61o02V0sHHL



1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/17(土) 22:25:09 ID:p0Bq/jPh
本多正信が好きで好きで仕方ない。








3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/18(日) 01:01:03 ID:TnABIvD5
家康公の御友達。

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/18(日) 18:40:41 ID:b94SOuZw
なんか苦労人なイメージがある。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/18(日) 18:48:31 ID:vaKq7Zzi
武功派との対立があったんだろうね

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/19(月) 16:06:22 ID:9PTVnzhY
正信系の本多って松平にいつから仕えてるのかな?
忠正・正定・俊正は確実なのかな?

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/19(月) 17:03:08 ID:wSCkZ+g2
>>8
三河物語によると(うろ覚え)
元々国人だった本多家は清康時代に降伏し家臣になったと思う。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/19(月) 17:11:17 ID:9ULm4ZHu
忠勝系は
助時のとき三河国に引越し松平宗家二代泰親に属し、三代信光の安城攻めに戦功があった。以来、代々松平宗家に仕え岩津譜代とされた。

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/19(月) 17:17:39 ID:9PTVnzhY
>>10-11
ありがとうございます

私が疑問なことは、正信って本当に忠勝の同族なのかな?ということです
一向一揆に加担したり、ちょと譜代っぽくないんですよね

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/21(水) 17:15:39 ID:Yeuqi9Vb
>>12
寛永諸家系図伝には、清康時代、松平に属した忠正とその息子三人の戦死の記録があるから、捏造を疑わなければ、その辺りから仕え始めたと考えて良いと思う。

正信が忠勝系と違和感があるのは、血族縁が薄いからのような気がする。
祖父の兄弟が戦死して、父親の兄弟もいないんじゃ、松平宗家を盛り立てるという以前に、自分達の生活の方が困窮してそうだし。そんな状況じゃ、遠い親類縁者より、他人でも真宗の講の繋がりの方が、正信にとってはよっぽど確かで確実な扶助関係だったんじゃないかな。

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/21(水) 13:27:21 ID:N8b/LVT5
話半分に系図でもどうぞ
割と下のほうに正信と忠勝を見つけてたどってみてみて

http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/fujiwara/fujiwara_hoku/fujiwara_hoku11.html#anchor555

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/22(木) 14:58:36 ID:owu5lGr8
本佐録より

百姓は天下の根本なり。これを治むるに法あり。
まず一人ひとりの田地の境目をよく立て、さて一年の入用作食をつもらせて、その余を年貢に収むべし。

百姓は財の余らぬように、不足になきように治むる事道なり。
毎年立毛の上をもって、納る事古の聖人の法なり。


百姓は生かさず殺さずですかね

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/22(木) 22:55:19 ID:c4rwt249
正信が家康のもとに帰参したのは、本能寺の頃でいいのだろうか。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/23(金) 00:33:39 ID:T2O/XUcT
色々説が有る。
三河一向一揆鎮圧後・長島一向一揆鎮圧後・姉川合戦前後・本能寺後。

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/23(金) 16:10:39 ID:qTHjeON7
本能寺の頃って話があるのは、そこまで消息不明なのかな?

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/24(土) 21:53:12 ID:RRkh3DAO
伊賀越えの時に家康に付き添ってたようだ。

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/24(土) 22:43:27 ID:RRkh3DAO
松永久秀に仕えていたという説もあるらしい。
事実ならすげえ組み合わせだな。

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/25(日) 21:58:42 ID:IfaQrYJI
>>24
((;゚Д゚)ガクガクブルブル

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/25(日) 21:03:03 ID:UIeVdSgn
敵味方から腹黒軍師だの腸腐れだのと散々いわれてまともに褒めてくれたのが家康と松永弾正だけってかなり微妙。

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/25(日) 21:11:31 ID:YukMO7q7
どっちも腹黒の代表格だな

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/25(日) 21:32:23 ID:4RKg5JwI
悪口を恐れないって立派な態度だと思うよ
人間褒められ認められたいもんだもん

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/30(金) 21:41:12 ID:M4dBxHLD
正純も有能だよね
最後はアレだけど、仕方ないと思う

本多 正純(ほんだ まさずみ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府の老中。下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。本多正信の長男で正信系本多家宗家2代。徳川家康の側近であったが、徳川秀忠の代に失脚した。


33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/08(土) 02:39:40 ID:xq/lO9hs
正信は徳川の謀臣として大往生。しかもちゃっかり菩提は西本願寺。
正重は一万石の大名になり政重は前田家の家老で五万石。

正純の人生悲惨杉。

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/10(月) 14:37:58 ID:z438m1Hw
正信帰参の橋渡ししてるのは、大久保忠世だよね
なのに正純が忠隣を失脚させるたりするから、悲惨な目にあうのよ

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/15(土) 16:34:50 ID:6dnPveNY
忠隣失脚の時里見や石川が潰されてるけど
正純失脚の時はどうだったんだ?
あおりくらった与党はいなかったのだろうか

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/16(日) 09:46:33 ID:KQo9G8Ta
福島さんとか

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/17(月) 17:56:52 ID:3MSHSqgP
福島は正純がハメたって説もあるが

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/18(火) 16:16:52 ID:Fio7aWUO
福島正則の減転封は元和五年(1619)六月
本多正純の改易は元和八年(1619)十月

正則をハメタ説はあっても、正純失脚のあおりを食うことはないかと

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/28(金) 02:49:09 ID:TTrAxIro
>>41
正則がとりなしを頼んだ時には既に正純は実権を失っていたのに二人してそのことに気づいてなかった、という可能性もある。

42: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/28(金) 00:30:20 ID:XmsMv43/
晩年は家康に遠ざけられたらしい。

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/28(金) 02:49:09 ID:TTrAxIro
>>42
むしろそれは家康が(自分がやりたくない)秀忠の教導を正信に押し付けたんでは。

45: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/02(水) 12:46:32 ID:iBdstdp8
>>42
秀忠につけてた康政が死んだから、正信におはちが回ってきたんじゃないの?

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/29(土) 11:04:19 ID:p0q+4TVT
家康の久能山に~って遺言きいたのは
正信?
正純?

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/11(金) 16:32:00 ID:nnFNLocG
>>44
金地院崇伝の日記である「本光国師日記」で本多正純、金地院崇伝、南海坊天海になっている

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/16(土) 00:59:21 ID:gQaiwoZk
「絶対に三万石以上貰うな」
という正純への言葉が正信という男の全てを表している。

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/28(土) 14:33:07 ID:ke2Z418q
>>50
本人は二万二千石に甘んじていたからね

なんか太田道灌に対する父資清の言葉にも通じるんだよね

56: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/15(金) 03:21:05 ID:mqqoQvHy
確か、息子の政重は関ヶ原の時は宇喜多家にいたんだよな。
明石全登と二人で采配を奮ったと聞くが。

63: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/06(火) 18:55:26 ID:cjpK3C3s
所領も慎ましいが、官位まで小国の佐渡守とは。

66: 人間七七四年 2007/04/03(火) 11:47:49 ID:44zJNkQL
腸が腐ってる人(誰が言ったんだっけ?)

69: 人間七七四年 2007/04/10(火) 15:04:13 ID:pT912/1V
>>66
榊原康政
『名将言行録』か何かだったかな? 今、手元に資料無いから確認できんでスマン。
身体壊して、秀忠補佐を降りてたときに、家康の見舞いの使者に言ったんだよな。
「近頃はそれがしも徴を腐らせて斯様な仕儀になり申した」とかなんとか。

忠勝は「佐渡の腰抜け」と言ってたってのを何かで見たけど、出典元は知らない。

71: 人間七七四年 2007/05/02(水) 15:07:02 ID:jD1KL1e0
>>69
腰抜け話は姉川の時、とされている話が多いようですが、
当時帰参していたか
当時佐渡守を名乗っていたか
の疑問が残りますね

68: 人間七七四年 2007/04/03(火) 21:28:59 ID:Dqqn+BTd
俺は本多忠勝か榊原康政だった気がするから本多忠勝かな?
仮病で家康との対面を断るときに皮肉交じりのことを言った話だよね?

74: 人間七七四年 2007/05/02(水) 23:46:28 ID:qq3CrSsD
三河一向一揆扇動して、本能寺の前頃帰参したのなら
そりゃ周囲からの印象悪いだろうなあ
徳川家の苦しい時期に不在で、いきなり美味しいポジションについてるんだから

76: 人間七七四年 2007/05/03(木) 03:05:07 ID:xeboP7pa
同じようなタイプである石田三成を慕う武将(島左近など)はけっこういたけど、正信とかにはいないからね

79: 人間七七四年 2007/05/04(金) 06:45:45 ID:tp8I3FqH
>>76
家康が信頼してただけで十分ってことか。

77: 人間七七四年 2007/05/03(木) 03:29:46 ID:fq/tZNCu
俺は正信好きだよ。
人気はなくて当然だと思うけど、最終天下人家康と相通じるしたたかさが正信にはある。
家康が与えようとする高禄を拒否し続けるあたり、バランス感覚いいな、と思う。

80: 人間七七四年 2007/05/18(金) 14:03:39 ID:RKsBLI8T
三成は大名であって家臣もいるが
正信は謀臣であって大名じゃないから
玉縄一万石ではあるけどね

82: 人間七七四年 2007/05/29(火) 04:53:01 ID:fRlKrhE5
主君である家康との親交(?)はつとに知られているが、同僚たちに友人が居たとは聞いたことが無いな
これも徒党を組まないという信条によるものかな

83: 人間七七四年 2007/05/29(火) 10:50:12 ID:kCSMd8Ff
>>82
確かに武人とは合わず、他の能吏とは足を引張りあいそう

85: 人間七七四年 2007/06/01(金) 22:03:21 ID:uhuTzE+6
どっかのスレであったけど、一向宗に入って浪人して、家康に許されて帰参して、家康が死んだ後は菩提寺をやっぱり一向宗にしたこの人は、

「不倫して離婚したけど暮らしていけなくて、旦那に許され出戻りした不倫妻が、旦那の死を看取ってから、やっぱり不倫相手と再婚した」

状態だよねw

86: 人間七七四年 2007/06/01(金) 22:09:51 ID:cNRy7k02
個人的に最後は「不倫相手と同じ墓に入っちゃった」て気がするなw

92: 人間七七四年 2007/07/18(水) 05:17:12 ID:flqOJ5fn
同僚から疎まれたことが多いらしいが、当時の価値観としてそんなに槍働きが重要だったんだろうか?

93: 人間七七四年 2007/07/19(木) 21:20:00 ID:qoWUZxFM
槍働きがないっていうか、むしろ家康に近すぎる上に持ってる権力が半端なかったからじゃね?おまけに邪魔なら恩人の息子(大久保忠隣)まで蹴落とすし。
それに、関ヶ原以降は武断派連中が遠ざけられていたし、やっぱりそういう連中は中央にいる官僚派のことがムカつくわな。
たぶん、家康の考えだとは思うんだが、武断派連中はそれを官僚派、つまり正信のせいにした、と。

94: 人間七七四年 2007/07/22(日) 21:57:44 ID:+ZGjnrY7
イメージ的には、家康の政策の泥をほとんどひっかぶった、またひっかぶらざるを得なかった感じかな。まさか、家康のこと悪く言うわけにはいかんし、やっぱりそばにいる本多父子に悪意がむく。
それでも正信はまだ家康がいたからよかったけど、忠純なんか、おやじの分まで背負わされて結局あぼんだもんな。まあ、父親の言いつけ守らず、周りの空気も読めずじゃ本人のせいもあるだろうけど。

96: 人間七七四年 2007/07/24(火) 22:38:21 ID:o92gS0xK
正純は大御所家康が駿府に隠居してからの側近中の側近だろ。
ボンボンじゃ務まらない。

97: 人間七七四年 2007/07/25(水) 23:31:20 ID:/+sIoige
しかし放浪した父、叔父、弟と違い、最初に出会った家康がそのまま「当たり」主君だったために以来とくに深く考えることなく全力忠勤できたともいえる。
家康死後にそのツケが一気に来たわけだが。

98: 人間七七四年 2007/07/26(木) 04:36:04 ID:o5ZSAa21
正純が三成並みに清廉な人柄だったら、生き残れたものを。

99: 人間七七四年 2007/07/26(木) 19:28:52 ID:qc63e15O
>>98
それは三成が生き残れてないことを踏まえて言っておるのかね?

家康は確かに当たり君主だったんだろうけど、親父、祖父、弟、叔父がことごとく家康に離反してるのがなあ。弟の政重なんて、関ヶ原で家康の首狙ってたんだぜ。
むしろ、よくそんな環境の中で生き残れたなと言ってやりたい。

だいたい、親父の正信もどうやって家康の側近になったんだ?
鷹匠っていう軽輩+謀反のコンボだぜ?
大久保忠世のとりなしがあったらしいけど、よく家康も許したな。

104: 人間七七四年 2007/08/10(金) 08:04:07 ID:ZcDZStA9
鷹匠から関東総奉行って、かなりな出世だと思うんだが、どーもそっち系の男一代成り上がり物語!みたいな目では見られないよな。石高が少ないから?それとも武功派じゃないからかな。

105: 人間七七四年 2007/08/21(火) 01:35:23 ID:ufnAeErS
>>104
成り上がるって、ある種突き抜けないと目立てないからね。秀吉みたいに。
前田利家だって藤堂高虎だって成り上がりと言う意味では相当だが、どちらもあまり成り上がりと言う目では見られない。秀吉も、もし天下を取らず織田政権の一諸侯として終わったら似たような評価になったでしょ。

107: 人間七七四年 2007/09/02(日) 22:22:20 ID:xtWXRn86
本多家は三河以来の譜代家臣で、正信が鷹匠やってたのは放浪時代のバイトだって弥五八のじっちゃがいってた。

まあ、小説ネタはいいとして、正信の息子で生き残れたのは結局中央政権から離れてた二男の政重だけなんだな。長男は社会的に抹殺、三男は変死。ちょっと正信父さんがかわいそうだ。

108: 人間七七四年 2007/09/14(金) 16:27:33 ID:RHLiebk+
石川丈山が正信の親戚になるんだったっけか。

松永久秀の正信評といい、正重も体に香を焚きしめてたって話しだし
意外とこの本多家は芸術家肌が多いのかも知らんな。

109: 人間七七四年 2007/09/18(火) 01:05:57 ID:GJE5i9ou
>>108
>松永久秀の正信評

詳しく。

112: 人間七七四年 2007/09/18(火) 01:39:55 ID:H8Av8FCT
>>109
> 松永久秀の正信評

「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」

114: 人間七七四年 2007/09/18(火) 06:17:46 ID:GJE5i9ou
>>112
即レス感謝します。

ちなみに、どの文書で残ってた記述でしょうか?

117: 人間七七四年 2007/09/19(水) 19:42:03 ID:g/2a9Usx
>>114
BY新井白石『藩カン(漢字出ねえ)譜』
にのってる、らしい。

なあ、正純ってホントに正信の子供?65年に三河で生れたんなら、64年に親父が出奔してるのは、ちょっとおかしくないか?
いや、よく腹ン中にいたから説は聞くけど、なんかさ……。

122: 人間七七四年 2007/09/22(土) 01:07:36 ID:QCueiKZh
>>117
極限状態になると打率が良くなるのはよくある話。
男盛りの謀反なんて正信の人生でも最高にエキサイティングな時期だし明日はもう三河に居られないという夜の一発で大当たりというのもあり。身重の妻は置いていくしかないしねえ。

逆に出奔直後に他の男(家康よりは大久保でしょここは)と出来ちゃったんなら元の鞘に戻って二子を生ませたり次男を養子に出してまで正純の家督を磐石にしたりはしないはず。

奥さんと正純が帰ってきた正信をどういう目で見たかは実に興味深い。

123: 人間七七四年 2007/09/23(日) 16:53:29 ID:A6y6b+Ja
正純と、政重、忠純って三人とも母親一緒なの?

124: 人間七七四年 2007/10/09(火) 13:46:40 ID:wHMmYUpp
>>123
正純とあと二人の年の差考えると母親一緒はなさそう。
たとえ奥さんが十五くらいで正純産んだとしても、政重が生まれる頃には三十、忠純が生まれた時は三十六歳と当時としては結構な高齢出産になっちまうし。

125: 人間七七四年 2007/10/10(水) 15:54:41 ID:fuDTfHy6
幕政を親子二人で仕切ってた割には、正信と正純の間に仲睦まじいエピソードはきかんなぁ。そんなイメージもないし。

この親子そろっての逸話って、関が原で「秀忠の遅参は父の責任なんで自分親父ぶった切ってきます。そんで秀忠を堪忍してください」
と正信の「三万石以上の加増はうけるな」っていう遺言くらいしか聞かないし。

仲は良くも悪くもなしってとこなんだろうか。

127: 人間七七四年 2007/10/14(日) 20:01:18 ID:LdQ/eKHh
>>125
しきってたって言っても徳川家の権力構造は複層的だからなあ。秀吉生前時の三成のような意味で仕切っていたわけではないし。

それにあの時代、ある程度以上の地位の武士の場合、父子の仲むつまじいエピソードなんてそんなあるかな?
「三万石以上~」なんて親心を示すエピソードが残っている以上、それなりに親子仲は良かったと考えていいのでは?

133: 人間七七四年 2007/12/02(日) 15:35:58 ID:AvOG8XI/
最近じゃ、結構忠臣だったり硬骨の人だったりっていう描かれ方してるのかな?

腹黒そうではあるけど、薄汚かったり意地汚かったりっていうイメージはないなぁ。

136: 人間七七四年 2007/12/04(火) 23:15:37 ID:siCgqp5h
>>133
政治家としては腹黒い手法をいくらでも使ったけど、人間として廉潔では立派な武士だったそうだな。
ちょっと方向性が違うかもしれないが西郷隆盛もそんなだな。

引用元: ・本多正信




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