・・・。

57: 世界@名無史さん 04/05/25 14:59
> 四つ目のお化けみたいな車のことですか

三つ目ね。それはT603。>>55で述べたのはT613。両方とも空冷のV8をリアに積むというポルシェも真っ青な車。タトラの技術者ハンス・レドヴィンカはフェルディナント・ポルシェと交流があったそうで、フォルクスワーゲンの設計にもタトラの影響があったという説があるけど。

60: 世界@名無史さん 04/05/26 00:49
ブレジネフやヒトラーみたいなカーマニアの指導者が居たら面白かったかも(不謹慎な)

タトラ社の路面電車のタトラカーは「単一の種類でおそらく世界一多く作られた電車」ですよね。
東側に輸出しまくった。まだプラハ市内を元気に走ってる。

62: 世界@名無史さん 04/05/27 17:16
ここいらでイスクラの話題を、ググってもなかなか無いので頼み申す。
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ヤン・イスクラ(1400年 – 1469年)は、ハンガリー王国の武将。傭兵部隊『黒軍』の指揮官で北部ハンガリー(現在のスロヴァキア、当時はハンガリー領だった)一帯の実質的支配者だった。

ボヘミア出身。フス派の急進派に加わりフス戦争に従軍。急進派が穏健派によって滅ぼされた1434年のリパニの戦いでは、生き残り部隊を率いて北部ハンガリーまで逃げ延び部隊の名を黒衛軍と変えて傭兵部隊にした。当時のハンガリー王国は、ハプスブルク家から国王を選ぼうとする一派とオスマン・トルコ戦の英雄であるトランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュ派が1437年から対立していたがイスクラはハプスブルク派だった。


72: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/06/07 22:45
>>62
ヤン・イスクラですか。
この人に関する資料はほとんど見当たりませんね。
元々はボヘミアの下級貴族で傭兵家業をやっていて、ハンガリー王のハプスブルグ家のアルベルト王が死んで、妃のエルジェベートが父の死後ラディスラウスを出産し、この赤子に王位を継承させるため、対立王であるポーランドのヤゲヴォ家のウラースロー1世と彼を推すフニャディ・ヤーノシュに対抗するために雇われた時から歴史の表舞台に登場しました。北部ハンガリー(今のスロバキア)の王妃の所領を与えられ、元フス派の強硬派の残党を率いてスロバキア各地を制圧、フニャディ・ヤーノシュとも4度に渡って戦い、一度も負けず、逆にルチネツの戦いではフニャディ軍を大敗させています。

後に和約がなって後、一時スロバキアを離れますが、再度呼び戻されて、スロバキアを支配しました。ラディスラウス王の死後、フニャディの息子でハンガリー王となったマーチャーシュ(マチアス・コルヴィヌス)に攻められ敗北、降伏勧告を入れてマーチャーシュの臣下となりハンガリー南部に所領を与えらて、対トルコ戦に従事、ブラド・ツェペシュを逮捕したり、オスマン帝国への使者となったりしています。この時期にハンガリー副王の娘と結婚しハンガリーの貴族となっています。
成年、没年不明の謎の多い人物でスロバキア登場以前の情報はほとんど皆無のようです。

あまり役に立つような情報がなくて申し訳ないですが・・・。

73: 世界@名無史さん 04/06/08 10:04
>>72
有難うございます。
なにせヤン・ジシュカの活躍する書籍もヤン・イスクラに関する本(和書)もほとんど無いので感謝官舎ですゥ


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ヤン・ジシュカ


ヤン・ジシュカ(1374年 - 1424年10月11日)は、ボヘミアで1419年から起ったフス戦争の英雄。1420年、迫害を逃れてきたフス派の民衆をボヘミア南部の山中に集めて城塞都市ターボルを建設し、フス派の中でも急進派といわれたターボル派を結成した。

ジシュカが作り出したターボル派の軍は、信仰に基づく厳格な軍紀とマスケット銃や戦車などの新兵器によって無類の強さを発揮し、ジギスムントの神聖ローマ帝国軍やフス派撲滅のための十字軍も、ジシュカの前に何度も大敗を喫した。


74: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/06/08 22:44
>>72
ヤン・ジシュカというかフス派に関しては「フシーテン運動の研究」という非常に古い本の他には薩摩先生の「プラハの異端者たち」という書物がある程度です。ただ、インターネット上にフス派を扱った邦文のサイトがあるのでそこをご覧になるとよろしいかと思います。

ヤン・イスクラに関しては恒文社のハンガリー史やら既に絶版になったベオグラードの戦いを扱ったアマチュアの方がハンガリーの本を訳されたもの、あるいはブラド・ツェペシュを扱った本に僅かに登場するぐらいです。

どうもイスクラを扱った本というのは英文でもないようで、その事績の細部まで知るのは相当に困難なようで・・・。

75: 世界@名無史さん 04/06/09 11:36
>>74
そうなんですよ、イスクラについては清水正晴氏のツェペシュに関する本で見つけたんですが、名前ぐらいしか出てないのでありました。

「プラハの異端者たち」も買ったのですが、ジシュカの戦術についての表記は殆んど無し。

ちなみに私はゲームから中欧、東欧の英雄に興味をもった者ですが、それまではチェコというと優秀な小火器を造っていた国としか思い浮かびませんでした。(^ー^)

78: 世界@名無史さん 04/06/10 20:11
>>75
ヤン・ジシュカの戦術は荷車を盾にして騎兵突撃を防ぎ、その後ろから銃や大砲を撃ちまくり、火力の集中を徹底して、敵を撃破するというもの。
長篠の馬防柵戦術と似ているが、こっちの方が一世紀以上早い上に、荷車を盾にしているので野戦築城の必要がない&機動力に優れているという点で勝っている。

80: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/06/10 23:03
>>75
荷車を陣地にするという戦術は東欧ロシア方面にそれ以前からあったもので、長い傭兵暮らしの中でジシュカは学習したと思われます。

ボヘミアは馬産地ではない上に、フス派の中でも正規兵が主体ではないターボルの軍団としては、勝つために必須の条件であったことに間違いありません。

兵士の武装としては脱穀用の殻竿にスパイクを取り付けたものや棍棒の類が主だったようで、プラハの博物館やターボルの博物館で見ることができます。

荷車に乗っている兵士の武器は銃ももちろんですが主体は弩ではないでしょうか。
銃はタンネンベルグガン→銃床のついたタッチホールガンで、私は実物を見たことがないですが、サーペント(機関部)のある火縄銃の元祖も登場していたという記述を見たことがあります。

81: 世界@名無史さん 04/06/10 23:37
車陣は中国起源の対騎兵戦術だったはず。
モンゴル経由で東欧に伝わったのでは?

82: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/06/11 01:20
>>81
ハンガリーのベーラ4世がシャイヨー河畔でモンゴル軍を迎え撃ったムヒの戦いでハンガリー軍は車陣を作って夜営をしているところを夜襲されたという話が「モンゴル帝国の戦い」ロバート・マーシャル著に出てきます。モンゴル以前から知られていた戦術のようです。

83: 世界@名無史さん 04/06/12 00:10
スロヴァキア出身のドプチェクが不慮の死を遂げなかったらまだチェコスロバキアのままだったのかなー
国家分裂は双方にマイナスだとおもうのだが
アレクサンデル・ドゥプチェク(1921年11月27日 - 1992年11月7日)は、チェコスロバキアの政治家。チェコスロバキア共産党第一書記(第2代)を歴任し、改革運動プラハの春を率いた。またビロード革命時の民主化の象徴の一人となった。


84: 世界@名無史さん 04/06/12 00:20
営林局で車の運転してたドプチェクが事故死したってのも
ハマーショルドっぽい「時を得た」死に方だな

85: 世界@名無史さん 04/06/12 00:25
言葉も殆ど違わないみたいだね。
元オーストリア領かハンガリー領かだけで分裂

88: 世界@名無史さん 04/06/12 01:00
>>85
スロヴァキアのハンガリー支配は11世紀末から第一次大戦後のオーストリア=ハンガリー二重帝国の解体まで、800年余りにも及ぶ。
これほど長期にわたって分裂されていれば、むしろ異なる民族と自覚されて当然。

90: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/06/14 23:17
>>85
チェコ在住の友人に聞くと、けっこう通じない部分もあるそうです。
私は語学はからっきし駄目なんで、具体的にどうこうというのはわかりかねますが・・・。

86: 世界@名無史さん 04/06/12 00:28
即死じゃなくて事故の予後がわるかったんだっけ?
プラパの春後、解任され紆余屈折後閑職で飼い殺し状態になってようやく政界に復帰するも、わずか3年で事故死したものなぁ。
この人は世界史に足跡を記したけども2瞬だけ輝いた人生といえるかも。 

93: 世界@名無史さん 04/06/16 22:05
「プラハの窓落し」って三回あったんだね

94: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/06/16 22:13
>>93
一回目がフス戦争の時で新市街市役所ですね。
落とされた連中は下で待ち受けていたフス派に虐殺されてます。
2回目が30年戦争のプラハ城での有名な話ですね。
3回目というのは2次大戦後のマサリク外相の事件のことですか?

第三次プラハ窓外投擲事件

1948年3月10日、チェコスロバキアの外相であったヤン・マサリク(初代大統領トマーシュ・マサリクの息子)が、外務省の中庭、浴室の窓の下でパジャマ姿の転落死体となって発見された。自殺と発表されたが、死因には不可解・不明瞭な面があり、共産主義者によって殺害されたという説もある。他殺説を認める人々の間ではこの事件を「第三次プラハ窓外投擲事件」と呼ぶ場合がある。


97: 世界@名無史さん 04/06/16 23:06
>3回目というのは2次大戦後のマサリク外相の事件のことですか

そういう風に、認識されているんでしょうか。
だとすると、これはチェコ民衆の意思に見せかけた、まさに共産主義者の仕業、成功したわけですね。

99: 世界@名無史さん 04/06/16 23:10
>>97
単に「窓落としの3回目」という認識だったのでは? 民衆の意思がどうとかじゃなくて。

100: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/06/16 23:53
>>97
いや、他に思い浮かばなかったので・・・。
どこかで、伝統的な復讐の方法だとか書いてあったのを読んだ記憶がありますが、他にも知られている例ってあるのでしょうか。

マサリク外相の事件は自殺なのか他殺なのか今に至るも真相は闇の中と聞いたことがあります。 
126: 世界@名無史さん 04/06/28 20:49
そういえば、「オーストリア帝国」ができてから、「ボヘミア王国」は消滅したんですよね?
ボヘミア王冠は、その後どうなったんですか?
ウィーンのハプスブルク家の財宝室にでも眠ってたんでしょうか?
それとも、ずっとプラハのかつての王城に保管されてたんでしょうか?
現在はチェコの歴史博物館にでもあるのかと思いますけど・・・

127: カウニッツ 04/06/28 20:58
>>126
オーストリア皇帝フェルディナント1世陛下はフランツ・ヨーゼフ帝に皇帝位は譲位されていますが、ベーメン王位は保持したままであったと聞いています。
と言う事は、オーストリア帝国と言う不可分の単一帝国内に地域名としてのベーメン王国があったと言う事になりましょうか。

130: カラジチ ◆mWYugocC.c 04/06/28 21:32
ってあれか、>>126氏が聞いてるのは、概念としてのボヘミア王冠ではなくて、物質としての王冠の行方か……

133: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/06/29 22:59
>>126
確か、ウイーンにあったのではなかったかと思います。
展示品の解説をどこにしまったのかわからないのでうろ覚えですが・・・。
他にもトランシルバニア公ボチカイ・イシュトヴァーンの王冠とかバートリー・イシュトヴァーン(ポーランド王としてはシュテファン・バートリ)の甲冑とかを見た記憶はあるのですが・・・。

134: 126 04/07/01 20:31

おっしゃる通り、私の質問は、物質としてのボヘミア王冠の行方でした。
私は最初、オーストリア帝国の誕生によって、「ボヘミア王国」は消滅したと思っていましたので、その後の王冠の行方をたずねたのです。
しかし、どうやらオーストリア帝国内に「ボヘミア王国」が存続していたようですね。
ただそうすると、その後のボヘミア王位は誰が継承したのでしょうか?
代々、ハプスブルク家の皇族の誰か(オーストリア皇帝以外)が継承していたのでしょうか?

136: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/07/02 22:33
>>134
すみません、大ミスです。
手元の資料を見るとボヘミア王国の王冠である聖ヴァーツラフ王冠はプラハの王城の中のヴィート大聖堂にあるそうです。大変なミスで申し訳ありません。

あとボヘミア王は基本的に皇帝が兼ねていたのではないでしょうか・・。

141: 126 04/07/03 19:35
>>136
またまたありがとうございます。

>あとボヘミア王は基本的に皇帝が兼ねていたの
>ではないでしょうか・・。

これはどうでしょう?
詳しいことは知りませんが、のちの「オーストリア・ハンガリー帝国」は、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼任したことによって、こういう国名になったんですよね?
そのうえ、ボヘミア王も兼任していたのでしょうか?

143: カラジチ ◆mWYugocC.c 04/07/03 19:49
>>141
>詳しいことは知りませんが、のちの「オーストリア・ハンガリー帝国」は、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼任したことによって、こういう国名になったんですよね?


ちょっと違う。

二重帝国というのはオーストリアとハンガリーが対等な関係に立つもの。
オーストリアの帝国議会とハンガリーの王国議会が別々にあって、それぞれ別に内閣を持つ。(但し外相と蔵相と陸相は同じ人。)
ボヘミア王国はオーストリアの中に属していて、オーストリア帝国議会に代表を送る。

あくまで対等合併しているのはオーストリアとハンガリーなので、「オーストリア・ハンガリー」とか「二重帝国」というわけです。
(正確には「オーストリア」ではなくて、「帝国議会に代表を送る諸領邦」というそうですが。)
ボヘミア王国はオーストリア側の一部でしかないので、国名には出てこないわけです。

144: 世界@名無史さん 04/07/05 21:02
>>143
そうですか、「オーストリア帝国」はかつての神聖ローマ帝国のように、国内にボヘミア王国やその他の諸公国などがあったんでしょうね。

145: カラジチ ◆mWYugocC.c 04/07/05 23:19
>>144
最初の同君連合はルクセンブルク家のジギスムントの時ですね。金印勅書で有名なカール4世の息子。チェコ語名ではジグムントです。
ブランデンブルク辺境伯1378-1437,ハンガリー王1387-1437,皇帝1410-37,ボヘミア王1419-37。でもそのあとずっと同君連合をしたわけではありません。選挙王政ですし。

146: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/07/07 00:12
>>145
一番最初の例というと
ごく短い間ですがアールパード家の断絶後、ボヘミアのプシェミシュル家のヴァーツラフ3世がハンガリー王(1301~5)になってます。
ハンガリーのチャーク・マーテあたりを筆頭にした大貴族を手なずけられず自ら退いてしまっていますし、そのあと若くして暗殺されてしまったおります。

ジギスムント王のあとは
ハプスブルグ家のアルベルト王(神聖ローマ皇帝としてはアルベルト2世)その息子のラースロー5世(ラディスラウス・ポストゥムス)がボヘミア王を兼ねてます。
またフニャディ家のマーチャーシュ王はボディエプラディ家のイジー王の対立王としてオロモウツでボヘミア王に戴冠しています。
でその後がヤゲヴォ家のウラースロー2世・ラヨシュ2世となります。

調べて見るまで気がつきませんでしたが、アルベルト王のあとヤゲヴォ家からやってきたウラースロー1世以外はみなボヘミア王兼任(マーチャーシュ王の場合は正当なものではないですが・・)なんですね。

あんまり結びつきがあったような気がしないので意外です。

147: カラジチ ◆mWYugocC.c 04/07/07 01:00
>>146
あれ、ヴァーツラフ3世って、
ハンガリー王1301-05
ボヘミア王1305-06
じゃないですか?
入れ替わりになってるから同君連合じゃないと思ったんですが。

148: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/07/08 00:32
>>147
申し訳ない。入れ替わりしたか・・。
ちゃんと確認してなくて短期間重複していると信じてました。
ヴァーツラフ2世が亡くなってボヘミア王になった時点でハンガリー王は返上したのですね。
詳細をご存知でしたらご教示ください。
確かこの時期ポーランド王もプシェミシュル家は兼ねていて、ポーランド方面に向けて軍を起こしてオロモウツに到達した時に何者かに暗殺されプシェミシュル家は断絶するのでしたね。

149: ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w 04/07/22 00:11
>>147
どうもほんの少しだけダブった時期があったようです。
実質的に意味はないと思いますが・・。

ところでメン・アットアームズのフス戦争本が出版さ
れましたね。

no title

150: 世界@名無史さん 04/07/22 20:56
今更ながら・・・、チェコというのは「ボヘミア」と「モラヴィア」から成るんですよね?
ボヘミアがモラヴィアを征服したんですか?
「チェコ」という国名は、どこからきたのでしょう?

152: カラジチ ◆mWYugocC.c 04/07/22 22:23
>>150
「征服した」というと語弊があるような。
プシェミスル朝時代にはモラヴィアにボヘミア大公の支配が及んだ時期もあったようですが、ボヘミアとモラヴィアは別個の領邦として存在していたようです。
ボヘミアと神聖ローマ皇帝の力関係から、モラヴィアがボヘミアの一部になったり、帝国の直属になったりと揺れ動いてますけど、「征服」というような形式をとったわけではない。
19世紀には、ボヘミアとモラヴィアとシュレジエンを合わせた「聖ヴァーツラフの王冠」という概念のもとで、両者は一体のものと考えられるようになっていったようです。

>「チェコ
ttp://zaqro34.hp.infoseek.co.jp/SOCCER/UEFA/czech.html
ここによれば「最初の人」という意味のようです。

引用元: ・●●●チェコ総合スレ●●●




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